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鄭主 - 维基百科,自由的百科全书

ていぬし

重定しげさだこう郑主

ていぬしえつみなみChúa Trịnhしゅてい,1545ねん-1787ねん),ゆう也稱さくていちょう[1]えつみなみ南北なんぼくあさ(1533ねん-1592ねん)及てい阮紛そう期間きかんてき四個政體的其中之一,よしてい家族かぞくてのひらせいれきじゅうさんだい領袖りょうしゅう

ていぬし
Chúa Trịnh
1545ねん—1787ねん
1650年越南諸政權圖 圖例   鄭主   裒主   高平莫氏   阮主   占婆
1650ねんこしみなみしょ政權せいけん
れい
  •   ていぬし
  •   裒主
  •   阮主
首都しゅと昇龍しょうりゅう
常用じょうよう语言えつみなみ
宗教しゅうきょう
佛教ぶっきょう
政府せいふ君主くんしゅせい
历史 
• ていけん獲得かくとくはじむそうむね重用じゅうよう
1545ねん
• 昇龍しょうりゅう西山にしやまぐんおさむおちい
1787ねん
前身ぜんしん
继承
莫朝
西山にしやまちょう

歷史れきし

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てい家族かぞくてきだいいちだい首領しゅりょうていけん自稱じしょうこうはじむあさ開國かいこく功臣こうしんていてき後代こうだい登庸とうよう於1527ねん篡奪はじむちょう皇位こういこれこうはじむちょう舊臣きゅうしん阮淦於1533ねんひろはじむあきらむね幼子おさなごはじむやすしなみ擁立ようりつためみかどれい滅亡めつぼうりょうろくねんてきはじむちょう復辟ふくへきていけん阮淦とうさく心腹しんぷく大將たいしょうなみいん參與さんよこうはじむあさはんまとせんごと有功ゆうこう於後はじむあさなりため重臣じゅうしんていけん後來こうらいさらめと阮淦長女ちょうじょ阮氏だまたからためつま。1545ねん,阮淦莫朝らいてき奸細杀死,これていけんあずか阮淦長子ちょうし阮汪ぶんにんはじむちょうひだりみぎ丞相じょうしょう後來こうらいようゆう兵權へいけんてきていけん殺害さつがい阮汪,どく攬大けん,阮淦幼子おさなご阮潢ため主動しゅどう要求ようきゅう順化じゅんかこれていけんしょうこうみなみしょうてき統治とうちけん授予阮潢,阮潢後來こうらいなりため世襲せしゅうてき阮主

ずいてい家族かぞく世襲せしゅうてのひらはじむちょう朝政ちょうせいにん大元帥だいげんすいそう國政こくせいこれしょくざい1592ねん奪取だっしゅ昇龍しょうりゅう誅殺ちゅうさつ莫茂あまねまとせんごとこれてい權力けんりょくさら膨脹ぼうちょうなみようゆう凌駕りょうが於後はじむあさ皇帝こうていてき地位ちい。1677ねんていならおさむめつ高平たかひら莫氏政權せいけんこれ創立そうりつりょう入朝にゅうちょうはいしょそう不具ふぐめいたとえなみ於黎みかどてき御座ぎょざ左側ひだりがわ設立せつりつていぬしてきすわ[2]こうはじむちょう皇帝こうてい完全かんぜんなりためりょういち擺設。いただいよんだいていぬしていなら在位ざいい,這種“だつくにまた如奪こくしょうみかどしょうしょうみかどてき體制たいせい進一しんいち深化しんか[3]ていてのひらけんとき皇室こうしつしょうため朝廷ちょうてい」,ていぬしてき幕府ばくふしょうためえつみなみPhủ chúa Trịnh」。所有しょゆう事務じむろん政治せいじかえ軍事ぐんじ事務じむみなよし管理かんり僚虛りょう朝廷ちょうていてきろくげん六部的職能全由府僚的“ろくばんだい行使こうし[4]ろくばん直屬ちょくぞく於鄭ぬしなみ設置せっちまいりしたがええつみなみTham tụng”、“陪從ばいじゅうえつみなみBồi tụng”、“僚官”とう宰相さいしょう機構きこう輔佐ほさていしゅ施政しせい[5]國家こっか大事だいじ須由ていしゅ決議けつぎこうはじむちょうてき朝廷ちょうてい僅僅きんきん具有ぐゆう虛名きょめいぼつゆうにんなん實際じっさい權力けんりょく[6]這與朝鮮半島ちょうせんはんとう歷史れきしうえてき武人ぶじん政權せいけん日本にっぽん歷史れきしうえてき幕府ばくふ相似そうじ許多きょたていしゅ甚至根據こんきょ自己じこてきねがい隨意ずいいはい黜、擁立ようりつ皇帝こうていなみ誅殺ちゅうさつ反對はんたい自己じこてきはじむちょう宗室そうしつ

 
どううるしきむせん觀世音かんぜおんぞう

阮潢てのひらかんこうみなみしょうすう十年間將廣南變為「にん不為ふためぬすめ諸國しょこく商船しょうせんみなとしゅう」,ただし在世ざいせい仍忠於鄭ぬしまた派兵はへいきょうじょていしゅたいづけ莫朝。ていしゅ奪取だっしゅ昇龍しょうりゅう誅殺ちゅうさつ莫茂あまね開始かいしたい阮潢出現しゅつげん戒心かいしん,一度強留阮潢在北方。1600ねん,阮潢成功せいこうかえしかいこうみなみ,雖仍こうていしゅしょうしんただしあずかてい逐漸疏離。1627ねん阮主あずかていしゅおわり爆發ばくはつ長期ちょうきてき戰爭せんそうこれちゅう。這場戰爭せんそう最後さいご和解わかいつげおわり,1673ねん雙方そうほうざい清朝せいちょうてき斡旋あっせん達成たっせい協議きょうぎ,以𤅷こうためかいていしゅよりどころ有江ありえきた領地りょうちざい當時とうじえつみなみてき正式せいしき文章ぶんしょうちゅうまたしょうため北河きたがわ」(えつみなみBắc Hà北河きたがわある北河きたがわこく」;ざい口語こうごじょうのりしょうためそと」(えつみなみĐàng Ngoài)。而中國人ちゅうごくじんしょうため交趾こく」,日本人にっぽんじんしょうため東京とうきょうこく」。而商貿方めん,1637ねん清都きよとおうてい梉正しき批准ひじゅんゆずるらんじん來往らいおう北河きたがわいさおけん開設かいせつ商館しょうかん後來こうらい中國人ちゅうごくじん日本人にっぽんじん暹羅しゃむじんらい貿易ぼうえきしゃたち2000いえ包括ほうかつ舖憲(きょうやす),渭黃(南方なんぽう)等地とうち形成けいせい十分繁榮的商貿之地,而當時とうじてきますりゅう(かわ內)也是相當そうとう發達はったつてき貿易ぼうえき中心ちゅうしん人口じんこう方面ほうめんゆかり於1669ねん范公ちょ動議どうぎ制定せいていひられいほうそくきよし人口じんこう以此ねんためなずらえ以後いご徵收ちょうしゅうひのとぜい永遠えいえん以這ため標準ひょうじゅんにち百姓有增加死亡不算,這雖しか避免りょう擾民,可也かなり使つかいとく以後いご人口じんこうてき增減ぞうげん官吏かんり不能ふのうしょう,1713ねんてき地方ちほう官員かんいん指出さしで當時とうじ需向朝廷ちょうてい納稅のうぜいてきじんひのと僅僅きんきんざい206345めい

1669ねんてい趁宣光武みつたけてき裒主內亂出兵しゅっぺい討平,1677ねんまたさんはんみだれこれおさむめつりょう高平たかひらてき莫氏殘餘ざんよ勢力せいりょく徹底てってい一統いっとう北方ほっぽうざいていならていていしょうぬしひとし致力於民ちょしゅ改革かいかく,內又ゆう范公ちょ,阮公沅等けんしん輔助,政治せいじ比較ひかく清明せいめいただし後來こうらいてきていしゅにちえき暴戾ぼうれい專橫せんおう奢侈しゃしゆうへいくさおごよこはん而成ため國家こっかまけるい。如此しもぜいじゅうみんへん屢生,社會しゃかい持續じぞくどうとろけ不安ふあん,1771ねん南方みなかた阮主統治とうちてき西山にしやま發生はっせいだい規模きぼみんへん,以阮岳阮惠阮侶三兄弟為首的民變領袖建立西山にしやまちょうていあずか西山にしやまぐん互通,利用りよう西山にしやまぐんさく先頭せんとう部隊ぶたいたいづけ阮主,以大將たいしょうぶくりつぐん討伐とうばつ阮主。1776ねん西山にしやまぐんおさむおちい阮主首都しゅととみはる,阮主滅亡めつぼうただしすわだいりょうてき西山にしやまちょうざい推翻阮主りょう以後いごたおせほこきたてい,於1787ねん滅亡めつぼうてい政權せいけん最後さいご一代鄭主出家為僧,はじむちょうてきあきらみつるみかど流亡りゅうぼう清朝せいちょう

歷代れきだいていぬし

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こうはじむあさていぬし  编辑
びょうごう ふうごう 爵號 諡號しごう 姓名せいめい 在世ざいせい 在位ざいい時間じかん はかそう
ふち
(1782ねんきよしていもりついみこと[7]
綏道おう
(1782ねんきよしていもり追贈ついぞう[7]
えんちょう ていおさむ とし-?ねん えい祿ろくけん
きよし
(1782ねんきよしていもりついみこと[7]
ぶくかげおう
(1782ねんきよしていもり追贈ついぞう[7]
まどかたかし ていやなぎ とし-?ねん
はじめ
(1782ねんきよしていもりついみこと[7]
えんじけいおう
(1782ねんきよしていもり追贈ついぞう[7]
えんどう[7] ていらん とし-?ねん
きょう
(1782ねんきよしていもりついみこと[7]
毓德おう
(1782ねんきよしていもり追贈ついぞう[7]
直道なおみち[7] ていろう とし-?ねん
あきらやすしふとしおう
(1570ねんなりていまつ初次はつじみことふう
ふとしこくおおやけ ちゅうくん ていけん 1503ねん-1570ねん 1545ねん-1570ねん 忭上きょう

(1643ねんぶんていついみこと
あきら康仁やすひとさとし武貞たけさだ雄略ゆうりゃく顯德けんとくゆたかこうけいぎょうひろし濟世さいせい澤民たくみん
けんはかりごとただし辟肇さちひろし國廣くにひろはこぶひろし謨裕衍福やすしなん
たれきゅうあつし弼開こく剛毅ごうき輔國さんあつし耀武のべ慶永よしながいとぐち
經文きょうもん綏祿耿光丕憲あげたけ扶祚興業こうぎょうたれすべおおとりきゅう綿めんいとぐち
あつひろし衍嗣つばめはかりごとおおとりぎょう豁達寬容かんようりつごく永興りょうご綏福至德しとく
廣惠ひろえ扶運洪恩こうおんせきあつえいいさお大功たいこう盛業せいぎょう制治せいじふくとお
たてけいひねきのつよし明雄あきおだんあきらぜん耀威鎮國やす光明こうみょう睿智
きょう懿果けつそうほう開基かいきけいやすし永光ながみつ含章ものしげこうひろしけん
ほうてんきょううんくるわひろし恢疆ひとしひじりさとし武英たけひではて避遠仗義ひらざん
せいかみ睿智剛健ごうけん中正ちゅうせい英雄えいゆう豪傑ごうけつたてよしづくりはかりごとひらきさきあきら
ふとはじめまことさきたかしもとはじめけい神武じんむひじり文雄ふみおざいえらほぼ立業たちわざはいてん
こう高德こうとくあつ兆謀啟運創業立本ふとしおう[8]
歷代れきだい累加るいか
俊德しゅんとくこう ていひのき とし-1584ねん 1570ねん 安定あんていけんじょう粮地
きょう和寬かずひろただしあきらおう
(1623ねんぶんてい初次はつじみことふう
たいら安王やすおう 睿武 ていまつ 1550ねん-1623ねん 1570ねん-1623ねん 槊山きょう
なり
(1643ねんぶんていついみこと
きょう和寬かずひろせい明哲めいてつさとあらわ英毅ひできつよしだん奮武經文きょうもんただしこくまもるみん
ざいえらほぼあついさおゆたかぎょうれいあらわおう護國ごこく紹祐受祿すずたね
綿めん祚延禧啟たすくおおとりくんしげこうじき勇造ゆうぞうはかりごと兆武貽典肇迹
たれひろしながいのちだかぎょう厚恩こうおんあらわ謨光いとぐちなでぎょうしゅうけい保治やすじづくりなつ
じゅんぶつたれじゅんけんてんひろしめぐみりゃく韜公ちょく執柄しっぺい扶綱たてまつおやほういにしえ
れい攬權たかし熙開けい普通ふつうこうてんつぎてんよしみめぐみ洪恩こうおん
はじめもとながいのちにぎくるる御宇ぎょうくるわよう奮斷うえこく禦邊聰明そうめいいさむけつ
かみ武雄たけおだんやすし內寧がい正直しょうじきちゅうあつ創業そうぎょうたれすべ盛德せいとくしげこう
桓武かんむえい謨徽きょう神聖しんせいふかほぼひろし謨峻こう茂德しげのりもといのち耿光
つばめはかりごとひろしれつじゅつごとこう奮威づくりあきらおう[8]
歷代れきだい累加るいか
ぶん
(1657ねんひろしていならみことじょう
よしみおう
(1657ねんひろしていなら初次はつじみことふう
清王せいおう りゅういとぐち てい 1577ねん-1657ねん 1623ねん-1657ねん 瑞原みずはらけんきゅうちまたしゃ
とくおんしん睿文豁達りょうてんじゅん昭善あきよし至孝しこうじゅん信篤のぶあつまこと
げんようくるわちゅう貽則じゅうあつぶく傳家でんかはかりごとこくつちかえもとじょかち
綏內がいじききょうたれけんじゅん嘏放くんりつごくたれすべ貽謀ひろし
いむたかし韜略英斷えいだん靈威れいい殄寇ずみなまとお謨宏りゃくゆたかこう偉績いせき
ぎょうもり成立せいりつごくちんきのあつしきょう仁恕じんじょあきらまことせんあきらひろしひろしだん
廣博こうはくぬるいきあらわじんひろしれつ文德ふみのり武功ぶこうふかとお算定さんていこうだい
のべ庥垂さわたかしくん廣業こうぎょうあきら謨承れつよしみおう[8]
歷代れきだい累加るいか
- たかしおう
(1642ねんぶんていみことふう
たかしこくおおやけ ゆう ていきょう とし-1642ねん -
ひろ
(1682ねんあきらていみことじょう
おう
(1682ねんあきらてい初次はつじみことふう
西にしおう さとけん ていなら 1606ねん-1682ねん 1657ねん-1682ねん かみなりけんまんよりゆきさつ
ひろし謨遠りゃく安國やすくに恢疆振つなきょう治雄はるおえい揆文奮武
あつし大明だいめいさくたかしとくたかしこう睿算神謀しんぼう耿光だいれつづくりなつはじめもと
たれ庥闡はんおさむ內攘がい致治おう[9]
歷代れきだい累加るいか
あきら
(1709ねん僖祖ていみことじょう
かんおう
(1709ねん僖祖てい初次はつじみことふう
ていおう とおるだん てい 1633ねん-1709ねん 1682ねん-1709ねん 永福えいふくけん金山かなやましゃ
ひろし猷神智雄ともおざい宣義のぶよしじきどうたてせいふち神智しんちひじり武文たけふみいさお
うけたまわれつあきら謨監けん秉哲こく綏方こうまえのち制治せいじたれじゅん
盛業せいぎょう大功たいこう恢綱綏內やすしがいかんおう[9]
歷代れきだい累加るいか
じゅん
(1782ねんきよしていもりついみこと[7]
りょうきよしおう
(1711ねん僖祖てい初次はつじみことふう
りょうこおりこう じゅんただし てい 1651ねん-1678ねん のうみつぐけん汴社
裕仁ひろひとえらりょうたれきゅうあつゆうのべぶくすずこう紹前あきら綏成嗣美
駿しゅんとくつばめはかりごと夤和中正ちゅうせいせきけいじゅんりょうきよしおう[9]
歷代れきだい累加るいか
睿祖
(1782ねんきよしていもりついみこと[7]
すすむひかりおう
(1711ねん僖祖てい初次はつじみことふう
すすむこくおおやけ あかりけい てい 1670ねん-1702ねん じゅん祿ろくけん富田とみたしゃ
英明えいめいさと睿迪あきらゆたかぶん積善せきぜんつちかえもと貽謀ひろし紹猷昌胤まさたね
あつゆうのべきゅうくるわひろし謨崇禧茂とくすすむひかりおう[9]
歷代れきだい累加るいか
僖祖
(1729ねんひろしていゆずりはみことじょう
仁王におう
(1729ねんひろしていゆずりは初次はつじみことふう
安王やすおう 懿略 てい 1686ねん-1729ねん 1709ねん-1729ねん 安定あんていけん快樂かいらくしゃ
ぬるきよしそう肅寬ひろし徽濬經文きょうもんぬきたけひろし謨大りゃくたれすべけんてん
神謀しんぼう睿算闢國ひらけつよし耀武せん輯鄰なつつなちんおさむ
和衷わちゅう迓衡仁王におう[9]
歷代れきだい累加るいか
ひろし
(1761ねんあつしていみことじょう
じゅんおう
(1761ねんあつしてい初次はつじみことふう
ぜんおう 頤穆 ていゆずりは 1711ねん-1761ねん 1729ねん-1740ねん えい祿ろくけんもとはじめしゃ
きょうゆずる寬惠ひろえ純粹じゅんすいてるよしみこうふち博厚ひろあつくつどうけん光宣みつのぶ慈愷悌
あつとく遠謀えんぼうじゅんおう[9]
歷代れきだい累加るいか
あつし
(1767ねんきよしていもりみことじょう
おんおう
(1767ねんきよしていもり初次はつじみことふう
明王みょうおう 紹基 てい 1720ねん-1767ねん 1740ねん-1767ねん 金城きんじょうしゃ
神謀しんぼう睿算盛德せいとくくんひろし慈達孝宏たかひろ謨大れつ闡猷もと
てい開平かいへいすすむぶんじきくんどお謨厚さわおんおう[9]
歷代れきだい累加るいか
せい
(1782ねん奠都てんとおうていみことじょう
もりおう
(1782ねん奠都てんとおうてい初次はつじみことふう
やすしおう ていもり 1739ねん-1782ねん 1767ねん-1782ねん 汴上きょう
紹天きょううん制治せいじひらき疆洪りょうえい猷正まこと仁孝にんこうもりおう[9]
歷代れきだい累加るいか
奠都てんとおう おき てい 1775ねん-1782ねん 1782ねん
えいれつれいおう[10]
(1786ねん晏都おうていみことふう
はしみなみおう てい 1763ねん-1786ねん 1782ねん-1786ねん 東山ひがしやまけんぬのまもるそう
晏都おう てい 1749ねん-1791ねん 1786ねん-1787ねん ゆたか祿ろくけんとうしゃ

けい

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ やすみなみ風水ふうすい》:……此局,わが國主こくしゅていちょうこれはつ迹陵也。以扶はじむはた而起しゃ……,かん研究けんきゅういんへんごうA693,かんよん,79ぺーじ
  2. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきさんじゅうさん):「西にしおう(てい)なら入朝にゅうちょうはいあきらそうしつらえ於御ひだり...なら踰僭よくことれいさきようみかどゆうみことのりたまものもとめ以掩じん耳目じもくふとおもねたおせどう陛之れいとろけしか矣。」
  3. ^ ちんなかきんえつみなみりゃく》,戴可らいわけちゅうぶん譯名やくめいえつ南通みなみとおり》),商務しょうむしるししょかん出版しゅっぱん,1992ねん12月。まいり191ぺーじ
  4. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(まきさんじゅう):「ていきゅうしつらえへいあずかみずさんばんいたり增置ぞうち吏、れいけいこうあずかへいためろくばんまた徵收ちょうしゅう各號かくごうふんためろくみや。凡屬みや租庸簿せきろくばん以本しょく分掌ぶんしょうしょ鎭財へいみんせいなみぞく焉。れいぶんしんばん,內監あずかぶんぞくたかしふく僉〈かんめい〉,ぞくろくじゅうにん政權せいけんつきろくばん,而部てらためきょしゃ矣。」
  5. ^ 欽定きんていえつどおりかん綱目こうもく》(正編せいへん/まきさんじゅうさん):「まいりしたがえ陪從ばいじゅうぜんはじむゆう中興ちゅうこうせいかえりていはじめしつらえこれ,以參陪政府せいふかみはじめたつていなら以禮尚書しょうしょ范公ちょ、吏部尚書しょうしょ楊致さわなみさんしたがえさんしたがえためくび輔,而陪從ばいじゅう。」
  6. ^ ちんなかきんえつみなみりゃく》,戴可らいわけちゅうぶん譯名やくめいえつ南通みなみとおり》),商務しょうむしるししょかん出版しゅっぱん,1992ねん12月。まいり223ぺーじ
  7. ^ 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 歷朝れきちょう憲章けんしょうるいまきじゅういち·禮儀れいぎ·宗廟そうびょう奉祀ほうしれい
  8. ^ 8.0 8.1 8.2 南風みなみかぜごうかんだい廿にじゅういちかん·だいいちひゃくじゅうよん·〈てい
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 南風みなみかぜごうかんだい廿にじゅうかん·だいいちひゃくじゅう·〈ていつづけ)〉
  10. ^ 歷朝れきちょう憲章けんしょうるいまきじゅうさん·禮儀れいぎ·ていおうしょりょう

相關そうかん條目じょうもく

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