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韋莊

維基百科ひゃっか自由じゆうてき百科全書ひゃっかぜんしょ
韋莊
からあさいたりぜんしょく官員かんいん詩人しじん
どうたいらあきらごと
國家こっかからあさぜんしょく
時代じだいからあさだいじゅうこく
せい
そう
姓名せいめい韋莊
はしおのれ
氏族しぞくきょうちょう韋氏
本籍ほんせききょうちょうもりりょう
出生しゅっしょう836ねん
開成かいせい元年がんねん
からあさきょうちょうぐんもりりょうけん
逝世910ねん(73—74さい
ぜんしょくたけしげるさんねん
ぜんしょく成都せいとはなりんぼう
《浣花しゅう》、《しんぎん

韋莊(836ねん—910ねん),はしおのれきょうちょうぐんもりりょうけんいま陝西せんせいしょう西安しーあんにんばんとういたりだいじゅうこく時期じき政治せいじ詩人しじんはなあいだじん,曾任ぜんしょくどうたいらあきらごとあずかはなあいだじんゆたかにわごうしょうゆたか韋」。

生平おいだいら

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廣明ひろあき元年がんねん(880ねん)韋莊ざい長安ながやすおう舉,おさむ佔長やす以後いごあずか弟妹ていまいしつなみあと天涯てんがい中和ちゅうわさんねん(883ねんさんがつざい洛陽らくよううつしゆう悼念へんてき長篇ちょうへんらくはたぎん》。あきらむねいぬいやすし元年がんねん(894ねん進士しんし,曾任こうしょろうひだりとうしょくいぬいやすしよんねん(897ねん),ため兩川りょうかわせんさとし和協わきょう使,聘用ため判官ほうがんざい四川しせんためおうけんてのひら書記しょきぜんしょく開國かいこく制度せいどみな韋莊所定しょてい[1]かんいたり吏部尚書しょうしょどうたいらあきらごとたけしげるさんねん(910ねんはちがつそつ於成はなりんぼうそうしろすなおくりなぶんやすし

韋莊からあさはなあいだじんふうせいうららあずかゆたかにわ並稱へいしょうゆたか韋」。韋莊てきおとうとおとうと韋藹ところへん浣花流傳りゅうでん。《はなあいだしゅうおさむよんじゅうはちしゅ楊慎ますあんがいしゅうひょう韋莊明白めいはく如畫,蘊情ふかいたり」。きょうしゅう蕙風ばなししょうゆうのううんみつ如疏、ぐう於淡,はなあいだぐんけん,殆鮮其匹」。きんひと王國おうこくいいほね秀也しゅうや」,評價ひょうかさらざいゆたかにわこれじょう

作品さくひん

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べにろうべつよるこらえ惆悵,こうとうはんめくりゅうちょう殘月ざんげつもん美人びじんなみだ
琵琶びわきんみどり,絃上うぐいすすすむわがはやみどりまどじんはな
人人ひとびとつきせつ江南こうなんよしみゆうじんただごう江南えなろう春水しゅんすいあお於天。せん聽雨ねむり
壚邊じんつきあきらうでしこり霜雪そうせつろう莫還きょうかえさと斷腸だんちょう
如今卻憶江南えならく當時とうじ年少ねんしょうはる衫薄。騎馬きば倚斜きょう滿まんろうべにそで招。
みどりへいきん屈曲くっきょくよいにゅうはなくさむら宿やど。此度花枝はなえ白頭はくとうちかい不歸ふき
すすむくん今夜こんや須沉よい樽前たるまえ莫話明朝みんちょうごと珍重ちんちょう主人しゅじんしんさけふかじょうまたふか
須愁はるみじか,莫訴金盃きんぱい滿まんぐうしゅ呵呵かか人生じんせいのう幾何きか
洛陽らくようじょううら春光しゅんこうこのみ洛陽らくよう才子さいし他鄉たきょうろうやなぎくらおうつつみ,此時こころうたて迷。
もも花春かばるすい淥,水上みずかみ鴛鴦えんおうよくしこり恨對ざんあきら,憶君くん不知ふち
とくねんはな深夜しんやはつ識謝むすめ水堂みずどう西にしめんすだれたれ,攜手くらしょう
惆悵あかつきうぐいす殘月ざんげつそうべつしたがえ此隔おんちり,如今俱是異鄉いきょうじんそうさらいん
  • きむりょう
だれいい傷心しょうしんなりかく人心じんしん逐世人情にんじょう
きみろくぶく南朝なんちょうごと老木ろうぼくかんくも滿まんしろ
こうあめ霏霏江草えぐさひとし六朝りくちょう如夢とりそら啼。
無情むじょうさいたいじょうやなぎきゅうけむりかごじゅうさとつつみ
  • 憶昔
昔年せきねん曾向りょうゆうよるうた清月せいげつ滿まんろう
銀燭ぎんしょくじゅまえちょうひるもも花里はなさと不知ふちあき
西園にしぞの公子こうしめい南國なんごく佳人かじんごう莫愁。
今日きょうらんはなれ俱是ゆめ夕陽ゆうひただすいひがしりゅう

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韋莊出生しゅっしょうせき中郡なかぐんせいくびぞくきょうちょう韋氏ただし其世けいゆうりょうたね不同ふどうてき說法せっぽうちょうからえいしょく檮杌》、けい有功ゆうこう唐詩とうしごとゆうぜん唐詩とうしばなし記載きさい韋莊韋見もとてき後代こうだい[2][3][4],《しんだいかずどおりかんのりしん一步指出韋莊是韋見素的孫子[5][6],按照這種說法せっぽう,韋莊出自しゅつじみなみがわ公房こうぼう[7]。而根據こんきょしんとうしょ·宰相さいしょうけいひょうてき記載きさい,韋莊韋應ぶつてき曾孫そうそん[8]ぞく逍遙しょうよう公房こうぼう[7]なつうけたまわ韋端おのれ年譜ねんぷみとめどうしんとうしょ·宰相さいしょうけいひょうてき記載きさいでん璇琮から才子さいしでんこうみとめどうしょく檮杌とうてき記載きさい,而聶安ぶく韋莊しゅう箋注採取さいしゅ折中せっちゅうてき說法せっぽうみとめためしんだいかずしんとうしょひとしためおうおさむところせんおう前後ぜんこう矛盾むじゅん,「素之もとゆきまごあるもとゆび韋見素的すてき裔孫,なみきりゆび同一どういつぼうけい[9]任海とうみてん指出さしで如果韋應ぶつ韋莊てきよんせい,韋莊ざい自己じこてき詩文しぶんちゅう不可能ふかのうしたがえひさげ及,這有もと於唐だい文人ぶんじん喜好きよし標榜ひょうぼう先祖せんぞ乃至ないしよじけん名流めいりゅうてき心理しんり及社かい風氣かざけどう時代じだいてき文人ぶんじん也不曾提いた韋莊ゆう這樣一位詩名顯赫的曾祖;而且《しんとうしょ·宰相さいしょうけいひょう》謬誤很多,所以ゆえん韋莊おう韋見素的すてき後人こうじん[7]曹麗かおる也指しんとうしょ·宰相さいしょうけいひょう》謬誤甚多,前人ぜんじんゆう考證こうしょう,其記載きさいおそれ如《しょく檮杌》とうもたれただし於無其它しょう,暫且存疑そんぎなみぼつゆう發表はっぴょう自己じこてき見解けんかい[9]ひとし濤則提出ていしゅつりょうしんとうしょ·宰相さいしょうけいひょうちゅう記載きさいてき韋莊祖父そふめい撤,而《浣花しゅうまきあめ霽晚ながめゆう「仍聞せきがい昨夜さくや撤皇」,ぼつゆう避諱「撤」あずかからだい避家いみなふうごうじょしんとうしょそと,《しんだい》、《しょく檮杌》、《どおりかんしょう韋莊ため韋見素的すてき後裔こうえいよりどころ此兩てんてい韋莊ため韋見素的すてき後裔こうえいぞくみなみがわ公房こうぼう[10][11]

參考さんこう資料しりょう

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  1. ^ じゅうこく春秋しゅんじゅう·しょくこく》:凡開國かいこく制度せいど號令ごうれいけいせい禮樂れいがくみなよしそう所定しょてい
  2. ^ しょく檮杌·まきじょう》:はちがつ,吏部さむらいろうたいらあきらごと韋莊そつそうはしおのれもりりょうじん素之もとゆき
  3. ^ 唐詩とうしごと·まきろくじゅうはち》:そうはしおのれもりりょうじん素之もとゆき曾祖そうそしょうほろせんそうゆかりしょ舍人とねり
  4. ^ ぜん唐詩とうしばなし·まき》:そうはしおのれもりりょうじん素之もとゆき曾祖そうそしょうほろせんむね中書ちゅうしょ舍人とねり
  5. ^ しんだい·まきろくじゅうさん·ぜんしょくだいさん》:しょく恃險而富,とうとうすえ士人しじん多欲たよくけん以避らんけん雖起盜賊とうぞく,而為じんさとしいつわりぜんまち其僭ごう所用しょようみな唐名とうみょうしんぞくそう素之もとゆきまごかく,浚之也。
  6. ^ どおりかん·まきひゃくろくじゅうろく·りょう紀一きいち》:からしうし以前いぜん東川ひがしがわ節度せつど使けんさむらいちゅうおうそうただしため中書ちゅうしょれい,韋莊ためひだりつねさむらいはん中書ちゅうしょ門下もんかごと,閬州防禦ぼうぎょ使とうどうかさねため內樞密使みっしそう素之もとゆきまご也。
  7. ^ 7.0 7.1 7.2 任海とうみてん. 《韦庄研究けんきゅう》. 北京ぺきん: 人民じんみん文學ぶんがく出版しゅっぱんしゃ. 2005: 4. ISBN 7-02-004998-2 ちゅうぶん中國ちゅうごく大陸たいりく)). 
  8. ^ しんとうしょ·まきななじゅうよん·ひょうだいじゅうよん·宰相さいしょうけいよん
  9. ^ 9.0 9.1 曹麗よし 《韋莊研究けんきゅう南京なんきん師範しはん大學だいがく 2003ねん博士はかせ論文ろんぶん
  10. ^ ひとし濤 《韋莊韋應ぶつこれ》 《陝西せんせい大學だいがくほう(哲學てつがく社會しゃかい科學かがくばん)》 1987ねん だい01
  11. ^ ひとし濤 《韋莊しょうべん》 《史學しがくしゅうかん》 1987ねん だい01

參考さんこう書目しょもく

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  • きょく瀅生:《韋莊年譜ねんぷ
  • なつうけたまわ燾:《韋端おのれ年譜ねんぷ