阿倍仲麻呂 あべのなかまろ (日 にち 语:阿倍 あべ 仲 なか 麿 まろ / あべ の なかまろ Abe no nakamaro ,698年 ねん —770年 ねん ),朝臣 あそん 姓 せい ,阿倍 あべ 氏 し ,原文 げんぶん 名 めい 仲 なか 麿 まろ ,又 また 作 つく 阿部 あべ 仲 なか 滿 みつる [1] ,在 ざい 中國 ちゅうごく 時 とき 取 と 漢 かん 名 めい 朝 あさ 衡[2] ,又 また 作 つく 晁 あきら 衡 、鼂衡 ,字 じ 巨 きょ 卿 きょう 。日本 にっぽん 奈良 なら 時代 じだい 的 てき 遣 や 唐 から 留學生 りゅうがくせい 之 これ 一 いち ,同 どう 时也是 ぜ 唐 から 朝 あさ 政治 せいじ 家 か 、詩人 しじん 。開 ひらき 元 もと 年間 ねんかん 參加 さんか 科 か 舉考試 こうし ,高中 たかなか 進士 しんし ,留 とめ 唐 から 任 にん 多項 たこう 要職 ようしょく 。唐 とう 天宝 てんぽう 十 じゅう 二 に 年 ねん (753年 ねん )乘船 じょうせん 返 かえし 回 かい 日本 にっぽん 期 き 间因船 せん 只 ただ 遭暴风损坏而流 りゅう 落到越 えつ 南 みなみ ,之 これ 后 きさき 辗转回 かい 到 いた 长安 并最终在此终老 ろう 。
阿倍仲麻呂 あべのなかまろ 遣 や 唐 から 留学生 りゅうがくせい 潞州大 だい 都 と 督 とく (從 したがえ 二 に 品 ひん )國家 こっか 日本 にっぽん 時代 じだい 奈良 なら 時代 じだい 氏 し 阿倍 あべ 姓 せい 朝臣 あそん 名 な 仲 なか 麿 まろ 、仲 なか 麻 あさ 吕字 じ 巨 きょ 卿 きょう 別名 べつめい 阿倍 あべ 仲 なか 麿 まろ 、阿部 あべ 仲 なか 滿 みつる 、晁 あきら 衡出生 しゅっしょう 文武 ぶんぶ 天皇 てんのう 2年 ねん (698年 ねん )大和 やまと 国 こく 逝世 唐 とう 代 だい 宗 むね 大 だい 曆 こよみ 五 ご 年 ねん 正月 しょうがつ (770年 ねん 2月 がつ )(日本 にっぽん 曆 れき 為 ため 宝 たから 龟元年 がんねん 正月 しょうがつ )长安
經歷 けいれき 洛陽 らくよう 司 し 經 けい 校 こう 書 しょ 、洛陽 らくよう 左 ひだり 拾遺 しゅうい 、長安 ながやす 左 ひだり 補 ほ 闕、祕書 ひしょ 監 かん 兼 けん 衞 まもる 尉 じょう 卿 きょう 、肅宗時 じ 左 ひだり 散 ち 騎 き 常 つね 侍 さむらい 、肅宗時安 ときやす 南都 なんと 護 まもる 、光 ひかり 祿 ろく 大夫 たいふ 兼 けん 御 ご 史 し 中 ちゅう 丞 すすむ 、北海 ほっかい 郡 ぐん 開國 かいこく 公 こう ,食 しょく 邑三 さん 千 せん 戶 こ 。
日 にち 語 ご 寫 うつし 法 ほう 日 にち 語 ご 原文 げんぶん 阿倍 あべ 仲 なか 麻呂 まろ ‧ 阿倍 あべ 仲 なか 麿 まろ 假名 かめい あべ の なかまろ 平文 へいぶん 式 しき 罗马字 じ Abe no nakamaro
阿倍 あべ 仲 なか 麻 あさ 吕与当 とう 时唐朝 あさ 的 てき 诗人李白 りはく 、王 おう 维等均 ひとし 为好友 とも 。
元正 がんしょう 天皇 てんのう 灵龟二 に 年 ねん (716年 ねん ),时年19岁(虚 きょ 岁 )的 てき 阿倍 あべ 仲 なか 麻 あさ 吕被推举为遣 や 唐 から 留学生 りゅうがくせい [3] 。717年 ねん (唐 とう 開 ひらき 元 もと 五 ご 年 ねん ),20歲 さい 的 てき 阿倍 あべ 仲 なか 麻 あさ 吕因汉文修 おさむ 养良好 こう 而獲選拔 せんばつ 為 ため 遣 や 唐 から 留學生 りゅうがくせい ,同行 どうこう 的 てき 留學 りゅうがく 生還 せいかん 有 ゆう 僧 そう 人 じん 玄 げん 昉 ,以及後來 こうらい 成 なり 了 りょう 日本 にっぽん 右大臣 うだいじん 的 てき 吉備真備 きびのまきび 等 ひとし [3] 。由 ゆかり 多治比 たじひ 縣 けん 守 もり 從 したがえ 日本 にっぽん 難波 なんば 港 みなと (今 いま 大阪 おおさか )率 りつ 日本 にっぽん 遣唐使 けんとうし 一行人遠赴唐都長安 ながやす (今 いま 西安 しーあん ),四 よん 船 せん 並 なみ 聯 れん ,一 いち 行 ぎょう 557人 にん 浩 ひろし 浩 ひろし 蕩蕩 とうとう ,西 にし 渡 わたる 東海 とうかい ,在 ざい 揚 あげ 州 しゅう (一說 いっせつ 明 あきら 州 しゅう )登 のぼり 陸 りく 。
仲 なか 麻呂 まろ 經過 けいか 數 すう 年 ねん 寒 かん 窗 まど 苦 く 讀,參加 さんか 唐 とう 制 せい 科 か 舉考試 こうし ,以優異 い 成績 せいせき 考 こう 中 ちゅう 進士 しんし 。
725年 ねん (唐 とう 開 ひらき 元 もと 十 じゅう 三 さん 年 ねん ),任 にん 洛陽 らくよう 左 ひだり 春 はる 坊 ぼう 司 つかさ 經 けい 校 こう 書 しょ (負 ふ 責 せめ 典籍 てんせき 整理 せいり ,正 せい 九 きゅう 品 ひん 下 か ),728年 ねん 左 ひだり 拾遺 しゅうい (從 したがえ 八 はち 品 ひん 上 じょう ),731年 ねん 左 ひだり 補 ほ 闕 (從 したがえ 七 なな 品 ひん 上 じょう )、仪王友 とも 等 とう 職 しょく [4] 。由 よし 於他德 とく 才 ざい 兼備 けんび ,詩文 しぶん 俱佳,得 とく 到 いた 唐 から 玄 げん 宗 むね 賞 しょう 識,後 ご 被 ひ 任命 にんめい 為 ため 祕書 ひしょ 監 かん ,經常 けいじょう 在 ざい 玄 げん 宗 むね 身 み 旁 つくり 侍 さむらい 奉 たてまつ ,兼 けん 衞 まもる 尉 じょう 卿 きょう 。有 ゆう 說 せつ 他 た 獲 え 唐 から 玄 げん 宗 むね 賜 たまもの 名 めい 晁 あきら 衡,但 ただし 据 すえ 《旧 きゅう 唐 から 书 》记载“朝臣 あそん 仲 なか 满,慕中国 こく 之 の 风,因 いん 留 とめ 不 ふ 去 さ ,改姓 かいせい 名 めい 为朝衡”,《新 しん 唐 から 书 》也记载“朝臣 あそん 仲 なか 满慕华不肯去,易 えき 姓名 せいめい 曰朝衡”,并无赐姓名 めい 之 の 事 こと 。
753年 ねん 10月 がつ ,晁 あきら 衡與藤原 ふじわら 清河 きよかわ 等 とう 人 ひと 率 りつ 領 りょう 四 よん 艘 そう 帆船 はんせん ,從 したがえ 蘇州 そしゅう 黃 き 泗浦 (今 いま 江蘇 こうそ 鹿 しか 苑 えん )啟 けい 航 こう ,駛往日本 にっぽん ,他 た 難 なん 掩心中 しんちゅうの 思鄉 しきょう 之 の 情 じょう ,口中 くちじゅう 唱吟著 ちょ 思念 しねん 故鄉 こきょう 的 てき 和歌 わか 《三笠山 みかさやま 之 の 歌 うた 》另一解釋 かいしゃく 為 ため :晁 あきら 衡在即 そく 將 はた 離 はなれ 開 ひらき 中國 ちゅうごく 之 の 際 さい ,抬頭看 み 著 ちょ 月 がつ 亮 あきら ,心中 しんちゅうの 充滿 じゅうまん 對 たい 中國 ちゅうごく 的 てき 不 ふ 捨,畢竟 ひっきょう 來 き 到 いた 中國 ちゅうごく 求 もとめ 學 がく 、做官,一晃眼四十年就過去了。這樣的 てき 情景 じょうけい 令 れい 他 た 想起 そうき 想起 そうき 多年 たねん 前 ぜん 要 よう 離 はなれ 開 ひらき 日本 にっぽん 到 いた 中國 ちゅうごく 求 もとめ 學 がく 的 てき 那 な 個 こ 晚 ばん 上 じょう ,在 ざい 奈良 なら 的 てき 山上 さんじょう 懷 ふところ 著 ちょ 對 たい 於離開 ひらき 家鄉 かきょう 不 ふ 捨的心情 しんじょう 看 み 著 ちょ 天上 てんじょう 明 あきら 亮 あきら 的 てき 滿月 まんげつ 。兩個 りゃんこ 同樣 どうよう 的 てき 心境 しんきょう 相 しょう 隔 へだた 了 りょう 四 よん 十 じゅう 年 ねん 。而月亮 あきら 依 よ 舊 きゅう :
天 てん の原 げん ふりさけみれば 春日 しゅんじつ なる 三 さん 笠 かさ の山 やま に いでし月 つき かも 翹首望 もち 東天 とうてん ,神 かみ 馳 はせ 奈良 なら 邊 べ ,三笠山 みかさやま 頂上 ちょうじょう ,想 そう 又 また 皎 こう 月 がつ 圓 えん 。
這首和歌 わか 後來 こうらい 被 ひ 收錄 しゅうろく 到 いた 了 りょう 《小倉 おぐら 百 ひゃく 人 にん 一 いち 首 しゅ 》中 ちゅう ,為 ため 該和歌集 かしゅう 的 てき 第 だい 七 なな 首 しゅ 和歌 わか ,在 ざい 日本 にっぽん 婦 ふ 孺皆知 ち 。
值得一 いち 提 ひさげ 的 てき 是 ぜ ,船隊 せんたい 中 ちゅう 還 かえ 有 ゆう 一 いち 位 い 揚 あげ 州 しゅう 延 のべ 光 こう 寺 てら 的 てき 著名 ちょめい 高僧 こうそう 同行 どうこう ,他 た 就是鑑真 がんじん 和尚 おしょう 。這位年 ねん 過 か 六旬的得道高僧自從11年 ねん 前 まえ 答 こたえ 應 おう 日本 にっぽん 友人 ゆうじん 的 てき 邀請,決心 けっしん 遠 とお 赴東洋 とうよう 傳 でん 揚 よう 佛法 ぶっぽう ,曾多次 じ 率 りつ 弟子 でし 渡海 とかい ,但 ただし 都 と 被 ひ 風浪 ふうろう 所 しょ 阻。這次已 やめ 是 ぜ 鑒真第 だい 六 ろく 次 じ 東 ひがし 渡 わたり 了 りょう 。
這次船隊 せんたい 在 ざい 中途 ちゅうと 亦 また 遇 ぐう 上 じょう 了 りょう 大風 おおかぜ 暴,他 た 們被沖 おき 散 ち 了 りょう 。鑑真 がんじん 和 かず 其餘兩 りょう 艘 そう 船 せん 各自 かくじ 開 ひらけ 到 いた 了 りょう 日本 にっぽん ,而晁衡那艘 そう 船 せん 卻下落 げらく 不明 ふめい 。直 ちょく 到 いた 754年 ねん 3月 がつ ,仍然杳無消息 しょうそく 。詩人 しじん 李白 りはく 以為他 た 已 やめ 遇 ぐう 難 なん ,悲痛 ひつう 地 ち 寫 うつし 下 か 了 りょう 七言 しちごん 絕句 ぜっく 《哭晁卿 きょう 衡 》這名作 さく ,以表達 たち 對 たい 友人 ゆうじん 晁 あきら 衡悲切 きり 的 てき 思念 しねん 之 の 情 じょう 。然 しか 而,實際 じっさい 上 うえ 晁 あきら 衡的船 せん 只 ただ 是 ぜ 隨 ずい 風 ふう 漂流 ひょうりゅう 到 いた 了 りょう 安 やす 南 みなみ 驩州 (唐 から 屬地 ぞくち ,今 こん 屬 ぞく 越 こし 南 みなみ ),雖然沒 ぼつ 有 ゆう 沉沒,卻又被 ひ 當地 とうち 的 てき 盜賊 とうぞく 襲擊 しゅうげき ,死 し 了 りょう 一 いち 百 ひゃく 七 なな 十 じゅう 多 た 人 じん ,但 ただし 他 た 與 あずか 藤原 ふじわら 清河 きよかわ 終 おわり 也奇蹟 きせき 地 ち 生還 せいかん 。最後 さいご 755年 ねん ,他 た 與 あずか 十多位倖存者歷盡艱險,又 また 回 かい 到 いた 了 りょう 長安 ながやす 。是 ぜ 年 ねん 安 やす 祿 ろく 山 やま 之 これ 亂 みだれ (歷史 れきし 上 じょう 與 あずか 史 ふみ 思 おもえ 明 あきら 之 これ 亂 らん 合 あい 稱 しょう 安 やす 史 し 之 の 亂 みだれ )爆發 ばくはつ ,往來 おうらい 中國 ちゅうごく 及日本 にっぽん 的 てき 路 ろ 已 やめ 變 へん 得 どく 相當 そうとう 危險 きけん ,晁 あきら 衡便打 だ 消 けし 了 りょう 回 かい 日本 にっぽん 的 てき 念頭 ねんとう 。
晁 あきら 衡又重 じゅう 回 かい 仕 つかまつ 途 と ,他 た 又 また 先後 せんご 深 ふか 得 え 肅宗 及代 だい 宗 むね 信任 しんにん ,由 ゆかり 左 ひだり 散 ち 騎 き 常 つね 侍 さむらい (御前 ごぜん 諫官,從 したがえ 三 さん 品 ひん )至 いたり 安 やす 南都 なんと 護 まもる 、安 やす 南 みなみ 節度 せつど 使 し (河 かわ 內當地 とうち 最高 さいこう 官員 かんいん ,正 せい 三 さん 品 ひん )等 とう 職 しょく 。761年 ねん 至 いたり 767年 ねん 這六 ろく 年 ねん 期間 きかん ,晁 あきら 衡都在 ざい 河 かわ 內的 てき 安 やす 南 みなみ 都 みやこ 護 まもる 府 ふ 出 いで 任 にん ,最後 さいご 官 かん 至 いたり 潞州大 だい 都 と 督 とく (從 したがえ 二 に 品 ひん )、至 いたり 光 ひかり 祿 ろく 大夫 たいふ 、兼 けん 御 ご 史 し 中 ちゅう 丞 すすむ 、北海 ほっかい 郡 ぐん 開國 かいこく 公 こう ,食 しょく 邑三 さん 千 せん 戶 こ 。而藤原 ふじわら 亦 また 留 とめ 唐 とう 出 で 任 にん 祕書 ひしょ 監 かん 等 とう 職 しょく ,沒 ぼつ 有 ゆう 回 かい 去 さ 日本 にっぽん 。
据 すえ 《古今 ここん 和歌集 わかしゅう 》,宝 たから 龟元年 がんねん (唐 から 大 だい 曆 こよみ 五 ご 年 ねん ,770年 ねん )正月 しょうがつ ,晁 あきら 衡最終 さいしゅう 長 ちょう 眠 ねむり 於長安 ながやす ,埋骨 まいこつ 唐土 とうど 。天皇 てんのう 追 つい 封 ふう 正 せい 二 に 品 ひん 官位 かんい 。這段史話 しわ 被 ひ 中日 ちゅうにち 史籍 しせき 引為美談 びだん 。
唐 から 朝 あさ 著名 ちょめい 诗人李白 りはく
唐 から 朝 あさ 著名 ちょめい 诗人王 おう 维
唐 から 朝 あさ 著名 ちょめい 诗人储光羲 :储光羲对他 た 十 じゅう 分 ふん 赞赏,曾写诗《洛中 らくちゅう 贻朝校 こう 书衡,朝 あさ 即 そく 日本人 にっぽんじん 也》相 あい 赠,储光羲的诗名在 ざい 当 とう 时也因 いん 晁 あきら 衡而远播日本 にっぽん ,并被供奉 ぐぶ 于京都 きょうと 的 てき 诗仙堂 どう 中 ちゅう 。
2020年 ねん 电视纪录片 へん 《中国 ちゅうごく 》(第 だい 一季 いっき )[註 1] 桑原 くわばら 优 饰
(日 ひ )藤 ふじ 家 か 礼 れい 之 の 助 すけ . 中日 ちゅうにち 交流 こうりゅう 两千 せん 年 ねん . 章 あきら 林 はやし 译. 北京 ぺきん : 北京 ぺきん 联合出版 しゅっぱん 公司 こうし . 2019-07. ISBN 978-7-5596-3178-7 (中 ちゅう 文 ぶん (中国 ちゅうごく 大 だい 陆)) .
王国 おうこく 安 やす . 世界 せかい 汉语教学 きょうがく 百科辞典 ひゃっかじてん . 上海 しゃんはい : 汉语大 だい 词典出版 しゅっぱん 社 しゃ . 1990-12. ISBN 7-5432-0030-9 (中 ちゅう 文 ぶん (中国 ちゅうごく 大 だい 陆)) .