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魯塞あま

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なみらん畫家がか卡耶ひろし·薩柳什·沃爾斯基​(なみ兰语 於1907ねん製作せいさくてき明信あきのぶかたふうめん,描繪りょう魯塞あまてき國家こっかがた象徵しょうちょう
1. べい迦勒もと聶伯がらすかつらんてきしゅ聖人せいじん
2. 魯塞あまえいRuthenian lionがらすかつらん西部せいぶてき象徵しょうちょうぶつ
3. あい黃旗きはたのぼり1848ねん革命かくめいこれ開始かいし採用さいようてき國體こくたいがた色調しきちょう
4. 沃夫かずはじめ輔的紋章もんしょう
5. 格言かくげん: 「がらすかつらん仍在人間にんげん

魯塞あま/rˈθしーたniə/; ひしげひのとRuthenia or Rutenia, なみらんRuś, しろにわか斯語Рутэнія, Русь, にわか语:Рутения, Русь, がらすかつらんРутенія, РусьうまRuteniia, Rus),またつくふさがあまいち外來がいらいしょういい最初さいしょざいちゅう世紀せいきひしげひのとちゅうよう于指だいもと輔羅斯西にし-沃里あま王國おうこく[註 1]ざい這些こく消失しょうしつこれ,就轉ためゆびだいたてすえあて大公たいこうこくなみらん王國おうこくうらてきひがし斯拉夫人ふじんひがし正教せいきょう地區ちく對應たいおう現代げんだいてきがらすかつらんはく[1][2]

ざい近代きんだい早期そうきこれ, 魯塞あまRuthenia這個說法せっぽう開始かいし主要しゅよう魯塞あましょう哥薩かつ酋長しゅうちょうこくあいひさげなみろんはくかく·赫梅あまいばらもと於1649ねん2がつ曾向代表だいひょうなみらんりつすえあて聯邦れんぽうまととう·もとふさがしか(Adam Kisiel)宣告せんこく本人ほんにんあたま銜)「魯塞あまくにてき統治とうちしゃ[3]當時とうじ談判だんぱん提出ていしゅつよう「魯塞あま亞大あだい公國こうこく」這個形式けいしきゆずる哥薩かつ酋長しゅうちょうこく以平いたいらとう地位ちいさい加盟かめいかいいたなみらんりつすえあて聯邦れんぽう內。

西にし亚和らく梅里うめさと亚王こく(1772–1918)てきがらすかつらんじん魯塞あまじん所定しょていきょてき土地とち對應たいおうがらすかつらん西部せいぶてきいち部分ぶぶん奧地おくちかんかた也稱ため魯塞あまざい現代げんだい於烏かつらんてき份認どうざいだい部分ぶぶんげん魯塞あま地區ちくしょ主導しゅどう地位ちい,這個しょういい就被主要しゅようゆびだいかい中部ちゅうぶ東部とうぶおうしゅうこれあいだぞく卢森あま亚人所定しょていきょてき領土りょうどそくがらすかつらんなみらん斯洛かつさかい內位しょ喀爾ともえ阡山沿山腳帶てき地區ちく

ちゅう世紀せいき早期そうき

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魯塞あまえいRuthenian lionざい15世紀せいきてきかんひろし大公たいこう會議かいぎ期間きかん開始かいし用作ようさく代表だいひょう魯塞あまてき紋章もんしょう

ついさかのぼ11世紀せいきおうしゅうてき稿こううら使用しよう魯塞あまRuthenia描述もと輔羅斯そく斯人Rus'通稱つうしょうKievan Rus'しょ佔據てきいちこう地域ちいき。這個がたせい也曾よう於指しょうみどり根島ねじまてき斯拉夫人ふじん[4]あるなみてきうみてき其他斯拉夫人ふじん後者こうしゃざい12世紀せいきさつ文筆ぶんぴつてき描繪うら暴戾ぼうれいうみぬすめけん異教徒いきょうとてき形象けいしょう——儘管ざい10世紀せいきもと輔羅斯已接受せつじゅ基督教きりすときょう[5]王公おうこうどる谢沃らくとくいちせいてき女兒じょじよう芙普かつ菈西婭Eupraxia of Kiev,1089ねんよめきゅうりょうかみ聖羅せいら帝國ていこくてき君主くんしゅとおるよんせい[6]ざい13世紀せいきしょ開始かいしこうむ古人こじんごく破壞はかいりょく佔據魯塞あま主要しゅよう地區ちく, 魯塞あま西部せいぶしょ公國こうこくそく併入りょうたてすえあて大公たいこうこくざい此後せい政體せいたい就被しょうつくたてすえあて及魯塞あま亞大あだい公國こうこくthe Grand Duchy of Lithuania and Ruthenia[7][8]なみらん王國おうこく也在其兼併けんぺい西にし取得しゅとくりょう魯塞あま國王こくおうてきあたま[9]以上いじょうてきあたま銜在なみらんりつすえあて聯邦れんぽう建立こんりゅうごうため一同いちどう。而魯塞あまてきいちしょう部分ぶぶん喀爾ともえ阡魯塞あま主要しゅよう現代げんだいがらすかつらんそと喀爾ともえ阡州てきいち部分ぶぶん),ざい11世紀せいき變成へんせい匈牙王國おうこく轄屬てき部分ぶぶん[10]。匈牙てき歷任れきにん君主くんしゅいちちょく使用しよう西にし及洛梅里うめさと國王こくおうてきあたま銜,ちょくいた1918ねん[11]

ちゅう世紀せいき後期こうき

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ざいいたりょう15世紀せいきてき時候じこう莫斯公國こうこくあるしょう莫斯維爾Muscovy, Moscovian Rusざい相當そうとう範圍はんいてき魯塞あま領土りょうどじょう建立こんりゅうおこり自己じこてき權威けんい統治とうちしかこう就為爭奪そうだつ剩餘じょうよてき魯塞あま領土りょうど開始かいしあずかたてすえあて交戰こうせん[12][13]。1547ねん莫斯公國こうこくはた君主くんしゅあたま銜改なりりょう莫斯だい元首げんしゅ及全斯的すなすめらぎThe Great Principat of Moscow and Tsardom of the Whole Rusこえさくざいぜんようゆう主權しゅけん — 其行為こういなみ它的鄰國らん認可にんか[14]。莫斯公國こうこく人口じんこうぞく於東おひがし正教せいきょう信仰しんこう,而其後來こうらいさら喜好きよしようまれ臘語翻譯ほんやくからだRossia(Ῥωσία)[15]而不ひしげひのとてき魯塞あまRuthenia。

14世紀せいき包括ほうかつ西にし-沃里あまもとしょ公國こうこくてき斯領なりためりょうたてすえあて大公たいこうこくてきいち部分ぶぶん而立じりつすえあて就在1384ねんあずか天主教てんしゅきょうなみあい結盟けつめいゆかり此是なりため1569ねんてき聯邦れんぽう共同きょうどうたいよし聯邦れんぽう通用つうようひしげ丁字ていじはは而非西里にしざとなんじ字母じぼはら地方ちほうざい聯邦れんぽう內)就常ようひしげひのと名稱めいしょう魯塞あまRutheniaところゆびだい。以拉ひのと英語えいご其他げんてき拼寫形式けいしきざい這段時期じきうら也是常用じょうようてき

どういち時期じきうらざい西にし-沃里あま建立こんりゅうおこり鲁塞あま亚省而一ちょく存續そんぞくいた18世紀せいき

這些南部なんぶてき領土りょうど包括ほうかつゆう

にわか斯沙皇國こうこくてき正式せいしきしょういいVelikoye Knyazhestvo Moskovskoye (Великое Княжество Московское)ちょくいた1547ねんまえしょうさく莫斯大公たいこうこく,儘管さんせい(1440–1505, r. 1462–1505さらはや時候じこう創造そうぞうぜん斯的だいすなすめらぎ」這いちとう[16]

現代げんだい時期じき

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がらすかつらん

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ざい斯諸じょうRus/Russiaがたてき使用しよう存續そんぞく較長時間じかん,此間其被がらすかつらんじん用作ようさくゆびしょうがらすかつらんとう哈布斯堡君國くんこくざい1772ねんはたぞくつけいさおこくてき西にし-らく梅里うめさと轉變てんぺんためいちしょう份時,哈布斯堡官吏かんり們才發覺はっかく當地とうちひがし斯拉夫人ふじんあいだゆう顯著けんちょ差異さいなみらんじんにわか斯人互不いちよう同時どうじ自稱じしょう自身じしんためRus。ちょくいた1918ねん帝國ていこく解體かいたいぜん確實かくじつ如此[17]

よし1880年代ねんだいじきいた20世紀せいきてきあたまじゅうねん民族みんぞく称呼しょうこUkrainian てき普及ふきゅう擴大かくだいおこりらい,而Ukraine這個がた就成ためりょう帝國ていこく內烏かつらんじんたいMalaya Rus' てきがえだい稱呼しょうこりょういちだん時間じかんRus這個がたおさむ窄其意思いし範圍はんい限定げんていゆびだいりょう現代げんだいがらすかつらんてき西部せいぶ地區ちく西にし/, 喀爾ともえ阡魯塞あま),這片地域ちいきとう時候じこうせいしょ於烏かつらんこくぞく主義しゅぎあずか西にしにわか主義しゅぎGalician Russophiliaてき交鋒なか[18]いたりょう20世紀せいき早期そうきUkraine這個ゆびしょうざい這些領土りょうどじょう極大きょくだい程度ていどだいりょうMalorussiaてき使用しよう,而到1920年代ねんだい中期ちゅうきざい北美きたみ地區ちくてきがらすかつらんじんりゅうしゃ羣也同樣どうよう轉變てんぺん如此。

ざいなみらん(以及としかつ斯洛かつてき人口じんこうすなわちようRusyn(魯塞あまじん作為さくい正式せいしきてき自我じが份認どうちょくいた1939ねんてき時候じこうたい於其許多きょた魯塞あまじん和波わなみらんじんらいせつUkrainiecがらすかつらんじん)這個たんゆびゆう參與さんよあるともぜんたいまちこくぞく主義しゅぎ運動うんどうてき個人こじん[19]

現代げんだいてき魯塞あま

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1918ねん顯示けんじりょうゆかり喀爾ともえ阡魯塞あまらんかつ共和きょうわこく西にしがらすかつらん人民じんみん共和きょうわこくせんしょうぞく於並てのひらひかえ地區ちくてき地圖ちず
1938~39ねんてき喀爾ともえ阡魯塞あま自治じち區域くいきあずか喀爾ともえ阡烏かつらん

1918ねんこれ,魯塞あま這個名稱めいしょうちぢみ窄成ゆびだい匈牙王國おうこく喀爾ともえ山地さんちてき南部なんぶ地區ちくうら也稱ため喀爾ともえ阡魯塞あまがらすかつらんкарпатська Русьうまkarpatska Rus, 包括ほうかつりょうきよし卡切沃がらす霍羅とくあずかひろしかみなり绍夫しょしろ鎮),ひがし斯拉おっと高地こうちじん一族いちぞくてき喀爾ともえ阡魯塞あまじんCarpatho-Rutheniansところ聚居てき位置いちとう魯塞あまじんみとめため自己じこてき份是がらすかつらんじん,喀爾ともえ阡魯塞あまじんなりためりょう最後さいご一群保留使用古老而具歷史稱謂的東斯拉夫人(Ruthen斯拉おっとrusynてきひしげひのと語形ごけいせい)。如今,もりRusyn這個ゆびたたえよう於描じゅつ魯塞あまじんてき種族しゅぞく性質せいしつ和語わごごとみとめどう這種份的人並ひとなみぼつゆう很強趨向すうこう接受せつじゅがらすかつらんこくぞくてき份認どう

喀爾ともえ阡魯塞あま匈牙Kárpátalja於公もと1000ねん時成ときなりためしん建立こんりゅう匈牙王國おうこくてきいち部分ぶぶんざい1919ねん5がつ,其以喀爾ともえ阡山Subcarpathian Rus' てき形式けいしきざい名義めいぎ自治じち權力けんりょくしも加入かにゅうりょう過渡かとせいてきとしかつ斯洛かつ國家こっかよしこれ,魯塞あまじん就被分離ぶんりなりさんしゅ政治せいじ運動うんどうたいにわか主義しゅぎしゃRussophiles, 們是魯塞あまじんさくにわか斯民ぞくてきいち部分ぶぶんがらすかつらん主義しゅぎしゃUkrainophilesあずか們在喀爾ともえ阡山外的がいてき奇異きい同道どうどういちようみとめため魯塞あまじんぞく於烏かつらん民族みんぞくてきいち部分ぶぶん;魯塞あま主義しゅぎしゃRuthenophiles, 們是せんしょう喀爾ともえ阡魯塞あまぞく於一個分立開來的民族,同時どうじ也有やゆう意向いこう發展はってんいちしゅ本土ほんどもりてきげん和文わぶん[20]

とう1938ねんほうこく西にしはんきばてきほうあきらとく國納こくのういき政府せいふ認定にんてい製造せいぞうあさはんざいとくこくほうあきらゆうつぎよび籲要建立こんりゅう一個更廣袤烏克蘭的獨立建政,這裡涵蓋範圍はんいわたる及到魯塞あま,匈牙てきいち部分ぶぶん包括ほうかつ沃夫ざい內的らんひがし南部なんぶかつさとまい,以及包括ほうかつもと輔和哈爾おっとてきがらすかつらん[21]

ざい1939ねん3がつ15にち,喀爾ともえ阡魯塞あまてきがらすかつらん主義しゅぎしゃ總統そうとうおく斯丁·沃洛さるせん佈當獨立どくりつ建國けんこくため喀爾ともえ阡烏かつらん,而皇匈牙ぐんてき正規せいき部隊ぶたいざいどう一天就佔據和控制了這片地區。1944ねんれん陸軍りくぐん也佔りょうりょう這裡てき領土りょうどしかてき1945ねん該地就被強行きょうこう併入りょう乌克兰苏维埃劃入苏联てきもりじんゆう獲得かくとく當局とうきょく認證にんしょうためいち種族しゅぞくぐんたいいんためれん政府せいふみとめため們的份是ぞく於烏かつらんじん

いた現代げんだいがらすかつらん政府せいふ及一些現だいがらすかつらん政治せいじ人物じんぶつせんたたえふさがあまじんがらすかつらん民族みんぞくてきいち部分ぶぶん乌克兰そと喀爾ともえ阡州てき一些人口成員是認同自身為盧森尼亞人(魯塞あまじん),どう時候じこう們還ぞく於烏かつらん民族みんぞく份的成員せいいんいち

せんこうゆうもり人的じんてき少數しょうすうぞく羣留存在そんざいりょうとしかつ斯洛かつ東部とうぶ現代げんだいてき斯洛かつ),根據こんきょいち些駁斥,這裡てき魯塞あまじんごくかい斯洛かつ[22]。魯塞あまてき書寫しょしゃぶん於1995ねん獲得かくとくりょう標準ひょうじゅん[23]

釕的命名めいめい

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なみ罗的うみとく自然しぜんがくけん化學かがく卡爾·おん斯特·かつろうえいKarl Ernst Clausざい1844ねんしたがえがらすひしげなんじやまひろてき礦石うら分離ぶんり元素げんそなみ將之まさゆき命名めいめいためRuthenia,該稱ゆびひしげひのと名稱めいしょうてきにわか[24]

まいり

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備註

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  1. ^ 當時とうじ可能かのうあずかRussia、Ruscia、Roxolaniaとう用法ようほうてき含義一致いっち

參考さんこう

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  1. ^ Nazarenko, Aleksandr Vasilevich. 1. Имя "Русь" в древнейшей западноевропейской языковой традиции (XI-XII века) [The name Rus' in the old tradition of Western European language (XI-XII centuries)]. Древняя Русь на международных путях: междисциплинарные очерки культурных, торговых, политических связей IX-XII веков [Old Rus' on international routes: Interdisciplinary Essays on cultural, trade, and political ties in the 9th-12th centuries]. Languages of the Rus' culture. 2001: 40, 42–45, 49–50. ISBN 978-5-7859-0085-1. (原始げんし内容ないよう (DJVU)そん档于14 August 2011) にわか语). 
  2. ^ Magocsi, Paul R. A History of Ukraine: The Land and Its Peoples. University of Toronto Press. 2010: 73 [14 February 2017]. ISBN 978-1-4426-1021-7. (原始げんし内容ないようそん于2017-02-17). 
  3. ^ Khmelnychyna. Izbornyk - History of Ukraine IX-XVIII centuries. Sources and Interpretations. Encyclopedia of Ukrainian Studies. [25 January 2015]. (原始げんし内容ないようそん于2022-05-13) (乌克兰语). 
  4. ^ Ebbo, Herbordus The Life of Otto, Apostle of Pomerania: 1060 – 1139. [2022-07-07]. (原始げんし内容ないようそん于2020-02-23). 
  5. ^ Paul, Andrew. The Roxolani from Rügen: Nikolaus Marshalk's chronicle as an example of medieval tradition to associate the Rügen's Slavs with the Slavic Rus. The Historical Format. 2015, 1: 5–30 [2022-07-07]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-16). 
  6. ^ Annales Augustani. 1839: 133 [2022-07-07]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-16). 
  7. ^ An Historical Geography of Russia. [2022-07-07]. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-17). 
  8. ^ Russia, the Giant that Came Last, Volume 25. [2022-07-07]. (原始げんし内容ないようそん于2022-04-23). 
  9. ^ Document Nr 1340 (CODEX DIPLOMATICUS MAIORIS POLONIA). POZNANIAE. SUMPTIBUS BIBLIOTHECAE KORNICENSIS. TYPIS J. I. KRASZEWSKI (Dr. W. ŁEBIŃSKI). 1879.
  10. ^ Magocsi 1996だい385ぺーじ.
  11. ^ Francis Dvornik. The Slavs in European History and Civilization. Rutgers University Press. 1962: 214. ISBN 9780813507996. 
  12. ^ Grand Principality of Moscow页面そん档备份そん互联网档あんBritannica
  13. ^ Ivan III页面そん档备份そん互联网档あんBritannica
  14. ^ Dariusz Kupisz, Psków 1581–1582, Warszawa 2006, s. 55–201.
  15. ^ T. Kamusella. The Politics of Language and Nationalism in Modern Central Europe. Palgrave Macmillan UK. 16 December 2008: 164–165 [2022-07-07]. ISBN 978-0-230-58347-4. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-16). 
  16. ^ Trepanier, Lee. Political Symbols in Russian History: Church, State, and the Quest for Order and Justice. Lexington Books. 2010: 38–39, 60 [2022-07-07]. ISBN 9780739117897. (原始げんし内容ないようそん于2022-07-17). 
  17. ^ See George Vernadsky. A History of Russia (1943–69). Pp. xix, 413. New Haven: Yale University…[permanent dead link];(1936) Political and Diplomatic History of Russia;(1943–69) A History of Russia (Yale Press) ISBN 0-300-00247-5; and (1948, republished 1973) Kievan Russia
  18. ^ Magocsi 1996だい408-409,444ぺーじ:"Throughout 1848, the Austrian government gave its support to the Ukrainians, both to their efforts to obtain recognition as a nationality and to their attempts to achieve political and cultural rights. In return, the Ukrainian leadership turned a blind eye to the political reaction and repressive measures that at the same time were being carried out by Habsburg authorities against certain other peoples in the empire" (pp. 408–409) ... "Most important from the standpoint of the debate as to the proper national orientation was the Austrian government's decision in 1893 to recognize the vernacular Ukrainian (Rusyn) language as the standard for instructional purposes. As a result of this decision, the Old Ruthenian and Russophile orientations were effectively eliminated from the all-important educational system" (pp. 444)
  19. ^ Robert Potocki, Polityka państwa polskiego wobec zagadnienia ukraińskiego w latach 1930–1939, Lublin 2003, wyd. Instytut Europy Środkowo-Wschodniej, ISBN 83-917615-4-1, s. 45.
  20. ^ Gabor, Madame. Ruthenia. The Ashridge Journal. Autumn 1938, 35: 27–39. 
  21. ^ Fabra. ALEMANIA ESTA CREANDO UN NUEVOFOCO DE PERTURBACIONES EN UCRAINA. La Vanguardia. 18 December 1938: 7 [1 April 2022]. (原始げんし内容ないようそん于2022-04-01) 西にしはんきば语). «Le Figaro» [...] la creación de una Ucraina independiente [...] un mapa de los territorios de raza ucrainiana en que se incluye a la Rutenia, una parte de Hungría, el sureste de Polonia con la ciudad de Lwow, y toda la Ucraina soviética, con Crimea y las ciudades de Kiev y Jarkov 
  22. ^ The Rusyn Homeland Fund. carpatho-rusyn.org. 1998 [13 February 2017]. (原始げんし内容ないようそん于2021-06-19). 
  23. ^ Paul Robert Magocsi: A new Slavic language is born, in: Revue des études slaves, Tome 67, fascicule 1, 1995, pp. 238–240.
  24. ^ Pitchkov, V. N. The Discovery of Ruthenium. Platinum Metals Review. 1996, 40 (4): 181–188 [2022-07-13]. (原始げんし内容ないようそん于2011-06-09). 

外部がいぶ連結れんけつ

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