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夏言 - 维基百科,自由的百科全书

なつげん

明朝みょうちょう政治せいじ人物じんぶつ

なつげん(1482ねん—1548ねん),おおやけごうかつらしゅう江西えにし廣信ひろのぶけいけんひと明朝みんちょう政治せいじ人物じんぶつ正德しょうとくひのとうし進士しんしよしみやすしあいだかんいたりれい尚書しょうしょ武英たけひで殿どのだい學士がくしにん內閣くびためいむたかしところがいとえりゅうけいはつひらはんぶん

なつげん
夏言

なつげんぞうきよしいぬい隆年たかとしあいだ歷代れきだいめいしんぞうかい》)

だい明光めいこう祿ろく大夫たいふしょうでんけん太子たいしふとしれい尚書しょうしょ武英たけひで殿どのだい學士がくし
せきぬき 江西えにしうけたまわせん佈政使けいけん
ぞく かんぞく
ごう こう謹,ごうかつらしゅう
諡號しごう ぶん
出生しゅっしょう なりじゅうはちねん(1482ねんろくがつじゅうきゅうにち
京師けいし
逝世 よしみやすしじゅうななねん(1548ねん(65—66さい)) 處決
京師けいし
配偶はいぐう めとじょ,继娶詹氏
出身しゅっしん
  • 正德しょうとくねん庚午こうご舉人
  • 正德しょうとくじゅう二年丁丑科同進士出身
著作ちょさく
  • かつらしゅうしゅう

生平おいだいら

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なつげん臨清しゅうなつかなえ之子ゆきこ眉目びもく疏朗,鬚髯しゅぜん甚偉,のうげんぜんだん聲音こわねひろしあきら正德まさのりねん(1510ねん庚午こうごこう西鄉さいごうためしだいろくめい舉人,正德しょうとくじゅうねん(1517ねんのぼりちょううしさんかぶとさんめい進士しんし,授行人こうじんじゅう五年十月选授兵科给事中,历兵みぎよしみやすしななねん(1528ねんろくがつますれいひだりきゅうがつますにん兵科へいかきゅうごとちゅう,八年十二月改任吏科都给事中,けん议罢,厉行うみきん[1]すめらぎそうちからぬし歸還きかんおかせみんこれさん。九年十月升翰林院侍读学士,仍兼吏科给事ちゅうたかし经筵讲官,赐よんひんふく俸。じゅうねん(1531ねん)三月升詹事府少詹事、けん翰林院かんりんいん学士がくしてのひらいんごと,经筵讲如,七月以四郊工成,しょうれいひだりさむらいろう,仍兼学士がくしてのひら翰林院かんりんいんごと九月くがつせっがえときますにんれい尚書しょうしょ兼官けんかん如故,じゅういちねん太子たいしふとし[2]よしみやすしじゅうねん(1536ねんしょうしょうでん太子たいししょうなつごと正直しょうじき敢谏,いさむ于负责,ただしためじん自負じふおごあしなえ忤,遭忌於ちょうまことけいいむたかしいれかくつきなつげんおやとうよしみやすしじゅうよんねん(1545ねんじゅうがつむねさい以夏げん入閣にゅうかくまた遭嚴かさ[3]

よしみやすしじゅうねん(1547ねんこうむふる韃靼だったん部首ぶしゅりょうおれとうあせさんまん騎兵きへいしんはん三原みはら泾阳等地とうち陝西せんせい總督そうとく曾銑うえ《请复かわ套疏》:“贼据かわおかせ扰边ひなしょうひゃくねん”,請收ふくかわ套。なつごと大力だいりき支持しじ明世あきよそうつよし開始かいしまた雄心ゆうしん勃勃ぼつぼつ,诏答:“こん铣倡恢复议甚たけし,其令铣与诸镇しん悉心上方かみがたりゃくおさむ边费じゅうまん。”いむたかし谗於むねいい不可ふかけいひらきごと,疏称“铣以こう大喜だいぎこうしん,而为穷兵黩武举,在廷ざいてい诸臣みな不可ふかだいゆうしょかしこ明言めいげん”,また賄賂わいろはたかたきゆずる上書うわがき誣告ぶこくなつげん受曾ずくてき勾結。

よしみやすしじゅうななねん(1548ねん正月しょうがつ,以夏ごとこと任意にんい,迹涉きょうくんてき罪名ざいめい致仕ちし。這時おれとうりつ南下なんかおかせせん,严嵩じょう谗言,“はやさきなつごと、曾铣ひさげ议收复かわ,以致激怒げきどおれとう”。なつげんざいとおりしゅういま北京ぺきんとおりしゅう,聽說曾銑以“ゆい近侍きんじてき罪名ざいめいころせ,从车じょう堕落だらく痛哭つうこくどう:“噫!われ矣。”なつげんさいつぎじょう疏論冤,刑部おさかべ尚書しょうしょ喻茂けんひだりほふ提出ていしゅつりょうとうとのうためなつごともとめじょうみかど聽,かえ喻茂けんほふ罰俸ばっぽうねんじゅうがつ以“交结近侍きんじ罪名ざいめい斬首ざんしゅ[4]此無じんさい敢議ふくかわ套之ごとりゅうけい初年しょねん(1567ねんなつ家人かじん上書うわがき而得ひらはんつい復原ふくげんかんぶん[5]ちょゆうかつらしゅうしゅう》。

家庭かてい

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なつげんてき继室じょふう孺人逝,续娶苏氏。曾在よしみやすしじゅう五年请求朝廷破例,给予苏氏いのち妇的ふうてん[6]

なつげん曾經おさめわらわ,而妾ふところ孕,其正つま恨,於是はた她遣べつよめなましたいちなつげん死後しご妻子さいしなつげんてきしょう孩迎かい家中いえじゅうちょうとく很像なつごとただしひさ病死びょうしなつげんいん而絕[7]

家族かぞく

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曾祖そうそなつしん祖父そふなついんきょうじゅん检。ちちなつかなえぜんはは吴氏;ははただし。慈侍あにみなみやすおとうとぎょう(监生)[8]

参考さんこう文献ぶんけん

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引用いんよう

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  1. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき196):なつげんこう謹,けいじんちちかなえ,臨清しゅうげん舉正とくじゅうねん進士しんし,授行じん,擢兵きゅうごと ちゅうせい警敏,ぜんぞくぶん。及居げん,謇諤自負じふむね嗣位,疏言:「正德しょうとく以來いらい,壅蔽やめきょくこん陛下へいか維新いしん庶政しょせい,請日あさぶんはな殿どの閱章疏,召閣しんめんけつあること關大かんだい利害りがいのり廷臣ていしんしゅうむべはかりごと及褻ちかみちはつちゅうむねせいしょ予奪よだつまた必下內閣議かくぎ而後ぎょうぜっ壅蔽矯詐へい。」みかど嘉納かのうたてまつみことのり偕御ていほんおおやけ主事しゅじひろしぶんもり覈親ぐん及京まもる宂員,汰さんせんひゃくにんふくじょうきゅうこと以上いじょう。輦下ため肅清しゅくせいよしみやすしはつ,偕御樊繼とう按莊,悉奪還だっかんみんさん。劾中かんちょう霦、たてあきらこうちょうのべよわい,疏凡なな じょう。請改後宮こうきゅうかく莊田しょうだためおやかいこしょうおおやけ桑園そうえん,一切禁戚里求請及河南、山東さんとう奸人けんじ民田たみだおう しゃすくい逮永たいらともくるわきゅうさつきそうたてまつ夫人ふじんおとうと邢福うみ、肅奉夫人ふじんおとうと顧福,つてむね授錦ころもせんげん りょくそう不可ふかしょ疏率諤諤がくがくため人傳ひとづて誦。屢遷兵科へいかきゅうごとちゅうかんあおひつじ山平やまひらぞく功罪こうざいろんそう悉當。 副使ふくしうし鸞獲ぞくちゅう交通こうつう名籍めいせきげん請毀以安眾心。こうむねあされい吏、へい二部每季具兩京大臣及 在外ざいがい文武ぶんぶ方面ほうめんかん履歷りれきすすむ正德しょうとくややはい,以言請復ななねん調しらべ吏科。
  2. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき196):まことけい頤指いしひゃく僚,敢與こうしゃげん以受みかどどく不為ふためまことけい乃大がいげんちょうげんまた怨孚 けい驟用彭澤ためふとつねきょうみぎおのれ兩人りょうにんとげゆうすきげんこう疏劾孚けい及吏尚書しょうしょかたけんじおっとまことけいけんじおっと みな疏辨もとめみかど顧諸じんあつしためりょうかいげんすんであらわあずかまことけいけんじおっと、韜為なんえき強直きょうちょくあつゆいみかど よく輯郊れいためなりしょ,擢言侍讀じどく學士がくしたかし纂修かんちょくけいむしろこう,仍兼吏科きゅうごとちゅうげんまたさんみかどさら ていぶん廟祀びょうしてん及大禘禮,みかどえき。十年三月遂擢少詹事,けん翰林かんりん學士がくしてのひらいんごとじきこう如故。げん 眉目びもくうとろうよし鬚髯しゅぜん音吐おんとひろしとおるみさおきょうおんまい進講しんこうみかど必目ぞくよく大用おおゆうまことけいわたる甚,とげあずか 彭澤搆薛ただしごくしもげんほうやめみかどさとしまことけいきょく,乃罷まことけい而釋ごとはちがつよん郊工なり進言しんげんれいひだり さむらいろう,仍掌いんごと。踰月,だいため本部ほんぶ尚書しょうしょ諫官浹歲はいろくきょうぜん此未ゆう也。
  3. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき196):かなえしんやめ歿,翟鑾さいいれまことまことわかぞく吏然,敢少齟齬そご。而霍韜入てのひら詹事かずおさむ怨。以郭 勛與げんゆうすきゆいれいじょおのれさんにんしょう搆。すんで而韜げん、勛交あく自若じじゃくきゅうびょうわざわいげんかた以疾ざいつげ, 乞罷,まことあきらひじりふとしきさきくずれみことのりとい太子たいしふくせいげんほう疏有譌字。みかどきりせめごとげん謝罪しゃざい且乞還 やましみかどえきいかれい以少たもて尚書しょうしょだい學士がくし致仕ちしげんはじめ聞帝いかおのれうえあたりじゅうよんさく,冀以かいみかど曰: 「げんすんで蘊忠はかりごとなにけん自愛じあいちん眷倚,しゅうと不問ふもん。」はつことせんあお及他ぶんさいとうみかどげんやめどく翟鑾 ざいみかどしょきゅう也。及將いでまい西にしえん齋宮いつきのみや叩首しゃみかど聞而憐之,とくたまものしゅ饌,俾還わたしだいやまし,俟 いのちかいかく勛以げんかんじゅう劾,また引疾ざいつげ京山きょうやまこうちぇもとしんゆうちょうちょく內苑,勛。みかど從容しょうようといもと: 「げん、勛皆ちん股肱ここうそう妒何也?」もとたいみかどといげんなん,曰:「俟聖誕後,はじめ敢請。」またとい勛何 やまし,曰:「勛無やましげんそくみみ。」みかど頷之。げんかんみかど眷言あく勛,いんども劾勛。勛辨誖謾,みかど いかそぎ勛同ごとおう廷相せききゅうごと中高なかだかしゃげんしょあつ也,つきはつ勛貪たて不法ふほうじゅうすうこととげ勛獄,ふく ごとしょうでん太子たいしふとしれい尚書しょうしょ武英たけひで殿どのだい學士がくしやましいよいよにゅうじきげん雖在つげかくごとたっ勛獄,悉其ゆび授。じゅういちねんはる一品いっぴんきゅうねん滿みつるちゅう使つかいたまものぎんぬさたから鈔、ひつじしゅ、內饌,つきふく其官かい,璽書 すすむたまものえんれい尚書しょうしょさむらいろう陪侍。とうみかど雖優れいごとしかおん眷不及初矣。
  4. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき196):いくかわ套議おこりげん慷慨こうがい經濟けいざいもとおもえ建立こんりゅうこうよし陝西せんせい總督そうとく曾銑請復かわ套,さんけつかさあずかもと、炳媒孽其あいだ,竟以此敗。こうみやこじんつなしゃげん繼妻けいさいちち也,みやびあずかずくぜんずくかた請復かわ套,つな亟稱於言。げん倚銑辦,みつ疏薦いい羣臣如銑ちゅうしゃみかどれいげんなずらえむねゆうすすむこれしゃさいずくえき銳意えいい出師すいしみかどゆるがせくだむね詰責きっせき甚厲。かさ揣知みかどとげりょくげんかわ不可ふかふくおかせげんげん はじめだい謝罪しゃざい,且言かさ異議いぎこん乃盡諉於しんみかどせめげんきょうくんおびえ眾,かさみふくあが疏攻げんことまたちからべん。而帝やめにゅうかさ譖,いか不可解ふかかいじゅう七年正月盡奪言官階,以尚しょ致仕ちしなおころせ也。かいゆう蜚語ひご聞禁ちゅういいげんとき怨謗。かさふくだいかたき鸞草そう訐言おさめずくきん,交關ため奸利,ことれんつなとげずくつなみことのりごくかさあずかもと、炳謀,すわずく交結近侍きんじりつつな戍邊,かんこう逮言。げん抵通しゅう,聞銑しょすわだいおどろき墮車曰:「噫!われ矣。」さい疏訟冤,げん:「鸞方就逮,うえくださとし兩日りょうじつ,鸞何以知うえまたなにかさ疏而うららわか此。ぶたかさあずかちぇもとやからいつわり為之ためゆき以傾しんかさみしずげんいさおたがえきょうこうけんきょう下士かしおう莽, 奸巧ろうけん父子ふしせんせい司馬しば懿。ざい內諸しん受其ろうこめゆうかさ不知ふちゆう陛下へいか在外ざいがいしょしん受其箝制, またゆうかさ不知ふちゆう陛下へいかしん生死せいしがかりかさ掌握しょうあくおもんみ歸命きみょうせい慈,きょくたまもの保全ほぜん。」みかどしょうごくなり刑部おさかべ尚書しょうしょ喻茂けんひだりほふ僑等とうげん,援議のうじょう以上いじょうみかどしたがえきりせめしげけんとうだつ其俸,なお及言ぜん戴香かんむりごと。其年じゅうがつ竟棄げんつまりゅう廣西ひろせしたがえ主事しゅじかつうけたまわしたがえまごなおたからすすむちょうけいそぎせきためみんげん死時しにどきねんろくじゅうゆうなな
  5. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき196):げんごう邁有俊才しゅんさい縱橫じゅうおうべんはくにん莫能こごめすんで受特眷,揣帝よく臣下しんかとうとげあずかしょれい 貴人きじんこうみかど以為とうぐうえきあつししかそつためいむたかししょ擠。げんかさ及天久乃ひさの惜言しゃ。而言しょ推轂じょかいそつのうかさためめいしょうりゅうけい初年しょねん,其家上書うわがきしろ冤狀,みことのりふく其官,たまものさいそうおくりなぶん愍。
  6. ^ あかり实录·むね实录·まきいちひゃくきゅうじゅうよんよしみやすしじゅうねん十二月じゅうにがつ[……]○おのれとり[……]○しょうでんけん太子たいしふとし师礼なお翰林院かんりんいん学士がくしなつげんそうしんよしみやすしじゅうねん太子たいしふとし给授诰命以来いらいまた历少しょうでん太子たいしふとしでん太子たいしふとし师四阶乞赐さんだい诰命またすえふうつま事例じれい凡继しつとめ许一人臣じんしん为给ごとちゅう时继しつじょふう儒人无何夭殁まためと苏氏いまやめさんじゅうねん沾封てんごと于两宫庆贺中宫亲かいこ大礼たいれいみなあずか其于しんわらわこれぶんまたゆうとくつきしゃおもんみじょうこう许上以其ひさしつかさくにれいこう劳续まことこれ
  7. ^ きよし·张廷だまひとし,《あかり》(まき196):“げんごう邁有俊才しゅんさい縱橫じゅうおうべんはくにん莫能こごめすんで受特眷,揣帝よく臣下しんかとうとげあずかしょれい 貴人きじんこうみかど以為とうぐうえきあつししかそつためいむたかししょ擠。げんかさ及天久乃ひさの惜言しゃ。而言 しょ推轂じょかいそつのうかさためめいしょうりゅうけい初年しょねん,其家上書うわがきしろ冤狀,みことのりふく其官,たまものさいそうおくりなぶん愍。げんはじめわらわゆうつま而嫁なまいちげんつまぎゃく,貌甚るいげん。且得かん矣,ゆるがせ病死びょうしげん竟無。”
  8. ^ 龚延明主めいしゅ编. てん一阁藏明代科举录选刊 とうてん校本こうほん. 宁波: 宁波出版しゅっぱんしゃ. 2016. ISBN 978-7-5526-2320-8. てん一閣藏明代科舉錄選刊.とうろく正德しょうとくじゅう二年丁丑科進士登科録》 なつげんぬき江西えにし广信贵溪县,軍籍ぐんせき國子くにこせい诗经,こう謹,ぎょうさんねんさんじゅうろくろくがつじゅうきゅうにちせい曾祖そうそしんいんきょうじゅん检。ちちかなえぜんはは吴氏;ははただし。慈侍あにみなみやすおとうとぎょう(监生)。めとじょ,继娶詹氏。江西えにし乡试だいろくめいかい试第いちひゃくよんじゅうきゅうめい

らいみなもと

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延伸えんしん阅读

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[]

  ざい维基ぶん阅读此作しゃ作品さくひん
 くにあさけんじちょうろく·まきじゅうろく》,出自しゅつじこげくにあさけんじちょうろく
 あかりまきいちひゃくきゅうじゅうろく》,出自しゅつじあかり

まいり

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かん
前任ぜんにん
とき
明朝みんちょうないくび
1538ねん-1539ねん
つぎにん
顧鼎しん
前任ぜんにん
顧鼎しん
明朝みんちょうないくび
1539ねん-1541ねん
つぎにん
翟鑾
前任ぜんにん
翟鑾
明朝みんちょうないくび
1541ねん-1542ねん
つぎにん
翟鑾
前任ぜんにん
いむたかし
明朝みんちょうないくび
1545ねん-1548ねん
つぎにん
いむたかし