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顧榮 - 维基百科,自由的百科全书

顧榮(3世紀せいき—312ねん),彥先こくくれけんいま江蘇こうそ蘇州そしゅうにん出身しゅっしん江南こうなんだいせいひがしくれ丞相じょうしょう顧雍これまごむべ太守たいしゅ顧穆[1]之子ゆきこ。顧榮先後せんごいれつかまつひがしかず西にしすすむざい西にしすすむまつねん支持しじわたりこううつり江東こうとうてきすすむもとみかど司馬しばまた推薦すいせん江南こうなん一眾名士給司馬睿任用,きょうじょ建立こんりゅうあずますすむ

生平おいだいら

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顧榮れい天資てんしさとさとし十歲入仕東吳,にん黃門こうもんさむらいろう太子たいし輔義じょう。咸寧ろくねん(280ねん),西にしすすむめつひがしくれ,顧榮あずかりくりくくも兄弟きょうだいいれ洛陽らくようごうためさんしゅんかんはいろうちゅうこう歷任れきにん尚書しょうしょろう太子たいしちゅう舍人とねり廷尉ただし

はちおうみだれ

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えいやすし元年がんねん(300ねん),ちょうおう司馬しばりんはいころせ賈后てのひらけん淮南ワイナンおう司馬しばまこと討伐とうばつ司馬しばりんただし失敗しっぱい,遭司馬しばりん誅殺ちゅうさつ部下ぶか僚屬みやこおさむづけ廷尉はた誅殺ちゅうさつ。顧榮公平こうへい處理しょり,很多じん免罪めんざい而得以存かつたてはじめ元年がんねん(301ねん),司馬しばりん篡位しょうみかど,顧榮あらためにん司馬しばりん大將軍だいしょうぐん司馬しばけんてきちょうふみ

同年どうねんひとしおう司馬しば討伐とうばつ司馬しばりん成功せいこうにんだい司馬しばてのひら政權せいけんなみ召顧さかえためおも簿。顧榮司馬しば冏專けん擅權,おそれ怕日司馬しば冏倒台後だいごかい誅連,ひさげこころつるしきもなみゆうけいなま念頭ねんとう[2],於是終日しゅうじつさけよい公事こうじなみはた事情じじょう告知こくち朋友ほうゆう馮熊。馮熊於是こう司馬しば冏長かずら建議けんぎてん顧榮ため中書ちゅうしょさむらいろう。顧榮轉任てんにん中書ちゅうしょさむらいろうさい飲酒いんしゅただしひと懷疑かいぎためなんゆう這麼だいてき轉變てんぺん,顧榮いんがい怕獲追究ついきゅう而再いんちょくいたり司馬しば冏於ふとしやす元年がんねん(302ねん十二月じゅうにがつちょうすなおう司馬しばげきはいころせ,顧榮またいん討伐とうばつかずら有功ゆうこう而封よしみきょうはくうたて太子たいしちゅう庶子しょし

司馬しば乂在げきはい司馬しば後任こうにんふとしじょうまた以顧さかえためちょう永安えいあん元年がんねん(304ねん),成都せいとおう司馬しば與河よこうあいだおう司馬しばれんぐんげきはい司馬しば乂,司馬しば穎升にん丞相じょうしょうまた以顧さかえため從事じゅうじちゅうろう同年どうねん東海とうかいおう司馬しばえつおびすすむめぐみみかどおやせい司馬しば失敗しっぱいすすむめぐみみかど俘至鄴城,顧榮兼任けんにんさむらいちゅうなみ拜謁はいえつすめらぎりょうただし當時とうじ司馬しば顒部はたちょうかたやめよりどころ洛陽らくよう,顧榮受阻とくすすむ,逃到ちんとめ同年どうねんすすむめぐみみかどはりかたおびえ逼到長安ながやすまたしるし召顧さかえためつねさむらいただし顧榮中原なかはら大亂たいらんおういのちなみかいいたくれこくつぎねん東海とうかいおう司馬しばえつざいじょしゅうおこしへいむかいめぐみみかどかい洛陽らくよう任命にんめい顧榮ためぐんはかまつりしゅ

江東こうとうたいららん

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永興りょうごねん(305ねん),みぎ將軍しょうぐんちんさとしざいれき叛變,驅逐くちくあげしゅう刺史ししりゅう太守たいしゅおう意圖いと割據かっきょ江東こうとうまた禮遇れいぐう一眾江東豪傑和名士,以顧さかえためみぎ將軍しょうぐん楊內,其他四十餘人亦獲選任為將軍和郡守。ただしちんさとし才能さいのうたいらいさおまた遠大えんだい謀略ぼうりゃくけいせいあきら江南こうなん一眾有識之士都不服從他,而且其縱容子ようすおとうと橫行おうこうまた當地とうちじんため患。顧榮しゅうとう一直都不是盡忠於陳敏,さら終日しゅうじつ擔心跟隨ちょかい遭禍こうえいよしみ元年がんねん(307ねん),顧榮とうじんせっいたいおりこう太守たいしゅはなたんうつしきゅう們的しんじはなたんざいしんちゅう斥責接受せつじゅ叛變てきちんさとししょ授的官位かんいため做事;さらたたえ他日たじつ朝廷ちょうてい派兵はへい討平ちんさとし,顧榮とうじん愧對ちゅう原之はらの。顧榮だいかん羞愧,於是決定けっていはん叛陳さとしれいじんみつほうせい東大とうだい將軍しょうぐんりゅうじゅん派兵はへい臨江,自己じこ作為さくい內應。りゅうじゅん及後あげしゅう刺史ししりゅうとうりょうへいいたれきちんさとしまたおとうとおとうとちんあきら及將ぐんせんひろいた烏江からすえ對抗たいこうりゅうしゅう玘及成功せいこうれいぜにこう背叛はいはんちんさとし殺害さつがいちんあきらなみ勒兵朱雀すざくきょうみなみちんさとし知道ともみち使つかい其姻おやあまたくりょうへい討伐とうばつぜにひろ,顧榮卻與しゅう玘一同勸甘卓背叛陳敏;あまたくよし於向らい敬重けいちょう顧榮,またよしちんあきらこれ而感恐懼きょうく[3]いん而決しん背叛はいはんちんさとしなみあずかしゅう玘等じん進攻しんこうちんさとしちんさとしそくりょうへい一萬多人討伐甘卓,ただしあま卓士たくしへいこうちんさとしぐんせつ:「本所ほんじょ以戮りょくちんこうしゃせい以顧楊(顧榮)、しゅうあんゆたかしゅう玘)みみこんみな矣,なんじとうなんため!」成功せいこう動搖どうようちんさとしぐんこころ,顧榮出來でき以白おうぎこうちんさとしぐんいち揮,ちんさとしぐん就潰ちんさとしただゆう單騎たんききたはし途中とちゅうなみころせ平定へいてい叛變,顧榮任命にんめいためさむらいちゅうただしいたじょしゅう聽聞ちょうもん北方ほっぽういよいよいよいよ混亂こんらんざいじょしゅう遲疑ちぎすすむ司馬しば越又こしまたうつししんきゅうじょしゅう刺史しし裴盾せつわか顧榮とうじん顧望,のりよう以軍れい護送ごそう。顧榮とう人知じんちどうだいため恐懼きょうくたてこくかいせん棄車,逃回にげまわ故鄉こきょうくれぐん

じょけんあずますすむ

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同年どうねんやす东将军、琅邪おう司馬しば睿移鎮けんぎょうたてやすしこん南京なんきん),顧榮任命にんめいため安東あんどう军司骑常さむらい用作ようさく招攬江南えな士族しぞくてき支持しじ司馬しば睿有にんなん政事せいじ籌劃都會とかい諮詢しじゅん顧榮てき意見いけん。顧榮作為さくい江南こうなん名士めいしまたきょ要職ようしょくいん而甚とく朝野ちょうや敬重けいちょう。顧榮またこう司馬しば推薦すいせん陆曄あまたく顧謙いんゆう杨彦あきらしゃぎょうげんとう一些未被任用的江南名士,司馬しば睿都採納さいのうなみいちいち任官にんかん

えいよしみろくねん(312ねん)顧榮在任ざいにん內逝司馬しばじゅうふんあいつう追贈ついぞうさむらいちゅう、驃騎將軍しょうぐん開府かいふどうさんつかさおくりなもとたてたけし元年がんねん(317ねん),司馬しば改稱かいしょうすすむおうついふう顧榮ため公爵こうしゃく開國かいこくふうしょく

逸事いつじ

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  • 顧榮ざいほろびいた洛陽らくよう任官にんかん期間きかん常常つねづね飲酒いんしゅさらこうどうぐんこうともちょうせつ:「おもんみしゅ忘憂ぼうゆうただし如作びょうなんみみ。」他日たじつちょう慨嘆がいたん時局じきょく混亂こんらんぞう顧榮這些有名ゆうめいてきひとなん以求退すさ保身ほしんすすむ凡事曕前顧後,顧榮また愴然せつ:「われまたあずか南山なんざんわらびいん三江みえすいみみ。」渴望かつぼうあずかかくれ[4]
  • 顧榮にん司馬しばりんてきちょう,曾與同僚どうりょうえんいん期間きかん拿著烤肉てき侍者じしゃ貌狀凡,またゆうおもえども烤肉てき樣子ようす,顧榮於是割下わりした烤肉おくきゅうどもどうすわてきじんといためなんよう這樣做,顧榮回答かいとう:「怎能拿著烤肉一整天卻未嘗過它的味道!」司馬しばりんたおせだい,顧榮またはた誅殺ちゅうさつ,卻遇じょうりょう當日とうじつてき侍者じしゃ當時とうじためとくりつてき侍者じしゃ最終さいしゅうすくいりょう顧榮。[5]
  • 顧榮こうらい喜好きよしなできんほろびちょう翰前だい哭,すんで而上ゆかきんすうきょくなできん感歎かんたん:「顧彥さきかえのうさい欣賞這琴おん嗎?」。
  • ちんさとしさくらんはなたん曾寫しん詰責きっせき顧榮,顧榮ふところ恨在しん後來こうらいきのむかいすすむもとみかどすすむこもはなたん,顧榮卻作阻撓,れいはなたんすうねんとくにんしょく[6]

子女しじょ

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  • 顧毗かんいたりさむらいろう

附註ふちゅう

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  1. ^ そく三國志さんごくし所載しょさいてき顧裕
  2. ^ 顧榮曾與楊彥明通あけどおり書信しょしんうつし自己じこつねおもんばかわざわい及,がたな與繩よなわまいよく自殺じさつただしひと不知ふちみみ。」
  3. ^ すすむしょ·あまたくでん
  4. ^ すすむしょ·文苑ぶんえん·ちょう翰傳》
  5. ^ せつ新語しんご·德行とっこうへんゆう相似そうじ記述きじゅつただし拿著烤肉てき侍者じしゃ他日たじつとくりつ,而是顧榮かいいた江東こうとうまい逢危なん堅持けんじ追隨ついずい自己じこてき侍從じじゅう
  6. ^ すすむしょ·はなたんでん

延伸えんしん阅读

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[]

 すすむしょ/まき068》,出自しゅつじぼうげんよわいすすむしょ

參考さんこう書目しょもく

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  • すすむしょ·顧榮でん
  • すすむしょ·ちんさとしでん
  • どおりかんまきはちじゅうろく