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尚貞王 - 维基百科,自由的百科全书

なおさだおう

なおさだ琉球りゅうきゅうなおさだショーティー Shō Tii ?;1645ねん1がつ3にち—1709ねん8がつ18にちこれ琉球りゅうきゅうこくだいしょう王朝おうちょうだいじゅういちだい國王こくおう,1669ねんいたり1709ねん在位ざいいだいじゅうだい國王こくおうなおしつおう之子ゆきこ

なおさだおう
だい20だい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
だいしょう王朝おうちょうだい11だい國王こくおう
在位ざいい期間きかん1669ねん—1709ねん
前任ぜんにんなおしつおう
つぎにんなおえきおう
尚貞王
なおさだおうてき
こうもと小橋川こばしがわちょうやす於1796ねん
宗主そうしゅこく 清朝せいちょう
年號ねんごう かん
さつふうねん 1682ねん
せいさつふう使 翰林院かんりんいん檢討けんとうひろしかじ
ふくさつふう使 內閣中書ちゅうしょ舍人とねりはやし麟焻
姓名せいめい なおさだ
ふうごう 中城なかしろ王子おうじ
わらわめい よんろうきん
名乘なのり ちょうしゅう[1]
出生しゅっしょう (1645-01-03)1645ねん1がつ3にち
順治じゅんじねん臘月ろうげつはつろく
逝世 1709ねん8がつ18にち(1709さい—08—18)(64さい
かんよんじゅうはちねんなながつじゅうさん
陵墓りょうぼ たまりょう
父親ちちおや なおしつおう
母親ははおや 美里みさと按司志向しこうごうかしわまど
奧間おくま按司こころざしあきらごうつきこころ
真壁まかべ按司志方しかたごう慈恩じおん
つま 武富たけとみおもねまもるはは志良しろうれいごうせんだけ
ちょく王子おうじ 中城なかしろ王子おうじなおじゅんははあきら
豐見城とみぐすく王子おうじなおけい朝良ともよしははあきら
小祿ころく王子おうじなおつなあさ母方ははかた
美里みさと王子おうじ尚紀なおきあさただし母方ははかた
嫡王おんな まつどうおきなぬしごうはなくさむら母方ははかた
おもえ真鶴まなづるきんおきなぬしごう窈心母方ははかた
內間おきなぬしごう月桂げっけい母方ははかた
識名しきなおきなぬしごうみずよしみ母方ははかた
安室あむろおうぬしごうひつじさるとく母方ははかた

わらわめいおもえろうきん名乘なのりちょうしゅう[1]1650ねん順治じゅんじななねん),ふうため中城なかしろ王子おうじ。1669ねんかんはちねん),なおしつおう逝世,なお貞繼さだつぐなおさだおう嗣位これ重用じゅうよう攝政せっしょうなおぞうけんはね王子おうじちょうしゅう),[註 1]たい政治せいじ經濟けいざい宗教しゅうきょうとう方面ほうめん進行しんこう改革かいかくなおぞうけん廢止はいしりょう包括ほうかつ國王こくおうおやいたり久高島くだかじま祭禮さいれいざい內的許多きょた宗教しゅうきょう活動かつどう改革かいかく官制かんせいふくせい風俗ふうぞく習慣しゅうかんたい行政ぎょうせい區劃くかく進行しんこうおもしん劃分;またたっげんりょうかく典禮てんれいてき費用ひよう大量たいりょうひらけ琉球りゅうきゅうてき資源しげん發展はってん經濟けいざい使つかいとく琉球りゅうきゅうとく復興ふっこうただし也為未來みらい琉球りゅうきゅう資源しげん枯竭うめりょうふくひつ

1671ねんなおさだおうしげる修了しゅうりょうくびさとじょうなみしたがえ大美おおみ御殿ごてん搬回くびさとじょう翌年よくねんしたれいざい久米くめむら創立そうりついたり聖廟せいびょう。這是琉球りゅうきゅう歷史れきしじょうだいいちあなびょう,此後每年まいとし春秋しゅんじゅう都會とかい進行しんこう祭祀さいしなみなりため慣例かんれい[2]

なおさだおう在位ざいいあずか先王せんおういちよう維持いじちょたい清朝せいちょうてき朝貢ちょうこう關係かんけい;而在另一方面ほうめんあずかよりどころもり臺灣たいわんてきあきらてい勢力せいりょく關係かんけいあくれつためりょう硫磺あきらてい將領しょうりょうしょうけい派遣はけんうみぬすめせん,於1670ねんざいふくしゅうとらもんそと劫掠ごうりゃくりょう琉球りゅうきゅうみつぎせん。這個事件じけんてきまく主謀しゅぼうていけい琉球りゅうきゅうおうはた此事通過つうか薩摩さつまはん告知こくち江戶えど幕府ばくふ江戶えど幕府ばくふこう進入しんにゅう長崎ながさきいくわ台灣たいわん商人しょうにんおさむりょうさんひゃくりょう白銀はくぎんなみはた其給りょう琉球りゅうきゅう[3][4][5]

1672ねんなおさだおう耳目じもくかんむかい美德みのり[註 2]名嘉真なかまおや雲上うんじょうあさ眾)、せい大夫たいふ蔡彬喜友名きゅうなおや雲上うんじょうぜん往清あさ朝貢ちょうこう途中とちゅうざいていうみけんいま浙江せっこう舟山ふなやまていうみ再度さいど遭遇そうぐうしょうけい部下ぶかじゅうさんそう海賊かいぞくせん襲擊しゅうげき,奮力ころせ退ずさ海賊かいぞく滯留たいりゅう蘇州そしゅう翌年よくねんいん進貢しんこう使だん聽說よりどころもり福建ふっけんてきやすしみなみおう耿精ただし發動はつどう叛亂はんらん便びん決定けっていさい上京じょうきょう迅速じんそくかえしかい琉球りゅうきゅう報告ほうこく此事。[6]

さんはんみだれ期間きかん琉球りゅうきゅうさいこう清朝せいちょう朝貢ちょうこう[2][6]1676ねん,耿精ちゅう派遣はけんゆうげきちんおうあきらいた琉球りゅうきゅう要求ようきゅう購買こうばい硫磺。琉球りゅうきゅう遵照薩摩さつまはんてき指示しじはた硫磺送往福けん[3]あずか薩摩さつまはんてき積極せっきょく相對そうたい琉球りゅうきゅうざい三藩之亂中持觀望態度,なおさだおう翌年よくねん派遣はけんせい大夫たいふ蔡國高良こうら親方おやかただし使清朝せいちょうさがせとい清朝せいちょう安否あんぴ以及みつぎ使消息しょうそく。此次使つかい使やすし熙帝だいため感動かんどうふかよしみ琉球りゅうきゅう忠順ただまさまことしたがえ此之きよし廷給琉球りゅうきゅうみつぎ使種種しゅじゅ優惠ゆえ待遇たいぐう[2]

清朝せいちょう於1678ねんかんじゅうななねん平定へいていさんはんみだれ同年どうねんなおさだおう派遣はけん耳目じもくかんこう嗣孝前川まえかわ親方おやかたあさねん)、[註 3]せい大夫たいふおうあきら國場こくばおや雲上うんじょうふところすわえだし使清朝せいちょうもとめふう;1682ねんかんじゅういちねん),かん熙帝翰林院かんりんいん檢討けんとうひろしかじ、內閣中書ちゅうしょ舍人とねりはやし麟焻ため正副せいふくさつふう使いたり琉球りゅうきゅうさつふうなおさだためおう蔡肇こうみずうみじょう親方おやかたずいこう嗣孝てき使つかいだんどう至福しふくしゅう學習がくしゅう曆法れきほう歸國きこくこれ印刷いんさつだいきよしけんれき》頒行こくちゅう[6]

1689ねんなおさだおう設立せつりつ管理かんり士族しぞくいえてき系圖けいず命令めいれい所有しょゆう士族しぞく必須ひっすへんうつしまいいえてき謄寫とうしゃりょう份,一份留在御系圖座存檔,一份由王府押御朱印後有各家族自己保存。翌年よくねん,頒賜群臣ぐんしん姓氏せいしめいいみな。1691ねんしたれいはた所有しょゆう王族おうぞくつくりけい子孫しそん全部ぜんぶ改姓かいせいむかい」,名乘なのりあたまそく統一とういつあらためためあさ[7]

1692ねん鄂羕むね宮城みやぎ筑登しん雲上うんじょうもとえきざい薩摩さつまはん學習がくしゅうりょう裱褙技術ぎじゅつ。1694ねん泉崎いずみざきむらひと廖澂塩濱しおはまちかし雲上うんじょうしばかおり)跟隨薩摩さつまじんゆみりょう學習がくしゅうりょう曬鹽技術ぎじゅつざいちょうにじつつみ大量たいりょう曬製食鹽しょくえんふうためしん雲上うんじょうなみたまもの塩濱しおはま名號みょうごう翌年よくねん琉球りゅうきゅうじんせき忠勇ただお大見おおみたけし筑登しん雲上うんじょう憑武)ざい金城きんじょうぐん大樋おおひ川邊かわべてき自宅じたくうら開設かいせつづくりさくぼう根據こんきょ其在蘇州そしゅう學習がくしゅうてき製紙せいしほう成功せいこう製造せいぞうりょうだいいちたま[8]此後,經過けいかいち系列けいれつあらためすすむたまなりため琉球りゅうきゅう重要じゅうようみつぎひん

1697ねんなおさだ王命おうめいからさかえ總理そうりかん蔡鐸志多伯したはく親方おやかたてんしょうしょう中山なかやまかんやくため漢語かんごめい中山なかやま》。[7]翌年よくねん薩摩さつまはん藩主はんしゅ島津しまつつなたかよう中山なかやまかん》,なおさだおうれいじん謄寫とうしゃ後送こうそう往薩はん[8]

1699ねんかんさんじゅうはちねん),なおさだおうついみこと先祖せんぞなおきびなお尚久なおひさためおうまつ圓覺寺えんかくじ[2]同年どうねんざい創立そうりつ足輕あしがるかん安置あんち薩摩さつまはんらいてき武士ぶし翌年よくねんざい創建そうけん大和やまと橫目よこめかん同年どうねん禁止きんしきょうぜに中國ちゅうごくぜにぬさ流通りゅうつうあらためよう琉球りゅうきゅう鑄造ちゅうぞうてき鳩目はとめぜに[8]

1709ねんはたうえ江戶えど使者ししゃてき使者ししゃゆかり王子おうじ擔任たんにん改稱かいしょう正使せいし役者やくしゃゆかり親方おやかた擔任たんにん改稱かいしょう副使ふくし[8]同年どうねんくびさとじょう發生はっせいだい火災かさい正殿せいでん南殿なんでんきた殿どのぜんやき毀;久之ひさゆき琉球りゅうきゅうふう暴屢おこりひでりわざわい肆虐,最終さいしゅうしるべ致了だいひだるあら餓死がしりょうさんせんじんひだるあら使とく琉球りゅうきゅう盜賊とうぞく蜂起ほうき社會しゃかいどう不安ふあん[9]也就ざい這年,なおさだ逝世。よし世子せいしなおじゅんはやそつゆかりまごなおえきつぎ

家族かぞく

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    • 長女ちょうじょ まつどうおきなぬしわらわめいおもえだるきんごうはなくさむらははため慈恩じおんよしみあじ田殿たどの六世小津波按司朝恆こうちょうおおとり[10]これつま
    • 次女じじょ おもえ真鶴まなづるきんおきなぬしごう窈心。ははため慈恩じおん享年きょうねん10さい
    • さんじょ 內間おきなぬしわらわめいおもえ眞世まよじんきんごう月桂げっけいははため慈恩じおんはね御殿ごてん八世羽地按司朝維こうとくこれつま
    • よんじょ 識名しきなおきなぬしわらわめいおもえ眞鍋まなべだるきんごうみずよしみははため慈恩じおんうま國頭くにがみ御殿ごてん九世國頭按司正長之妻)
    • じょ 安室あむろおうぬしわらわめいおもえまつきんごうひつじさるとくははため慈恩じおんしょう金武かなたけ御殿ごてん六世金武王子朝祐之妻)

腳註

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  1. ^ 原名げんめいくれぞうけんはね按司じゅう)。此人また以向ぞうけんはね按司あさしゅうてき名字みょうじ而知めい
  2. ^ はらせいくれこう改姓かいせいこう
  3. ^ 原名げんめいりくうけたまわおん

  1. ^ 1.0 1.1 王代おうだい[永久えいきゅう失效しっこう連結れんけつ]》28ぺーじ
  2. ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 中山なかやま·まきはち·なおさだおう
  3. ^ 3.0 3.1 漂流ひょうりゅう事件じけん與清ともきよだい中日ちゅうにち關係かんけい》,67~69ぺーじ
  4. ^ はなえびす變態へんたい·まき
  5. ^ 中國ちゅうごくてき海賊かいぞく》,101~104ぺーじ
  6. ^ 6.0 6.1 6.2 たま·まきなな
  7. ^ 7.0 7.1 たま·まきはち·なおさだおう
  8. ^ 8.0 8.1 8.2 8.3 たま·まき·なおさだおう
  9. ^ たま·まききゅう·なおさだおう
  10. ^ こうせい·よしみあじ田家たや·ろくせいこうちょうおおとり 互联网档あんてきそんそん档日2013-11-04.

參考さんこう資料しりょう

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なおさだおう
前任ぜんにん
なおしつおう
だいじゅういちだいだいしょう王朝おうちょう國王こくおう
1669ねん—1709ねん
つぎにん
なおえきおう
前任ぜんにん
なおしつおう
だいじゅうだい琉球りゅうきゅうこくちゅう山王さんのう
1669ねん—1709ねん
つぎにん
なおえきおう