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孫恩盧循之亂 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

まごおん循之らん

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まごおん循之らん,簡稱まごみだれあずますすむすえねん發生はっせいてきいちみんへん事件じけん爆發ばくはつすすむやすみかどりゅうやすしさんねん(399ねん),結束けっそく於晉やすみかどななねん(411ねん),れきやくじゅういちねん。這次みんへんゆう五斗米ごとべいどうてき背景はいけいただし實際じっさい起因きいん人民じんみん不滿ふまんあずますすむ朝廷ちょうていてき統治とうちゆずるりょうしるべしゃ以乘而起[1]事件じけんいんりょうしるべしゃ而劃ぶんためまごおんこれらん」(399ねん-402ねん)及「これらん」(403ねん-411ねん),循是まごおんてきいもうとおっと兩次りょうじおこりごとひとし曾威おびえあずますすむ京師けいしたてやすしざいいまこう苏省南京なんきんさかい)。

まごおんみだれ

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背景はいけい

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まごおんこれまごしゅう家族かぞく後裔こうえい,其家世代せだい信奉しんぽう五斗米ごとべいどうまごおん叔父おじまごやすしいんはいもりきょうため學習がくしゅう方術ほうじゅつ吸引きゅういん庶人乃至ないし士族しぞく人士じんし信奉しんぽうさらいん而獲とうけんてきかい稽王司馬しば道子みちこ任命にんめいため官員かんいんたかしやすねん(398ねん),おうきょう叛亂はんらんまごたい以為あずますすむかいようくつがえほろび煽動せんどう百姓ひゃくしょう招集しょうしゅうしん眾,なみ很多さん地區ちく人民じんみんひびきおう事件じけん遭到かい稽內しゃ揭發,まごたいいん而遭司馬しば道子みちこしょ

まごおん及後逃到海上かいじょう召集しょうしゅういたひゃくじん,於是とう待機たいきかい復仇ふっきゅうりゅうやすしさんねん(399ねん),かい世子せいし司馬しばもとあらわしたれいさんかくぐん公卿くぎょう以下いかてんためかげきゃくてきかんやつうつりおけたてやすししょうさくらくぞく」以補充ほじゅう朝廷ちょうてい兵員へいいん[2]しか而此舉卻れいかくぐん庶都じゅうふん不滿ふまん[3]まごおんじゅん當時とうじ人心じんしん不穩ふおん,於是おこりへい叛晉。

經過けいか

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はつかさねかい

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まごおんさきあずか眾登りく進攻しんこううえおそれいま浙江せっこううえおそれ),ころせじょうおそれ縣令けんれいせっちょ進攻しんこうかい稽郡じょう山陰さんいんこん浙江せっこう紹興しょうこう),またころせ太守たいしゅおうしこりよし於三吳地區少有戰亂,にん們都ぼつ備戰,此各ぐんけんてきちゅうぐんもちふうつぶせこく內史桓謙臨海りんかい太守たいしゅ司馬しばたかし義興よしおき太守たいしゅたかしかくれ棄郡じょう逃。而當時とうじかい稽、くれぐんきょうえいよしみよし熙、臨海りんかい東陽とうようしんやす[需要じゅようしょう歧义]きょう八郡都同時有人舉兵響應孫恩,まごおんてき眾就いん而暴ぞういたりすうじゅうまんにんまごおんざいかい自稱じしょうせいひがし將軍しょうぐんつよ逼人們擔とう自己じこかんぞくはたてき團體だんたいさけべ做「長生ちょうせいじん」,まただいくだり殺戮さつりく及四しょ放火ほうか、搶掠。

よし當時とうじ三吳地區已成東晉朝廷的命脈[4]あずますすむ朝廷ちょうていそくいのちじょしゅう刺史しししゃりつぐん討伐とうばつまごおん兗州刺史ししりゅうろうまたりつぐん進攻しんこうさんしゃ琰先義興よしおきぐんむかい太守たいしゅかくれかえぐんまたげきはいくれおきぐんてきまごおん眾,あずかりゅうろうりょうぐんども進之しんの,很快就兵臨ぜに塘江まごおんはつ以為のうじょう八郡響應的聲勢拿下建康,ただしいたりりゅうろうりつぐんわたりぜに塘江まごおん就帶ちょじゅうまん眾東はしなみじょうりゅうろう軍隊ぐんたい搶奪眾留てき人口じんこう貨物かもつそう時間じかん逃走とうそうおわり逃到海島うみしまこれじょうせっちょまごおん於各ぐんてき餘部あまるべ消滅しょうめつ朝廷ちょうていいんため擔心まごおんかいさい來襲らいしゅう,於是とめしゃ琰駐ぼうかい稽。

さいかさねかい

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まごおん於隆やすよんねん(400ねんさいつぎ進攻しんこう並進へいしんぐんいたりはなれ山陰さんいんさんじゅうさとてき邢浦しゃ琰雖しかいちりゅう宣之のぶゆき擊退げきたいまごおんただしひさまごおんまた再來さいらいおさむなみげきはいすすむぐんおわりがつおのれ(7がつ7にち[5]おさむいたりかい稽,しゃ琰出せんただし戰敗せんぱいはんとばりとくちょうたけししょころせ朝廷ちょうていたいしゃ琰戰だいため震動しんどうまたりょうかんむりぐん將軍しょうぐん不才ふさい、輔國將軍しょうぐんまごおわり及寧ついたち將軍しょうぐんこう雅之まさゆき抵抗ていこうまごおんせんごといちちょく持續じぞくいたじゅういちがつ[6]りゅうろうりつぐん進攻しんこうまごおん,逼其さいつぎ撤回てっかい海島うみしま

きた逼京邑

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りゅうやすねん(401ねんがつまごおん再度さいどのぼりりく進攻しんこうあきらこん浙江せっこうやすしなみ),ためりゅうろうこれしょはいまたさい撤回てっかい海上かいじょうまごおん於是てんおさむ北面ほくめんてきうみしおこん浙江せっこうかいしお)。すすむしょうりゅうひろし於是いたうみしお築城ちくじょう抵抗ていこうなみ屢次げきはいまごおんまごおん知道ともみち無法むほうかち,於是あらためおさむ滬瀆くれこく內史袁山まつ於上いちねん就已修築しゅうちく滬瀆るいいま上海しゃんはい)以抵禦孫おん進攻しんこうただしまごおんかえおさむりょう滬瀆るいよんせんにん戰死せんし,袁山まつまたぐうがい

ろくがつかぶといぬまごおん循海どう到達とうたつかちけんこん江蘇ちぁんすー鎮江かち),やめゆうじゅう萬兵まんひょうせんそうろうせんまごおん臨近てき行動こうどう震動しんどうりょうたてやすし朝廷ちょうてい就下れいたてやすし內外戒嚴かいげん百官ひゃっかん入居にゅうきょだいしょうしろ內各ぐんまたちゅうもり要地ようち[7]しゅう刺史しし司馬しば尚之なおゆき也率ぐんにゅうまもるたてやすしまごおんざいのぼりりく,卻遭うみしおおいらいてきりゅうひろしりつぐんげきはいさらゆう很多じん墮崖ぐうおぼれまごおんまたただとく逃返船上せんじょうまごおん自恃じじ眾人數多すうた,於是ひさ就決定重さだしげせい旗鼓きこ進攻しんこうたてやすしたてやすしみん眾知まごおん逼近じゅうふん恐懼きょうく,而孫おんげんそうおさむ不備ふびただしろうせんいんためぐうふう而要慢行,れいいた臨近たてやすし司馬しば尚之なおゆきやめけいいれちゅうたてやすしりゅうろうまたかい稽趕らいまごおん於是繼續けいぞく前進ぜんしんはんきたはしいくしゅうこん江蘇ちぁんすー灌雲けん東北とうほく),解除かいじょりょうたてやすしてき危機きき

うたておとろえいたりはい

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及後りゅうひろしりつへい討伐とうばつつぎせん鬥後大破たいはまごおんぐんまごおん實力じつりょく於是よしもりうたておとろえ沿海えんかい退すさはしりゅうひろしまたりつぐん追擊ついげき,於じゅういちがつざい滬瀆、うみしおさいはいまごおんまご恩人おんじんいんてき損失そんしつすうまんけい逼再退すさまもり海島うみしまもときょう元年がんねん(402ねん),まごおんさいおさむ臨海りんかいぐん臨海りんかい太守たいしゅからしげきはいまごおんまごおんてき眾已けいしょあまりいくためめんすすむぐんせいとりこ,於是とう海自かいじころせ有數ゆうすうひゃくにんしたがえ一同いちどう自殺じさつまごおんみだれいたり結束けっそく

循之らん

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背景はいけい

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循本門閥もんばつ士族しぞく范陽てき子弟していすすむつかさそら從事じゅうじちゅうろうてき曾孫そうそん諶及其家じんざいえい嘉之よしゆきらんこうとめざい北方ほっぽう,其本じんさらざいこうちょう任官にんかんなみざい該國まつとしてき戰亂せんらんちゅうせい家族かぞくなみぼつゆうぞう琅琊おうとう士族しぞく般早ざいあずますすむ建立こんりゅうまえやめみなみわたり,而是ざいあずますすむ中葉ちゅうようざいみなみわたり於《すすむしょとう史籍しせきなか未見みけん循及循父任官にんかんしょく

循娶りょうまごおんてきいもうといもうと,就在まごおん自殺じさつ,其殘餘部あまるべ眾就推盧循為ぬし當時とうじとうせいてき桓玄為安ためやすなでけい受過さんねん戰亂せんらんてきさん吳地くれじ,於是任命にんめい循為えいよしみ太守たいしゅ循亦接受せつじゅ任命にんめい

經過けいか

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みなみ佔廣しゅう

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循雖しかやめけいなりため朝廷ちょうてい官員かんいんただし其部眾仍舊作きゅうさくらんもときょうねん(403ねん),りゅうひろし於永よしみぐんげきはい循,なみ追擊ついげきいたりすすむやすぐん循唯ゆう循海どうこうみなみ逃走とうそうもときょうさんねん(404ねん),循到たち南海なんがいぐんなみとうりく進攻しんこうへいむこう廣州こうしゅうしょばんこん廣東かんとん廣州こうしゅう)。廣州こうしゅう刺史ししかくれこれ堅守けんしゅじょうひゃくにち,於じゅうがつみずのえいぬ(11月26にち[5]よし夜襲やしゅう失陷しっかん入城にゅうじょう焚燒しゃ及民なまとりこかくれこれなみ自稱じしょうひらみなみ將軍しょうぐん廣州こうしゅうごと。另一方面ほうめん循又いのち姊夫じょみちくつがえおさむはじめおきぐんつぎねん(405ねん),循派使者ししゃ向東むかいひがしすすむ進貢しんこう當時とうじあずますすむ朝廷ちょうていざいつよしつよし消滅しょうめつりょう桓振りょうしるべてき桓氏殘餘ざんよ勢力せいりょく無力むりょく討伐とうばつ循,於是分別ふんべつ授予循和じょみちくつがえ廣州こうしゅう刺史しし及始きょうしょう職位しょくい循於獲得かくとくりょう廣州こうしゅう作為さくい根據地こんきょち

ねん(409ねん),りゅうひろしおやりつ軍隊ぐんたいきたみなみつばめじょみちくつがえ聽聞ちょうもん就勸循乘きょ襲擊しゅうげきたてやすしただし拒絕きょぜつじょみちくつがえ於是おや往番禺游せつ循:「到來とうらいみね外的がいてき原意げんい,哪會以此ため最終さいしゅう目標もくひょうなみいち直傳じきでんきゅう子孫しそん呢?就只いんためなん以與りゅうひろしためてき而已。現在げんざいりゅうひろしちゅうぐん堅固けんごてきしろ池之いけの不知ふちなんざいかいらいわが憑著手下てした這一ぐん思念しねんてきじん襲擊しゅうげきなにりゅうあつし這些じん簡直えき如反てのひら把握はあく這機かい而苟もとめいちにち安定あんていあさ廷就一直視你為心腹之患;わかはてりゅうひろしかちきゅうへいいちかいしかこう下書したがきちょう召你,りゅうひろし就會ちゅうあきら精兵せいびょうらい這,そく使以你てき神武じんむ,也恐怕擋じゅうりょう今日きょう這個機會きかい一定いってい不可ふか錯失,わかはて先取せんしゅたてやすし破壞はかいりょうてき根本こんぽんりゅうひろしそく使つかいみなみ也無しょ作為さくい。你若はて肯,わが就只こうりつはじめきょう兵力へいりょくちょくゆびひろ今江いまえ西にしきゅう)。」循至此雖しかねがいただしよし無法むほう駁倒じょみちくつがえただこう聽從ちょうじゅう

おさむしゅう

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じょみちくつがえ其實はややめいのちじんざいみなみやすしさん砍伐木材もくざい製作せいさく船艦せんかんなみざいはじめきょう賤賣,吸引きゅういんみん眾爭しょう交易こうえき,於是れい木材もくざい大量たいりょうせき聚亦無人むじん懷疑かいぎいたりろくねん(410ねん)循及じょみちくつがえ決定けっていおこりへいじょみちくつがえ就拿這些囤積てき木材もくざい造艦ぞうかん十日とおか完成かんせいりょう,於是循就りつぐん進攻しんこうちょうすなぐんげきはいりょう荊州刺史ししりゅうみちぶんまわし派出はしゅつてき軍隊ぐんたいじょみちくつがえ就攻みなみやすしいおりりょうあきらさんぐんかくぐんもりしょう棄郡逃走とうそうじょみちくつがえ於是沿贛江北上ほくじょう進攻しんこうひろなみ此取どういれ長江ちょうこう進攻しんこうたてやすし船隊せんたい很強もり

しゅう刺史ししなんじょみちくつがえりつぐん北上ほくじょう,就自ひろりつぐん抵抗ていこう當時とうじちょうふみ鄧潛さんぐんいんみやこすすむなに不要ふよう輕易けいいあずか決戰けっせんおう固守こしゅじょう以禦じょみちくつがえただしなに拒絕きょぜつ三月さんがつみずのえさる(5がつ9にち[5]なにあずかじょみちくつがえ於豫あきら作戰さくせんじょみちくつがえおけ強弩きょうどへい西岸せいがん小山こやま射擊しゃげきなんぐんてき當時とうじ吹大西風せいふうなにてきしょじょうてき小船こぶね吹向東岸とうがんじょみちくつがえ於是就以てき大船おおぶね逼向なんてきせんおわりれいなんぐんつぶせはいなにふし戰死せんし

はやざい循及じょみちくつがえ進攻しんこうしゅう朝廷ちょうてい就已けいきゅうきゅうちょう召仍ざいみなみつばめ都城みやこのじょうこうかたいま山東さんとうあおしゅう西北せいほくてきりゅうひろしかいあさ當時とうじりゅうひろしやめめつみなみつばめせい打算ださん進攻しんこうこうはた,聞訊就率ぐんみなみ。而何戰死せんしてき消息しょうそくさら震動しんどう朝廷ちょうてい當時とうじさら有人ゆうじん建議けんぎたいちょすすむやすみかど逃離たてやすし,往劉ひろしうらただざい知道ともみちじょみちくつがえなみぼつゆうりつこく進攻しんこうたてやすしざいぼつゆう實行じっこうりゅうひろしなん戰死せんしまたかい速度そくどいたりよんがつみずのと(5がつ20日はつか)就已かえしかいたてやすし

東下ひがししもたてやすし

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しゅう刺史ししりゅうあつしざい循起へい患病,いたり此時びょう癒,於是しゅうとこん安徽あんきとうぬりけんりつ萬水軍討伐盧循。循擊はいりゅうみちぶんまわししょ軍隊ぐんたい就兵こう荊州しょこうりょういま北江きたえりょう),じょみちくつがえのりじんこう循傳ばなし:「りゅうあつしてきへい很強もり成敗せいばい就看這いちせんりょうわが們應該合力ごうりょく消滅しょうめつわかはて此戰かち愁拿下江しもえりょう呀。」循因而與じょみちくつがえ會合かいごう一同いちどう迎擊げいげきりゅうあつしりょうぐんくわ落洲今江いまえ西にしきゅうけん東北とうほく江中えなか大戰たいせんりゅうあつしげきはいあずかすうひゃくにんむかいたてやすし撤退てったいとめてき大量たいりょう軍用ぐんよう物資ぶっし及士へいぜん循軍接收せっしゅう

循從俘獲てきりゅうあつしへい口中くちじゅう得知とくちりゅうひろしやめけいかえしかいたてやすし十分じゅうぶん恐懼きょうく,於是おもえ退ずさもりひろなみ下江しもえりょう,以荊しゅう對抗たいこう朝廷ちょうていしか而徐どうくつがえのりそうじょうかち進攻しんこうりょうたね建議けんぎそうりょう數日すうじつ循才聽從ちょうじゅうじょみちくつがえてき建議けんぎ。而劉あつし戰敗せんぱいてき消息しょうそくまたさいつぎ震動しんどうたてやすしいん當時とうじたてやすしもりぐんざいすうせんにん,而盧循卻ゆうじゅうまんにんさらゆうじゅうたけ高樓こうろうせん當時とうじしょかずらちょうみんはじめあきら主張しゅちょうあずかすすむやすみかど移駐いちゅう江北こうほくさく躲避,ただしりゅうひろしけんけつ反對はんたいみとめため人心じんしん惶惶,朝廷ちょうてい一旦いったんゆう變動へんどう國家こっか就會くずし瓦解がかいはじめあきら堅持けんじはて以為朝廷ちょうてい必敗,於是自殺じさつ

たてやすし戰役せんえき

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五月ごがつおつ丑日うしのひ(7がつ1にち[5]循到たちしん淮河こうりゅうひろし駐屯ちゅうとん石頭いしあたまじょう,其餘しょはたまたかくゆうたむろもりぐんりょく布置ふち完成かんせいりゅうひろし觀望かんぼう循軍,なみむかいすすむ表示ひょうじわか循軍於新ていこん江蘇ちぁんすーこうやすしけんみなみ石頭いしあたま城南しろみなみちょくおさむたてやすし不能ふのう抵擋,需要じゅよう迴避,且勝負しょうぶなんりょうただしわかはてちゅうはく蔡洲こん江蘇こうそこうやすしけん西南せいなん江中えなか),們就必然ひつぜんなりとりこ當時とうじじょみちくつがえ就向建議けんぎよししんちんいたり白石しらいしこん江蘇ちぁんすー南京なんきん石頭いしあたま城東北じょうとうきたあいだのぼりりくへい分數ぶんすうどう進攻しんこうりゅうひろししか而盧循為とくまんぜんこれさくねがいりつそく開戰かいせんはんそう按兵とうまちすすむしつつぶせ

りゅうひろし循已とまちゅう蔡洲,而石あたまじょうてきひょうやめ完成かんせい集結しゅうけつ,於是ようおそれおかすすむてきけいさく,砍伐樹木じゅもく建立こんりゅう木柵もくさく封鎖ふうさ石頭いしあたまじょう及秦淮河口かこうさくぼうもりまた修築しゅうちくりょうえつじょうこんこうやすし縣南けんなん),並建なみたて查浦、藥園やくえん、廷尉さん堡壘ほうるいふんへい戍守以防備ぼうびてきぐん循及伏兵ふくへいしん淮河こう南岸なんがんいのち老弱ろうじゃくへい眾佯おさむ白石しらいしこえげんようりつぜんぐん自白じはくせきおさむたてやすしりゅうひろし當時とうじおやりつりゅうあつし及諸かずらちょうみん抵禦進攻しんこう白石しろいしてき軍隊ぐんたいとめ沈林じょあかとくとめ戍南がんなみ命令めいれい們要堅守けんしゅ循及就焚查浦るい進軍しんぐんいたりはりこうきょうじょあかとくたがえいのちせん循預しつらえてき伏兵ふくへいしょはい,沈林於是あずかりゅうよりどころもり木柵もくさく抵禦循軍,ざいとくしゅよわいせき救援きゅうえんおわり逼退循軍。而盧循在此時就自りつ精兵せいびょう進攻しんこう楊郡じょうりゅうひろしかいぐん石頭いしあたまじょう斬殺ざんさつじょあかとくややこと休息きゅうそく就出じんしん淮河南岸なんがん當時とうじ攻略こうりゃくかくけん掠奪りゃくだつりょう物資ぶっしかん無力むりょく再戰さいせん,於是決定けってい退すさへいひろ盡力じんりょく奪取だっしゅ荊州。なながつ庚申こうしん(8がつ25にち[5]循率ぐん退すさかいひろ

荊州戰役せんえき

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當時とうじ西にししょくおう譙縱あずますすむ內亂出兵しゅっぺいいのち譙道ぶく及桓けんりつぐん進攻しんこう荊州,なみ請得しんりょうぜん將軍しょうぐん苟林すけせん [8]當時とうじ荊州刺史ししりゅうみちぶんまわしりょう司馬しばおう鎮之りょうぐんにゅう援建やすしただしおう鎮之ざいひろ就被苟林げきはい循因而以苟林ため南蠻なんばんこうじょうなみ分配ぶんぱい兵力へいりょくきゅうさく支援しえんいのち進攻しんこうりょうなみ假稱かしょうじょみちくつがえやめけいおさむたてやすし。苟林ちゅう於江りょう以南いなんてき江津ごうつ,而桓けん成功せいこう招集しょうしゅうりょう萬個仍支持桓氏的人,駐屯ちゅうとんえだこうこん湖北こほくえだけん),嚴重げんじゅうおびえこうりょう,而城ちゅう士民しみんまたふところしんさら有人ゆうじんあずか桓謙どおり訊,告訴こくそしろ虛實きょじつ作為さくい內應[9]とき雍州刺史しし魯宗りつすうせんにん支援しえんりょうりゅうみちぶんまわしいのち魯宗もりじょう自己じこ就率ぐん進攻しんこう桓謙,水陸すいりく並進へいしん大敗たいはい桓謙なみ斬殺ざんさつせっちょりゅうみちぶんまわしてんおさむ苟林,苟林へいはい逃,りゅうみちぶんまわしりょうはかさんぐんりゅう追擊ついげき,於ともえりょういま湖南こなんたけ斬殺ざんさつ苟林。

じゅうがつじょみちくつがえりつへいさんまん進攻しんこうりょうへいいたりやぶいま北江きたえりょう東南とうなん)。當時とうじ魯宗やめかえしかいじょうこん湖北こほくじょう),りゅうみちぶんまわしつい召也趕不かいらいれいりょう人心じんしんさいつぎ不穩ふおんしか而因ためりゅうみちぶんまわしげきはい桓謙焚毀さがせとくてきりょうどおりてき書信しょしん人民じんみんいんてきおんとく而沒ゆうはなれしんりゅうみちぶんまわしおやりつぐん於豫あきらこういま北江きたえりょう東南とうなん迎擊げいげきじょみちくつがえまたいのちりゅう作為さくいゆうぐんりゅうみちぶんまわししょてきぜんほこさき雖然しつただし主力しゅりょく接戰せっせんときりゅう遵所りつてき遊軍ゆうぐんそくがわよこげき,於是大破たいはじょみちくつがえころせまんじん死傷ししょうむごおもじょみちくつがえ逃至湓口(今江いまえ西にしきゅうけん西にし)。

しゅう戰役せんえき

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循回ひろしゅう刺史しし庾悅以虞おかすすむためぜん軀,屢敗循兵,並進へいしん佔豫あきら今江いまえ西にしみなみあきら),だん循糧どう。而盧循當蔡洲撤軍とめしょう范崇みんりつ五千人及百多艘高艦據守南陵なんりょうこん安徽あんき繁昌はんじょうけん東北とうほく[10],而劉ひろしまたおうなかいさおとうひと追擊ついげきみなため范崇みんしょ阻。じゅうがつ癸巳きし(11月26にち[5]りゅうひろしたてやすし出兵しゅっぺい討伐とうばつ循,おうなかとく大軍たいぐんざい,於是あずかりゅう鍾共おさむ范崇みん十一月じゅういちがつ,范崇民兵みんぺいはい逃走とうそうりゅうひろし及後進軍しんぐんかみなりなみじゅうがつおのれ(411ねん1がつ11にち[5]至大しだいかみなりしん逼盧循。つぎ循及じょみちくつがえりつすう萬人塞江而下,りゅうひろし於是つきけいかんりつかくぐん合力ごうりょく進攻しんこうなみ以勁いしゆみあつ逼盧循軍,逼盧循將船艦せんかんはくざい西岸せいがん,而時ちゅう西岸せいがんてきすすむぐん就向船艦せんかんほどこせ以火おさむ,於是大敗たいはい循,逼其退すさかえひろ循及後進こうしんいたりあきらなみ盡力じんりょく以木しがらみ阻斷ひだりさとこん鄱陽みずうみこう)。十二月じゅうにがつへいさる(411ねん1がつ28にち[5]りゅうひろしりつぐんいたりひだりさとため木柵もくさくもりぐんしょ阻,於是れい進攻しんこう循兵眾雖しかやめけい奮力作戰さくせんただし不能ふのう抵擋りゅうひろしてき攻擊こうげき循再はいすうまんにんじんほろび循只とくかえし廣州こうしゅうなみざい沿途收集しゅうしゅうりゅうてきへい眾,またすうせんにんじょみちくつがえまたはいかえりはじめおきぐん

敗亡はいぼう交廣

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りゅうひろしざい循撤還ひろ就大治水ちすいぐんなみいのちたてたけし將軍しょうぐんまごしょ及振武將ぶしょうぐん沈田りつへいさんせん,循海どうかさねばん禺,なみ同年どうねんじゅういちがつおさむ下番かばん禺,誅殺ちゅうさつ其黨眾,沈田また北上ほくじょう進攻しんこう其餘しょぐん。而在循敗於左さとみなみかえり廣州こうしゅうりゅうひろしまたりょうりゅうはんはじめふところだま追擊ついげきななねん(411ねんがつみずのえうま(3がつ15にち[5]はじめふところだまおさむかつはじめおきぐんころせじょみちくつがえ循於三月回到番禺後圍城試圖奪回番禺,ただしまごしょ抵抗ていこうりょうじゅうまちいたり四月沈田子援軍趕至,戰敗せんぱい逃走とうそう。沈田またあずかまごしょ追擊ついげき先後せんござい蒼梧そうごうつりんやすしうら三郡擊敗盧循,ただいんまごしょ患病ざい停止ていし追擊ついげき循於とう奔交しゅう

循在交州おさむおちい合浦がつぽぐんなみおさむこう交州しょりゅうへんいまこしみなみかわ)。循雖しか遭交しゅう刺史ししもりとしたびりつぐんげきはいただし仍有さんせんあまり眾,而先前作ぜんさくらんてきまえきゅうしん太守たいしゅへりくだ餘部あまるべだっとうひとまたりつ五千人歸附盧循,循於さいおさむりゅうへん,於よんがつかのえ子日ねのひ(6がつ1にち[5]いたりりゅうへんみなみもりとしつき家財かざい賞賜しょうしきゅうへいあずか作戰さくせんなみたい循的船艦せんかん擲火ほどこせ以火おさむ循軍おわりつぶせはい循投海自かいじころせもりとし撈起循屍たいなみ斬首ざんしゅれんどう其父嘏及だっとうじんどもなな首級しゅきゅう送呈そうていたてやすしいたり此,循之らん終結しゅうけつ

影響えいきょう

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  • まごおんおこりへい於三吳地くれじじょ戰爭せんそう以外いがいまたゆう擄掠たてこと對當たいとう造成ぞうせい重大じゅうだい破壞はかいまごおんみだれ平定へいていてきどう一年三吳地區大饑荒,ただし桓玄仍無りょく有效ゆうこうなで恤當人民じんみん,竟令當地とうち戶口とぐちげんはんそく使つかいとみじんまたただとくようちょ財寶ざいほう餓死がし
  • 出身しゅっしんひねぐんしゃてきしゃ於孫おんみだれちゅう戰死せんし,其位ゆかりりゅうろうだい,此後おわりあずますすむこれせいさい門閥もんばつ子弟していてのひらゆうじゅうへい。而門ばつ於三吳地區的莊園亦多受戰火毀壞,れい門閥もんばつ士族しぞく軍事ぐんじ經濟けいざいじょうてき力量りきりょうだいためそぎじゃく
  • りゅうひろし於孫おんみだれ雖然りゅうろうまとぞくやめひょう現出げんしゅつ傑出けっしゅつてき軍事ぐんじ才能さいのう。桓玄篡位またじゅうりゅうひろしてき軍事ぐんじ才能さいのうよせもちじょ自己じこ平定へいていはた不作ふさく加害かがい[11]こうりゅうひろしさきめつ桓楚ふくすすむ祚,さいめつみなみつばめさい平定へいてい叛亂はんらん聲望せいぼうやめだいだいひさげだかまたなり篡晉りつそうてき基礎きそ
  • りゅうあつしこうらいみとめため自己じこりゅうひろし[12]ざいなん戰死せんし就不ねがい聯合れんごうりゅうひろし自己じこりつぐん討伐とうばつおわり遭盧循與じょみちくつがえ合力ごうりょくこうげき大敗たいはいりゅうあつし此敗名聲めいせいだいくだりゅうひろしまたりゅうあつし於自おのれ,於是ざい循之らん平定へいていつぎねんぐん消滅しょうめつりゅうあつし勢力せいりょく

ちゅう

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  1. ^ 餘慶よけいあずますすむ門閥もんばつ政治せいじ》:「まごおんほん武力ぶりょく恃而居然きょぜんとく以起へいよし於門ばつ政治せいじそうしるべ致司もとあらわはつらくぞく,枉濫しゃ眾,驅逐くちく徙撥,叛殆つき』,いん造成ぞうせいりょうおこりへいてき便利べんり條件じょうけん
  2. ^ すすむしょ·司馬しばもとあらわでん》:「またはつひがししょぐんめんやつためきゃくしゃごう曰『らくぞく』,うつりおけ京師けいし,以充兵役へいえき。」
  3. ^ すすむしょ·司馬しばもとあらわでん》:「ひがし囂然,にん不堪ふかんいのち天下てんか矣。」
  4. ^ しょ·司馬しばあきら列傳れつでん》:「とくむね以來いらい,內外乖貳,石頭いしあたま以外いがいみなせん於荊、こうこう以西いせいそく受命じゅめい於豫しゅう京口きょうぐち暨於江北こうほくみな兗州刺史ししりゅうろうこれとうしょせいとくむね政令せいれい所行しょぎょうたださん而已。」
  5. ^ 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 りょうせんねんちゅう西曆せいれき轉換てんかん. [2012-05-22]. (原始げんし内容ないようそん档于2018-06-15). 
  6. ^ すすむしょ·やすみかど》:「ふゆじゅういちがつやすしさく將軍しょうぐん高雅こうが及孫おんせん於餘姚,王師おうしはい績。」
  7. ^ かんむりぐん將軍しょうぐんだかもととうもり石頭いしあたま,輔國將軍しょうぐんりゅうかさねだん淮口,楊尹司馬しば恢之戍南がんかんぐん將軍しょうぐん桓謙とう備白せきひだりまもる將軍しょうぐんおう嘏等たむろ中堂なかどう
  8. ^ すすむしょ··姚興でん》:「譙縱其侍ちゅう譙良、ふとしつね楊軌あさ於興,請大舉以寇江東こうとう其荊しゅう刺史しし桓謙、やなしゅう刺史しし譙道ぶくりつまんひがし寇江りょうきょう及遣ぜん將軍しょうぐん苟林りつかい
  9. ^ そうしょ·りゅうみちぶんまわしでん》:「はつけんいたりえだこうこうりょう庶皆あずかけんしょげんじょう虛實きょじつ,咸欲はかりごとため內應。」
  10. ^ そうしょ·みかどじょう》:「循初蔡州みなみはしとめ其親とう范崇みんせんにんこうかんひゃくあまり,戍南りょう
  11. ^ そうしょ·みかどじょう》:「あるせつげん曰:『りゅうひろしりゅうこうとら瞻不凡,おそれ不為ふためじんむべはやため其所。』げん曰:『わがほうほしひらとろけ中原なかはらりゅうひろし不可ふかづけ大事だいじせき、隴平定へいていしか當別とうべつみみ。』
  12. ^ すすむしょ·りゅうあつしでんりゅうあつしこうりゅうはんげん:「わがいちこうしょう推耳,なんじ便びんいいわが及劉裕也ゆうや!」

參考さんこう資料しりょう

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  • すすむしょ·まきいちひゃく》(まごおんでん及盧循傳)
  • どおりかん》(まきいちひゃくいちじゅういちいたりいちひゃくいちじゅうろく
  • 中國ちゅうごく歷代れきだい戰爭せんそう·だいさつ