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ALS
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ALS・
資料
しりょう
(
作成
さくせい
:
立岩
たていわ
)
*『
現代
げんだい
思想
しそう
』(
青土
おうづち
社
しゃ
)に
掲載
けいさい
されている「
生存
せいぞん
の
争
あらそ
い──
医療
いりょう
の
現代
げんだい
史
し
のために」の
第
だい
4
回
かい
から、ALSについて
書
か
いています。
以下
いか
はその
一部
いちぶ
です。その
文献
ぶんけん
リスト
もあります。
まだリンクの
作業
さぎょう
がすんでいない
部分
ぶぶん
が
多々
たた
あります。おいおいつなげていくつもりです。
第
だい
1〜3
回
かい
については
以下
いか
をご
覧
らん
ください。
「
生存
せいぞん
の
争
あらそ
い──
医療
いりょう
の
現代
げんだい
史
し
のために」
また
第
だい
10
回
かい
(2003
年
ねん
1
月
がつ
号
ごう
)も
別
べつ
の
主題
しゅだい
について
書
か
いています。
『
現代
げんだい
思想
しそう
』
は
一般
いっぱん
書店
しょてん
で
買
か
える
本
ほん
です。
青土
おうづち
社
しゃ
のホームページは
http://www.seidosha.co.jp/
です。
→
『ALS
不動
ふどう
の
身体
しんたい
と
息
いき
する
機械
きかい
』
という
本
ほん
になりました。
◎
目次
もくじ
◎
■ALSについて、に
転
てん
ずるにあたり
■
転
てん
ずるにあたり [
略
りゃく
]
■この
病気
びょうき
の
概要
がいよう
[
略
りゃく
]
■
「
予後
よご
」について(↓)
■
予
よ
後
ご
について
言
い
われたこと
■
予
よ
後
ご
について
書
か
かれていたこと
■
予定
よてい
通
どお
りにならなかった
人
ひと
たち
■なぜ、と
思
おも
えてしまう [
略
りゃく
]
■
わかること(↓)
■
医師
いし
がわかる/わからないこと ※
以上
いじょう
第
だい
4
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2002
年
ねん
8
月
がつ
号
ごう
■
医師
いし
から
伝
つた
えられる/
伝
つた
えられないこと [
一部
いちぶ
略
りゃく
]
■
書類
しょるい
・カルテから
知
し
る
■
医療
いりょう
の
方
ほう
からでなく
知
し
る
■ほかにどのような ※
以上
いじょう
第
だい
5
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2002
年
ねん
9
月
がつ
号
ごう
■
家族
かぞく
が
知
し
らされる
■わかってしまうこと
■わかりたいこと ※
以上
いじょう
第
だい
6
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2002
年
ねん
10
月
がつ
号
ごう
■
呼吸
こきゅう
器
き
のこと(↓)
■
選択
せんたく
、とされること
■
事態
じたい
の
到来
とうらい
■
家族
かぞく
が
尋
たず
ねられる ※
以上
いじょう
第
だい
7
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2002
年
ねん
11
月
がつ
号
ごう
■
本人
ほんにん
が
決
き
める
■
変化
へんか
※
以上
いじょう
第
だい
8
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2002
年
ねん
12
月
がつ
号
ごう
■まず
起
お
こること
■
伝
つた
わって
変
か
わる
■
拒否
きょひ
されているという
現実
げんじつ
の
浮上
ふじょう
※
以上
いじょう
第
だい
10
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2003
年
ねん
3
月
がつ
号
ごう
■
川口
かわぐち
武久
たけひさ
のこと
■
略歴
りゃくれき
■「
人工
じんこう
的
てき
」について
■
意識
いしき
の
存在
そんざい
・
意思
いし
の
表出
ひょうしゅつ
■
苦痛
くつう
の
位置
いち
■
引
ひ
き
留
と
めたもの ※
以上
いじょう
第
だい
11
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2003
年
ねん
4
月
がつ
号
ごう
■ALSという
経験
けいけん
■
危険
きけん
■
無為
むい
■
遮断
しゃだん
■
言葉
ことば
※
以上
いじょう
第
だい
12
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2003
年
ねん
6
月
がつ
号
ごう
■
死
し
の
決定
けってい
について
■『
平
ひら
眠
ねむり
』(
一
いち
九
きゅう
七
なな
八
はち
年
ねん
)
■『
依頼
いらい
された
死
し
』(
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
)
■
変位
へんい
■
外
はず
すこと
■ロックトイン ※
以上
いじょう
第
だい
13
回
かい
:『
現代
げんだい
思想
しそう
』2003
年
ねん
8
月
がつ
号
ごう
■(
最終
さいしゅう
回
かい
)
■ひとまずの
終
お
わりに
■9
回分
かいぶん
の
引用
いんよう
について
■
死
し
に
寄
よ
せられることと
引
ひ
き
返
かえ
すこと
■
事態
じたい
の
変換
へんかん
と
持続
じぞく
■
中立
ちゅうりつ
の
不可能
ふかのう
性
せい
■
外
はず
すこととつけないこと
■
補足
ほそく
・
自由
じゆう
と
苦痛
くつう
の
強度
きょうど
*
以下
いか
、
立岩
たていわ
真
しん
也 20020801 「
生存
せいぞん
の
争
あらそ
い──
医療
いりょう
の
現代
げんだい
史
し
のために・4」
『
現代
げんだい
思想
しそう
』
より
一部
いちぶ
引用
いんよう
■ALSについて、に
転
てん
ずるにあたり
■
転
てん
ずるにあたり [
略
りゃく
]
■この
病気
びょうき
の
概要
がいよう
[
略
りゃく
]
■
「
予後
よご
」について
■
予
よ
後
ご
について
言
い
われたこと
それからどうなっていくのかを「
予後
よご
」と
言
い
う。ALSはよく「
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
」と
言
い
われ、
進行
しんこう
が
速
はや
く、
早
はや
くに
亡
な
くなると
言
い
われてきた。だが、ALSは
依然
いぜん
として
不治
ふじ
の
病
やまい
ではあり、そしてたしかに
速
はや
く
進行
しんこう
する
場合
ばあい
もあり、
早
はや
くに
亡
な
くなってしまう
人
ひと
も
多
おお
くいるのだが、しかし
他方
たほう
では、かなり
長生
ながい
きの
人
ひと
、
何
なん
十
じゅう
年
ねん
と
生
い
きる
人
ひと
もいる。
少
すく
なくともつねには、すぐに
亡
な
くなる
病気
びょうき
ではない。
だが
多
おお
くの
場合
ばあい
、そのようには
知
し
らされてこなかった。
例
たと
えば
次
つぎ
のように
医師
いし
から
知
し
らされた、すくなくともそう
聞
き
いたと
言
い
う★05。
[3]
一
いち
九
きゅう
七
なな
五
ご
年
ねん
・「
人工
じんこう
的
てき
に
食事
しょくじ
、
呼吸
こきゅう
を
施
ほどこ
せば
二
に
、
三
さん
年
ねん
は
命
いのち
を
長引
ながび
かせ
得
え
る。」(
息子
むすこ
に。
鈴木
すずき
[
1978
:57])
[4]
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
・「あと
二
に
〜
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
です。」(
妻
つま
に。
長岡
ながおか
[1991:10])
[5]
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
・「
係
かかり
の
人
ひと
から「この
病気
びょうき
は
五
ご
年
ねん
以上
いじょう
生
い
きることは
難
むずか
しい」と
言
い
われた。」(
岩手
いわて
県
けん
の
難病
なんびょう
検診
けんしん
で
本人
ほんにん
に。
菅原
すがわら
[1989:17-18])
夫
おっと
は、それ
以前
いぜん
、
岩手
いわて
県立
けんりつ
病院
びょういん
で「
三
さん
〜
四
よん
年
ねん
の
命
いのち
」と
告
つ
げられる(
菅原
すがわら
[1989:155])。
[6]
一
いち
九
きゅう
八
はち
〇
年
ねん
・「
発病
はつびょう
後
ご
三
さん
、
四
よん
年
ねん
の
命
いのち
しか
望
のぞ
めません」(
日本
にっぽん
医科
いか
歯科
しか
大学
だいがく
附属
ふぞく
病院
びょういん
で、
中林
なかばやし
基
はじめ
の
妻
つま
に。
豊浦
とようら
[1996:182])
[7]
一
いち
九
きゅう
八
はち
〇
年
ねん
・「
長
なが
くて
五
ご
年
ねん
」(
兵庫医科大学
ひょうごいかだいがく
附属
ふぞく
病院
びょういん
で、
熊谷
くまがい
寿美
としみ
の
夫
おっと
に。
豊浦
とようら
[1996:142])
[8]
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
・「「
早
はや
ければ
一
いち
年
ねん
ほどで……」という
先生
せんせい
のお
話
はなし
」(
北里大学
きたさとだいがく
病院
びょういん
で、
妻
つま
に。
折笠
おりかさ
[1986:12])
[9]
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
・「
検査
けんさ
の
結果
けっか
、ALSの
告知
こくち
を
受
う
け、さらに「
余命
よめい
二
に
年
ねん
」と
知
し
らされた。」(
東京
とうきょう
都立
とりつ
神経
しんけい
病院
びょういん
で、
家族
かぞく
に。
塚田
つかだ
[2000:11])
[10]
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
・「
三
さん
年
ねん
から
五
ご
年
ねん
の
命
いのち
でしょう。」(
夫
おっと
に。
秦
はた
・
秦
はた
[1998])
[11]
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
・「
妻
つま
が
九州大学
きゅうしゅうだいがく
病院
びょういん
の
先生
せんせい
から
説明
せつめい
された
診断
しんだん
内容
ないよう
を
聞
き
いた。
私
わたし
の
病気
びょうき
は
急激
きゅうげき
に
年
とし
をとる
病気
びょうき
で、
中
なか
には
五
ご
年
ねん
から
十
じゅう
年
ねん
も
生
い
きる
人
ひと
もいるが、ほとんどの
人
ひと
は
三
さん
年
ねん
以内
いない
に
死
し
ぬ、と
言
い
われたそうだ。」(
杉山
すぎやま
[1998:15])
[12]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
・「「
筋
すじ
委縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
ですね」[…]「
何
なに
ですか、それは」/「
一
いち
年
ねん
後
ご
には
車
くるま
いすを
使
つか
わねばなりません」と、
畳
たた
み
掛
か
けるように
医師
いし
は
話
はな
す。
同席
どうせき
していた
医学
いがく
生
せい
らしい
若者
わかもの
が
隣
となり
で
辞書
じしょ
をくった。/「それからは」/「まひが
進
すす
んで、
寝
ね
たきりの
状態
じょうたい
になるでしょう」/「それから」/「
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
も
必要
ひつよう
になります」/「それから」/「あと
二
に
、
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
です」」(
徳島大学
とくしまだいがく
医学部
いがくぶ
付属
ふぞく
病院
びょういん
で、
長尾
ながお
義明
よしあき
に。『
徳島
とくしま
新聞
しんぶん
』[2000])
[13]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
・「「
発病
はつびょう
から
三
さん
年
ねん
〜
五
ご
年
ねん
ぐらいで
絶命
ぜつめい
する」とも
言
い
われている。」(
自治医科大学
じちいかだいがく
病院
びょういん
で、
夫
おっと
に、
野本
のもと
[1995:24])
[14]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
・「
良
よ
くて
二
に
年
ねん
悪
わる
くて
半年
はんとし
位
い
が、
一定
いってい
の
期間
きかん
であると
思
おも
ってください、
死
し
を
免
まぬか
れない
病気
びょうき
であると
聞
き
かされました。」(
夫
おっと
に、
加藤
かとう
・
加藤
かとう
[
1998
:5-6])
[15]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
・「ALSです。
予
よ
後
ご
は
五
ご
年
ねん
。
全身
ぜんしん
の
筋肉
きんにく
がだめになり、
死
し
に
至
いた
ります」(
東京女子医科大学
とうきょうじょしいかだいがく
で、
西尾
にしお
健
けん
弥
わたる
の
妻
つま
に、『
読売新聞
よみうりしんぶん
』
北陸
ほくりく
版
ばん
1999-06-26)
[16]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
・「
三
さん
年
ねん
〜
五
ご
年
ねん
の
寿命
じゅみょう
と
告知
こくち
」(
本人
ほんにん
に、
和
わ
中
ちゅう
[1999-])
[17]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
・「
三
さん
年
ねん
ほどで
動
うご
けなくなり、
長
なが
くても、あと
五
ご
年
ねん
……」(
仙台
せんだい
市
し
・
広南病院
こうなんびょういん
で、
妻
つま
に。
鎌田
かまた
[199?])
[18]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
六
ろく
年
ねん
・「ALSと
診断
しんだん
されその
説明
せつめい
を
聞
き
いたところ「
神経
しんけい
が
侵
おか
され
三
さん
年
ねん
で
死
し
にます」と
言
い
った
有名
ゆうめい
大学
だいがく
病院
びょういん
の
医者
いしゃ
は
特別
とくべつ
としても、
患者
かんじゃ
の
願
ねが
いを
蹴
け
散
ち
らす
会話
かいわ
がなんとたくさん、かわされているだろう。」(
佐々木
ささき
[2000])
■
予
よ
後
ご
について
書
か
かれていたこと
またALSの
人
ひと
、またその
家族
かぞく
が
読
よ
んだ
本
ほん
には
次
つぎ
のように
書
か
かれてあったと
記
しる
されている。
[19]
一
いち
九
きゅう
七
なな
八
はち
年
ねん
・「「
変性
へんせい
神経
しんけい
疾患
しっかん
で
進行
しんこう
性
せい
、
原因
げんいん
は
不明
ふめい
、
治療
ちりょう
方法
ほうほう
は
全
まった
く
無
な
く
予
よ
後
ご
は
不良
ふりょう
、
発病
はつびょう
から
三
さん
、
四
よん
年
ねん
の
命
いのち
である」と
記
しる
してあり」(「
医学
いがく
書
しょ
」、
川口
かわぐち
[1989:133])
[20]
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
・「
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
で
数
すう
年
ねん
以内
いない
で
死亡
しぼう
する
疾患
しっかん
」(
夫
おっと
と
一緒
いっしょ
に
書店
しょてん
で
買
か
った「
家庭
かてい
医学
いがく
書
しょ
」、
菅原
すがわら
[1989:133])
[21]
十
じゅう
九
きゅう
八
はち
一
いち
年
ねん
・「
筋肉
きんにく
がだんだん
衰
おとろ
え、
最後
さいご
は
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
り、やがて
死
し
に
至
いた
る、と
書
か
いてあった。またそれには、
現代
げんだい
の
医学
いがく
では
原因
げんいん
も
治療
ちりょう
法
ほう
もわかっていない、とあった。そしてこの
病気
びょうき
は、
発病
はつびょう
して
普通
ふつう
四
よん
、
五
ご
年
ねん
で
死亡
しぼう
するとも
書
か
いてあった。[…]
家
か
の
百科
ひゃっか
事典
じてん
は
十
じゅう
年
ねん
くらい
前
まえ
のものだからと
思
おも
って、
本屋
ほんや
に
行
い
き
最新
さいしん
の
家庭
かてい
医学
いがく
書
しょ
を
読
よ
んでみた。
結果
けっか
はどの
医学
いがく
書
しょ
も
同
おな
じようなことしか
書
か
いてなかった。」(
土屋
つちや
・NHK
取材
しゅざい
班
はん
[1989:23-24])
[22]
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
・「
筋肉
きんにく
を
動
うご
かす
神経
しんけい
系統
けいとう
が
侵
おか
され、
指
ゆび
、
腕
うで
の
脱力
だつりょく
、さらに
足
あし
に
及
およ
んで
歩行
ほこう
も
不能
ふのう
になり
末期
まっき
には
舌
した
の
萎縮
いしゅく
、
嚥下
えんか
(
飲
の
み
下
くだ
し)
困難
こんなん
などを
起
お
こし、
多
おお
くは
発病
はつびょう
後
ご
数
すう
年
ねん
以内
いない
に
死亡
しぼう
――と
説明
せつめい
されていました。」(「
家庭
かてい
医学
いがく
の
本
ほん
」、
折笠
おりかさ
[1986:12])
[23]
一
いち
九
きゅう
八
はち
三
さん
年
ねん
・「「ALSは
難病
なんびょう
中
ちゅう
の
難病
なんびょう
、
二
に
〜
三
さん
年
ねん
で
死
し
ぬ」とありました。」(「
書棚
しょだな
の
医学
いがく
全書
ぜんしょ
」、
松本
まつもと
[1995:289])
[24]
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
・「
原因
げんいん
わからず、
治療
ちりょう
法
ほう
なし、
二
に
、
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
」(「
医学
いがく
書
しょ
」、
小林
こばやし
[1991:34])
[25]
一
いち
九
きゅう
八
はち
六
ろく
年
ねん
・「
予
よ
後
ご
は
悪
わる
く
五
ご
、
六
ろく
年
ねん
で
死亡
しぼう
」(
湯島
ゆしま
図書館
としょかん
にあった「
家庭
かてい
医学
いがく
書
しょ
」、
橋本
はしもと
[1997])
[26]
一
いち
九
きゅう
八
はち
六
ろく
年
ねん
・「この
病気
びょうき
は
進行
しんこう
性
せい
で
発病
はつびょう
して
五
ご
〜
十
じゅう
年
ねん
で
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
り、やがて
死
し
にいたる」(『
家庭
かてい
の
医学
いがく
』、
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
た
[1998:19])
[27]
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
・「
数
すう
年
ねん
で
結局
けっきょく
は
死
し
に
至
いた
る。」(「
医学
いがく
書
しょ
」、
高田
たかだ
[1999:80])
[28]
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
・「「
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
、
治療
ちりょう
方法
ほうほう
がないため
国
くに
の
難病
なんびょう
に
指定
してい
されていて、
申請
しんせい
をすれば
医療
いりょう
費
ひ
がただになる」とだけ
書
か
かれている。/<
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
>だけではどういうことか
分
わ
からない。もう
一
いち
冊
さつ
本
ほん
を
出
だ
してもらって
調
しら
べるが、やはり
同
おな
じことしか
書
か
いてない。」(「
医学
いがく
書
しょ
」、
杉山
すぎやま
[1998:22-23])
[29]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
・「
多
おお
くは
人生
じんせい
の
最盛
さいせい
期
き
である
中年
ちゅうねん
以降
いこう
に
発症
はっしょう
し、たちまちにして
人生
じんせい
を
荒廃
こうはい
させ、
生命
せいめい
を
奪
うば
っていく。」(「
新聞
しんぶん
広告
こうこく
で
知
し
り、
書店
しょてん
へ
行
い
き
買
か
い
求
もと
め」た
小長谷
こながや
[1995]の
記述
きじゅつ
、
鎌田
かまた
[199?])★05
■
予定
よてい
通
どお
りにならなかった
人
ひと
たち
けれど、そのように
医師
いし
から
聞
き
いた、あるいは
本
ほん
を
読
よ
んだ
人
ひと
たちに、
次
つぎ
のような
人
ひと
たちもいる。
[30]これからも
何
なん
度
ど
もその
文章
ぶんしょう
を
引用
いんよう
する
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
(JALSA)の
最初
さいしょ
の
会長
かいちょう
だった
川口
かわぐち
武久
たけひさ
[18]は
一
いち
九
きゅう
七
なな
三
さん
年
ねん
十
じゅう
一
いち
月
がつ
に
発症
はっしょう
し、
比較的
ひかくてき
症状
しょうじょう
の
進行
しんこう
の
遅
おそ
い
人
ひと
ではあったのだが、
九
きゅう
四
よん
年
ねん
九
きゅう
月
がつ
に
亡
な
くなった。
発病
はつびょう
して
約
やく
二
に
一
いち
年
ねん
を
生
い
きた。
[31]
杉本
すぎもと
孝子
たかこ
(
奈良
なら
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
に
発症
はっしょう
している。
三
さん
年
ねん
ほどは
進行
しんこう
が
早
はや
かったが、その
後
ご
はゆっくりになる。
呼吸
こきゅう
器
き
は
使
つか
っていない。
十
じゅう
九
きゅう
年
ねん
後
ご
の
記録
きろく
として
豊浦
とようら
[1996:172-179]、
二
に
三
さん
年
ねん
後
ご
に
書
か
かれた
文章
ぶんしょう
に
杉本
すぎもと
[2000]。
[32]
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
に
妻
つま
が「あと
二
に
〜
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
です」[4]と
言
い
われた
長岡
ながおか
紘
ひろし
司
し
(
神奈川
かながわ
県
けん
)。「
夫
おっと
はALSを
発症
はっしょう
して
二
に
四
よん
年
ねん
になります。
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
して
十
じゅう
八
はち
年
ねん
になり、
一
いち
〇
カ月
かげつ
入院
にゅういん
生活
せいかつ
をしていて、
在宅
ざいたく
療養
りょうよう
は
十
じゅう
七
なな
年
ねん
目
め
を
迎
むか
えました。」(
長岡
ながおか
[2001:29])。
[33]
熊谷
くまがい
寿美
としみ
(
兵庫
ひょうご
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
、
二
に
七
なな
歳
さい
のときに
発症
はっしょう
。
夫
おっと
が「
長
なが
くて
五
ご
年
ねん
」と
宣告
せんこく
されたのは
八
はち
〇
年
ねん
[7]。
九
きゅう
一
いち
年
ねん
に
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
。
現在
げんざい
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
近畿
きんき
ブロック
代表
だいひょう
。
二
に
〇〇〇
年
ねん
十二月
じゅうにがつ
、デンマークでのALS/MND(
運動
うんどう
神経
しんけい
疾患
しっかん
)
国際
こくさい
同盟
どうめい
第
だい
八
はち
回
かい
国際
こくさい
会議
かいぎ
で
報告
ほうこく
。(
豊浦
とようら
[1996:142-150]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
に
出演
しゅつえん
したテレビ
番組
ばんぐみ
の
概要
がいよう
はhttp://www.nhk.or.jp/kira/04program/04_004.html)
[34]「
先生
せんせい
が
私
わたし
の
様
よう
に
二
に
五
ご
才
さい
の
若
わか
さで
発病
はつびょう
して、
二
に
四
よん
年
ねん
も
生存
せいぞん
している
患者
かんじゃ
はめずらしく、
現在
げんざい
も、
病気
びょうき
がほとんど
進行
しんこう
していないそうです。」(
中島
なかじま
[2001])
[35]
来
らい
田
た
治郎
じろう
(
大阪
おおさか
府
ふ
)「
私
わたし
は
現在
げんざい
五
ご
七
なな
歳
さい
です。
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
に
右
みぎ
上肢
じょうし
の
麻痺
まひ
からALSを
発症
はっしょう
しました。
三
さん
三
さん
歳
さい
のときです。
現在
げんざい
、
発病
はつびょう
から
二
に
三
さん
年
ねん
経過
けいか
し、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
して
十
じゅう
四
よん
年
ねん
目
め
になります。」(
来
らい
田
た
・
来
らい
田
た
[2001])
[36]
菅原
すがわら
和子
かずこ
(
岩手
いわて
県
けん
)[5][20]は
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
五
ご
月
がつ
に
発症
はっしょう
、
一
いち
九
きゅう
八
はち
〇
年
ねん
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
、
一
いち
九
きゅう
八
はち
七
なな
年
ねん
五
ご
月
がつ
逝去
せいきょ
。
[37]
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
に
発症
はっしょう
した
知
ち
本
もと
茂治
しげはる
(
鹿児島
かごしま
県
けん
)が
鹿児島大学
かごしまだいがく
医学部
いがくぶ
付属
ふぞく
病院
びょういん
を
退院
たいいん
、
在宅
ざいたく
での
療養
りょうよう
生活
せいかつ
に
入
はい
り、
病院
びょういん
のことを
書
か
いた
本
ほん
が
出版
しゅっぱん
されたのは
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
(
知
ち
本
ほん
[1993])。
[38]
中林
なかばやし
基
はじめ
(
大阪
おおさか
府
ふ
)の
発症
はっしょう
は
一
いち
九
きゅう
八
はち
〇
年
ねん
、その
年
とし
、
妻
つま
が「
発病
はつびょう
後
ご
三
さん
、
四
よん
年
ねん
の
命
いのち
」と
告
つ
げられる[6]。その
後
ご
刊行
かんこう
した
画
が
文集
ぶんしゅう
として
中林
なかばやし
[1987][1990]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
には
公益
こうえき
信託
しんたく
「「
生命
せいめい
の
彩
いろどり
」ALS
研究
けんきゅう
助成
じょせい
基金
ききん
」を
発足
ほっそく
させる。
発病
はつびょう
十
じゅう
六
ろく
年
ねん
後
ご
の
記録
きろく
として
豊浦
とようら
[1996:180-192]。
[39]
比嘉
ひか
栄達
えいたつ
(
沖縄
おきなわ
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
、
五
ご
〇
歳
さい
で
亡
な
くなった(
比嘉
ひか
[2001])
[40]
松本
まつもと
茂
しげる
(
秋田
あきた
県
けん
)[23]は
一
いち
九
きゅう
八
はち
三
さん
年
ねん
に
発症
はっしょう
。
現在
げんざい
も
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
の
会長
かいちょう
を
務
つと
める。
二
に
〇〇
二
に
年
ねん
には
十
じゅう
九
きゅう
年
ねん
ということになる。
[41]
塚田
つかだ
宏
ひろし
(
東京
とうきょう
都
と
)は
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
に
発症
はっしょう
、この
年
とし
「
余命
よめい
二
に
年
ねん
」と
知
し
らされた[9]。
現在
げんざい
は
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
東京
とうきょう
都
と
支部
しぶ
長
ちょう
。
二
に
〇〇〇
年
ねん
に
米国
べいこく
へ(
塚田
つかだ
[2001])──
塚田
つかだ
、
熊谷
くまがい
[33]、
橋本
はしもと
[42]、
山口
やまぐち
[48]らが
外国
がいこく
に
行
い
くのは、「
先進
せんしん
国
こく
」の
事情
じじょう
を
勉強
べんきょう
するため、ではなく、はじめにあげた「
安楽
あんらく
死
し
」のことにも
関
かか
わるのだが、このことについては
後述
こうじゅつ
。
[42]
一
いち
九
きゅう
八
はち
五
ご
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
八
はち
六
ろく
年
ねん
に「
予
よ
後
ご
は
悪
わる
く
五
ご
、
六
ろく
年
ねん
で
死亡
しぼう
」と
書
か
かれた
医学
いがく
書
しょ
[25]を
読
よ
んだ
橋本
はしもと
みさお
(
東京
とうきょう
都
と
)は、
九
きゅう
二
に
年
ねん
九
きゅう
月
がつ
に
気管
きかん
切開
せっかい
、
九
きゅう
三
さん
年
ねん
一
いち
月
がつ
に
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
。
二
に
〇〇
二
に
年
ねん
に
発症
はっしょう
から
十
じゅう
七
なな
年
ねん
になる。(さくら
会
かい
[1999-]、
最近
さいきん
の
文章
ぶんしょう
として
橋本
はしもと
[2002])
[43]
一
いち
九
きゅう
八
はち
五
ご
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
八
はち
六
ろく
年
ねん
に「
五
ご
〜
十
じゅう
年
ねん
で
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
り、やがて
死
し
にいたる」[26]と
書
か
かれた
本
ほん
を
読
よ
んだ
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
郁夫
いくお
(
大阪
おおさか
府
ふ
)は、
九
きゅう
八
はち
年
ねん
に
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[1998]を
出版
しゅっぱん
する。
[44]
杉山
すぎやま
進
すすむ
(
静岡
しずおか
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
、
妻
つま
は「ほとんどの
人
ひと
は
三
さん
年
ねん
以内
いない
に
死
し
ぬ」と
言
い
われる[11]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
八
はち
年
ねん
に
闘病
とうびょう
記
き
(
杉山
すぎやま
[1998])を
出版
しゅっぱん
、
二
に
〇〇〇
年度
ねんど
も
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
静岡
しずおか
県
けん
支部
しぶ
の
運営
うんえい
委員
いいん
をつとめ、
二
に
〇〇〇
年
ねん
十
じゅう
一
いち
月
がつ
に
逝去
せいきょ
(
杉山
すぎやま
[2001])。
[45]
二
に
〇〇
二
に
年
ねん
に
六
ろく
三
さん
歳
さい
の
三
さん
牧
まき
紀
きの
直
ただし
(
福岡
ふくおか
県
けん
、ホームページに
三
さん
牧
まき
[2000-])は
発病
はつびょう
が
四
よん
八
はち
歳
さい
の
時
とき
だから、
一
いち
九
きゅう
八
はち
七
なな
年
ねん
ころから
一
いち
五
ご
年
ねん
ほどがたったことになる。
[46]
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
、
三
さん
八
はち
歳
さい
で
発病
はつびょう
し、「
夫
おっと
を
通
つう
じてお
医者
いしゃ
さんから[…]「
三
さん
年
ねん
から
五
ご
年
ねん
の
命
いのち
でしょう」」と
言
い
われた[10]
秦
はた
茂子
しげこ
(
福岡
ふくおか
県
けん
)は、
九
きゅう
八
はち
年
ねん
に「
今年
ことし
は
十
じゅう
一
いち
年
ねん
目
め
になります」(
秦
はた
・
秦
はた
[1998])、
二
に
〇〇〇
年
ねん
に「
今年
ことし
で
十
じゅう
三
さん
年
ねん
目
め
に
入
はい
りました」(
秦
はた
[2000])と
話
はな
し
始
はじ
める。
[47]
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
、
医師
いし
からの
告知
こくち
はなかったが、
医学
いがく
書
しょ
でALSと
知
し
り、そこに「
数
すう
年
ねん
で
結局
けっきょく
は
死
し
に
至
いた
る」と
書
か
かれてあったのを
読
よ
んだ[26]
高田
たかだ
俊昭
としあき
(
京都
きょうと
府
ふ
、
著書
ちょしょ
に
高田
たかだ
[1999]、
他
た
に
豊浦
とようら
[1996:151-159])は、
二
に
〇〇
二
に
年
ねん
にそれから
一
いち
四
よん
年
ねん
になる。
[48]
山口
やまぐち
衛
まもる
(
山梨
やまなし
県
けん
)の
発症
はっしょう
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
(
山口
やまぐち
[2000:7])。
二
に
〇〇
二
に
年
ねん
に
十
じゅう
二
に
年
ねん
になった。
[49]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
からMCTOSと
呼
よ
ばれる
脳波
のうは
による
意志
いし
伝達
でんたつ
装置
そうち
を
使
つか
っている
和
かず
川
がわ
次男
じなん
(
宮城
みやぎ
県
けん
、
著書
ちょしょ
に
和
かず
川
がわ
[2001])の
発症
はっしょう
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
。やはり
十
じゅう
二
に
年
ねん
が
経
た
った。
[50]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
に
発症
はっしょう
し「
余命
よめい
は
三
さん
年
ねん
」と
告
つ
げられた
長尾
ながお
義明
よしあき
(
徳島
とくしま
県
けん
)[12]は、その
三
さん
年
ねん
後
ご
の
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
をつける。
九
きゅう
五
ご
年
ねん
に
安楽
あんらく
死
し
が
合法
ごうほう
化
か
されたら
自分
じぶん
が
一番
いちばん
先
さき
に
志願
しがん
すると
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
近畿
きんき
ブロック
の
会報
かいほう
に
投稿
とうこう
。
二
に
〇〇〇
年
ねん
六
ろく
月
がつ
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
徳島
とくしま
県
けん
支部
しぶ
設立
せつりつ
、
支部
しぶ
長
ちょう
をつとめる。
[51]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
、
九
きゅう
一
いち
年
ねん
九
きゅう
月
がつ
に「
急激
きゅうげき
な
脊髄
せきずい
の
老化
ろうか
」と
説明
せつめい
され、
診断
しんだん
書
しょ
に「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
」とあったのを
見
み
た
和
わ
中勝
なかがち
三
さん
(
和歌山
わかやま
県
けん
)は、
九
きゅう
二
に
年
ねん
十
じゅう
月
がつ
にALSと
告知
こくち
され、
三
さん
〜
五
ご
年
ねん
の
寿命
じゅみょう
と
知
し
る[16]。
九
きゅう
十
じゅう
六
ろく
年
ねん
、
気管
きかん
切開
せっかい
、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
(
和
わ
中
ちゅう
[2001])、
在宅
ざいたく
での
生活
せいかつ
を
続
つづ
けている(
和
わ
中
ちゅう
[1999-])。
[52]
西尾
にしお
健
けん
弥
わたる
(
石川
いしかわ
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
十
じゅう
月
がつ
に
発症
はっしょう
、
九
きゅう
二
に
年
ねん
暮
く
れに
妻
つま
が「
予
よ
後
ご
は
五
ご
年
ねん
」と
知
し
らされる[15]。
九
きゅう
四
よん
年
ねん
十
じゅう
二
に
月
がつ
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
、
九
きゅう
六
ろく
年
ねん
八
はち
月
がつ
在宅
ざいたく
療養
りょうよう
に
移行
いこう
、
九
きゅう
八
はち
年
ねん
胆
きも
管
かん
がんを
発病
はつびょう
、
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
三
さん
月
がつ
逝去
せいきょ
(
西尾
にしお
[-1999]
他
た
)。
[53]
吉田
よしだ
雅志
まさし
(
北海道
ほっかいどう
、ホームページとして
吉田
よしだ
[1996-])の
発症
はっしょう
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
。
[54]
鎌田
かまた
竹
たけ
司
し
(
宮城
みやぎ
県
けん
)は、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
に
妻
つま
が「
三
さん
年
ねん
ほどで
動
うご
けなくなり、
長
なが
くても、あと
五
ご
年
ねん
……」と
聞
き
かされ[16]、
二
に
〇〇
二
に
年
ねん
に
一
いち
〇
年
ねん
になる。
[55]
西尾
にしお
等
ひとし
(
兵庫
ひょうご
県
けん
、ホームページとして
西尾
にしお
[1999-])の
発症
はっしょう
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
。
[56]
後藤
ごとう
忠治
ただはる
(
宮城
みやぎ
県
けん
、ホームページとして
後藤
ごとう
[1999-])の
発症
はっしょう
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
。
■なぜ、と
思
おも
えてしまう [
略
りゃく
]
■
わかること
■
医師
いし
がわかる/わからないこと
この
病
やまい
には
症状
しょうじょう
の
自覚
じかく
がある。
例
たと
えば
力
ちから
が
入
はい
らなくなる。それでこれはなんだろうと
思
おも
う。これからどうなるか
心配
しんぱい
だし、もとどおりになりたいと
思
おも
う。いったいどういうことなのか、
本人
ほんにん
もまわりの
人
ひと
も
知
し
りたい。それで
病院
びょういん
に
行
い
くことになる。これに
医療
いりょう
側
がわ
はどのように
対応
たいおう
する、
対応
たいおう
してしまうのだろうか。まず、
医師
いし
はその
人
ひと
がALSであることがわかるのだろうか。
[60]「
神経
しんけい
内科
ないか
の
専門医
せんもんい
であれば、
患者
かんじゃ
さんが
来
こ
られまして、お
話
はなし
をして
診察
しんさつ
をハンマーですれば、
殆
ほとん
ど
診断
しんだん
はついてしまいます。あとは
色々
いろいろ
な
検査
けんさ
を
加
くわ
えて[…]
他
た
の
病気
びょうき
で
非常
ひじょう
に
似
に
た
症状
しょうじょう
を
出
だ
すことがありますので、そういったことを
除外
じょがい
して
行
い
く。
要
よう
するに
他
た
の
病気
びょうき
であって
欲
ほ
しい、
治療
ちりょう
可能
かのう
な
他
ほか
の
病気
びょうき
を
見
み
つけたいということが
私
わたし
たちの
願
ねが
いですので、いろんな
検査
けんさ
をやられることがあると
思
おも
いますし、
実際
じっさい
に
患者
かんじゃ
さんや
現在
げんざい
ご
遺族
いぞく
になられた
方
ほう
は、
患者
かんじゃ
さんの
始
はじ
まりの
頃
ころ
に
病院
びょういん
に
行
い
って、いろんな
検査
けんさ
を
受
う
けたという
記憶
きおく
があるかと
思
おも
いますが。その
中
なか
で
大切
たいせつ
なのは
頚椎
けいつい
症
しょう
で、
手
て
が
痩
や
せてくる。
感覚
かんかく
も
障害
しょうがい
されたり
手
て
に
痛
いた
みが
出
で
たりするのですが、たまにですが
筋肉
きんにく
だけ
痩
や
せてくるタイプがあるんですね。ですからそういう
時
とき
なんかはこの
病気
びょうき
(ALS)と
最初
さいしょ
から
診断
しんだん
されて、「あなたはALSです」と
云
い
う
宣告
せんこく
を
受
う
けてしまうことも
中
なか
にはあるかも
知
し
れません。でもこれはキチッと
検査
けんさ
をして
診察
しんさつ
すれば
証明
しょうめい
できますし
命
めい
にかかる
病気
びょうき
ではありません。」(
田代
たしろ
[1997]、
講演
こうえん
者
しゃ
は
北海道大学
ほっかいどうだいがく
医学部
いがくぶ
神経
しんけい
内科
ないか
教授
きょうじゅ
)★06
[61]「
疑
うたが
いとした
場合
ばあい
、これを
確実
かくじつ
にする
検査
けんさ
法
ほう
など
存在
そんざい
しない
現在
げんざい
では、あとは
経過
けいか
を
観察
かんさつ
する
以外
いがい
に
方法
ほうほう
はない。
多
おお
くの
医師
いし
はこの
時期
じき
、
自分
じぶん
の
診断
しんだん
を
信
しん
じつつも
誤診
ごしん
である
新
あたら
しい
証拠
しょうこ
になる
現象
げんしょう
が
出現
しゅつげん
すればどんなに
患者
かんじゃ
に
喜
よろこ
んでもらえることかと
祈
いの
りつつ、
複雑
ふくざつ
、
不安
ふあん
な
心境
しんきょう
にある。また
自分
じぶん
より
優
すぐ
れた
医師
いし
により
決断
けつだん
を
得
え
たい
心境
しんきょう
にもなる。
患者
かんじゃ
が
藁
わら
をもつかむ
心境
しんきょう
であちこちの
病院
びょういん
を
走
はし
りまわる
気持
きも
ちに、まったく
同感
どうかん
できる。/しかしALSの
進行
しんこう
は
確実
かくじつ
で
具体
ぐたい
的
てき
であって[…]
診断
しんだん
は
確
かく
診
み
となり、この
間
あいだ
に
告知
こくち
の
重荷
おもに
が
患者
かんじゃ
、
家族
かぞく
と
医師
いし
の
間
あいだ
に
重
おも
くのしかかる。」(
永松
ながまつ
[1998:214-215]、
筆者
ひっしゃ
は
大分
おおいた
県立
けんりつ
病院
びょういん
院長
いんちょう
)
[62]「
典型
てんけい
的
てき
なALSの
診断
しんだん
[…]
自体
じたい
はそれほど
難
むずか
しくない。/この
場合
ばあい
、
重要
じゅうよう
なのは[…]
除外
じょがい
診断
しんだん
(
鑑別
かんべつ
診断
しんだん
)である。[…]
鑑別
かんべつ
が
十分
じゅうぶん
になされないと、たとえば、
脊髄
せきずい
の
病気
びょうき
とみなして
手術
しゅじゅつ
をしてしまい、
術後
じゅつご
にALSと
分
わ
かって、
後悔
こうかい
しなければならなくなるケースもある。
逆
ぎゃく
に、はじめはALSと
診断
しんだん
されていたが、
脊椎
せきつい
の
病気
びょうき
と
分
わ
かり、
手術
しゅじゅつ
して
喜
よろこ
ばれた……というケースも
私
わたし
は
経験
けいけん
している。」(
畑中
はたなか
[1999:31-32]、
筆者
ひっしゃ
は
国立
こくりつ
療養
りょうよう
所
しょ
高松
たかまつ
病院
びょういん
の
院長
いんちょう
)
第
だい
一
いち
に、この
病気
びょうき
の
場合
ばあい
には
診断
しんだん
はそう
難
むずか
しくはないと
言
い
われる。ただ
他
た
に
類似
るいじ
の
病気
びょうき
がなくはなく、また
時間
じかん
とともにはっきりしていくから、
初期
しょき
には
確定
かくてい
できない。あるいはそのように
思
おも
い、
疑
うたが
うことができる。そのことにも
関
かか
わって、
第
だい
二
に
に、ALSは
深刻
しんこく
な
病気
びょうき
であるから、ALSと
判断
はんだん
し、さらにそれを
伝
つた
えるのはためらわれる、できれば
伝
つた
えたくないと
思
おも
う。この
両方
りょうほう
があり、ときに
混
こん
じる。
第
だい
一
いち
点
てん
から。それですぐに
診断
しんだん
がつく
場合
ばあい
もある。
[63]「
八
はち
五
ご
年
ねん
手
しゅ
に
異常
いじょう
を
感
かん
じ、
八
はち
月
がつ
下旬
げじゅん
、
総合
そうごう
市民
しみん
病院
びょういん
整形
せいけい
外科
げか
に
行
い
きましたが、すぐ
神経
しんけい
科
か
に
廻
まわ
されました。
外来
がいらい
検査
けんさ
だけで、
数日
すうじつ
後
ご
には
病名
びょうめい
がはっきりわかりました。」(
井上
いのうえ
[1991:20]、
総合
そうごう
市民
しみん
病院
びょういん
は
横浜
よこはま
市
し
総合
そうごう
市民
しみん
病院
びょういん
)
ただわかる
人
ひと
にはわりあい
簡単
かんたん
にわかるとして、そんな
医師
いし
ばかりではない。
医師
いし
の
側
がわ
が
診断
しんだん
できない、すくなくともすぐには
診断
しんだん
できないことがあるようだ。ALSの
人
ひと
の
数
かず
は
多
おお
くなく、
普通
ふつう
の
医師
いし
はそうALSの
人
ひと
を
見
み
たことはない。この
病
びょう
が
存在
そんざい
することは
知
し
っていても、
現実
げんじつ
にALSを
疑
うたが
うこと、その
人
ひと
がALSだと
想定
そうてい
することはなかなか
難
むずか
しいのかもしれない。
診断
しんだん
が
間違
まちが
っていたと
言
い
えるかどうかの
判断
はんだん
は
置
お
くとして、
様々
さまざま
に
診断
しんだん
され、
手術
しゅじゅつ
等
とう
されたりされそうになる。また
多
おお
くの
人
ひと
はいくつかの、いくつもの
病院
びょういん
を
経
へ
、ただわからないと
言
い
われ
次
つぎ
に
回
まわ
されることもあれば、
間違
まちが
われることもあれば、
結局
けっきょく
わからないこともある。
そして
第
だい
二
に
の
要因
よういん
が
絡
から
む。ほぼわかってはいるが
確実
かくじつ
ではないからなのか、ある
程度
ていど
または
確実
かくじつ
に
見当
けんとう
はついているのだが
自分
じぶん
から
言
い
うのはためらわれるということなのか、ときにその
境界
きょうかい
は
微妙
びみょう
ではあるにせよ、やはり
次
つぎ
にまわされることになる(
専門
せんもん
家
か
の
方
ほう
が
説明
せつめい
に
慣
な
れていて、
上手
じょうず
だと
思
おも
う、あるいは
思
おも
うことにするという
事情
じじょう
が
加
くわ
わるかもしれない)。
確定
かくてい
は
慎重
しんちょう
に
専門
せんもん
家
か
にしてもらう、ついでに(あるいはむしろ
主
おも
な
事情
じじょう
としては)
告
つ
げる
仕事
しごと
をそこに
委
ゆだ
ねる。[67]──「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
」という
説明
せつめい
の
仕方
しかた
については
後
のち
にふれる──はただたんに
後者
こうしゃ
であるように
患者
かんじゃ
当人
とうにん
には
思
おも
われた。[70]についても、
最後
さいご
から
二
に
番目
ばんめ
の
医師
いし
はわかってはいるようだ──
『JALSA』
は
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
の
機関
きかん
誌
し
。
[64]
一
いち
九
きゅう
七
なな
三
さん
年
ねん
・「
神経痛
しんけいつう
、
椎間板
ついかんばん
ヘルニア
等
とう
の
診断
しんだん
をされたのですが、
一向
いっこう
に
回復
かいふく
する
気配
けはい
は
見
み
えず
精密
せいみつ
検査
けんさ
を
受
う
けました。
検査
けんさ
の
結果
けっか
は「
脊髄
せきずい
の
手術
しゅじゅつ
をする
必要
ひつよう
がある」と
言
い
われ「これで
治
なお
る、
早
はや
く
治
なお
したい」との
一念
いちねん
だけであったように
思
おも
います。ところが、
最後
さいご
の
造影
ぞうえい
剤
ざい
撮影
さつえい
において
何処
どこ
にも
異常
いじょう
が
見当
みあた
らず、
手術
しゅじゅつ
は
中止
ちゅうし
になり、つけられた
病名
びょうめい
は「
脊髄
せきずい
痙性
麻痺
まひ
」でした。/その
日
ひ
から、
病院
びょういん
を
転々
てんてん
と
彷徨
ほうこう
する
日々
ひび
に
変
か
わって
行
い
きました。
何処
どこ
に
行
い
っても
頭
あたま
を
抱
かか
え
首
くび
をかしげるばかりで、
本当
ほんとう
のことは
教
おし
えてもらえませんでした。」(
川口
かわぐち
[1989:132])
[65]
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
・「お
正月
しょうがつ
休
やす
みに、ある
大学
だいがく
病院
びょういん
に
行
い
きましたが、
四
よん
十
じゅう
肩
かた
・
五十肩
ごじゅうかた
という
診断
しんだん
でした。/でも、
悪
わる
くなるばかりで、
首
くび
も
回
まわ
らないほどになりました。やはりおかしいと、
五月
ごがつ
、
北里大学
きたさとだいがく
病院
びょういん
に
精密
せいみつ
検査
けんさ
のため
入院
にゅういん
したところ、「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」とのことでした。」(
折笠
おりかさ
[1986:12])
一
いち
九
きゅう
八
はち
一
いち
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
妻
つま
が
告
つ
げられ
医学
いがく
書
しょ
[22]を
読
よ
み、
医師
いし
の
説明
せつめい
を
聞
き
く。
北里大学
きたさとだいがく
病院
びょういん
に
入院
にゅういん
した
本人
ほんにん
の
書
しょ
に
折笠
おりかさ
[1989]。
[66]
一
いち
九
きゅう
八
はち
七
なな
年
ねん
・
大川
おおかわ
達
いたる
(
和歌山
わかやま
県
けん
)は
健康
けんこう
診断
しんだん
で
握力
あくりょく
が
落
お
ちているのを
知
し
る、さらに
状態
じょうたい
が
進
すす
み、
翌
よく
八
はち
八
はち
年
ねん
「
六
ろく
月
がつ
[…]
初
はじ
めて
病院
びょういん
へ──。しかし、
検査
けんさ
するだけで、
結果
けっか
は
知
し
らせてもらえなかった。/[…]
十
じゅう
月
がつ
に[…]
本格
ほんかく
的
てき
な
病院
びょういん
通
がよ
いを
始
はじ
めた。
徐々
じょじょ
に
四肢
しし
の
筋力
きんりょく
が
低下
ていか
。
十
じゅう
三
さん
か
所
しょ
の
病院
びょういん
をまわっても、
病名
びょうめい
は
知
し
らせてもらえなかった。ほとんどの
病院
びょういん
でいやがられているように
感
かん
じ、いっそう
強
つよ
い
恐怖
きょうふ
心
しん
を
抱
だ
いた。[…]/
数
すう
多
おお
くの
病院
びょういん
を
渡
わた
り
歩
ある
くうちに
大川
おおかわ
さんは、
医学
いがく
書
しょ
で
自分
じぶん
の
病名
びょうめい
はALSだと
知
し
った。」(
豊浦
とようら
[1986:41])
[67]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
・「
十二月
じゅうにがつ
、T
医大
いだい
神経
しんけい
内科
ないか
を
紹介
しょうかい
され
受診
じゅしん
。
頭
あたま
や
頚椎
けいつい
のMRI(
核
かく
磁気
じき
共鳴
きょうめい
診断
しんだん
装置
そうち
)を
撮
と
っても
異常
いじょう
がなかった。
筋
すじ
電
でん
図
ず
の
結果
けっか
、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
と
告
つ
げられる。
不安
ふあん
になり、いろいろ
質問
しつもん
すると、
医師
いし
はめんどうくさがり、
答
こた
えるかわりに、S
病院
びょういん
やK
病院
びょういん
など
神経
しんけい
内科
ないか
のある
民間
みんかん
病院
びょういん
の
名前
なまえ
を
挙
あ
げて、「
紹介
しょうかい
します」と
逃
に
げる。/
翌
よく
九
きゅう
十
じゅう
四
よん
年
ねん
三
さん
月
がつ
、S
病院
びょういん
に
検査
けんさ
入院
にゅういん
。ALSと
病名
びょうめい
を
告
つ
げられた。
本人
ほんにん
には
病名
びょうめい
告知
こくち
のみで、
病状
びょうじょう
の
説明
せつめい
や
予
よ
後
ご
は
知
し
らされないまま
五
ご
月
がつ
に
退院
たいいん
。」(
大阪
おおさか
府
ふ
の
六
ろく
六
ろく
歳
さい
の
男性
だんせい
、
豊浦
とようら
[1996:67-68])
[68]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
・「
病院
びょういん
通
がよ
いが
始
はじ
まる。
接骨
せっこつ
院
いん
、
整形
せいけい
外科
げか
(
二
に
ヶ所
かしょ
)、
総合
そうごう
病院
びょういん
数カ所
すうかしょ
を
回
まわ
りある
整形
せいけい
外科
げか
医
い
で、「ひじの
骨
ほね
が
神経
しんけい
を
圧迫
あっぱく
している」とのこと。この
骨
ほね
を
削
けず
り
取
と
れば
簡単
かんたん
に
治
なお
ると
言
い
う。
紹介
しょうかい
状
じょう
をもらい
総合
そうごう
病院
びょういん
へ。ところがMRI、
筋
すじ
電
でん
図
ず
などの
検査
けんさ
の
結果
けっか
東北大学
とうほくだいがく
付属
ふぞく
病院
びょういん
・
神経
しんけい
内科
ないか
へ
検査
けんさ
入院
にゅういん
。」(
後藤
ごとう
[1999-])
[69]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
・「
十二月
じゅうにがつ
、
脳神経
のうしんけい
外科
げか
、
内科
ないか
の
医院
いいん
を
受診
じゅしん
しました。
頭
あたま
、
首
くび
のMRI、レントゲン、
心電図
しんでんず
、
神経
しんけい
電動
でんどう
速度
そくど
の
検査
けんさ
を
行
おこな
いましたが、はっきりしないということで、
別
べつ
の
病院
びょういん
を(
神経
しんけい
内科
ないか
)
紹介
しょうかい
されました。/
平成
へいせい
八
はち
年
ねん
一
いち
月
がつ
、ここでも
同
おな
じ
検査
けんさ
。もう
一
ひと
つ
検査
けんさ
したいのだが、
設備
せつび
がないし、
大学
だいがく
の
教授
きょうじゅ
とも
相談
そうだん
したいので、
福島
ふくしま
県立
けんりつ
医大
いだい
まで
来
き
てくれとのこと[…]/
二
に
月
がつ
、
福島
ふくしま
医大
いだい
へ。その
結果
けっか
、「
神経
しんけい
の
変性
へんせい
による
運動
うんどう
神経
しんけい
疾患
しっかん
」[…]
咳
せき
止
ど
めの
薬
くすり
の
中
なか
に、この
病気
びょうき
に
有効
ゆうこう
な
成分
せいぶん
が
含
ふく
まれているという
報告
ほうこく
があるので、これでしばらくは
様子
ようす
をみましょう、とのことだったが…[…]/
四
よん
月
がつ
、
先生
せんせい
が
代
か
わり、こんどは
東北大学
とうほくだいがく
の
先生
せんせい
が
担当
たんとう
となり、
大学
だいがく
病院
びょういん
に
入院
にゅういん
して
検査
けんさ
することとなった。[…]
五
ご
月
がつ
二
に
三
さん
日
にち
、
大学
だいがく
病院
びょういん
に
入院
にゅういん
。
今
いま
までと
同
おな
じ
検査
けんさ
を
繰
く
り
返
かえ
し、
六月
ろくがつ
四
よん
日
にち
に「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」と、
診断
しんだん
された。」(
小野寺
おのでら
[1996:63-64])
[70]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
七
なな
年
ねん
・
指
ゆび
の
異変
いへん
を
自覚
じかく
、ある
総合
そうごう
病院
びょういん
の
整形
せいけい
外科
げか
で「
右腕
うわん
尺
じゃく
骨
こつ
神経
しんけい
の
異常
いじょう
」と
診断
しんだん
、
翌
よく
九
きゅう
八
はち
年
ねん
一
いち
月
がつ
に
手術
しゅじゅつ
することになったが、「
会社
かいしゃ
の
責任
せきにん
者
しゃ
から「
神経
しんけい
系統
けいとう
の
手術
しゅじゅつ
は
後遺症
こういしょう
の
心配
しんぱい
があるから
別
べつ
の
病院
びょういん
で
検査
けんさ
してもらったら」とのアドバイスがあり」
手術
しゅじゅつ
を
中止
ちゅうし
、
川越
かわごえ
市
し
武蔵野
むさしの
総合
そうごう
病院
びょういん
で「
血
ち
流
りゅう
をよくする
治療
ちりょう
」を
四
よん
月
がつ
から
十
じゅう
日間
にちかん
、「
変化
へんか
がないから
尺
しゃく
骨
こつ
神経
しんけい
ではない。
埼玉
さいたま
医科
いか
大学
だいがく
で
再
さい
検査
けんさ
した
方
ほう
が
良
よ
い」。
五月
ごがつ
一
いち
日
にち
埼玉
さいたま
医科
いか
大学
だいがく
整形
せいけい
外科
げか
で
診断
しんだん
、「これは
大変
たいへん
に
難
むずか
しい
病気
びょうき
です」、「この
病気
びょうき
に
詳
くわ
しい
先生
せんせい
がいるから
大宮
おおみや
自治医大
じちいだい
に
行
い
きなさい」とJALSA
四
よん
〇
号
ごう
を
出
だ
して「
病気
びょうき
の
勉強
べんきょう
をしなさい」」と
言
い
われる。
五月
ごがつ
二
に
七
なな
日
にち
、
自治医科大学
じちいかだいがく
でALSと
診断
しんだん
される。(
鈴木
すずき
[1999:20-21])
[71]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
・
四
よん
月
がつ
、
疲労
ひろう
感
かん
、
喉
のど
の
異常
いじょう
、
九
きゅう
月
がつ
、かかりつけ
医
い
が
甲状腺
こうじょうせん
機能
きのう
障害
しょうがい
診断
しんだん
、
筋力
きんりょく
低下
ていか
、
声
こえ
が
出
で
難
がた
い。「
十
じゅう
一
いち
月
がつ
:
甲状腺
こうじょうせん
機能
きのう
障害
しょうがい
治療
ちりょう
薬
やく
効果
こうか
無
な
、
病院
びょういん
巡
めぐ
り、
耳鼻
じび
科
か
、
脳外科
のうげか
、
総合
そうごう
病院
びょういん
、
整形
せいけい
外科
げか
、
内科
ないか
…
原因
げんいん
不明
ふめい
そして
神経
しんけい
内科
ないか
、とたらい
回
まわ
し/
十二月
じゅうにがつ
:
総合
そうごう
病院
びょういん
の
神経
しんけい
内科
ないか
にて
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
、
確定
かくてい
診断
しんだん
の
為
ため
、
国
くに
療
徳島
とくしま
病院
びょういん
へ
転院
てんいん
、
二
に
〇〇〇
年
ねん
一
いち
月
がつ
:
勤務
きんむ
先
さき
へ
休職
きゅうしょく
願
ねが
い/
徳島
とくしま
病院
びょういん
へ
検査
けんさ
入院
にゅういん
/
二
に
月
がつ
:ALS
告知
こくち
」(
大岩
おおいわ
[2001])
ただ、
次
つぎ
のような
場合
ばあい
には、
誤診
ごしん
というより
偽
いつわ
っている。そしてその
行
おこ
ないは、
他方
たほう
では、
本当
ほんとう
のところを(
別
べつ
の
人
ひと
に)
伝
つた
えることによって、たんに
間違
まちが
っている、あるいは
偽
いつわ
っていることから
免
まぬか
れる、と
伝
つた
える
人
ひと
には
思
おも
われているのだろう。
[72]
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
・「
脳
のう
梗塞
こうそく
の
軽
かる
いもので、
治
なお
るにしろ
悪
わる
くなるにしろ、
進行
しんこう
の
程度
ていど
は
年
とし
単位
たんい
とのこと。
勤
つと
めを
続
つづ
けながら
通院
つういん
するようにと
診断
しんだん
された。/その
後
ご
、
念
ねん
のために
妻
つま
へも
話
はな
しておきたいから
呼
よ
んでほしい、と
言
い
われる。」(
杉山
すぎやま
[1998:15]、
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
六
ろく
月
がつ
に
自覚
じかく
症状
しょうじょう
、
翌年
よくねん
一
いち
月
がつ
の
診断
しんだん
)
病気
びょうき
のことを
知
し
らせることを「
告知
こくち
」といい、
病名
びょうめい
を
告
つ
げることを「
病名
びょうめい
告知
こくち
」という。ALSの
場合
ばあい
、
病名
びょうめい
の
告知
こくち
はどのように、
誰
だれ
になされ、
病気
びょうき
のことがどのように
知
し
らされたか。その
人
ひと
はどのように
知
し
ることになったか。
次回
じかい
はそれを
見
み
ていく。
*
以下
いか
、
立岩
たついわ
真
ま
也 20020801 「
生存
せいぞん
の
争
あらそ
い──
医療
いりょう
の
現代
げんだい
史
し
のために・4」
『
現代
げんだい
思想
しそう
』
より
一部
いちぶ
引用
いんよう
■
医師
いし
から
伝
つた
えられる/
伝
つた
えられないこと
[
略
りゃく
]
医師
いし
から
比較的
ひかくてき
あっさりと
告
つ
げられることもないではない。
[73]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
、
順天堂大学
じゅんてんどうだいがく
病院
びょういん
で。「
週
しゅう
一
いち
回
かい
の
回診
かいしん
の
日
ひ
がきた。[…]
教授
きょうじゅ
が
最後
さいご
に
来
き
て
私
わたし
の
前
まえ
に
腰掛
こしか
けて
二
に
、
三
さん
、
話
はなし
をしてから
私
わたし
の
病名
びょうめい
を
話
はな
してくれた。
教授
きょうじゅ
は、「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
……
何
なに
たらかんたら」と
言
い
う。
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
――
一
いち
度
ど
では、とても
覚
おぼ
えきれないような
長
なが
い
病名
びょうめい
であった。」(
宮下
みやした
[1996:30])
ALSはまったく
一般
いっぱん
的
てき
な
病気
びょうき
ではないから、
病名
びょうめい
が
告知
こくち
されただけではそれがどんなものだかわからない。そこでしばらく
止
と
まってしまうこともある。
宮下
みやした
健一
けんいち
(
長野
ながの
県
けん
)はそうだった。
[74]「それを
聞
き
いて
私
わたし
は
教授
きょうじゅ
に、その
病気
びょうき
がどんな
病気
びょうき
で、どうなって
行
い
くのか
聞
き
きもしなかった。
私
わたし
が、そうですかと
答
こた
えただけだったので、
教授
きょうじゅ
もあっけにとられたようだった。/
私
わたし
は、この
病気
びょうき
はたいしたことがなく、きっと
治
なお
ると
思
おも
っているので、
自分
じぶん
でいろいろ
心配
しんぱい
するより、
専門
せんもん
家
か
である
先生
せんせい
方
かた
にまかせておけばいいと
考
かんが
えている。ただ
私
わたし
のやることは、
先生
せんせい
の
指示
しじ
の
通
とお
りやればいいと
思
おも
っているのだ。」(
宮下
みやした
[1996:30-31])
もっと
切羽詰
せっぱつ
まってとにかく
医師
いし
からき
出
きだ
す
人
ひと
もいる。
金沢
かなざわ
(
大分
おおいた
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
にき
出
きだ
す。き
出
きだ
さなくてはならなかった
事情
じじょう
は
後述
こうじゅつ
する。
[75]「
県立
けんりつ
病院
びょういん
のN
先生
せんせい
の
所
ところ
へ
行
い
き、
強
つよ
く
迫
せま
りました。「
本当
ほんとう
の
病名
びょうめい
を
教
おし
えてほしい」と。
農業
のうぎょう
を
続
つづ
けてゆく
上
うえ
でどうしても
知
し
っておきたい、
悪
わる
い
病気
びょうき
なら、それなりの
覚悟
かくご
をしなければならないからと
嘆願
たんがん
し、
初
はじ
めて、「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」という
大変
たいへん
な
病気
びょうき
であることを
知
し
りました。」(
金沢
かなざわ
[1991]、その
前
まえ
のことについては[80])
他
た
に
本人
ほんにん
に
説明
せつめい
がなされた
場合
ばあい
については
後
あと
で
見
み
ることになるが[117][118][119]、その
例
れい
は
少
すく
ない。ALSかと
聞
き
かれて
黙
だま
ってしまった
医師
いし
もいる。
[76]
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
七
なな
月
がつ
「
妻
つま
と
東京大学
とうきょうだいがく
病院
びょういん
へ
行
い
く。
叔母
おば
も
紹介
しょうかい
状
じょう
を
持
も
って、
同行
どうこう
してくれた。/
簡単
かんたん
な
診察
しんさつ
を
受
う
けた
後
のち
、
私
わたし
の
方
ほう
から、
私
わたし
の
病気
びょうき
は
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
策
さく
硬化
こうか
症
しょう
ではないのですか、と
尋
たず
ねた。
先生
せんせい
は
無言
むごん
。さらに、
医学
いがく
書
しょ
には
治療
ちりょう
方法
ほうほう
がないと
書
か
いてありましたが、
優秀
ゆうしゅう
な
先生
せんせい
たちが
研究
けんきゅう
をしているでしょうから
治療
ちりょう
方法
ほうほう
がまったくないとは
思
おも
えません。まだ
公式
こうしき
に
認知
にんち
されていない
方法
ほうほう
でもいいですから
試
ため
してください、とも
頼
たの
んでみた。しかし、
先生
せんせい
の
返答
へんとう
は、「この
病気
びょうき
には、そんな
展望
てんぼう
はまったくありません。
治療
ちりょう
を
求
もと
めて
病院
びょういん
を
探
さが
し
回
まわ
るのは
無駄
むだ
ですから、やめた
方
ほう
がいいですよ」というものだった。」(
杉山
すぎやま
[1998:23])
本人
ほんにん
に
病名
びょうめい
がそのまま
知
し
らされることは
少
すく
ない。とはいえたいていは
医師
いし
も
何
なに
も
言
い
わないわけにもいかないから、
何
なに
かは
言
い
う。
杉山
すぎやま
進
すすむ
(
静岡
しずおか
県
けん
)[44]は、
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
六
ろく
月
がつ
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
し、
医師
いし
に
尋
たず
ねたが
答
こたえ
のなかった
八
はち
九
きゅう
年
ねん
七
なな
月
がつ
[76]の
前
まえ
、
八
はち
九
きゅう
年
ねん
一
いち
月
がつ
には
次
つぎ
のように──
前回
ぜんかい
の
最後
さいご
[72]にも
引用
いんよう
した──
言
い
われているのだが、
同時
どうじ
に
妻
つま
には
別
べつ
のことが
伝
つた
えられる[11]。
[77]「
脳
のう
梗塞
こうそく
の
軽
かる
いもので、
治
なお
るにしろ
悪
わる
くなるにしろ、
進行
しんこう
の
程度
ていど
は
年
とし
単位
たんい
とのこと。
勤
つと
めを
続
つづ
けながら
通院
つういん
するようにと
診断
しんだん
された。/その
後
ご
、
念
ねん
のために
妻
つま
へも
話
はな
しておきたいから
呼
よ
んでほしい、と
言
い
われる。[…]/
私
わたし
が
自分
じぶん
の
病気
びょうき
についてほとんど
知
し
った
後
のち
になって、
妻
つま
が
九州大学
きゅうしゅうだいがく
病院
びょういん
の
先生
せんせい
から
説明
せつめい
された
診断
しんだん
内容
ないよう
を
聞
き
いた。
私
わたし
の
病気
びょうき
は
急激
きゅうげき
に
年
とし
をとる
病気
びょうき
で、
中
なか
には
五
ご
年
ねん
から
十
じゅう
年
ねん
も
生
い
きる
人
ひと
もいるが、ほとんどの
人
ひと
は
三
さん
年
ねん
以内
いない
に
死
し
ぬ、と
言
い
われたそうだ。」(
杉山
すぎやま
[1998:15])
もちろん
彼
かれ
は
脳
のう
梗塞
こうそく
ではない。ただ
妻
つま
への
説明
せつめい
を
見
み
れば、「
急激
きゅうげき
に
年
とし
をとる
病気
びょうき
」というい
方
いかた
をしているが、
医師
いし
はALSと
診断
しんだん
している。
本人
ほんにん
には
言
い
わず、
家族
かぞく
にはALSと
病名
びょうめい
を
告
つ
げることは
多
おお
い。そのときその
診断
しんだん
は
誤診
ごしん
ではないことにもなる。それにしても
脳
のう
梗塞
こうそく
というい
方
いかた
は
他
た
ではみなかった。
筋肉
きんにく
、
神経
しんけい
、
運動
うんどう
神経
しんけい
の
病気
びょうき
だと
言
い
われることは、それはそうに
違
ちが
いないのではあるが、
多
おお
い[78][79][101]。また「
急激
きゅうげき
に
年
とし
をとる
病気
びょうき
」「
老化
ろうか
が
速
はや
くなる
病気
びょうき
」「
急激
きゅうげき
な
脊髄
せきずい
の
老化
ろうか
」「
運動
うんどう
神経
しんけい
の
老化
ろうか
」「
筋肉
きんにく
の
老化
ろうか
が
速
はや
い
病気
びょうき
」「
老人
ろうじん
性
せい
硬化
こうか
症
しょう
」といった
言
い
われ
方
かた
もよくなされる[77][80][82][83][84][119]。
[78]「
担当
たんとう
の
女医
じょい
さんが
来
き
たので、
私
わたし
は
病気
びょうき
について
相談
そうだん
した。[…]
先生
せんせい
は、
私
わたし
の
運動
うんどう
神経
しんけい
に
問題
もんだい
がおきていると
言
い
う。
神経
しんけい
だけに
目
め
に
見
み
えず
困
こま
ったものだ。」(
宮下
みやした
[1996:29]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
、
順天堂大学
じゅんてんどうだいがく
病院
びょういん
で、
別
べつ
の
医師
いし
に
病名
びょうめい
を
知
し
らされる[73]
前
まえ
に)
[79]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
「
一
いち
月
がつ
から
岸和田
きしわだ
市民
しみん
病院
びょういん
で
受診
じゅしん
するようになったのですが、
先生
せんせい
は
直接
ちょくせつ
病名
びょうめい
は
言
い
われず、
筋肉
きんにく
の
神経
しんけい
がおかしいようだとだけ
聞
き
かされました。しかし、その
時点
じてん
で
既
すで
に
家内
かない
には
病名
びょうめい
とどういう
病気
びょうき
かは
告
つ
げられていたようで、この
時
とき
には
家内
かない
は
相当
そうとう
悩
なや
み
苦
くる
しんだと
思
おも
います。」(
奥村
おくむら
[1995])
[80]
後
ご
にN
先生
せんせい
から
病名
びょうめい
をき
出
きだ
す[75]
金沢
かなざわ
は、
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
「
春
はる
、ろれつがまわりにくく、
食事
しょくじ
がうまく
摂
と
とれなくなりました。
一
いち
週間
しゅうかん
入院
にゅういん
して
検査
けんさ
し「
老人
ろうじん
性
せい
硬化
こうか
症
しょう
」という
診断
しんだん
を
受
う
けました。どうも
腑
ふ
に
落
お
ちないので、ある
時
とき
、
県立
けんりつ
病院
びょういん
のN
先生
せんせい
に
診
み
ていただきました。
二
に
週間
しゅうかん
の
入院
にゅういん
検査
けんさ
の
結果
けっか
、
妻
つま
にはALSと
病名
びょうめい
をはっきり
告
つ
げられたようですが、
私
わたし
には
教
おし
えてくれませんでした。」
八
はち
九
きゅう
年
ねん
「どうにも
納得
なっとく
がゆかず、
九大
きゅうだい
で
診察
しんさつ
を
受
う
けましたが、ここでも「
老人
ろうじん
性
せい
硬化
こうか
症
しょう
」という
診断
しんだん
で、
普通
ふつう
の
人
ひと
より
一
いち
〇
年
ねん
早
はや
く
年
とし
をとるのだという。だから、
心
しん
の
準備
じゅんび
をするように、とのことでした。」(
金沢
かなざわ
[1991:24])
また「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
」「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
」[81][82][83][84][85][86][91][98][114]、「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
」[87][88]「
神経
しんけい
性
せい
の
筋
すじ
萎縮
いしゅく
」[89]「
神経
しんけい
原
ばら
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
」[90][93]といった
説明
せつめい
の
仕方
しかた
があり、「
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
」[88]「
脊髄
せきずい
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
」[91]といった
言葉
ことば
もみられる。それらは
間違
まちが
いではない。
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
という
語
かたり
のある
家庭
かてい
医学
いがく
書
しょ
等
とう
はある★04。その
記述
きじゅつ
の
仕方
しかた
にいくらかの
幅
はば
はあるが、
例
たと
えば、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
の
中
なか
にALS=
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
と
進行
しんこう
性
せい
球
だま
麻痺
まひ
、
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
が
列挙
れっきょ
され、
三
さん
番目
ばんめ
のものがより
症状
しょうじょう
の
進行
しんこう
の
遅
おそ
いものと
解説
かいせつ
される、また
後
のち
二
に
者
しゃ
はALSの
部分
ぶぶん
症状
しょうじょう
とされる。そうした
記述
きじゅつ
がある
場合
ばあい
には、ALSと
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
とのつながり、
同一
どういつ
性
せい
がわかることがある[81][110]。
[81]「ALSと
確信
かくしん
したのは、
小長谷
こながや
正明
まさあき
著
ちょ
『
神経
しんけい
内科
ないか
――
頭痛
ずつう
からパーキンソン
病
びょう
まで』(
岩波書店
いわなみしょてん
)を
新聞
しんぶん
広告
こうこく
で
知
し
り、
書店
しょてん
へ
行
い
き
買
か
い
求
もと
めました。『
神経
しんけい
内科
ないか
』の
十
じゅう
三
さん
ある
章
しょう
の
中
なか
から、
最
もっと
も
疑
うたが
わしい「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」の
章
しょう
を
読
よ
みました。/「[…]ブラック・ホールの
理論
りろん
的
てき
発見
はっけん
者
しゃ
で、
車椅子
くるまいす
の
天文学
てんもんがく
者
しゃ
として
有名
ゆうめい
なホーキング
博士
はかせ
もかかっているといわれている。ただし、ホーキング
博士
はかせ
は
二
に
〇
歳
さい
ころの
発症
はっしょう
であり、
発症
はっしょう
してから
二
に
〇
年
ねん
以上
いじょう
になっても
指
ゆび
でコンピューターの
操作
そうさ
ができて、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
使
つか
っていないなど、ALSとしては
早期
そうき
発症
はっしょう
でかつ
進行
しんこう
が
遅
おそ
い。
特殊
とくしゅ
なタイプのALS、あるいはべつの
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
のようにも
見受
みう
けられる」/
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
!
告知
こくち
された
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
と、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
とが、
実
じつ
は
同一
どういつ
だったのだと
確信
かくしん
せざるをえなかった。あらゆる
記述
きじゅつ
が、
自分
じぶん
の
身
み
に
起
お
きていることと、
同
おな
じでこの
時
とき
ALSと
確信
かくしん
しました。」(
鎌田
かまた
[199?]、
略
りゃく
した
部分
ぶぶん
の
一部
いちぶ
は[29]に
引用
いんよう
)
けれども、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
という
言
い
われ
方
かた
のためにわからないこともある。
小長谷
こながや
の
本
ほん
を
読
よ
んでわかった
鎌田
かまた
竹
たけ
司
し
(
宮城
みやぎ
県
けん
)[17][54]も、それ
以前
いぜん
はわからなかった。
[82]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
七
なな
月
がつ
「あまりにも
階段
かいだん
の
上
のぼ
り
下
くだ
りがきついので
平成
へいせい
五
ご
年
ねん
一
いち
〇
月
がつ
一
いち
五
ご
日
にち
から
一
いち
カ月
かげつ
間
あいだ
、
古川
ふるかわ
市立
しりつ
病院
びょういん
に
検査
けんさ
入院
にゅういん
。
階段
かいだん
を
上
のぼ
るのがきつくなったのは、
筋肉
きんにく
炎
えん
ではないかとの
診断
しんだん
でした。
専門
せんもん
的
てき
な
検査
けんさ
を
受
う
けるため
十
じゅう
二
に
月
がつ
五
ご
日
にち
仙台
せんだい
市
し
の
神経
しんけい
内科
ないか
専
せん
門
もん
の
広
こう
南
みなみ
病院
びょういん
へ
転院
てんいん
、
十
じゅう
二
に
日
にち
後
ご
十
じゅう
二
に
月
がつ
十
じゅう
七
なな
日
にち
に
結果
けっか
が
出
で
ました。/
私
わたし
と
妻
つま
を
前
まえ
に
医師
いし
は、「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
に
間違
まちが
いないでしょう。」
運動
うんどう
神経
しんけい
の
老化
ろうか
が
普通
ふつう
よりずっと
激
はげ
しい
病気
びょうき
です。
難病
なんびょう
の
一
ひと
つですから
医療
いりょう
費
ひ
の
負担
ふたん
はありません」
脳
のう
や
脊髄
せきずい
の
断層
だんそう
写真
しゃしん
などを
見
み
せられながら、
病気
びょうき
の
説明
せつめい
を
受
う
けた。/
医師
いし
は
最後
さいご
にいった。「
医療
いりょう
費
ひ
免除
めんじょ
などの
説明
せつめい
をしますから、
奥
おく
さんだけ
残
のこ
ってください」
医師
いし
は
妻
つま
に
別室
べっしつ
で「
三
さん
年
ねん
ほどで
動
うご
けなくなり、
長
なが
くても、あと
五
ご
年
ねん
……」と
告
つ
げられて
平静
へいせい
を
装
よそお
って
病室
びょうしつ
へ
戻
もど
って
来
き
たと
後
のち
から
聞
き
きました。」/その
後
ご
、
総
そう
回診
かいしん
のとき、ピクピクと
筋肉
きんにく
が
跳
は
ねているのを
指
さ
して「
間違
まちが
いないですねえ」と
小声
こごえ
で
頷
うなず
きあっているのが
私
わたし
にも
聞
き
こえ、
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
とは、そういうものなのかとただ
聞
き
いていました。/「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
」を
知
し
りたく
病院
びょういん
近
ちか
くの
書店
しょてん
に
行
い
き、
分厚
ぶあつ
い
医学
いがく
書
しょ
を
開
ひら
いて「
難病
なんびょう
」のページを
見
み
たが「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
」は、その
医学
いがく
書
しょ
のどこにも
載
の
っていませんでした。」(
鎌田
かまた
[199?])
[83]
亀山
かめやま
晴美
はるみ
(
岡山
おかやま
県
けん
)。
一
いち
九
きゅう
八
はち
一
いち
年
ねん
は「
忘
わす
れることのできないあらたな
運命
うんめい
の
始
はじ
まりだった。この
年
とし
九
きゅう
月
がつ
に
入院
にゅういん
、
検査
けんさ
の
繰
く
り
返
かえ
しであった
日々
ひび
もCTスキャナーで
終
お
わりとなり、
病名
びょうめい
判明
はんめい
、
即
そく
退院
たいいん
と
決
き
まった。
翌日
よくじつ
、
迎
むか
えに
来
き
た
夫
おっと
と
一緒
いっしょ
に、
不安
ふあん
と
期待
きたい
を
込
こ
めて
主治医
しゅじい
の
説明
せつめい
を
聞
き
く。/「
病名
びょうめい
は
運動
うんどう
ニューロン
症
しょう
、
投薬
とうやく
を
続
つづ
けながら
様子
ようす
を
見
み
、
月
つき
一
いち
度
ど
の
診察
しんさつ
をします。
残念
ざんねん
ながら
原因
げんいん
がわからず、はっきりした
治療
ちりょう
法
ほう
が
確立
かくりつ
されていませんが、
今
いま
わからなくても、
研究
けんきゅう
が
進
すす
んでいるので
必
かなら
ず
判明
はんめい
します。
気
き
を
落
お
とさないでください。
当分
とうぶん
は
仕事
しごと
を
続
つづ
けてもいいが、
無理
むり
をしないで、
次
つぎ
の
日
ひ
に
疲
つか
れを
残
のこ
さない
程度
ていど
にしなさい。
身体
しんたい
の
機能
きのう
も
体力
たいりょく
も
老人
ろうじん
のように
衰
おとろ
えていきますので……。
頑張
がんば
ってください」/と、あたたかい
励
はげ
ましを
受
う
けた。」(
亀山
かめやま
[1987:24]、その
後
ご
について[107]→[91]→[97])
[84]
和
わ
中勝
なかがち
三
さん
(
和歌山
わかやま
県
けん
)[51]は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
「
九
きゅう
月
がつ
に
最初
さいしょ
の
告知
こくち
を
受
う
けました。/
私
わたし
には、
急激
きゅうげき
な
脊髄
せきずい
の
老化
ろうか
と
説明
せつめい
を
受
う
けましたが、
診断
しんだん
書
しょ
を
見
み
ると
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
と
書
か
いていました。
何
なに
も
知識
ちしき
が
無
な
かった
私
わたし
は
難病
なんびょう
欄
らん
を
見
み
て、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
て
書
か
いていないか
探
さが
しましたが、
書
か
いていなかったのでラッキーと
喜
よろこ
び、
治
なお
る
見込
みこ
みがあると
信
しん
じて、
他
た
の
病院
びょういん
を
転々
てんてん
と
診察
しんさつ
に
回
まわ
りました。/
何処
どこ
の
病院
びょういん
へ
検査
けんさ
に
行
い
っても
先生
せんせい
に
質問
しつもん
してもはっきりと
答
こた
えてくれずに、
困
こま
ったような
顔
かお
をしてうなずくばかりで、かえって
迷惑
めいわく
そうに
感
かん
じました。/
病院
びょういん
を
転々
てんてん
と
回
まわ
っていると、
自分
じぶん
でも
治
なお
らない
病気
びょうき
ではないかと
感
かん
じ
始
はじ
めてきました。/
平成
へいせい
四
よん
年
ねん
十
じゅう
月
がつ
に「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」と
告知
こくち
を
受
う
けました。」(
和
わ
中
ちゅう
[1999?])
[85]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
に
発症
はっしょう
し
入院
にゅういん
した
後藤
ごとう
忠治
ただはる
(
宮城
みやぎ
県
けん
)[56]は「
医師
いし
からALSと
告知
こくち
された
記憶
きおく
は
無
な
い。
検査
けんさ
入院
にゅういん
の
時
とき
、「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
」と
告知
こくち
されただけです。
治療
ちりょう
方法
ほうほう
が
無
な
いと
言
い
うだけで
具体
ぐたい
的
てき
な
説明
せつめい
はありません。ただこの
病気
びょうき
が
命
いのち
にかかわる
重大
じゅうだい
な
病気
びょうき
だと
感
かん
じました。
妻
つま
は
退院
たいいん
の
日
ひ
に
告知
こくち
されたそうで、ずっと
後
のち
に
成
な
ってから
話
はな
してくれました。どんな
気持
きも
ちで
何処
どこ
まで
説明
せつめい
受
う
けたのか。
今
いま
も
聞
き
いていません。
今
いま
となっては
聞
き
いてもしょうがありません。/しかし、
今
いま
思
おも
うと
私
わたし
はこれで
良
よ
かったと
思
おも
っている。」(
後藤
ごとう
[2000?]、その
後
ご
書類
しょるい
からALSと
知
し
る[96])
[86]
大岩
おおいわ
日出夫
ひでお
(
徳島
とくしま
県
けん
)も
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
と
言
い
われ、
後
のち
に
別
べつ
の
病院
びょういん
でALSと
告
つ
げられた。「
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
四
よん
月
がつ
:
公私
こうし
共
ども
に
超
ちょう
多忙
たぼう
、
疲労
ひろう
感
かん
、
喉
のど
の
異常
いじょう
。
九月
くがつ
:かかり
付
つ
け
医
い
にて
甲状腺
こうじょうせん
機能
きのう
障害
しょうがい
診断
しんだん
、
筋力
きんりょく
低下
ていか
、
声
こえ
が
出
で
難
がた
い。/
十一月
じゅういちがつ
:
甲状腺
こうじょうせん
機能
きのう
障害
しょうがい
治療
ちりょう
薬
やく
効果
こうか
無
な
、
病院
びょういん
巡
めぐ
り、
耳鼻
じび
科
か
、
脳外科
のうげか
、
総合
そうごう
病院
びょういん
、
整形
せいけい
外科
げか
、
内科
ないか
・・
原因
げんいん
不明
ふめい
そして
神経
しんけい
内科
ないか
、とたらい
回
まわ
し/
十二月
じゅうにがつ
:
総合
そうごう
病院
びょういん
の
神経
しんけい
内科
ないか
にて
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
、
確定
かくてい
診断
しんだん
の
為
ため
、
国
くに
療
徳島
とくしま
病院
びょういん
へ
転院
てんいん
/〇〇
年
ねん
一
いち
月
がつ
:
勤務
きんむ
先
さき
へ
休職
きゅうしょく
願
ねが
い、
徳島
とくしま
病院
びょういん
へ
検査
けんさ
入院
にゅういん
/
二
に
月
がつ
:ALS
告知
こくち
」(
大岩
おおいわ
[2001])
こうしたい
方
いかた
がALSであることをそのままに
伝
つた
えない
伝
つた
え
方
かた
であることは
伝
つた
える
側
がわ
にも
意識
いしき
されている。
[87]
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
、
菅原
すがわら
和子
かずこ
(
岩手
いわて
県
けん
)[36]は、
脊髄
せきずい
の
病気
びょうき
のようだと
言
い
われ
神経
しんけい
内科
ないか
を
紹介
しょうかい
され、その
日
ひ
書店
しょてん
で
買
か
った
家庭
かてい
医学
いがく
書
しょ
の
脊髄
せきずい
の
病気
びょうき
にALSを
見
み
つけ[20]、
翌日
よくじつ
紹介
しょうかい
された
岩手
いわて
県立
けんりつ
病院
びょういん
を
訪
おとず
れる。「
先生
せんせい
、
私
わたし
は
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
策
さく
硬化
こうか
症
しょう
ではないでしょうか」/
先生
せんせい
は
少
すこ
し
驚
おどろ
いたようだったが、「いや、
違
ちが
いますよ」と
細
ほそ
い
目
め
で
笑
わら
って
言
い
った。/「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
というのは、アミトロ、ALSとも
言
い
いましてね、
脊髄
せきずい
のほかに
延髄
えんずい
も
侵
おか
され、
物
もの
が
飲
の
み
込
こ
めなくなってむせたり、
言葉
ことば
がもつれてくる
病気
びょうき
です。あなたは
舌
した
の
萎縮
いしゅく
もありませんし、ちゃんと
喋
しゃべ
れるでしょ。アミトロではありませんよ。/でも、たしかに
筋肉
きんにく
がやせているので、
一応
いちおう
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
≠ニいっていいでしょう。これにはいろいろなタイプがあって、まだ
一
いち
回
かい
の
診察
しんさつ
で
断定
だんてい
的
てき
なことは
言
い
えませんが、あまり
心配
しんぱい
しないでしばらく
通
とお
ってみて
下
くだ
さい」(
菅原
すがわら
[1989:13-14])
[88]
菅原
すがわら
を
担当
たんとう
した
鈴木
すずき
孝
たかし
輝
てる
(
岩手
いわて
県立
けんりつ
中央
ちゅうおう
病院
びょういん
第
だい
一
いち
内科
ないか
)。「
菅原
すがわら
さんの
病気
びょうき
の
進行
しんこう
は
急速
きゅうそく
で、
四肢
しし
の
筋
すじ
萎縮
いしゅく
、
線維
せんい
性
せい
収縮
しゅうしゅく
(
筋肉
きんにく
のピクピクした
痙攣
けいれん
)が
明
あき
らかで、
運動
うんどう
神経
しんけい
疾患
しっかん
であることは、
臨床
りんしょう
所見
しょけん
だけで
十分
じゅうぶん
診断
しんだん
できました。/しかし、
嚥下
えんか
障害
しょうがい
、構音
障害
しょうがい
、
舌
した
萎縮
いしゅく
といった
球
たま
麻痺
まひ
症状
しょうじょう
はみられず、
腱
けん
反射
はんしゃ
も
低下
ていか
していましたので、ALSの
仮性
かせい
多発
たはつ
性
せい
神経
しんけい
炎
えん
型
がた
かSPMA(
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
)が
考
かんが
えられました。SPMAはALSより
予
よ
後
ご
が
良好
りょうこう
ですが、
運動
うんどう
神経
しんけい
疾患
しっかん
として
包括
ほうかつ
されます。
私
わたし
はALSの
患者
かんじゃ
さんには、
初診
しょしん
の
時
とき
は
直接
ちょくせつ
病名
びょうめい
を
告
つ
げず、
包括
ほうかつ
的
てき
な
意味
いみ
で
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
と
言
い
うようにしています。また
経過
けいか
にはかなり
個人
こじん
差
さ
があることをお
話
はなし
し、ALSの
予備
よび
知識
ちしき
を
持
も
った
患者
かんじゃ
さんが
落胆
らくたん
しないように
心
こころ
がけています。
事実
じじつ
、ALSであっても、
一
いち
〇
年
ねん
以上
いじょう
頑張
がんば
ってる
患者
かんじゃ
さんが
全国
ぜんこく
には
何人
なんにん
もおられます。」(
菅原
すがわら
[1989:14-15])
[89]
土屋
つちや
融
とおる
(
山梨
やまなし
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
二
に
月
がつ
に
発症
はっしょう
、
三
さん
月
がつ
山梨
やまなし
県立
けんりつ
病院
びょういん
、
八
はち
国立
こくりつ
王子
おうじ
病院
びょういん
、
八
はち
月
がつ
十
じゅう
六
ろく
日
にち
山梨
やまなし
県立
けんりつ
中央
ちゅうおう
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
で
診察
しんさつ
・
入院
にゅういん
。
二
に
二
に
日
にち
「
昨日
きのう
の
筋
すじ
電
でん
図
ず
検査
けんさ
の
結果
けっか
、
神経
しんけい
性
せい
の
筋
すじ
萎縮
いしゅく
ということ」(
土屋
つちや
[1993:174])、
九
きゅう
月
がつ
二
に
五
ご
日
にち
「
昨日
きのう
は、
病気
びょうき
のこととこれからのことについて
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
と
話
はな
す。
大変
たいへん
な
難病
なんびょう
とのこと、
現代
げんだい
の
医学
いがく
をもってしても
適切
てきせつ
な
治療
ちりょう
はないとか。
愕然
がくぜん
として
昨夜
さくや
は
一睡
いっすい
もできず。
今日
きょう
も
身体
しんたい
が
重
おも
い。」(
土屋
つちや
[1993:176])
[90]
土屋
つちや
融
とおる
を
担当
たんとう
した
石原
いしはら
修
おさむ
(
山梨
やまなし
県立
けんりつ
中央
ちゅうおう
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
)。「ご
自身
じしん
は
病名
びょうめい
を
知
し
っておられます。
入院
にゅういん
当初
とうしょ
よりカルテの
上
うえ
ではこの
診断
しんだん
がついていましたが、
主治医
しゅじい
からは
病名
びょうめい
は
告
つ
げられていませんでした。/
私
わたし
どもの
病院
びょういん
に
転院
てんいん
後
ご
、
一
いち
カ月
かげつ
のお
付合
つきあ
いの
中
なか
で、
土屋
つちや
さんが
何事
なにごと
にも
挫
くじ
けず、どんな
状況
じょうきょう
でも
堅
かた
い
意志
いし
をもって
生
い
きていくことのできる
方
ほう
だということがよくわかりましたので、ご
本人
ほんにん
に
疾患
しっかん
の
説明
せつめい
をすることにいたしました。/まだ
原因
げんいん
のわからない
疾患
しっかん
で、
決定的
けっていてき
な
治療
ちりょう
法
ほう
がないことをお
話
はな
ししましたが、
病名
びょうめい
はそのままは
伝
つた
えず、
神経
しんけい
原
ばら
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
として
説明
せつめい
させていだだきました。「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」は
患者
かんじゃ
さんと
家族
かぞく
にとって、それだけ
重
おも
い
荷物
にもつ
となる
病気
びょうき
です。ご
家族
かぞく
には
病名
びょうめい
を
告
つ
げ、
姉
あね
上
じょう
がALS(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
)
協会
きょうかい
に
入会
にゅうかい
され、
姉
あね
上
じょう
より
送
おく
られた
協会
きょうかい
の
出版
しゅっぱん
物
ぶつ
などを
通
とお
して、この
病名
びょうめい
は
本人
ほんにん
の
知
し
るところとなりました。」(
石原
いしはら
[1993:4-5])
[91]
一
いち
九
きゅう
八
はち
一
いち
年
ねん
、
運動
うんどう
ニューロン
症
しょう
と
医師
いし
に
言
い
われる[83]が、
一
いち
年
ねん
後
ご
、
人
ひと
から「
脊髄
せきずい
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
」と
人
ひと
に
聞
き
いて[107]、
亀山
かめやま
は
再
ふたた
び
病院
びょういん
に
行
い
く。「
病院
びょういん
で
主治医
しゅじい
にうかがう。が、あくまでもニューロン(
神経
しんけい
)
症
しょう
であり、
似
に
ているのは、
同
おな
じような
症状
しょうじょう
を
引
ひ
き
起
お
こしているからだ、
難病
なんびょう
には
違
ちが
いないので、
医療
いりょう
費
ひ
免除
めんじょ
の
手続
てつづ
きをする、というご
返事
へんじ
だった。/
頭
あたま
の
上
うえ
に
馬鹿
ばか
がつくほどお
人好
ひとよ
しの
私
わたし
も、さすがにこの
解答
かいとう
は
鵜呑
うの
みできなかった。しばらくして」(
書類
しょるい
の
申請
しんせい
のとき
病名
びょうめい
を
知
し
ることになる[92]。
亀山
かめやま
[1987:25])
■
書類
しょるい
・カルテから
知
し
る
他
た
に、
書類
しょるい
の
記載
きさい
から、またカルテの
記載
きさい
から
知
し
ることがある。
後
うしろ
でもふれるが、ALSは
特定
とくてい
疾患
しっかん
に
呼
よ
ばれるものの
一
ひと
つで、
申請
しんせい
して
認
みと
められると「
特定
とくてい
疾患
しっかん
受給
じゅきゅう
証
しょう
」が
交付
こうふ
され、
医療
いりょう
費
ひ
の
本人
ほんにん
負担
ふたん
分
ぶん
がなくなる。その
申請
しんせい
・
受給
じゅきゅう
に
際
さい
して
病名
びょうめい
が
記
しる
され、それを
知
し
ることがある。そこから、また
他
た
の
書類
しょるい
から、
病名
びょうめい
、ときにはその
予
よ
後
ご
が
知
し
られることがある。
[92]
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
、「
保健所
ほけんじょ
から
送
おく
られてきた
特定
とくてい
疾患
しっかん
医療
いりょう
受給
じゅきゅう
者
しゃ
票
ひょう
には[…]
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
という、
聞
き
いたことのない
病名
びょうめい
の
ゴム印
ごむいん
が
押
お
されていた。すぐさまこの
病名
びょうめい
をさぐってみると、なんのことはない、
田舎
いなか
の
本屋
ほんや
の
医学
いがく
書
しょ
にも
載
の
っていた。/そこには、
死
し
に
至
いた
るまでの
経過
けいか
が
赤裸々
せきらら
に
解説
かいせつ
してあった。その
一
いち
字
じ
一
いち
句
く
が、い
表
いあらわ
せないほど
胸
むね
に
刺
さ
さった。」(
亀山
かめやま
[1987:25])
[93]
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
、「
市立
しりつ
図書館
としょかん
に
行
い
き、
係員
かかりいん
に
医学
いがく
書
しょ
を
出
だ
してもらう。
九州大学
きゅうしゅうだいがく
病院
びょういん
に
入院
にゅういん
する
時
とき
に
書
か
いてもらった
診断
しんだん
書
しょ
の
病名
びょうめい
と、
生命
せいめい
保険
ほけん
会社
かいしゃ
に
入院
にゅういん
手当
てあて
金
きん
を
請求
せいきゅう
する
時
とき
に
書
か
いてもらった
証明
しょうめい
書
しょ
の
病名
びょうめい
を
頼
たよ
りに、
目次
もくじ
を
調
しら
べた。
診断
しんだん
書
しょ
の
病名
びょうめい
は「
神経
しんけい
原
ばら
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
疑
うたぐ
」、
証明
しょうめい
書
しょ
の
病名
びょうめい
は「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
」である。」(
杉山
すぎやま
[1998:22])
[94]「
検査
けんさ
の
結果
けっか
自体
じたい
も
先生
せんせい
からはっきりした
説明
せつめい
もなく、
医療
いりょう
費
ひ
が
無料
むりょう
になるので、
特定
とくてい
疾患
しっかん
と
身体
しんたい
障害
しょうがい
者
しゃ
手帳
てちょう
の
申請
しんせい
をするようにと
言
い
われ、
申請
しんせい
することになったのです。そして
特定
とくてい
疾患
しっかん
受給
じゅきゅう
証
しょう
が
来
き
た
時
とき
に、
家内
かない
にしてみれば
病名
びょうめい
は
私
わたし
には
隠
かく
していたために、どうしようかと
思
おも
い
悩
なや
んだものの、いつまでも
特定
とくてい
疾患
しっかん
受給
じゅきゅう
証
しょう
を
見
み
せない
訳
わけ
にもいかず、その
時
とき
に
私
わたし
は
正式
せいしき
な
病名
びょうめい
を
知
し
ることになったのです。そしてその
特定
とくてい
疾患
しっかん
の
病名
びょうめい
欄
らん
には、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
と
書
か
かれてあり、「ああ、やはりそうだったのか」と
思
おも
いました」(
奥村
おくむら
[1995])
[95]
妻
つま
はこのことを
次
つぎ
のように
言
い
う。「
特定
とくてい
疾患
しっかん
医療
いりょう
受給
じゅきゅう
者
しゃ
証
しょう
の
申請
しんせい
ということから
主人
しゅじん
に
病名
びょうめい
を
知
し
らせざるを
得
え
ず、
悩
なや
んだのですが
仕方
しかた
ありませんでした。もちろん
受給
じゅきゅう
者
しゃ
証
しょう
を
見
み
せただけで
私
わたし
は
何
なに
も
知
し
らないふりをしていました。でも
主人
しゅじん
は
自分
じぶん
なりに
調
しら
べて
病気
びょうき
のことは
知
し
っていたようで、その
時
とき
も
特
とく
に
驚
おどろ
くようなこともなくいつもと
変
か
わりなかったのです。
私
わたし
が
先生
せんせい
から
病名
びょうめい
を
告
つ
げられていることを
話
はな
したのは
最近
さいきん
で、
在宅
ざいたく
療養
りょうよう
に
移
うつ
るにあたっていろいろな
方
ほう
とお
話
はなし
をするようになってからのことです。」(
奥村
おくむら
[1995]。
奥村
おくむら
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
にこうして
病名
びょうめい
を
知
し
る。
九
きゅう
三
さん
年
ねん
に
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
、
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
に
逝去
せいきょ
。)
[96]「
平成
へいせい
七
なな
年
ねん
春
はる
発病
はつびょう
してはじめて、
自分
じぶん
が
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
と
知
し
ったのは
平成
へいせい
八
はち
年
ねん
十二月
じゅうにがつ
に
届
とど
いた
特定
とくてい
疾患
しっかん
医療
いりょう
受給
じゅきゅう
者
しゃ
証
しょう
からでした。」(
後藤
ごとう
[2000?]、[85]に
続
つづ
く
文章
ぶんしょう
)
[97]
塩崎
しおざき
清江
きよえ
(
新潟
にいがた
県
けん
)は、
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
「
休職
きゅうしょく
のための
診断
しんだん
書
しょ
で、
初
はじ
めて
本当
ほんとう
の
病名
びょうめい
を
確認
かくにん
した。
当初
とうしょ
より
自分
じぶん
では
認識
にんしき
していたつもりだったのに……。
愕然
がくぜん
とし、
目
め
の
前
まえ
が
真
ま
っ
暗
くら
になった。」(
塩崎
しおざき
[1987:52])
[98]
一
いち
九
きゅう
八
はち
六
ろく
年
ねん
頃
ごろ
、「
実
じつ
は、まだこの
時点
じてん
で
私
わたし
にはALSのことは
知
し
らされていなかった。
障害
しょうがい
者
しゃ
手帳
てちょう
には「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
」と
記
しる
され、
正確
せいかく
な
病名
びょうめい
がわからないようにしてあったり、
特定
とくてい
疾患
しっかん
認定
にんてい
証
しょう
は
妻
つま
が
持
も
っていて、
私
わたし
の
目
め
には
触
ふ
れないように
気
き
を
配
くば
っていたからである。」(
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[1998:23]、[43])
[99]
平山
ひらやま
真喜
まき
男
おとこ
(
宮崎
みやざき
県
けん
)も、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
六
ろく
月
がつ
に
埼玉
さいたま
医科
いか
大学
だいがく
附属
ふぞく
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
で
家族
かぞく
がALSの
病名
びょうめい
告知
こくち
を
受
う
けているが、
本人
ほんにん
は、その
二
に
年
ねん
半
はん
後
ご
、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
年
ねん
一
いち
月
がつ
宮崎
みやざき
県立
けんりつ
宮崎
みやざき
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
を
受診
じゅしん
したとき、
保健所
ほけんじょ
に
提出
ていしゅつ
する
診断
しんだん
書
しょ
でALSと
知
し
った(
平山
ひらやま
[2002])。
病名
びょうめい
だけでなく、
書類
しょるい
からこの
病
やまい
の
行方
ゆくえ
を
知
し
ることになる
場合
ばあい
もある。
[100]
医師
いし
にALSかと
聞
き
いて
答
こたえ
のなかった[76]
杉山
すぎやま
は
翌月
よくげつ
、
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
八
はち
月
がつ
「とりあえず
難病
なんびょう
の
申請
しんせい
だけはしておこうと、
保健所
ほけんじょ
へ
行
い
く。
担当
たんとう
者
しゃ
に
病名
びょうめい
を
告
つ
げ、
申請
しんせい
用紙
ようし
をもらいたい
旨
むね
を
伝
つた
える。……/
車
くるま
の
運転
うんてん
席
せき
に
戻
もど
ってから、
申請
しんせい
書類
しょるい
を
見
み
て
驚
おどろ
いた。/「構語
障害
しょうがい
」「
嚥下
えんか
障害
しょうがい
」/「
呼吸
こきゅう
障害
しょうがい
」/など、
予想
よそう
もしていなかった
症状
しょうじょう
の
項目
こうもく
がずらりと
並
なら
んでいる。
即座
そくざ
に、
死
し
が
近
ちか
いことを
覚悟
かくご
した。その
瞬間
しゅんかん
、
頭
あたま
に
浮
う
かんだのは、「
親
おや
はなくても
子
こ
は
育
そだ
つ」という
言葉
ことば
だった。/その
後
ご
は、
胸
むね
につかえていたモヤモヤが
落
お
ちてすっきりした
気分
きぶん
になり、
東京大学
とうきょうだいがく
病院
びょういん
で
受
う
けたようなショックはなかった。」(
杉山
すぎやま
[1998:24-25])
そして、カルテから
情報
じょうほう
が
漏
も
れることがある。
[101]
川合
かわい
亮三
りょうぞう
(
長野
ながの
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
七
なな
一
いち
年
ねん
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
し、「
軽
かる
い
脳軟化症
のうなんかしょう
」(N
病院
びょういん
)「
小脳
しょうのう
の
機能
きのう
不全
ふぜん
症
しょう
」(T
大学
だいがく
付属
ふぞく
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
)と
言
い
われる。
再度
さいど
T
大学
だいがく
付属
ふぞく
病院
びょういん
を
訪
おとず
れた
時
とき
にはそれは
否定
ひてい
され「
運動
うんどう
神経
しんけい
の
病気
びょうき
」だと
言
い
われ、K
大学
だいがく
付属
ふぞく
病院
びょういん
に
検査
けんさ
入院
にゅういん
し、「
運動
うんどう
神経
しんけい
が
冒
おか
されてゆくために、
筋肉
きんにく
が
萎縮
いしゅく
する
結果
けっか
、
言語
げんご
障害
しょうがい
や
手足
てあし
の
運動
うんどう
機能
きのう
がそこなわれるものである」(
川合
かわい
[1987:43])と
説明
せつめい
される。「
本当
ほんとう
の
病名
びょうめい
は、
患者
かんじゃ
の
耳
みみ
には
入
はい
ってこない。しかし、
今
いま
まで
診療
しんりょう
をしてくれた
数
すう
多
おお
くの
医師
いし
の
目
め
の
色
いろ
から、
不治
ふじ
の
病
やまい
と
悟
さと
っている。/カルテをちらっと
眺
なが
めたとき、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
×××
硬化
こうか
症
しょう
と
読
よ
めた。×××のところが
メモ用紙
めもようし
に
邪魔
じゃま
されて、
全部
ぜんぶ
は
読
よ
めなかった。」(
川合
かわい
[1987:6])
[102]
中島
なかじま
貴
たか
祐
ゆう
は
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
に
発病
はつびょう
。「
私
わたし
は
病名
びょうめい
を
告知
こくち
していただけませんでした。
私
わたし
が
病名
びょうめい
を
知
し
ったのは、
発病
はつびょう
して
四
よん
年
ねん
目
め
に
入院
にゅういん
の
診察
しんさつ
の
時
とき
に、カルテの
表紙
ひょうし
にALSと
書
か
いてあったのを
見
み
たからです。/それから、テレビでこの
病気
びょうき
のドキュメンタリーやドラマを
見
み
て、
病気
びょうき
の
進行
しんこう
が
分
わ
かりました。/
私
わたし
は
病気
びょうき
のことが
徐々
じょじょ
に
分
わ
かり、とてもとてもショックでした。
自殺
じさつ
の
方法
ほうほう
を
考
かんが
えたりしていました。/
患者
かんじゃ
には
病名
びょうめい
を
知
し
る
権利
けんり
があります。どうか、
患者
かんじゃ
が
希望
きぼう
したら
告知
こくち
して
下
くだ
さい。お
願
ねが
いします。」(
中島
なかじま
[2001])
[103]
小林
こばやし
富美子
とみこ
(
新潟
にいがた
県
けん
)が
知
し
ったのは
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
頃
ごろ
。「
偶然
ぐうぜん
カルテから
病名
びょうめい
を
知
し
り
医学
いがく
書
しょ
を
見
み
ました。
原因
げんいん
わからず、
治療
ちりょう
法
ほう
なし、
二
に
、
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
と
書
か
かれており、あまりのむごさに、
三
さん
日間
にちかん
床
ゆか
に
伏
ふ
し、
枕
まくら
をぬらし、
涙
なみだ
が
枯
か
れるまで
泣
な
きました。」(
小林
こばやし
[1991:34])
[104]
鈴木
すずき
淳
あつし
(
宮城
みやぎ
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
「
三
さん
月
がつ
主治医
しゅじい
の
斉藤
さいとう
助教授
じょきょうじゅ
にALS(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
)であることを
告
つ
げられる。/そんなことは
二
に
年
ねん
前
まえ
からカルテを
盗
ぬす
み
見
み
てすでに
分
わ
かってることだ、
治
なお
らぬ
病気
びょうき
と
知
し
りこの
二
に
年間
ねんかん
必死
ひっし
で
生
い
きて
来
き
た、
今更
いまさら
告知
こくち
されても
私
わたし
は
驚
おどろ
きはしなかった。」(
鈴木
すずき
[1997])
そして、こんなこともあるらしい。
[105]
川口
かわぐち
武久
たけひさ
[19][30][64]は
一
いち
九
きゅう
七
なな
八
はち
年
ねん
頃
ごろ
、「
発病
はつびょう
から
五
ご
年
ねん
目
め
、
遂
つい
に
病名
びょうめい
を
知
し
ることができたのです。そこは、
難病
なんびょう
専
せん
門
もん
の
病院
びょういん
に
変
か
わろうとする
診療
しんりょう
所
しょ
でした。
主治医
しゅじい
は
私
わたし
に「
治
なお
る」と
言
い
われ、
暗示
あんじ
をかけて
一時
いちじ
的
てき
に
回復
かいふく
に
向
む
かった
時期
じき
を
経
へ
て、
私
わたし
の
目
め
の
前
まえ
にカルテを
置
お
いて
行
い
かれたのです。
気
き
が
咎
とが
めましたが、
恐
おそ
る
恐
おそ
る
見
み
せてもらったのです。そのカルテには「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
ALS」と
記入
きにゅう
されていました。
初耳
はつみみ
の
病名
びょうめい
です。
聞
き
くに
聞
き
けず、こっそりと
医学
いがく
書
しょ
を
調
しら
べて
見
み
ました。/「
変性
へんせい
神経
しんけい
疾患
しっかん
で
進行
しんこう
性
せい
、
原因
げんいん
は
不明
ふめい
、
治療
ちりょう
方法
ほうほう
は
全
まった
く
無
な
く
予
よ
後
ご
は
不良
ふりょう
、
発病
はつびょう
から
三
さん
、
四
よん
年
ねん
の
命
いのち
である」と
記
しる
してあり
難
むずか
しい
解説
かいせつ
は
分
わ
かりませんでしたが、まさかこれほどの
難病
なんびょう
だとは
思
おも
いもせず、
身体
しんたい
が
深
ふか
く
沈
しず
んで
行
い
くようでした。いくら
早期
そうき
に
発見
はっけん
しても
成
な
す
術
じゅつ
も
無
な
く、ただ
死
し
を
待
ま
つだけの
病気
びょうき
に
思
おも
えたのです。これでは
簡単
かんたん
に
病名
びょうめい
を
教
おし
えてくれないはずです。/このように
直接
ちょくせつ
では
有
あ
りませんでしたが、
家族
かぞく
よりも
早
はや
く
知
し
るところとなり、
余
あま
りの
残酷
ざんこく
な
宣告
せんこく
に
家族
かぞく
には
黙
だま
っていることにしました。」(
川口
かわぐち
[1988→1989:133])
■
医療
いりょう
の
方
ほう
からでなく
知
し
る
結局
けっきょく
病院
びょういん
では
病名
びょうめい
がわからないこともある。また
病名
びょうめい
は
医師
いし
から
直接
ちょくせつ
、あるいは
間接
かんせつ
に
聞
き
いたとして、それだけで
何
なに
がわかるというものでもない。
正確
せいかく
なあるいは
不正確
ふせいかく
な
病名
びょうめい
を
手掛
てが
かりにして、あるいは
医療
いりょう
側
がわ
からの
情報
じょうほう
の
提供
ていきょう
のないまま、
自力
じりき
の
部分
ぶぶん
を
足
た
してより
具体
ぐたい
的
てき
なことを
知
し
ることになる。
様々
さまざま
な
経路
けいろ
を
通
とお
って、
紆余曲折
うよきょくせつ
を
経
へ
て、だんだんと、あるいは
突然
とつぜん
──
少
すこ
しずつ
勘
かん
づきながら、しかし
衝撃
しょうげき
的
てき
なのは
一
いち
度
ど
ということも
多
おお
い──
病気
びょうき
のことを
知
し
ることになる。
自分
じぶん
で
調
しら
べてわかることもある。いまならインターネットで
検索
けんさく
すれば
様々
さまざま
な
情報
じょうほう
が
出
で
てくる。
実際
じっさい
インターネットで
知
し
った
人
ひと
もいる。
[106]「
小出
こいで
喜一
きいち
さん(
五
ご
二
に
歳
さい
)は
四
よん
年
ねん
前
まえ
に、ALSを
発病
はつびょう
した。
病名
びょうめい
不明
ふめい
のまま、
自身
じしん
で
自覚
じかく
症状
しょうじょう
などから
世界中
せかいじゅう
のHPで
検索
けんさく
などしながら、
自力
じりき
でALSだと
知
し
る。」(
小出
こいで
[2001:4])
それはこれからもっと
増
ふ
えるはずだ。
私
わたし
が
書
か
いているこの
文章
ぶんしょう
や、それと
連動
れんどう
させて
作
つく
り
公開
こうかい
しているホームページのファイルも
使
つか
われることがあるだろう──そのためにも
書
か
いているし、それを
意識
いしき
せざるをえずに
書
か
いてもいる。
そしてもっと
直接
ちょくせつ
に、
人
ひと
から
聞
き
くことがある。
[107]
亀山
かめやま
は
医師
いし
からは
運動
うんどう
ニューロン
症
しょう
と
言
い
われた[83]。「
自宅
じたく
に
戻
もど
った
私
わたし
は、
入院
にゅういん
の
疲
つか
れをいやす
間
あいだ
もなく、
普段
ふだん
の
生活
せいかつ
に
追
お
われ、
先生
せんせい
の
言葉
ことば
も
深
ふか
く
考
かんが
えずにき
流
きなが
してしまって、わが
身
み
を
返
かえ
り
見
み
る
余裕
よゆう
もなくすごした。/フッと
気
き
がついた
時
とき
、
階段
かいだん
をはって
昇
のぼ
っていた。
退院
たいいん
後
ご
一
いち
年
ねん
、
病魔
びょうま
は
確実
かくじつ
に
身体
しんたい
を
蝕
むしば
んでいたのである。[…]/
打
う
ち
消
け
しても
浮
う
かんでくる
不安
ふあん
から、
近
ちか
くに
来
き
ていた
健康
けんこう
器具
きぐ
の
試用
しよう
会
かい
に
行
い
ってみた。
意外
いがい
にも、
販売
はんばい
員
いん
から
病気
びょうき
の
内容
ないよう
と
行
ゆ
く
末
すえ
を
聞
き
かされるとは……。/「これは
治
ち
らん、
早
はや
くて
一
いち
年
ねん
そこそこ、
二
に
〜
三
さん
年
ねん
で
死亡
しぼう
と
書
か
いてある。
奥
おく
さん
若
わか
んで
何
なに
とかせんと
大変
たいへん
だ」/
家事
かじ
と
育児
いくじ
に
専念
せんねん
しつつも、どこか
心
しん
は
別
べつ
のところにいた。
先行
さきゆ
きに
対
たい
する
不安
ふあん
は、いつか
私
わたし
を
泥沼
どろぬま
の
中
なか
へ
引
ひ
きずりこんでいた。ぎりぎりの
状態
じょうたい
の
中
なか
で
何
なに
かをつかもうと
専門
せんもん
書
しょ
をあさる。ウソであって
欲
ほ
しいと。
運動
うんどう
ニューロン
症
しょう
で
調
しら
べたから
出
で
ていないので、
脊髄
せきずい
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
が
病名
びょうめい
だったのだ。
症状
しょうじょう
もピッタリ
一致
いっち
する。
難病
なんびょう
に
侵
おか
されていたとは……。
先生
せんせい
にはっきり
問
と
いたださなくてはならない。」(
亀山
かめやま
[1987:24-25])
医師
いし
からはふたたび
同
おな
じことを
言
い
われる[91]。
[108]
宮下
みやした
はALSと
医師
いし
から
告
つ
げられたのだが[73]、それがどんな
病気
びょうき
であるかを
聞
き
かなかった[74]からわからなかった。どうやら
大変
たいへん
な
病気
びょうき
らしいと
思
おも
ったのは
人
ひと
から
聞
き
いてのことだった。「あるところで
見知
みし
らぬおばさんに、
妻
つま
といっしょにいたところを
声
こえ
をかけられた。そのおばさんによると、
私
わたし
の
歩
ある
く
姿
すがた
を
見
み
て、おばさんの
親戚
しんせき
にちょうど
私
わたし
と
同
おな
じような
病気
びょうき
の
人
ひと
がいて、その
人
ひと
はいつも
何
なに
かを
引
ひ
っぱったりして、
部屋
へや
の
中
なか
で
一生懸命
いっしょうけんめい
に
運動
うんどう
していたそうだ。ちょうど
今
いま
の
私
わたし
の
状況
じょうきょう
と
同
おな
じようだ。
私
わたし
は、それからどうしているかとたずねたら、その
人
ひと
は、いとも
簡単
かんたん
にずいぶん
前
まえ
に
死
し
んだと
答
こた
えた。/それを
聞
き
いた
私
わたし
は、
後頭部
こうとうぶ
をいきなり
何
なに
かでなぐられたような
衝撃
しょうげき
を
受
う
けた。」(
宮下
みやした
[1996:50-51])
「ある
人
ひと
に、また
言
い
われた。その
人
ひと
の
親戚
しんせき
にちょうど
私
わたし
と
同
おな
じような
症状
しょうじょう
の
人
ひと
がいて、よくにていると
言
い
う。そこで
私
わたし
はよせばいいのに、その
人
ひと
はどうしているかと
尋
たず
ねたら、いとも
簡単
かんたん
に
死
し
んだというではないか。そこで
私
わたし
は、ガーンとした
衝撃
しょうげき
を
受
う
けてガク
然
しか
とした。これで
二
に
度目
どめ
になる。なぜか
私
わたし
の
心
しん
にポッカリと
大
おお
きな
穴
あな
があいたようで、しばらく
埋
う
まりそうもない
穴
あな
になってしまった。/
私
わたし
の
頭
あたま
から
死
し
という
言葉
ことば
が
離
はな
れない。このままだとこびりついてしまう。」(
宮下
みやした
[1996:56-57])
そしてさらに
多
おお
くの
人
ひと
は
本
ほん
を
読
よ
むことになる。
手元
てもと
にある
本
ほん
を
調
しら
べたり、
書店
しょてん
で
本
ほん
を
買
か
ったり、
立
た
ち
読
よ
みしたり、
図書館
としょかん
で
調
しら
べたりする。
自分
じぶん
の
身
み
に
生
しょう
じている
状態
じょうたい
から、また
部分
ぶぶん
的
てき
な
知識
ちしき
に
基
もと
づいて
知
し
ろうとする。そこに
書
か
かれていることは
様々
さまざま
であり、
変
か
わってきてもいるが、おおむね
悲観
ひかん
的
てき
であることを
前回
ぜんかい
に
見
み
た。
[109]
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[43]は、
一
いち
九
きゅう
八
はち
六
ろく
年
ねん
、
病院
びょういん
の
神経
しんけい
科
か
を
紹介
しょうかい
されたので、「
帰宅
きたく
してから『
家庭
かてい
の
医学
いがく
』を
取
と
り
出
だ
して
調
しら
べてみた。
神経
しんけい
系
けい
の
病気
びょうき
を
順
じゅん
にあたっていと、たくさんある
病名
びょうめい
のなかで、たった
一
ひと
つだけ
該当
がいとう
するものがあった。/「この
病気
びょうき
は
進行
しんこう
性
せい
で
発病
はつびょう
して
五
ご
〜
十
じゅう
年
ねん
で
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
り、やがて
死
し
にいたる……」、ここまで
読
よ
んで
愕然
がくぜん
とさせられた。/「そんなアホな!」──スミからスミまで
何
なん
度
ど
も
読
よ
み
返
かえ
してみたが、
他
た
に
該当
がいとう
する
病名
びょうめい
は
見当
みあ
たらない。
当然
とうぜん
のことながら
心理
しんり
的
てき
な
拒絶
きょぜつ
反応
はんのう
が
働
はたら
き、
否定
ひてい
するための
材料
ざいりょう
を
必死
ひっし
で
探
さが
している
自分
じぶん
がいた。」(
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[1998:19 ]、この
本
ほん
の
記述
きじゅつ
は[26]でも
引用
いんよう
。
医師
いし
は
病名
びょうめい
を
知
し
らせず、
書類
しょるい
にALSと
記載
きさい
されるが
妻
つま
は
目
め
にふれないようにする[98]。)
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
という
語
かたり
がALSとつながることもある[81]──
次
つぎ
にみる
杉山
すぎやま
の
場合
ばあい
には「
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
」という
素
もと
気
き
ない
表現
ひょうげん
はそのままには
伝
つた
わらなかったのではあるが。
[110]
脳
のう
梗塞
こうそく
だと
言
い
われたこともある[77]
杉山
すぎやま
は、
医師
いし
から
聞
き
いたのでなく、
証明
しょうめい
書
しょ
に「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
」という
語
かたり
を
見
み
つけ
出
だ
し[93]、
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
に
本
ほん
を
読
よ
む。「”
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
”という
項目
こうもく
が、
私
わたし
の
目
め
に
飛
と
びこんでくる。
夢中
むちゅう
でそのページを
開
ひら
くと……、あった。
病名
びょうめい
は「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」で、
症状
しょうじょう
はそれまでの
私
わたし
の
症状
しょうじょう
とまったく
同
おな
じ。
自分
じぶん
がこの
病気
びょうき
であることを、
確信
かくしん
した
瞬間
しゅんかん
だった。/だが、これまでの
私
わたし
の
症状
しょうじょう
と
同
おな
じことしか
書
か
いていない。
後
ご
は、「
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
、
治療
ちりょう
方法
ほうほう
がないため
国
くに
の
難病
なんびょう
に
指定
してい
されていて、
申請
しんせい
をすれば
医療
いりょう
費
ひ
がただになる」とだけ
書
か
かれている。/<
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
>だけではどういうことか
分
わ
からない。もう
一
いち
冊
さつ
本
ほん
を
出
だ
してもらって
調
しら
べるが、やはり
同
おな
じことしか
書
か
いてない。/これ
以上
いじょう
何
なん
冊
さつ
調
しら
べても
同
おな
じだと
思
おも
い、そのページをコピーしてもらって、
家
いえ
に
帰
かえ
った。/
結局
けっきょく
病名
びょうめい
だけは
分
わ
かったものの、こんなに
恐
おそ
ろしい
病気
びょうき
だとはまだ
気
き
づかなかった。
治療
ちりょう
方法
ほうほう
がないと
書
か
いてあっても、
現在
げんざい
の
医学
いがく
の
急速
きゅうそく
な
進歩
しんぽ
に、
医学
いがく
書
しょ
が
追
お
いつかないということは
十分
じゅうぶん
考
かんが
えられる。」(
杉山
すぎやま
[1998:22-23])
またALSという
病名
びょうめい
を、
多
おお
くの
場合
ばあい
は
家族
かぞく
経由
けいゆ
で
知
し
った
後
のち
、
本
ほん
を
読
よ
む。
[111]「
発病
はつびょう
一
いち
年
ねん
半
はん
経過
けいか
した
頃
ころ
、
次第
しだい
に
左手
ひだりて
が
鷲
わし
手
しゅ
状
じょう
になった(
妻
つま
が
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
から
病名
びょうめい
を
告
つ
げられる)。/
盛岡
もりおか
市内
しない
の
書店
しょてん
で
二
に
冊
さつ
の
医学
いがく
書
しょ
(
神経
しんけい
疾患
しっかん
・
神経
しんけい
筋
すじ
疾患
しっかん
ハンドブック)を
買
か
い
求
もと
め、
自分
じぶん
の
病気
びょうき
の
概略
がいりゃく
を
知
し
る。」(
佐藤
さとう
勉
つとむ
[1991:19])
[112]
橋本
はしもと
みさお
[42]が
本
ほん
を
読
よ
んだのはすぐにではなかった。
彼女
かのじょ
は
当時
とうじ
の
住
す
まいに
近
ちか
かった
東京大学
とうきょうだいがく
附属
ふぞく
病院
びょういん
に
通
かよ
うのだが、
結局
けっきょく
わからずじまいで、
次
つぎ
にやはり
近
ちか
かった
順天堂大学
じゅんてんどうだいがく
病院
びょういん
にかかった。そこにたまたまいた
医師
いし
がALSの
研究
けんきゅう
者
しゃ
だった。「
精密
せいみつ
検査
けんさ
は、
三
さん
週間
しゅうかん
ほど。
結局
けっきょく
、
外科
げか
的
てき
な
要因
よういん
は、
見
み
つからず、
専門医
せんもんい
の
帰国
きこく
を
待
ま
って、ALS(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
)の、
診断
しんだん
を
受
う
けた。
末期
まっき
ガンの
告知
こくち
と
同
おな
じだからと、
主治医
しゅじい
は、
夫
おっと
に
口止
くちど
めしたらしいが、
五分
ごぶ
もたたない
地下
ちか
の
食堂
しょくどう
で、「
先生
せんせい
はなんて?」の
問
と
いに、「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
という
筋肉
きんにく
の
動
うご
きが、
悪
わる
くなる
病気
びょうき
らしい」と
教
おし
えてくれた。「ふぅーん」と、
答
こた
えた
私
わたし
は、
退院
たいいん
の
嬉
うれ
しさと、
病名
びょうめい
がわかった
安心
あんしん
感
かん
で、
病気
びょうき
に
対
たい
する
興味
きょうみ
は、
失
う
せていて、
頭
あたま
中
ちゅう
、
娘
むすめ
だらけの
生活
せいかつ
に
戻
もど
ったのです。/[…]
病名
びょうめい
は
知
し
らされたものの[…]
雑事
ざつじ
に
追
お
われ、
週
しゅう
3
回
かい
の
注射
ちゅうしゃ
の
時
とき
以外
いがい
、
忘
わす
れていたのですが、
十日
とおか
ほど
過
す
ぎたある
日
ひ
、いつもの
注射
ちゅうしゃ
の
後
のち
、
幼稚園
ようちえん
のお
迎
むか
えには、
少
すこ
し
時間
じかん
があったので、
自宅
じたく
と
病院
びょういん
の、ほぼ
中間
ちゅうかん
にあった
湯島
ゆしま
図書館
としょかん
で、
時間
じかん
を
過
す
ごすことにしました。まさかそこで、
人生
じんせい
最大
さいだい
のショックを、
受
う
けることも
知
し
らずに。」(
橋本
はしもと
[1997])こうして
彼女
かのじょ
は、「
予
よ
後
ご
は
悪
わる
く
五
ご
、
六
ろく
年
ねん
で
死亡
しぼう
」と
書
か
かれた
医学
いがく
書
しょ
[25]を
読
よ
むことになる。
医師
いし
が
雑誌
ざっし
や
本
ほん
を
渡
わた
すこともある(
他
た
に
雑誌
ざっし
により
病名
びょうめい
が
知
し
られた
例
れい
として[90])。
[113]
鈴木
すずき
将
すすむ
義
よし
[70]の
続
つづ
き。
埼玉
さいたま
医大
いだい
整形
せいけい
外科
げか
の
都築
つづき
医師
いし
が「JALSA
四
よん
〇
号
ごう
を
出
だ
して「
病気
びょうき
の
勉強
べんきょう
をしなさい」と
本
ほん
をくれました。
裏表紙
うらびょうし
に「
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
と
共
とも
に
闘
たたか
い、
歩
あゆ
む
会
かい
」とあり、
初
はじ
めて
病名
びょうめい
をしりました。/
図書館
としょかん
での
事前
じぜん
知識
ちしき
はあったので「やっぱり…そうか」とショックは
受
う
けませんでしたが、
本
ほん
によって
患者
かんじゃ
自
みずか
らにより、
病名
びょうめい
を
知
し
るという「
先生
せんせい
のやさしい
思
おも
いやり」に
心
しん
から
感謝
かんしゃ
しています。」(
鈴木
すずき
[1999:20]、『JALSA』は
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
の
機関
きかん
誌
し
)
[114]「Hさんは
初診
しょしん
の
病院
びょういん
ではなにも
言
い
ってもらえず、その
後
ご
受診
じゅしん
した
大学
だいがく
病院
びょういん
で
一
いち
ヵ月
かげつ
の
検査
けんさ
入院
にゅういん
後
ご
「
原因
げんいん
がわからない。
要
よう
は
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
。
変性
へんせい
疾患
しっかん
」と
言
い
われた。Hさんは、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
や
変性
へんせい
疾患
しっかん
という
言葉
ことば
の
意味
いみ
がわからず、その
説明
せつめい
を
求
もと
めたが
答
こた
えてもらえなかった。とにかくその
場
ば
で「
特定
とくてい
疾患
しっかん
の
申請
しんせい
をしてください」と
言
い
われた。その
後
ご
通院
つういん
するなかで
徐々
じょじょ
にどんな
病気
びょうき
かということがわかりかけてきたとき、
医師
いし
からALS
協会
きょうかい
のケアブックを
取
と
り
寄
よ
せるように
言
い
われる。
医師
いし
は「リハビリの
項目
こうもく
だけ、
筋肉
きんにく
の
訓練
くんれん
だけやってください」と
言
い
った。しかし、そこにはALSについて「ずっと
説明
せつめい
が
書
か
いてある」。
気
き
になって、それについて
尋
たず
ねても、
医師
いし
は「Hさん、そんなに
重症
じゅうしょう
じゃないから。そっちは
参考
さんこう
にされなくていいですよ」と
説明
せつめい
した。その
時
とき
、Hさんは「そしたらわたしは
治
なお
る
病気
びょうき
かな」と
感
かん
じたという。」(
清水
しみず
他
た
[2001]、
文中
ぶんちゅう
の「ALS
協会
きょうかい
のケアブック」は
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
編
へん
[1991]、その
改訂
かいてい
新版
しんぱん
が[2000])
■ほかにどのような
医師
いし
が
言
い
わない、
少
すく
なくともはっきり
言
い
わないのを
見
み
てきた。
逃
に
げている、もっときちんと
伝
つた
えたらよい、もっと
上手
じょうず
であってほしいと
多
おお
くの
人
ひと
が
思
おも
う。それは、(
実際
じっさい
にはひどく
困難
こんなん
な
病
やまい
であると
判断
はんだん
していることを
隠
かく
しながら)その
深刻
しんこく
さ(が
伝
つた
わることにつながる
情報
じょうほう
)を
伝
つた
えないそのあり
方
かた
に
対
たい
してだけでない。
[115]
土居
どい
喜久子
きくこ
が
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
したのは
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
二
に
月
がつ
。
五月
ごがつ
十
じゅう
四
よん
日
にち
大分
おおいた
県立
けんりつ
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
で
十
じゅう
万
まん
人
にん
に
一人
ひとり
のたいへん
難
むずか
しい
病気
びょうき
ですという
診断
しんだん
を
受
う
け、
夫
おっと
の
巍
たかし
には
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
という
病名
びょうめい
が
告
つ
げられた(
土居
どい
・
土居
どい
[1998:220-221])「
大分
おおいた
で
一番
いちばん
権威
けんい
ある
神経
しんけい
内科
ないか
の
先生
せんせい
を
紹介
しょうかい
されて、
診察
しんさつ
を
受
う
けたのが
平成
へいせい
二
に
年
ねん
五
ご
月
がつ
十
じゅう
四
よん
日
にち
でした。/
一人
ひとり
で
行
おこな
ったので
詳
くわ
しくは
話
はな
されませんでしたが、「お
気
き
の
毒
どく
ですが、
宝
たから
くじに
当
あ
たったと
思
おも
ってがんばるように」と
言
い
われ、
何
なに
が
何
なん
だ
分
わ
からないまま、ただ
事
ごと
ではないと
直観
ちょっかん
しました。/
後日
ごじつ
、
主人
しゅじん
が
呼
よ
び
出
だ
されてお
話
はなし
ありました。」(
土居
どい
・
土居
どい
[1998:112])
[116]
関
せき
正一
しょういち
(
東京
とうきょう
都
と
)「
私
わたし
の
発症
はっしょう
診断
しんだん
は、Mという
病院
びょういん
です。
悔
くや
しくて、
涙
なみだ
が
止
と
まらなかった。やっとの
思
おも
いで
家
いえ
に
帰
かえ
った。
担当
たんとう
の
先生
せんせい
から、もう
治
なお
らないと
言
い
われ、「あとは
般若心経
はんにゃしんぎょう
でも
唱
とな
えていなさい」と
言
い
われた。
悔
くや
しかった。これで
先生
せんせい
と
私
わたし
の
信頼
しんらい
関係
かんけい
がなくなった。」(
関
せき
[2001:44])
少
すく
なくともこのように
聞
き
こえたのは
事実
じじつ
だ。
医師
いし
はもっと
上手
じょうず
になればよいということだろうか。そのようにも
受
う
け
止
と
められようし、あるいはその
見込
みこ
みがないことを
示
しめ
しているようにも
受
う
け
取
と
れる。
本
ほん
を
渡
わた
して
読
よ
むようにというのは、
自
みずか
らの
仕事
しごと
を
他
た
に
委
ゆだ
ねてしまっているように
思
おも
えるが、しかしかえってその
方
ほう
がよいのかもしれないと
考
かんが
える
人
ひと
もいて
不思議
ふしぎ
でないようにも
思
おも
える。
本人
ほんにん
がはっきりと
説明
せつめい
することを
求
もと
め、
医師
いし
がそれに
応
おう
じた(
応
おう
じざるをえなかった)
少
すく
ない
例
れい
として、ベン・コーエンの
場合
ばあい
がある。
彼
かれ
は
一
いち
九
きゅう
四
よん
五
ご
年
ねん
にシカゴに
生
う
まれ、
七
なな
四
よん
年
ねん
に
来日
らいにち
、
七
なな
八
はち
年
ねん
に
福井
ふくい
県
けん
に
移
うつ
り
住
す
み
陶芸
とうげい
家
か
となる。
[117]「ベンさんが
左上
ひだりうえ
肢
し
の
脱力
だつりょく
を
自覚
じかく
したのは
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
三
さん
月
がつ
頃
ごろ
でした。その
後
ご
、その
程度
ていど
は
徐々
じょじょ
に
進行
しんこう
し、
下肢
かし
の
方
ほう
にも
筋力
きんりょく
低下
ていか
がみられるようになりました。
四
よん
か
月
げつ
後
ご
の
七
なな
月
がつ
十
じゅう
五
ご
日
にち
、
福井
ふくい
県立
けんりつ
病院
びょういん
を
受診
じゅしん
し、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
と
診断
しんだん
されました。この
時
とき
、ベンさんは
診察
しんさつ
にあたった
宮地
みやじ
医師
いし
に
告知
こくち
を
強
つよ
く
求
もと
めました。/
病名
びょうめい
を
知
し
らされた
時
とき
、
同伴
どうはん
していた
婦人
ふじん
もろとも
転倒
てんとう
するほどのショックを
受
う
けました。/その
後
ご
しばらくは
呆然
ぼうぜん
自失
じしつ
の
日々
ひび
が
続
つづ
きました。
当時
とうじ
の
夫妻
ふさい
を
知
し
っている
友人
ゆうじん
の
窪
くぼ
瀬
せら
さんは、「もうそれ
以上
いじょう
二
に
人
にん
で
持
も
ちこたえられるような
状態
じょうたい
ではなかった」と
言
い
っています。
告知
こくち
された
直後
ちょくご
の
気持
きも
ちをベンさんは
日記
にっき
に
次
つぎ
のように
書
か
いています。
七
なな
月
がつ
十
じゅう
六
ろく
日
にち
/
昨日
きのう
は
不安
ふあん
になるような
出来事
できごと
が
引
ひ
き
続
つづ
いて
起
お
こった。
身辺
しんぺん
の
整理
せいり
をすることが
大
だい
仕事
しごと
のように
思
おも
えた。
死
し
を
迎
むか
えるということの
現実
げんじつ
的
てき
な
局面
きょくめん
に
対処
たいしょ
しなければならない。/
不思議
ふしぎ
なことだが、
健康
けんこう
で
長生
ながい
きできる
人
ひと
たちを
羨
うらや
む
気持
きも
ちはない。
昨日
きのう
は
英語
えいご
を
習
なら
いに
来
く
る
生徒
せいと
が
美
うつく
しく
見
み
えた。
彼女
かのじょ
たちの
顔
かお
を
覗
のぞ
きも
込
こ
みたくなるほどだった。
教
おし
えることに
集中
しゅうちゅう
するのが
難
むずか
しかった。しかし
再
ふたた
び
恐怖
きょうふ
感
かん
に
襲
おそ
われた。」(ベンさんの
事例
じれい
に
学
まな
ぶ
会
かい
編
へん
[1994:13-14])
自分
じぶん
のことは
自分
じぶん
で
知
し
らなくてはならない。
彼
かれ
はそのように
思
おも
っていたようだし、
医師
いし
の
側
がわ
も、
西洋
せいよう
の
人
ひと
はそのような
人
ひと
たちであるらしいことを
知
し
っていたから、
伝
つた
えたのかもしれない。
彼
かれ
がその
後
ご
のことをどのように
考
かんが
えて
九
きゅう
二
に
年
ねん
までを
生
い
きたのかについてはまた
後
あと
でふれる。
最近
さいきん
になると
次
つぎ
のような
告知
こくち
のされ
方
かた
もなされているところがある。
[118]
佐々木
ささき
公一
こういち
(
東京
とうきょう
都
と
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
六
ろく
年
ねん
春
はる
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
、
府中
ふちゅう
神経
しんけい
病院
びょういん
で「
十
じゅう
一
いち
月
がつ
、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
との
告知
こくち
をうける。
神経
しんけい
病院
びょういん
十
じゅう
階
かい
、
小
ちい
さな
会議
かいぎ
室
しつ
。
主治医
しゅじい
、
看護
かんご
婦
ふ
、
看護
かんご
婦長
ふちょう
、ソーシャルワーカー、リハビリ
担当
たんとう
者
しゃ
、それに
妻
つま
と
私
わたし
。この
時点
じてん
では、
事前
じぜん
に
医学
いがく
書
しょ
などを
読
よ
んでいたこと、とはいえALSの
進行
しんこう
性
せい
をリアルには
思
おも
い
描
えが
けなかったこと、
学生
がくせい
運動
うんどう
の
中
なか
でだが、「
死
し
に
直面
ちょくめん
」というような
経験
けいけん
があったこと、などの
理由
りゆう
から、あまり
大
おお
きな
動揺
どうよう
はなかった しかしその
直後
ちょくご
の
主治医
しゅじい
と
担当
たんとう
看護
かんご
婦
ふ
のやさしい
言葉
ことば
には、つい
泣
な
けてしまった。
車
くるま
やバイクで
走
はし
っている
時
とき
、
長男
ちょうなん
とジョギングもキャッチボールもしてやれなくなるのか、と
思
おも
った
時
とき
、
涙
なみだ
が
止
と
まらなくてこまったことが
何
なん
回
かい
もあった。」(
佐々木
ささき
[2000])
今
いま
までずっと
見
み
てきたのは、(
同
おな
じ
病院
びょういん
であっても)
個々
ここ
の
医師
いし
によって
異
こと
なる、とともに
類型
るいけい
的
てき
な、そして
同時
どうじ
にその
場
ば
しのぎの
対応
たいおう
だった。その
中
なか
で
本人
ほんにん
はさまざまに
右往左往
うおうさおう
しながら、わかっていく、しかも
前回
ぜんかい
見
み
たところでは
実際
じっさい
より
悲観
ひかん
的
てき
な
予想
よそう
を
得
え
ていく。
知
し
らされる
内容
ないよう
や
情報
じょうほう
源
げん
や
経路
けいろ
や
順序
じゅんじょ
を
分
わ
けていけば、ずいぶんな
数
かず
になってしまう。それをなんとか
整理
せいり
しようとしたが、
個々
ここ
の
人
ひと
に
即
そく
しては
番号
ばんごう
を
辿
たど
り
記述
きじゅつ
を
前後
ぜんご
しながら
見
み
てもらうしかない。そして、こうした
混乱
こんらん
の
中
なか
で、なにがしかの
予
よ
感
かん
、
感触
かんしょく
を
得
え
ながらどこかでそれが
決定的
けっていてき
になることがある。たとえば
次
つぎ
は、さんざん
各所
かくしょ
を
回
まわ
ったのち、
病名
びょうめい
を
告
つ
げられ
一定
いってい
の
説明
せつめい
を
受
う
けたらしいのだが、しかしいよいよのことと
受
う
け
止
と
めるのはそのさらに
一
ひと
つ
後
ご
だったという
例
れい
だ。
[119]
松本
まつもと
茂
しげる
[40]は
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
「
四
よん
月
がつ
四
よん
日
にち
、
東大
とうだい
医学部
いがくぶ
整形
せいけい
外科
げか
を
経
へ
て、
同
どう
神経
しんけい
内科
ないか
へ。
井原
いはら
先生
せんせい
から、はじめてこの
病気
びょうき
の
疑
うたが
いがある
旨
むね
、
告知
こくち
を
受
う
けた。
発病
はつびょう
以来
いらい
一
いち
〇か
月
げつ
目
め
にして、やっと
病気
びょうき
の
正体
しょうたい
がおぼろげながらつかめたのである。その
間
あいだ
、たずね
歩
ある
いた
病院
びょういん
や
整骨
せいこつ
院
いん
は、
実
じつ
に
一
いち
六
ろく
か
所
しょ
にものぼっている。/
井原
いはら
先生
せんせい
は、
久
ひさ
しぶりに
旧友
きゅうゆう
にでも
会
あ
うような
笑顔
えがお
で
迎
むか
えてくださり、「この
病気
びょうき
はぼくの
専門
せんもん
分野
ぶんや
だ、
筋肉
きんにく
の
老化
ろうか
だから
治
なお
りませんよ」と
言
い
われた。
先生
せんせい
のお
顔
かお
が
余
あま
りにも
明
あか
るく、その
時
とき
は、こんなひどい
病気
びょうき
だとは
思
おも
わなかった。/ただ、
治
なお
らないことだけはわかった。それでも
足
あし
がちょっと
突
つ
っぱる
程度
ていど
で、こんなに
元気
げんき
だから、これで
本当
ほんとう
に
死
し
ぬのかと
疑問
ぎもん
に
思
おも
った。そして
井原
いはら
先生
せんせい
から
秋田
あきた
中通
なかとおり
病院
びょういん
の
滝田
たきた
先生
せんせい
を
紹介
しょうかい
され、
精密
せいみつ
検査
けんさ
の
結果
けっか
、はっきりと
病名
びょうめい
が
確定
かくてい
した。それ
以来
いらい
、
自分
じぶん
に
残
のこ
された
短
みじか
い
人生
じんせい
をどう
生
い
きるかを
考
かんが
えるようになった。」(
松本
まつもと
[1987:34-35])
「
私
わたし
は
昭和
しょうわ
五
ご
八
はち
年
ねん
に
発病
はつびょう
し、
転々
てんてん
と
多
おお
くの
病院
びょういん
をたづね、
東大
とうだい
の
井原
いはら
先生
せんせい
から、とてもにこやかに「この
病気
びょうき
は
別名
べつめい
老人
ろうじん
病
びょう
とも
言
い
われ、
治
なお
りません」と
告知
こくち
された。/
私
わたし
はこんな
残酷
ざんこく
な
病気
びょうき
があることを、
全
まった
く
知
し
らなかった。
信
しん
じられなかった。
再
さい
検査
けんさ
を
受
う
けた。やがて
私
わたし
は
早々
そうそう
と、
人生
じんせい
の
整理
せいり
をすることができた。
今
いま
思
おも
えば
如何
いか
に
告知
こくち
が
大事
だいじ
なことであったかと、
感謝
かんしゃ
している。」(
松本
まつもと
[1991:12])
「
段階
だんかい
的
てき
告知
こくち
」という
言葉
ことば
が
業界
ぎょうかい
にはある。これは
結果
けっか
としてそういうことなのだろうか、とか、つまりは
伝
つた
え
方
かた
ということになるのだろうか、とか、しかしそれでよいのだろうかとも
思
おも
えもする。
次回
じかい
、
本人
ほんにん
たちが
告知
こくち
をどう
受
う
け
止
と
めたのか、どう
考
かんが
えているのかを
記
しる
そうと
思
おも
う。そしてその
前
まえ
に、
今回
こんかい
ふれなかったもう
一
ひと
つの
契機
けいき
、
別
べつ
の
人
ひと
には、つまりは
家族
かぞく
には
別
べつ
に
伝
つた
えるというあり
方
かた
とは
何
なに
なのかを
見
み
ることにする。
註
★01
前回
ぜんかい
から
引用
いんよう
・
紹介
しょうかい
に
通
とお
し
番号
ばんごう
をふっている。
第
だい
一
いち
回
かい
は[72]まで。「[…]」がこの
文章
ぶんしょう
の
著者
ちょしゃ
による
省略
しょうりゃく
を、「/」が
原文
げんぶん
における
改行
かいぎょう
を
示
しめ
すのも
前回
ぜんかい
と
同
おな
じ。またホームページ(http://www.arsvi.com)に
文献
ぶんけん
表
ひょう
他
た
を
掲載
けいさい
してある。そこから
文献
ぶんけん
表
ひょう
にあるホームページや
人名
じんめい
別
べつ
・
組織
そしき
別
べつ
等
とう
の
関連
かんれん
ファイルにリンクされている。
★02
告知
こくち
について
私
わたし
が
今
いま
まで
記
しる
したのは、
立岩
たていわ
[1997:167-168](
第
だい
4
章
しょう
・
注
ちゅう
9)、[2000:181-183](「
生命
せいめい
の
科学
かがく
・
技術
ぎじゅつ
と
社会
しゃかい
:
覚
おぼ
え
書
が
き」)だけ。
★03
例外
れいがい
があるとすれば、それは
子
こ
どもに
対
たい
する
場合
ばあい
である。
大人
おとな
たちが
本当
ほんとう
のことを
言
い
わないことを
子
こ
どもは
知
し
らないことがある。ただそれにしても、
知
し
らされない
中
なか
で
何
なに
か
不思議
ふしぎ
なことが
起
お
こっていることを
感
かん
づいてはいる。
小児
しょうに
病棟
びょうとう
に
起
お
こっていることを
記述
きじゅつ
・
分析
ぶんせき
した
論文
ろんぶん
に
田代
たしろ
[2002]がある。
★04 これまで
十
じゅう
一
いち
種類
しゅるい
の
家庭
かてい
医学
いがく
書
しょ
等
とう
を
見
み
た(ホームページで
紹介
しょうかい
・
引用
いんよう
している)。「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
(
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
)」、「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
)」、「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
・
脊髄
せきずい
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
)」と
記
しる
されているものもある。
□cf.
医学
いがく
書
しょ
などでの
記述
きじゅつ
この
部分
ぶぶん
には『
現代
げんだい
思想
しそう
』の
連載
れんさい
には
記載
きさい
されていません。
[◆]
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
・「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
[…]
本
ほん
症
しょう
の
病
やまい
型
がた
として、
上記
じょうき
の
定型
ていけい
的
てき
なもののほかに、
球
たま
麻痺
まひ
症状
しょうじょう
を
主
おも
徴
しるし
とする
進行
しんこう
性
せい
球
だま
麻痺
まひ
、
上位
じょうい
運動
うんどう
ニューロン
障害
しょうがい
の
臨床
りんしょう
徴候
ちょうこう
を
欠
か
く
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
、
主
しゅ
として
下肢
かし
末梢
まっしょう
をおかし、
下位
かい
運動
うんどう
ニューロン
障害
しょうがい
が
顕著
けんちょ
な
偽
にせ
多発
たはつ
神経
しんけい
炎
えん
型
がた
を
分類
ぶんるい
することもあるが、
今日
きょう
これらは
本質
ほんしつ
的
てき
な
差異
さい
ではないと
考
かんが
えられている。[…]
予
よ
後
ご
は
不良
ふりょう
である[…](
豊倉
とよくら
康夫
やすお
)」(『
医科
いか
医学
いがく
大
だい
事典
じてん
』、
講談社
こうだんしゃ
、
第
だい
十
じゅう
一
いち
巻
かん
、
二
に
三
さん
六
ろく
頁
ぺーじ
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
八
はち
五
ご
年
ねん
・「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
(
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
)[…]ついには
舌
した
の
筋
すじ
も
萎縮
いしゅく
して、
嚥下
えんか
困難
こんなん
、
発
はつ
語
ご
困難
こんなん
となり、さらに
進
すす
むと
呼吸
こきゅう
筋
すじ
もマヒして
死亡
しぼう
する。[…]
経過
けいか
は
平均
へいきん
4〜5
年
ねん
であるが、
症例
しょうれい
によりまちまちで
球
たま
マヒから
始
はじ
まるものは
進行
しんこう
が
速
はや
く、
平均
へいきん
約
やく
1
年
ねん
7
カ月
かげつ
といわれている。ときには
経過
けいか
の
非常
ひじょう
にゆっくりしたものもあり、
数
すう
十
じゅう
年
ねん
に
徐々
じょじょ
に
進行
しんこう
するものがある。これは
別
べつ
の
病気
びょうき
で、[…]」(『
最新
さいしん
現代
げんだい
家庭
かてい
医学
いがく
百科
ひゃっか
』、
主婦
しゅふ
の
友社
ともしゃ
、
一
いち
九
きゅう
七
なな
四
よん
年
ねん
初版
しょはん
、
一
いち
九
きゅう
八
はち
五
ご
年
ねん
最新
さいしん
版
ばん
、
三
さん
九
きゅう
五
ご
頁
ぺーじ
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
(19930410=
新版
しんぱん
(
第
だい
2
版
はん
)
発行
はっこう
、
初版
しょはん
=19691020):
索引
さくいん
に「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
」。「
神経
しんけい
内科
ないか
でよくみられる
病気
びょうき
」に「
比較的
ひかくてき
ゆっくりおこって、
運動
うんどう
障害
しょうがい
をきたす
病気
びょうき
としては、
変性
へんせい
疾患
しっかん
とよばれるものがあります。その
代表
だいひょう
的
てき
な
病気
びょうき
は、
痴呆
ちほう
をきたす
疾患
しっかん
やパーキンソン
病
びょう
、
脊髄
せきずい
性
せい
小脳
しょうのう
変性
へんせい
症
しょう
、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
なとがあげられます。」とあり、
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
のところに「*」がついていて、「*
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
/
筋肉
きんにく
を
動
うご
かす
運動
うんどう
をつかさどっている
神経
しんけい
(
運動
うんどう
ニューロン)が
変性
へんせい
して、
運動
うんどう
機能
きのう
が
失
うしな
われていく
病気
びょうき
です。」とある(p.1131)「
運動
うんどう
ニューロン」という
項目
こうもく
もあり、この
語
かたり
は「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」の
解説
かいせつ
中
ちゅう
にあり、
注
ちゅう
で
解説
かいせつ
されている。 「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
〇
脳
のう
の
信号
しんごう
を
筋肉
きんにく
まで
運
はこ
ぶ
神経
しんけい
が
変性
へんせい
する
筋肉
きんにく
を
収縮
しゅうしゅく
させる
信号
しんごう
を
運
はこ
ぶ
神経
しんけい
である、
運動
うんどう
ニューロン(
運動
うんどう
神経
しんけい
細胞
さいぼう
)の
病気
びょうき
のひとつです。
脳
のう
から
脊髄
せきずい
と
脊髄
せきずい
から
筋肉
きんにく
までの
運動
うんどう
がつぎつぎと
変性
へんせい
、
消失
しょうしつ
していくため、
筋肉
きんにく
の
収縮
しゅうしゅく
力
りょく
がおちて、その
結果
けっか
として
筋肉
きんにく
の
萎縮
いしゅく
が
進行
しんこう
していきます。
原因
げんいん
は
不明
ふめい
ですが、
代表
だいひょう
的
てき
な
難病
なんびょう
としてさかんに
研究
けんきゅう
が
行
おこ
なわれています。
中年
ちゅうねん
過
す
ぎに
症状
しょうじょう
があらわれてきます。
多
おお
くの
場合
ばあい
、
手指
しゅし
の
筋肉
きんにく
の
収縮
しゅうしゅく
からはじまり、
指先
ゆびさき
の
力
ちから
がなくなってきます。ときには
舌
した
の
萎縮
いしゅく
が
先
さき
におこってくることもあります。やがて
四肢
しし
の
筋肉
きんにく
がぴくつき(
筋繊維
きんせんい
の攣縮)、
手
て
の
筋肉
きんにく
がおちて
骨
ほね
ばってきます(ワシ
手
しゅ
とよばれる
独特
どくとく
の
手指
しゅし
の
形
かたち
)。
症状
しょうじょう
が
進行
しんこう
すると
筋肉
きんにく
の
萎縮
いしゅく
はだんだんとひろかり、ことばも
不自由
ふじゆう
になり、
物
もの
が
飲
の
みこみにくく、
呼吸
こきゅう
するのもつらくなってきます。
この
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
とは
別
べつ
に、脊(p.1161)
髄
ずい
から
筋肉
きんにく
までの
運動
うんどう
神経
しんけい
細胞
さいぼう
が
減
へ
っていく
病気
びょうき
がり、これは
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
といわれています。
進行
しんこう
は
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
よりずっとゆるやかなことが
多
おお
いといえます。
遺伝
いでん
性
せい
の
場合
ばあい
、ウェルドニッヒ・ホフマン
病
びょう
、クーゲルベルグ・ウェランダー
病
びょう
などもあります。
〇
対症療法
たいしょうりょうほう
で
苦痛
くつう
をやわらげる
原因
げんいん
が
不明
ふめい
ですから、はっきりした
治療
ちりょう
法
ほう
もありません。
病気
びょうき
の
進行
しんこう
をとめることはできませんが、
患者
かんじゃ
さんの
苦痛
くつう
をすこしでもやわらげるために、あらわれた
症状
しょうじょう
を
抑
おさ
える、
対症療法
たいしょうりょうほう
が
行
おこな
われます。
〇
家庭
かてい
でできること
病気
びょうき
が
進行
しんこう
する
途中
とちゅう
で、
嚥下
えんか
障害
しょうがい
は
必
かなら
ずおこってきますので、
飲
の
みこみやすく、むせにくい
食
た
べ
物
もの
で
栄養
えいよう
をとるよう
気
き
を
配
くば
ります。
患者
かんじゃ
さんとよく
相談
そうだん
して、たとえば、つるつるした
物
もの
(
豆腐
とうふ
、
里芋
さといも
、プリンなど)を
献立
こんだて
に
多
おお
くするなどして、きめ
細
こま
かく
工夫
くふう
することが
大切
たいせつ
です。
病気
びょうき
がすすんで
運動
うんどう
機能
きのう
が
失
うしな
われるようになると、
患者
かんじゃ
さんの
運命
うんめい
は
家族
かぞく
の
支
ささ
え
方
かた
の
度合
どあ
いに
左右
さゆう
されます。また、
患者
かんじゃ
さんとどのように
意思
いし
の
疎通
そつう
をはかるかも
重大
じゅうだい
な
問題
もんだい
となります。まだ
患者
かんじゃ
さんが
会話
かいわ
力
りょく
のあるうちによく
話
はな
しあって、コミュニケーションのとり
方
かた
を
決
き
めておくことも
必要
ひつよう
と
思
おも
います。
(
木下
きのした
真男
まさお
)(p.1162)」(『
新版
しんぱん
新
しん
赤本
あかほん
家庭
かてい
の
医学
いがく
』、
保健同人社
ほけんどうじんしゃ
)
「
運動
うんどう
ニューロン」
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
・「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
[…]この
病気
びょうき
はつねに
進行
しんこう
性
せい
で、
呼吸
こきゅう
筋
すじ
の
麻痺
まひ
や
肺炎
はいえん
などで
三
さん
〜
四
よん
年
ねん
で
死亡
しぼう
することが
多
おお
いが、
一
いち
〇
年
ねん
以上
いじょう
生存
せいぞん
する
例
れい
もある。
球
たま
麻痺
まひ
症状
しょうじょう
で
始
はじ
まる
場合
ばあい
は、とくに
予
よ
後
ご
が
悪
わる
い。
特別
とくべつ
な
治療
ちりょう
法
ほう
はまだない。<
海老原
えびはら
進一郎
しんいちろう
>」(『
日本
にっぽん
大
だい
百科全書
ひゃっかぜんしょ
』、
小学館
しょうがくかん
、
一
いち
九
きゅう
八
はち
六
ろく
年
ねん
、
第
だい
2
版
はん
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
、
第
だい
7
巻
かん
、
一
いち
九
きゅう
三
さん
頁
ぺーじ
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
・「アメリカでゲーリッグ
病
びょう
と
呼
よ
ばれている
病気
びょうき
がある。1930
年代
ねんだい
の
大
だい
リーグでニューヨーク・ヤンキースの4
番
ばん
バッター、ルー・ゲーリッグは14
年間
ねんかん
に493
本
ほん
のホームランと3
割
わり
4
分
ぶん
の
打率
だりつ
を
残
のこ
したが、1938
年
ねん
になって
成績
せいせき
ががた
落
お
ちとなった。
翌年
よくねん
に
引退
いんたい
してから、みるみるうちに
手足
てあし
の
筋肉
きんにく
がやせて
寝
ね
たきりとなり、
子供
こども
たちの
英雄
えいゆう
はやせ
細
ほそ
って
消耗
しょうもう
しきって
三
さん
七
なな
歳
さい
で
亡
な
くなった。[
中略
ちゅうりゃく
]
多
おお
くは
人生
じんせい
の
最盛
さいせい
期
き
である
中年
ちゅうねん
以降
いこう
に
発症
はっしょう
し、たちまちにして
人生
じんせい
を
荒廃
こうはい
させ、
生命
せいめい
を
奪
うば
っていく。
ブラック・ホールの
理論
りろん
的
てき
発見
はっけん
者
しゃ
で、
車椅子
くるまいす
の
天文学
てんもんがく
者
しゃ
として
有名
ゆうめい
なホーキング
博士
はかせ
もかかっているといわれている。ただし、ホーキング
博士
はかせ
は
二
に
〇
歳
さい
ころの
発症
はっしょう
であり、
発症
はっしょう
してから20
年
ねん
以上
いじょう
になっても
指
ゆび
でコンピューターの
操作
そうさ
ができて、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
使
つか
っていないなど、ALSとしては
早期
そうき
発症
はっしょう
でかつ
進行
しんこう
が
遅
おそ
い。
特殊
とくしゅ
なタイプのALS、あるいはべつの
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
のようにも
見受
みう
けられる」(
小長谷
こながや
[1995]の
記述
きじゅつ
、
鎌田
かまた
[199?]に
引用
いんよう
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
・「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
・
脊髄
せきずい
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
)[…]
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
[…]どこの
症状
しょうじょう
が
最
もっと
も
目立
めだ
つかによって、
普通
ふつう
型
がた
、
脊髄
せきずい
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
、
進行
しんこう
性
せい
球
だま
まひなどの
病
やまい
型
がた
に
分類
ぶんるい
されますが、
本質
ほんしつ
的
てき
には
同一
どういつ
の
病気
びょうき
です。[…]
一般
いっぱん
に
予
よ
後
ご
は
不良
ふりょう
で、
約
やく
八
はち
〇%は
発症
はっしょう
から
五
ご
年
ねん
以内
いない
に、
嚥下
えんか
障害
しょうがい
と
呼吸
こきゅう
筋
すじ
まひに
起因
きいん
する
誤
あやま
嚥
えん
、
窒息
ちっそく
、
嚥下
えんか
性
せい
肺炎
はいえん
、
呼吸
こきゅう
不全
ふぜん
で
死亡
しぼう
します。しかし、
五
ご
年
ねん
以上
いじょう
生存
せいぞん
者
しゃ
もふえており、
一
いち
〇〜
二
に
〇
年
ねん
の
長期
ちょうき
生存
せいぞん
者
しゃ
もいます。」(『
百科
ひゃっか
家庭
かてい
の
医学
いがく
』、
尾形
おがた
悦郎
えつろう
・
小林
こばやし
登
のぼる
監修
かんしゅう
、
主婦
しゅふ
と
生活社
せいかつしゃ
、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
、
三
さん
〇
五
ご
頁
ぺーじ
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
六
ろく
年
ねん
・『
改訂
かいてい
新版
しんぱん
家庭
かてい
医学
いがく
大
だい
百科
ひゃっか
』(
法研
ほうけん
)「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
(
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
)[…]
病気
びょうき
の
種類
しゅるい
や
個人
こじん
差
さ
もあり、その
速度
そくど
はさまざまですが、
病気
びょうき
は
基本
きほん
的
てき
には
次第
しだい
に
進行
しんこう
していきます。[…]
似
に
たような
病気
びょうき
がたくさんありますし、
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
のなかでも
病気
びょうき
の
種類
しゅるい
によって
進
すす
み
方
かた
が
非常
ひじょう
にまちまちです。[…]p.585)
患者
かんじゃ
の
会
かい
(
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
Tel03−3267−6942)に
相談
そうだん
するのもよいでしょう。」(
五
ご
八
はち
五
ご
−
五
ご
八
はち
六
ろく
頁
ぺーじ
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
・「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
とは[…]どの
範囲
はんい
に
変性
へんせい
がおこったかによって、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
、
進行
しんこう
性
せい
球
だま
まひ、
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
の
三
みっ
つに
分
わ
けられていますが、あとの
二
ふた
つは、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
の
部分
ぶぶん
症状
しょうじょう
とする
考
かんが
え
方
かた
が
最近
さいきん
の
主流
しゅりゅう
になっています。[…]
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
(ALS、アミトロ)[…]
多
おお
くは、
発病
はつびょう
から
五
ご
年
ねん
以内
いない
に
呼吸
こきゅう
器
き
の
合併症
がっぺいしょう
をおこし、
死亡
しぼう
します。/
進行
しんこう
性
せい
球
だま
まひ/[…]
会話
かいわ
と
食事
しょくじ
ができないために
心理
しんり
的
てき
な
負担
ふたん
が
大
おお
きく、
栄養
えいよう
障害
しょうがい
と
衰弱
すいじゃく
をきたしやすいものです。/
進行
しんこう
も
早
はや
く、
発病
はつびょう
から
三
さん
年
ねん
程度
ていど
で
肺炎
はいえん
などにより
死亡
しぼう
します。/
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
/
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
に
比
くら
べて
経過
けいか
が
長
なが
く、とくに
非
ひ
進行
しんこう
性
せい
の
時期
じき
もみられます。
発病
はつびょう
から
五
ご
年
ねん
以上
いじょう
、しばしば
一
いち
〇
年
ねん
以上
いじょう
も
生命
せいめい
を
維持
いじ
できることがあります。」(『
家庭
かてい
医学
いがく
館
かん
』、
小学館
しょうがくかん
、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
、
九
きゅう
八
はち
一
いち
−
九
きゅう
八
はち
二
に
頁
ぺーじ
)
[◆]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
(19991015)・「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
/
運動
うんどう
神経
しんけい
のみが
選択
せんたく
的
てき
に
変性
へんせい
していく
原因
げんいん
不明
ふめい
の
疾患
しっかん
です。
三
さん
〇〜
五
ご
〇
歳
さい
に
好
こう
発
はっ
し、
手足
てあし
の
筋力
きんりょく
の
低下
ていか
と
筋
すじ
萎縮
いしゅく
がじょじょに
進行
しんこう
し、ついには
呼吸
こきゅう
筋
すじ
などをもおかすようになります。
知覚
ちかく
や
知能
ちのう
の
障害
しょうがい
はありません。/
現在
げんざい
のところ
有効
ゆうこう
な
治療
ちりょう
法
ほう
はなく、
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
です。
厚生省
こうせいしょう
の
難病
なんびょう
疾患
しっかん
に
指定
してい
されています。」(
新星
しんせい
出版
しゅっぱん
社
しゃ
編
へん
『ハンディ
版
ばん
家庭
かてい
医学
いがく
事典
じてん
』、
新星
しんせい
出版
しゅっぱん
社
しゃ
、
三
さん
六
ろく
五
ご
頁
ぺーじ
、「
脊髄
せきずい
の
病気
びょうき
」の
項
こう
に)
[◆]
二
に
〇〇〇
年
ねん
(20000315)・「
運動
うんどう
ニューロン
疾患
しっかん
/
運動
うんどう
ニューロンは、
大脳
だいのう
の
運動
うんどう
中枢
ちゅうすう
細胞
さいぼう
から
始
はじ
まって、
脊髄
せきずい
を
経由
けいゆ
して
抹消
まっしょう
の
運動
うんどう
器
き
に
至
いた
るまでの
運動
うんどう
神経
しんけい
の
経路
けいろ
を
指
さ
します。
脊髄
せきずい
の
側
がわ
索
さく
路
ろ
を
通
とお
って
前
ぜん
角
かく
に
至
いた
るまでを
一
いち
次
じ
ニューロン、
前
ぜん
角
かく
で
中継
ちゅうけい
点
てん
を
通
とお
って
筋肉
きんにく
に
至
いた
るまでが
二
に
次
じ
ニューロンです。この
運動
うんどう
ニューロンだけを
選択
せんたく
的
てき
におかす
疾患
しっかん
が
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
で、
二
に
次
じ
ニューロンの
障害
しょうがい
によって
筋肉
きんにく
が
萎縮
いしゅく
します。このタイプを
神経
しんけい
原
ばら
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
といい、
筋
すじ
自体
じたい
に
病気
びょうき
があって
起
お
こる
筋
すじ
原
ばら
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
と
区別
くべつ
します。/
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
の
症状
しょうじょう
は、
神経
しんけい
原
ばら
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
が
壮年
そうねん
期
き
から
起
お
こります。
筋
すじ
萎縮
いしゅく
は
手
て
から
始
はじ
まることが
多
おお
く、
肩
かた
、
胸
むね
にも
及
およ
び、
呼吸
こきゅう
筋
すじ
や
下
した
筋
すじ
に
起
お
こって、
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
や
嚥下
えんか
不能
ふのう
になることがもっともおそれられています。/
初
はじ
めに
筋肉
きんにく
がピクピク
動
うご
いて、
自分
じぶん
でおかしいと
気
き
づくこともありますが、
筋肉
きんにく
がピクピクする
病気
びょうき
はほかにいくつもあり、そのことだけで
心配
しんぱい
することはありません。しかし、
筋肉
きんにく
のやせや
脱力
だつりょく
も
併存
へいそん
する
場合
ばあい
は、
専門医
せんもんい
の
診療
しんりょう
を
受
う
けるようにします。/
治療
ちりょう
世界中
せかいじゅう
で
研究
けんきゅう
されていますが
有効
ゆうこう
な
治療
ちりょう
法
ほう
は
見
み
いだされていません。リハビリテーション、
生活
せいかつ
のしかたなどの
指導
しどう
を
受
う
けることが
大切
たいせつ
です。」(『
三
さん
五
ご
歳
さい
からの
家庭
かてい
医学
いがく
百科
ひゃっか
』、
時事通信社
じじつうしんしゃ
、
一
いち
四
よん
六
ろく
頁
ぺーじ
)
[◆]
二
に
〇〇〇
年
ねん
(20001015)・「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」の
項目
こうもく
があり、その
中
なか
に「
運動
うんどう
ニューロン(
運動
うんどう
神経
しんけい
細胞
さいぼう
)」の
語
かたり
があり、
注
ちゅう
で
説明
せつめい
されている。「
筋肉
きんにく
を
収縮
しゅうしゅく
させる
信号
しんごう
を
運
はこ
ぶ
神経
しんけい
である、
運動
うんどう
ニューロン(
運動
うんどう
神経
しんけい
細胞
さいぼう
)の
病気
びょうき
の
一
ひと
つです。/[…](p.824)/この
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
とは
別
べつ
に、
脊髄
せきずい
から
筋肉
きんにく
までの
運動
うんどう
神経
しんけい
細胞
さいぼう
が
減
へ
っていく
病気
びょうき
があり、これは
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
症
しょう
といわれています。
進行
しんこう
は
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
よりずっとゆるやかなことが
多
おお
いといえます。」(『
新版
しんぱん
ハンディ
新
しん
赤本
あかほん
家庭
かてい
の
医学
いがく
』、
保健同人社
ほけんどうじんしゃ
、
八
はち
二
に
四
よん
−
八
はち
二
に
五
ご
頁
ぺーじ
)
[◆]
二
に
〇〇
一
いち
年
ねん
(20011106)・「
運動
うんどう
ニューロン
病
びょう
」として「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
/
脊髄
せきずい
性
せい
進行
しんこう
性
せい
筋
すじ
萎縮
いしゅく
症
しょう
/
進行
しんこう
性
せい
球
だま
麻痺
まひ
」があげられ、
説明
せつめい
がある。「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
[…]
呼吸
こきゅう
不能
ふのう
の
状態
じょうたい
になると、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
法
ほう
が
必要
ひつよう
になります。
特定
とくてい
疾患
しっかん
(
難病
なんびょう
)に
指定
してい
されています。」(『
大
だい
安心
あんしん
──
健康
けんこう
の
医学
いがく
大
だい
事典
じてん
』、
講談社
こうだんしゃ
)
[◇]『
世界
せかい
大
だい
百科
ひゃっか
事典
じてん
』(
平凡社
へいぼんしゃ
、19810420):なし。「
筋肉
きんにく
」の
項
こう
の「
筋肉
きんにく
の
病気
びょうき
」にもなし。
[◇]『
広辞苑
こうじえん
第
だい
二
に
版
はん
』:なし。
*
以下
いか
立岩
たついわ
真
ま
也 20021001 「
生存
せいぞん
の
争
あらそ
い──
医療
いりょう
の
現代
げんだい
史
し
のために・6」
『
現代
げんだい
思想
しそう
』
より
一部
いちぶ
引用
いんよう
■
家族
かぞく
が
知
し
らされる
これまで
入手
にゅうしゅ
できた
単行
たんこう
書
しょ
としてもっとも
古
ふる
い
本
ほん
には
次
つぎ
のようにある。
[120]
著者
ちょしゃ
の
母親
ははおや
は
一
いち
九
きゅう
七
なな
四
よん
年
ねん
、
七
なな
七
なな
歳
さい
のときに
自覚
じかく
症状
しょうじょう
が
現
あら
われ、
一
いち
九
きゅう
七
なな
六
ろく
年
ねん
の
春
はる
、
七
なな
九
きゅう
歳
さい
で
亡
な
くなった。
著者
ちょしゃ
は
一
いち
九
きゅう
七
なな
五
ご
年
ねん
にALSと
知
し
らされる。「この
日
ひ
、
私
わたし
ははじめて
母
はは
の
病名
びょうめい
を
知
し
らされた。
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
――
通称
つうしょう
アミトロ。B
大
だい
小林
こばやし
医師
いし
に
一
いち
度
ど
挨拶
あいさつ
をと、ご
自宅
じたく
を
訪
おとず
れたところ、
家族
かぞく
にだけという
前提
ぜんてい
で
診断
しんだん
を
明
あ
かされたのだ。[…]
口
くち
、
手足
てあし
から
体
からだ
全体
ぜんたい
が
動
うご
かなくなるのを
待
ま
つばかりだが、
頭
あたま
と
眼
め
の
機能
きのう
だけは
残
のこ
るから、
壁
かべ
に
大
おお
きな
文字
もじ
を
貼
は
って
視線
しせん
で
追
お
えば
意思
いし
伝達
でんたつ
は
可能
かのう
である。
人工
じんこう
的
てき
に
食事
しょくじ
、
呼吸
こきゅう
を
施
ほどこ
せば
二
に
、
三
さん
年
ねん
は
命
いのち
を
長引
ながび
かせ
得
え
る。」(
鈴木
すずき
千秋
ちあき
[1978:57]、
一部
いちぶ
を[3]に
引用
いんよう
)
<
略
りゃく
>
[121]
一
いち
九
きゅう
八
はち
一
いち
年
ねん
、
土屋
つちや
敏昭
としあき
は
山形大学
やまがただいがく
附属
ふぞく
病院
びょういん
に
入院
にゅういん
する。「
一
いち
週間
しゅうかん
もすると
検査
けんさ
が
始
はじ
まった。
心電図
しんでんず
、
脳波
のうは
、
筋
すじ
電
でん
図
ず
、
血液
けつえき
検査
けんさ
と、ありとあらゆる
検査
けんさ
をしたのち、
検査
けんさ
は「
家族
かぞく
を
呼
よ
べ」であった。「それでは
家内
かない
を
呼
よ
びます」と
言
い
ったところ、「
誰
だれ
か
男
おとこ
の
人
ひと
はいないか」と
言
い
われ、「これはただごとでない。きっと
命
いのち
にかかわる
病気
びょうき
に
違
ちが
いない」と
思
おも
うと、その
夜
よる
は
一睡
いっすい
もできなかった。」(
土屋
つちや
他
た
[1989:21])
<
略
りゃく
>
[122]
一
いち
九
きゅう
八
はち
六
ろく
年
ねん
、
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
郁夫
いくお
[43]は
某
ぼう
国立
こくりつ
病院
びょういん
(
大阪
おおさか
府
ふ
)で「この
次
つぎ
には、
会社
かいしゃ
の
上司
じょうし
を
伴
ともな
って
来院
らいいん
するように
告
つ
げられた。[…]
数日
すうじつ
後
ご
、
医師
いし
の
要請
ようせい
通
どお
り
上司
じょうし
と
妻
つま
に
伴
ともな
われて
再度
さいど
国立
こくりつ
病院
びょういん
を
訪
おとず
れた。すると
驚
おどろ
いたことに
診察
しんさつ
室
しつ
に
呼
よ
び
込
こ
まれたのは
妻
つま
と
上司
じょうし
のみ。
私
わたし
は
独
ひと
り
待合室
まちあいしつ
に
残
のこ
され、ますます
悪
わる
い
予
よ
感
かん
が
胸
むね
をよぎった。」(
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[1998:20]、[…]の
間
あいだ
に『
家庭
かてい
の
医学
いがく
』[26]を
読
よ
む。)
<
略
りゃく
>
[123]
長岡
ながおか
紘
ひろし
司
し
[32]は
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
頃
ごろ
に
妻
つま
が
知
し
らされる。「「あと
二
に
〜
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
です。
芝居
しばい
をしてでもご
主人
しゅじん
には
知
し
られないように。」ALSの
告知
こくち
を
受
う
けた
妻
つま
の
頭
あたま
の
中
なか
が
真白
まっしろ
になり、
帰
かえ
りの
道
みち
すじも
覚
おぼ
えていない
程
ほど
絶望
ぜつぼう
の
中
なか
、
自宅
じたく
に
戻
もど
ったといいます。」(
長岡
ながおか
[1991:10])
[124]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
、
加藤
かとう
誠司
せいじ
は
妻
つま
の
加藤
かとう
郁子
いくこ
がALSだと
医師
いし
から
告
つ
げられる。「この
病気
びょうき
は、
難病
なんびょう
中
ちゅう
の
難病
なんびょう
と
言
い
われるほどの、
不治
ふじ
の
病
やまい
であると
言
い
うことも、
初
はじ
めて
知
し
りました。/この
病気
びょうき
の
告知
こくち
を、
当時
とうじ
の
担当
たんとう
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
から
聞
き
かされ、
説明
せつめい
を
受
う
けた
時
とき
には、
病気
びょうき
そのものが
進行
しんこう
性
せい
である
為
ため
、
年齢
ねんれい
的
てき
にも
三
さん
十
じゅう
五
ご
歳
さい
と
言
い
う
若
わか
い
年齢
ねんれい
と
言
い
うこともあり、
良
よ
くて
二
に
年
ねん
悪
わる
くて
半年
はんとし
位
い
が、
一定
いってい
の
期間
きかん
であると
思
おも
ってください、
死
し
を
免
まぬか
れない
病気
びょうき
であると
聞
き
かされました。/
私
わたし
は
頭
あたま
の
中
なか
が
真
ま
っ
白
しろ
になり、その
闇
やみ
の
中
なか
へ
放
ほう
り
出
だ
されたような
状態
じょうたい
になった
事
こと
を、
今
いま
でも
鮮烈
せんれつ
に
思
おも
い
出
だ
します。」(
加藤
かとう
・
加藤
かとう
[
1998
:5-6]、その
後
ご
については[130])
<
略
りゃく
>
[125]「
帰宅
きたく
した
夫
おっと
に「
本当
ほんとう
に
五
ご
、
六
ろく
年
ねん
なの?」と
聞
き
けば、「そんなところだ」と
言
い
う。「
何故
なぜ
教
おし
えたの?」と
責
せ
めれば、「
隠
かく
し
通
とお
せると
思
おも
わなかったから」と
答
こた
える。
当時
とうじ
は、
何
なん
とも
思
おも
わなかったけれど、
後々
あとあと
、
落
お
ち
着
つ
いて
考
かんが
えたら、
二
に
、
三
さん
ヶ月
かげつ
は、
悶々
もんもん
と
悩
なや
むのも、
夫
おっと
の
基本
きほん
ではないのかなぁ。」(
橋本
はしもと
[1997a]、その
前後
ぜんご
は[153]に
引用
いんよう
)
<
略
りゃく
>
[126]
鎌田
かまた
竹
たけ
司
し
[54][81]に「
医師
いし
は
最後
さいご
にいった。「
医療
いりょう
費
ひ
免除
めんじょ
などの
説明
せつめい
をしますから、
奥
おく
さんだけ
残
のこ
ってください。」
医師
いし
は
妻
つま
に
別室
べっしつ
で「
三
さん
年
ねん
ほどで
動
うご
けなくなり、
長
なが
くても、あと
五
ご
年
ねん
……」と
告
つ
げられて
平静
へいせい
を
装
よそお
って
病室
びょうしつ
へ
戻
もど
って
来
き
たと
後
のち
から
聞
き
きました。」(
鎌田
かまた
[199?]、[82]でも
引用
いんよう
)
[127]
鈴木
すずき
康之
やすゆき
は
妻
つま
がALSであることを
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
三
さん
月
がつ
、
関東
かんとう
逓信
ていしん
病院
びょういん
で
知
し
らされる。「まさに
青天
せいてん
の
霹靂
へきれき
だ。
脳天
のうてん
を
金槌
かなづち
で
叩
たた
かれたようなショック、これから
一体
いったい
どうなるのだろう。
今
いま
より
悪化
あっか
した
時
とき
のことは
想像
そうぞう
もできない、
又
また
、したくもない。/これからどのように
生活
せいかつ
をしていくか、
頭
あたま
の
中
なか
は
真
ま
っ
白
しろ
けになる。/鞆にはいつ、この
症状
しょうじょう
のことを
告知
こくち
するのか、
自然
しぜん
に
解
ほどけ
かるまで
放
はな
っておくか、いや、
今日
きょう
、それを
告知
こくち
して、
療養
りょうよう
に
専念
せんねん
させた
方
ほう
がよいのか、
全
まった
く
判断
はんだん
がつかない。/
夜
よる
は、
全
まった
く
寝
ね
ることが
出来
でき
なかった。」(
鈴木
すずき
康之
やすゆき
[
1993
:43-44])その
後
ご
、
九
きゅう
一
いち
年
ねん
十二月
じゅうにがつ
に
呼吸
こきゅう
が
止
と
まり
亡
な
くなるまで、
病名
びょうめい
を
知
し
らせることはなかった。
八
はち
九
きゅう
年
ねん
七
なな
月
がつ
、
順天堂大学
じゅんてんどうだいがく
病院
びょういん
の「
水野
みずの
教授
きょうじゅ
との
会話
かいわ
の
中
なか
で「
元
もと
のように
治
なお
るのは
無理
むり
でしょう」という
一言
ひとこと
にすごいショックを
受
う
けたのか、鞆は
涙
なみだ
が
止
と
めどもなく
出
で
て
泣
な
きじゃくってしまう。
可哀想
かわいそう
で、
可哀想
かわいそう
で……。
私
わたし
は、いたたまれなくなってしまう。」(
鈴木
すずき
[1993:92-93])
同月
どうげつ
、「
私
わたし
が
水野
みずの
教授
きょうじゅ
にお
願
ねが
いしたとおり、
丁寧
ていねい
に鞆の「
症状
しょうじょう
」について
話
はなし
をされた。この
時
とき
も
教授
きょうじゅ
は鞆の
病名
びょうめい
である「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」の
疑
うたが
いがあるとか、
外国
がいこく
名
めい
の
略称
りゃくしょう
の「ALS」という
言葉
ことば
の
使用
しよう
は
避
さ
けてくれた。」(
鈴木
すずき
[1993:100])
九
きゅう
〇
年
ねん
五
ご
月
がつ
、「鞆も「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」であることはうすうす
知
し
っていると
思
おも
うが、
医学
いがく
書
しょ
を
読
よ
んでいるわけではないので、
予
よ
後
ご
が
芳
かんば
しくないということは、
多分
たぶん
知
し
らないと
思
おも
う。」(
鈴木
すずき
[1993:194])
[128]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
、
奥村
おくむら
敏
さとし
[79][94]の
妻
つま
は
岸和田
きしわだ
市民
しみん
病院
びょういん
でALSと
告
つ
げられる。「
告知
こくち
により
希望
きぼう
をなくした
私
わたし
は、
主人
しゅじん
や
子供
こども
のことを
考
かんが
えると
悲
かな
しくなるばかりで、こんな
事
ごと
なら
一層
いっそう
のこと
三
さん
人
にん
で
車
くるま
に
乗
の
っている
時
とき
に
何
なに
かの
事故
じこ
にでも
巻
ま
き
込
こ
まれてしまえばいいのにとさえ
思
おも
ってしまいました。
今
いま
思
おも
えばとんでもないことを
考
かんが
えたものだと
反省
はんせい
していますが、その
頃
ころ
の
私
わたし
は
二
に
〜
三
さん
年
ねん
で
主人
しゅじん
が
死
し
んでしまうかも
知
し
れないという
不安
ふあん
ばかりで、
前向
まえむ
きに
考
かんが
える
余裕
よゆう
さえなかったのです。でもいろいろと
考
かんが
えているうちに
主人
しゅじん
に
本当
ほんとう
のことを
言
い
って、これからどのようにすれば
良
よ
いかを
相談
そうだん
してみようかとも
思
おも
ったのですが、それは
私
わたし
自身
じしん
の
苦
くる
しみを
二人
ふたり
で
分
わ
けて
半分
はんぶん
にすること、つまりその
半分
はんぶん
を
主人
しゅじん
に
押
お
しつけることになり、それで
自分
じぶん
の
気持
きも
ちを
楽
らく
にするのはずるいことだし、
逃
に
げてはいけないと
思
おも
ったのです。だから
絶対
ぜったい
に
言
い
わずにおこうと
心
しん
に
決
き
めました。」(
奥村
おくむら
[1995]、この
後
のち
の
記述
きじゅつ
は[95]、
本人
ほんにん
の
告知
こくち
についての
考
かんが
えは[161])
<
略
りゃく
>
[129]
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[122]は「
数日
すうじつ
後
ご
、
医師
いし
の
要請
ようせい
通
どお
り
上司
じょうし
と
妻
つま
に
伴
ともな
われて
再度
さいど
国立
こくりつ
病院
びょういん
を
訪
おとず
れた。すると
驚
おどろ
いたことに
診察
しんさつ
室
しつ
に
呼
よ
び
込
こ
まれたのは
妻
つま
と
上司
じょうし
のみ。
私
わたし
は
独
ひと
り
待合室
まちあいしつ
に
残
のこ
され、ますます
悪
わる
い
予
よ
感
かん
が
胸
むね
をよぎった。/ややあって
診察
しんさつ
室
しつ
から
出
で
てきた
妻
つま
の
目
め
は
真
ま
っ
赤
か
に
充血
じゅうけつ
していた。もうそれだけでどんな
話
はなし
があったのかは
容易
ようい
に
想像
そうぞう
がついた。」(
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[1998:20])
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
に
夫
おっと
が
病名
びょうめい
を
告知
こくち
された[124]
加藤
かとう
郁子
いくこ
は
九
きゅう
七
なな
年
ねん
に
亡
な
くなるのだが、
夫
おっと
は
最期
さいご
まで
妻
つま
に
病気
びょうき
のことを
言
い
わない。このことについては
次
つぎ
のように
書
か
かれる。
[130]「
妻
つま
の
病気
びょうき
は、
癌
がん
のような
病気
びょうき
と
違
ちが
って、
数
すう
パーセントの
生存
せいぞん
の
可能
かのう
性
せい
もない、
決定的
けっていてき
に
死
し
を
宣告
せんこく
する
病名
びょうめい
ということもあり、
本人
ほんにん
には
知
し
らせずに
希望
きぼう
を
持
も
たせる
対応
たいおう
にしたのでした。/
私
わたし
は
正直
しょうじき
言
い
って、
妻
つま
に
病名
びょうめい
を
宣告
せんこく
して、
早
はや
くから
生命
せいめい
維持
いじ
装置
そうち
を
付
つ
けても、
最終
さいしゅう
的
てき
には
心臓
しんぞう
だけが
動
うご
いている
状態
じょうたい
となり、
身体
しんたい
は
植物
しょくぶつ
状態
じょうたい
で
意識
いしき
は
変
か
わらずと
言
い
う
苛酷
かこく
な
生存
せいぞん
となってしまうことも
考慮
こうりょ
しました。/
最終
さいしゅう
的
てき
には、
本人
ほんにん
の
苦痛
くつう
等
とう
は
全
すべ
て
相手
あいて
に
意思
いし
伝達
でんたつ
することも
出来
でき
ない
状況
じょうきょう
で、
過
す
ごすしかないと
言
い
う
事例
じれい
を、いくつか
見聞
みき
きしましたので、
大変
たいへん
悩
なや
みました。」(
加藤
かとう
・
加藤
かとう
[
1998
:184-185])
そして
妻
つま
は
知
し
らなかったと
書
か
いている。ただ
次
つぎ
のような
箇所
かしょ
もある。
[131]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
九
きゅう
月
がつ
一
いち
六
ろく
日
にち
「
夕方
ゆうがた
のニュースで、
車椅子
くるまいす
の
天才
てんさい
結婚
けっこん
すると
報道
ほうどう
されたのは、
宇宙
うちゅう
物理
ぶつり
学者
がくしゃ
のホーキング
博士
はかせ
だった。
私
わたし
と
同
おな
じ
病気
びょうき
だけど、
病気
びょうき
になりはじめ、
外
そと
で
遊
あそ
べないので、
子供
こども
のときから
本
ほん
読
よ
んだり
勉強
べんきょう
して、アインシュタインからホーキングまでと
言
い
われる
程
ほど
の
博士
はかせ
になったという。[…](
私
わたし
はこのときに、
郁子
むべ
の
病気
びょうき
は
少
すこ
し
違
ちが
うんだよ、と
言
い
いました。
数
すう
パーセントでも
希望
きぼう
を
持
も
たせたかった。
多少
たしょう
安心
あんしん
した
様
よう
でした。[…])」(
加藤
かとう
・
加藤
かとう
[
1998
:88]、
加藤
かとう
郁子
いくこ
の
文章
ぶんしょう
の
後
のち
の( )
内
ない
は
夫
おっと
の
加藤
かとう
誠司
せいじ
の
文章
ぶんしょう
)
[132]
加藤
かとう
を
診
み
た
医師
いし
(
横須賀
よこすか
中央
ちゅうおう
診療
しんりょう
所
しょ
所長
しょちょう
)は
次
つぎ
のように
言
い
う。「
加藤
かとう
郁子
いくこ
さんのところへ
行
い
くたびに、
病名
びょうめい
や
病気
びょうき
の
今後
こんご
についてお
話
はな
ししなくてはという
思
おも
いにかられました。
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
という、
進行
しんこう
性
せい
で
死
し
は
避
さ
けられない
病気
びょうき
ですが、それを
先
さき
に
延
の
ばしながら
生
い
きることができます。
現
げん
に、
手足
てあし
が
動
うご
かせず、
声
こえ
も
出
だ
せず、ものも
食
た
べられず
管
かん
から
流動
りゅうどう
食
しょく
を
注入
ちゅうにゅう
しつつ、
呼吸
こきゅう
も
機械
きかい
の
力
ちから
を
借
か
りながら、わずかに
残
のこ
された
額
がく
の
動
うご
きでパソコンをあやつり、ものを
書
か
いたり、
多
おお
くの
仲間
なかま
と
通信
つうしん
したりしている
人
ひと
もあります。/
郁子
いくこ
さんには、
原因
げんいん
不明
ふめい
の
難病
なんびょう
であり、
現代
げんだい
の
医学
いがく
では
治療
ちりょう
法
ほう
がないことが
初
はじ
めに
告
つ
げられただけでした。
後
ご
は、
病名
びょうめい
やこの
先
せん
どうなるかという
質問
しつもん
もありません。
手足
てあし
が
動
うご
かせず、ものも
食
た
べられなくなり、
病気
びょうき
がどんどん
進
すす
んでいるのは、いやというほどわかっているはずです。いまさら、
病名
びょうめい
を
聞
き
こうが
聞
き
くまいが
関係
かんけい
ないと
思
おも
われていたのでしょうか。/それより、その
日
ひ
その
日
ひ
を
楽
たの
しく
過
す
ごすことを
大切
たいせつ
にされていたようでした。」(
春日
しゅんじつ
[1998:19-20])
[133]
加藤
かとう
宅
たく
を
訪
おとず
れていた
訪問
ほうもん
看護
かんご
婦
ふ
の
記述
きじゅつ
。「ご
家族
かぞく
の
希望
きぼう
で
病名
びょうめい
は
告
つ
げられていませんでしたので、ピリピリとした
緊張
きんちょう
の
中
なか
で
訪問
ほうもん
看護
かんご
を
開始
かいし
しました。/
当初
とうしょ
は
郁子
いくこ
さんの
本当
ほんとう
の
気持
きも
ちはどうなんだろうかと
悩
なや
みました。いろいろな
関
かか
わりの
中
なか
でも
病気
びょうき
についての
質問
しつもん
はありませんでした。
今
いま
までの
経過
けいか
の
中
なか
、
徐々
じょじょ
に
動
うご
けなくなっていく
状況
じょうきょう
から
多分
たぶん
ご
自身
じしん
の
病気
びょうき
を
察
さっ
していらっしゃったのではないかと
思
おも
います。」(
松浦
まつうら
[1998:21])
<
略
りゃく
>
[134]
金沢
かなざわ
(
大分
おおいた
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
「
長男
ちょうなん
が
大学
だいがく
に
進学
しんがく
して
学費
がくひ
が
要
い
り、
長女
ちょうじょ
も
進学
しんがく
の
準備
じゅんび
ということで、
葉
は
タバコの
作付
さくづ
けを
拡大
かくだい
して
収入
しゅうにゅう
を
上
あ
げなければ、それには
機械
きかい
も
新
あたら
しく
買
か
い
換
か
えてと
思
おも
いましたが、
妻
つま
は
何
なに
かと
反対
はんたい
する。
妻
つま
は
病名
びょうめい
を
知
し
っていて、
私
わたし
は
知
し
らない。だから
口論
こうろん
が
絶
た
えませんでした。」(
金沢
かなざわ
[1991:24])それで
彼
かれ
はまた
病院
びょういん
に
行
い
き、ようやくき
出
きだ
す[75]。
<
略
りゃく
>
[135]「
病気
びょうき
がすすんで
運動
うんどう
機能
きのう
が
失
うしな
われるようになると、
患者
かんじゃ
さんの
運命
うんめい
は
家族
かぞく
の
支
ささ
え
方
かた
の
度合
どあ
いに
左右
さゆう
されます。」(
木下
きのした
[1993:1162])
[136]「ある
高齢
こうれい
のALSのご
婦人
ふじん
Aさんは、
家族
かぞく
の
強
つよ
い
希望
きぼう
によって、
病名
びょうめい
を
告知
こくち
されることなく、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
もつけることなく
亡
な
くなっていかれました。/
主治医
しゅじい
の
市原
いちはら
医師
いし
は、
最後
さいご
の
最後
さいご
まで、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
をつけてはどうかと、ご
家族
かぞく
に
説得
せっとく
しましたが、それは
受諾
じゅだく
されませんでした。[…]/
今
いま
でも、あの
時
とき
ご
家族
かぞく
の
反対
はんたい
を
押
お
し
切
き
って、Aさんに「あなたの
気持
きも
ちは…」と
話
はな
していたら…もっとよい
結果
けっか
がでていたのではないか…と、
考
かんが
え
込
こ
んでしまうことがあります。」(
中村
なかむら
[1999:185-187])
<
略
りゃく
>
■わかってしまうこと
[137]
菅原
すがわら
和子
かずこ
[36]は
本
ほん
の
中
なか
にALSの
記述
きじゅつ
を
見
み
つける。「
息
いき
もつかずに
読
よ
み
終
お
えたとき、
一瞬
いっしゅん
、
目
め
の
前
まえ
が
真
ま
っ
暗
くら
になった。
夫
おっと
が
何
なに
か
言
い
ったのも
耳
みみ
に
入
はい
らず、「
予
よ
後
ご
不良
ふりょう
で
数
すう
年
ねん
の
命
いのち
」「
治療
ちりょう
法
ほう
はない」といった
言葉
ことば
が
頭
あたま
の
中
なか
を
駆
か
けめぐり、しばし
茫然
ぼうぜん
としていた。が、やがて
気
き
を
取
と
り
直
なお
し、
自分
じぶん
にい
聞
いき
かせた。いや、そんな
筈
はず
はない。こんな
恐
おそ
ろしい
病気
びょうき
に、
今
いま
まで
何
なん
の
病気
びょうき
もしたことのない
自分
じぶん
がなる
筈
はず
がない。
私
わたし
は
物
もの
を
飲
の
み
込
こ
むのは
普通
ふつう
だし、
喋
しゃべ
ることも
異常
いじょう
がない。
違
ちが
うにきまっている。こんなことを
考
かんが
えるなんて
疲
つか
れているせいだ、と。――しかし、どんなに
打
う
ち
消
け
しても
心
しん
の
不安
ふあん
はぬぐえず、
悶々
もんもん
として
夜
よる
を
明
あ
かした。/
翌
よく
八
はち
月
がつ
二
に
十
じゅう
三
さん
日
にち
、
私
わたし
は
書
か
いていただいた
紹介
しょうかい
状
じょう
を
持
も
って、
県立
けんりつ
中央
ちゅうおう
病院
びょういん
を
訪
たず
ねた。」(
菅原
すがわら
[1989:12-13]、この
前後
ぜんご
について[87])
[138]
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
郁夫
いくお
[43]は
妻
つま
と
上司
じょうし
を
連
つ
れてくるように
言
い
われた[122]
後
ご
、
三
さん
人
にん
で
病院
びょういん
を
訪
おとず
れる[129]
前
まえ
、『
家庭
かてい
の
医学
いがく
』を
読
よ
む。「この
病気
びょうき
は
進行
しんこう
性
せい
で
発病
はつびょう
して
五
ご
〜
十
じゅう
年
ねん
で
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
り、やがて
死
し
にいたる……」、ここまで
読
よ
んで
愕然
がくぜん
とさせられた。/「そんなアホな!」──スミからスミまで
何
なん
度
ど
も
読
よ
み
返
かえ
してみたが、
他
た
に
該当
がいとう
する
病名
びょうめい
は
見当
みあ
たらない。
当然
とうぜん
のことながら
心理
しんり
的
てき
な
拒絶
きょぜつ
反応
はんのう
が
働
はたら
き、
否定
ひてい
するための
材料
ざいりょう
を
必死
ひっし
で
探
さが
している
自分
じぶん
がいた。」(
東
ひがし
御
ご
建
けん
田
でん
[1998:19]、
本
ほん
の
内容
ないよう
の
部分
ぶぶん
は[26]でも
引用
いんよう
)
[139]
長尾
ながお
義明
よしあき
[50]は、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
に
徳島
とくしま
大学
だいがく
医学部
いがくぶ
付属
ふぞく
病院
びょういん
で
本人
ほんにん
が
告知
こくち
された[12]。「「この
手足
てあし
がそのうち
動
うご
かなくなる。
三
さん
年
ねん
で
死
し
んでしまうって…」。
医師
いし
の
言葉
ことば
を
頭
あたま
の
中
なか
で
繰
く
り
返
かえ
すが、どうしても
実感
じっかん
がわかない。
大学
だいがく
からの
帰
かえ
り
道
みち
、
自宅
じたく
を
通
とお
り
越
こ
し、
見慣
みな
れたスーパーの
前
まえ
でようやくわれに
返
かえ
った。「
誤診
ごしん
だ」。そう
思
おも
い
込
こ
めば、
少
すこ
しだけ
気持
きも
ちが
落
お
ち
着
つ
いた。」(『
徳島
とくしま
新聞
しんぶん
』[2000])その
後
ご
長尾
ちょうび
は
民間
みんかん
療法
りょうほう
に
大金
たいきん
を
注
つ
ぎ
込
こ
むことになる。それが
彼
かれ
に
限
かぎ
ったことではないことは
後
のち
にみることになるだろう。
それでも
結局
けっきょく
、
民間
みんかん
療法
りょうほう
であれなんであれ、
治
なお
す
術
じゅつ
が
見出
みいだ
されていないALSという
病
やまい
にかかったことはたしかなことになる。それはすでに
多
おお
くの
引用
いんよう
にあったように、
衝撃
しょうげき
である。もっとも
短
みじか
いのは
次
つぎ
のような
表現
ひょうげん
。
・[140]「
医学
いがく
全書
ぜんしょ
で
調
しら
べたら、とんでもない
病気
びょうき
で
愕然
がくぜん
とする。」(
小島
こじま
[2001-])
小島
こじま
勝
まさる
(
北海道
ほっかいどう
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
八
はち
月
がつ
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
、
十
じゅう
月
がつ
、
市立
しりつ
病院
びょういん
でALSの
疑
うたが
いがあると
言
い
われるがなんのことかわからない。
十二月
じゅうにがつ
、「
検査
けんさ
入院
にゅういん
を
勧
すす
められるが、
仕事
しごと
があるので
断
ことわ
る。「
何
なに
か
薬
くすり
はないのか」と
聞
き
くと、この
症状
しょうじょう
の
進行
しんこう
を
抑
おさ
える
薬
くすり
は
有
あ
るが、
非常
ひじょう
に
高価
こうか
なので、
難病
なんびょう
の
特定
とくてい
疾患
しっかん
の
申請
しんせい
をしたほうがよいと
言
い
われ、
申請
しんせい
書
しょ
を
書
か
いてもらう。そこに
書
か
いてあった
病名
びょうめい
が「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」だった。」それで
医学
いがく
全書
ぜんしょ
を
読
よ
んだ。
そして
死
し
や、
身体
しんたい
や、
家族
かぞく
のことをめぐって
生起
せいき
した、
衝撃
しょうげき
、
重苦
おもくる
しさ、
恐怖
きょうふ
、
不安
ふあん
が
振
ふ
り
返
かえ
られる。
[141]
秦
はた
茂子
しげこ
[46]は「
告知
こくち
は
医者
いしゃ
からではなく、
夫
おっと
から
間接
かんせつ
的
てき
に
受
う
けました。この
病気
びょうき
の
治療
ちりょう
法
ほう
はなく、あと
三
さん
年
ねん
から
五
ご
年
ねん
の
命
いのち
でしょう、と
言
い
われたそうです。ショックでした。いきなり
大
おお
きい
漬物
つけもの
石
せき
が
頭上
ずじょう
に
覆
おお
いかぶさってきたようで、
重苦
おもくる
しく
不快
ふかい
でした。それまで
大
たい
した
苦労
くろう
もせず、のほほんと
暮
く
らしていた
身
み
にはこたえました。」(
秦
はた
[2000])
[142]
土屋
つちや
敏昭
としあき
は、
自分
じぶん
には
知
し
らせてもらえないから[121]
百科
ひゃっか
事典
じてん
を
読
よ
んだ[21]。「うすうす
命
いのち
にかかわる
病気
びょうき
だとは
感
かん
じていたが、いざ
現実
げんじつ
に
知
し
った
時
とき
のショックは、
味
あじ
わったことのない
人
ひと
には
理解
りかい
できないだろう。それを
知
し
った
時
とき
、いろいろなことが
頭
あたま
の
中
なか
をかけ
巡
めぐ
った。まず
最初
さいしょ
に
浮
う
かんだのは、
家族
かぞく
のことであった。
親
おや
は
昔
むかし
からいるからしかたがないとしても、こんなことになるなら
結婚
けっこん
などしないで
独身
どくしん
だったら、どんなに
気
き
が
楽
らく
だったかしれない、とも
思
おも
ったりした。[…]
働
はたら
けなくなったら、
家族
かぞく
五
ご
人
にん
どうやって
生活
せいかつ
していったらいいのだろう。/いろいろなことを
考
かんが
えて、しばらく
眠
ねむ
れない
夜
よる
が
続
つづ
いた。」(
土屋
つちや
他
た
[1989:24-25])
家
か
にあるのは
古
ふる
いものだからと
思
おも
って
新
あたら
しい
医学
いがく
書
しょ
を
見
み
たが、
同
おな
じだった[21]。「さあ、これは
大変
たいへん
なことになった。
俺
おれ
の
人生
じんせい
もこれまでか」と
思
おも
うと、
目
め
の
前
まえ
が
真
ま
っ
暗
くら
になり、
今
いま
まできずきあげてきたものが
足元
あしもと
から
音
おと
を
立
た
ててくずれてゆくような
感
かん
じがした。」(
土屋
つちや
他
た
[1989:25])
[143]
宮下
みやした
健一
けんいち
は
見知
みし
らぬおばさんに
自分
じぶん
と
似
に
た
人
ひと
がいてその
人
ひと
は
死
し
んだと
聞
き
いた[108]。「それを
聞
き
いた
私
わたし
は、
後頭部
こうとうぶ
をいきなり
何
なに
かでなぐられたような
衝撃
しょうげき
を
受
う
けた。なぜなら、
病気
びょうき
になってから
死
し
ということを
考
かんが
えたことがなかったからだ。
今
いま
、
初
はじ
めて
死
し
ということもありうるんだと
思
おも
い
知
し
らされた。あまりに
突然
とつぜん
で
予期
よき
しなかった
言葉
ことば
にただボウ
然
しか
とするばかりで、
妻
つま
を
見
み
て、
自分
じぶん
はそんなことないとばかりに
言
い
いたげに
ニガ笑
にがわら
いして
見
み
せるのが
精一杯
せいいっぱい
で、
他
た
に
何
なに
かを
考
かんが
えたり、
言
い
うことができなかった。それほど、その
人
ひと
の
言
い
った
言葉
ことば
は
私
わたし
にとってあまりにも
強烈
きょうれつ
であり、
死
し
というものに
正面
しょうめん
から
向
む
かわされたようなものだった。
私
わたし
には、このことを
解決
かいけつ
したり、
耐
た
えることができない。いずれにしても
今
いま
は、
無理
むり
だ。」(
宮下
みやした
[1996:50-51])
[144]
松本
まつもと
茂
しげる
[40]は
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
にALSと
知
し
る[119]。「
二
に
〜
三
さん
年
ねん
の
命
いのち
だと
診断
しんだん
され、
整理
せいり
を
急
いそ
がねばと
思
おも
うのだが、いっこうに
実感
じっかん
がわかない。とても
死
し
ぬなどと
思
おも
えない。
遠
とお
いことのように
思
おも
えるし、
死
し
が
迫
せ
れば、
何
なに
か
予感
よかん
のようなものがある
筈
はず
。それなのに、
私
わたし
は
生来
せいらい
呑気
のんき
者
しゃ
なのか、
迫
せま
り
来
く
る
死
し
を
実感
じっかん
しないのだ。/ましてや、
自
みずか
ら
命
いのち
を
断
た
つなどと
一
いち
度
ど
も
考
かんが
えたことがない。
先々
さきざき
、
手足
てあし
が
動
うご
かなくなり
声
ごえ
も
出
で
なくなったらどうしようと、そのことを
考
かんが
えるだけで
身震
みぶる
いするほど
恐怖
きょうふ
心
しん
に
襲
おそ
われたが、さりとて
自殺
じさつ
するほどの
勇気
ゆうき
はない。」(
松本
まつもと
[1995:98])
前々回
ぜんぜんかい
からここまで、いくつかの
記述
きじゅつ
から
断片
だんぺん
を
取
と
り
出
だ
し
並
なら
べてきた。
実際
じっさい
には、
一
ひと
つ
一
ひと
つがもっとものようにも
不思議
ふしぎ
と
思
おも
えば
不思議
ふしぎ
とも
思
おも
える
様々
さまざま
な
要素
ようそ
がかなり
短
みじか
い
時間
じかん
の
中
なか
に
押
お
し
込
こ
まれる、
家族
かぞく
も
巻
ま
き
込
こ
まれた、
連続
れんぞく
的
てき
な
過程
かてい
がある。
[145]
横山
よこやま
勇夫
いさお
(
新潟
にいがた
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
十
じゅう
一
いち
月
がつ
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
し、
神経
しんけい
内科
ないか
での
診断
しんだん
結果
けっか
が
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
五
ご
月
がつ
に
出
で
る。「
家族
かぞく
が
呼
よ
ばれ
父
ちち
と
私
わたし
が
告知
こくち
を
受
う
けましたが、
信
しん
じられるはずがなく
何
なに
かの
間違
まちが
いとしか
思
おも
えませんでした。/
大学
だいがく
病院
びょういん
で
受診
じゅしん
して
詳
くわ
しく
検査
けんさ
をして
貰
もら
いたいと
先生
せんせい
にお
願
ねが
いし、
紹介
しょうかい
状
じょう
を
書
か
いて
頂
いただ
きました。[…]/
六月
ろくがつ
、
新潟大学
にいがただいがく
病院
びょういん
に
受診
じゅしん
しましたが
診断
しんだん
の
結果
けっか
は
同
おな
じで、この
時点
じてん
で
夫
おっと
に
病名
びょうめい
が
告
つ
げられ『
少
すこ
し
老化
ろうか
が
早
はや
まる
病気
びょうき
』という
程度
ていど
の
説明
せつめい
がありました。/その
後
ご
、
似
に
たような
病気
びょうき
が
色々
いろいろ
あるということで、
八
はち
月
がつ
に
検査
けんさ
入院
にゅういん
することになりました。
二
に
〇
日間
にちかん
入院
にゅういん
して
検査
けんさ
をした
結果
けっか
はやはりALSの
確定
かくてい
診断
しんだん
でした。
私
わたし
にこれから
夫
おっと
はどういう
経過
けいか
をたどるのか
詳
くわ
しく
説明
せつめい
があり、
寝
ね
たきりになるまで
一
いち
年
ねん
くらいと
考
かんが
えるようにと
言
い
われましたが、
頭
あたま
の
中
なか
は
何
なに
がなんだか
解
わか
らなくなりパニック
状態
じょうたい
となりました。/
病室
びょうしつ
に
戻
もど
り、ALSに
間違
まちが
いないと
先生
せんせい
に
言
い
われたことを
夫
おっと
に
話
はな
し、
二人
ふたり
で
泣
な
きました。
今後
こんご
のことについて、
本人
ほんにん
に
話
はなし
をしておく
必要
ひつよう
があると
先生
せんせい
に
言
い
われましたが、
夫
おっと
が
声
こえ
を
殺
ころ
して
泣
な
く
男泣
おとこな
きを
初
はじ
めて
見
み
た
私
わたし
は、これからどうなるかということはとても
伝
つた
えることは
出来
でき
ませんでした。まもなく、
夫
おっと
は
医学
いがく
書
しょ
で
自分
じぶん
の
病
やまい
の
正体
しょうたい
を
知
し
り、
覚悟
かくご
したように
私
わたし
に
話
はな
して
聞
き
かせました。それでも
何
なに
かの
間違
まちが
いではないかという
思
おも
いはつきまとい、
西洋
せいよう
医学
いがく
でダメなら
東洋
とうよう
医学
いがく
に
望
のぞ
みをかけ[…]」(
横山
よこやま
[2000])
■わかりたいこと
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
(JALSA)の
最初
さいしょ
の
会長
かいちょう
だった
川口
かわぐち
武久
たけひさ
[30][64]からその
職
しょく
を
継
つ
いだ
松本
まつもと
茂
しげる
[40]が
病名
びょうめい
を
知
し
り、
後
のち
に「
私
わたし
は
早々
そうそう
と、
人生
じんせい
の
整理
せいり
をすることができた。
今
いま
思
おも
えば
如何
いか
に
告知
こくち
が
大事
だいじ
なことであったかと、
感謝
かんしゃ
している。」(
松本
まつもと
[1991:12]、[119]で
引用
いんよう
)と
記
しる
した
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
の
前年
ぜんねん
、
川口
かわぐち
は
次
つぎ
のように
書
か
いている。
[146]「
香川
かがわ
県
けん
から、
同
おな
じ
病
びょう
いの
父親
ちちおや
を
持
も
つ
娘
むすめ
さんが
訪
たず
ねて
来
く
る。
病気
びょうき
のむごさを
考
かんが
えると、とても
本人
ほんにん
に
告
つ
げる
勇気
ゆうき
がなく、
家族
かぞく
としてどう
対処
たいしょ
すればいいか、
相談
そうだん
に
乗
の
ってほしいという。この
病
やめ
いで
悩
なや
むのは、
本人
ほんにん
だけではない。
家族
かぞく
もまた
途方
とほう
に
暮
く
れ、
煉獄
れんごく
の
苦
くる
しみを
味
あじ
わう。/
涙
なみだ
ながらに
訴
うった
える
娘
むすめ
さんを
前
まえ
に、
私
わたし
には
慰
なぐさ
める
術
じゅつ
がなく、とまどうばかり。お
父
とう
さんが
自然
しぜん
に
気付
きづ
くまで、あえて
知
し
らせる
必要
ひつよう
はないのではないか、その
分
ぶん
、
家族
かぞく
が
方
ほう
がしっかり
担
にな
ってあげてほしい、
逃
に
げないで
皆
みな
で
頑張
がんば
ってほしい、と
意見
いけん
を
述
の
べる。」(
一
いち
九
きゅう
八
はち
三
さん
年
ねん
四
よん
月
がつ
、
川口
かわぐち
[1985:122])
だから
本人
ほんにん
に
対
たい
する
告知
こくち
に
賛成
さんせい
する
意見
いけん
があるだけではない。
知
し
らされることの
重
おも
さを
思
おも
えば、そうだろうとも
思
おも
える。ただ、いま
自
みずか
らの
意見
いけん
を
公表
こうひょう
している
患者
かんじゃ
の
多
おお
くは
告知
こくち
に
賛成
さんせい
している。それは、すでに
自
みずか
らがALSであることを
知
し
りその
上
うえ
でなんとかやっている
人
ひと
たちの
意見
いけん
なのだから
当然
とうぜん
のことと
言
い
えるかもしれず、だから
公平
こうへい
な
取
と
り
上
あ
げ
方
かた
ではないとも
言
い
われるかもしれない。しかし、
結局
けっきょく
、はっきりとはわからないがぼんやりとは
知
し
っているという
曖昧
あいまい
な
状態
じょうたい
も
含
ふく
めて、
人
ひと
は
知
し
っているか
知
し
らないか
特定
とくてい
の
場
ば
にしか
立
た
てず、
知
し
らない
人
ひと
に
知
し
らないことについて
尋
たず
ねることもできない。かつて
知
し
らずいまは
知
し
っている
人
ひと
が、かつての
自分
じぶん
を
含
ふく
め
自分
じぶん
のことや
他
た
の
人
ひと
たちのことを
思
おも
ったときにどのように
考
かんが
えるか、それは
聞
き
いた
方
ほう
がよい。
一
ひと
つに、
知
し
ることになったとして、それはどのようであればよいのだろうと
思
おも
う。
後
あと
で
取
と
り
上
あ
げるつもりだが、
医療
いりょう
者
しゃ
の
側
がわ
から「
段階
だんかい
的
てき
告知
こくち
」という
戦略
せんりゃく
が
示
しめ
される。
最初
さいしょ
に
全部
ぜんぶ
言
い
ってしまうのでなく、その
人
ひと
の
状況
じょうきょう
、
段階
だんかい
に
応
おう
じて
徐々
じょじょ
に、というのだ。
言
い
われるとそれもよいのかもしれないと
思
おも
う。どうだろうか。
[147]
菅原
すがわら
和子
かずこ
[36]は、
本
ほん
を
読
よ
み[137]、
病院
びょういん
で
病気
びょうき
のことを
尋
たず
ねた[87]
後
ご
、「
予後
よご
」についてはっきりしたことを
言
い
われた
時
とき
の
衝撃
しょうげき
を
書
か
いている。「ある
日
ひ
、
県
けん
の
難病
なんびょう
検診
けんしん
が
行
おこな
われると
聞
き
き、
出
で
かけてみた。
一
いち
通
とお
りの
診察
しんさつ
を
受
う
けた
後
のち
、
係
かかり
の
人
ひと
から「この
病気
びょうき
は
五
ご
年
ねん
以上
いじょう
生
い
きることは
難
むずか
しい」と
言
い
われた。
今
いま
まで、どの
医師
いし
からも、
治
なお
りにくいとは
言
い
われたが、はっきり
後
こう
何
なん
年
ねん
と
言
い
われたことはない。あまりのショックに
食事
しょくじ
も
喉
のど
を
通
とお
らず、
悲嘆
ひたん
にくれる
日々
ひび
が
続
つづ
いた。」(
菅原
すがわら
[1989:17-18]、[5]でも
引用
いんよう
)
しかしこれは、
今
いま
から
考
かんが
えれば、あるいはその
当時
とうじ
既
すで
に
疑
うたが
わしい「
予後
よご
」が、それだけが、そしてつまりはあと
何
なん
年
ねん
という
数字
すうじ
だけが
知
し
らされている──このことは
他
た
の
多
おお
くの
人
ひと
たちにとっても
同様
どうよう
であることを
記
しる
してきた──ということだとも
解
ほぐ
せる。ただ、
一
いち
度
ど
に
伝
つた
えられなかったのがよかったかもしれないという
記述
きじゅつ
は
他
ほか
にもある。
[148]
後藤
ごとう
忠治
ただはる
[56]ははっきりと
告知
こくち
されたことがなく[85]、
病名
びょうめい
を
知
し
ったのは
特定
とくてい
疾患
しっかん
医療
いりょう
受給
じゅきゅう
者
しゃ
証
しょう
の
記載
きさい
からだった[96]。「「
進行
しんこう
が
止
と
まる
事
こと
は
無
な
いですか?」・(ありません)/「
薬
くすり
はいつ
頃
ころ
できますか?」・(
今
いま
のとこ
特効薬
とっこうやく
はありません)/「このまま
進行
しんこう
するとどうなりますか?」・(
車椅子
くるまいす
の
生活
せいかつ
になりますね)/「
最後
さいご
はどうなりますか?」・(
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
をつけるようになりますね。
決
き
めるのは
本人
ほんにん
です)/これは
月
つき
一
いち
度
ど
の
外来
がいらい
時
じ
の
主治医
しゅじい
との
会話
かいわ
です。
私
わたし
にとってこれが
告知
こくち
と
思
おも
っている。
毎回
まいかい
少
すこ
しずつ
聞
き
き、ALSと
言
い
う
病名
びょうめい
に
関係
かんけい
無
な
く、
自分
じぶん
の
病気
びょうき
を
半
なか
ばあきらめがおで
自然
しぜん
に
受
う
け
入
い
れられたと
思
おも
っている。これらの
事
こと
を
一
いち
度
ど
に
告知
こくち
された
場合
ばあい
、
果
は
たして
平常
へいじょう
心
しん
でいられたか
自信
じしん
が
無
な
い。」(
後藤
ごとう
[2000?])
けれど、
徐々
じょじょ
にわかることがよりつらくないことだとも
言
い
えない。
[149]
中島
なかじま
貴
たか
祐
ゆう
[102]は
告知
こくち
はされなかった。「
私
わたし
が
病名
びょうめい
を
知
し
ったのは、
発病
はつびょう
して
四
よん
年
ねん
目
め
に
入院
にゅういん
の
診察
しんさつ
の
時
とき
に、カルテの
表紙
ひょうし
にALSと
書
か
いてあったのを
見
み
たからです。/それから、テレビでこの
病気
びょうき
のドキュメンタリーやドラマを
見
み
て、
病気
びょうき
の
進行
しんこう
が
分
わ
かりました。/
私
わたし
は
病気
びょうき
のことが
徐々
じょじょ
に
分
わ
かり、とてもとてもショックでした。
自殺
じさつ
の
方法
ほうほう
を
考
かんが
えたりしていました。」(
中島
なかじま
[2001]、[102]と
同
どう
じ
文
ぶん
)
[150]
後藤
ごとう
の[148]の
直後
ちょくご
は
次
つぎ
のように
続
つづ
く。「もちろん
告知
こくち
の
受
う
け
止
と
め
方
かた
は
人
ひと
それぞれみな
違
ちが
うと
思
おも
う。
本人
ほんにん
の
性格
せいかく
、
家族
かぞく
構成
こうせい
等
とう
によっても
違
ちが
うし
医師
いし
の
説明
せつめい
の
仕方
しかた
によっても
大
おお
きく
変
か
わってくると
思
おも
う。
何
なに
を
聞
き
いても
動
どう
じない
人
ひと
もいるかもしれないし
告知
こくち
されたとたんに
生
い
きる
気力
きりょく
を
失
うしな
う
人
ひと
もいると
思
おも
う。だからストレートに
告知
こくち
する
事
こと
が
皆
みな
が
皆
みな
いいとは
思
おも
わない。もちろん
本人
ほんにん
が
希望
きぼう
するなら
出来
でき
るだけ
早
はや
い
時期
じき
に
告知
こくち
をされた
方
ほう
が
精神
せいしん
的
てき
にも
物理
ぶつり
的
てき
にも
準備
じゅんび
がそれだけ
早
はや
くできる。ただ
家族
かぞく
には
予
よ
後
ご
の
事
こと
を
含
ふく
めありのまま
伝
つた
えて
欲
ほ
しい。
家族
かぞく
も
心
しん
の
準備
じゅんび
が
欲
ほ
しいから。」(
後藤
ごとう
[2000?])
[151]
中島
なかじま
の[149]の
直後
ちょくご
は
次
つぎ
のように
続
つづ
く。「
患者
かんじゃ
には
病名
びょうめい
を
知
し
る
権利
けんり
があります。どうか、
患者
かんじゃ
が
希望
きぼう
したら
告知
こくち
して
下
くだ
さい。お
願
ねが
いします。」(
中島
なかじま
[2001]、[102]の
末尾
まつび
と
同文
どうぶん
)
一
いち
度
ど
にまとめて
知
し
らされる
場合
ばあい
であっても、また
徐々
じょじょ
に
知
し
らされるのであってもそのそれぞれのあるいはどこかの
機会
きかい
で、
十分
じゅうぶん
に
衝撃
しょうげき
的
てき
なことは
知
し
らされることになる。そんなとき、どういうわけだが──それもそれなりに
説明
せつめい
しようとすればできなくはないのだろうが──
開
ひら
き
直
なお
れてしまう
瞬間
しゅんかん
が、もちろんそれは
恐怖
きょうふ
や
不安
ふあん
を
消
け
し
去
さ
ってしまうことはないのだが、
訪
おとず
れることもある。
[152]
杉山
すぎやま
進
すすむ
[44]は
一
いち
九
きゅう
八
はち
九
きゅう
年
ねん
、
東京
とうきょう
大学
だいがく
附属
ふぞく
病院
びょういん
で
病名
びょうめい
は
知
し
らせてもらえなかったが、
治療
ちりょう
法
ほう
のない
病気
びょうき
だと
言
い
われる[76]。「この
病気
びょうき
の
本当
ほんとう
の
恐
おそ
ろしさはまだ
分
わ
からなかったが、さすがにショックを
受
う
け、
病院
びょういん
から
東京
とうきょう
駅
えき
に
向
む
かうタクシーの
中
なか
で、
涙
なみだ
がこぼれたのを
記憶
きおく
している。」(
杉山
すぎやま
[1998:24])その
後
ご
、
保健所
ほけんじょ
で
渡
わた
された
申請
しんせい
書類
しょるい
を
読
よ
む[100]。「
予想
よそう
もしていなかった
症状
しょうじょう
の
項目
こうもく
がずらりと
並
なら
んでいる。
即座
そくざ
に、
死
し
が
近
ちか
いことを
覚悟
かくご
した。その
瞬間
しゅんかん
、
頭
あたま
に
浮
う
かんだのは、「
親
おや
はなくても
子
こ
は
育
そだ
つ」という
言葉
ことば
だった。/その
後
ご
は、
胸
むね
につかえていたモヤモヤが
落
お
ちてすっきりした
気分
きぶん
になり、
東京大学
とうきょうだいがく
病院
びょういん
で
受
う
けたようなショックはなかった。」(
杉山
すぎやま
[1998:25])
[153]
橋本
はしもと
みさお
[42]は
夫
おっと
から
病名
びょうめい
を
聞
き
くが、ALSのことを
本
ほん
で
読
よ
むのは
十日
とおか
ほどたった
後
のち
だった[112]。「「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」は、すぐに
見
み
つけられて、
病気
びょうき
の
説明
せつめい
、
病状
びょうじょう
の
経過
けいか
と、
読
よ
み
進
すす
むうち、
予
よ
後
ご
の
項目
こうもく
になって、
文字通
もじどお
り「
頭
あたま
の
中
なか
が
真
ま
っ
白
しろ
」。
何
なに
も
考
かんが
えていないのに、
涙
なみだ
が、ボタボタ
落
お
ちる。
出産
しゅっさん
以上
いじょう
の
試練
しれん
を
知
し
らず、
嫌
いや
なことは
避
さ
けて
生
い
きていた
私
わたし
に、「
予
よ
後
ご
は
悪
わる
く
五
ご
、
六
ろく
年
ねん
で
死亡
しぼう
」の
文節
ぶんせつ
は、
思考
しこう
の
許容
きょよう
範囲
はんい
をはるかに
越
こ
えて、
考
かんが
えるより
先
さき
に、
涙
なみだ
が
落
お
ちた
呆然
ぼうぜん
としたまま
幼稚園
ようちえん
に
向
む
かえば、
涙
なみだ
、
涙
なみだ
、
空
そら
を
見
み
て
涙
なみだ
、
赤信号
あかしんごう
で
涙
なみだ
、
涙
なみだ
が
一人
ひとり
歩
ある
きして、このまま、
止
と
まらないんじゃないかと、
思
おも
ったほど。
異変
いへん
に
気
き
づいた
友人
ゆうじん
達
たち
は、
娘
むすめ
を
迎
むか
えに
行
い
ってくれると、
一人
ひとり
でいないように、
夫
おっと
の
帰宅
きたく
まで
付
つ
き
添
そ
ってくれた。
病名
びょうめい
を
知
し
らせたとき、すぐに
調
しら
べた
彼女
かのじょ
達
たち
は、
私
わたし
よりずっと
早
はや
く
泣
な
いていて、
結局
けっきょく
、
知
し
らなかったのは
本人
ほんにん
だけという、
何
なん
とも
呆
あき
れたお
話
はな
し。[…]/さすがに、ことの
重大
じゅうだい
さに
気
き
づいて、
自分
じぶん
で
確認
かくにん
しようと、
父
ちち
を
伴
ともな
いドクターに
面会
めんかい
するも、
高齢
こうれい
の
父
ちち
を
気遣
きづか
って、
当
あ
たり
障
さわ
りのないことしか
言
い
えないドクターの
様子
ようす
に
不思議
ふしぎ
と、すうーっと
力
ちから
が
抜
ぬ
けて、それを
境
さかい
に
開
ひら
き
直
なお
ってしまったのです。
父
ちち
のショックは
相当
そうとう
なもので、
同行
どうこう
した
義妹
ぎまい
によると、
帰
かえ
りの
車中
しゃちゅう
父
ちち
は
泣
な
いていたとのこと。
不覚
ふかく
にも
父
ちち
の
老
お
いを
忘
わす
れていた。それから
父
ちち
は「
娘
むすめ
より
後
のち
に、
死
し
にたくない」と
言
い
い
初
はじ
め、
三
さん
年
ねん
後
ご
に
母
はは
、
四
よん
年
ねん
後
ご
には、
父
ちち
も
亡
な
くなり、
十
じゅう
一
いち
年
ねん
後
ご
、
詐欺
さぎ
のように
私
わたし
だけ
生
い
きている。」(
橋本
はしもと
[1997a]、[…]の
部分
ぶぶん
は[125]に
引用
いんよう
)
[154]「
死
し
ぬほど
泣
な
ける
告知
こくち
。これは、
結構
けっこう
ポイントが
高
たか
いのです。[…]
実際
じっさい
私
わたし
は、
自分
じぶん
が
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
と
知
し
った
時
とき
、
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
が
何
なん
たるかを
知
し
った
時
とき
から、
生活
せいかつ
しながら
泣
な
いていましたし、
本当
ほんとう
に
理由
りゆう
も
無
な
く
涙
なみだ
が
溢
あふ
れました。
信号
しんごう
待
ま
ちで
涙
なみだ
、ビルの
壁
かべ
を
見
み
て
涙
なみだ
、そのうち
涙
なみだ
も
減
へ
って(
一生
いっしょう
分
ぶん
泣
な
いてしまったらしい)、
泣
な
いている
時間
じかん
が
無駄
むだ
に
思
おも
えてきたのでしょう。」(
橋本
はしもと
[2001])
だからどうであればよいのか、それはまだわからない。あるいは、
一人
ひとり
は
一
いち
通
とお
りの
生
い
き
方
かた
しかできないのであれば、
結局
けっきょく
わからないところは
残
のこ
るだろう。
比較
ひかく
には
想像
そうぞう
による
部分
ぶぶん
があってしまう。だがそれでも
本人
ほんにん
への
告知
こくち
が
支持
しじ
される。
[155]
和
わ
中勝
なかがち
三
さん
[51][83]は、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
十
じゅう
月
がつ
「に「
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
」と
告知
こくち
を
受
う
けました。/
難病
なんびょう
と
覚悟
かくご
はしていましたが、
本当
ほんとう
の
事
こと
を
知
し
るとショックで
落
お
ち
込
こ
むし、イライラして
家族
かぞく
にあたる
時
とき
もありました。/
三
さん
年
ねん
〜
五
ご
年
ねん
の
寿命
じゅみょう
と
告知
こくち
された
時
とき
が
一番
いちばん
辛
つら
いし、
将来
しょうらい
の
事
こと
を
考
かんが
え
落
お
ち
込
こ
むと
思
おも
います。
一時期
いちじき
は、
悩
なや
み
苦
くる
しみますが、ALSから
逃
のが
れる
事
こと
が
出来
でき
ないと
判
わか
ると、
闘
たたか
うか
死
し
ぬかで
悩
なや
んだ
末
すえ
に
気持
きもち
が
開
ひら
き
直
なお
ります。
気持
きもち
が
開
ひら
き
直
なお
れば
前向
まえむ
きに
考
かんが
えるようになり、
気持
きもち
が
明
あか
るくなりました。/
私
わたし
は、
告知
こくち
を
受
う
けるのは
早
はや
い
方
ほう
が
良
よ
いと
思
おも
います。/
私
わたし
の
場合
ばあい
は、
約
やく
一
いち
年
ねん
で
告知
こくち
受
う
けたので、
考
かんが
える
時間
じかん
が
長
なが
く
冷静
れいせい
に
判断
はんだん
できたと
思
おも
います。
家族
かぞく
と
将来
しょうらい
の
事
こと
を
十分
じゅうぶん
話
はな
し
合
あ
って、
心残
こころのこ
りの
無
な
いように
気持
きもち
の
整理
せいり
がつくように
家族
かぞく
皆
みな
で
隠
かく
さず
話
はな
し
合
あ
うことが
一番
いちばん
大事
だいじ
なことです。そうすれば
家族
かぞく
の
結束
けっそく
がより
強
つよ
くなります。/[…]
妻
つま
が、
告知
こくち
を
受
う
けて
一
いち
年間
ねんかん
、
私
わたし
に
言
い
う
事
こと
ができなくて
辛
から
かったと
言
い
います。
私
わたし
は、
何処
どこ
の
病院
びょういん
へ
診察
しんさつ
に
行
い
っても
納得
なっとく
できない
答
こた
えばかり
返
かえ
って
来
き
た
時
とき
は、
先生
せんせい
に
不信
ふしん
感
かん
を
持
も
ちましたし、
自分
じぶん
の
心
しん
の
中
なか
で
先生
せんせい
が
信用
しんよう
できなくなりました。/
告知
こくち
される
先生
せんせい
も、
患者
かんじゃ
と
同
おな
じように
辛
つら
いと
思
おも
いますが、
告知
こくち
を
希望
きぼう
する
患者
かんじゃ
さんには
早
はや
く
告知
こくち
をされる
方
ほう
がいいと
思
おも
います。」(
和
わ
中
ちゅう
[1999?])
[156]
安川
やすかわ
幸夫
ゆきお
(
千葉
ちば
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
。「
私
わたし
は、ALSの
告知
こくち
は
病名
びょうめい
が
判
わか
ったなるべく
早
はや
い
時期
じき
にするべきだと
思
おも
っています。
患者
かんじゃ
はそれを
知
し
る
権利
けんり
を
有
ゆう
していると
思
おも
います。
確
たし
かに
告知
こくち
されたときは
大
おお
きなショックを
受
う
けるでしょう。
人生
じんせい
設計
せっけい
、
将来
しょうらい
の
希望
きぼう
、
夢
ゆめ
、
家族
かぞく
への
愛
あい
、
等
ひとし
……
全
すべ
てが
崩壊
ほうかい
するのですから。そしてすぐ
訪
おとず
れるであろう
経済
けいざい
的
てき
不安
ふあん
も。
迷
まよ
い、
悩
なや
み、
戸惑
とまど
い、
怒
いか
り・なぜ
自分
じぶん
に、……
病気
びょうき
を
知
し
った
心
しん
の
葛藤
かっとう
が
始
はじ
まります。
今後
こんご
訪
おとず
れるであろう
逃
に
げることの
出来
でき
ない
現実
げんじつ
に
対
たい
し、
一時
いちじ
逃避
とうひ
する
人
ひと
もいるでしょう。しかし、いずれは
皆
みな
受容
じゅよう
するしかないのです。
受容
じゅよう
することにより
自分
じぶん
を
客観
きゃっかん
的
てき
にみれるようになり、
日々
ひび
進行
しんこう
していく
運動
うんどう
機能
きのう
の
変化
へんか
に
対
たい
し、どう
生
い
きるか、
生
い
きたいか、……そして
生
い
きがいを
見
み
つけられるようになっていくと
思
おも
います。/
再度
さいど
お
願
ねが
いいたします。
告知
こくち
は
早
はや
いほどいい、まだ
体
からだ
が
動
うご
く
元気
げんき
なうちに、
告知
こくち
に
対
たい
するショックを
跳
は
ね
返
かえ
すパワーを
持
も
ってるうちに、そして
受容
じゅよう
できる
心
しん
の
余裕
よゆう
と
体力
たいりょく
を
持
も
ってるうちに。/
過
す
ぎ
去
さ
った
時
とき
は
取
と
り
戻
もど
せません、
自分
じぶん
で
選
えら
んだその
時
とき
、その
時
とき
を
一生懸命
いっしょうけんめい
生
い
き、
悔
く
いの
無
な
い
人生
じんせい
を
送
おく
るために。/もし
告知
こくち
がされなかった
場合
ばあい
、なにも
知
し
らず
確実
かくじつ
に
日々
ひび
変化
へんか
していく
自分
じぶん
の
体
からだ
に
不安
ふあん
を
抱
いだ
きながら
過
す
ごしていくことになります。でも、
死
し
ぬまで
病名
びょうめい
を
知
し
らされないということはないでしょう。たぶん
体
からだ
が
動
うご
かなくなった
時点
じてん
、
又
また
は、
胃
い
ろうや
器官
きかん
切開
せっかい
の
手術
しゅじゅつ
のときには
病名
びょうめい
を
知
し
らされる
筈
はず
です。しかし、この
時
とき
では
遅
おそ
いのです。
過
す
ぎ
去
さ
った
日々
ひび
はもう
取
と
り
戻
もど
せません。まだ
元気
げんき
だった
頃
ころ
であれば
出来
でき
たであろうやり
残
のこ
したことは、その
時
とき
では
出来
でき
なくなっています。ALSに
懸
か
かってしまったことは
悔
く
いても
悔
く
やまれきれませんが、
残
のこ
された
自分
じぶん
の
人生
じんせい
を
自分
じぶん
で
決
き
める
権利
けんり
は
有
ゆう
していると
思
おも
います。その
為
ため
には、
早
はや
い
時期
じき
での
告知
こくち
と
適切
てきせつ
な
助言
じょげん
が
必要
ひつよう
と
考
かんが
えます。」(
安川
やすかわ
[2002])
知
し
らせるべきか。この
問
と
い
自体
じたい
がおかしいのかもしれない。どうしてそれを
医師
いし
が
決
き
めることができるだろう。その
人
ひと
はたまたまあるいは
仕事
しごと
の
上
うえ
で
知
し
る
立場
たちば
にいるだけなのだ。それは
医療
いりょう
者
しゃ
の
側
がわ
の
権利
けんり
ではありえない。ただ、そうではあっても、
告知
こくち
をすることがつねによいのかどうかわからない。つらいことを
知
し
らされるのはつらいことだ。あと
一
いち
月
がつ
で
死
し
んでしまうと、そんなことを
考
かんが
えてもいなかったときに
知
し
らされるのはどうだろう。わからない。
強
つよ
く
本人
ほんにん
への
告知
こくち
を
主張
しゅちょう
する
橋本
はしもと
みさお
の
文章
ぶんしょう
に、あらゆる
場合
ばあい
の
告知
こくち
を
肯定
こうてい
しているのではなく、むしろ、
知
し
らせれば、あるいは
知
し
ればそれだけうまくいくという、よくできた
予定
よてい
調和
ちょうわ
的
てき
な
末期
まっき
の
送
おく
り
方
かた
を
疑
うたが
っている、そのように
受
う
け
取
と
れる
一節
いっせつ
がある。
[157]「
告知
こくち
」について
語
かた
られるとき、
余命
よめい
を、
有意義
ゆういぎ
に
過
す
ごしたいからとか、
為
な
すべきことがあるからと、
人
ひと
は
言
い
います。ほんの
一
いち
握
にぎ
りの
履
くつ
病者
びょうしゃ
だけが、「
死
し
」に
向
む
かって「
生
せい
」を
計画
けいかく
的
てき
に
重
かさ
ねることは、フェアなやり
方
かた
とは、
思
おも
えないのに。
大方
おおかた
の
人
ひと
は、「
死
し
」を
現実
げんじつ
のものとは、
実感
じっかん
せずに
過
す
ごしているように
見
み
えます。「
死
し
」に
至
いた
る
病
やまい
の
告知
こくち
は、ひどく
傲慢
ごうまん
なことの
様
よう
に
思
おも
うのは、
私
わたし
だけなのだろうか。」(
橋本
はしもと
[1997b])
しかし
少
すく
なくともALSの
場合
ばあい
、
知
し
らせてほしい
事情
じじょう
があるという。それはじつは
先
さき
に
引用
いんよう
したいくつかの
文章
ぶんしょう
にも
述
の
べられている。
早
はや
い
方
ほう
がよい、とそれらには
書
か
かれていた。もっと
生真面目
きまじめ
に
西尾
にしお
等
とう
[55]が
次
つぎ
のように
言
い
う。
[158]「ALS
筋
すじ
萎縮
いしゅく
性
せい
側
がわ
索
さく
硬化
こうか
症
しょう
は
様々
さまざま
な
症状
しょうじょう
を
呈
てい
し、また
進行
しんこう
速度
そくど
もその
人
ひと
によりかなり
異
こと
なりますが、
重要
じゅうよう
なことは
病気
びょうき
についてきちんと
自分
じぶん
なりに
理解
りかい
し、
自分
じぶん
の
将来
しょうらい
を
直視
ちょくし
し
決
けっ
して
甘
あま
えたり、
逃避
とうひ
したりしないことです。/
私
わたし
達
たち
ALS
患者
かんじゃ
にとり
一
いち
分
ふん
は
一時
いちじ
間
あいだ
であり、
一
いち
日
にち
は
一
いち
年
ねん
です。/より
前向
まえむ
きに
人間
にんげん
らしく
生
い
きれるか、まだ
少
すこ
しでも
動
うご
けるうちに
決意
けつい
し
準備
じゅんび
しなければなりません。
時間
じかん
は
想像
そうぞう
以上
いじょう
に
少
すく
ないのです。」(
西尾
にしお
[1999])
[159]「ALSの
経過
けいか
(
死
し
に
至
いた
るまでの)を
見
み
てこられた
方
ほう
ならば、この
病気
びょうき
において
告知
こくち
がどれ
程
ほど
重要
じゅうよう
なことか、おわかりでしょう。/[…]
患者
かんじゃ
も
家族
かぞく
も、
様々
さまざま
な
進行
しんこう
に
対処
たいしょ
していかなければなりません。それならば
少
すこ
しでも
楽
らく
に
生
い
きられるように、
適切
てきせつ
な
助言
じょげん
お
願
ねが
いしたいのです。」(
橋本
はしもと
[1997c])
[160]「
末期
まっき
癌
がん
の
告知
こくち
と
同
おな
じようなものだから、
告知
こくち
しないと
言
い
うあなた、それは
間違
まちが
いかも
知
し
れません。
確
たし
かにどの
医学
いがく
書
しょ
を
見
み
ても「
予
よ
後
ご
は
悪
わる
く
十
じゅう
年
ねん
以内
いない
に
死亡
しぼう
」と
書
か
いてあります。
一
いち
度
ど
は
死
し
ぬものと
分
わ
かっていても「
死
し
ぬぞ」と
言
い
われると、
宇宙
うちゅう
の
不安
ふあん
を
一身
いっしん
に
集
あつ
めたような
焦燥
しょうそう
感
かん
に
捕
とら
われるのは、
私
わたし
だけではないでしょう。それでも
尚
なお
ALSには、
正確
せいかく
な
告知
こくち
が
必要
ひつよう
なのです。/
末期
まっき
ガンは、あっと
言
い
う
間
ま
に
死
し
ねます。
運
うん
が
良
よ
ければ、
愛
あい
する
人
ひと
の
手
て
を
握
にぎ
り「ありがとう」なんて、
言
い
えるかも
知
し
れない。でもALSにはできません。「ありがとう」はおろか、
手
て
を
握
にぎ
ることさえも。
近年
きんねん
、
突然
とつぜん
声
こえ
を
失
しつ
くしてパニクッてる
患者
かんじゃ
さんの
事例
じれい
を、
多
おお
く
耳
みみ
にします。
中
なか
には、
告知
こくち
もされていない
例
れい
もあり、
介護
かいご
者
しゃ
も
途方
とほう
に
暮
く
れるのです。/ALSには、
上手
じょうず
に
生
い
きる
方法
ほうほう
を
告知
こくち
してください。
発病
はつびょう
したことが、
十分
じゅうぶん
に
不幸
ふこう
なのです。それ
以上
いじょう
の
絶望
ぜつぼう
を
与
あた
えないで。」(
橋本
はしもと
[1997b])
<
略
りゃく
>
[161]「
告知
こくち
については
大変
たいへん
難
むずか
しい
問題
もんだい
だと
思
おも
います。もちろん
患者
かんじゃ
さん
本人
ほんにん
の
性格
せいかく
と
考
かんが
え
方
かた
により、
告知
こくち
するかしないかが
一番
いちばん
になるとは
思
おも
いますが、
告知
こくち
する
側
がわ
の
医師
いし
の
前向
まえむ
きな
考
かんが
え
方
かた
と
家族
かぞく
の
大
おお
きな
協力
きょうりょく
があれば、
私
わたし
は
告知
こくち
する
方
ほう
が
本人
ほんにん
にとっても
家族
かぞく
にとっても、
有意義
ゆういぎ
な
闘病
とうびょう
生活
せいかつ
を
送
おく
るのには
良
よ
いのではないかと
思
おも
います。 そして、
私
わたし
は
告知
こくち
をされるうえで
患者
かんじゃ
本人
ほんにん
にとっては、ALS
協会
きょうかい
、
会報
かいほう
の
存在
そんざい
は
非常
ひじょう
に
大
おお
きく
意義
いぎ
のあるものであるし、これからもそうであって
欲
ほ
しいと
思
おも
います。[…]
会報
かいほう
を
読
よ
んで
私
わたし
は
大変
たいへん
驚
おどろ
かされました。その
内容
ないよう
が
一般
いっぱん
の
医学
いがく
書
しょ
や
医師
いし
の
言
い
われるような
患者
かんじゃ
にとっては
冷
つめ
たく
希望
きぼう
のない
言葉
ことば
ではなく、この
病気
びょうき
は
大変
たいへん
な
病気
びょうき
ではあるが、こういうふうにやれば
今
いま
残
のこ
された
機能
きのう
を
最大限
さいだいげん
使
つか
ってこんなこともやれるし、
精一杯
せいいっぱい
頑張
がんば
って
生
い
きていけるんだという、
患者
かんじゃ
さん
本人
ほんにん
の
生
せい
の
声
こえ
を
聞
き
くことができたし、
病気
びょうき
自体
じたい
のことや
現在
げんざい
研究
けんきゅう
されていることも
詳
くわ
しく
知
し
ることができたことにより、どんなにはげまされたことか
分
わ
かりません。そしてそういうことの
知識
ちしき
があるのとないのとでは、
告知
こくち
や
闘病
とうびょう
生活
せいかつ
を
送
おく
るうえでどんなに
大
おお
きな
違
ちが
いが
生
う
まれてくるか
計
はか
り
知
し
れないと
思
おも
うのです。/[…]/
告知
こくち
を
受
う
けたら、まず
自分
じぶん
が
今
いま
おかれている
現実
げんじつ
を
家族
かぞく
共々
ともども
しっかりと
受
う
け
止
と
めてください。そしてその
現実
げんじつ
から
逃
に
げずに、
自分
じぶん
の
病気
びょうき
のことを
良
よ
く
知
し
って
下
くだ
さい。それをすることでそこから
初
はじ
めて
次
つぎ
の
段階
だんかい
に
進
すす
むことができ、
闘病
とうびょう
生活
せいかつ
を
送
おく
るうえでの
前向
まえむ
きな
姿勢
しせい
が
生
う
まれてくるのではないかと
思
おも
うのです。」(
奥村
おくむら
[1995])
[162]「
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
の
装着
そうちゃく
を
拒
こば
まれる
患者
かんじゃ
が
意外
いがい
に
多
おお
い
現実
げんじつ
に
目
め
を
向
む
けなければなりません。
責任
せきにん
感
かん
の
強
つよ
い
方
ほう
に
割合
わりあい
多
おお
いように
見受
みう
けますが、
彼等
かれら
彼女
かのじょ
等
とう
は
社会
しゃかい
的
てき
にも
有能
ゆうのう
な
人物
じんぶつ
です。
彼等
かれら
や
彼女
かのじょ
等
とう
は、
家族
かぞく
や
社会
しゃかい
に
迷惑
めいわく
が
及
およ
ぶ
事
こと
を
恐
おそ
れて
死
し
を
選択
せんたく
するのでしょうが、「
生
い
きる」
事
こと
の
大切
たいせつ
さを
理解
りかい
させるのが、「
告知
こくち
」のもう
一
ひと
つの
大切
たいせつ
な
側面
そくめん
である
事
こと
を、
告知
こくち
する
医師
いし
はよく
意識
いしき
して
告知
こくち
をして
欲
ほ
しいと
考
かんが
えています。」(
本田
ほんだ
[1999])
[163]「
告知
こくち
の
時
とき
に、
患者
かんじゃ
さんに
今後
こんご
のケアの
事
こと
や
情報
じょうほう
の
入手
にゅうしゅ
方法
ほうほう
をサポートしてほしいと
思
おも
います。/[…]
告知
こくち
される
先生
せんせい
方
かた
に、
絶望
ぜつぼう
的
てき
な
説明
せつめい
をしないで、
生
い
きる
希望
きぼう
を
持
も
てるような
告知
こくち
をお
願
ねが
いしたいです。」(
和
わ
中
ちゅう
[1999?]、[155]の
続
つづ
き)
[164]
鈴木
すずき
淳
あつし
は、カルテを
見
み
てすでに
病名
びょうめい
はわかっていたのだが[104]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
に
医師
いし
から
知
し
らされた。「
常
つね
日頃
ひごろ
冗談
じょうだん
も
飛
と
び
出
だ
す
優
やさ
しい
先生
せんせい
でもあったが、この
日
ひ
ばかりは
真剣
しんけん
な
眼差
まなざ
しで
私
わたし
を
見
み
つめ、「あらゆる
機械
きかい
を
使
つか
ってでも
生
い
きなさい」 と
言
い
われた。/このままいずれは
死
し
ぬのだと
思
おも
っていた
私
わたし
は
大
おお
いに
驚
おどろ
いた。その
機械
きかい
とは
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
であると
云
い
うことを
知
し
ったのはしばらく
後
のち
になってからことである。
斉藤
さいとう
先生
せんせい
は
私
わたし
に
告知
こくち
して
直
じか
に
国立
こくりつ
西多賀
にしたが
療養
りょうよう
所
しょ
の
副
ふく
院長
いんちょう
として
移
うつ
られた。」(
鈴木
すずき
[1997])
■
呼吸
こきゅう
器
き
のこと
*
以下
いか
立岩
たついわ
真
ま
也 20021101 「
生存
せいぞん
の
争
あらそ
い──
医療
いりょう
の
現代
げんだい
史
し
のために・7」
『
現代
げんだい
思想
しそう
』
2002
年
ねん
11
月
がつ
号
ごう
より
一部
いちぶ
引用
いんよう
。
*▽△で
囲
かこ
ってある
部分
ぶぶん
は、
雑誌
ざっし
では
省略
しょうりゃく
してあります。
■
選択
せんたく
、とされること
[165]「ALSは
発病
はつびょう
後
ご
、
徐々
じょじょ
に
筋肉
きんにく
が
萎
な
え、
全身
ぜんしん
が
麻痺
まひ
して、
平均
へいきん
三
さん
年
ねん
ぐらい
後
のち
に
呼吸
こきゅう
が
出来
でき
なくなる
病気
びょうき
です。/この
時点
じてん
で
患者
かんじゃ
は、/@
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
する。/A
人生
じんせい
をまっとうする。/のどちらかを
選択
せんたく
しています。これがALSの
超
ちょう
ミニ
概略
がいりゃく
です。/さて
皆
みな
さん@とAどちらの
選択
せんたく
数
すう
が
多
おお
いと
思
おも
われますか?
実
じつ
はAです。/▽
理由
りゆう
は
様々
さまざま
ですが、
一
ひと
つ
挙
あ
げるとするならば、
諸多
しょた
の
事情
じじょう
により
在宅
ざいたく
にての
介護
かいご
を
受
う
けられない
場合
ばあい
、
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
けた
患者
かんじゃ
の
長期
ちょうき
受
う
け
入
い
れ
施設
しせつ
の
絶対
ぜったい
数
すう
が
不足
ふそく
している
為
ため
、
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
して
力強
ちからづよ
く
生
い
きてゆく
事
こと
を
選択
せんたく
しにくい
為
ため
です。/これは
一
いち
例
れい
ですが、この
問題
もんだい
をもクリアして、
逞
たくま
しく
人生
じんせい
を
謳歌
おうか
なさってるかたもいらっしゃるでしょう。△」(
舩後
[2002])
<
略
りゃく
>
■
事態
じたい
の
到来
とうらい
<
略
りゃく
>
[166]
鈴木
すずき
淳
あつし
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
九
きゅう
四
よん
年
ねん
三
さん
月
がつ
に
告知
こくち
される[104][164]。
同年
どうねん
八
はち
月
がつ
、「
今日
きょう
は
朝
あさ
から
息苦
いきぐる
しい、
夕方
ゆうがた
の
五
ご
時
じ
頃
ごろ
であろうか、しだいに
意識
いしき
がもうろうとしてくる。
意識
いしき
が
覚
さ
めると
今度
こんど
は
息
いき
が
苦
くる
しい、
何
なん
回
かい
となくその
繰
く
り
返
かえ
しが
波
なみ
のように
襲
おそ
ってくる。/
段々
だんだん
とその
波
なみ
の
間隔
かんかく
が
短
みじか
くなってくる。/これは
由々
ゆゆ
しき
事態
じたい
だ。
極
きわ
めて
危険
きけん
な
状態
じょうたい
であることが
私
わたし
にもわかる。/
肉体
にくたい
が
生
い
きたいと
叫
さけ
んでいる、
苦
くる
しい、おそらく
死
し
とはこのようにやってくるに
違
ちが
いない。」(
鈴木
すずき
[1997])
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
の
前後
ぜんご
については
後
うしろ
でも
紹介
しょうかい
する。
<
略
りゃく
>
[167]
長岡
ながおか
紘
ひろし
司
し
は、
妻
つま
が
一
いち
九
きゅう
七
なな
七
なな
年
ねん
に
告知
こくち
される[32][123]。
八
はち
三
さん
年
ねん
「
二
に
月
がつ
十
じゅう
五
ご
日
にち
、
食事
しょくじ
の
後
のち
、またも
息苦
いきぐる
しさに
襲
おそ
われた。
長
なが
いすに
横
よこ
になったが、いつもと
違
ちが
い、なかなか
回復
かいふく
しない。
深呼吸
しんこきゅう
ができない。ますます
息苦
いきぐる
しくなり、
身体
しんたい
をよじり、
足
あし
をばたつかせる。
息
いき
をするのが
精一杯
せいいっぱい
で、
声
こえ
を
出
だ
すこともできない。/そのうち、
視野
しや
が
狭
せま
くなってきた。
電灯
でんとう
がついているのに、やけに
暗
くら
い。
耳
みみ
が
変
へん
だ。まるで
洞穴
どうけつ
で
声
こえ
を
聞
き
いているようだ。
思考
しこう
力
りょく
が
落
お
ちた。
聞
き
こえる
声
こえ
が
誰
だれ
の
声
せい
か
判断
はんだん
がつかない。
針
はり
の
穴
あな
から
息
いき
を
吸
す
うような
息苦
いきぐる
しさが
続
つづ
いた。/
担架
たんか
に
乗
の
せられ、
渋谷
しぶや
のT
医大
いだい
へ」(
長岡
ながおか
[1987:57-58])
[168]
折笠
おりかさ
智津子
ちづこ
による
夫
おっと
・
美昭
よしあき
[65]の
一
いち
九
きゅう
八
はち
二
に
年
ねん
の
入院
にゅういん
の
前後
ぜんご
についての
記述
きじゅつ
。「おしぼりを
持
も
って、すぐに
部屋
へや
に
戻
もど
ってみますと、
声
こえ
をかけても
返事
へんじ
がありません。
顔
かお
が
真
ま
っ
青
さお
です。
白目
しろめ
を
出
だ
して、
咽喉
いんこう
から
奇妙
きみょう
な
音
おと
が
洩
も
れています。「
呼吸
こきゅう
が
出来
でき
ないのだ」と
思
おも
いました。/アキは
次第
しだい
に
胸
むね
の
筋肉
きんにく
を
侵
おか
され、いつか
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
になることを
予測
よそく
しておりましたから、その
時
とき
に
備
そな
えて
彼
かれ
は、
長男
ちょうなん
冬
ふゆ
航
こう
と
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
の
練習
れんしゅう
をしていました。/
咄嗟
とっさ
に、そのことを
思
おも
い
出
だ
し、「お
兄
にい
ちゃん、
起
お
きて!パパがおかしいのよ」。/
冬
ふゆ
航
こう
が
口移
くちうつ
しの
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
を
続
つづ
け、その
間
あいだ
に
一
いち
一
いち
九
きゅう
番
ばん
し[…]/
到着
とうちゃく
した
救急
きゅうきゅう
車
しゃ
の
人
ひと
は、
一目
いちもく
見
み
て
切迫
せっぱく
した
容態
ようだい
とわかったようで、「
北里
きたさと
へお
願
ねが
いします」という
私
わたし
の
頼
たの
みに、「とても
北里
きたさと
までは
無理
むり
です。もちませんよ!」。
酸素
さんそ
吸入
きゅうにゅう
をほどこしながら、
途中
とちゅう
の
休日
きゅうじつ
診療
しんりょう
所
しょ
で
紹介
しょうかい
状
じょう
を
受
う
け
取
と
り、
至近
しきん
の
昭和大学
しょうわだいがく
病院
びょういん
へ
急行
きゅうこう
しました。/そこで
二
に
時
じ
間
あいだ
ほど
救急
きゅうきゅう
処置
しょち
を
受
う
けました。
酸素
さんそ
を
送
おく
り
込
こ
む
呼吸
こきゅう
器
き
が
口
くち
に
取
と
り
付
つ
けられ、
点滴
てんてき
などもして[…]
相模原
さがみはら
市
し
の
北里大学
きたさとだいがく
病院
びょういん
に
転送
てんそう
、ICU(
集中
しゅうちゅう
治療
ちりょう
室
しつ
)に
入
はい
りました。」(
折笠
おりかさ
[1986:10-13])「
危篤
きとく
状態
じょうたい
で
緊急
きんきゅう
入院
にゅういん
したアキは、「
何
なん
とも
言
い
えません。ここ
一両日
いちりょうじつ
がヤマです」という
先生
せんせい
のお
話
はなし
でしたが、
手術
しゅじゅつ
可能
かのう
なまで
意識
いしき
も
体力
たいりょく
も
取
と
り
戻
もど
し、
入院
にゅういん
六
ろく
日
にち
目
め
、
気管
きかん
切開
せっかい
して、
口
くち
から
差
さ
し
込
こ
んでいた
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
の
管
かん
を、
直接
ちょくせつ
咽喉
いんこう
に
取
と
り
付
つ
けました。」(
折笠
おりかさ
[1986:170])
<
略
りゃく
>
[169]
塚田
つかだ
宏
ひろし
[41]は、
一
いち
九
きゅう
八
はち
四
よん
年
ねん
に
発病
はつびょう
、「
八
はち
五
ご
年
ねん
には
肩
かた
で
息
いき
をするようになった。
呼吸
こきゅう
筋
すじ
が
侵
おか
され
始
はじ
めたのである。この
頃
ころ
、
都立
とりつ
神経
しんけい
病院
びょういん
に
二
に
度目
どめ
の
検査
けんさ
入院
にゅういん
をすることになっていたが、あまりの
苦
くる
しさに、それを
待
ま
たずに
病院
びょういん
に
行
い
くことにした。
着替
きが
えをすませたその
時
とき
、
公子
きみこ
さんの
腕
うで
の
中
なか
で
塚田
つかだ
さんの
呼吸
こきゅう
が
停止
ていし
した。/
幸
さいわ
い、
家
いえ
の
目
め
の
前
まえ
がホームドクターだったので
大
だい
至急
しきゅう
蘇生
そせい
を
行
おこな
い、
救急
きゅうきゅう
車
しゃ
で
杏林大学
きょうりんだいがく
病院
びょういん
に
運
はこ
ばれた。そこで、
塚田
つかだ
さんは挿管を
行
おこな
った。」(
塚田
つかだ
[2000:11-12])
[170]
奥村
おくむら
敏
さとし
[128]は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
にALSと
診断
しんだん
される。
九
きゅう
三
さん
年
ねん
「
十
じゅう
一
いち
月
がつ
四
よん
日
にち
の
夜
よる
には
息苦
いきぐる
しさもひどくなってきたので、
家内
かない
と
相談
そうだん
して
明日
あした
入院
にゅういん
して
調
しら
べてもらおうと
決
き
めたのですが、それからも
息苦
いきぐる
しさはひどくなったり
少
すこ
し
楽
らく
になったりの
繰
く
り
返
かえ
しとなり、
五日
いつか
の
明
あ
け
方
がた
にはその
息苦
いきぐる
しさは
普通
ふつう
ではなくなり、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
をしてほしいと
家内
かない
に
頼
たの
んだのですが、
家内
かない
も
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
などやったことがなかったので
慌
あわ
てるばかりでした。
家内
かない
もこれは
普通
ふつう
ではないということで
救急
きゅうきゅう
車
しゃ
を
呼
よ
んでくれたのですが、そうこうしているとまったくの
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
になってしまい、
救急
きゅうきゅう
隊
たい
の
人
ひと
が
来
き
た
時
とき
には
意識
いしき
もなくなり、その
後
ご
はまったく
覚
おぼ
えていません。/そして
気
き
がついた
時
とき
には、
病院
びょういん
のベッドの
上
うえ
で
口
くち
には
気管
きかん
内
ない
挿管され、
頭
あたま
の
方
ほう
ではシューシューという
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
の
音
おと
がしているし、
点滴
てんてき
の
針
はり
が
肩口
かたぐち
に
縫
ぬ
い
付
つ
けられているし、
鼻
はな
には
経
けい
管
かん
チューブが
入
はい
り、
心電図
しんでんず
のモニターがつながれ、
自動
じどう
血圧
けつあつ
計
けい
もつながれ、
尿
にょう
の
管
かん
までつながれていました。まるでベッドにつながれているサイボーグのようでした。/
後
あと
で
家内
かない
に
聞
き
いた
話
はなし
ですが、
救急
きゅうきゅう
隊
たい
の
方
ほう
の
処置
しょち
が
悪
わる
く、
血圧
けつあつ
は
測
はか
れないくらい
下
さ
がるし、
酸素
さんそ
マスクを
当
あ
てるだけで
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
はしてくれず、
病院
びょういん
に
運
はこ
ぶのも
相当
そうとう
手間取
てまど
ったため、かなり
危
あぶ
ない
状態
じょうたい
だったらしいです。」(
奥村
おくむら
[1995])
<
略
りゃく
>
[171]
知
ち
本
もと
茂治
しげはる
[37]は
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
頃
ごろ
発症
はっしょう
、
八
はち
二
に
年
ねん
入院
にゅういん
、
八
はち
三
さん
年
ねん
再
さい
入院
にゅういん
。「▽その
日
ひ
は
朝
あさ
からちょっとばかり
呼吸
こきゅう
がスムーズでなくておかしかったのですが、
夕方
ゆうがた
、ポータブル
便器
べんき
に
腰
こし
かけてきばっていると△
急
きゅう
に
息苦
いきぐる
しくなり▽
出
だ
すべきものも
出
だ
さずあわててベッドに
移
うつ
してもらったものの、▽
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
はひどくなり、かみさんの
目
め
の
前
まえ
でチアノーゼによって
私
わたし
の
全身
ぜんしん
は
青黒
あおぐろ
くなっていったのだそうです。/その
変色
へんしょく
ぶりをみるべくもなく、
私
わたし
は
意識
いしき
を
失
うしな
ったのですが、
不思議
ふしぎ
なことに
意
い
(p.168)識をなくす
直前
ちょくぜん
、
息
いき
のできぬ
苦
くる
しさから
開放
かいほう
された
心地
ここち
よさがあったような
気
き
がしています。▽これは、
私
わたし
がくたばるときのリハーサルだったのかもしれないのです。だから、
死
し
にたいとか、
死
し
にたくないとかは
別
べつ
問題
もんだい
として、
死
し
そのものに
対
たい
する
恐怖
きょうふ
心
しん
は、
今
いま
のところありません。/さて、
青黒
あおぐろ
くなっていく
私
わたし
をみて、かみさんはまるでゲーテみたいに「もっと
酸素
さんそ
を」と
言
い
い、そこに
通
とお
りかかった
城
しろ
ノ
園
えん
先生
せんせい
は「こりゃあ、いかん。ソーカンの
用意
ようい
」と
大声
おおごえ
で
叫
さけ
び、まだ
帰
かえ
らずに
病棟
びょうとう
に
残
のこ
っていた
先生
せんせい
や
看護
かんご
婦
ふ
さんたちは
集
あつ
まり、
帰
かえ
るために
廊下
ろうか
を
歩
ある
いていた
副
ふく
婦長
ふちょう
の
小山
こやま
さんはとって
返
かえ
して
処置
しょち
するための
病室
びょうしつ
を
準備
じゅんび
し、
婦長
ふちょう
の
網屋
あみや
さんは
私
わたし
に
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
を
施
ほどこ
したのだそうです。
筋書
すじが
きに
書
か
かれたように、ほとんど
同時
どうじ
に
行
おこな
われたらしいこれらのことを、
私
わたし
はまったく
覚
おぼ
えていないのです。△/
私
わたし
がどれほどの
時間
じかん
、
気
き
を
失
うしな
っていたかわかりませんが、
気
き
がついたとき、
昔
むかし
テレビでやっていた「ベンケーシー」のタイトルバックのシーンのように、
廊下
ろうか
を
別室
べっしつ
に
向
む
かって
移動
いどう
中
ちゅう
でした。▽
小山
こやま
さんが
準備
じゅんび
した
病室
びょうしつ
に
入
はい
ると、
梅原
うめはら
先生
せんせい
が
鶴
づる
の
嘴
くちばし
に
似
に
たものを
私
わたし
の
右
みぎ
の
穴
あな
から
入
い
れようとしますが
入
はい
りません。
以前
いぜん
からそう(p.169)なのですが、ヘソマガリ
男
おとこ
は
鼻
はな
も
穴
あな
まで
曲
ま
がっているとみえて、
右
みぎ
からはマーゲンチューブでさえ
通
とお
りづらいのです。そこで
九
きゅう
階
かい
東
ひがし
のベンケーシーは、
私
わたし
の
口
くち
をこじあけ、
鶴
づる
の
嘴
くちばし
をつっこんだのです。おそらく
気管
きかん
に
達
たっ
するように
口
くち
の
中
なか
に
刺
さ
し
込
こ
まれた
鶴
づる
の
嘴
くちばし
が<ソーカン>というものだったのでしょう。
口
くち
の
中
なか
に
収
おさ
まった<挿管>に、△すばやく
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
が
接続
せつぞく
されると
呼吸
こきゅう
が
楽
らく
になり、
文字通
もじどお
り
生
い
き
返
かえ
ったような
気
き
がしました。」(
知
ち
本
ほん
[1993:168-170]、チアノーゼは
血液
けつえき
中
ちゅう
の
酸素
さんそ
不足
ふそく
によって
皮膚
ひふ
が
青黒
あおぐろ
くなること)
<
略
りゃく
>
[172]
菅原
すがわら
和子
かずこ
[36]は
一
いち
九
きゅう
七
なな
九
きゅう
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
一
いち
九
きゅう
八
はち
〇
年
ねん
四
よん
月
がつ
二
に
二
に
日
にち
「
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
のため、
県立
けんりつ
中央
ちゅうおう
病院
びょういん
第
だい
一
いち
内科
ないか
に
二
に
度
ど
めの
入院
にゅういん
をした。/
入院
にゅういん
時
じ
、
胸
むね
のレントゲン
写真
しゃしん
を
撮
と
られたところまでは
覚
おぼ
えているが、その
後
ご
のことははっきりしない。
母
はは
の
話
はなし
によると、
二
に
二
に
日
にち
夜
よる
、
急
きゅう
に
痰
たん
がつまって
苦
くる
しがり、
全身
ぜんしん
チアノーゼをきたしたため、
夜勤
やきん
の
看護
かんご
婦
ふ
さんが
大急
おおいそ
ぎで
吸引
きゅういん
し、すぐに
先生
せんせい
に
連絡
れんらく
、
主治医
しゅじい
の
鈴木
すずき
先生
せんせい
と
麻酔
ますい
科
か
の
先生
せんせい
が
駆
か
けつけ、
私
わたし
を
眠
ねむ
らせて
鼻
はな
から
管
かん
を
入
い
れ、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
取
と
り
付
つ
けたという。▽あまりのものものしさに、
家族
かぞく
は、
私
わたし
がもうダメではないかと
思
おも
ったそうだ。△」(
菅原
すがわら
[1989:22]、この
時
とき
の
経験
けいけん
を
記
しる
した
別
べつ
の
文章
ぶんしょう
として
菅原
すがわら
[1987:83])
<
略
りゃく
>
[173]
土屋
つちや
融
とおる
[89]は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
二
に
月
がつ
発症
はっしょう
、
八
はち
月
がつ
山梨
やまなし
県立
けんりつ
中央
ちゅうおう
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
診察
しんさつ
・
入院
にゅういん
。
十
じゅう
月
がつ
十
じゅう
五
ご
日
にち
「このところ
呼吸
こきゅう
が
苦
くる
しく、
肩
かた
で
息
いき
をするようになった。」、
二
に
九
きゅう
日
にち
「
数日
すうじつ
前
まえ
から
呼吸
こきゅう
が
十分
じゅうぶん
出来
でき
ないと
困
こま
るので、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
をつけなければという
話
はなし
は
聞
き
かされていた。」(p.177)
十
じゅう
一
いち
月
がつ
一
いち
日
にち
「
昨晩
さくばん
も
電気
でんき
が
赤
あか
く
見
み
え、
様子
ようす
が
変
へん
だった。▽
夜
よる
の
九
きゅう
時
じ
過
す
ぎに
汗
あせ
をびっしょりかいて
困
こま
っていたところ、
看護
かんご
婦
ふ
さんが
来
き
てきれいに
拭
ふ
いてくれた。それまでの
不快
ふかい
感
かん
が
吹
ふ
っ
飛
と
んでしまい、その
後
ご
すぐ△
眠
ねむ
ってしまった。/そして
二
に
十
じゅう
四
よん
時
じ
間
あいだ
意識
いしき
を
失
うしな
っていた。その
間
あいだ
のことを、
後
のち
に
家族
かぞく
から
聞
き
いた
様子
ようす
が
次
つぎ
のとおり。/
午前
ごぜん
六
ろく
時
じ
頃
ごろ
、
妻
つま
が
様子
ようす
が
変
へん
なのに
気
き
が
付
つ
き、「
看護
かんご
婦
ふ
さんにすぐ
来
き
てもらい、
緊急
きんきゅう
の
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
をしてもらった。[…]
十
じゅう
時
じ
過
す
ぎ、どうやら
鼻
はな
に
呼吸
こきゅう
器
き
をつけることができた。しかし、
血圧
けつあつ
が
極端
きょくたん
に
下
さ
がってしまい、
危篤
きとく
の
状態
じょうたい
になった。」(p.178)
八
はち
日
にち
「
呼吸
こきゅう
器
き
を
鼻
はな
からつけていたのを
気管
きかん
へつなげるため、
緊急
きんきゅう
に
切開
せっかい
手術
しゅじゅつ
をし、カニョーレ(
管
かん
)を
入
い
れる。」(
土屋
つちや
[1993:176-179])「
少
すこ
し
早
はや
めに
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
したほうがいいからと、
主治医
しゅじい
の
石原
いしはら
先生
せんせい
が、
一般
いっぱん
に
考
かんが
えられる
進行
しんこう
速度
そくど
よりずっと
早
はや
目
め
に
準備
じゅんび
してくださっていた
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を、
十一月
じゅういちがつ
一
いち
日
にち
の
午前
ごぜん
九
きゅう
時
じ
につけようとしていたのに、その
日
ひ
の
早朝
そうちょう
に、
自発
じはつ
呼吸
こきゅう
が
止
と
まってしまうという、
考
かんが
えられぬスピードで
病状
びょうじょう
は
進行
しんこう
した。」(
土屋
つちや
[1993:190]、
姉
あね
の
深尾
ふかお
恭子
きょうこ
の
述懐
じゅっかい
)
<
略
りゃく
>
■
家族
かぞく
が
尋
たず
ねられる
<
略
りゃく
>
[174]
室谷
むろたに
恭子
きょうこ
(
長野
ながの
県
けん
)は
母
はは
のことについて
尋
たず
ねられた。「
呼吸
こきゅう
器
き
については、かなり
状態
じょうたい
が
悪化
あっか
してから
主治医
しゅじい
の
説明
せつめい
があったので、
様子
ようす
を
見
み
ながらゆっくり
考
かんが
えるということができませんでした。しかし、たとえどんなに
期間
きかん
があったにせよ、
私
わたし
の
答
こたえ
は
変
か
わらなかったと
思
おも
っております。/[…]/このまま
母
はは
が
呼吸
こきゅう
器
き
を
使用
しよう
し
療養
りょうよう
していくとなると、
当然
とうぜん
その
期間
きかん
は
長
なが
くなりその
母
はは
を
置
お
いて
私
わたし
が
家
いえ
を
出
で
るというのは
少
すこ
し
無理
むり
、というより
自分
じぶん
自身
じしん
そんな
思
おも
いをしてまで
結婚
けっこん
はできないという
気持
きも
ちでした。/やはり
家族
かぞく
や
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
にしてみると、そこまでしなくてもということがあったのかも
知
し
れません。でも、
私
わたし
のためにせっかく
助
たす
かる
命
いのち
をそのまま
終
お
わらせることはどう
考
かんが
えてみても
納得
なっとく
がいかず、そうかといって
本人
ほんにん
にどうするか
聞
き
くのも
憚
はばか
かられ、はっきりとした
答
こた
えの
出
で
ぬまま”その
日
ひ
”を
迎
むか
えることになったのです。/
意識
いしき
を
無
な
くした
母
はは
を
前
まえ
にして
最終
さいしゅう
的
てき
な
選択
せんたく
をせざるを
得
え
なかったわけですが、
動転
どうてん
している
父
ちち
や
弟
おとうと
に
比
くら
べ、
私
わたし
は
不思議
ふしぎ
と
冷静
れいせい
でした。「
呼吸
こきゅう
器
き
をつければ
助
たす
かるのだ」──もうそれしか
頭
あたま
になかったのです。」(
室谷
むろたに
[1991:33])
[175]
土居
どい
巍
たかし
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
、
妻
つま
の
土居
どい
喜久子
きくこ
のことについて
主治医
しゅじい
から
話
はなし
を
聞
き
いている。
五月
ごがつ
十
じゅう
五
ご
日
にち
「の
何
なん
日
にち
か
前
まえ
、
巍
たかし
さんとお
話
はな
ししています。この
先
さき
、そう
遠
とお
くない
将来
しょうらい
、
呼吸
こきゅう
がとまる
可能
かのう
性
せい
があります、と。
巍
たかし
さんは
何
なに
とか
助
たす
けてやってほしいとおっしゃいました。」(
山本
やまもと
[1998:225]、
当時
とうじ
大分
おおいた
協和
きょうわ
病院
びょういん
医長
いちょう
)
<
略
りゃく
>
[176]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
一
いち
年
ねん
「
五
ご
月
がつ
十
じゅう
五
ご
日
にち
、
私
わたし
は
妻
つま
の
呼吸
こきゅう
停止
ていし
に
気
き
づかず、
一大事
いちだいじ
を
迎
むか
えることになりました。[…]ただちに
口
くち
に
酸素
さんそ
吸入
きゅうにゅう
器
き
が
入
い
れられ、
集中
しゅうちゅう
治療
ちりょう
室
しつ
(ICU)に
移
うつ
されました。…ほっとしたのもつかの
間
ま
、…
酸素
さんそ
吸入
きゅうにゅう
の
器具
きぐ
をいつまでも
口
くち
にくわえているわけにはいきません。
妻
つま
も
苦
くる
しそうで、
四
よん
六
ろく
時
じ
口
こう
を
開
あ
けていますので
唾液
だえき
は
流
なが
れっぱなしになり、
顎
あご
もはずれそうでした。
妻
つま
は、/「もう
限界
げんかい
だから、
死
し
んでもいいからはずしてほしい」/と
必死
ひっし
で
訴
うった
えてきます。
山本
やまもと
先生
せんせい
は
気管
きかん
切開
せっかい
の
説明
せつめい
をしてくださいました。/
気管
きかん
切開
せっかい
をすると、
呼吸
こきゅう
ははるかに
楽
らく
になるが、
口
くち
からは
食
た
べられなくなり、
声
こえ
も
出
で
なくなる。
手術
しゅじゅつ
はさほどむずかしいものではなく、
心配
しんぱい
は
要
い
らない。
同時
どうじ
に
胃
い
ろうの
手術
しゅじゅつ
もしたほうがいい。
先生
せんせい
のお
話
はなし
はおよそそういうものでした。/
生
い
きるか
死
し
ぬかの
境
さか
い
目
め
にいる
妻
つま
を
前
まえ
に、
手術
しゅじゅつ
をするかいなか、
承諾
しょうだく
をえたのかどうかの
記憶
きおく
ははっきりしません。けれども、
妻
つま
が
少
すこ
しでも
生
い
きていく
手立
てだ
てを
考
かんが
えたら、
手術
しゅじゅつ
をするしかないと
私
わたし
は
思
おも
いました。あとは
成功
せいこう
を
心
しん
から
祈
いの
るのみです。」(
土居
どい
・
土居
どい
[1998:40])
<
略
りゃく
>
[177]
小林
こばやし
富美子
とみこ
[103]は、
自分
じぶん
では
呼吸
こきゅう
器
き
をつけないつもりだった。そのことがどれほど
家族
かぞく
に
知
し
られていたかはわからない。
苦
くる
しく
意識
いしき
が
朦朧
もうろう
とした
状態
じょうたい
のもとで
救急
きゅうきゅう
に
同意
どうい
したらしく、
本人
ほんにん
の
意識
いしき
のない
状態
じょうたい
で
子
こ
どもたちが
呼吸
こきゅう
器
き
の
装着
そうちゃく
を
決
き
めた。「
自分
じぶん
で
死
し
を
選
えら
べないなら、せめて
食事
しょくじ
が
細
ほそ
くなり、
体力
たいりょく
がなくなれば、
自然
しぜん
と
静
しず
かな
眠
ねむ
りにつけると
思
おも
い、ひそかに
頑張
がんば
ってきたつもりです。/でも
息苦
いきぐる
しくなり、
手足
てあし
が
冷
つめ
たくなって、
意識
いしき
がもうろうとしてきました。あれほどこい
願
ねが
っていた
死
し
がすぐそこまでやってきたというのに、
苦
くる
しさには
耐
た
えられず、
救急
きゅうきゅう
車
しゃ
で
病院
びょういん
へ……。▽
最後
さいご
に
耳
みみ
にした
声
こえ
は、
先生
せんせい
と
看護
かんご
婦
ふ
さんのかすかな
言葉
ことば
でした。/△[…]
先生
せんせい
は、このままの
状態
じょうたい
にしておくか、それとも
気管
きかん
切開
せっかい
するかと、
息子
むすこ
の
章浩
あきひろ
にたずねられたそうです。のどに
穴
あな
をあけて、
直接
ちょくせつ
レスピレーター(
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
)につなげば、あと
何
なん
年
ねん
かは
生
い
きられる。
声
こえ
は
出
で
なくなるけれど、
飲
の
んだり
食
た
べたりすることもできる、と。/
子
こ
どもたちは
父
ちち
を
失
うしな
ったばかりで、
私
わたし
にはどんな
状態
じょうたい
でも
生
い
きていてほしいと
思
おも
い、
即座
そくざ
に
手術
しゅじゅつ
をお
願
ねが
いしたそうです。▽(p.106)/
目
め
を
覚
さ
ました
時
とき
、
私
わたし
はのどに
管
かん
を
差
さ
し
込
こ
まれ、
二
に
本
ほん
のホースで
横
よこ
の
器械
きかい
につながれ、
呼吸
こきゅう
をしていました。
傍
はた
には
子
こ
どもたちの
顔
かお
がありました。その
顔
かお
にホッと
安堵
あんど
の
色
いろ
が
浮
う
かぶのを
見
み
た
時
とき
、
私
わたし
は、
生
い
き
返
かえ
ったのだ、と
思
おも
いました。その
間
あいだ
、どれだけ
空白
くうはく
の
時
とき
があったのか、
何一
なにひと
つ
覚
おぼ
えていません。/
生
い
きてしまった……。
自分
じぶん
に
問
と
いつめる。これで
良
よ
かったのかと……。
答
こた
えは?……/やはり、
生
い
きていてよかった。
私
わたし
の”
宝
たから
”であり、
希望
きぼう
である
子
こ
どもたちと
一緒
いっしょ
に
生
い
きていられる
素晴
すば
らしさを、
何
なん
倍
ばい
にも
強
つよ
く
感
かん
じています。/
私
わたし
は
本当
ほんとう
に
幸
しあわ
せです。でも、
子
こ
どもたちはどうでしょう?
聞
き
いてみたいけど、
聞
き
けません。」(
小林
こばやし
[1987:106-107])
別
べつ
の
文章
ぶんしょう
では
次
つぎ
のように
書
か
かれる。「
自分
じぶん
はもう
時間
じかん
の
問題
もんだい
だと
思
おも
っていました。/
飲
の
み
込
こ
みもできず、
夜
よる
も
眠
ねむ
れない
日
ひ
が
三
さん
日
にち
続
つづ
いた
翌日
よくじつ
、
意識
いしき
もうろうとしてきて、
望
のぞ
んだ
死
し
が
目前
もくぜん
にきたときでした。/
子供
こども
の
声
こえ
がかすかに、
病院
びょういん
へ?
救急
きゅうきゅう
車
しゃ
?
苦
くる
しまぎれにうなずいたのでしょう。その
後
ご
は
何
なに
もわからず。/
七
なな
日
にち
後
ご
意識
いしき
をとりもどした
時
とき
は、
器械
きかい
につながれて
生
い
きていました。レスピレーターがあることさえ、だれも
知
し
らず。
先生
せんせい
の
説明
せつめい
を
聞
き
き、たいへんさを
承知
しょうち
で
子供
こども
が
私
わたし
の
命
いのち
の
選択
せんたく
をしたそうです。▽/[…]
死
し
だけ
考
かんが
えた
私
わたし
もレスピレーターを
装着
そうちゃく
して、もう
七
なな
年
ねん
になります。/
今
いま
では、
生
い
きていてほんとによかった。
一
ひと
つしかない
命
いのち
を
粗末
そまつ
にせずよかった。
子供
こども
達
たち
に
救
すく
ってもらった
命
いのち
大切
たいせつ
にしたい。ただ
生
い
きていてはすまない。
病気
びょうき
に
負
ま
け、
病人
びょうにん
になりたくない。
身体
しんたい
はだめでも、
母
はは
として
生
い
きたい。△」(
小林
こばやし
[1991:34])
[178]
長尾
ながお
義明
よしあき
[50][139]は、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
十二月
じゅうにがつ
七
なな
日
にち
、「
自宅
じたく
で
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
になり、
徳島
とくしま
市内
しない
の
病院
びょういん
に
入院
にゅういん
してから
二
に
カ月
かげつ
余
あまり
。▽
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
(
平成
へいせい
五
ご
)
年
ねん
十二月
じゅうにがつ
七
なな
日
にち
夕
ゆう
[…]
長尾
ながお
義明
よしあき
[…]の△
呼吸
こきゅう
は
再
ふたた
び
止
と
まった。
全身
ぜんしん
がけいれんし、
付
つ
き
添
そ
う
妻
つま
の
美津子
みつこ
(
五
ご
三
さん
)らが
手足
てあし
を
押
お
さえる。「みんな、こうして
死
し
んでいくのか」。
小指
こゆび
の
先
さき
ほどの
便
びん
が
出
で
たような
気
き
もする。やがて
意識
いしき
が
薄
うす
れた。▽/
義明
よしあき
が
入院
にゅういん
した
当初
とうしょ
、
美津子
みつこ
は
病院
びょういん
の
看護
かんご
婦
ふ
に「
救急
きゅうきゅう
車
しゃ
の
中
なか
で
息
いき
を
引
ひ
き
取
と
ってくれていたら…。お
父
とう
さんのためにも、その
方
ほう
が
良
よ
かったのでは…」ともらしたことがある。「
余命
よめい
は
三
さん
年
ねん
」と
徳
とく
大
だい
付属
ふぞく
病院
びょういん
の
医師
いし
に
告
つ
げられてから、すでに
三
さん
年
ねん
がたっていた。△/[…]/どうせ
長
なが
く
生
い
きられないのなら(
手術
しゅじゅつ
で)
切
き
ったりはったりして
無理
むり
に
延命
えんめい
させるより、きれいな
体
からだ
のままいかせてあげたい」と
美津子
みつこ
は
思
おも
い、
義明
よしあき
自身
じしん
もそう
望
のぞ
んでいた。/しかし、いざ
義明
よしあき
が
危篤
きとく
状態
じょうたい
になると、そんな
考
かんが
えは
吹
ふ
き
飛
と
んだ。「どうにかして」と
叫
さけ
び、
義明
よしあき
の
足
あし
にしがみ
付
つ
いた。[…]それからのことは
美津子
みつこ
の
記憶
きおく
にない。/[…]/
一時
いちじ
的
てき
に
救命
きゅうめい
できたものの
呼吸
こきゅう
機能
きのう
の
低下
ていか
は
明
あき
らかで、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けないと
生
い
きるのが
難
むずか
しい
状況
じょうきょう
になった。
同
どう
十
じゅう
日
にち
、
気管
きかん
を
切開
せっかい
し
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
。」(『
徳島
とくしま
新聞
しんぶん
』[2000])
<
略
りゃく
>
■
本人
ほんにん
が
決
き
める
[179]
杉山
すぎやま
進
すすむ
[44]、
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
に
発症
はっしょう
、
九
きゅう
一
いち
年
ねん
九
きゅう
月
がつ
、「
一
いち
日
にち
に
数時間
すうじかん
、
呼吸
こきゅう
苦
く
が
襲
おそ
うようになってきた。
食
た
べ
物
もの
も
飲
の
み
物
もの
も、まったく
飲
の
みこめない。」
十
じゅう
月
がつ
三
さん
日
にち
「
妻
つま
が
病院
びょういん
に
行
い
ってみたら、と
勧
すす
める。
特別
とくべつ
な
車
くるま
でないと
移動
いどう
できなくなっていたので、
電話
でんわ
で
車
くるま
の
都合
つごう
を
聞
き
くと、たまたま
次
つぎ
の
日
ひ
が
空
あ
いていたので
予約
よやく
をした。」
四
よん
日
にち
「
順
じゅん
天堂
てんどう
病院
びょういん
に
着
つ
くと、それまで
耐
た
えていたものが
一
いち
度
ど
に
崩
くず
れ
去
さ
る。
中島
なかじま
先生
せんせい
が
自分
じぶん
の
喉
のど
に
人
ひと
さし
指
ゆび
を
置
お
き、「やるか」と
聞
き
く。
私
わたし
は
何
なに
のためらいもなくうなずいた。」
五
ご
日
にち
「
気管
きかん
切開
せっかい
をすると
同時
どうじ
に、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
ける。」(
杉山
すぎやま
[1998:36-37])
[180]
橋本
はしもと
みさお
[153][160]。「ALSの
病状
びょうじょう
が
進
すす
むと、
気管
きかん
切開
せっかい
の
選択
せんたく
を
迫
せま
られます。(
例外
れいがい
的
てき
に、
選択肢
せんたくし
さえ
提示
ていじ
されない
場合
ばあい
があります)/
私
わたし
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
十
じゅう
月
がつ
に
気管
きかん
切開
せっかい
して、
翌年
よくねん
一
いち
月
がつ
に
呼吸
こきゅう
器
き
をつけましたが、ほかの
患者
かんじゃ
さんのようなドラマチックな
選択
せんたく
ではありませんし、なにより
生
い
きることだけ
考
かんが
えていましたので、
迷
まよ
いなどはありませんでした。」(
橋本
はしもと
[1998?])
[181]
奥村
おくむら
敏
さとし
[170]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
三
さん
年
ねん
。「
気管
きかん
切開
せっかい
については、
声
こえ
を
奪
うば
われ、
楽
たの
しみの
一
ひと
つでもある
家族
かぞく
とのコミュニケーションが
取
と
れなくなると
言
い
うことが、
私
わたし
にとっては
耐
た
えられないくらい
嫌
いや
だったために
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
になるまではしないつもりでした。
命
いのち
にかかわってくればもちろん
気管
きかん
切開
せっかい
し
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
してでも、
残
のこ
された
命
いのち
を
精一杯
せいいっぱい
家族
かぞく
と
一緒
いっしょ
に
頑張
がんば
るつもりだったので、
覚悟
かくご
もしていたのでまったくショックはなかったとは
言
い
いませんが、
別
べつ
に
自分
じぶん
自身
じしん
そんなに
動揺
どうよう
することはありませんでした。」(
奥村
おくむら
[1995])
[182]
平間
ひらま
愛
あい
(
北海道
ほっかいどう
)、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
五
ご
年
ねん
、
二
に
〇
歳
さい
。「▽
自分
じぶん
で
呼吸
こきゅう
するのがかなり
困難
こんなん
で、
右足
みぎあし
を
常
つね
に
激
はげ
しく
動
うご
かさないと
呼吸
こきゅう
をする
事
こと
が
難
むずか
しく、
私
わたし
の
命
いのち
がかかった
大事
だいじ
な
右足
みぎあし
でしたが
疲労
ひろう
がつのり、△まさに
究極
きゅうきょく
の
選択
せんたく
をする
事
こと
になりました。/
生
なま
と
死
し
、あなたはどちらを
選
えら
びますか?/
十二月
じゅうにがつ
八
はち
日
にち
、
私
わたし
は
呼吸
こきゅう
器
き
をつけました。」(
平間
ひらま
[1997?])
「▽
夜
よる
は、バイパップという
呼吸
こきゅう
補助
ほじょ
の
機械
きかい
を
使
つか
いました。
頭
あたま
から
帽子
ぼうし
のようなものを
被
こうむ
り
口
こう
にマスクをつけて
寝
ね
る、それが
苦
くる
しくて
嫌
いや
でたまらない、でも
付
つ
けないで
寝
ね
ると
朝
あさ
目覚
めざ
めた
瞬間
しゅんかん
から
酸素
さんそ
不足
ふそく
で
頭痛
ずつう
がひどく
体
からだ
もストライキを
起
お
こしてしまう。/ALSを
嫌
いや
というほど
感
かん
じる
時
とき
でした。/ある
日
ひ
、
私
わたし
は、とうとう
意識
いしき
を
失
うしな
いましたが
幸
さいわ
いなことにすぐ
意識
いしき
は
戻
もど
りました。/[…]/それでもまだ
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けずに
生活
せいかつ
できる
状態
じょうたい
をかろうじて
保
たも
ち、バイパップとともに
期限
きげん
付
づけ
の
退院
たいいん
をすることもできました。/でも△
呼吸
こきゅう
器
き
をつけていない
私
わたし
は、いつなにがおきてもおかしくない
状態
じょうたい
でした。/
難病
なんびょう
ですから、どこで
療養
りょうよう
しても
同
おな
じこと、ならば
家族
かぞく
の
中
なか
で
暮
く
らしたいと
思
おも
いましたが、
安心
あんしん
して
在宅
ざいたく
生活
せいかつ
を
送
おく
るためには
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
け、
命
いのち
には、
影響
えいきょう
のない
身体
しんたい
にならなくてはならなかったのです。▽/ここからがながーい
入院
にゅういん
生活
せいかつ
のスタート。/△
自発
じはつ
呼吸
こきゅう
もかなり
弱
よわ
くなった
私
わたし
は、
勝手
かって
にあーこりゃもう
死
し
ぬな、
死
し
ぬにはまだ
若
わか
い……そうだ
呼吸
こきゅう
器
き
をつけよう!と
思
おも
い
呼吸
こきゅう
器
き
をつけることになったのです。▽/
呼吸
こきゅう
器
き
をつけるに
当
あ
たって、
色々
いろいろ
な
説明
せつめい
を
受
う
けました。
看護
かんご
婦
ふ
さんからは、「たいていは
慣
な
れるまで
苦
くる
しいこともあるよ」と
言
い
われるし、
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
からは
本
ほん
を
渡
わた
され
色々
いろいろ
な
現実
げんじつ
を
知
し
ることに。きわめつけは、「
外科
げか
の
先生
せんせい
が
切開
せっかい
しやすい
喉
のど
だと
言
い
ってたよ。
声
こえ
は
失
うしな
うけど
大丈夫
だいじょうぶ
!」と
麻酔
ますい
科
か
の
先生
せんせい
。/
全身
ぜんしん
麻酔
ますい
をかけられ
目覚
めざ
めたときは
呼吸
こきゅう
器
き
がついていました。
地獄
じごく
から
抜
ぬ
け
出
で
たまさに
天国
てんごく
、
毎日
まいにち
のように
味
あじ
わっていたあの
苦
くる
しみから
解放
かいほう
されたんです。
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けたことに
喜
よろこ
びを
感
かん
じました。
私
わたし
は、これで
命
いのち
には
何
なに
も
影響
えいきょう
のない
体
からだ
になったわけです!こうなりゃたかがALS!
呼吸
こきゅう
器
き
をつけた
事
こと
によって
身体
しんたい
も
楽
らく
で
命
いのち
も
元気
げんき
を
取
と
り
戻
もど
しました。そのかわり
声
こえ
を
失
うしな
い、
食
た
べることも
無理
むり
になりました。△」(
平間
ひらま
[1998?])
<
略
りゃく
>
[183]
関口
せきぐち
和子
かずこ
(
新潟
にいがた
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
七
なな
年
ねん
一
いち
月
がつ
に
症状
しょうじょう
を
自覚
じかく
、
七
なな
月
がつ
に
夫
おっと
に
告知
こくち
、
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
七
なな
月
がつ
、「A
先生
せんせい
が
私
わたし
の
到着
とうちゃく
を
待
ま
っていたかのように
病室
びょうしつ
に
来
き
て
病状
びょうじょう
について
話
はな
す。そのあと
担当
たんとう
のA
看護
かんご
婦
ふ
さんが
改
あらた
めて
和子
わこ
に
呼吸
こきゅう
機
き
を
使用
しよう
するかどうかの
意思
いし
確認
かくにん
。F
副
ふく
婦長
ふちょう
も
後半
こうはん
同席
どうせき
。/「
痛
いた
い
目
め
にあってつらかったから、
気道
きどう
の
手術
しゅじゅつ
はしたくない」という
答
こた
え。」(
関口
せきぐち
[2001:179])
九
きゅう
月
がつ
七
なな
日
にち
「
和子
わこ
が
朝
あさ
ボードを
使
つか
って「
呼吸
こきゅう
機
き
は
使
つか
わない。その
訳
わけ
は、
頭
あたま
も
器具
きぐ
の
当
あ
たりによっては
痛
いた
くなるし、
首
くび
も
左右
さゆう
に
動
うご
かしてもらわないと
痛
いた
いし、
肩
かた
甲
かぶと
骨
こつ
も
当
あ
たり
具合
ぐあい
で
痛
いた
い。お
尻
しり
も
腰
こし
も
当
あ
たり
具合
ぐあい
で
痛
いた
い。
脚
あし
も
膝
ひざ
を
曲
ま
げてばかりいると
苦
くる
しい。
伸
の
ばしてばかりいるとかかとが
痛
いた
い。こんな
状態
じょうたい
なので、
機械
きかい
の
力
ちから
を
借
か
りてまでベッドで
生活
せいかつ
を
続
つづ
けたくない」と
訴
うった
える。[…]
私
わたし
としては
言
い
う
言葉
ことば
もない。」(
関口
せきぐち
[2001:193-194])「
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
や
看護
かんご
婦
ふ
さんたちが
何
なん
回
かい
聞
き
いても、
呼吸
こきゅう
機
き
を
使
つか
うことを
和子
わこ
は
最後
さいご
まで
拒否
きょひ
し
続
つづ
けた。
私
わたし
が
濡
ぬ
らした
脱脂綿
だっしめん
で
二
に
回
かい
口
こう
を
拭
ふ
いたあと、
和子
わこ
が
固
かた
く
口
くち
を
結
むす
んだためそれ
以上
いじょう
口
くち
を
拭
ふ
けなくなったことには、
和子
わこ
の
強
つよ
い
意志
いし
があったのではなかったのか。」(
関口
せきぐち
[2001:341-342])その
理由
りゆう
は
痛
いた
みだけだったのかと
夫
おっと
の
関口
せきぐち
和夫
かずお
は
考
かんが
える。
後
あと
でまた
引用
いんよう
するだろう。
■
変化
へんか
<
略
りゃく
>
[184]
和
わ
中勝
なかがち
三
さん
[155][163]は、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
十
じゅう
月
がつ
に
天理
てんり
よろづ
相談所
そうだんしょ
を「
退院
たいいん
する
時
とき
に
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
から、
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
近畿
きんき
ブロックの
存在
そんざい
と、
近畿
きんき
ブロック
会報
かいほう
を
教
おし
えて
頂
いただ
きました。/
退院
たいいん
後
ご
すぐに
協会
きょうかい
にはがきを
出
だ
して
会報
かいほう
を
送
おく
ってもらいましたが、
少
すこ
し
開
ひら
いて
見
み
て
写真
しゃしん
を
見
み
ると、
皆
みな
さん
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
けている
姿
すがた
ばかりで、
私
わたし
も
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
けるのかと
思
おも
うと、
早
はや
く
死
し
ぬ
方
ほう
がましだと
思
おも
い
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
けるのは
嫌
いや
だと
拒否
きょひ
しました。」(
和
わ
中
ちゅう
[1999?])
ALSという
状況
じょうきょう
を
共有
きょうゆう
する
人
ひと
たちの
集
あつ
まりのもつ
積極
せっきょく
的
てき
な
意味
いみ
をこれから
何
なん
度
ど
も
見
み
ることになるが、
同時
どうじ
に、その
深刻
しんこく
さが
受
う
け
止
と
められ、
近
ちか
い
将来
しょうらい
の
自分
じぶん
が
予想
よそう
され、
気持
きも
ちを
萎
な
えさせることもある。
病
やまい
の
人
ひと
たちの
組織
そしき
の
可能
かのう
性
せい
と
困難
こんなん
を
考
かんが
えるとき、このことを
想起
そうき
することになるだろう。
九
きゅう
四
よん
年
ねん
「
十二月
じゅうにがつ
に
気管支炎
きかんしえん
になり[…]
診察
しんさつ
を
受
う
けました。[…]
私
わたし
は、この
時
とき
に
初
はじ
めて
呼吸
こきゅう
の
苦
くる
しさを
体験
たいけん
しました。この
時
とき
から、
呼吸
こきゅう
に
危機
きき
感
かん
を
感
かん
じるようになり
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
けるか、
着
つ
けないかで
悩
なや
み
苦
くる
しみました。
私
わたし
は、まだ
呼吸
こきゅう
器
き
を
着
つ
ける
自信
じしん
がなくて
拒否
きょひ
していました。
自分
じぶん
でも
病気
びょうき
の
進行
しんこう
が
手
て
に
取
と
るように
分
わ
かり、
自分
じぶん
の
最後
さいご
の
時
とき
が
見
み
えてきたような
気
き
がして、
最後
さいご
は、
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
襲
おそ
われ、のたうちまわって
苦
くる
しんで
死
し
ぬのかと
思
おも
うと、
死
し
ぬのが
怖
こわ
くなってきました。/[…]/
肺活量
はいかつりょう
二
に
五
ご
〇〇mlに
低下
ていか
、
常
つね
に
息苦
いきぐる
しさを
感
かん
じるようになってきました。/
妻
つま
と
子供
こども
達
たち
に
介護
かいご
のお
願
ねが
いをして
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
ける
決心
けっしん
する。」(
和
わ
中
ちゅう
[1999?])
「
呼吸
こきゅう
が
苦
くる
しくなってくると、
一時
いちじ
は
格好
かっこう
よく
死
し
にたいと
思
おも
った
事
こと
がありましたが、だんだんと
息苦
いきぐる
しさが
増
ま
してくると、
死
し
ぬのが
恐
こわ
くなり、
生
い
きたいとの
思
おも
いが
強
つよ
くなりました。」「
気管
きかん
切開
せっかい
する
時
とき
は、
本当
ほんとう
に
情
なさ
けなく
思
おも
い
涙
なみだ
が
出
で
ました。
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
すると、
今
いま
まで、
苦
くる
しかったのがウソのようになり、もっと
早
はや
く
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
すればよかったと
後悔
こうかい
しました。」(
和
わ
中
ちゅう
[1999?])
[185]
大川
おおかわ
達
いたる
[66]の
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
の
文章
ぶんしょう
。「
胸
むね
を
押
お
している
時
とき
(
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
のこと)、
眠
ねむ
ったり、
呼吸
こきゅう
が
止
と
まったらそのまま
起
お
こすな。(
六
ろく
月
がつ
十
じゅう
八
はち
日
にち
)/この
頃
ころ
新幹線
しんかんせん
に
乗
の
っているようで
進行
しんこう
も
早
はや
い。
皆
みな
にも
会
あ
ったし
有
あ
り
難
がた
い。これ
以上
いじょう
進行
しんこう
すると、ノド
切開
せっかい
して
延命
えんめい
の
方法
ほうほう
もあるが、
自分
じぶん
は
切開
せっかい
しないからよろしく
頼
たの
む。/
家族
かぞく
もよく
頑張
がんば
ってくれたがこの
山
やま
の
峠
とうげ
は
遠
とお
すぎた。
自分
じぶん
だけ
引
ひ
き
返
かえ
し、
家族
かぞく
に
別
べつ
の
峠
とうげ
を
越
こ
してもらう。
何
なに
かと
世話
せわ
になった。
一杯
いっぱい
のビールを
飲
の
みたかったな。
頑張
がんば
るよ。
自分
じぶん
で
何
なに
もできん。(
六
ろく
月
がつ
十
じゅう
九
きゅう
日
にち
)/
古江
ふるえ
(
故郷
こきょう
)の
墓
はか
に
入
はい
る。
早
はや
く
行
い
きたいわ。さようなら。(
六
ろく
月
がつ
二
に
十
じゅう
日
にち
)/
気管
きかん
切開
せっかい
は
呼吸
こきゅう
器
き
をつけることか?
部屋
へや
を
冷
つめ
たくして、
水分
すいぶん
を
十分
じゅうぶん
に
取
と
れば
少
すこ
しは
楽
らく
になる。(
六
ろく
月
がつ
二
に
十
じゅう
五
ご
日
にち
)/
切開
せっかい
しても、あとしれているからやめた。
苦
くる
しいのは
二
に
分
ふん
や、
仕方
しかた
ない。
先生
せんせい
らに
大変
たいへん
お
世話
せわ
になり
有
あ
り
難
がた
い。おれの
命
いのち
だから、おまえらがあまり
命乞
いのちご
いするなよ。
胸
むね
押
お
すようになってから
一
いち
か
月
げつ
の
命
いのち
や、
頑張
がんば
ってくれ。(
六
ろく
月
がつ
二
に
十
じゅう
六
ろく
日
にち
)/おまえたちのことをかんがえて、あまりにもなげやりになっていた つかれもでたからこれからむりだとおもう いみがちがう のどきってがんばるか なるべくじたくかいごお
願
ねが
いします。(
六
ろく
月
がつ
二
に
十
じゅう
七
なな
日
にち
)」(
豊浦
とようら
[1996:45])
二
に
七
なな
日
にち
に
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
で
緊急
きんきゅう
入院
にゅういん
、
即
そく
気管
きかん
切開
せっかい
、
二
に
九
きゅう
日
にち
に
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
。
<
略
りゃく
>
[186]「
先々
さきざき
、
手足
てあし
が
動
うご
かなくなり
声
ごえ
も
出
で
なくなったらどうしようと、そのことを
考
かんが
えるだけで
身震
みぶる
いするほど
恐怖
きょうふ
心
しん
に
襲
おそ
われたが、さりとて
自殺
じさつ
するほどの
勇気
ゆうき
はない」(
松本
まつもと
[1995:98])と
記
しる
した[144]
松本
まつもと
茂
しげる
は
一
いち
九
きゅう
八
はち
八
はち
年
ねん
に
気管
きかん
切開
せっかい
。「
廣田
ひろた
先生
せんせい
が
血液
けつえき
を
摂
と
って
調
しら
べる。「
気管
きかん
切開
せっかい
をしましょう」とのこと。/これには
勇気
ゆうき
がいる。いろんなことが
頭
あたま
の
中
なか
を
駆
か
け
巡
めぐ
る。/
気管
きかん
切開
せっかい
しなければ、
命
いのち
はない。
死
し
ぬのはいやだ。
世間
せけん
では「
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けてまで
生
い
きなくても」という
声
こえ
もあるが、
足
あし
の
悪
わる
い
人
ひと
は
車
くるま
いすを
使
つか
うし、
他人
たにん
の
心臓
しんぞう
ももらって
生
い
きようとする
人
ひと
もいるではないか。[…]/しかし
一
いち
歩
ほ
翻
ひるがえ
って
患者
かんじゃ
の
心理
しんり
に
戻
もど
ると、
複雑
ふくざつ
な
思
おも
いに
駆
か
られる。
手
て
も
足
あし
も
動
うご
かず、
話
はな
すことも
食
た
べることもできず、この
上
うえ
さらに
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
につながれれば、もう
何
なん
の
役
やく
にも
立
た
たない
人間
にんげん
になってしまうのではないか。
存在
そんざい
価値
かち
がなく、
家族
かぞく
に
介護
かいご
で
迷惑
めいわく
ばかりかけるのなら、
死
し
ぬべきではないのか。それが
家族
かぞく
への
思
おも
いやりではないか、と
考
かんが
える。/でも
死
し
んだらすべて
終
お
わりだ。
生
い
きたい。この
世
よ
に
居
お
りたい。/[…]/「
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けたら、
最低
さいてい
五
ご
年
ねん
は
生
い
きるよ」と
妻
つま
にも
相談
そうだん
する。
妻
つま
は「
当然
とうぜん
なこと、
死
し
なせてなるものか」と
力
りき
む。ありがたくて
目頭
めがしら
が
熱
あつ
くなる。/[…]/「では、
意志
いし
の
伝達
でんたつ
ができなくなったら、
呼吸
こきゅう
器
き
をはずしてくれ」とパソコンで
伝
つた
え、
気管
きかん
切開
せっかい
に
踏
ふ
み
切
き
る。」(
松本
まつもと
[1995:48-50])
「
松本
まつもと
さんが
唯一
ゆいいつ
弱気
よわき
を
見
み
せたことがあった。
昭和
しょうわ
六
ろく
二
に
年
ねん
夏
なつ
、
気管
きかん
切開
せっかい
をするか
否
ひ
か
迷
まよ
っていた
頃
ころ
であった。「
人間
にんげん
には
尊厳
そんげん
死
し
の
権利
けんり
があるはずだ。
自然
しぜん
にこのまま
死
し
なせてほしい」と
主張
しゅちょう
された。その
時
とき
奥
おく
さんのるいさんは
納得
なっとく
せず、「まだまだ
生
い
きられるのにもったいない、たった
一
ひと
つの
人生
じんせい
でしょう。
頑張
がんば
らにゃあ」と
励
はげ
まされた。その
一言
ひとこと
で、
松本
まつもと
さんは
本気
ほんき
でALSとたたかう
決意
けつい
を
固
かた
められたのである。」(
廣田
ひろた
[1995:2]、
当時
とうじ
秋田
あきた
赤十字
せきじゅうじ
病院
びょういん
神経
しんけい
内科
ないか
部長
ぶちょう
)
「「
切
き
れば
五
ご
年
ねん
と
生
い
きる、これ
以上
いじょう
お
前
まえ
に
難儀
なんぎ
させたくない」と
夫
おっと
から
相談
そうだん
がありましたが、
呼吸
こきゅう
器
き
で
生
い
きてゆける
時代
じだい
、
現
げん
に
生
い
きている
人
ひと
もいる
時代
じだい
、
当然
とうぜん
、
生
い
きられる
限
かぎ
り
生
い
きてほしいと、
私
わたし
は
気管
きかん
切開
せっかい
を
強
つよ
く
勧
すす
めました。」(
松本
まつもと
るい[1995:297])
[187]
定
てい
金
きむ
信子
のぶこ
(
岡山
おかやま
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
八
はち
五
ご
年
ねん
五
ご
月
がつ
に
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
。「
彼
かれ
に、これ
以上
いじょう
負担
ふたん
をかけるのかと
思
おも
うと、たまりませんでした。
私
わたし
は
言
い
いました。/「
呼吸
こきゅう
器
き
つけるの、
断
ことわ
って」/
彼
かれ
はとても
悲
かな
しい
顔
かお
をして、「どうして?」とたずねます。
私
わたし
はとっさに、/「
自分
じぶん
の
最後
さいご
ぐらい
自分
じぶん
で
決
き
めたいもの」/と
答
こた
えていました。/「
人間
にんげん
誰
だれ
も、みな
死
し
ぬんだよ。いつかわからんけど。ぼくだって
明日
あした
はどうなっているかわからん。つらかろうが、
最後
さいご
まで
生
い
きてくれ。
子
こ
どもたちも、お
前
まえ
が
頑張
がんば
ってくれていることが
励
はげ
みなんだ」/[…]/
子
こ
どもたちのことを
思
おも
うと、
胸
むね
が
張
は
り
裂
さ
ける
思
おも
いです。ひねくれた
考
かんが
えにとらわれていた
自分
じぶん
を
恥
は
ずかしく
思
おも
いました。そして、もう
一度
いちど
生
い
きてみようと
思
おも
いました。」(
定
じょう
金
きん
[
1987
:99-100])
<
略
りゃく
>
[188]
鈴木
すずき
淳
あつし
[166]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
六
ろく
月
がつ
。「
望月
もちづき
先生
せんせい
が
私
わたし
に/「
生
い
きていくためにはぎりぎりの
肺活量
はいかつりょう
ですね」/「しばらくすると
気管
きかん
切開
せっかい
をして
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けなければならなくなりますよ」 と
言
い
う、ここで
初
はじ
めて
気管
きかん
切開
せっかい
と
呼吸
こきゅう
器
き
の
話
はなし
がでてくる。/そう
云
い
うことなのか、これから
私
わたし
が
生
い
きるということは
呼吸
こきゅう
器
き
に
繋
つな
がれて
病院
びょういん
で
一生
いっしょう
を
暮
く
らすことなのだ、
呼吸
こきゅう
器
き
に
繋
つな
がれた
自分
じぶん
を
想像
そうぞう
してみる。
今
いま
まで
自由
じゆう
に
暮
く
らして
来
き
た
人間
にんげん
が
突然
とつぜん
自由
じゆう
を
奪
うば
われ
植物
しょくぶつ
状態
じょうたい
になる、それでも
治
なお
るならまだよい。/
治
なお
らぬ
病気
びょうき
を
抱
かか
えて
一生
いっしょう
を
軟禁
なんきん
状態
じょうたい
で
暮
く
らすのは
耐
た
えられない。
死
し
んだほうがましだ。
死
し
のうか
生
い
きようか
何
なん
度
ど
か
思
おも
ってはまた
繰
く
り
返
かえ
す。
何
なん
度
ど
繰
く
り
返
かえ
しても
同
おな
じ
事
ごと
だ。
終
おわり
いにはどうにでもなれと
云
い
う
気持
きも
ちになる。/この
頃
ころ
には
会話
かいわ
らしい
会話
かいわ
は
全
まった
くできなくなる。
話
はなし
をすると
胸
むね
が
苦
くる
しい。アーとか、ハイとか
返事
へんじ
だけにする。
一日中
いちにちじゅう
横
よこ
になったまま
体力
たいりょく
を
消耗
しょうもう
するのを
抑
おさ
え
天井
てんじょう
を
見
み
て
暮
く
らした。/
妻
つま
が
佐々木
ささき
和義
かずよし
君
くん
へ
呼吸
こきゅう
器
き
のことで
電話
でんわ
をする。
今
いま
より
元気
げんき
になるから
是非
ぜひ
付
つ
けろと
云
い
う
御託宣
ごたくせん
だ。
俺
おれ
の
気持
きも
ちも
知
し
らないで
簡単
かんたん
に
言
い
ってくれるよ。/しかし
和義
かずよし
君
くん
のその
一言
ひとこと
が
後
のち
に
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けるひとつのきっかけにもなる。」(
佐々木
ささき
は
友人
ゆうじん
の
医師
いし
)
七
なな
月
がつ
二
に
十
じゅう
日
にち
「
検査
けんさ
のために
入院
にゅういん
をする。おそらく
医師
いし
の
考
かんが
えでは、そのまま
気管
きかん
切開
せっかい
をするつもりでいたのだ。/
主治医
しゅじい
が
志賀
しが
先生
せんせい
へと
変
か
わる。この
先生
せんせい
は
何事
なにごと
にも
慎重
しんちょう
で
優
やさ
しく
囁
ささや
くように
話
はなし
をする
医師
いし
で、
多分
たぶん
に
私
わたし
の
元気
げんき
さにほんろうされることになるが、
今
いま
までの
医師
いし
の
中
なか
で
最
もっと
も
信頼
しんらい
しうる
医師
いし
に
変
か
わりはない。
再度
さいど
ALSの
症状
しょうじょう
や
将来
しょうらい
の
事
こと
まで、こと
細
ささ
やかに
説明
せつめい
する。/
最後
さいご
に、/「
呼吸
こきゅう
器
き
をぜひ
付
つ
けて
下
くだ
さい」/と
懇願
こんがん
する。/
私
わたし
は
驚
おどろ
いた。このように
医師
いし
に
丁寧
ていねい
に
今
いま
までお
願
ねが
いされたことはない。
付
つ
ける
付
つ
けないはそれだけ
重要
じゅうよう
なことなのだ、
患者
かんじゃ
生
い
きるか
死
し
ぬかの
瀬戸際
せとぎわ
に
立
た
たされている。
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けることを
拒否
きょひ
し
毎年
まいとし
全国
ぜんこく
で
数
すう
百
ひゃく
名
めい
の
患者
かんじゃ
が
自
みずか
ら
命
いのち
を
断
た
つと
言
い
われている。
私
わたし
はコックリと
首
くび
を
縦
たて
に
振
ふ
る。
先生
せんせい
は
安心
あんしん
したのか、
緊張
きんちょう
の
顔
かお
に
笑
え
みがこぼれる。」(
鈴木
すずき
[1996])
<
略
りゃく
>
さらに、
家族
かぞく
は
呼吸
こきゅう
器
き
をつけて
生
い
きていくことを
望
のぞ
んでいるが
本人
ほんにん
は
拒否
きょひ
しており、そこに
医療
いりょう
者
しゃ
がより
積極
せっきょく
的
てき
に
介入
かいにゅう
した
例
れい
がある。
同
おな
じ
本
ほん
からの
最初
さいしょ
の
引用
いんよう
は
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
〇
年
ねん
にALSであることを
知
し
らされた
国
くに
方正
ほうせい
昭
あきら
の
文章
ぶんしょう
、
次
つぎ
は
同
おな
じ
年
ねん
に
国
くに
方
かた
が
入院
にゅういん
した
国立
こくりつ
療養
りょうよう
所
しょ
高松
たかまつ
病院
びょういん
の
畑中
はたなか
良夫
よしお
院長
いんちょう
の
文章
ぶんしょう
、そして
副
ふく
院長
いんちょう
の
藤井
ふじい
正吾
しょうご
の
文章
ぶんしょう
。
[189]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
二
に
年
ねん
、「
私
わたし
が
生
い
きていることでの
家族
かぞく
のメリットとデメリットを
考
かんが
えて
達
たっ
した
結論
けつろん
が
三
さん
月
がつ
十
じゅう
二
に
日
にち
の
尊厳
そんげん
死
し
宣言
せんげん
/だが、
一
いち
カ月
かげつ
後
ご
に
痰
たん
が
詰
つ
まって
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
ったとき、「まだ
末期
まっき
ではない」とき
入
きい
れてもらえず
寝
ね
たきりに。
何分
なにぶん
か
何
なに
十
じゅう
分
ふん
かわからないが、
完全
かんぜん
に
意識
いしき
はなくなっていた。
喉
のど
を
切開
せっかい
して
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
の
世話
せわ
になる
決心
けっしん
をするまでの
二
に
日間
にちかん
の
心
しん
の
葛藤
かっとう
は
何
なん
年間
ねんかん
にも
相当
そうとう
するすさまじいものだった。/
急
きゅう
に
襲
おそ
ってきた
寝
ね
たきりに、
心
しん
の
準備
じゅんび
ができておらず、
精神
せいしん
的
てき
に
落
お
ち
込
こ
みは
激
はげ
しく、しばらくは
何
なに
をする
気
き
も
起
お
きなかった。」(
国
くに
方
かた
[1993→1999:41-42])
「
四
よん
月
がつ
、
国
くに
方
かた
さんはたんがつまって
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
った。
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
しないと
死
し
んでしまう。
主治医
しゅじい
の
出口
でぐち
医師
いし
が、
国
くに
方
かた
さんにそのことを
説明
せつめい
した。
同意
どうい
が
得
え
られない。
私
わたし
も
説明
せつめい
した。やはり
同意
どうい
が
得
え
られない。
血圧
けつあつ
が
下
さ
がり、
呼吸
こきゅう
器
き
機能
きのう
は
最悪
さいあく
となり、
顔色
かおいろ
は
蒼白
そうはく
になってきた。
手記
しゅき
で、
国
くに
方
かた
さんが「
意識
いしき
がなくなった」と
書
か
いているのは、
脳
のう
内
ない
動脈
どうみゃく
の
炭酸
たんさん
ガスが
最高
さいこう
まで
上
あ
がり、
意識
いしき
が
朦朧
もうろう
状態
じょうたい
になっていたからである。すると
出口
でぐち
医師
いし
が、/「
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
して
助
たす
けられるリミットは、あと
五
ご
分
ふん
しかありません」/と
悲痛
ひつう
な
様相
ようそう
で
知
し
らせてくれた。
私
わたし
は、もう
一度
いちど
同意
どうい
を
求
もと
めてみよう、それでも
同意
どうい
が
得
え
られないならば、
院長
いんちょう
である
私
わたし
の
責任
せきにん
で、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
を
強行
きょうこう
する
腹
はら
を
決
き
めた。/そのとき
出口
でぐち
医師
いし
が、「
院長
いんちょう
、
同意
どうい
してくれました。うなずいてくれました。
奥
おく
さんも
喜
よろこ
んでいます」と
告
つ
げにきてくれた。
国
くに
方
かた
さんの
手記
しゅき
によると、
本人
ほんにん
と
同意
どうい
したのではなく、
無意識
むいしき
にうなずいていたそうである。/このように、なかば
強引
ごういん
に
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
された
形
かたち
の
国
くに
方
かた
さんだったが[…]」(
畑中
はたなか
[1999:46-47])
「
看護
かんご
スタッフへの
不信
ふしん
から、この
患者
かんじゃ
さんは
尊厳
そんげん
死
し
を
望
のぞ
んでいた。だから
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
に
陥
おちい
った
時
とき
にも、
気管
きかん
切開
せっかい
を
拒
こば
み
続
つづ
けたのだ。しかし、この
患者
かんじゃ
さんは、なかば
強引
ごういん
に
院長
いんちょう
に
説得
せっとく
されて、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
生活
せいかつ
に
入
はい
ることになった。」(
藤井
ふじい
[1999:144])
<
略
りゃく
>
[190]
後藤
ごとう
忠治
ただはる
[148]、
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
八
はち
年
ねん
。「この
先
さき
どんな
事
こと
が
起
お
こるか、
家族
かぞく
の
負担
ふたん
に
不安
ふあん
を
抱
いだ
きながら
在宅
ざいたく
が
始
はじ
まる。いつ
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
になるのか。その
時
とき
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けるのか、
付
つ
けないのか。
呼吸
こきゅう
器
き
の
管理
かんり
が
家族
かぞく
で
出来
でき
るものなのか。/ALSは
発病
はつびょう
五
ご
年
ねん
で
半数
はんすう
の
患者
かんじゃ
が
亡
な
くなると
言
い
う。それは
病気
びょうき
が
進行
しんこう
して
亡
な
くなるのか、それとも
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
けるのを
拒
こば
んで
亡
な
くなるのだろうか。いずれにしてもその
時
とき
が
必
かなら
ずやって
来
く
る。/その
時
とき
自分
じぶん
はどうするのか。こんな
自問自答
じもんじとう
の
毎日
まいにち
です。」
九
きゅう
九
きゅう
年
ねん
四
よん
月
がつ
に
後藤
ごとう
は
花見
はなみ
に
行
い
った。「
患者
かんじゃ
仲間
なかま
から
花見
はなみ
の
誘
さそ
いを
受
う
ける。[…]
小野寺
おのでら
さん、
鈴木
すずき
さん、
和
かず
川
がわ
さん。
皆
みな
さんは
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
です。[…]
皆
みな
さんに
会
あ
えた
事
こと
で
生
い
きる
喜
よろこ
びを
知
し
り、そして
呼吸
こきゅう
器
き
を
付
つ
ける
勇気
ゆうき
をもらいました。/[…]/
十
じゅう
月
がつ
十
じゅう
三
さん
日
にち
。あんなに
悩
なや
んでいたのに
苦
くる
しさに
耐
た
えきれずあっさり
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
。」(
後藤
ごとう
[1999])
[191]
柚木
ゆずき
美恵子
みえこ
(
岡山
おかやま
県
けん
)は
一
いち
九
きゅう
八
はち
五
ご
年
ねん
・
二
に
五
ご
歳
さい
で
発病
はつびょう
、
七
なな
年
ねん
後
ご
、「
入院
にゅういん
してまもなく、
主治医
しゅじい
の
先生
せんせい
から、
将来
しょうらい
的
てき
に
呼吸
こきゅう
状態
じょうたい
が
極
きわ
めて
悪
わる
くなった
時
とき
、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
する
意思
いし
があるかどうかの
確認
かくにん
がなされました。
数日
すうじつ
間
あいだ
、いろいろと
考
かんが
え
悩
なや
みましたが、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
を
装着
そうちゃく
しながらも、なお
人間
にんげん
らしく
前向
まえむ
きに
生
い
きている
先輩
せんぱい
の
人達
ひとたち
の
情報
じょうほう
を
踏
ふ
まえ、「まだ、
死
し
にたくない。もっと
生
い
きていたい。」という
思
おも
いから、
器械
きかい
を
装着
そうちゃく
する
意思
いし
のあることを
伝
つた
えました。/この
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
の
選択
せんたく
については、ALS
患者
かんじゃ
は
大
おお
いに
悩
なや
み
迷
まよ
います。
器械
きかい
装着
そうちゃく
を
希望
きぼう
する
患者
かんじゃ
がいる
一方
いっぽう
で、「もうこれ
以上
いじょう
、
家族
かぞく
に
迷惑
めいわく
をかけたくない」とか「
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
をつけてまで
生
い
きたくはない」など、いろいろな
理由
りゆう
で、
器械
きかい
装着
そうちゃく
を
拒否
きょひ
する
患者
かんじゃ
もいるのです。これまでに、
呼吸
こきゅう
状態
じょうたい
が
悪
わる
くなり、
苦
くる
しみあえぎながら
亡
な
くなっていかれた
病
やまい
友
とも
を
何人
なんにん
見送
みおく
ってきたことでしょう。やりきれない
思
おも
いが、
胸
むね
をしめつけます。/
私
わたし
が、
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
装着
そうちゃく
希望
きぼう
の
意思
いし
を
伝
つた
えてから、
二
に
ヶ月
かげつ
ほどして、
私
わたし
は
睡眠
すいみん
中
ちゅう
に
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
となり、ただちに
気管
きかん
切開
せっかい
手術
しゅじゅつ
がなされ、
夜
よる
は
安全
あんぜん
のために
呼吸
こきゅう
器
き
をつけ、
昼
ひる
はできるだけはずして
自発
じはつ
呼吸
こきゅう
で
頑張
がんば
る、という
生活
せいかつ
が
始
はじ
まりました。」(
柚木
ゆずき
[2001])
<
略
りゃく
>
[192]
一
いち
九
きゅう
九
きゅう
四
よん
年
ねん
十二月
じゅうにがつ
、
国立
こくりつ
療養
りょうよう
所
しょ
石川
いしかわ
病院
びょういん
の
診察
しんさつ
室
しつ
で、
西尾
にしお
知子
ともこ
は「
主治医
しゅじい
から
人工
じんこう
呼吸
こきゅう
器
き
に
夫
おっと
の
命
いのち
を
預
あづ
けるかどうかの
選択
せんたく
を
迫
せま
られた。
夫
おっと
の
健
けん
弥
わたる
は[…]
呼吸
こきゅう
困難
こんなん
が
続
つづ
き、
一刻
いっこく
の
猶予
ゆうよ
もなかった。/[…]/
知子
ともこ
は
健
けん
弥
わたる
に
病名
びょうめい
はもちろん、
治
なお
る
見込
みこ
みのないことなどを
初
はじ
めてここで
告
つ
げた。
呼吸
こきゅう
器
き
の
問題
もんだい
も
話
はな
し
合
あ
った。
健
けん
弥
わたる
の
二人
ふたり
の
娘
むすめ
はすでに
独立
どくりつ
し、
知子
ともこ
と
二
に
人
にん
暮
く
らし。
介護
かいご
の
負担
ふたん
を
気遣
きづか
って
遠慮
えんりょ
してはいけないと、
知子
ともこ
は
健
けん
弥
わたる
に「
私
わたし
のために
着
つ
けてくれ」と
頼
たの
む。
健
けん
弥
わたる
も
死
し
を
目前
もくぜん
にして、
初
はじ
めて
心底
しんそこ
、
生
い
きたいとの
渇望
かつぼう
がわき
起
お
こる。が、その
一方
いっぽう
で、「
迷惑
めいわく
をかけるだけで、
何
なん
の
役
やく
にも
立
た
たない
者
もの
に
生
い
きる
価値
かち
があるのか。それはエゴで、
生
なま
に
執着
しゅうちゃく
している
哀
あわ
れな
姿
すがた
ではないか」と、
悩
なや
む。/そんな
折
おり
、
見舞
みま
いに
来
き
た
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
事務
じむ
局長
きょくちょう
の
松岡
まつおか
幸雄
ゆきお
(
故人
こじん
)の
言葉
ことば
が
二
に
人
にん
に
決断
けつだん
を
促
うなが
した。」(『
読売新聞
よみうりしんぶん
』[1999])
西尾
にしお
健
けん
弥
わたる
[52]の
文章
ぶんしょう
では、その
一
いち
に
妻
つま
、
二
に
に
孫
まご
、
三
さん
に
会社
かいしゃ
の
人
ひと
や
友人
ゆうじん
や
親戚
しんせき
のことを
記
しる
した
後
のち
、それが
次
つぎ
のように
書
か
かれる。「
決定
けってい
付
つ
けたのは、
日本
にっぽん
ALS
協会
きょうかい
の
事務
じむ
長
ちょう
でした。
事務
じむ
長
ちょう
はわざわざ
東京
とうきょう
から
入院
にゅういん
先
さき
の
病院
びょういん
まで
訪
たず
ねてこられ、
死
し
と
生
い
きることについて
説
と
かれました。
春
はる
の
桜
さくら
、
夏
なつ
の
海
うみ
、
秋
あき
の
紅葉
こうよう
、
冬
ふゆ
の
雪景色
ゆきげしき
と
四季
しき
折々
おりおり
の
景色
けしき
が
楽
たの
しめるではないですか。それと
生
い
きていれば、どんな
素晴
すば
らしいことに
出会
であ
うかもしれない。と
生
い
きている
喜
よろこ
びを
強調
きょうちょう
されたのです。」(
西尾
にしお
[1997])
*
作成
さくせい
:
立岩
たていわ
真
しん
也
UP:20020718 REV:20020804,0813,14,20020917,0930,1002,04,06,08,09,10,15,20030106,0311 20050620, 20100918
◇
ALS
TOP
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◇