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韦庄

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韦庄
からあさいたりぜんしょく官員かんいん詩人しじん
どうたいらあきらごと
國家こっかからあさぜんしょく
時代じだいからあさだいじゅうこく
せい
しょう
姓名せいめい韦庄
はしおのれ
氏族しぞくきょうちょう韦氏
本籍ほんせききょうちょうもりりょう
出生しゅっしょう836ねん
开成元年がんねん
からあさきょうちょうぐんもりりょう
逝世910ねん(73—74さい
ぜんしょくたけしげるさんねん
ぜんしょく成都せいとはなりんぼう
《浣花しゅう》、《はた妇吟》

韦庄(836ねん—910ねん),はしおのれきょうちょうぐんもりりょういま陕西しょう西安しーあんにんばんとういたりだいじゅうこく时期政治せいじ、诗人、はなあいだじん,曾任ぜんしょくどうたいらあきらごとあずかはな间派词人ゆたかにわごうしょうゆたか韦」。

生平おいだいら

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广明元年がんねん(880ねん)韦庄ざい长安应举,おさむうらない长安以后,あずか弟妹ていまいしつなみあと天涯てんがい中和ちゅうわさんねん(883ねんさんがつざいらくうつしゆう悼念へんてき長篇ちょうへんらくはた妇吟》。あきらむねいぬい元年がんねん(894ねん进士,曾任こう书郎ひだり补阙とう职。いぬいよんねん(897ねん),为两かわせん谕和协使,聘用判官ほうがんざい四川しせんためおうけんてのひら書記しょきぜんしょく開國かいこく制度せいどみな韦莊所定しょてい[1]かんいたり吏部尚書しょうしょどうたいらあきらごとたけしげるさんねん(910ねんはちがつそつ於成はなりんぼうそうしろすな阳。ぶんやすし

韦庄からあさはな间派词人,词风きよし丽,あずかゆたかにわ並稱へいしょうゆたか韋”。韦庄てきおとうとおとうと韋藹ところへん浣花词りゅう传。《はなあいだしゅうおさむよんじゅうはちしゅ杨慎ますあんがいしゅう》评韦しょう词“明白めいはく如画,蕴情ふかいたり”。况周颐蕙风词话しょうゆうのう运密如疏、ぐう浓于あわはな间群贤,殆鲜其匹”。きんひと王国おうこく谓之“ほね秀也しゅうや”,评价さらざいゆたかにわこれじょう

作品さくひん

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べにろうべつよるこらえ惆悵,こうとうはんめくりゅうちょう殘月ざんげつもん美人びじんなみだ
琵琶びわきんみどり,絃上うぐいすすすむわがはやみどりまどじんはな
人人ひとびとつきせつ江南こうなんよしみゆうじんただごう江南えなろう春水しゅんすいあお於天。せん聽雨ねむり
壚邊じんつきあきらうでしこり霜雪そうせつろう莫還きょうかえさと斷腸だんちょう
如今卻憶江南えならく當時とうじ年少ねんしょうはる衫薄。騎馬きば倚斜きょう滿まんろうべにそで招。
みどりへいきん屈曲くっきょくよいにゅうはなくさむら宿やど。此度花枝はなえ白頭はくとうちかい不歸ふき
すすむくん今夜こんや須沉よい樽前たるまえ莫話明朝みんちょうごと珍重ちんちょう主人しゅじんしんさけふかじょうまたふか
須愁はるみじか,莫訴金盃きんぱい滿まんぐうしゅ呵呵かか人生じんせいのう幾何きか
洛陽らくようじょううら春光しゅんこうこのみ洛陽らくよう才子さいし他鄉たきょうろうやなぎくらおうつつみ,此時こころうたて迷。
もも花春かばるすい淥,水上みずかみ鴛鴦えんおうよくしこり恨對ざんあきら,憶君くん不知ふち
とくねんはな深夜しんやはつ識謝むすめ水堂みずどう西にしめんすだれたれ,攜手くらしょう
惆悵あかつきうぐいす殘月ざんげつそうべつしたがえ此隔おんちり,如今俱是異鄉いきょうじんそうさらいん
  • きむりょう
だれいい傷心しょうしんなりかく人心じんしん逐世人情にんじょう
きみろくぶく南朝なんちょうごと老木ろうぼくかんくも滿まんしろ
こうあめ霏霏江草えぐさひとし六朝りくちょう如夢とりそら啼。
無情むじょうさいたいじょうやなぎきゅうけむりかごじゅうさとつつみ
  • 忆昔
昔年せきねん曾向りょうゆうよるうた清月せいげつ满楼。
银烛树前长似ひるもも花里はなさと不知ふちあき
西にし公子こうしめい无忌,南国なんごく佳人かじんごう莫愁。
今日きょうらん离俱梦,ゆう阳唯见水东流。

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韦庄出生しゅっしょう关中ぐんせいくびぞくきょうちょう韦氏ただし其世けいゆう两种不同ふどうてき说法。张唐えいしょく梼杌》、有功ゆうこうから诗纪ごとゆうぜんから诗话》记载韦庄韦见もとてききさきだい[2][3][4],《しんだいかず资治どおり》则进一步指出韦庄是韦见素的孙子[5][6],按照这种说法,韦庄出自しゅつじみなみがわ公房こうぼう[7]。而根すえしんから书·宰相さいしょうけいひょうてき记载,韦庄韦应ぶつてき曾孙[8]ぞく逍遥しょうよう公房こうぼう[7]なつうけたまわ韦端おのれねん》认同《しんから书·宰相さいしょうけいひょうてき记载,でん璇琮から才子さいし传校笺》认同《しょく梼杌とうてき记载,而聂安ぶく韦庄しゅう笺注さい折中せっちゅうてき说法,认为《しんだいかずしんから书》ひとしおう阳修ところせん应前きさき矛盾むじゅん,“见素孙”ある许是ゆび韦见素的すてき裔孙,并非げんゆび同一どういつぼうけい[9]任海とうみてん指出さしで如果韦应ぶつ韦庄てきよんせい,韦庄ざい自己じこてき诗文ちゅう不可能ふかのう从不ひさげ及,这有もと于唐だい文人ぶんじん喜好きよし标榜先祖せんぞ乃至ないしよじ权贵名流めいりゅうてき心理しんり及社かい风气,どう时代てき文人ぶんじん也不曾提いた韦庄ゆう这样一位诗名显赫的曾祖;而且《しんから书·宰相さいしょうけいひょう》谬误很多,所以ゆえん韦庄应是韦见素的すてききさきじん[7]曹丽かおる也指しんから书·宰相さいしょうけいひょう》谬误甚多,前人ぜんじんゆうこう证,其记载恐如《しょく梼杌》とうもたれただし于无其它证,暂且存疑そんぎ,并没ゆう发表自己じこてき见解。[9]齐涛则提出ていしゅつりょうしんから书·宰相さいしょうけいひょうちゅう记载てき韦庄祖父そふめい撤,而《浣花しゅうまきあめ霁晚ながめ》诗有“仍闻关外昨夜さくや撤皇”,ぼつゆう避讳“撤”あずかからだい避家讳之风不あいじょしんから书》そと,《しんだい》、《しょく梼杌》、《资治どおり鉴》しょう韦庄为韦见素てききさき裔,すえ此两てんてい韦庄为韦见素てききさき裔,ぞくみなみがわ公房こうぼう[10][11]

参考さんこう资料

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  1. ^ じゅうこく春秋しゅんじゅう·しょくこく》:凡开こく制度せいど号令ごうれいけいせいれい乐,みなよしそう所定しょてい
  2. ^ しょく梼杌·まきじょう》:はちがつ,吏部さむらいろうたいらあきらごと韦庄そつしょうはしおのれもりりょうじん。见素きさき
  3. ^ から诗纪ごと·まきろくじゅうはち》:しょうはしおのれもりりょうじん,见素きさき曾祖そうそしょうほろせんそうゆかり书舍じん
  4. ^ ぜんから诗话·まき》:しょうはしおのれもりりょうじん,见素きさき曾祖そうそしょうほろせんむねちゅう书舍じん
  5. ^ しんだい·まきろくじゅうさん·ぜんしょくだいさん》:しょく恃险而富,とうとうすえ士人しじん多欲たよくけん以避らんけん虽起ぬすめ贼,而为じんさとし诈,ぜんまち其僭ごう所用しょようみな唐名とうみょうしんぞくしょう,见素孙;かく,浚之也。
  6. ^ 《资治どおり鉴·まきひゃくろくじゅうろく·きさきはり纪一》:からしうし以前いぜん东川节度使けんさむらいちゅうおうそうただし为中书令,韦庄为左骑常さむらいはんちゅう书门ごと,阆州防御ぼうぎょ使とうどう袭为ないくるる密使みっししょう,见素孙也。
  7. ^ 7.0 7.1 7.2 任海とうみてん. 《韦庄研究けんきゅう》. 北京ぺきん: 人民じんみん文学ぶんがく出版しゅっぱんしゃ. 2005: 4. ISBN 7-02-004998-2 ちゅうぶん中国ちゅうごくだい陆)). 
  8. ^ しんから书·まきななじゅうよん·ひょうだいじゅうよん·宰相さいしょうけいよん
  9. ^ 9.0 9.1 曹丽よし 《韦庄研究けんきゅう南京なんきん师范大学だいがく 2003ねん博士はかせ论文
  10. ^ 齐涛 《韦庄韦应ぶつきさき》 《陕西师大がく报(哲学てつがく社会しゃかい科学かがくばん)》 1987ねん だい01
  11. ^ 齐涛 《韦庄しょうべん》 《史学しがくしゅうかん》 1987ねん だい01

參考さんこう書目しょもく

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  • きょく滢生:《韦庄ねん谱》
  • なつうけたまわ焘:《韦端おのれねん谱》