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山城国 - 维基百科,自由的百科全书

山城やましろこく

日本にっぽん古代こだいれいせいこくやく現在げんざい京都きょうと南部なんぶ

山城やましろこくにち语:山城やましろこく山城やましろこくやましろのくに Yamashiro No Kuni */?),日本にっぽん古代こだいてきれいせいこくこれいちぞく京畿けいき区域くいき,为これいちまたたたえやましゅうあるぐすくしゅう山城やましろこく相当そうとう于现ざいてき京都きょうと南部なんぶきさきいん领地ない平安京へいあんきょう为仿长安あずからく型式けいしきしょ建造けんぞうまたたたえ雍州

山城やましろこく
ぐすくしゅうじょうしゅう
やましゅうさんしゅう
雍州(ようしゅう
日本にっぽんてきれいせいこく
すわ标:34°52′55″N 135°48′02″E / 34.8819°N 135.8006°E / 34.8819; 135.8006
所属しょぞく畿内きない
こんぞく京都きょうと南部なんぶ[1]
国府こくふ1.(推定すいてい京都きょうと木津川きづがわ
2.(推定すいてい京都きょうと京都きょうと
3.(推定すいてい京都きょうと长冈きょう
4.(推定すいてい京都きょうとおつ训郡大山崎おおやまざきまち
ぐん8ぐん78乡
国力こくりょくうえこく
225262せき(1598ねん
230131せき(1842ねん
国分寺こくぶんじ京都きょうと木津川きづがわ山城やましろ国分寺こくぶんじにち山城やましろ国分寺こくぶんじあと
国分こくぶ尼寺あまでら推定すいてい京都きょうと木津川きづがわ
いち贺茂别雷神社じんじゃ京都きょうと京都きょうと
贺茂祖神そしんしゃ京都きょうと京都きょうと

庆长さんねん1598ねん),すえふとし阁检てき统计,山城やましろこく此时てき总石だか225262せき[2]いたりょうこう户时だい末期まっきてき天保てんぽうじゅうさんねん1842ねん)时的总石だか统计为230131せき[3]

历史

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山城やましろ以前いぜんまたうつしさく山代やましろだい约7せい纪起以やま为名立国りっこくのべ13ねん(794ねん)11月7日当にっとう平安京へいあんきょう正式せいしき命名めいめい时,桓武かんむ天皇てんのう见此倚山はたすい,为天然てんねんてき要塞ようさい,于是おもしん命名めいめい为“山城やましろ[4]

开始时,山城やましろこくてき国府こくふくらい南山城みなみやましろてきあい乐郡すえ推断すいだんそく为现ざいてきしょう乐郡あずか山城やましろまち附近ふきんざい8せい前半ぜんはんかのう时转うつりりょういた葛野かずらのぐんだい致为现在てき京都きょうと右京うきょう太秦うずまさ右京うきょう西京にしぎょう极郡まち附近ふきんいたりょうのべ16ねん(797ねん)8がつ25にちいん葛野かずらのぐんてき狭隘きょうあい,于是迁移りょういた长冈きょう以南いなんてきおつ训郡だい致为现在てき长冈きょうみなみぐり冢遗迹)向日むこう上植野かみうえのまち

清和せいわ天皇てんのう贞观3ねん(861ねん)6がつ7にち国府こくぶさい转移いたおつ训郡てきかわ阳行宫かわ阳行宫为嵯峨天皇さがてんのうところ建造けんぞう目的もくてき为了抵御がい敌入おかせ,而政治せいじかい议亦ざい这里召开,位置いちだい致为现在てきおつ训郡大山崎おおやまざきまち

最初さいしょ设有国司こくし山城やましろまもる镰仓幕府ばくふ时期山城やましろこく设有まもり护所最初さいしょゆかり京都きょうともり兼任けんにん山城やましろこくまもりうけたまわ久之ひさゆきらんきさき,1221ねん~1333ねん ろく罗探题兼任けんにん此职,まもり护所也成为了ろく罗。宇治うじかわ为边かいざい室町むろまち时代初期しょきさむらいしょ兼任けんにんきさき仍设もり护,はた上面うわつら三郡和下面五郡割开,はた山城やましろ国一くにいちぶんきさき上面うわつら三郡的守护设置在宇治うじまきした五郡的守护所设置在よどみとうすう地方ちほう日本にっぽん战国时期设有武家ぶけ官位かんいてき山城やましろまもるゆかり松永まつなが久秀ひさひでざい内的ないてき战国大名だいみょう担任たんにんこう户时ゆかり藤井ふじい松平まつへい嫡流ちゃくりゅう当主とうしゅ及诸藩主はんしゅぶんすえ

こう户时だいてきはん

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こう户时だい山城やましろ国内こくないてきはん
はんめい 居城いじろ 藩主はんしゅ
よどみはん よどみじょうにちよどみじょう 松平まつだいら久松ひさまつ(3まん5せんせき、1623ねん—1633ねん
永井ながいにち永井ながい(10まんせき → 7まん3600せき、1633ねん—1669ねん
石川いしかわ(6まんせき、1669ねん—1711ねん
松平まつだいら(户田)(6まんせき、1711ねん—1717ねん
松平まつだいらだい给)(6まんせき、1717ねん—1723ねん
いねかのうにち稲葉いなば(10まん2せんせき、1723ねん—1871ねん
山城やましろ长冈はんにち高槻たかつきはん 长冈阵屋 永井ながい(1まん2せんせき、1633ねん—1649ねん
永井ながい转封いた高槻たかつきはんきさき废藩
ふく见藩にち伏見ふしみはん ふく见城 松平まつだいら久松ひさまつ(5まんせき、1607ねん—1616ねん
内藤ないとう信成のぶなりけいにち内藤ないとう(5まんせき、1617ねん—1619ねん
内藤ないとう转封为大阪城おおさかじょう城代じょうだいきさき废藩
御牧みまきはんにち御牧みまきはん 津田つだ(1まん3せんせき1600ねん1607ねん
いん藩主はんしゅぎょう为不とう而废はん

设施

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国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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国分寺こくぶんじあい乐郡加茂かもまちどう时建ゆうそうてらかずあん。其中きょうじん宫大极殿ざい746ねん时设为僧てら。此寺ざい882ねん烧毁,これきさき虽然じゅうけんただしこうおとろえ。1925ねん大正たいしょう14ねん)时在国分寺こくぶんじつくり边发掘出ほりだし大量たいりょうてきかわら认为古国分ふるこくぶ尼寺あまでらてきあと迹。

神社じんじゃ

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いちこれ京都きょうとてきじょうしも贺茂神社じんじゃそくきたてき贺茂别雷神社じんじゃうえ贺茂神社じんじゃ左京さきょうてき贺茂祖神そしんしゃしも鸭神しゃ),二社合为一宫。宫以存在そんざい

人物じんぶつ

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国司こくし

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やまもり时期

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ざい平安へいあんきょうおさむけんてき794ねんとし以前いぜん山城やましろこくてきげん国名こくめい为山こく,其主かんそく国司こくし为山もり。时间跨为飞鸟时だい末期まっき703ねんいた奈良なら时代结束(794ねん)。すえ日本にっぽんてき纪录,以知どうざい这约莫92ねんまと间,总共有きょうゆう17かん担任たんにん过该职位。

やまもり时期(飞鸟时代末期まっき奈良なら时代
姓名せいめい 任命にんめい时间 はちしょくせい とう时官 これ前官ぜんかん これきさきかん 备注
书大とも[5] 大宝たいほうさんねん703ねん)7がつ5にち せい きさきせいよん
さかごう三田みたあさ[6] かず元年がんねん708ねん)3がつ13にち 宿やど 三河みかわまもる
高向たこうしょくおっとさとし[7] かずねん709ねん) 11月2にち 朝臣あそん みぎへい卫督
大伴おおともいぬ[8] 天平てんぴょう胜宝元年がんねん749ねん) 8がつ10日とおか 宿やど じょう しょう纳言 播磨はりままもる かんいたりよん·讃岐さぬきもり
纪小かじ[9] 天平てんぴょう胜宝ねん750ねん) 3がつ12にち 朝臣あそん 东海どう巡察じゅんさつ使
こう圆广[10] 天平てんぴょうたからろくねん762ねん) 4がつ1にち 朝臣あそん 摄津あきら じょう·播磨はりままもる
日下部くさかべあさ[11] 天平てんぴょうたからはちねん764ねん) 1がつ21にち 宿やど せいじょう 上野うえのまもる よんじょう·播磨はりままもる
藤原ふじわらくろあさ[12] 天平てんぴょうたからはちねん764ねん) 11月5にち 朝臣あそん ひだり勇士ゆうし 播磨はりままもる
佐伯さえきすけ[13] 天平てんぴょうしんねん766ねん) 11月13にち 宿やど じょう やまかい 兵部ひょうぶだい かんいたりよん·こえきさきもり
榎井えのいしょう[14] かみ护景うんさんねん769ねん) 3がつ28にち 朝臣あそん じょう 宫内だい うえ总守 かんいたりせいじょう·みやつこ宫大辅
たちばな绵裳[15] かみ护景うんさんねん769ねん)3がつ28にち 宿やど ちゅう务少辅 じょう·だい判事はんじ 兼任けんにんかんいたりよんじょう右京大夫うきょうのだいぶ、“为王”たちばなたすく为之
藤原ふじわら种继[16] たからねん771ねん)9がつ16にち 朝臣あそん きん卫员がい少将しょうしょう せい·左京さきょう大夫たいふ 兼任けんにんかんいたりせいさんちゅう纳言けん式部しきぶきょうきさきせいいち太政大臣だじょうだいじん
大中おおなかしん继麻吕[17] たからななねん776ねん)3がつ6にち 朝臣あそん みぎ卫士员外 じょう·卫门
多治比たじひ人足ひとあし[18] てん元年がんねん781ねん)5がつ25にち 真人まさと じょう ·だい判事はんじ せいしゅ马头
大中おおなかしん诸鱼[19] のべよんねん785ねん)1がつ15にち 朝臣あそん せい しょう纳言 ひだりちゅうべん 兼任けんにんかんいたりせいよんじょう·まいり右大臣うだいじん大中おおなかしんきよしあさ吕之
三嶋みしまめい[20] のべねん786ねん)2がつ17にち 真人まさと じょう うちうまや あらためけん美作みさくまもる 兼任けんにん
きょ势嶋じん[21] のべきゅうねん790ねん)3がつ10日とおか 朝臣あそん ひだり卫士 兼任けんにん

山城やましろまもる时期

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平安へいあん时代山城やましろまもる时期
姓名せいめい 任命にんめい时间 はちしょくせい とう时官 これ前官ぜんかん これきさきかん 备注
藤原ふじわらおつあきら[22] のべじゅうよんねん795ねん)2がつ2にち 朝臣あそん よん まいり议、左京さきょう大夫たいふ あらためけんもり 兼任けんにんどう时兼さむらい从)
多治比たじひ继兄[23] のべじゅうはちねん799ねん)2がつ20日はつか 真人まさと よん ちゅう务大辅 神祇じんぎはく
藤原ふじわらなかしげる[24] のべじゅうはちねん(799ねん)9がつ10日とおか 朝臣あそん せい 治部じぶだい しゅ马头 兼任けんにんかんいたりよんまいり
藤原ふじわらおつあきら[25] のべじゅうねん801ねん)8がつ11にち 朝臣あそん さん 权中纳言ちゅう大将たいしょう あらためけん近江おうみまもる 兼任けんにん
藤原ふじわら绪嗣[26] のべじゅうさんねん804ねん) 2がつ18にち 朝臣あそん よん まいり议、みぎ卫士とく 畿内きない观察使 兼任けんにんかんいたりせい左大臣さだいじんきさきいちしょう山本やまもと大臣だいじん
藤原ふじわら继业[27] のべじゅうねん806ねん) 1がつ28にち 朝臣あそん せいじょう 兵部ひょうぶだい 左京さきょう大夫たいふ大和やまとまもるさむらい 兼任けんにん
藤原ふじわら继彦[28] 大同だいどうねん810ねん)9がつ10日とおか 朝臣あそん よん みんだい よんじょう·刑部おさかべきょう かんいたりさん刑部おさかべきょう
安倍あべだか[29] うけたまわ元年がんねん834ねん)1がつ12にち 朝臣あそん せい

ぐん

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图集

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まいり

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 山城やましろ地域ちいき紹介しょうかい. 京都きょうと. [2018-09-07]. (原始げんし内容ないようそん于2018-09-08). 
  2. ^ 野中のなかじゅん とう. だい日本にっぽん租税そぜいこころざし ちゅうまき』「慶長けいちょうさんねん總高そうだか. 金沢かなざわぜい务调查会. 明治めいじ41ねん7がつ: p.502 [2022-07-28]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-28). 
  3. ^ 胜海ぶね. 海舟かいしゅう全集ぜんしゅう. だい3かん『吹塵ろく』の「天保てんぽうじゅうさんねん全国ぜんこく石高こくだか内訳うちわけ. 改造かいぞうしゃ. 昭和しょうわ2ねんいたり4ねん: p.154 [2022-07-28]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-28). 
  4. ^ 山城やましろこく. 朝日新あさひしん闻社Kotobank. [2018-09-07]. (原始げんし内容ないようそん于2018-09-08). 
  5. ^ 日本にっぽん·まきさん》:“あきなながつかぶとうま。诏曰。‘せき帐之设。国家こっか大信たいしん。逐时变更。诈伪必起。むべ庚午こうごねんせき为定。さら改易かいえき。’以从五位上大石王为河内守。せい五位下黄文连大伴为山背守。……”
  6. ^ 《续日本にっぽん纪·まきよん》:“丙午ひのえうま。以从四位上中臣朝臣意美麻吕为神祇伯。……从五位下坂合部宿祢三田麻吕为山背守。……”
  7. ^ 《续日本にっぽん纪·まきよん》:“じゅういちがつきのえとら。以从三位长屋王为宫内卿。从五位上田口朝臣益人为右兵卫率。从五位下高向朝臣色夫智为山背守。……”
  8. ^ 《续日本にっぽん纪·まきじゅうなな》:“からしひつじ。以从五位下大原真人麻吕。石川いしかわ朝臣あそんゆたかじん。并为しょう纳言。……从五位上大伴宿祢犬养为山背守。……”
  9. ^ 《续日本にっぽん纪·まきじゅうはち》:“かのえ。以正四位下多治比真人占部为摄津大夫。从五位下纪朝臣小楫为山背守。……”
  10. ^ 《续日本にっぽん纪·まき廿にじゅうよん》:“なつよんがつかのえいぬついたち以外いがい从五位下山田连古麻吕为主税助。……从五位下高圆朝臣广世为山背守。……”
  11. ^ 《续日本にっぽん纪·まき廿にじゅう》:“おのれ。以正五位下山村王为少纳言。……せい五位上日下部宿祢子麻吕为山背守。……”
  12. ^ 《续日本にっぽん纪·まき廿にじゅう》:“じゅういちがつつちのえいぬそと益田ますだ连绳しゅすんもと环并授从。从五位下藤原朝臣黒麻吕为山背守。……”
  13. ^ 《续日本にっぽん纪·まき廿にじゅうきゅう》:“みずのとひつじ。从四位下藤原朝臣枫麻吕为右大辨。……从五位上佐伯宿祢助为山背守。……”
  14. ^ 《续日本にっぽん纪·まき廿にじゅうきゅう》:“へいさる。敕。えんゆう所思しょし大赦たいしゃ天下でんかかみ护景うん三年三月廿八日昧爽以前杂犯大辟罪以下。つみ无轻じゅうやめ发觉。发觉。やめ结正。结正。つなぎしゅう见徒。及强窃とう。咸赦じょ。其八しいたげわたし铸钱。つね赦所めんしゃ不在ふざい赦限。”以从五位上榎井朝臣子祖为山背守。”
  15. ^ 《续日本にっぽん纪·まきさんじゅう》:“おつ。以从五位下石川朝臣真守为少纳言。……ちゅう务少辅从五位下橘宿祢绵裳为兼山背守。……”
  16. ^ 《续日本にっぽん纪·まきさんじゅう》:“おのれ。以从五位下当麻真人永继为右少弁。……きん少将しょうしょう从五位下藤原朝臣种继为兼山背守。……”
  17. ^ 《续日本にっぽん纪·まき卅四》:“癸巳きし。以从五位下粟田朝臣人成为右少弁。……从五位下大中臣朝臣继麻吕为山背守。……”
  18. ^ 《续日本にっぽん纪·まき卅六》:“みずのとひつじ。以从五位下贺茂朝臣大川为神祇大副。……从五位上多治比真人人足为山背守。……”
  19. ^ 《续日本にっぽん纪·まき卅八》:“からし。以从五位下藤原朝臣弟友为侍从。……しょう纳言せい五位下大中臣朝臣诸鱼为兼山背守。……”
  20. ^ 《续日本にっぽん纪·まき卅九》:“ちょううし。从四位上纪朝臣古佐美为右大弁。……うちうまや头从五位上三嶋真人名继为兼山背守。……”
  21. ^ 《续日本にっぽん纪·まきよんじゅう》:“丙午ひのえうま。以从五位下巨势朝臣嶋人为山背守。ひだり卫士如故。……”
  22. ^ 公卿くぎょう补任
  23. ^ 日本にっぽんきさき·まきはち》:“きのえうませい六位上石川朝臣乙名复本位从五位下。从四位下多治比真人继兄为神祇伯。山城やましろまもる如故。……”
  24. ^ 日本にっぽんきさき纪·まきはち》:“からし。从四位下藤原朝臣园人为右大辨。大和やまともり如故。东宫でん从三位大伴宿祢弟麻吕为兼治部卿。せい五位下藤原朝臣仲成为大辅兼山城守。……”
  25. ^ 日本にっぽんきさき纪·まきじゅう》:“からしうし任官にんかんけんちゅう纳言したがえさん藤原ふじわらおつあきら、为山じょうもり。”
  26. ^ 日本にっぽんきさき纪·まきじゅう》:“みずのと。从五位下大宅真人继成为大监物。……まいり议从四位下藤原朝臣诸嗣为兼山城守。みぎ卫士とく如故。……”此应ゆう误,绪嗣ざい
  27. ^ 日本にっぽんきさき纪·まきじゅうさん》:“癸巳きし。从四位下藤原朝臣仲成为大和守。从五位上百济王镜仁为河内守。从五位下纪朝臣南麻吕为介。兵部ひょうぶだい辅正五位上藤原朝臣继业为兼山城守。……”
  28. ^ 日本にっぽんきさき纪·まきじゅう》:“丁未ていみえん迁都ごと人心じんしん骚动。仍遣使镇固势。近江おうみ浓等さん国府こくふ并故关。……从四位下藤原朝臣继彦为山城守。……”
  29. ^ 《续日本にっぽんきさき纪·まきさん》:“みずのと。以从真人しんじん兴宗为左しょうべん。……せい五位下安倍朝臣高继为山城守。……”