末すえ哥(?—?),元もと睿宗拖雷的てき第だい九きゅう子し。
贵由死し后きさき,末まつ哥与拔都等ひとし定てい议立蒙こうむ哥为汗。从蒙哥伐南みなみ宋そう,末すえ哥别将しょう一いち军,由ゆかり洋よう州しゅう入にゅう米べい仓关,得とく到いた便宜べんぎ行事ぎょうじ的てき权力,速そく哥、李り庭にわ诸将都と受他节制。 蒙こうむ哥在合ごう州しゅう死し后きさき,忽ゆるがせ必烈正せい在ざい围攻鄂州,末すえ哥密使し来らい告つげ蒙こうむ哥之死し,请他北きた还。忽ゆるがせ必烈班はん师至卫州,遣や赵良弼到いた京きょう兆ちょう府ふ,访察秦しん蜀しょく的てき人情にんじょう向背こうはい。赵良弼报称しょう末まつ哥竭心こころ翼つばさ戴,可か以将六盘及东西川军事委任给他。忽ゆるがせ必烈即位そくい,推恩宗室そうしつ,赐末哥银三さん千せん五ご百ひゃく两。不ふ久ひさ,末まつ哥卒。子こ永えい宁王昌あきら童わらわ。