庚かのえ戌いぬ土ど断だん是これ东晋在ざい364年ねん举行的てき一いち次じ土ど断だん。
晉すすむ哀あい帝みかど隆和たかかず元年がんねん(362年ねん),大だい司つかさ马桓溫上書うわがき称しょう戶口とぐち凋寡,当とう时的郡ぐん相当そうとう不ふ了りょう漢かん朝ちょう的てき一いち郡ぐん,应该并省其職。興きょう寧やすし二に年ねん(364年ねん)春はる三さん月がつ初はつ一いち庚かのえ戌いぬ朔ついたち,大だい阅人口じんこう,令れい西部せいぶ北部ほくぶ士民しみん侨居在ざい东南的てき,都と以所在しょざい土ど著ちょ为斷。把わ户口编入所在しょざい郡ぐん县,是ぜ爲ため庚かのえ戌いぬ制せい[1][2]。