丞相じょうしょう沇(?—?),三さん国こく东吴丞相じょうしょう。梁りょう章あきら鉅推测可能かのう是ぜ许沇。
《三国志さんごくし》无丞相しょう沇记载,但ただし天てん玺元年がんねん(276年ねん)所しょ立りつ的てき《禅ぜん国山くにやま碑ひ》有ゆう“丞相じょうしょう沇”之の语。梁りょう章あきら鉅《三国志さんごくし旁つくり证》曰:“又また案あん<真ま诰>注ちゅう许长史し世よ谱云うん:吴丞相しょう许晏,字じ孝こう然しか,长史四よん世せい族ぞく祖そ也。”此许晏疑即そく丞相じょうしょう许沇,与あずか嘉よしみ禾二年出使辽东为公おおやけ孙渊所ところ杀的执金吾われ许晏不ふ是ぜ一いち人にん。丞相じょうしょう沇276年ねん前まえ后きさき为东吴丞相しょう,但ただし拜はい相しょう不ふ会かい早さ于凤皇元年がんねん(272年ねん)八月秋其前任丞相万まん彧卒そつ于任上之うえの时,罢相也不会かい晚ばん于天てん纪三さん年ねん(279年ねん)八はち月がつ张悌被ひ拜はい为丞相之あいの际。