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苗劉兵變 - 维基百科,自由的百科全书 とべ转到内容ないよう

なえりゅうへいへん

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なえりゅうへいへん
にちみなみそうこうはじめけんえんさんねん(1129ねんさんがつ
地点ちてん
杭州こうしゅうなえりゅうへいへん同年どうねんじゅういちがつますかくため臨安[1][說明せつめい 1]
结果 受兵變壓へんあつりょくこうはじめ讓位じょうい未滿みまんさんさいてきちょうぎょうざい杭州こうしゅうてき中央ちゅうおう政府せいふ赤心せきしんぐんひかえせい,仍忠於趙構的官員かんいん趁機聯絡れんらくはん鎮。
各地かくち將領しょうりょう紛紛ふんぷん出動しゅつどう勤王きんのうなえりゅう二人ふたり逃亡とうぼうためかんただし捕獲ほかくざいたてやすしはりつけ而死。
まいり战方
赤心せきしんぐん みなみそう中央ちゅうおう政府せいふ
ゆび挥官あずか领导しゃ
なえでん 處決
りゅうただし 處決
おうおさむ
うまやわらきち
おうひとしはじめ
ちょう
なえ
なえ
ちょう
亂軍らんぐん擁立ようりつ
そうこうはじめちょう俘)
りゅうゆうふとしきさき
おうふかし
しゅまさる
かんまことこれ
ちょう
かんただし
ちょうしゅん
りゅう光世みつよ
りょ頤浩
兵力へいりょく
しょう しょう
しょう

なえりゅうへいへんまたたたえりゅうなえへんあかり受之へんけんえんさんねん(1129ねんゆかりなえでんりゅうただし發動はつどう誅殺ちゅうさつそうこうはじめちょう構寵こうてき權臣けんしん及宦かんきよしくんがわなみ逼迫ひっぱくそうだか宗將むねのぶ皇位こうい禪讓ぜんじょうきゅうさんさいてきすめらぎ太子たいしちょうてきへいへんへいへん消息しょうそくでん出後いずごなえりゅう二人沒有採取進一步的措施,各地かくち將領しょうりょう紛紛ふんぷん採取さいしゅ勤王きんのうたいららんてき立場たちば出兵しゅっぺい鎮壓ちんあつなえでんかずりゅうただし彥見きょくいきおいしつひかえせいれんせわしたてまつそうだかむね復辟ふくへき最後さいご兩人りょうにんはいざいたてやすしすん

背景はいけい[编辑]

けんえん元年がんねん(1127ねん),そう徽宗赵佶だいきゅう赵构ひびきおう國家こっかこうかね情緒じょうちょ即位そくい於宋きん前線ぜんせんてき应天宋朝そうちょう南京なんきんいま河南かなんしょうおかいまこう苏省南京なんきん),しょうそうだかむね

赵构即位そくい以來いらいちょうさいわい宣政のぶまさ使かねしゅう觀察かんさつ使いれ內侍しょう押班かんくつひとし宦官かんがん驕奢きょうしゃさくみだれ,引起許多きょた人的じんてき不滿ふまんこうとくぐん節度せつど使おうふかし受高むねちょうこうあずか宦官かんがん勾結而節ぶしだかますとううえ營使つかさ統制とうせい簽書樞密院すうみついんごと,聚斂ぜにざいさがせ刮民あぶらみんあぶらけんえんさんねん(1129ねんがつきむへい進攻しんこう慌忙建議けんぎしたがえおうてん逃到あげしゅうさいいた鎮江まとだかむね逃到杭州こうしゅう名義めいぎじょう巡視じゅんし),本人ほんにんせめだん[2],卻把せんせん拿來運送うんそう自己じこてき財寶ざいほう,致使すう萬宋兵及戰馬失陷敵營,當時とうじろう百姓ひゃくしょう便びん耳語じご相傳そうでん船上せんじょうてき財寶ざいほうおうふかしざい平定へいていちんとおるとき,濫殺とみじんさがせ刮而らいてき[3]。而行ぐん過程かていちゅうかんくつとう宦官かんがんさくさくぶくつようらないみんたく[4]ずいぐんてきなえでんいきどお恨不平地ひらちせつ:「陛下へいか顛沛流離りゅうりいたり此,些人居然きょぜんかえ敢如此。」手下てしたちょう激怒げきどぐん:「わかのうころせおうふかし及那ぐん宦官かんがんのり大家たいか以過こう日子にっし朝廷ちょうていまた怎麼かいざい於我們呢?」

這時ただゆうなえでんてき軍隊ぐんたい護衛ごえいざい杭州こうしゅうてきだかむねかんただしちょうしゅん楊沂ちゅうりゅう光世みつよとうぶんもり其他要害ようがいため政變せいへん提供ていきょうりょう良好りょうこうてき條件じょうけん[5]

おうふかしてき錯本应受到げん處罰しょばつただしいん交結宦官かんがんこうはじめただめんりょうくるる密使みっしてき職位しょくいぼつ有作ゆうさく其他げん厲的處分しょぶんげきおこり許多きょたぐんかん大夫たいふてき不滿ふまん扈從こしょう統制とうせい武功ぶこう大夫たいふかなえしゅうだんねり使なえでん自負じふ家族かぞく功勞こうろう很大,不滿ふまんおうふかし扶搖直上ちょくじょう武功ぶこう大夫たいふたけししゅう刺史ししりゅうただし彥雖おうふかしつつみ拔的,卻也不滿ふまんおうふちちょう召他てきへい[6]兩人りょうにん不滿ふまんおうふかし宦官かんがんてきさくさくぶく便びんざいぐんちゅう不滿ふまんてき情緒じょうちょゆかり於軍中大ちゅうだい華北かほくひと,也厭あく宦官かんがんいん此二人得到了很多人的響應。なえでんあずか幕僚ばくりょうちゅう大夫たいふおうおさむおうひとしはじめちょう逵、うまやわらきちりつりょうてき赤心せきしんぐん議定ぎていさきころせりょうおうふかしさい除去じょきょ宦官かんがん[7]なえでん告知こくちおうふかし臨安縣境けんきょうゆう盜賊とうぞく希望きぼうおうふち同意どうい出動しゅつどう部隊ぶたい[8][9]

這時,宦官かんがんやすしくつてき侍從じじゅういたみつむくい有一ゆういちちょう疑似ぎじほしへいへん造反ぞうはんてき文書ぶんしょうえあたまゆう統制とうせいかん押,統制とうせい官金かんきん押」てき押字,「」就是「なえ」,「かね」就是「りゅうてきだいごうかんくつみつほうだかむねこうはじめよう找來宰相さいしょうしゅまさるなみ使通知つうちおうふかし[10]かんくつ表示ひょうじなえでんひとしじん近來きんらい聚集ざい天竺てんじくてら附近ふきん現在げんざいおわり於知どうりょう們的企圖きとなみ告知こくちおうふちなえりゅう所謂いわゆる郊外こうがいゆうぞくゆずるへい出外ではずれてきくち[11],於是とうばんおうふかし埋伏まいふくりょうひゃく精兵せいびょう在天ざいてん竺寺がい城中じょうちゅうおどろき慌,きょみんみな閉門へいもん出入でいり[12]

过程[编辑]

へいへん[编辑]

へだたてんなえでんかずりゅうただし彥在城北しろきた橋下はしした埋伏まいふく兵士へいしとうおうふかし退すさあさはた其拖下馬げばりゅうただし彥將其親しゅころせずい包圍ほういりょうかんくつてき住處すみかだい肆捕ころせ宦官かんがんなみかけちょおうふちてき首級しゅきゅうりつぐんしんかこえ皇宮こうぐうへい臨城[13][14],這時だかむね也慢慢得悉叛亂はんらんてき消息しょうそく守宮やもりもん的中てきちゅうぐん統制とうせいじんかず叛軍はんぐん私通しつう引導いんどうなえでんてき手下てしたしんじょうこう喊「なえでんまけこくただため天下でんかじょがい。」[15]杭州こうしゅうごとかんまことこれおびちょ百官ひゃっかん,請宋だかむねいたしろろうじょう安定あんてい軍民ぐんみんいやのり無法むほう停止ていし叛亂はんらん[16]こうそうのぼる上城かみしろろう,憑欄といなえでんたいへい造反ぞうはんてき原因げんいんなえでんりょうだかむね,仍然やまよびはい[17]ずいそく厲聲ゆびせめだかむね信任しんにん宦官かんがんゆい交宦かん就可獲得かくとくだかひろしはくせんぜん昏庸あやまくに卻尚ながれおうふかしぐうてき不能ふのう有效ゆうこう抵抗ていこう,卻因ゆい交康くつ而得いた樞密すうみつてき高位こうい自己じこりついさおしょう,卻僅かんいたりはるかぐんだんねり使なみ表示ひょうじやめけいころせりょうおうふかしなみころせりょう在外ざいがいてき宦官かんがん脅迫きょうはくだかむねころせりょうかんくつあい曾擇三個最親近的宦官以謝三軍[18]こうはじめ回答かいとうわか宦官かんがんゆう錯可はたながれ海島うみしまなみしたがえそく任命にんめいなえでんためうけたまわせん使營使つかさ統制とうせいりゅうただし彥為觀察かんさつ使及御營使ふく統制とうせい希望きぼう政變せいへん就此ひらいき[19]ただし叛軍はんぐんなみ退去たいきょなえでんかえこう喊如はてただそうますかんただよう連絡れんらく宦官かんがん就好りょうなに必來此?[20]こうはじめ詢問身邊しんぺん近臣きんしんてき意見いけん主管しゅかんりょう浙西やすなで使機宜きぎ文字もじときまれはじめせつ災禍さいかよし宦官かんがん造成ぞうせいてきわか宦官かんがんぜんころせりょう就無ほうひらいきこうはじめりょうしゅぐんかんむねせつ:「陛下へいかなん必珍惜康くつ?」こうはじめただこうようちく籃將やすしくつたれつるし下城げじょう交給叛軍はんぐん馬上もうえ遭到叛軍はんぐんこし[21]なえりゅうひとしまたざい城下じょうか喊道:「陛下へいかてき地位ちいらい不正ふせい以後いご如果欽宗歸來きらいはたなに以自しょ?」[22]

こう宗派しゅうは宰相さいしょうしゅまさる下城げじょう叛軍はんぐん談判だんぱんなえでんひとし請求せいきゅうりゅうゆうふとしきさきたれすだれ聽政以及與きんこく[23]こうはじめただこうこたえおうしもみことのり請隆ゆうふとしきさきたれすだれ聽政,なえりゅう二人聽詔竟拒絕下拜,しんいち要求ようきゅうだかむね退位たいいさくりつねん僅三歲的皇子魏国公ちょうためみかど[24]ちょう逵還引用いんよう孟子もうし》「みんためとうと社稷しゃしょくきみためけいてき說法せっぽう要求ようきゅう今日きょうことおう社稷しゃしょく百姓ひゃくしょう為重ためしげ[25]なみ表示ひょうじやめゆうそう徽宗てき先例せんれい群臣ぐんしん議論ぎろん紛紛ふんぷんゆうてき支持しじだかむね接受せつじゅ退位たいいてき條件じょうけんゆうてき大力だいりき斥責叛軍はんぐん當時とうじ天氣てんき寒冷かんれいこうはじめすわざいしろろうぼつゆうしとねてきたけ椅上,じん請太きさき,就立楹一側而不就坐,百官請他上坐,のり表示ひょうじわがやめけいはいすわ這個りょう」。[26]

ひさりゅうゆうふとしきさきまえらいねがい登樓とうろう希望きぼう直接ちょくせつ出城でしろやすしなで叛軍はんぐん,百官皆認為此舉危險,擔心叛軍はんぐんはさみもちふとしきさきしゅまさる獨力どくりょくはい眾議,說明せつめい叛軍はんぐん必不敢如此,はん而可藉此們的企圖きと[27]於是ふとしきさきじょう出城でしろなえりゅうはいせつ:「百姓ひゃくしょう無辜むこ生靈いきりょう塗炭とたん希望きぼうふときさき出來でき穩定局面きょくめん。」[28]ふとしきさきなる頰:「みちくん皇帝こうてい(徽宗)任用にんよう蔡京おうとう奸臣かんしん隨意ずいい更改こうかい祖宗そそう法度はっとわらわぬきまた妄圖あずかかね聯合れんごうめつりょうこくざい造成ぞうせいりょう今日きょうてき局面きょくめん,跟今上きんじょう皇帝こうていゆう甚麼いんも關係かんけい當今とうぎん皇帝こうてい神聖しんせい孝明たかあきただひろしはくせんぜんところ貽誤,現在げんざい兩人りょうにん也都放逐ほうちくりょうりょう統制とうせいなんみち不知ふちどう?」[29]なえでん強硬きょうこうせつ:「わが們已けい討論とうろんこうりょう不可ふか猶豫ゆうよ。」ふとしきさきせつ:「すんでしか如此,わが當今とうぎん聖上せいじょういちどう執政しっせい。」なえでん堅持けんじようはい掉高むねさくりつ幼子おさなご赵旉ふとしきさき表示ひょうじ就算うけたまわ平之ひらの,以一婦人和幼子也難以執政,さらなんきょう當時とうじせい值與きんこくてき戰爭せんそう[30]なえでんひとしのり軟硬けんほどこせさきせつ如果ふとしきさきしたがえ們要とうじょうかいころも就戮,後來こうらいまたおびえさんぐん可能かのうせいへんなみ要求ようきゅうざいじょうてき宰相さいしょうしゅまさるひょうたち意見いけんしゅまさる無法むほう回答かいとうせいこのみだか宗派しゅうはかおまえらいかなでぶときさきせつ:「陛下へいかやめけい同意どういりょう叛軍はんぐんてき條件じょうけん,請太きさきみことのり。」ふとしきさき仍不願意がんいなえでんひとしそくさら猖狂,脅迫きょうはくふときさき趕緊決定けってい言語げんごさら客氣かっき[31]

こうはじめぜん[编辑]

そうだか宗像むなかた

こうそう知道ともみちごとやめ無法むほう挽回ばんかいただこう同意どうい禪讓ぜんじょうきみくらいしゅまさるざい一旁哭泣說自己身為宰相應下樓大罵叛軍且欲以死謝罪,だかむね退すさ左右さゆうせつ:「且看事情じじょう如何いか發展はってん,如果失敗しっぱいさい也不おそ[32]。於是命令めいれいしゅまさるこうなえでん宣布せんぷ讓位じょういてき條件じょうけん,一是要像對禪位的そう徽宗一樣對待讓位的高宗,供奉ぐぶ需豐あつ;二是讓位之後事情要聽太后及即位そくいてき幼君ようくん處置しょち;三是下詔完畢後就和部隊回到營區;よん約束やくそくぐん不可ふか搶掠たて騷擾そうじょう百姓ひゃくしょうなえでんこたえおうこうはじめずいそくみことのりへりくだくらい[33]れい兵部ひょうぶさむらいろう起草きそう詔書しょうしょ表示ひょうじ即位そくい以來いらい強敵きょうてき欺凌いたりょう淮河,みやこただしためりょうちん而來,ちんにん生靈いきりょう塗炭とたん宣布せんぷ退位たいいちんゆう長子ちょうしざい東宮とうぐうつちかえそだて德性とくせいそく皇帝こうていなみきょう請隆ゆうふとしきさきいちおこり聽政。希望きぼうのうしょう弭這てんだいてき事變じへんなで慰人しん敵國てきこく知道ともみちりょうのうきゅうへい和好かずよし。」[34]こう宗派しゅうはしゅまさる下城げじょうせん讀詔しょなえでん手下てしたおうひとしはじめたいしゅまさるせつ:「なえりゅう二人忠心有餘而學問不足」。せんみことのりかん畢,叛軍はんぐんそく退去たいきょやかまし鬧於しゅうなみだいさけべ天下てんか太平たいへいりょう!」[35]杭州こうしゅうしゅうおそれ怕叛ぐんじょうぜい屠殺とさつ百姓ひゃくしょう出城でしろ慰撫いぶ[36]

とうてんだかむね就前往あらわちゅうてらへだたてんふとしきさきたれすだれ聽政,大赦たいしゃみことへりくだくらいてきだかむねため「睿聖仁孝にんこう皇帝こうてい」,なみはたあらわちゅうてら改名かいめいため睿聖みやただ保留ほりゅう宦官かんがんじゅうにん,其餘へん解散かいさん[37]なえでんひとしかえ人前ひとまえ往探查,擔心だかそう多留たる內侍。[38]

たいららん[编辑]

なえでんかずりゅうただし彥當せいたてそくあずかかねじん讲和,并想よう改元かいげん遷都せんときむりょうふとしきさきしゅまさる擔心わかりょうけんごとこたえおうかい惹惱なえでんただこうこたえおうあらため年號ねんごうためあかりなみ以金りょうもたれ近江おうみきたなん防禦ぼうぎょきんへいためよし婉拒遷都せんと[39]しゅまさる知道ともみちなえりゅう見識けんしきみじかあさなんたいづけ便びん周旋しゅうせん於叛ぐんかずふとしきさきあいだ迷惑めいわくなえでん使つかい自己じこ取得しゅとくりょう單獨たんどくめんぶときさきてき權利けんり[40]また试图さくはんなえでんてき手下てしたおうおさむおうひとしはじめとう[41]なえでんてのひらけんひさ,貶宦かん曾擇、あい珪到みねみなみなみころせしゅざいはん路上ろじょう斬殺ざんさつ曾擇。[42]また企圖きと以所へい代替だいたいきんぐん守衛しゅえい睿聖みや,甚至そうこうだかむねいた南方なんぽうちょうきよししゅまさる巧妙こうみょう阻止そし[43]

いくてんちゅうぼう平江ひらえてきちょうせっいた大赦たいしゃてき命令めいれい知道ともみち情勢じょうせいゆうへん[44]なみ通知つうちちゅうまもりこうてきちょうしゅんおこりへい會合かいごう[45]ちゅうぼうこうやすしてきりょ頤浩也得いた消息しょうそくぞく討論とうろん確定かくていためへいへんとうそく決定けってい討伐とうばつ一方いっぽうめん派遣はけん使者ししゃかい杭州こうしゅうやすなで叛軍はんぐん,一方面寫信通知張浚和りゅう光世みつよ政變せいへん消息しょうそく[46][47]

ちょう浚當そくざい平江ひらえおこりへいやくりゅう光世みつよりょ頤浩りつへいいた會合かいごう[48]同時どうじ馮轓いた杭州こうしゅうすすむなえりゅうゆずるだかむね復位ふくい迷惑めいわく叛軍はんぐん[49],也派遣はけんしたがえ杭州こうしゅう出來できてき義郎よしお甄援いたりゅう光世みつよかんただしぐんちゅう宣傳せんでんおこりへいてき消息しょうそく[50]かん忠和ただかずちょうしゅん先後せんごりつへいいたり平江ひらえ,聽候ちょう浚調ちょう浚得いたぞくようだんこうきょうはん叛的みつほうかんちゅうりつしんいたりしゅうしゅう阻止そし[51]なえでんとくいた消息しょうそく打算ださん扣押かんちゅうてき妻子さいしりょう及兒ため人質ひとじちしゅまさる表示ひょうじただよう這兩じんいた平江ひらえやすなでかんちゅう事情じじょう就可解決かいけつなえでん竟答おうりょうてき建議けんぎしゅまさるきんわたしくらなえでんてき蠢。[52]

馮轓かいいた平江ひらえちょう浚再いた杭州こうしゅうなえりゅうひとし聲明せいめい大義たいぎなえでん曾聽せつちょう浚已けい集結しゅうけつじゅうへいただしあいしんじ,這時ざいおどろきさとしやめけい遭到討伐とうばつみことのり貶張浚為しゅうだんねり副使ふくし郴州安置あんちちゅうすすむてい上書うわがきためちょう浚開ぬげまたひとみつほうちょう浚放慢行ぐん速度そくど使つかい叛軍はんぐんくだり垮台。[53]

叛軍はんぐんなえ瑀和やわきちりつ赤心せきしんぐん及王ふちきゅうちゅう臨平抵擋勤王きんのうぐん,馮轓也入城にゅうじょう內和なえでん商議しょうぎなえでんよう拘留こうりゅうちょう浚得後便こうびん偽造ぎぞうりょう一封書信給馮轓,內容ひょうじゅつなえりゅうただしちゅう朝廷ちょうていてき,且故意こいなえでん拦截らいなえでんりょうちょう浚給馮轓てきしんしん以為しん便びんりょう馮轓。[54]

へだたてんちょう浚得いたりょう貶的消息しょうそくずいそくりゅう光世みつよちょうしゅんかんちゅうれんめいでんげき天下てんか勤王きんのうしたがえ平江ひらえだい舉出發聲はっせい討苗、りゅう[55]

こうはじめ復位ふくい[编辑]

なえりゅう聞訊だいためおどろきおそれせり接受せつじゅしゅまさる馮轓てき提議ていぎりつ百官ひゃっかん奏請そうせいだかむね復辟ふくへき[56]こうはじめかえ宮後みやうしろみことのりみことふとしきさきためりゅうゆう皇太后こうたいごう恢復かいふくなえでんさくりつてき幼君ようくんちょうため太子たいし,且故意こい任命にんめいなえでんため淮西せいおけ使りゅうただし彥為淮西せいおけ副使ふくしはた們引朝廷ちょうていへだた天下てんかみことのり恢復かいふく年號ねんごうけんえん[57]なえりゅう二人要求高宗賜予免死的てつけんめん追究ついきゅう政變せいへんてき責任せきにん[58][59]とうてん勤王きんのうぐん到達とうたつ叛軍はんぐんちゅう紮的臨平,かんちゅうりつぜんほこさき力戰りきせん大破たいは叛軍はんぐんなえ翊與やわきち挺進ていしん北關きたのせきなえりゅう二人ふたりりつ精銳せいえいりょうせんにん,拿著だかむねしょたまものてつけん,逃出杭州こうしゅう[60]同時どうじ命令めいれい手下てしたたてただしてんくだだいあめ不能ふのうおこり[61]

ゆう學者がくしゃしょうだかそう知道ともみち兩人りょうにん學識がくしきゆたかざいてつけんじょううつしちょじょ大逆だいぎゃくがいみなろん」,なえりゅう察,以為安全あんぜんりょう[62]。此事記載きさい,乃後じん附會ふかいせつふとしきさきあずかこうむねきょ叛軍はんぐんなかあさゆうためりょうやすなでなえりゅうりょうたまものてつけんみことのりかんちゅうしょうもとなえりゅう,甚至あずかなえりゅうめいちかいこうはじめいたり於此ざいてつけんじょう另書文字もじ使つかいなえ劉生りゅうせいうたぐ

後續こうぞく[编辑]

勤王きんのうぐんりゅう光世みつよちょう浚、かんちゅうちょうしゅんりょ頤浩とう入城にゅうじょうこうはじめにぎじゅうかんちゅうてき痛哭つうこくなみ請求せいきゅうじょ掉看守宮やもりもん私通しつう叛軍はんぐんてきじんかんちゅうしたがえそく上前うわまえそうさくようじん談話だんわおり中指なかゆびはた逮捕たいほみことのり於市。[63]こうはじめ也下みことのり表示ひょうじただ追究ついきゅうなえでんりゅうただしおうひとしはじめうまやわらきちちょうひとしてき責任せきにん,其他ぐんかんへいみな追究ついきゅう,於是赤心せきしんぐん背叛はいはんなえでんおうひとしはじめそうりつぐん投降とうこうただし其部ちょうつばさとう七人斬了王鈞甫、うまやわらきち投降とうこう[64]おうおさむのり接受せつじゅ審判しんぱん於市。[65]

なえでんりゅうただし彥兩じんりつぐん逃亡とうぼう侵犯しんぱん許多きょたこおりけんりゅうただし彥在浦城うらしろかち追擊ついげき官軍かんぐんかんちゅうとりこ[66]なえ翊為部下ぶかしょとりこらいけんじ[67]ちょう逵率ざんへいはいくだ遁入たかしやす,也被かんちゅうぐんつい而殺[68]

なえでんのり變更へんこう姓名せいめいため商人しょうにんあずかあいはたちょうまさし逃至たてようため土豪どごううけたまわ節郎せつお詹標察覺而逗留とうりゅう數日すうじつちょうまさしめんとげこう詹標告發こくはつ,詹標告知こくちみなみ剑州どうじゅん检吕熙,吕熙告知こくち福建ふっけんひさげてんけいごく公事こうじりん杞,はやし惧怕张政ぶんこうあずか熙合はかりごと使つかいまもるへいころせちょうまさし于崇ぜん境上さかいかみはたなえでん交於かんちゅう[69][70]於是かんちゅう宣布せんぷはん,俘苗でんりゅうただし彥、なえさんにん以獻,兩人りょうにんざいたてやすし棄市,すん[71][72]りゅうただし彥在行刑ぎょうけいかえだいののしなえでん不用ふよう自己じこてきけいさくいん失敗しっぱい[73]

こうはじめふうしょうひららん功臣こうしんしょうりょ頤浩とく遷宣たてまつ大夫たいふまもり尚書しょうしょみぎぼくしゃけん中書ちゅうしょさむらいろう營使;ます邴為もり尚書しょうしょみぎすすむふうかんちゅうためしょう武勝むしょうあきらけいぐんりょう節度せつど使しょ忠勇ちゅうゆうたたえあげ其忠しん,另外ふう其夫じんりょうため護國ごこく夫人ふじん武將ぶしょうけんりょう節度せつど使功臣こうしんつま受封しょうみなはじめ於此。[74]ちょうのり請前往かわ一帶いったいぼうもり[75]ふうため宣撫せんぶ處置しょち使[76]

另外,こうはじめ追贈ついぞうおうふかし開府かいふどうさんつかさついやすしくつさかえぶし諡號しごう[77]かんちゅういんざい卑微曾受おうふちしょう識,此時おんほうやすそうりょうおうふかし,为他料理りょうりきさきごと[78]

影響えいきょう[编辑]

そうだかむねあずかこれまえてき宋朝そうちょう皇帝こうていいち样,本來ほんらい就十分懼怕地方武力和將領擁兵坐大,這次てきせい變成へんせいりょう心中しんちゅうの揮之てき陰影いんえい使つかいおわり其一生都不再信任武將。頻繁ひんぱん調度ちょうど將領しょうりょうたちいたへい識將,はた識兵」てき目的もくてき使つかいみなみそう重文じゅうぶんけいてきじょうがたげきなえでん拿「」二帝仍在北方來質疑高宗皇位的せい统性,以此ため主要しゅよう理由りゆう要求ようきゅうだかむね退位たいいふかりょうだかむねたい军人专权及失皇位こういてきおそれ惧,ただしいんきょくいきおい不穩ふおん及金へいてきおびえこうはじめ仍需よう武将ぶしょう以对こうかねへいてきおびえしゅ战派及主在朝ざいちょうちゅう形成けいせいひとしぜいちょくいたりじょう杭州こうしゅう及高むね任用にんようはたひのき为止。

此兵变對だかむね阻攔たけきたころせたけあずかかねあさ達成たっせい紹興しょうこう和議わぎへんやす江南えな保持ほじはんかべ江山えやまゆう一定いってい程度ていどてき影響えいきょう[62]

ちゅう[编辑]

  1. ^ よりどころそう·だかむね·紹興しょうこうはちねんじゅういちがつ》,なえりゅうへいへんきゅうねん紹興しょうこうはちねん,1138ねんじゅういちがつみなみそうはじめ以臨やすためあるき,此實ぎわ首都しゅとてき維持いじいたりみなみそう滅亡めつぼうへいへん發生はっせいてきあるき仍是そうだかむね即位そくいてきおうてんただしおうてんざいそうきん前線ぜんせん經常けいじょう陷落かんらく,甚至ざいかね滅亡めつぼうみなみそう依然いぜん能收よしかずふくすめらぎ不可能ふかのうきょ於應てん所以ゆえん杭州こうしゅう此時てき份是くだりざい

參考さんこう文獻ぶんけん[编辑]

引用いんよう[编辑]

  1. ^ いぬいみち臨安こころざし·まきまもる页面そん档备份そん互联网档あん)》「けんえんねんなながつかのえいぬ,以徽猷閣まちせいかんまこと杭州こうしゅうさんねんはちがつやめねんじゅういちがつさんにちあらため杭州こうしゅうため臨安
  2. ^ そう·まき475》「けんえんさんねんがつみずのえいぬこうはじめしたがえおうふかしゆかり鎮江こう杭州こうしゅう。」
  3. ^ そう·まき475》「さきおうふかしそう大船おおぶねじゅうすう維揚らいくいくい人相にんそういい曰:『ふね所載しょさいみなふちひらひねどおりころせだつ富民とみん家財かざい也。』」
  4. ^ そう·まき475》「內侍しょう押班やすしくつ用事ようじぶくゆかりおのれ;其徒だつみん,肆爲暴橫。」
  5. ^ そう·まき475》「しょ大將たいしょう如劉光世みつよちょうしゅん、楊沂ちゅうかんちゅうぶんもり要害ようがい,扈衛しゃどくなえでん。」
  6. ^ そう·まき475》「でん自負じふ宿將しゅくしょうやましふち驟貴。せい彥雖よしふちすすむふちげきところへいまた怨之。」
  7. ^ ぞくどおりかん·まき104》「でんせい彥以ためよし宦者しょこもいよいよ不平ふへいとげあずかおさむ及其おうひとしはじめうまやわらきちちょう逵等はかりごとさきふちしかころせ內侍。ひとしはじめやわらきちみなつばめじんしょしょうごう赤心せきしんぐん」。」
  8. ^ そう·まき475》「でん部分ぶぶん既定きてい,乃紿ふち以臨やすけんゆうぬすめ意欲いよく使ふち其兵於外。」
  9. ^ ぞくどおりかん·まき104》「でんひとしそく部分ぶぶん兵馬へいば,且使じんつげふち臨安縣境けんきょうゆうげきぬすめよく出兵しゅっぺいこれ。」
  10. ^ ぞくどおりかん·まき104》「かんくつ從者じゅうしゃゆうとくしょうまき文書ぶんしょ卷末かんまつ兩行りょうこう,曰『統制とうせいかん押,統制とうせい官金かんきん押。』くつとい:『此何いい也?』曰:『ぐん中有ちゅううはかりごとためへんしゃ,以此ため信號しんごうしたがえこれしゃしょ其名於後。』くつみつ以奏。みかどいのちくついたりどうさとしかち使つかい召淵ため備。」
  11. ^ ぞくどおりかん·まき104》「くつがえ曰:『りゃく以來いらいはやしゅう於天竺寺,ほうさとし其意,そくなえきむそくりゅう也;いつわりげんはかりごと於城がい以誤ふち使つかいきょく出外ではずれみみ。』かちそく召淵つげ。」
  12. ^ ぞくどおりかん·まき104》「日暮ひぐれふち一將將精兵五百人伏於寺側。よる城中じょうちゅうおどろき惶,きょみんもりもん敢出,みなどおりゆう寐。」
  13. ^ そう·まき475》「明日あした賊黨ぞくとうまた伏兵ふくへい城北しろきた橋下はしした,俟淵退すさあさ,誣以ゆい宦官かんがん謀反ぼうほんせい彥手ころせふち,以兵かこえくつだい分捕ぶんど內官,凡無須者つきころせこれ,揭淵くび,引兵はん闕。」
  14. ^ ぞくどおりかん·まき104》「なえでんりゅうただし彥令おうおさむ仗兵城北しろきた橋下はしした,俟王ふち退すさあさそく下馬げば,誣以ゆい宦官かんがん謀反ぼうほんせい彥手これとげひとかこえかんくつふんへい內官,凡無須者みなころせ。」
  15. ^ そう·まき475》「ちゅうぐん統制とうせいじん守宮やもりもんせんあずかでんとおるしるべ其黨にゅうそう曰:『なえでんまけこくとめため天下でんかじょがい。』」
  16. ^ そう·まき475》「杭州こうしゅうかんまこと聞變,りつしたがえかん扣閽,請帝ろう
  17. ^ そうまき475》「でんなおやまよび而拜。みかど憑闌よびぞくといゆえ
  18. ^ そう·まき475》「でん厲聲曰:『陛下へいか信任しんにんちゅうかんぐん有功ゆうこうしゃしょうわたし內侍しゃそくとくかんせんぜんひろしはく彥誤こくなおどお竄。おうふかしぐうてき不戰ふせんよし友康ともやすくつとくじょ樞密すうみつしんりつこうとめさくはるかぐんだんねりやめふちくびさら乞斬やすしくつあい珪、曾擇以謝三軍さんぐん。』」
  19. ^ そう·まき475》「みかどさとし以當りゅう海島うみしまあずかぐん歸營きえい,且曰:『やめじょでんうけたまわせん使營都統制とうせいせい觀察かんさつ使營副統制とうせい。』」
  20. ^ ぞくどおりかん·まき104》「みかどさとし以『內侍ゆう當流とうりゅう海島うみしまきょうあずかぐん歸營きえい。』でん曰:『今日きょうことつきしん,三軍無預焉。且天生靈いきりょう無辜むこかんのうぬりとめえんちゅうかん擅權。わかくつかえり寨未とく。』みかど曰:『きょうとう忠義ちゅうぎやめじょなえでんうけたまわせん使、禦營統制とうせいりゅうただし觀察かんさつ使御前ごぜんふく統制とうせいぐんみなつみ。』でん退すさ,其下揚言ようげん:『わがとうよく遷官,だい須控りょうひきあずか內侍,なに必來此!』」
  21. ^ そう·まき475》「ぞく退すさみかどとい百官ひゃっかんけい安出やすいで,浙西やすなで主管しゅかん機宜きぎ文字もじまれはじめ曰:「わざわいゆかりちゅうかん不悉ふしつじょわざわいやめ也。」みかど曰:「ちん左右さゆう無給むきゅう使耶?」ぐんかんむね諤曰:「陛下へいかなん惜康くつ。」とげいのちじんくつとく於清かくうけたまわちりちゅうでんそくろうこしくつ。」
  22. ^ そう·まき475》「みかど不當ふとうそくだいくらいふちきよしらいなに以處也?」
  23. ^ そう·まき475》「みかど使しゅまさるすがろうきょくさとしこれでん請隆ゆうふとしきさきどう聽政及遣使あずかきむ。」
  24. ^ そう·まき475》「みかど許諾きょだくそくしもみことのり請太きさきたれすだれぞく聞詔はい,曰:『ゆう皇太子こうたいしりつ。』」
  25. ^ ぞくどおりかん·まき104》「ちょう逵曰:『みんためとうと社稷しゃしょくきみためけい今日きょうこと當為とうい社稷しゃしょく百姓ひゃくしょう。』」
  26. ^ ぞくどおりかん·まき104》「北風きたかぜ勁甚,もんすだれとばりみかどすわいちたけ椅,藉褥,すんで請太きさき禦樓じょうそくたて楹側ふくすわ百官ひゃっかんかた請,みかど曰:『不當ふとうすわ此矣。』」
  27. ^ ぞくどおりかん·まき104》「ふとしきさき登樓とうろう,內侍ほうみかどみつみかど曰:『ふとしきさきよくいずるかどさとししょぐん如何いか?』執政しっせいみな以為不可ふか,曰:『わかため邀去,奈何いかん?』かち曰:『必不敢!しん請從ふとしきさき傳道でんどうげんかんぐんきょう。』」
  28. ^ ぞくどおりかん·まき104》「ふとしきさきかた輿こし出立しゅったつろうまえぞくはい曰:『今日きょう百姓ひゃくしょう無辜むこかんのうぬりもちふとしきさき主張しゅちょう。』」
  29. ^ ぞくどおりかん·まき104》「ふとしきさき曰:『みちくん皇帝こうていにん蔡京、おう黼,さら祖宗そそう法度はっとわらわぬきおこりごと所以ゆえん招致しょうちきんじん養成ようせい今日きょうわざわいあにせき今上きんじょう皇帝こうていごときょう皇帝こうていひじりたかしはつしつとくとめためせんぜんひろしはく彥所あやまいまやめ竄逐,統制とうせいあに不知ふち!』」
  30. ^ そう·まき475》「でん曰:『しんとうてい,必欲りつ皇子おうじ。』きさき曰:『こん強敵きょうてき在外ざいがい使つかいわれいち婦人ふじんすだれぜんだきさん歲兒さいじなに以令天下でんか?』」
  31. ^ そう·まき475》「せい彥等ごう泣固請,いんよび其衆曰:『ふとしきさきすんでまことわれとう受戮。』とげさくかいころもじょうきさきさとしとめでん曰:『ことひさしけつおそれ三軍さんぐんせいへん。』顧謂しょう曰:『あいおおやけなん一言いちげん?』かち不能ふのうこたえてきがお岐至みかどまえそう曰:『皇帝こうていれいしんそうふとしきさきやめ決意けついしたがえでん請矣,乞太きさきせんさとし。』きさきなおもとでんひとしえき不遜ふそん。」
  32. ^ ぞくどおりかん·まき104》「ふとしきさきかえ入門にゅうもんみかどしろ以事奈何いかん,須禪かち泣曰:『ぎゃくはかりごといちいたり於此,しんおさむしんよしとうこく,請下ろう面詰めんきつきょう。』みかど曰:『兇焰如此,きょう往必不全ふぜんすんでころせおうふかしまたがいきょうはたおけちんなん!』乃揮左右さゆうやや卻,みみ曰:『ちんいまあずかきょう利害りがいただしどう當為とうい後圖こうとなりまたばん。』」
  33. ^ ぞくどおりかん·まき104》「とげいのちしょう以四ごと約束やくそくでん:一曰尊事皇帝如道君皇帝故事,供奉ぐぶれいつとむごくゆたかあつ曰禪これ諸事しょじなみ聽太きさき及嗣くん處分しょぶんさん曰降みことのり畢,はたぐん即時そくじかいかぶと寨;よん禁止きんしぐん劫掠ごうりゃく殺人さつじんたて。如遵依約束やくそくそくくだみことのりへりくだくらいでんひとしみな曰:『だく。』」
  34. ^ ぞくどおりかん·まき104》「みかど顧兵さむらいろうけんけんちょく學士がくしいん邴、れいくさみことのり,邴請みかど禦劄。みかどそくしょ禦椅上作じょうさくみことのり曰:『ちん即位そくい以來いらい強敵きょうてきおかせ淩,とおいたり淮甸,其意せん以朕躬為ごとちんおそれ其興へいやめ,枉害生靈いきりょうかしこてんじゅんじん退避たいひだいちん有元ありもと,毓德東宮とうぐうそく皇帝こうていきょう請隆ゆうふとしきさきたれすだれどう政事せいじ庶幾しょきしょう天變てんぺん慰安いあん人心じんしん敵國てきこく聞之,いきへいこうこのみ。』」
  35. ^ ぞくどおりかん·まき104》「みかどしょあきらやめひとせんしめせかちいたりろうよびでんまくぞくはたといおうひとしはじめしん曰:『二將忠有餘而學不足耳。』せんみことのり畢,でんせい彥麾其軍退すさうつりたむろさちてらときやめこくみかど徒步とほ禁中きんちゅうぐん退去たいきょなおやかましよび於市曰:『天下てんか太平たいへい也!』」
  36. ^ ぞくどおりかんまき104》「かたごと未決みけつ也,かんまことそう:『おそれぐんじょうぜい攘殺,請出もん慰撫いぶ。』乃見でんせい彥,つげ以故,せい彥以いちかぶとじゅうかぶと授之。まことしゅう行進こうしん衢,くいじんよりゆき安堵あんど。」
  37. ^ そう·まき475》「みかどこうあらわちゅうてらかぶとさるふとしきさきたれすだれくだ赦,ごうみかどため睿聖仁孝にんこう皇帝こうてい,以顯ちゅうてらため睿聖みやとめ內侍じゅうにん悉編おけ。」
  38. ^ ぞくどおりかん·まき104》「でんひとしひと伺察,おそれ匿內さむらい也。」
  39. ^ そう·まき475》「でんよく改元かいげんせい彥欲遷都せんとたてやすしふとしきさきいいしょう曰:『二事如俱不允,おそれぞくゆうへん。』おのれうし改元かいげんあかり受。」
  40. ^ そう·まき475》「はつしょうそうたれすだれとうしんどうたいこんぞく時艱じかん,乞許どくたいおそれぞくうたぐ,乃日引其いちにんあずか俱。でんいれたいろうつとむこれぞくしょうたぐしん僚入たいとくはかりごと復辟ふくへき。」
  41. ^ ぞくどおりかん·まき104》「さきおうおさむしゅまさるしょうさとし曰:『國家こっか艱難かんなんいい功名こうみょうあき古人見こひとみ而作,のうえきらんためてんためぶくざいはんてのひらあいだみみまた有意ゆうい於此乎?』おさむ曰:『おさむ從軍じゅうぐん因循いんじゅんいたり此;朝廷ちょうていわかゆうじょ授,かた所願しょがん也。』かち曰:『尋常じんじょう等級とうきゅうじょしん所以ゆえんまちつねわかのう奮身りつごと,雖從かんそく。』おさむえき,於是為之ためゆき往來おうらい傳道でんどう。」
  42. ^ そう·まき475》「きのえうま,貶曾擇、あい珪於みねみなみでんつい。」
  43. ^ そう·まき475》「ぞくよく以所だい禁衛きんえいもり睿聖みやまたよく邀帝こう徽、こしちょうきよしかちきょくさとしとめ。」
  44. ^ そう·まき475》「へいいぬ,赦至平江ひらえちょう浚知ゆうへんはい。」
  45. ^ ぞくどおりかん·まき104》「浚語しゅん曰:『ふとしじょう皇帝こうていへりくだくらいよし?此蓋なえでんひとしよく社稷しゃしょく。』げん旋,泣すうぎょうしゅんまただい哭。浚諭けつさくおこりへい問罪もんざいしゅん泣拜,且曰:『此事須侍ろうずみ以機じゅつ,勿令おどろきどうかん。』浚哽むせ首肯しゅこう。」
  46. ^ そう·まき475》「ちょういたりこうやすしせいおけりょ頤浩のこ浚書,つうじゅつ事變じへん。浚乃舉兵。戊子ぼし營前ぐん統制とうせいちょうしゅんいたり平江ひらえ,浚諭以起へいしゅん泣奉いのち。」
  47. ^ ぞくどおりかん·まき104》「頤浩そくひとにゅうくい伺賊,なみぐうしょ於張浚、りゅう光世みつよやめじゅつ國家こっか艱難かんなんじょうべつ以片のこ浚曰:『時事じじ如此,われ儕可ただしやめ乎!』」
  48. ^ ぞくどおりかん·まき104》「浚遂備奏けんげきほうしょみち,且約りょ頤浩、りゅう光世みつよかい平江ひらえ。」
  49. ^ ぞくどおりかん·まき104》「ちょう浚遣進士しんし馮轓赴行ざい,請帝おやそう要務ようむ。」
  50. ^ ぞくどおりかん·まき104》「はつ義郎よしお甄援ざい城中じょうちゅう,竊錄あかり受詔赦及二凶檄書以出,いたりあまりくいもんため邏者所得しょとくなえでんいのちこれ,援笑曰:『將軍しょうぐんかたためむねしゃたてこう奈何いかん壯士そうし!』でん嫚罵,且詰其故,援曰:『いまあやまくに奸臣かんしんしょ於外。ねがい賚將ぐんぶん,糾忠義之よしゆき,誅漏もう以報將軍しょうぐんみみ。』でんかいりゅうただし彥曰:『此未しん。』そくれいかかわこれきょ數日すうじつぼうきんしょうなる更衣ころもがえ逾牆而出。いたり見張みはり浚於平江ひらえ,援詭げん嘗更ふく睿聖皇帝こうてい於別みやみかどいい曰:『今日きょうちょう浚、りょ頤浩必起へいりゅう光世みつよかんちゅうちょうしゅんとう必竭りょくしょう輔,れい早來はやきた。』むね甚切。浚微察其ふくとえそくまいちょうしゅんぐんあずか其將聞之,みなかん慟,浚遂れい援遍往韓ちゅうりゅう光世みつよしょぐんせんさとし。援明べんぜんためせつしょしょう人人ひとびと以為みかどしょ倚望,感泣かんきゅう奮,繇是士氣しき甚振。」
  51. ^ ぞくどおりかん·まき104》「はじめちょう浚所みつるりょうかんあんよしかげあずかでんごうよくだいしゅん而奪其兵,乃斷こうきょう以應ぞく,浚即れいかんちゅうたむろしゅう以伐其謀,せいちゅういたりしゅうしょうやましくだりみやつこ雲梯うなて,冶器械きかいでんひとしはじめ懼。」
  52. ^ ぞくどおりかん》「はつなえでん聞韓ただしざいしゅうしゅう其妻りょう及其義郎よしおあきら於軍ちゅう以為しつしゅまさる聞之,乃好いいでん曰:『こんとうけいふときさき,招にん慰撫いぶ使つかい報知ほうち平江ひらえ諸人もろびと益安ますやす矣。』でん許諾きょだくかち曰:『二凶真無能為也!』ふとしきさき召梁にゅうふう為安ためやすこく夫人ふじんすず甚渥。其手曰:『國家こっか艱難かんなんいたり此,ふとしじょうくびらいすくいれいそくらい。』りょう馳出はせだし都城みやこのじょうぐうなえ翊於ぬりつげ,翊色どうせがれ其耳。りょうさとし翊意ぜんいよいよ疾驅しっく,一日夜會世忠於秀州。」
  53. ^ そう·まき475》「馮轓いたり平江ひらえ,浚復にゅうせめぞく大義たいぎさとし禍福かふく雖死悔。でんひとしはつ聞浚しゅうへいひつじしんじ,及得浚書,はじめさとる討。奏請そうせい誅浚以令天下でんかみことのりせめ浚黃しゅうだんねり副使ふくし,郴州安置あんちてい瑴上疏謂浚不とうせめみつところおやしゃこうへん姓名せいめいつげ浚宜おもなるすすむぞくとう遁,浚然。」
  54. ^ そう·まき475》「ぞくなえ瑀、うまやわらよしすすむ赤心せきしんたい及王ふちきゅうきょくちゅう臨平,以拒勤王きんのう。馮轓いたり臨平,やわきちどうすが入城にゅうじょうつめあさあずかでんひとしでん曰:『しかなお敢來よこしま?』ほしかかわ轓。浚逆知之ともゆき,謬爲しょのこ轓,げんきゃくくいらい二公於朝廷初無異心,こと悔前しょしつ輕易けいいぞくとく浚遺轓書,大喜だいぎ,乃釋轓。」
  55. ^ そう·まき475》「みずのえとら,浚得謫命,おそれ將士しょうし解體かいたい,紿曰:『おもむき召之いのち也。』りょ頤浩いたり平江ひらえあずか浚對泣曰:『こと諧,あかぞく。』乃命まくきゃくうけたまわづくくさげきつげ四方しほう討賊。」
  56. ^ そう·まき475》「ぞく聞勤おうへいだいしゅうそくよび馮轓、かち非議ひぎ復辟ふくへき。」
  57. ^ そう·まき475》「なつよんがつつちのえさるついたちみかどかえみやじんだいせつみかど御前ごぜん殿どのみことのりみことふとしきさき曰隆ゆう皇太后こうたいごうたて嗣君ため皇太子こうたいしからしとり,徙傅淮西せいおけ使せい彥副かのえいぬみことのりふくけんえんごう。」
  58. ^ でんせい彥見みかど,請設めいちかいりょうあいがいみかど賜金しきんろうでんせい彥退まいみやこどうおもむきたまものてつけんしょう非命ひめい所屬しょぞくけんしょう故事こじ如法にょほう製造せいぞう」(ぞくどおりかんまきいちひゃく
  59. ^ さんがつみずのとふとしきさきみことのり:「營都統制とうせいなえでんふく統制とうせいりゅうただし彥並たまものてつけん」。三月さんがつ丁未ていみ,「上乃うえのたまものかんちゅうしゅみことのり曰:きょうやめいたしゅうしゅう遠來えんらい不易ふえきちんきょ此極安寧あんねいなえでんりゅうただし彥本ためむねしゃ始終しじゅうよしみきょうむべ此意,徧諭しょしょうつとむため協和きょうわ,以安國家こっか」。なつ四月戊申朔下詔曰:「所有しょゆうさんがつ六日赦書應干恩賞等事,れい有司ゆうしやましそく施行しこう。敢有稽違,じゅう寘典けん」(けんえん以來いらい繫年要錄ようろくまきじゅういちじゅう)】
  60. ^ そう·まき475》「,頤浩、浚軍臨平,なえ翊、うまやわらきち以兵阻河。かんちゅうりつ先鋒せんぽう力戰りきせんしゅん光世みつよじょう,翊敗走はいそう勤王きんのうへいすすむ北關きたのせき。二凶詣都堂,おもむきとくしょたまものてつけん,引精へいせんひらけゆうきんもん遁。」
  61. ^ ぞくどおりかん·まき105》「いのち其徒所在しょざいたてぐう大雨おおあめ不能ふのうおこりとげ遁。よる尚書しょうしょしょうげき諸道しょどうでんひとし。」
  62. ^ 62.0 62.1 袁騰しる人類じんるい出版しゅっぱんしゃ出版しゅっぱんISBN 978-986-6722-71-4りょうそう風雲ふううんだいじゅうへんなえりゅうへいへん
  63. ^ ぞくどおりかん·まき105》「はつみかどかんちゅう握手あくしゅ曰:『じんさいぎゃくなおとめちんひじわきのうさきじょ乎?』ちゅう曰:『此易あずかみみ。』たたえやめ不能ふのうやすいむへいため備。ちゅうまいたたえ與語よご手摺てすり中指なかゆびとげ以出;門下もんか兵衛ひょうえおどろき擾,せいちゅう按劍しかこれ敢動しゃみことのり戮湛於市。」
  64. ^ ぞくどおりかん·まき105》「ときみかどいのちしょしょう,以罪とめでん兄弟きょうだい及劉せい彥、ひとしはじめやわらきちちょう逵,あまりみな罔治。赤心せきしんぐん聞詔寬大かんだい,乃叛でんひとしはじめとげ焚河はり以斷其路,りつ赤心せきしん眾降於望。もち使じん受降しょ未成みせい,其前ぐんすべりょうみぎたけ大夫たいふしゅう防禦ぼうぎょ使ちょうつばさとうななにんいいひとしはじめ反覆はんぷくひとしはじめ及柔きちくび以降いこう
  65. ^ ぞくどおりかん·まき105》「かん察御ひね戩鞫おうおさむ於軍ちゅうふく同苗どうみょうでんひとしはかりごとらんじょうみことのり於市。」
  66. ^ そう·まき475》「ぞく浦城うらしろけん,夾溪而屯,よりどころけんしつらえふく,以邀官軍かんぐん統制とうせいかん彥溥ぞくじょうかちはんちゅうぐんせいちゅう瞋目大呼たいこ,揮兵直前ちょくぜんせい彥墮なま禽之。」
  67. ^ そうまき475》「賊將ぞくしょうころせはじめ皋、禽苗翊降,しゅう悉解かぶと。」
  68. ^ そう·まき475》「ちょう逵收あまりへいにゅうたかしやすたかしなかぶくついころせこれ。」
  69. ^ そう·まき475》「でん棄軍へん姓名せいめいよる遁建土豪どごう詹標さとしおくちゅうおりしゃ赴行ざいみずのえとらみことのりはん。」
  70. ^ けんえん以來いらいけいねん要錄ようろくまきじゅうさん
  71. ^ そう·まき475》「あきなながつからしせいちゅうぐんかえ,俘傅、せい彥以けんじはりつけ於建やすし。」
  72. ^ ぞくどおりかん·まき105》「からしかんちゅうぐんかえなえでんりゅうただし彥、なえ翊詣どうしんけん畢,はりつけ於建やすしふくろう其首。」
  73. ^ ぞくどおりかん·まき105》「せい彥臨けい,瞋目ののしでん曰:『なえでん匹夫ひっぷ不用ふようわれごととげいたり於此!』」
  74. ^ ぞくどおりかん·まき105》「みずのと武勝むしょうぐん節度せつど使御前ごぜんみぎぐん統制とうせいかんちゅうため檢校けんぎょうしょうたもて武勝むしょうあきらけいぐん節度せつど使しょうひらなえりゅうこう也。みかど使つかいたまものちゅうきんごう,且禦しょ忠勇ちゅうゆうひょう其旗のぼりまたふう其妻りょうため護國ごこく夫人ふじんきゅう內中俸以ちょうはたしんけんりょう鎮,功臣こうしんつまきゅう俸,みな此始。」
  75. ^ ぞくどおりかん·まき105》「浚請にん陝、しょくことおけしんかわ,而別大臣だいじんあずかかんちゅう鎮淮ひがし
  76. ^ ぞくどおりかん·まき105》「みことのり樞密院すうみついんごとけん禦營副使ふくしちょう浚為宣撫せんぶ處置しょち使,以川、陝、きょう西にし湖南こなん湖北こほく為所しどころ。」
  77. ^ ぞくどおりかん·まき105》「久之ひさゆきみことのりおくふち開府かいふどうさんつかさ;而康くつまた贈官ぞうかんおくりなさかえぶし。」
  78. ^ ぞくどおりかん·まき105》「はじめおうふかし識韓ちゅう於微まちぜっとういたりちゅうため請地うけちあつそうけい其家。」

书籍[编辑]