11PM
WIDE SHOW 11PM | |
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ジャンル | バラエティ |
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( | |
オープニング |
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エンディング |
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プロデューサー |
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よみうりテレビ( | |
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1965 | |
1968 |
『11PM』(いれぶん・ぴーえむ)は、
概 要
[1972
詳 細
[オープニング・エンディング
[テーマ音 楽
[![]() |
シルエットのラインダンサーが
1980
2000
2009
テーマバックアニメーション
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- オープニングでは
時 計 が18:00ちょうどから23:00ちょうどを差 し、時 計 の真 ん中 の丸 が地 球 になり、地 球 から電 波 が発 信 し、地 球 が塗 りつぶしの丸 (切 れ目 がある)になり左 右 に動 き、ラインダンサーが踊 る姿 、女 性 の裸 体 が描 かれ、11PMの文 字 をかたどった星 座 が出 て最 後 には"WIDE SHOW 11PM"となって登 場 する。 - テーマ
音 楽 、テーマバックアニメーション共 に第 1回 から番 組 終 了 まで使 われた。だが番 組 初 期 のアニメーションではラインダンサーの数 は3人 ではなく15人 以 上 であり、女 性 の裸 体 ではなく「渦 巻 」が映 されている。またこの時 期 のテーマ音 楽 のラストは「ドゥワー」は無 かった。 - エンディングでは
地 球 が現 れ、地 球 から電 波 が発 信 し、その後 逆 になり、地 球 が爆 発 する。次 に女 性 の裸 体 が描 かれラインダンサーが踊 る姿 の後 11PMの文 字 をかたどった星 座 が出 て"WIDE SHOW 11PM"となり、最 後 に"The End"の文 字 がズームアウトしていく。
開 始 と終 了 の挨 拶
[例 :「来 週 は東 京 ・日 本 テレビからお送 りします。おやすみなさい。」
代 表 的 な企 画
[巨 泉 ・考 えるシリーズ巨 泉 時 代 の月 曜 イレブンはお色 気 企 画 が多 かったが、硬 派 な社 会 問 題 も特 集 した。1971年 に「戦 後 日 本 の大 空 白 」というタイトルで徴 用 工 問 題 や慰 安 婦 問 題 を放 送 。沖 縄 返 還 直 前 の「沖 縄 で君 は何 を見 たか」(1972年 3月 13日 放 送 )、沖 縄 返 還 当 日 の「棄 てられた沖 縄 の証 言 〜返 還 後 の沖 縄 の防 衛 を考 える」(1972年 5月 15日 放 送 )、1985年 に起 きた11歳 の少 年 投 身 自 殺 事 件 (「マー先 のばか」と書 かれた遺 書 )など、政 治 ・事 件 ・事 故 など数 々の社 会 問 題 を取 り上 げ、1972年 5月 9日 に第 9回 ギャラクシー賞 ・放 送 批 評 家 賞 を受 賞 した[11][12]。- 1982
年 の1月 から3月 にかけて計 5回 放 送 された「日 韓 シリーズ」は大 きな反 響 を呼 び、3月 1日 には韓 国 放 送 公 社 で総 集 編 という形 で韓 国 でも放 送 された。巨 泉 は、「このシリーズ1本 のため、残 り364日 はバカを言 ってもいい」と語 っていたと言 う。プロデューサーの都 築 忠 彦 は視 聴 率 は取 れるときに取 ればいいという考 えで、取 れるものでベースを作 った上 で、あとからテーマ性 のあるものを打 ち出 して制 作 したと語 っているが、後 に雑 誌 『中 央 公 論 』での対 談 で田 原 総 一 朗 から「何 で低 視 聴 率 になってしまう韓 国 問 題 や沖 縄 問 題 をやるのか」と聞 かれたという[12]。 -
日 本 テレビが毎 年 8月 に開 催 する大 型 チャリティー番 組 『24時 間 テレビ 「愛 は地 球 を救 う」』はこのシリーズの「世 界 の福 祉 特 集 」が元 となっており、同 番 組 スタッフが日 本 テレビ開 局 25周 年 記 念 番 組 の社 内 コンペで同 特 集 を企 画 として出 して採 用 されたとしている。なお、アメリカ合 衆 国 で毎 年 開 催 されている『レイバー・デイ・テレソン』を参 考 にしたという指 摘 もあるが、24時 間 テレビの発 案 者 でもある都 築 はこれを否 定 している[12]。 久 里 洋 二 のミニミニアニメーション- 1966
年 から1982年 まで、月 曜 イレブンのコーナーとして800本 近 いショートテレビアニメが放 送 されていた。 裸 の報 告 書 シリーズ- ポール・モーリアの「オリーブの
首 飾 り」のテーマ曲 で始 まる月 曜 イレブンのお色 気 企 画 。主 にいその・えいたろう(風 俗 ライター)やカルーセル麻 紀 がリポーターを務 め、トルコ風 呂 (現 在 :ソープランド)などの性 風 俗 産 業 の取 材 を行 い、裏 文 化 の仕 掛 け人 の紹 介 をした。 - UFO・
超 能 力 特 集 - 1970
年 代 中 盤 以 降 、月 曜 イレブンで年 に数 回 、UFOや超 能 力 に関 する特 集 が組 まれた。番 組 後 年 は水 曜 に放 送 していた。 - TIME GANG(タイム・ギャング)(よみうりテレビ
制 作 ) - 1979
年 から1987年 までの火 曜 イレブンでは、構 成 に東 京 同 様 のマガジン形 式 を採 り入 れ、特 に「TIME GANG」のサブタイトルを付 けて放 送 した。進 行 は羽 川 英 樹 (当 時 よみうりテレビアナウンサー)や初 期 は高 橋 基 子 が務 め、レポーターとして横 山 プリン、後 年 はタージン、九 十 九 一 らが登 場 していた。司 会 の藤 本 義 一 はまとめ役 (コメンテーターに準 じたもの)に回 った。ただし、バーテンダー役 の野 村 頻 紹 との掛 け合 い生 CMは引 き続 き放 送 した。後 述 する「秘 湯 の旅 」はこの「TIME GANG」のコーナーの一 つである。 裸 のヨガ(よみうりテレビ制 作 )火 曜 イレブンの企 画 。文 字 どおり、海 岸 で女 性 モデルが全 裸 (前 が映 る時 はトップレス)でヨガのポーズを披 露 していた。秘 湯 の旅 (よみうりテレビ制 作 )火 曜 イレブンの企 画 。「うさぎちゃん」と呼 ばれた女 性 リポーターが全 裸 に近 い状 態 で、数 々の温 泉 を紹 介 した。「効 能 」という言 葉 もこのコーナーから広 まった。- イレブンルーレット
- 1986
年 4月 から9月 まで、所 ジョージが担 当 した水 曜 イレブンで放 送 。番 組 のセット自 体 が巨 大 なルーレットとなっており、電 話 による視 聴 者 参 加 形 式 でルーレットゲームを行 った。 - イレブンフィッシング
金 曜 イレブン冒 頭 の趣 味 企 画 。釣 り名 人 ・服 部 善 郎 (読 売 映 画 社 (当 時 )プロデューサー)が主 に海 釣 りをレポートしていた。聞 き手 は横 田 岳 夫 ディレクターが担 当 した。また釣 りが趣 味 の巨 泉 も率 先 してロケに参 加 していた。麻 雀 実 践 教 室 金 曜 イレブンの趣 味 企 画 の一 環 として放 送 され、麻 雀 番 組 の走 りとなっていた。- CAR GUIDANCE
- 1966
年 に大 橋 巨 泉 が金 曜 イレブンのホストになってから1985年 に降 板 するまで続 いた長 寿 コーナー。当 初 は巨 泉 が担 当 していたが、後 に番 組 内 で「悪 役 」と呼 ばれたレギュラー出 演 者 の小 林 昭 男 や女 性 リポーターが新 型 車 をメーカーを問 わず紹 介 し、週 によっては輸 入 車 も取 り上 げることもあった。 - イレブンダービー
競 馬 に見 立 てた双 六 ゲーム。一 般 視 聴 者 が電 話 で参 加 し1対 1で競 われた。いろは順 の(イ - ヌ)×(1 - 10)の数 字 に構 成 されたパネル100枚 の中 から交 互 に1枚 ずつ選 び、書 かれた数 字 分 だけ進 む。ただし、マイナスも隠 れており、選 んでしまった場 合 は数 字 分 だけ戻 らなくてはならない。また、「落 馬 」もあり、この場 合 はその時 点 で失 格 となる。先 にゴールした視 聴 者 が勝 ちとなった。巨 泉 時 代 の金 曜 イレブンで放 送 された。『スーパークイズスペシャル』に巨 泉 がゲストで出 演 したとき、巨 泉 の司 会 で、番 組 出 場 者 が参 加 する形 にしてこの企 画 の復 活 版 が行 われたことがある。マス目 を示 すボードには「イレヴンダービー」と記 載 してあった。- このコーナーの
箇 所 は、1968年 1月 1日 放 送 された『ある日 わたしは』というテレビドラマでも再 現 されており、バニーガール役 として城 山 ゆり子 (松 原 智 恵 子 )とその友 人 の夏 子 (梶 芽 衣 子 )、美 枝 (橘 和 子 )が担 当 している。 海 外 ロケ当 初 は小 島 や巨 泉 があまり知 られていない海 外 (主 にヨーロッパ)を旅 して紹 介 するものだったが、かたせや秋 川 などの女 性 アシスタントのグラビアシーンも取 り入 れられた。また、ロケ地 の夕 陽 の映 像 を必 ず撮 影 していき、そのシーンを紹 介 したコーナーもあった。異 色 対 談 違 う世 界 の大 物 著 名 人 が、予 備 知 識 なしで対 談 するという企 画 。林 家 三 平 ・オノ・ヨーコ、輪 島 功 一 ・金 子 光 晴 、竹 村 健 一 ・五 味 康 祐 など様 々な対 談 があった。紅 白 ストリップ合 戦 全 国 から人 気 ストリップ嬢 が集 合 し紅 白 形 式 に分 かれ、"艶 技 "を披 露 する年 末 恒 例 企 画 。1974年 12月 30日 には番 組 史 上 最 高 視 聴 率 をマークした。夜 のレコード大 賞 (よみうりテレビ制 作 )年 末 企 画 。有 線 放 送 のデータをもとに審 査 され、大 賞 などが決 定 される。後 に独 立 して『全 日 本 有 線 放 送 大 賞 』と改 称 され、現 在 は『ベストヒット歌 謡 祭 』として放 送 されている(ただし賞 レース形 式 は2010年 をもって撤 廃 されている)。各 界 名 士 のど自 慢 年 内 最 後 の放 送 の年 末 企 画 。政 治 家 、社 長 、文 化 人 などが歌 を披 露 した。終 了 後 も独 立 した特 番 として1993年 ごろまで続 いた。上 方 お笑 い芸 人 紅 白 歌 合 戦 (よみうりテレビ制 作 )大 阪 発 の年 内 最 後 の放 送 における関 西 芸 人 たちによる年 末 企 画 。司 会 は羽 川 英 樹 で藤 本 は審 査 員 だった。
創 設 期
[「
しかし
放 送 時 間
[1965 |
23:00 - |
23:15 - |
1966 |
23:15 - | |
1969 |
23:10 - | |
1972 |
23:15 - | |
1974 |
23:15 - | |
1980 |
23:20 - | |
1985 |
23:30 - |
23:45 - |
1988 |
23:55 - |
特 記 事 項
[制 作
企 画 段 階 では月 曜 から金 曜 まで全 曜 日 を日 本 テレビが制 作 する予 定 だったが、当 時 の日 本 テレビ内 部 では社 員 の労 働 超 過 が問 題 になっており、労 働 組 合 が猛 反 発 。会 社 側 が「日 本 テレビ制 作 は月 曜 日 ・水 曜 日 ・金 曜 日 の週 3日 とし、火 曜 日 ・木 曜 日 はよみうりテレビに制 作 を委 託 する」という妥 協 案 を出 し、これを組 合 側 が受 け入 れて番 組 が制 作 された。尚 、後 の番 組 好 評 を受 けて、1967年 夏 より土 曜 22時 台 にてよみうりテレビ制 作 による土 曜 版 の放 送 が開 始 (司 会 は曾 我 廼 家 明 蝶 )されたが、1968年 5月 までの短 期 間 で打 ち切 られている。この体 制 は後 番 組 の『EXテレビ』→『どんまい!!→TVじゃん!!』にも受 け継 がれたが、『ZZZ』では地 方 局 の多 くも参 加 (ただし、制 作 は東 京 のプロダクションに丸 投 げ)。それが発 展 解 消 した現 在 の『夜 は別 バラ→しんバラ→バリューナイト→プラチナイト』では、木 曜 日 [注 釈 6]に限 りよみうりテレビが制 作 を担 当 している[注 釈 7][注 釈 8]。大 阪 担 当 の木 曜 日 は時 折 ネット局 各 社 との共 同 制 作 となり、藤 本 などの司 会 者 が日 本 各 地 に出 張 して放 送 された。内 容 は大 抵 が「〇 〇 県 の風 俗 」となっていたが、ここで言 う「風 俗 」とはどちらかといえば「民 俗 」に近 い、真 面 目 な物 が多 かった。最 初 のCMに入 る前 には必 ず製 作 (制 作 )著 作 のロゴ表 記 をしていた(最 後 の挨 拶 でも同 様 )。例 :「製 作 著 作 (当 時 の社 章 )日 本 テレビ[注 釈 9]」「制 作 著 作 よみうりテレビ」
見 識
明 石 家 さんまのテレビデビューは当 番 組 の大 阪 イレブンで、「落 語 家 の成 人 式 」という副 題 で「SEXの四 十 八 手 以 外 に知 っている技 は」という質 問 に「逆 さ十 文 字 落 としでぇーす」と答 え、説 明 してウケたが、司 会 の藤 本 義 一 から「さんまかいわしか知 らんけどな、テレビで言 っていいことと悪 いことがある。それぐらい覚 えて出 て来 い!」と本 番 中 に叱 責 された事 を後 年 語 っている。
時 事
- 1972
年 5月 15日 の「沖 縄 の本 土 復 帰 」[注 釈 10]や1977年 7月 27日 の「ロッキード事 件 ・田 中 前 首 相 逮 捕 」の時 は『11PM NNN報 道 スペシャル』として、それぞれに関 連 した内 容 を放 送 したほか、1985年 8月 12日 に発 生 した日 航 ジャンボ機 墜 落 事 故 の際 は挿 入 ニュースを入 れながら放 送 。1988年 9月 20日 の「昭 和 天 皇 吐 血 」の時 は『11PM NNNニュース特 報 「天 皇 陛 下 ご重 体 医 師 団 懸 命 の治 療 」』として、急 遽 内 容 を変 更 して放 送 した[17]。いずれの場 合 も「11PM」の題 を残 しながら「NNN」のタイトルが追 加 されていた。
記 念 番 組
節 目 ごとに「○○周 年 記 念 祭 」のスペシャルがあり、巨 泉 ・愛 川 ・藤 本 の3人 やレギュラー出 演 者 が一 堂 に会 した。過 去 に、8周 年 ・10周 年 ・15周 年 ・20周 年 に行 われた。司 会 は徳 光 和 夫 で、後 の『11回 忌 法 要 スペシャル』でも会 場 の司 会 進 行 をしている。
録 画 放 送
稀 に月 曜 日 ・金 曜 日 のプロ野 球 ・巨 人 戦 ナイター中 継 において、月 曜 日 は公 開 生 放 送 の『NTV紅 白 歌 のベストテン』、『ザ・トップテン』、金 曜 日 は『太 陽 にほえろ!』の放 送 が優 先 されることがあったため、試 合 時 間 内 での生 中 継 が出 来 なかったこと、また北 海 道 遠 征 (北 海 道 シリーズ)については平 日 のデーゲームであったことから、その場 合 『11PMナイター』と称 して録 画 ダイジェスト中 継 が行 われた。また、日 本 プロゴルフ選 手 権 大 会 の開 催 日 にも予 選 ラウンド2日 間 を、さらに野 球 ・ゴルフ以 外 の競 技 も録 画 中 継 したことがあった他 、最 終 年 度 の1989年 など読 売 ジャイアンツが優 勝 した年 には祝 勝 会 の録 画 中 継 や優 勝 までのドキュメントをまとめた優 勝 特 番 を放 送 した事 もあった。いずれも先 述 した重 大 ニュース発 生 時 と同 様 に「11PM」の題 を残 しながら放 送 されていた。これは後 継 番 組 の『EXテレビ』でも同 様 だった。- 1969
年 11月 28日 には日 本 テレビの労 働 組 合 がストライキを決 行 したため生 放 送 を行 うことができず、急 遽 、過 去 の収 録 分 を再 放 送 したことがあった[18]。 - 1972
年 から1975年 まで全 日 本 女 子 プロレスの録 画 中 継 も年 4回 の割 合 で行 った。全 女 の中 継 はフジテレビの『全 日 本 女 子 プロレス中 継 』が有 名 だが、当 時 の看 板 レスラーだった赤 城 マリ子 がきっかけとなり彼 女 をメインエベンターとして独 占 的 に放 送 していた。また全 日 本 女 子 プロレスの後 楽 園 ホール初 進 出 も1973年 5月 30日 放 送 分 であった。
放 送 時 間 の短 縮
- 1974
年 には第 1次 オイルショックによる電 力 節 減 の一 環 として放 送 終 了 時 間 の繰 り上 げ措 置 が行 われていた。日 本 テレビでは1月 7日 から0:25終 了 としたためこの番 組 への影 響 は少 なかったが、1月 14日 からその措 置 がとられたよみうりテレビでは在 阪 民 放 4局 [注 釈 11]の社 長 会 の取 り決 めで0:00終 了 となったため、よみうりテレビでは放 送 途 中 の0:00で放 送 終 了 となり、また同 局 が制 作 していた火 曜 ・木 曜 分 は0:00以 降 はネット局 への裏 送 りになった。その後 オイルショックの状 態 が緩 和 されたことにより在 阪 4局 の取 り決 めが解 消 されたため、5月 6日 よりよみうりテレビの放 送 終 了 時 間 が0:25となり、同 日 から通 常 の放 送 に戻 った[19]。
出 演 拒 否
同 じ日 本 テレビの『テレビ三 面 記 事 ウィークエンダー』の1975年 10月 18日 放 送 の回 で、9月 のストリップ小 屋 への警 察 による一 斉 摘 発 ・抜 き打 ち捜 査 の事 件 を採 り上 げた際 に泉 ピン子 が「スパっと脱 いで一 日 8万 円 なら、私 もやりたいわ」と発 言 したことに、ストリッパーで構 成 する組 織 「日 本 成 人 実 演 舞 踊 協 団 」が抗 議 した。日 本 テレビの番 組 制 作 の姿 勢 にも対 立 ・抗 議 し、「今 後 は日 本 テレビの番 組 への出 演 は一 切 辞 退 させていただく」として、12月 29日 に本 番 組 で放 送 を控 えていた「恒 例 !年 忘 れ大 狂 乱 紅 白 ストリップ合 戦 」についても同 協 団 に所 属 する30人 のストリッパーの出 演 の拒 否 を表 明 するという騒 ぎになった[20](この他 の詳 細 についてはテレビ三 面 記 事 ウィークエンダー#取 り上 げた話 題 も参 照 )。その後 、同 協 団 との和 解 が成 立 し、12月 29日 の紅 白 ストリップ合 戦 は予 定 どおり放 送 された。
出 演 者
[月 曜 日 ・水 曜 日 ・金 曜 日 (日 本 テレビ製 作 )
[アシスタント | ||||||
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1965 |
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1966 |
( |
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1967 |
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1968 |
[ |
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1968 |
( | |||||
1968 |
||||||
1968 |
ジューン・アダムス | |||||
1969 |
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1971 |
ジュディ・アントン | |||||
1974 |
||||||
1978 |
かたせ | |||||
1982 |
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1982 |
||||||
1983 |
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1985 |
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1985 |
||||||
1986 |
( | |||||
1986 |
||||||
1987 |
||||||
1988 |
||||||
1989 |
||||||
1989 |
注
- ^
愛 川 の水 曜 日 司 会 担 当 時 、今 野 雄 二 がサブ司 会 を務 めたが、詳 細 な担 当 期 間 は不 明 。 - ^
巨 泉 の金 曜 司 会 就 任 当 初 、パートナーは週 替 わりのゲスト制 を採 っていたが、5週 目 のゲストパートナーとして朝 丘 がゲスト出 演 した際 の両 者 の掛 け合 いが好 評 であったことから1966年 5月 より正 式 にレギュラーに起 用 された。 - ^
朝 丘 の結 婚 ・妊 娠 休 業 に伴 う代 役 として出 演 。 - ^ a b c
小 島 の急 死 (1968年 1月 17日 に急 逝 )に伴 うもので、小 島 急 逝 後 の1か月 間 は水 曜 日 も含 めて巨 泉 がピンチヒッターという形 で務 めていた(2月 中 旬 以 降 、水 曜 日 は堤 と交 代 、月 曜 日 は正 式 に後 任 となった)。 - ^ 1974
年 1月 から3月 は妊 娠 休 業 のため由 紀 さおりが代 理 パートナーとして出 演 。 - ^ カバーガール
担 当 期 間 を含 むが、アシスタント着 任 時 期 は不 明 。
- カバーガール
- ジューン・アダムス
沢 知 美 司 美 智 子 松 岡 きっこ- ジャネット
八 田 - ジュディ・アントン
- エルザ
池 島 ルリ子 樹 れい子 沢 田 和 美 - ナンシー・チェニー
秋 川 リサ多 岐 川 裕 美 - かたせ
梨 乃 - セーラ:
水 曜 日 [注 釈 12] 中 島 はるみ:水 曜 日 - サンドラ・ビショップ
青 山 京 子 :木 曜 日 [注 釈 13]木 下 裕 子 藤 田 佳 の実 - ドリーン・ボイド
浜 野 博 子 清 原 美 華 村 上 里 佳 子 岡 本 夏 生 橘 ゆかり広 田 恵 子 田 島 都 梶 原 真 理 子 中 山 恵 美 田 中 広 子 小 林 古 都 玉 井 美 香 (叶 美 香 )貴 夜 遊 子 (1986年 ):月 曜 日 渡 辺 利 絵 :水 曜 日 向 井 田 彩 子 河 口 りか守 口 文 子 田 代 みゆき藤 岡 未 来 芳 村 郁 子 - SOS
歌 劇 団 :金 曜 日 - イレックス:
金 曜 日
火 曜 日 ・木 曜 日 (よみうりテレビ制 作 )
[アシスタント | ||||||
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メイン | サブ | |||||
1965 |
[ |
( |
||||
1969 |
||||||
1970 |
笹 | |||||
1971 |
||||||
1976 |
||||||
1977 |
||||||
1978 |
||||||
1979 |
||||||
1979 |
テレサ | |||||
1980 |
||||||
1981 |
||||||
1985 |
||||||
1988 |
( |
( |
||||
1988 |
||||||
1989 |
表 注
- ^
藤 本 は唯 一 の皆 勤 出 演 。
- カバーガール
土 曜 日 (よみうりテレビ制 作 )
[- 1967
年 8月 - 1968年 4月 :曾 我 廼 家 明 蝶 - アシスタント:
久 保 村 道 子
- アシスタント:
土 曜 日 (名 古 屋 テレビ制 作 )
[土 曜 日 (日 本 テレビ制 作 )
[ネット局
[『11PM』はNNN
なお、
よみうりテレビ | |||
1973 |
1972 | ||
1973 |
フルネット[ | ||
1966 |
フルネット[ | ||
1967 |
NNN | ||
テレビ |
1969 |
フルネット[ | |
1982 |
|||
1966 |
|||
1966 |
|||
ミヤギテレビ | 1970 |
フルネット[ | |
1971 |
フルネット[ | ||
フルネット。 | |||
( |
1973 |
フルネット[29]。 ★ | |
テレビ |
1981 |
フルネット[ | |
1975 |
|||
テレビ |
1980 |
フルネット[ | |
テレビ |
1972 |
★ | |
( |
1978 |
||
1979 |
フルネット[ | ||
1988 |
ネット その | ||
1976 1975 |
|||
テレビ |
1990 |
サービス 『11 | |
フルネット。 1989 | |||
フルネット。 | |||
フルネット。 | |||
1966 |
フルネット。 | ||
1967 |
★[ | ||
1969 |
★ | ||
1984 |
フルネット。 | ||
1980 |
★ | ||
1969 |
フルネット。 | ||
テレビ |
1969 |
★ 『11 | |
テレビ |
1969 |
★ | |
くまもと |
1982 |
フルネット。 | |
テレビ |
1970 |
||
テレビ |
1970 |
★ | |
1969 |
『11 | ||
1975 |
1977 『11 |
-
注 南 海 放 送 は日 本 テレビ系 列 ではあるが、編 成 方 針 にそぐわないとして長 年 当 番 組 をネットしなかった。開 始 当 初 はいわゆる成 人 向 きとみなし、放 送 エリアである愛 媛 県 の風 土 に馴 染 まないことと、深 夜 のローカルニュースを廃 止 できないのが理 由 であった[39]。しかし1984年 4月 改 編 で「ニューメディア」を強 く意 識 した大 改 編 を断 行 。『必 殺 シリーズ』『特 捜 最 前 線 』など娯 楽 番 組 を占 めていた深 夜 帯 にもメスが入 り、遂 にネットされることになった[40]。
主 なスタッフOB
[日 本 テレビ/東 京 イレブン
井 原 高 忠 :番 組 企 画 立 案 者 。1965年 当 時 、アメリカで放 送 されていた情 報 番 組 を参 考 に立 ち上 げた。後 藤 達 彦 :初 代 プロデューサー。報 道 局 からの参 加 で井 原 とともに番 組 立 ち上 げに尽 力 。テコ入 れ後 もただ一 人 報 道 局 から番 組 に残 り、井 原 が去 った後 は『11PM』を支 える存 在 に。スポーツ局 次 長 などを経 て、制 作 局 長 を最 後 に退 職 [注 釈 26]。横 田 岳 夫 :裏 方 だった大 橋 巨 泉 を司 会 に抜 擢 。金 曜 イレブンで釣 り・ゴルフ・麻 雀 など遊 びを番 組 に取 り入 れた。巨 泉 からは「よこちん」と呼 ばれた。石 川 一 彦 :2代 目 プロデューサー。当 番 組 での自 由 な発 想 を礎 に『木 曜 スペシャル』を開 始 。のちに、常 務 取 締 役 になる。高 橋 進 :愛 川 欽 也 司 会 時 の水 曜 イレブンのディレクター・プロデューサー。音 楽 ・映 画 などの最 新 の流 行 情 報 を番 組 に取 り入 れた。番 組 後 期 は制 作 [注 釈 27]を担 当 。その後 は制 作 局 長 、よみうりテレビ専 務 取 締 役 を歴 任 。赤 尾 健 一 :制 作 会 社 日 企 会 長 。『うわさのチャンネル』『お笑 いスター誕 生 !!』などを演 出 。神 戸 文 彦 :中 後 期 の東 京 イレブンのディレクターで、当 枠の後 番 組 『EXテレビ』(東 京 版 )のプロデューサーも担 当 した。今 も『仮 装 大 賞 』などを手 掛 ける現 役 ディレクター。矢 追 純 一 :UFO研 究 家 。最 初 にUFOを取 り上 げたのは11PMディレクター時 代 。都 築 忠 彦 :『24時 間 テレビ 「愛 は地 球 を救 う」』の生 みの親 。社 会 派 名 企 画 「巨 泉 ・考 えるシリーズ」を担 当 。菅 原 正 豊 :制 作 会 社 「ハウフルス」社 長 。『マジカル頭 脳 パワー!!』『THE夜 もヒッパレ』などヒット作 品 多 数 。景 山 民 夫 :放 送 作 家 として参 加 。木 崎 徹 :放 送 作 家 ・音 楽 プロデューサー。立 教 大 学 の学 生 の時 に、鳥 塚 しげきの紹 介 でAD - ディレクターとして番 組 に参 加 [41]。勝 田 健 :チーフプロデューサー。『久 米 宏 のTVスクランブル』立 ち上 げにも尽 力 [42]。
- よみうりテレビ/
大 阪 イレブン
白 岩 久 弥 :「11PM」担 当 時 は藤 本 義 一 にその演 出 スタイルを絶 賛 された。当 枠の後 番 組 でプロデューサーを担 当 した『EXテレビ』(大 阪 版 )や、『パペポTV』などでTVの新 機 軸 を開 いた。諏 訪 道 彦 :アシスタントディレクターとして参 加 。その後 、東 京 制 作 局 →制 作 局 ・東 京 制 作 センター、編 成 局 ・アニメ事 業 部 へ異 動 。『シティーハンター』『名 探 偵 コナン』などのアニメ番 組 のプロデューサーとして活 動 中 。
11PM 11回 忌 法 要 スペシャル
[11PM 11 | |
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笹 |
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1999
この11
スタッフ
[構 成 :浜 田 悠 、長 谷 川 勝 士 、小 山 薫 堂 、高 橋 洋 二 - ナレーション:
武 田 広 、鷹 西 美 佳 (日 本 テレビアナウンサー) 編 集 :鈴 木 教 全 協 力 :ビデオプロ制 作 進 行 :内 田 佳 代 子 制 作 スタッフ(日 本 テレビ):河 西 裕 、梅 原 幹 、栗 原 甚 、朝 倉 康 晴 、田 澤 実 、馬 場 誠 、高 井 昭 男 、上 田 知 洋 制 作 スタッフ(読 売 テレビ):松 本 芳 久 、三 好 順 作 製 作 スタッフ(ハウフルス):津 田 誠 、鈴 木 正 和 - ディレクター:
加 藤 就 一 (日 本 テレビ)、千 葉 昭 (ハウフルス) 演 出 :小 路 丸 哲 也 (えすと)制 作 協 力 :How Fulls、よみうりテレビ、NTV映 像 センター- プロデューサー:笹
尾 光 - チーフプロデューサー:
柏 木 登 総 合 演 出 :菅 原 正 豊 (ハウフルス)総 監 督 :神 戸 文 彦 、望 月 和 雄 製 作 著 作 :日 本 テレビ
再 放 送 ・ライブラリー
[- 2012
年 1月 、ホームドラマチャンネルで、愛 川 欽 也 が司 会 を担 当 した水 曜 日 のみ「愛 川 欽 也 セレクション」として1978年 、1982年 、1983年 放 送 分 から6本 が再 放 送 された(権 利 関 係 により一 部 の音 楽 の使 用 部 分 をカット)。同 番 組 が地 上 波 を含 めて再 放 送 されるのは初 めてのことである。番 組 の始 めと終 わりに、愛 川 欽 也 ・朝 倉 匠 子 の二 人 が当 時 の思 い出 を語 る数 分 のトークが追 加 された。
- 2014
年 2月 から、衛 星 劇 場 の「ミッドナイトアワー」枠で、土 曜 イレブンや末 期 の日 本 テレビ制 作 の当 番 組 が月 1本 のペースで再 放 送 されていた。肖 像 権 などの権 利 関 係 により、ヌードになるモデルの顔 や裸 にはボカシが施 されたり、一 部 内 容 をカットした配 慮 を加 えた放 送 内 容 となっていた。
横 浜 市 にある放 送 ライブラリーでは以 下 の5本 が閲 覧 可 能 となっている。- 1970
年 5月 7日 放 送 分 「田 谷 力 三 ショー」 - 1973
年 1月 1日 放 送 分 「テレビ20年 なつかしの名 シーン」 - 1980
年 11月 20日 放 送 分 「今 夜 よみがえる東 北 の芸 人 たち」 - 1982
年 3月 1日 ・3月 8日 放 送 分 「韓 国 から見 た日 本 〔2〕〔3〕」
- 1970
パロディー
[- ひょうきんPM:「オレたちひょうきん
族 」のコーナーの一 つ(他 のテレビ番 組 のパロディ) - オヤブンPM:「
爆 笑 !!ドットスタジオ」のコーナー「極 道 テレビ花 田 組 」で放 送 されたパロディ - 「11AM」:
山 陽 放 送 ラジオの情 報 番 組
脚 注
[注 釈
[- ^ STVとの
共 同 制 作 「11PM SAPPORO」など[4] - ^
名 古 屋 テレビからのレギュラー化 以 前 にも共 同 制 作 で「11PM Nagoya」が不 定 期 で放 送 されたこともある[5]。 - ^ シングル
盤 「ハリー・オン・ダウン」には、「よみうりテレビ「11PM」番 組 挿 入 歌 」の表 記 や、11時 の時 計 が描 かれたものなどがある。 - ^
但 し起 用 当 初 より司 会 者 経 験 ゼロの堤 の進 行 ぶりを不 安 視 する向 きがあり、堤 は当 初 契 約 通 り半 年 で降 板 。その後 8月 下 旬 よりサントリーのインフォマーシャルを担 当 していた三 木 鮎 郎 が水 曜 司 会 を担 当 することとなった。 - ^
吉 田 照 美 が出 演 していた当 時 の「金 曜 イレブン」は、10代 後 半 から20代 の女 性 モデルをレギュラーに起 用 (「SOS歌 劇 団 」という番 組 内 グループ)していたこともあり、彼 女 たちのスケジュール(10代 のメンバーは一 部 に法 律 などによる出 演 時 間 の制 約 がかかる者 もいた)に配 慮 しての「擬 似 生 放 送 収 録 」が多 かったようである。 - ^
一 時 期 『プラチナイト』の枠外 だった時 期 あり。 - ^
一 時 期 、中 京 テレビの制 作 枠があった時 期 は日 本 テレビ制 作 枠が週 2日 となっていた。 - ^ 2019
年 4月 からは金 曜 日 に枠が設 置 されることに伴 い、水 曜 日 が中 京 テレビ制 作 に変 更 。これにより、日 本 テレビ制 作 が週 3日 の体 制 は維 持 となる。 - ^ 1985
年 3月 までは「製 作 (社 章 )日 本 テレビ」(他 局 と異 なり「著 作 」の表 記 がなかったため)。また当 番 組 において、日 本 テレビ製 作 時 のロゴ表 記 は手 書 きやゴシック体 がほとんどだったが、エンディングのスタッフロールでは正 規 の局 ロゴが表 示 されていた。 - ^
当 時 、沖 縄 では未 放 送 。 - ^ 1974
年 当 時 テレビ大 阪 は未 開 局 。 - ^ 1979
年 - 1980年 2月 - ^ 1935
年 生 の女 優 とは同 姓 同 名 の別 人 。本 名 同 じ。1960年 3月 23日 東 京 都 生 まれ。東 京 立 正 短 期 大 学 を1980年 3月 に卒 業 。1980年 3月 に「今 週 のギャル」コーナーに出 演 したが、出 演 した際 の反 響 が大 きかったことから1980年 5月 からカバーガールとなった[21]。 - ^
開 始 時 、プロ野 球 ニューススタッフは本 番 組 をかなり意 識 しており、キャスターに当 時 の月 曜 ・金 曜 担 当 であった巨 泉 を引 き抜 く話 もあったという。 - ^
後 述 の、11回 忌 法 要 スペシャルは沖 縄 県 を除 く30局 ネット(長 崎 国 際 テレビ、鹿 児 島 読 売 テレビを含 む)で放 送 された。 - ^ 1994
年 4月 スタートの『ニュースJAPAN』への内 包 となり、FNN単 独 加 盟 局 以 外 でのネットが事 実 上 不 可 能 になったため。 - ^ これに
伴 い、四 国 放 送 、高 知 放 送 、テレビ宮 崎 は『どんまい!! VARIETYSHOW&SPORTS』よりネット再 開 した。 - ^ a b c d e f g h i 11
回 忌 法 要 スペシャルもネット。 - ^ a b c d e f g h 11
回 忌 法 要 スペシャルはネット。 - ^ ネット
交 換 前 、日 本 テレビ系 列 (NNNのみ)だった福 島 テレビではネットされなかったが、福 島 テレビ・福 島 中 央 テレビとのネット交 換 により1971年 10月 1日 からネット開 始 [27]。 - ^ エログロ
低 俗 化 を訴 えた後 、『ミセス&ミセス』と共 に打 ち切 り。ただし、1983年 10月 12日 は田 中 角 栄 の判 決 に関 する内 容 だったので、「報 道 スペシャル」の題 に置 き換 えた上 で放 送 した。当 番 組 の後 番 組 である『EXテレビ』は1993年 10月 に山 口 放 送 がNNSフルネット局 になってから放 送 を開 始 したほか、『ミセス&ミセス』の後 番 組 である『ルックルックこんにちは』も当 初 は時 差 ネット(一 時 期 放 送 なし)で開 始 したが、1993年 10月 以 降 はフルネットで放 送 した。 - ^
放 送 開 始 した1965年 12月 時 点 ではネットしていない[37]。 - ^ 「テレビ
欄 」『朝 日 新 聞 』大 阪 版 、1969年 4月 30日 、9面 。 - ^ 1975
年 3月 時 点 では既 に打 ち切 っていた。 - ^ いったん
打 ち切 りにし、後 に再 開 。 - ^
当 時 の上 層 部 との折 り合 いが付 かなかったのが退 職 の理 由 。 - ^ チーフプロデューサーと
同 義 。 - ^ この
日 の『ZZZ』第 1部 『キスだけじゃイヤッ!』と、『BOON!』は休 止 。 - ^
長 崎 県 ・鹿 児 島 県 は終 了 後 に開 局 した長 崎 国 際 テレビ、鹿 児 島 読 売 テレビにこの回 だけ移 行 。 - ^
福 澤 は、後 にオーケープロダクションの親 会 社 となったイースト傘 下 のノースプロダクションに所 属 。その後 同 じくイースト傘 下 のオールラウンドへと移 籍 している。
出 典
[- ^
朝 日 新 聞 1963年 9月 30日 朝 刊 P.9 テレビ欄 (朝 日 新 聞 クロスサーチにて閲 覧 ) - ^
朝 日 新 聞 1963年 10月 1日 朝 刊 P.9 テレビ欄 (朝 日 新 聞 クロスサーチにて閲 覧 ) - ^ 『11PM』よみうりテレビ
版 最 終 回 での回 顧 録 より - ^ 11PM SAPPORO -
脚 本 データベース - ^ 11PM Nagoya -
脚 本 データベース - ^ a b c
名 古 屋 放 送 社 史 1982, p. 101. - ^ a b c
名 古 屋 テレビ放 送 50年 史 2012, p. 80. - ^ “
第 3章 社 会 教 育 団 体 としてのPTA /【第 4節 子 供 たちの健 全 育 成 事 業 】有 害 環 境 の浄 化 /有 害 環 境 の浄 化 ”.日 本 PTA全 国 協 議 会 . 2024年 4月 11日 閲 覧 。 “昭 和 61年 (1986)12月 …好 ましくない番 組 ワースト10では、…9(位 )『11PM』” - ^ "『11PM』『
海 賊 チャンネル』『トゥナイト』…「昭 和 の"不 適 切 "番 組 」はどんな内 容 だったのか(週 刊 ポスト2024年 3月 22日 号 )". NEWSポストセブン.小 学 館 . 2024年 3月 15日 . p. 1. 2024年 4月 11日 閲 覧 。 - ^
日 本 テレビ放 送 網 1983, p. 82. - ^ “
第 9回 ギャラクシー賞 受 賞 作 品 ”.放 送 批 評 懇 談 会 . 2014年 11月 14日 閲 覧 。 - ^ a b c “「タモリさんも
僕 も偉 そうなのが嫌 いだった」『24時 間 テレビ』生 みの親 が語 る、番 組 が始 まった頃 ”.週 刊 文 春 (2019年 11月 24日 作 成 ). 2019年 12月 7日 閲 覧 。 - ^ a b
大 橋 巨 泉 2004, pp. 167–170. - ^
大 橋 巨 泉 2003. - ^
大 橋 巨 泉 2004, pp. 208–213. - ^ “
小 栗 香 織 、「11PMの顔 」は写 真 集 制 作 で活 躍 /あの「色 香 女 王 」と感 涙 再 会 (終 )”. アサ芸 プラス. (2020年 1月 3日 ) 2020年 2月 17日 閲 覧 。 - ^
日 本 民 間 放 送 連 盟 (編 )「日 本 テレビ パッケージとナマを適 正 に」『月 刊 民 放 』第 19巻 第 4号 、日 本 民 間 放 送 連 盟 、1989年 4月 1日 、32 - 33頁 、NDLJP:3471040/17。(要 登 録 ) - ^ 「「11PM」ストでお
流 れ制 作 スタッフがすわり込み」『朝 日 新 聞 』1969年 11月 29日 (朝 刊 )、12版 、15面 。 - ^
読 売 テレビ50年 社 史 2009, p. 106. - ^ 「REPORT・
泉 ピン子 の発 言 にストリッパーが抗 議 」『週 刊 TVガイド』1975年 12月 12日 、23頁 。 - ^ 「
出 番 青 山 京 子 」『福 島 民 報 』1980年 5月 11日 、朝 刊 、9面 。 - ^ 「テレビ
欄 」『北 海 道 新 聞 』(マイクロフィルム版 ) 1965年 10月 - 1966年 5月 。 - ^
青 森 放 送 2004, p. 63. - ^
青 森 放 送 2004, pp. 84–85. - ^ 「テレビ
欄 」『東 奥 日 報 』1977年 9月 と10月 。 - ^ 「テレビ
欄 」『福 島 民 報 』1966年 10月 3日 、1970年 9月 30日 (朝 刊 )。 - ^ 「テレビ
欄 」『福 島 民 報 』1971年 10月 1日 (朝 刊 )。 - ^
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株 )テレビ新 潟 放 送 網 『写 真 でつづる テレビ新 潟 10年 のあゆみ』(株 )テレビ新 潟 放 送 網 、1991年 11月 、29頁 。 - ^ テレビ
静 岡 二 十 年 の歩 み 1988, pp. 222–223. - ^ 「テレビ
欄 」『北 國 新 聞 』1988年 4月 8日 (朝 刊 )。 - ^ 「テレビ
欄 」『北 國 新 聞 』1976年 10月 6日 - 1978年 3月 29日 (朝 刊 )。 - ^ 「テレビ
欄 」『北 國 新 聞 』1975年 4月 4日 - 1977年 3月 25日 (朝 刊 )。 - ^ 「おもな
報 道 ・番 組 の事 跡 」『山 口 放 送 三 十 年 史 』山 口 放 送 、1987年 6月 p.137 - ^ 『
山 口 放 送 三 十 年 史 』山 口 放 送 、1987年 6月 pp.243-245 - ^ 「テレビ
欄 」『徳 島 新 聞 』1965年 12月 29日 、7面 。 - ^ 「テレビ
欄 」『朝 日 新 聞 』徳 島 版 、1980年 7月 29日 。 - ^
南 海 放 送 1984, p. 106. - ^ 「テレビ
欄 」『愛 媛 新 聞 』1984年 4月 2日 。 -同 新 聞 同 日 の南 海 放 送 広 告 にも。 - ^
屋 代 卓 也 ;山 浦 正 彦 (2008年 3月 17日 ). “リレーインタビュー第 60回 木 崎 徹 氏 放 送 作 家 /音 楽 プロデューサー”. musicman. エフ・ビー・コミュニケーションズ株 式 会 社 . 2020年 6月 2日 閲 覧 。 - ^
久 米 宏 『久 米 宏 です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』世 界 文 化 社 、2017年 9月 25日 、117頁 。
参 考 文 献
[青 森 放 送 株 式 会 社 『青 森 放 送 50年 史 』青 森 放 送 、2004年 。大 橋 巨 泉 『巨 泉 :人 生 の選 択 』講 談 社 〈講 談 社 文 庫 〉、2003年 。大 橋 巨 泉 『ゲバゲバ70年 !大 橋 巨 泉 自 伝 』講 談 社 、2004年 。- テレビ
静 岡 社 史 編 纂 委 員 会 編 『テレビ静 岡 二 十 年 の歩 み』テレビ静 岡 、1988年 。 名 古 屋 放 送 株 式 会 社 社 史 編 集 委 員 会 編 『希 望 の泉 2』名 古 屋 放 送 、1982年 4月 1日 。NDLJP:12274809。(要 登 録 )開 局 50周 年 記 念 社 史 編 纂 事 務 局 編 『名 古 屋 テレビ放 送 50年 史 』名 古 屋 テレビ放 送 、2012年 。南 海 放 送 株 式 会 社 編 『地 域 とともに三 十 年 』南 海 放 送 、1984年 2月 。NDLJP:12275568。(要 登 録 )日 本 テレビ放 送 網 株 式 会 社 『深 夜 の浮 世 史 : Wide show 11PM』日 本 テレビ放 送 網 、1983年 2月 18日 。NDLJP:12275349。(要 登 録 )読 売 テレビ50年 社 史 編 纂 委 員 会 編 『読 売 テレビ50年 社 史 』讀 賣 テレビ放 送 、2009年 。
関 連 項 目
[- BS11PM:BS
日 本 の情 報 番 組 。11PMのリメーク版 。 - Voice of 11PM:ニッポン
放 送 のラジオドラマ。 都 市 伝 説 :大 阪 ビジネスパークのTWIN21ビルの影 が、11時 11分 に11分 間 かけて通 過 すると言 われ、暗 くなることから『11PM』と呼 ばれたという説 。- ダイハツ・フェロー:
初 代 のカタログ写 真 の一 部 が、大 阪 イレブンの番 組 セットで撮 影 された[fellow 1][fellow 2]。
- ^ 『ダイハツ・フェロー カタログ』ダイハツ
工 業 、1967年 、3-4頁 。 - ^
小 関 和 夫 『日 本 の軽 自 動 車 カタログで楽 しむ360ccの時 代 』三 樹 書 房 、2000年 、74頁 。ISBN 4-89522-265-9。
11PM
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11PM
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11PM
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The Day きょうの
※23:00 - 23:20 |
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11PM
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きょうの
※23:00 - 23:30 |
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11PM
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きょうの
Sports&News ※23:00 - 23:55 |
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11PM
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11PM
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きょうの
Sports&News ※23:30 - 23:55 |