(Translated by https://www.hiragana.jp/)
和春 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

和春かずはる

维基百科ひゃっか自由じゆうてき百科ひゃっかぜん

和春かずはる(?—1860ねん),あめてい赫舍さと满洲せい黄旗きはたひときよしすえはた领。

生平おいだいら

[编辑]

1853ねん咸豐さんねん在江あるえ南大みなみおお营任提督ていとく,1855ねん(咸豐ねん),偕福济疏劾袁甲さん,罢之,いのち和春かずはるせっかぶとさん统其军。夏秋なつあき连击败太平たいへいぐんとく诸军きゅうおさむ庐州(こんごうこえ),いたり十月克城陷将两年之庐州矣。诏嘉和春かずはるこうのう补过,赐马褂骑都じょう职。1856ねんだいいち江南こうなんだいやぶ,欽差大臣だいじんむかいさかえ败死,和春かずはるせっがえ欽差大臣だいじん職位しょくい(ちょうこく樑升にん江南えな提督ていとく),於1858ねん2がつ建立こんりゅうだい江南こうなんだいかこえこまてんきょう,设大营于沧波こう两门间,ごうたたえろくまん[1],于天きょうじょうがい挖掘ふか阔各约丈あまりてき长壕,绵亘ひゃくあまりさとなみうらない江浦えうらきゅう洑洲。咸丰きゅうねんなながつ,为急于攻かつきんりょう,添募せい锐一まんめい[2]いたり咸丰じゅうねんがつきむりょう迟迟かつ[3]

咸丰じゅうねん正月しょうがつ(1860ねん2がつ),太平たいへい军忠おう秀成ひでなり谋解てんきょう围,皖南いれ浙江せっこう突破とっぱ杭州こうしゅう外城とじょう[4],咸丰催促さいそく和春かずはる派兵はへいすくえ和春かずはるせわし总兵张玉りょう统兵いちまんさんせん余人よにん援救杭州こうしゅう太平たいへいぐんじょうきょ發起ほっき猛烈もうれつ進攻しんこう。1860ねんうるうさんがつ太平たいへいぐん二破江南大營ときあずかちょうこくはつ退すさもり鎮江さいどう退すさ丹陽たんようちょうこく樑出じょうひろ馮子ざい援兵えんぺい戰歿せんぼつ和春かずはるてんいたりつねしゅうちゅう弹负伤,逃往すずはつろくにち(5がつ26にちざい滸墅せきざいこん江蘇ちぁんすーくれけん缢。太平たいへいぐんぐんだいれんかつ丹陽たんようすず提督ていとくおう、总兵くまてんとう阵亡,たい沿岸えんがん俱被おさむおちい赵烈ぶん曾批ひょう和春かずはるこまもり卫,顾机よろし。”[5]

こと闻,诏念和春かずはるぜんこう,虽兵つくえしばしばくじけなおのう战捐むくろ,复原かんれい赐恤,骑都じょうけんうん骑尉ごう前世ぜんせい职并为とう男爵だんしゃく,谥忠たけしまつこう宁昭ちゅうほこら霍顺たけしこう选参はた,袭爵。

注釋ちゅうしゃく

[编辑]
  1. ^ とう风楼ぞうめい贤手さつ》,だいさつ,邵懿たつ致曾こくはんはこ
  2. ^ 东华续录·咸丰あさ》,かんはちなな
  3. ^ 《东华续录·咸丰あさ》,かん九有咸丰十年二月严旨斥责:“うえねん和春かずはる亲往つねしゅうあずかなにかつらきよししょう议筹饷,许乃钊又赴浙劝捐。はら为速かつきんりょうおこり见,乃仅かつきゅうしゅういち处,こと满意。わか及早图维,因循いんじゅんひさ,以后饷需难继,和春かずはる为统帅,其能とう此重とがめ耶?”
  4. ^ 平定へいてい粤寇纪略》,まききゅう,页12うん:“贼之扑杭しゅうただ图分わが兵力へいりょく,以解きんりょう围,不意ふいぜん设防,致为しょおちい以大营兵いたそく踉跄而逃。”
  5. ^ 赵烈ぶん: 《のうせいきょ》,咸丰じゅうねんさんがつじゅうきゅうにち记云:“复念はるなにかつらきよしにんあるそう进要こう利害りがいあるこまもり卫,顾机よろしへい饷足,きのえ于诸しょうすわ此两じん使つかいひゃく万生灵肝脑涂地,しげる原野げんや,虽寸はりつけ不足ふそく蔽辜矣。”