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准大臣 - 维基百科,自由的百科全书

じゅん大臣だいじん

じゅん大臣だいじん日本にっぽん律令制りつりょうせい朝廷ちょうていきゅう朝廷ちょうていちゅう部分ぶぶんさん以上いじょう有功ゆうこう公卿くぎょうてき一項榮譽頭銜和相應的大臣だいじん待遇たいぐう,而該あたま在朝ざいちょう堂上どうじょうてきせきれつ大納言だいなごん以上いじょう大臣だいじん以下いか」。唐名とうみょうしょうためどうさんつかさ授予しゃかい稱呼しょうこためじゅん大臣だいじん宣下せんげ」。ただし日本にっぽん南北なんぼくあさ時代じだい律令りつりょう官制かんせい普遍ふへん名譽めいよ」,じゅん大臣だいじんてき身分みぶん悄然しょうぜん變化へんかさく正式せいしき官職かんしょくいんため此時,律令りつりょう官制かんせい管理かんり全國ぜんこく各項かくこう事務じむてき實際じっさいこうのうやめけい幕府ばくふしょ設立せつりつてきかくきゅう武士ぶし官僚かんりょうしょだい[1]

にちうつしほう
にち原文げんぶんじゅん大臣だいじん
假名かめいじゅんだいじん
平文へいぶんしき罗马zyundaizin
どうさんつかさ初代しょだいじゅん大臣だいじん藤原伊周ふじわらのこれちか

日本にっぽん歷史れきしじょうくび出現しゅつげんじゅん大臣だいじんあたま銜的ざい平安へいあん時代じだい中期ちゅうき一條天皇いちじょうてんのう寬弘かんこうねん1005ねん)2がつ25にちしたがえまえ太宰だざいけんそち藤原伊周ふじわらのこれちか授予りょうれつ大臣だいじんしも大納言だいなごんうえ參與さんよ朝政ちょうせいてき地位ちいずいざい寬弘かんこうねん1008ねん),正式せいしき授予「じゅん大臣だいじんあたま銜,なみきゅうしょくふう1000てき俸祿,しゅうしょう自己じこしょ受到てきじゅん大臣だいじん待遇たいぐう描述ため相當そうとうひがしかん以後いご歷代れきだい中國ちゅうごく朝廷ちょうていきゅう朝廷ちょうてい重臣じゅうしんただしどうさんつかさあたま一般いっぱん[2]

かい

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じゅん大臣だいじんそく日本にっぽんしたがえ11世紀せいき初期しょき開始かいしきゅう朝廷ちょうていちゅう部分ぶぶんさん以上いじょう有功ゆうこう公卿くぎょう,一項榮譽頭銜和相應的大臣待遇,享有きょうゆうかい於大おだい納言なごんかず大臣だいじんあいだてき地位ちい席次せきじよしためしたがえ日本にっぽん進入しんにゅう武家ぶけてき鐮倉時代じだい1185ねん1333ねん開始かいし五攝家ごせっけ清華せいかとう上層じょうそう貴族きぞく家族かぞくやめけい成型せいけい。而朝廷上てき大臣だいじん職位しょくい就算じょうためれいがいかんてき大臣だいじん,也不ただゆう4大臣だいじん以同在職ざいしょく,且太政大臣だじょうだいじん一職還是非常設職位。大臣だいじんてき位置いち鐮倉時代じだいおこり便びん固定こていよし五攝家和清華家的歷代嫡子上輪流擔任大臣的位置,なみぼつゆうあまりてき大臣だいじん位置いち以分配給はいきゅう其餘公家くげ貴族きぞく[3][4]

いん此,「じゅん大臣だいじん」一職便很好地的成為那些已經成為大納言だいなごんてき公卿くぎょう,卻沒ゆう辦法すすむますいた大臣だいじんてき官員かんいんてきいちしゅがえ代品だいひん,雖說なみ是正ぜせいしき設立せつりつてき官職かんしょくただし具有ぐゆうだか於原ゆう官職かんしょくてき地位ちい席次せきじなみ且也享有きょうゆう類似るいじ大臣だいじんてき俸祿。如初だいじゅん大臣だいじん藤原伊周ふじわらのこれちか便びん賞賜しょうしりゃくだか於內大臣だいじんしょくふう800てき1000俸祿。ただし此時大家たいかかえ普遍ふへんはたじゅん大臣だいじんさく名譽めいよあたま銜。[3]

どきこうりゅう逝,いたりょう日本にっぽん南北なんぼくあさ時代じだい1331ねん1392ねん),日本にっぽんてき律令りつりょう官制かんせい實際じっさいじょうやめけい逐漸しつ其原そのはらほんてき管理かんり權力けんりょく官職かんしょく逐漸名譽めいよあたま銜化,此時いんため所有しょゆう官職かんしょくさく名譽めいよ銜,いん此准大臣だいじん這個名譽めいよ職位しょくい也被さくあずか律令りつりょう官職かんしょく相等そうとうてき地位ちいよし此在而後てき時代じだいじゅん大臣だいじん便びんなりため大臣だいじん羽林はばやし名家めいか這些中等ちゅうとう公家くげうら部分ぶぶん家族かぞくてき極官きょっかん,且多曾經擔任たんにん大納言だいなごんてき高級こうきゅう官員かんいんなみ且隨ちょじゅん大臣だいじん正式せいしき官職かんしょくじゅん大臣だいじん一職必須要位列從一位才能擔任。[3]

歷代れきだいじゅん大臣だいじん

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該列ひょううらざい明治めいじ4ねん以前いぜんてき年月日ねんがっぴ乃是採取さいしゅ日本にっぽんてき舊曆きゅうれき薨去こうきょ格子こうしうら括弧かっこないてき數字すうじひょうたち享年きょうねん多少たしょうとし。而過ざいついふうじゅん大臣だいじんてき贈官ぞうかんもの添加てんか於該ひょうてき最下さいかめん

じゅん大臣だいじん 家格かかく なりためじゅん大臣だいじんてき官位かんい なりためじゅん大臣だいじんてき經歷けいれき 在任ざいにん時間じかん なりためじゅん大臣だいじんてき天皇てんのう 備考びこう
ふじわらの これちか
藤原ふじわら しゅう
攝家せっけ したがえ
ぜんだいおさむけんそち
寛弘かんこう5ねん1008ねん1がつ16にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 寛弘かんこう7ねん1010ねん1がつ28にち 薨去こうきょ (37)
2ねん 一条天皇いちじょうてんのう
ほりかわ もととも
堀川ほりかわ はじめ
清華せいか したがえいち
ぜん大納言だいなごん
弘安ひろやす7ねん1284ねん3月1にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
5ねん6個月かげつ こう宇多天皇うだてんのう
つちみかど さだざね
土御門つちみかど 定實さだざね
清華せいか したがえいち
ぜん大納言だいなごん
せいおう5ねん1292ねん8がつ14にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • えいひとし4ねん1296ねん12月27にち にん内大臣ないだいじん
  • えいひとし5ねん1297ねん10月16にち とめ内大臣ないだいじん
  • 正安まさやす3ねん1301ねん6月2にち にん太政大臣だじょうだいじん
  • 正安まさやす4ねん1302ねん7がつ 太政大臣だじょうだいじん出家しゅっけ
  • よしみもと4ねん1306ねん3月30にち 薨去こうきょ (66)
4ねん5個月かげつ 伏見天皇ふしみてんのう
  • 淳和じゅんな獎學兩院りょういん別當べっとう
なかのいん みちより
中院なかのいん とおるよりゆき
大臣だいじん したがえいち
まえけん大納言だいなごん
えいひとし5ねん1297ねん10月16にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
7ねん 伏見天皇ふしみてんのう
  • 獎學いん別當べっとう
いちじょう さねいえ
一條いちじょう 實家じっか
攝家せっけ庶子しょし したがえいち
まえけん大納言だいなごん
よしみもと3ねん1305ねん12月8にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • よしみもと3ねん(1305ねんうるう12がつ21にち にん内大臣ないだいじん
  • よしみもと4ねん1306ねん12月6にち にん太政大臣だじょうだいじん
  • のべけい2ねん1309ねん10月15にち 太政大臣だじょうだいじん
  • 正和しょうわ3ねん1314ねん5月28にち 薨去こうきょ (65)
1個いっこ半月はんつき こう二條天皇にじょうてんのう
このえ かねのり
近衛このえ けんきょう
攝家せっけ庶子しょし したがえいち
まえけん大納言だいなごん
のべけい3ねん1310ねん4がつ28にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
やく13ねん 花園天皇はなぞのてんのう
きたばたけ ちかふさ
北畠きたばたけ 親房ちかふさ
清華せいか 入道にゅうどう せい
ぜん大納言だいなごん
元弘もとひろ2ねん1332ねん[5]じゅん大臣だいじん宣下せんげ
やく19ねん 後醍醐天皇ごだいごてんのう
  • 淳和じゅんな獎學兩院りょういん別當べっとう
  • 出家しゅっけ授予じゅん大臣だいじん宣下せんげ
よしだ さだふさ
吉田よしだ 定房さだふさ
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
たてたけし元年がんねん1334ねん6月26にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • たてたけし元年がんねん(1334ねん9月9にち にん内大臣ないだいじん
  • たてたけし2ねん1335ねん2がつ26にち 内大臣ないだいじん
  • のべもと3ねん1338ねん1がつ23にち 薨去こうきょ (65)
2半月はんつき 後醍醐天皇ごだいごてんのう
なかのいん ともみつ
中院なかのいん こう[6]
羽林はばやし したがえいち
まえけん大納言だいなごん
じゅん大臣だいじん宣下せんげしょう
しょう 長慶天皇ちょうけいてんのう
かでのこうじ かねつな
勘解由小路かげゆこうじ けんつな
廣橋ひろはし けんつな
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
えいいさお元年がんねん1381ねん9月4にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ

  • 翌日よくじつ出家しゅっけ
  • えいいさお元年がんねん(1381ねん9月26にち 薨去こうきょ (67)
2にち こう圓融天皇えんゆうてんのう
さんじょう さねとし
三條さんじょう 實音みお
正親町おおぎまち三條さんじょう 實音みお
大臣だいじん したがえいち
だいおさむけんそち
まえけん大納言だいなごん
えいいさお2ねん1382ねん4がつ8にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
3ねん10個月かげつ こう圓融天皇えんゆうてんのう
  • 北朝ほくちょう授予てきじゅん大臣だいじん宣下せんげ
までのこうじ なかふさ
萬里小路まりこうじ なかぼう
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
えいいさお2ねん1382ねん4がつ19にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
4ねん2個月かげつ こう小松こまつ天皇てんのう
  • 北朝ほくちょう授予てきじゅん大臣だいじん宣下せんげ
よつつじ よしなり
四辻よつつじ 善成よしなり
たまものせいおう したがえいち
まえけん大納言だいなごん
よしみけい元年がんねん1387ねん12月8にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 明德めいとく5ねん1394ねん6月5にち にん内大臣ないだいじん
  • おうひさし元年がんねん(1394ねん12月25にち 内大臣ないだいじん
  • おうなが2ねん1395ねん7がつ20日はつか にん左大臣さだいじん
  • おうなが2ねん(1395ねん8がつ29にち 左大臣さだいじん出家しゅっけ
  • おうなが9ねん1402ねん9月3にち 薨去こうきょ (77)
6ねん6個月かげつ こう小松こまつ天皇てんのう
ひろはし かねのぶ
廣橋ひろはし けんせん
名家めいか したがえいち
ぜん大納言だいなごん
おうなが32ねん1425ねん4がつ27にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ

1にち しょうこう天皇てんのう
ひの すけのり
日野ひの きょう
名家めいか 入道にゅうどう したがえいち
まえけん大納言だいなごん
おうなが32ねん1425ねん4がつ27にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
3ねん しょうこう天皇てんのう
  • 出家しゅっけ授予じゅん大臣だいじん宣下せんげ
ひのにし すけくに
日野西ひのにし こく
名家めいか 入道にゅうどう せいさん
まえけん大納言だいなごん
おうなが35ねん1425ねん3月25にちじゅん大臣だいじん宣下せんげ

  • 同日どうじつ薨去こうきょ (64)
1にち しょうこう天皇てんのう
  • 出家しゅっけ授予じゅん大臣だいじん宣下せんげ
なかのいん みちあつ
中院なかのいん とおるあつし
大臣だいじん したがえいち
まえけん大納言だいなごん
たからいさお3ねん1451ねん11月19にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 寶德ほうとく3ねん(1451ねん11月24にち 出家しゅっけ
  • 寶德ほうとく3ねん(1451ねん11月28にち 薨去こうきょ (54)
6にち こう花園天皇はなぞのてんのう
  • 淳和じゅんないん別當べっとう
からすまる すけとう
烏丸からすま にん
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
長祿ちょうろく3ねん1459ねん3月12にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
8ねん6個月かげつ こう花園天皇はなぞのてんのう
までのこうじ ふゆふさ
萬里小路まりこうじ ふゆぼう
名家めいか せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
應仁おうにん元年がんねん1467ねん9月20にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 應仁おうにん元年がんねん(1467ねん10月5にち 出家しゅっけ
  • 文明ぶんめい7ねん1475ねん11月22にち 捨身しゃしん (53)
半月はんつき こう土御門天皇つちみかどてんのう
ひろはし つなみつ
廣橋ひろはし つなこう
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
文明ぶんめい9ねん1477ねんうるう1がつ5にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 文明ぶんめい9ねん(1477ねん2がつ14にち 薨去こうきょ (47)
1個いっこ半月はんつき こう土御門天皇つちみかどてんのう
かじゅうじ のりひで
勸修寺かんしゅうじ きょうしゅう
名家めいか せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん

あかりおう5ねん1496ねん6月5にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ


  • あかりおう5ねん(1496ねん6月7にち 出家しゅっけ
  • あかりおう5ねん(1496ねん7がつ11にち 薨去こうきょ (71)
3にち こう土御門天皇つちみかどてんのう
  • こう土御門天皇つちみかどてんのうてきしゅうとしゅうと[8]
まつのき むねつな
松木まつき そうつな
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
えいただし15ねん1518ねん8がつ24にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • えいただし15ねん(1518ねん8がつ30にち 出家しゅっけ
  • だいひさし5ねん1525ねん8がつ2にち 薨去こうきょ (81)
7にち こう柏原かしわばら天皇てんのう
ひろはし もりみつ
廣橋ひろはし まもるこう
名家めいか せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
だいなが6ねん1526ねん4がつ1にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ

  • 同日どうじつ薨去こうきょ (56)
1にち こう柏原かしわばら天皇てんのう
かじゅうじ ただとよ
勸修寺かんしゅうじ いんゆたか
名家めいか したがえいち[9]
まえけん大納言だいなごん
もとかめ3ねん1572ねん1がつ30にち[10] じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • もとかめ3ねん(1572ねんうるう1がつ6にち にん内大臣ないだいじん
  • もとかめ3ねん(1572ねん2がつ3にち 出家しゅっけ
  • ぶん祿ろく3ねん1594ねん2がつ1にち 薨去こうきょ (92)
7にち 正親町おおぎまち天皇てんのう
なかやま たかちか
中山なかやま たかしおや
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん

天正てんしょう6ねん1578ねん1がつ13にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ


  • 天正てんしょう6ねん(1578ねん1がつ16にち 薨去こうきょ (67)
4にち 正親町おおぎまち天皇てんのう
からすまる みつやす
烏丸からすま 光康みつやす
名家めいか せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
天正てんしょう7ねん1579ねん4がつ27にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ

  • 同日どうじつ薨去こうきょ (67)
1にち 正親町おおぎまち天皇てんのう
かじゅうじ はるとよ
勸修寺かんしゅうじ はれゆたか
名家めいか したがえいち
けん大納言だいなごん
慶長けいちょう6ねん1601ねん1がつ11にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 慶長けいちょう7ねん1602ねん12月8にち 薨去こうきょ (60)
1ねん11個月かげつ こう陽成ようぜい天皇てんのう
  • こう陽成ようぜい天皇てんのうてきそと伯父おじ
からすまる みつのぶ
烏丸からすま 光宣みつのぶ
名家めいか せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
慶長けいちょう16ねん1611ねん11月17にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 慶長けいちょう16ねん(1611ねん11月21にち 薨去こうきょ (63)
5にち 後水尾天皇ごみずのおてんのう
ひろはし かねかた
廣橋ひろはし けんけん
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
寬文ひろふみ元年がんねん1661ねん12月24にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 寛文ひろふみ9ねん1669ねん5月26にち 薨去こうきょ (75)
7ねん5個月かげつ こう西にし天皇てんのう
その もとよし
えん もとぶく
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
貞享ていきょう3ねん1686ねん5月16にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
13ねん6個月かげつ れいもと天皇てんのう
  • れいもと天皇てんのうてきそと伯父おじ
まつのき むねあき
松木まつき はじめあきら
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
正德まさのり5ねん1715ねん12月28にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
10ねん10個月かげつ 中御門天皇なかみかどてんのう
なかやま かねちか
中山なかやま けんおや
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
とおる19ねん1734ねん10月24にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 翌日よくじつ薨去こうきょ (50)
2にち 中御門天皇なかみかどてんのう
むしゃのこうじ さねかげ
武者小路むしゃのこうじ みのるかげ
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
もとぶん3ねん1738ねん9月26にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • もとぶん3ねん(1738ねん9月30にち 薨去こうきょ (78)
5にち さくらまち天皇てんのう
はむろ よりたね
葉室はむろ よりゆきたね
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
明和めいわ8ねん1771ねん8がつ1にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
4ねん9個月かげつ こう桃園ももぞの天皇てんのう
ひろはし かつたね
廣橋ひろはし まさるたね
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
安永やすなが5ねん1776ねん12月25にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
4ねん8個月かげつ こう桃園ももぞの天皇てんのう
まつのき むねなが
松木まつき 宗長そうちょう
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
まえけん大納言だいなごん
安永やすなが7ねん1778ねん1がつ15にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 安永やすなが7ねん(1778ねん1がつ19にち 薨去こうきょ (69)
5にち こう桃園ももぞの天皇てんのう
ひろはし これみつ
廣橋ひろはし こう
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
文化ぶんか10ねん1813ねん9月20にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
9ねん7個月かげつ ひかりかく天皇てんのう
とくがわ はるさだ
德川とくがわ 治濟はるさだ
一橋ひとつばし 治濟はるさだ
さんきょう 入道にゅうどう したがえいち
まえけん大納言だいなごん
文政ぶんせい8ねん1825ねん7がつ18にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • 文政ぶんせい10ねん1827ねん2がつ20日はつか 薨去こうきょ (77)
1ねん7個月かげつ 仁孝天皇にんこうてんのう
ひの すけなる
日野ひの あい
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
ひろし2ねん1845ねん10月28にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  • ひろし3ねん1846ねん3月2にち 薨去こうきょ (67)
4個月かげつ 仁孝天皇にんこうてんのう
ひろはし みつしげ
廣橋ひろはし 光成みつなり
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
文久ぶんきゅう2ねん1862ねんうるう8がつ5にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ

  • 翌日よくじつ薨去こうきょ (66)
2にち 孝明天皇こうめいてんのう
なかやま ただよし
中山なかやま 忠能ただやす
羽林はばやし せいしたがえいち[7]
議定ぎてい
まえけん大納言だいなごん
慶應けいおう4ねん1868ねんうるう4がつ26にち じゅん大臣だいじん宣下せんげ
1ねん2個月かげつ 明治天皇めいじてんのう
おくじゅん大臣だいじん 家格かかく 生前せいぜんてききょく極官きょっかん 贈官ぞうかん日和びより 没後ぼつご 贈官ぞうかんてき天皇てんのう 備考びこう
かじゅうじ まさあき
勸修寺かんしゅうじ 政顯まさあき
名家めいか 入道にゅうどう したがえ
まえけん中納言ちゅうなごん
天文てんもん9ねん1540ねん7がつ28にち おくじゅん大臣だいじん
  • だいなが2ねん1522ねん7がつ28にち 薨去こうきょ (71)
18ねん こう奈良なら天皇てんのう
  • こう奈良なら天皇てんのうてきしゅうとしゅうと
  • 出典しゅってん:『しょ家傳かでん
おおぎまちさんじょう
きみなか

正親町おおぎまち三條さんじょう こうなか
大臣だいじん せいさん
まえけん中納言ちゅうなごん
慶長けいちょう5ねん1600ねん6月26にち おくじゅん大臣だいじん
  • ぶんろく3ねん1594ねん6月26にち 薨去こうきょ (38)
6ねん こう陽成ようぜい天皇てんのう
やなぎわら あつみつ
柳原やなぎはら あつしこう
名家めいか したがえいち
まえけん大納言だいなごん
慶長けいちょう18ねん1613ねん8がつ11にち おくじゅん大臣だいじん
  • 慶長けいちょう2ねん1597ねん8がつ11にち 薨去こうきょ (57)
16ねん 後水尾天皇ごみずのおてんのう
  • 出典しゅってん:『にょうしょう

參考さんこう文獻ぶんけん

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  1. ^ じゅん大臣だいじん. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ. [2021-09-08]. (原始げんし内容ないようそん于2021-09-08). 
  2. ^ 藤原伊周ふじわらのこれちかでん. だい日本にっぽん. [2021-09-08]. 原始げんし内容ないようそん档于2020-08-02. 
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 じゅん大臣だいじん(じゅんだいじん). 辞書じしょ. [2021-09-08]. (原始げんし内容ないようそん于2021-09-08). 
  4. ^ 和田わだ英松ひでまつ. 官職かんしょくようかい : 修訂しゅうてい 1926 3はん. 明治めいじ書院しょいん. : 39ぺーじ [2021-09-08]. (原始げんし内容ないようそん于2021-09-21). 
  5. ^ 薩戒おうひさし32ねん4がつ27にちじょうあずか久保田くぼたおさむ岡野おかの友彦ともひこ一起かずき親房ちかふさしたがえ東國とうごくかいいた南朝なんちょう。而後ざい興国こうこく5ねん1344ねん推測すいそく其在春季しゅんき授予じゅん大臣だいじん宣下せんげ
  6. ^ 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく
  7. ^ 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 7.12 ますにんためじゅん大臣だいじん宣下せんげてき必要ひつよう條件じょうけん一便是先要位列「したがえいち」,而後才能さいのうますにん
  8. ^ 勸修寺かんしゅうじきょうしゅうしたがえじょうこれこう奈良なら天皇てんのうてき外祖父がいそふ、而後奈良なら天皇てんのうじん親王しんのうざいきょうしゅうざい出生しゅっしょうてき
  9. ^ 勸修寺かんしゅうじいんゆたかこれはたしたがえ一位的位階送返朝廷,いん此其きょく極官きょっかん是正ぜせい内大臣ないだいじん
  10. ^ ていきょう