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薛國觀 - 維基百科,自由的百科全書

薛國かん(?—1641ねん),家相かそうまたまろうどのべ陝西せんせい韓城縣かんじょうけんひと明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつまんれきまつ進士しんしたかしただしあいだかんいたり內閣くび建議けんぎすめらぎおやこく戚捐款以救國きゅうこくなんいん牽扯收賄しゅうわいあんたかしただしみかどたまものけいほろび

薛國かん
大明だいめい吏部尚書しょうしょ
せきぬき 陝西せんせい韓城縣かんじょうけん
ぞく かんぞく
ごう 家相かそういちまろうど
出生しゅっしょう 生年せいねんしょう
陝西せんせい韓城縣かんじょうけん
逝世 たかしただしじゅうよんねん(1641ねん
京師けいし
出身しゅっしん
  • 萬曆四十七年己未科進士出身

生平おいだいら

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まんれきよんじゅうななねん(1619ねん進士しんし。授萊州推官天啟てんけいよんねん(1624ねん),擢戶部とべきゅうごとちゅう天啟てんけいななねん(1627ねん),遷刑きゅうごとちゅう

たかしただしさんねん(1630ねんあきもちいちん其猷こもおこり兵科へいかきゅうごとちゅう。遭母ちょうゆうしょくまもり滿みつるおこりれいきゅうごとちゅう,遷太つねてらしょうきょう

たかしただしきゅうねん(1636ねん),擢左僉都つぎねんはちがつはいれいひだりさむらいろうけんひがしかくだい學士がくしにゅうさんつとむ

たかしただしじゅうねん(1637ねんゆたかたいひとし致仕ちし國觀こっかん入閣にゅうかくなりためおさむたかしただしじゅうねんがつりゅう宇亮やめかん國觀こっかんしんためくび。一次崇禎帝召對,嘆息たんそく百官ひゃっかんみなむさぼ,薛就じゅん口說くぜつ如果しょうまもる有能ゆうのうじんむさぼ污是かいふうぎょうてき當時とうじひがししょうふとしかん王化おうかみんざいがわ,聽後あせりゅう浹背,たい薛國かんごく怨恨えんこん[1]

薛國かん建議けんぎむかいすめらぎおやこくちょう稅金ぜいきん,以解決かいけつ財政ざいせいこまさかい[2]

行人こうじんあきらときおくぜにたてまつうけたまわ薛國かん,薛國かんよくきゅう吏部主事しゅじただしたかしただし皇帝こうてい性格せいかくうたぐ,僅授あきられい祠祭しさい主事しゅじあきら以為薛國かん暗中あんちゅう搞鬼,恨薛いれこつ[3]

たかしただしじゅうさんねんろくがつ(1640ねんきゅうごとちゅう袁愷うえ疏,揭發薛國かん受賄國觀こっかん下獄げごくなみ牽連でんえいあつし蔡奕琛とうじゅういちにん。薛國かんそうべん:「袁愷誣劾,れい主事しゅじあきら。」たかしただし聽。最後さいごにしきころもまもるひだりとくかくうけたまわひろしまえせん佈賜,薛國かん臨死りんし前說ぜんせつあきらころせわが[4]。薛國かんよしみやすしくびなつげんたまものこれさいつぎたまものてきくび輔。國觀こっかん,其同とうため辯護べんご怨叫こごめ

內閣中書ちゅうしょ舍人とねりおう陛彥あきらてきそとおい與國よこくかんともぜんざい薛邸あまねだん一起かずき逮捕たいほ下獄げごく以「泄露機密きみつざい斬首ざんしゅおう陛彥赴市曰:「此家ははしゅうと為之ためゆきわがわかゆうげん便びんとくざい於名きょう矣!」[5]

延伸えんしん閱讀

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 あかりまきひゃくじゅうさん》,出自しゅつじあかり

參考さんこう文獻ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ だん往錄》:「ときみかどなおいむきり曾於そお平台ひらだい召對,あいだあいだみかど嘆曰:『目今もっこん朝臣あそんどおりまかなえそと東西とうざい糜餉,內致吏兵徇私,國事こくじ紊淆,なまみん塗炭とたん,柰何?』ゆうがた於色。かんじょう聊為かいあざけ曰:『使つかいひがししょうとくじん,舉朝なん敢黷貨!つと苴之らいあるゆうしょ!』しょうしん王化おうかみんてきつくばい御座ぎょざ,聞之あせ浹背,駭極恨極。あきらまたあずかみんゆいめいゆうしょうしょう,於是內外ふけせん伺韓じょうかげ。」
  2. ^ あかり·薛國かんでん》:「みかどはつ憂國ゆうこくよう不足ふそく國觀こっかん請藉すけげん:『在外ざいがいぐん僚,しんとうにんざい內戚畹,獨斷どくだん不可ふか。』いん以武きよしほうこくみずためごとくにみずしゃこうていふとしきさきけいまごみかど曾祖母そうそぼ也。くにみずうす庶兄國臣くにおみ國臣くにおみいきどお,詭言『ちち貲四じゅうまんしんとうとく其半,こん請助こくためぐん貲。』みかどはつまこといんこくかんげんよくつきところげんよんじゅうまんしゃおうのり勒期げんおいあるきょうこくみず匿貲勿獻,拆毀きょだいひね什器じゅうきどおり衢鬻しめせ所有しょゆうよしみていはくしゅう奎與ゆうれんだいため請。みかどいかだつくにみず爵,くにみず悸死。有司ゆうしついやめ,戚畹みな危。よしすめらぎびょう交通こうつう宦官かんがんみやわらわ,倡言こうていふとしきさきやめためきゅうはちす菩薩ぼさつ空中くうちゅうせめみかどうすがいしょ皇子おうじつきとう夭,くだ神於こうのすめらぎにわか皇子おうじそつみかどだいおそれきゅうふうこくみずなな歲兒さいじそんぜんためこうつきかえところ納金のうきんぎん,而追恨國かんまちすき而發。」
  3. ^ だん遷《くに榷》まききゅうじゅうなな:「たかしただしじゅうねんろくがつみずのとじゅうななにち),あきらなみ各部かくぶ主事しゅじあきらくびせん吏部,疏上,うえてい先後せんごしめせ不測ふそくあきらいい薛國かんちゅう,恨次こつ。」戴笠《ふところりょうりゅう寇始おわりろくさいまつはたほろび妖孽》:「かんじょう薛國かん僉部,ゆたかたいじん引之入閣にゅうかくひろため首相しゅしょうじゅう一年行考選改授法,ぎょうじんあきらやめ吏部主事しゅじうえせいこう御下おしも,以破舊習きゅうしゅう進士しんしこうせんいれだいしゃはじむ玉田たまだとしみつげどうもとひょうえき如是にょぜしゃ比比ひひあきらあらため祠祭しさいいいこくかん所為しょいふか恨之。」
  4. ^ きよしさんかき筆記ひっき識上:「薛國かんすんで逮到,下獄げごく自分じぶん必不うたげしょじょうがいためそうけい。及夤よるみことのりいたなおいびきねむ家人かじん喚醒,くもがいゆうころもくれない銜詔しゃ國觀こっかんはじめ蹶然けつぜんきょう,曰:『われ矣!』倉皇そうこう覓小ぼうきれあおあたまぼうだいせん讀畢,以首ひたぶる,泣曰:『すめらぎじょう何處どこしんわか此?よくせきぼつしん不知ふちしんひんみみ。』またよびくれ銓曹あきらめい,詈曰:『われ必不おけなんじ!』とげ就縊。」《あかり·薛國かんでんのりせつ:「せんみことのり畢,(國觀こっかん頓首とんしゅ不能ふのうごえただしげんあきらころせわが』,乃就縊。明日あした使者ししゃかえそうまた明日あしたもと收斂しゅうれんかか樑者兩日りょうじつ矣。ほうすわ其贓きゅうせん沒入ぼつにゅうでんろくひゃくうねたくいち。」
  5. ^ だん往錄》: 「かんじょうらいきょうこうしんゆう內閣舉人中書ちゅうしょ松江まつえじんおう陛彥,こうためかんじょう心腹しんぷく,以舊情誼じょうぎいたりぐうといやす,稽事密談みつだんしょうやくまれむねみつ伺薛ていてきぐう彥,とりこそう下獄げごく。」りくふくしゃりゃくしゃきょくそうつなせつ:「たかしただしじゅうよんねん(1640)はちがつ,薛國かんたまもの中書ちゅうしょおう陛彥棄市,かくせき其家。」《玉堂きょくどう薈記》:「陛彥,松江まつえじんあきらおい也。赴市かたりじん曰:此家ははしゅうと為之ためゆきわがわかゆうげん便びんとくざい於名きょう矣。」

らいみなもと

編輯へんしゅう
かん
前任ぜんにん
りゅう宇亮
明朝みょうちょう內閣くび
1639ねん-1640ねん
つぎにん
范復いき