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諏訪すわ盛重もりしげ

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諏訪すわ盛重もりしげ
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ
生誕せいたん 不明ふめい
死没しぼつ ぶんひさし4ねん1267ねん)4がつごろ?[1]
改名かいめい 盛重もりしげはちすぼとけ法名ほうみょう
別名べつめい 諏訪すわ兵衛ひょうえじょう諏訪すわ兵衛ひょうえ入道にゅうどう(ともに通称つうしょう
官位かんい 兵衛ひょうえじょう
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ
主君しゅくん 北条ほうじょうやすしとき経時きょうじどきよりゆき
氏族しぞく 諏訪すわ
父母ちちはは ちち諏訪すわ信綱のぶつな[2]もりしん
もりだか[2]もりけい[2]もりよりゆき[2]じゅうねがい[2]
[3]
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諏訪すわ 盛重もりしげ(すわ もりしげ)は、鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうき武士ぶし北条ほうじょうとくむね被官ひかんである御内おんうちじんよしみただし2ねん1236ねん以降いこう出家しゅっけ[4]してはちすほとけ入道にゅうどうごうし、『吾妻あづまきょう』においてはこちらの名前なまえ登場とうじょうすることがおおい。

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

北条ほうじょうやすしとき側近そっきんとして活躍かつやくし、『吾妻あづまきょう』に頻繁ひんぱんにそのられる。よしみただし2ねん1236ねん)にたい邸宅ていたく新造しんぞうされると、盛重もりしげ尾藤びとう景綱かげつなひらもりつならととも御内おんうちじんとしてその敷地しきちない屋敷やしきかまえており[5]たい信頼しんらいあつさをうかがわせる。 とくむね被官ひかんのまとめやくとしての立場たちばにあったらしく、北条ほうじょうよりゆき使者ししゃとして朝廷ちょうていとの折衝せっしょうにあたることもおおく、北条ほうじょう一門いちもん安達あだちといった外戚がいせきなど、とくむねしたしい一部いちぶ首脳しゅのうじん(のちの寄合よりあいしゅう)のみの協議きょうぎである「ふか御沙汰ごさた」にもしばしば参加さんかした。

吾妻あづまきょう』には、うけたまわひさし3ねん1221ねん)の承久じょうきゅうらんさい大祝だいしゅく盛重もりしげ」が鎌倉かまくら幕府ばくふ勝利しょうりかみいのり、子息しそく太郎たろう信重のぶしげ幕府ばくふぐん参加さんかさせたとある[6]。しかし、承久じょうきゅうらんだいしゅくを「盛重もりしげ」とするのは『吾妻あづまきょう』のみであり、「諏方すわ大明神だいみょうじん」と「前田まえだほんしん系図けいず[7]当時とうじだいしゅくを「敦信あつのぶ」とする。これにたいし、通説つうせつでは諏訪すわ大社たいしゃだいしゅくである敦信あつのぶは、承久じょうきゅうらん盛重もりしげ改名かいめいして鎌倉かまくら出仕しゅっしし、執権しっけん北条ほうじょうやすし近臣きんしん御内おんうちじん)となったとかんがえられてきたが、歴史れきし学者がくしゃ石井いしいすすむつぎてんから大祝だいしゅく盛重もりしげ」と御内おんうちじん諏訪すわ盛重もりしげ別人べつじんであるとろんじた[8]いちてんは、うけたまわひさし3ねん(1221ねん)の時点じてん成人せいじん息子むすこ信重のぶしげ)がいるなら盛重もりしげ敦信あつのぶ)も当時とうじ35さい以上いじょう推定すいていされ、以後いご30ねんつづけて叛逆はんぎゃくしゃりなど具体ぐたいてき活動かつどうをしている御内おんうちじん盛重もりしげとは年齢ねんれいわない。てんに、「大祝だいしゅく職位しょくい伝授でんじゅしょ」にはこよみひとし元年がんねん1238ねん)に諏訪すわ信重のぶしげだいしゅく即位そくいしたとあり、それまではちち盛重もりしげ敦信あつのぶ)がだいしゅくであったことになるが、盛重もりしげひろし2ねん1230ねん)には鎌倉かまくら御内おんうちじんとして活動かつどうしている。「諏方すわ大明神だいみょうじん」によれば、だいしゅく在任ざいにんちゅう諏訪すわぐんないることはできず、ゆえに承久じょうきゅうらんさいには子息しそく信重のぶしげ派遣はけんしたとあるため、大祝だいしゅく盛重もりしげ敦信あつのぶ)が北条ほうじょうやすし邸宅ていたくないんではたらいていた[9]というのはない。 また、「前田まえだほんしん系図けいず」は混乱こんらんおお諏訪すわ関係かんけい史料しりょうなかでは比較的ひかくてき信頼しんらいできるため、承久じょうきゅうらんだいしゅくは「敦信あつのぶ」とすべきであり、「盛重もりしげ」とする『吾妻あづまきょう』はあやまりとかんがえられる。 現在げんざいでは、諏訪すわ御内おんうち人家じんか大祝だいしゅく分家ぶんけ推定すいていされている[10]

御内おんうちじん盛重もりしげの『吾妻あづまきょうはつひろし2ねん1230ねん)2がつ30にちじょうで、鎌倉かまくらちゅう騒動そうどうこったさい尾藤びとう景綱かげつなひらもりつなともにこれを鎮定ちんていした[11]盛重もりしげ幕府ばくふたいする貢献こうけんたかく、同年どうねん和賀わが江島えじま完成かんせいしたさいにも景綱かげつなとも巡検じゅんけん担当たんとう天福てんぷく2ねん(1234ねん)、北条ほうじょう経時きょうじ元服げんぷくしき出席しゅっせきぶんれき2ねん/よしみただし元年がんねん1235ねん)、みなもと頼朝よりとも霊廟れいびょうがある法華ほっけどうちかくの湯屋ゆやからの火災かさいさいには、湯屋ゆや法華ほっけどうあいだにある家屋かおく迅速じんそくこわして消火しょうか活動かつどうおこない、法華ほっけどうへの類焼るいしょうめた[12][13]ひろしもと4ねん1246ねんうるう4がつみや騒動そうどうでは、ときよりゆき宿やどかん警護けいごし、北条ほうじょうひかりときらの謀議ぼうぎ事前じぜん阻止そししたことにも寄与きよ[14]同年どうねん6がつには相談そうだんおとずれた三浦みうら家村いえむらときよりゆきいでいる[15]同年どうねん12がつには丹後たんごこく年貢ねんぐげした豊島としましげるけいところしたがえ捕縛ほばくした[16]

たからおさむ元年がんねん1247ねん)、たからおさむ合戦かっせん直前ちょくぜんには、すわ合戦かっせんかと全国ぜんこくより輻輳ふくそうする武士ぶしたちときよりゆき代理人だいりにんとして鎮定ちんてい退散たいさんさせ[17]とくむね被官ひかん統率とうそつやくとして抜群ばつぐん勲功くんこうげ、ときよりゆきから「無双むそう勲功くんこう」ととなえられたという[18]鶴岡つるおか八幡宮はちまんぐう筆頭ひっとう法印ほういんていおやたいむら連座れんざし、隠居いんきょ謹慎きんしんすることを伝令でんれいした[19]けんちょう3ねん1251ねん)、幕府ばくふへの謀叛ぼうほん画策かくさくしたりょうぎょう長久ながひされん矢作やさくつねらの尋問じんもん担当たんとう[20]ぶんおう2ねん/ひろちょう元年がんねん1261ねん)にはたからおさむ合戦かっせんほろんだ三浦みうら残党ざんとうである三浦みうらよしむらりょうけん僧籍そうせき)を捕縛ほばくした[21]

たからおさむ2ねん1248ねん)、北条ほうじょう誕生たんじょうすると、その乳母うばおっととなったが、6がつ指名しめいされたあとも辞退じたいつづけ、7がついたはじめてその役割やくわりつとめている[22]庶子しょしであるとき輔を後見こうけんしても、恩恵おんけいよくすどころかむしろ自分じぶん立場たちばあやうくなるという認識にんしき幕臣ばくしんたちあいだつうそこしていたことを示唆しさしていると網野あみの善彦よしひこ指摘してきしている[23]。ただし、この時点じてん嫡子ちゃくし北条ほうじょう時宗じしゅうはまだ誕生たんじょうしていないので、それほどの恐怖きょうふかん盛重もりしげにあったかどうかはうたがわしい。

上記じょうき以外いがい事績じせきとしては、けんちょう3ねん(1251ねん)に風伯ふうはくさい奉行ぶぎょうつとめ、どう5ねん1253ねん)にたい追福ついふく祈願きがんして山内さんないどう建立こんりゅうしたる[24]

朝廷ちょうていそと中原なかはらしゅ日記にっきである『しんしょうぶんひさし4ねん1267ねん4がつ27にちじょうに「関東かんとう諏方すわ兵衛ひょうえ入道にゅうどう死去しきょ云々うんぬん」(「」は「ごろ」の)とあり、盛重もりしげ同月どうげつころくなったことがうかがえる[1]。8ねん建治けんじ元年がんねん1275ねん6月27にちづけろくじょう八幡宮はちまんぐう造営ぞうえい注文ちゅうもん』にも「諏方すわ兵衛ひょうえ入道にゅうどうあと」がられる[25]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら政権せいけんとくむね専制せんせいろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねん)P.182 註(55)。
  2. ^ a b c d e しんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい尊卑そんぴぶん だい3へん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかんへん黒板こくばん勝美かつみ国史こくし大系たいけい編修へんしゅうかい)P.101-102。
  3. ^ 前田まえだほんしん系図けいず」は鎌倉かまくら時代じだいごろ大祝だいしゅく系図けいず貞光さだみつあつしこうあつしただし敦信あつのぶ重信しげのぶ信重のぶしげ)─しんじもりしん盛重もりしげたよおもどきまましとする。よりゆきじゅうちちとされる盛重もりしげ鎌倉かまくら時代じだい後期こうき人物じんぶつとなるため、御内おんうちじん諏訪すわ盛重もりしげとは別人べつじんである。
  4. ^ 信濃しなの風土ふうど歴史れきし12 いのる人々ひとびと-信仰しんこういのり-』(編集へんしゅう発行はっこう長野ながの県立けんりつ歴史れきしかん、2006ねん)P.14。
  5. ^ 吾妻あづまきょうよしみただし2ねん12月19にちじょう
  6. ^ 吾妻あづまきょううけたまわひさし3ねん6がつ11にちじょう
  7. ^ [1]かみ系図けいず 前田まえだ写本しゃほんうつし
  8. ^ 石井いしいすすむ中世ちゅうせい諏訪すわ信仰しんこう諏訪すわ」(石井いしいすすむ著作ちょさくしゅう刊行かんこうかいへん石井いしいすすむ著作ちょさくしゅう だいかん 鎌倉かまくら武士ぶし実像じつぞう岩波書店いわなみしょてん、2005ねん初出しょしゅつ1997ねん
  9. ^ 吾妻あづまきょうよしみただし2ねん12月19にちじょう
  10. ^ 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼう』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2011ねん)P.75、鈴木すずき由美ゆみちゅう先代せんだいらん』(中公新書ちゅうこうしんしょ、2021ねん)P.86
  11. ^ 吾妻あづまきょうひろし2ねん2がつ30にちじょう
  12. ^ 吾妻あづまきょうよしみただし元年がんねん9がつ1にちじょう
  13. ^ 日本にっぽんリブレット21 武家ぶけ古都こと鎌倉かまくらISBN 4-634-54210-2) 17ページ
  14. ^ 吾妻あづまきょうひろしもと4ねんうるう4がつ25にちじょう
  15. ^ 吾妻あづまきょうひろしもと4ねん6がつ5にちじょう
  16. ^ 吾妻あづまきょうひろしもと4ねん12月28にちじょう
  17. ^ 吾妻あづまきょうたからおさむ元年がんねん6がつ4にちじょう
  18. ^ 吾妻あづまきょうたからおさむ元年がんねん6がつ5にちじょう
  19. ^ 吾妻あづまきょうたからおさむ元年がんねん6がつ18にちじょう
  20. ^ 吾妻あづまきょうけんちょう3ねん12月26にちじょう
  21. ^ 吾妻あづまきょうひろちょう元年がんねん6がつ22にちじょう
  22. ^ 吾妻あづまきょうたからおさむ2ねん7がつ9にちじょう
  23. ^ 日本にっぽん歴史れきし10 こうむ襲来しゅうらい徳政令とくせいれい講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ ISBN 978-4-06-291910-4)37ページ
  24. ^ 吾妻あづまきょうけんちょう5ねん11月29にちじょう
  25. ^ 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら政権せいけんとくむね専制せんせいろん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねん)P.162。

参考さんこう文献ぶんけん

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