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王陵とは (オウリョウとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

おうりょう単語たんご

2けん
オウリョウ
1.5まん文字もじ記事きじ
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掲示板けいじばん

おうりょう」とは、 

中国ちゅうごくはたから前漢ぜんかんにかけてき、前漢ぜんかんつかえた人物じんぶつ   ここで解説かいせつする。

強大きょうだいけんちからをもつ支配しはいしゃである皇帝こうてい天皇てんのう大王だいおうきみあるじなどを埋葬まいそうした、地上ちじょうおおきな構築こうちくぶつをもつはか

おうりょうはなテレビアニメPSYCHOPASS サイコパス」に登場とうじょうする人物じんぶつ

概要がいよう

おうりょうとは、戦国せんごく時代じだい末期まっき前漢ぜんかん人物じんぶつ。 

劉邦りゅうほう故郷こきょうをともにし、その兄貴あにきわかとなっていた。ははいのちをかけたねがいにより、劉邦りゅうほうつかえ、すわえかん戦争せんそうにおいて功績こうせきをあげて、その功臣こうしん一人ひとりとなる。 

戦功せんこう自体じたいはさほどではなく、劉邦りゅうほうとはかならしもいがよくなかったが、その人望じんぼう義侠ぎきょうしんによって、劉邦りゅうほうかん王朝おうちょう後事こうじたくされる。劉邦りゅうほう死後しごには、かん筆頭ひっとう大臣だいじんであるひだり丞相じょうしょうとなった。 

劉邦りゅうほう皇后こうごうであったりょ雉からのふか信任しんにんがあったにもかかわらず劉邦りゅうほう遺言ゆいごんかたまもり、自分じぶん一族いちぞくであるりょおうにしようとはかりょ雉に抵抗ていこうして、大臣だいじん地位ちいったことでられる。 

このこうでは、おうりょうなかがよかった雍(ようし)、同族どうぞくせつがあるおう吸(おうきゅう)、おなゆたか出身しゅっしんである薛欧(せつおう)、おうりょうしたがっていたとかんがえられる戚鰓(せきし)、おうりょうちちとしてつかえたちょうあおい(ちょうそう)をあわせて紹介しょうかいする。

劉邦りゅうほうけむたい兄貴あにきぶん 

劉邦りゅうほうおなじ沛県のゆたか(ほうゆう)の出身しゅっしん。 

おうりょうは、沛県においてちからったごうぞくだしであり、学問がくもんをそれほどおさめていなかったが、任侠にんきょう気概きがいのある人物じんぶつであり、かつ、まっすぐ発言はつげんこのんだ。 

おうりょうきていた時代じだいにおいては、戦国せんごくよんくんはじめきみ平原ひらはらきみしんりょうくんはるさるくん)のような戦国せんごく時代じだいから、遊侠ゆうきょう気質きしつ(※)をおもんじるふうつづいていた。 

  • 法律ほうりつ道徳どうとくよりも仲間なかまうち信義しんぎ個人こじんてき感情かんじょう大事だいじにし、ざいのう武勇ぶゆうで、恩義おんぎむくいることや身近みぢか弱者じゃくしゃまもることをおもんじる人物じんぶつたち。実際じっさいはごろつき同然どうぜんであるときおおい。 

学問がくもんあさく、任侠にんきょう気概きがいのある人物じんぶつ代表だいひょうとするごうぞくおおくは、とく遊侠ゆうきょうおもんじる傾向けいこうつよい。かれらは、おおくの遊侠ゆうきょう恩義おんぎあたえ、地元じもとおおきなちからゆうしていた。おうりょうはそういった人物じんぶつであり、沛県の遊侠ゆうきょうたちをたばねる、やくざのおやぶんのような存在そんざいであったとかんがえられる。 

当然とうぜん、沛県のごろつき遊侠ゆうきょう一人ひとりであった劉邦りゅうほうおうりょうにはあたまがらず、おうりょう兄貴あにきぶんとしてつかえる立場たちばであった。 

また、おうりょうおなじ沛県のゆたかごうぞくとして、雍(ようし。後述こうじゅつ)がいた。おうりょうはこの雍とはなかく、兄弟きょうだいぶんのような存在そんざいであったとかんがえられる。 

この雍劉邦りゅうほうなかわるく、沛県にいたころから、劉邦りゅうほうはずかしめるようなことがなんかあった。 

このことや後々あとあとのこと、また、劉邦りゅうほう傲慢ごうまん性格せいかく行動こうどうかんがえあわせると、おうりょうけっしておとうとぶんとして劉邦りゅうほうをかわいがっていたのではない。かれらは、遊侠ゆうきょうとして上下じょうげ関係かんけいある存在そんざいであり、劉邦りゅうほうとしては本心ほんしんではおうりょうのことをけむたかった存在そんざいであったであろうと推測すいそくできる。

劉邦りゅうほうわかれる 

はたおうあさ暴政ぼうせいたいし、沛でも反乱はんらんきた。沛県ではおおきないえ出身しゅっしんであり、はた役人やくにんとなっていたしょうなに(しょうか)や曹参(そうしん)がその反乱はんらんくわわることとなった。しょうなにたちは、自分じぶんたちが首謀しゅぼうしゃとなり、失敗しっぱいしたとき一族いちぞくころされたくないという理由りゆうから、劉邦りゅうほう反乱はんらんぐんあるじとし、劉邦りゅうほうは沛おおやけ名乗なのることになった。 

おうりょうがこの謀議ぼうぎ加担かたんしたかどうか、史書ししょしるされていない。しかし、おうりょう当初とうしょはこの反乱はんらん加担かたんしたようであり、「きゃく」という反乱はんらんぐん幹部かんぶとしてはしょうなにたがね(ろわん)とおな最高さいこう地位ちいについていた。 

だが、おうりょう本心ほんしんではさけをつけでんでいるような劉邦りゅうほうしたがはなかった。 

その劉邦りゅうほう独立どくりつぐんひきいて、はた地方ちほうぐん相手あいて勝利しょうりかさねる。

しかし、おなじようにはた反乱はんらんこしたたかしくにしゅう巿しゅうふつ)がゆたかまもっていた雍調しらべりゃくした。雍劉邦りゅうほう裏切うらぎり、たかしくに寝返ねがえった。劉邦りゅうほうおうりょう故郷こきょうであるゆたかもまた、たかしくみすることとなった。 

このときおうりょう動向どうこう不明ふめいであるが、「劉邦りゅうほう従属じゅうぞくしようとしなかった」と史書ししょ明言めいげんされるため、劉邦りゅうほう味方みかたして、雍たたかったとはかんがえられない。 

だが、後々あとあとでも、おうりょう劉邦りゅうほうに雍ほどにくまれておらず、信任しんにんけていることから、雍にも加担かたんはしなかったようである。 

どうやら、おうりょうは、おなゆたかひと同士どうしあらそいをいやがり、このとき劉邦りゅうほうわかれて、廄将(ちゅうしょう。のちに、ちょうりょういた地位ちい。「客将かくしょう程度ていど意味いみか?)というで、はるか西にしにあるひがしぐん南陽なんようぐん方面ほうめんめにくことになったようである。 

このことをかんがえると、おうりょうひがしぐん南陽なんようぐんにもいきおいちからいえ代表だいひょうであったか、遊侠ゆうきょうとしてかなり広大こうだいネットワークゆうしていた人物じんぶつであったおもわれる。(ゆたかはた侵攻しんこうからのがれた人々ひとびとあつまったであるというせつつよく、劉邦りゅうほうにもたかしくに出身しゅっしんであるというせつがある) 

とにかく、おうりょうは戚鰓(せきし。後述こうじゅつ)という人物じんぶつれ、それから西にしすすみ、南陽なんようぐんにおいて、独立どくりつして、すうせんにんいきおいちからゆうするようになった。

劉邦りゅうほうしたが 

しかし、意外いがい事態じたいおうりょうきた。 

あの劉邦りゅうほうが、すわえの碭ぐんちょう(とうぐんちょう)、武安たけやすこうとなり、すわえべつはたらけぐんひきいて、南陽なんようまで進撃しんげきしてきた。劉邦りゅうほうすわえふところおう約束やくそくにより、はたおうあさ本拠地ほんきょちであるせきちゅうへの進撃しんげき一番乗いちばんのりをたして、せきちゅうおうになろうとしていた。 

そして、かつての兄貴あにきぶんであったおうりょうが、南陽なんようにいるといて従属じゅうぞくきょうちからではない)をもとむめてきた。はったりだけのいわきむいつわって、ただめし・たださけにありつこうとするようなかつてのおとうとぶんのずうずうしいようもとむを、おうりょう拒否きょひし、劉邦りゅうほう従属じゅうぞくしようとはしなかった。 

ただし、おうりょうまった劉邦りゅうほう無視むししたというわけでもなく、劉邦りゅうほう南陽なんよう攻略こうりゃくときに、劉邦りゅうほうぐんかおしたこともあったようである。 

そのさい処刑しょけいされそうになっていたちょうあおい(ちょうそう。後述こうじゅつ)の助命じょめいねがいを劉邦りゅうほうっている。このために、おうりょうちょうあおい一生いっしょうかけて感謝かんしゃされて、ちょうあおい父親ちちおや同等どうとうつかかたをされる。 

だが、ちょうりょうという参謀さんぼうていた劉邦りゅうほうぐんいきおいはとどまることをらず、はた南陽なんようぐんくだふくさせ、みず(たんすい)というかわまでぐんすすめていた。 

おうりょう仕方しかたなく、戚鰓とともに、西陵せいりょう(せいりょう)という土地とちにおいて、劉邦りゅうほう従属じゅうぞくすることにめた。おうりょうは、劉邦りゅうほうによってじょうこう(じょうこう)にふうじられた。そのまま、劉邦りゅうほう従軍じゅうぐんして、せきちゅうめた。 

劉邦りゅうほうはそのいきおいで、せきちゅうとし、はたおうくだふくさせた。強大きょうだいであったはたおうあさ劉邦りゅうほうによってわりをむかえた。

劉邦りゅうほうすく 

だが、そのすわえぐんあるじちからぐん諸侯しょこうぐんひきいた項羽こううによって、劉邦りゅうほう左遷させんされる。劉邦りゅうほうかんおうふうじられて、かんなかおもむいたが、おうりょうしたがわなかった。 

ごうぞくとしてのゆうちからいきおいちから南陽なんようゆたかゆうするおうりょうとしては、咸陽にれておとこにあっさり逃亡とうぼうされて自分じぶん逃亡とうぼうするような劉邦りゅうほうにそこまでしたが義理ぎりはなく、恩賞おんしょうほっしがる必要ひつようもなかった。 

しかし、劉邦りゅうほうからかんなかにおいて決起けっきして、たちまち、せきちゅう制圧せいあつする。「すわえかん戦争せんそう」のはじまりである。南陽なんようにいたおうりょうは、今度こんど仕方しかたなく、へいひきいて、劉邦りゅうほう従属じゅうぞくすることにした。 

劉邦りゅうほうたちの故郷こきょうである沛県にはまだ、劉邦りゅうほうちちあるりゅうふとしおおやけつまりょ雉(りょち)などの劉邦りゅうほう家族かぞくがいた。沛はせきちゅうからとおひがしすわえくににあり、項羽こうういきおいちからけんであった。そこで、劉邦りゅうほう将軍しょうぐんおう吸(おうきゅう。後述こうじゅつ)と薛欧(せつおう。後述こうじゅつ)を派遣はけんして、せきちゅうみなみにあるせき(ぶかん)からおうりょう合流ごうりゅうさせて、おうりょうぐんりて、劉邦りゅうほう家族かぞくむかえようとした。 

しかし、なつ(ようか)というところで、すわえぐんによってめられ、劉邦りゅうほう家族かぞく奪還だっかんはできなかった(創作そうさく歴史れきし解説かいせつにおいて、このときおうりょう活躍かつやくによって劉邦りゅうほう家族かぞくすくったとするものがあるが、史実しじつでは、このとき劉邦りゅうほう家族かぞくすくえていない)。 

そこで、劉邦りゅうほう項羽こううとの対決たいけつ決断けつだんし、ひがしにある項羽こうう根拠地こんきょちである彭しろ(ほうじょう。項羽こうう本拠地ほんきょちゆびして大軍たいぐん出撃しゅつげきさせる。そのまま、劉邦りゅうほう項羽こうう不在ふざいであったすわえ侵攻しんこうし、ついに、彭しろ制圧せいあつした。おうりょうは、劉邦りゅうほうおうりょう自身じしん故郷こきょうであるゆたかまもることとなった。 

しかし、劉邦りゅうほうは、わすか3まんぐんひきいた項羽こうう大敗たいはいする(「彭しろたたかい」)。劉邦りゅうほうぐんじゅうまんにん以上いじょう戦死せんしし、りゅうふとしおおやけりょ雉もらえられた。 

このときおうりょう劉邦りゅうほうりょ雉のあいである魯元おおやけあるじ(ろげんこうしゅ。劉邦りゅうほうむすめ)と、りゅうみつるりゅうえい。魯元おおやけあるじおとうとめぐみみかど)をすくし、睢みず(すいすい。劉邦りゅうほうぐん多数たすうちて死亡しぼうしたかわ)をわたってのがれた。 

おうりょうは、劉邦りゅうほう二人ふたりあづけると、自身じしんはまた、ゆたかまもり、項羽こううぐんたいする抵抗ていこうつづけることにした。

どうやら、おうりょうまもりしろにすぐれていたようである。

ははねが 

しかし、おうりょうはは項羽こううらえられてしまう。おうりょうはは項羽こううぐんかれた。おうりょう項羽こうう使者ししゃおくると、項羽こううおうりょうはは賓客ひんきゃくあつかいにして、おうりょう自分じぶんじん営にまねせようとした(ゆたかおもえいっきり、項羽こうういきおいちからけんであり、彭しろからもちかい)。 

項羽こううとしては、あるいはおうりょうかならしも劉邦りゅうほう忠実ちゅうじつというわけではないことをってのことだったのかもしれない。 

しかし、おうりょうははおうりょう使者ししゃ見送みおくときにその使者ししゃつたえてかたりった。 

あたしのために(おうりょうかたりっておくれ。『かんおう劉邦りゅうほう)につつしんでづかえてくれ』とね。かんおう長者ちょうじゃ有徳うとく人物じんぶつ義侠ぎきょうしんあつく、ひとたばねることができる人物じんぶつゆびすこともある)だよ。あたしのせいで、かんおう裏切うらぎるようなことはしてはいけないよ。あたしんで、あんた使者ししゃ)を見送みおくるからね(だから、あたしのことはにするんじゃないよ)。」 

そうっておうりょうははは、けんのどして自害じがいする。 

項羽こううはこれをいていかり、おうりょうはは死骸しがいた。これは、史書ししょいている。事実じじつだとすれば、項羽こうう行動こうどうなかでもこごめゆび愚行ぐこうである。 

おうりょうすすんで、かつてのおとうとぶんである劉邦りゅうほうしたがいたい気持きもちはなかったが、このことによって、劉邦りゅうほうしたがうことにめる。すわえかん戦争せんそう期間きかんおうりょう劉邦りゅうほう部下ぶかとなり、ゆたかをずっとかた防衛ぼうえいつづけ、項羽こううじん営に寝返ねがえるようなことはなかった。おうりょう劉邦りゅうほうによって、諸侯しょこう一人ひとりである雍侯(ようこう)にふうじられた。 

すわえかん戦争せんそう劉邦りゅうほう勝利しょうりわり、かんねん紀元前きげんぜん202とし)、やぶれた項羽こうう自害じがいした。 

同年どうねんてんしたひらたじょうした劉邦りゅうほうは、諸侯しょこうおうされて、かん皇帝こうてい即位そくいする(かん高祖こうそ)。 

あのおうりょうや雍あたまがらなかった劉邦りゅうほうてんしたあるじである天子てんし皇帝こうていとなった。

劉邦りゅうほう功臣こうしん代表だいひょうとなる 

おうりょう軍功ぐんこうこそはさほどかったが、沛県のゆうちからごうぞくであり、遊侠ゆうきょうたばねる人物じんぶつでもあったため、沛出身しゅっしんである劉邦りゅうほうあるじだった功臣こうしんたちからすれば、あたまがる存在そんざいではなかった。そのため、おうりょうは、劉邦りゅうほう臣下しんかなかでも、功臣こうしんたちの代表だいひょう一人ひとりとなっていった。 

あるとき劉邦りゅうほうらくにおいて、功臣こうしんたちをあつめて、宴会えんかいひらいたとき、このようなことをはなした。 

劉邦りゅうほうまえ正直しょうじきかたりれよ。わしがてんしたり、項羽こうううしなった理由りゆうはなんじゃ?」 

直言ちょくげんこのおうりょうは、こうおこり(こうき)という人物じんぶつとともに功臣こうしん代表だいひょうしてごたえた。 

おうりょうこうおこり陛下へいか劉邦りゅうほう)は傲慢ごうまんで、他人たにん侮辱ぶじょくします。それにたいし、項羽こううひとしあいしんがあり、他人たにんいとました。しかし、陛下へいかかなら功績こうせきむくいましたが、項羽こううすぐれた人物じんぶつ功績こうせきある人物じんぶつきらい、その功績こうせきむくいませんでした。これが、項羽こううてんしたうしなった理由りゆうです」 

劉邦りゅうほうとうとおおやけ原文げんぶんおおやけ』。『なんじまえ)』とわないところに、劉邦りゅうほうおうりょうたいする遠慮えんりょがうかがえる)らはいちって、らないな(半分はんぶんしかわかっていない、という意味いみ)。わしは、子房しぼうちょうりょう)に遠望えんぼう戦略せんりゃくで、しょうなに政治せいじ補給ほきゅうで、かんしん戦術せんじゅつ軍功ぐんこうおよばない。わしは、このさんにんて、よくもちいることができたゆえにてんしたることができた。項羽こううはただ一人ひとり范増使つかいこなせなかった。だから、項羽こううはわしにけたのだ」

 

劉邦りゅうほうのこの言葉ことばたいするおうりょう反応はんのう史書ししょしるされていないが、功臣こうしんたちとともに劉邦りゅうほうかんじふくしたものとおもわれる。 

このとき、あの雍劉邦りゅうほう部下ぶかとしてつかえていた。雍相変あいかわらず、劉邦りゅうほうきらわれていたが、おうりょうわらず、雍仲良なかよくしていた。 

おうりょう劉邦りゅうほう元々もともとしたがはなかったため、恩賞おんしょうをもらうのはおくれたと『史記しき』にはしるされている。しかし、おうりょう実際じっさい恩賞おんしょうけたのは、あるじだった功臣こうしんちよりやく8かつきおくれただけであった。 

おうりょうは、あらためめてやすくにほうあんこくこう)にふうじられる。せんあたえられ、功臣こうしんとしては12くらいである。これは、さほどの軍功ぐんこうのないおうりょうにしては別格べっかくたか戸数こすう順位じゅんいであり、おうりょう劉邦りゅうほう部下ぶかとしてかなりおもんじられていたがかる。 

ただし、この功臣こうしん順位じゅんいについては、劉邦りゅうほう死後しごりょきさき劉邦りゅうほうきさきりょ雉)統治とうち時代じだいさだめられたものであるのうせいもある。

劉邦りゅうほうからの意外いがい信任しんにん 

そのしばらくのおうりょう動向どうこう不明ふめいであるが、どうやら、劉邦りゅうほう反乱はんらん討伐とうばつには従軍じゅうぐんしなかったようである。 

おうりょう再度さいど史書ししょ姿すがたをあらわすのは、直前ちょくぜんに、劉邦りゅうほうりょ雉にった遺言ゆいごんときである。 

りょ雉の発表はっぴょうした内容ないようによると、劉邦りゅうほう遺言ゆいごん内容ないようはこうであった。 

しょうなにんだのちかん政治せいじは、曹参たくすのがよい。曹参んだときは、おうりょうがいい。ただ、おうりょうすこ愚直ぐちょくなので、ひねひらた補佐ほささせろ。ひねひらた知略ちりゃくすぐぎているぐらいだが、単独たんどくにんじるのはむずかしい。しゅう勃(しゅうぼつ)は、重厚じゅうこう人柄ひとがらだが、学問がくもんりない。しかし、(劉邦りゅうほう一族いちぞくである)りゅうやすんじる人物じんぶつしゅう勃である。大尉たいいかん軍事ぐんじ長官ちょうかん)にするのがいい」(劉邦りゅうほう遺言ゆいごんについては、後述こうじゅつ、「劉邦りゅうほう遺言ゆいごんについて」参照さんしょう

 おうりょうからすれば、劉邦りゅうほうからはおもんじられはしていたが、政治せいじまかされてはおらず、けっして、おやしまれてはいない立場たちばであったため、この遺言ゆいごん相当そうとう意外いがいであったとおもわれる。 

ただ、義侠ぎきょうしんあつおうりょうとしては、なんとしても劉邦りゅうほうからけた信任しんにんこたえたいという気持きもちでいっぱいであったことは容易ようい推測すいそくできる。 

劉邦りゅうほう死後しごは、つぎ皇帝こうていおうりょうすくったことのあるあのりゅうみつる即位そくいした(かんめぐみみかど)。かん政治せいじ劉邦りゅうほう遺言ゆいごんどおり、しょうなにおこない、しょうなに死後しご曹参がとりしきった。 

めぐみみかどろくねん紀元前きげんぜん189とし)、前年ぜんねん曹参死去しきょし、このとしおうりょうかんみぎ丞相じょうしょうにんじられる。ひだり丞相じょうしょう劉邦りゅうほう遺言ゆいごんどおり、ひねひらたにんじられる。だが、翌年よくねんめぐみみかどななねん紀元前きげんぜん188とし)、りゅうみつるめぐみみかど)も死去しきょしてしまう。かんつぎ皇帝こうていには、りゅうみつるであるおさなすくなみかどしょう)が即位そくいした。 

しかし、りょ雉は、ひねひらたりょ雉のためにてた計略けいりゃくによって、自分じぶん一族いちぞくであるりょ宮中きゅうちゅうにいれて、かん王朝おうちょう朝廷ちょうていにおける政治せいじ軍事ぐんじ実権じっけんにぎることとなる。 

こうきさき元年がんねん紀元前きげんぜん187とし)、りょ雉は朝廷ちょうていにおいて、みぎ丞相じょうしょうであったおうりょうたいして、りょ一族いちぞくおう地位ちいふうじることを相談そうだんした。りょ雉としては、かならしも劉邦りゅうほう好意こういてきではなく、自分じぶん子供こどもたちをすくってくれたおうりょうならと同意どういしてくれるものとかんがえていたゆえの行動こうどうであるとおもわれる。 

しかし、直言ちょくげんこのみ、義侠ぎきょうしんあつきゆえに、劉邦りゅうほうからの信任しんにんこたえたいおうりょうは、りょ雉にたいしてこうこたえた。 

おうりょうこうみかど劉邦りゅうほう)はかつてわがらとしろうまって、ちかいあいました。『りゅう以外いがいのものがおうとなったときは、てんしたのものは共同きょうどうして討伐とうばつするように』と。りょおうふうじれば、その約定やくじょうはんします」 

りょ雉はこのおうりょう返事へんじ不快ふかいおもい、今度こんどひねひらたと(劉邦りゅうほう遺言ゆいごんどおり)大尉たいいとなっていたしゅう勃にたずねると、二人ふたりりょおうふうじることに賛同さんどうした。 

朝廷ちょうていから退席たいせきしたのちおうりょうひねひらたしゅう勃をめた。 

おうりょう諸君しょくんらも陛下へいか劉邦りゅうほう)がしろうまってちかったときには一緒いっしょにいたではないか。陛下へいかとの盟約めいやくそむいて、りょきさきりょ雉)におもねって、あの陛下へいかわせるかおがあるのか」 

ひねひらたしゅう勃「現在げんざい朝廷ちょうていにおいて、めんかって(りょ雉の)あやまちを直接ちょくせつ諫めることについてはあなたにおよびません。しかし、かん社稷しゃしょく(しゃしょく。国家こっかのこと)をまっとうし、りゅう子孫しそん安定あんていさせることもまた、あなたはわたしたちにおよばないのです」

 おうりょうにんのこの返事へんじ言葉ことばうしなった。(劉邦りゅうほう功臣こうしんたちにちかったこの言葉ことばかんしては、後述こうじゅつしろうまめいについて」参照さんしょう) 

りょ雉は自分じぶん同意どういしなかったおうりょうみぎ丞相じょうしょうをやめさせようとして、すくなみかどふとでん教育きょういくやく)にした。おうりょう実権じっけんうばわれた。 

おうりょういかりをかんじ、子供こどものおまもりはごめんとおもったのもあって、病気びょうきしょうして辞職じしょくして領地りょうちかえった。 

後任こうにんみぎ丞相じょうしょうにはひねひらたにんじられ、ひだり丞相じょうしょうりょ雉とおやみつ関係かんけい男女だんじょ関係かんけいにあった疑惑ぎわくもある)にあったはらしんであるしんしょく其(しんいき)がにんじられた。 

こうきさきねん紀元前きげんぜん186とし)、おうりょう死去しきょしている。

評価ひょうか 

史記しき』にはおうりょう評価ひょうかはないが、『かんしょ』にその評価ひょうかしるされている。 

かんしょ』においてはんかたは、「おうりょう朝廷ちょうていにおいて諫めてあらそい、もんじて、みずか朝廷ちょうていからったが、これもそれぞれのこころざしである」と評価ひょうかしている。 

おうりょうは、かならしも劉邦りゅうほう人格じんかく器量きりょうしんふくしていたわけではなかったが、ははねがいもあって、時流じりゅう見切みきり、結果けっかてきにはかん忠臣ちゅうしんとしてのこすことになった。劉邦りゅうほう忠実ちゅうじつでなかったおうりょう劉邦りゅうほう子供こどもたちをたすけ、劉邦りゅうほうとのちかいをかたまもり、劉邦りゅうほう子孫しそんたちをまもることとなった。 

ただし、おうりょうかん忠臣ちゅうしんというより、義侠ぎきょうしんら、劉邦りゅうほうとのちかいをまもろうとしたとかんがえられ、忠臣ちゅうしんよりは義侠ぎきょうひとひょうすべきである。 

創作そうさくでは、劉邦りゅうほうつかえるようにおうりょうつたえて自害じがいしたおうりょうははエピソードしるしぞうてきなためか、劉邦りゅうほう忠臣ちゅうしんとしてえがかれることがおおい。また、劉邦りゅうほうだいおやぶんとする作品さくひんや、劉邦りゅうほう対抗たいこうする沛県の犯罪はんざいしゃおやぶんという存在そんざいとする創作そうさく作品さくひんもある。

おうりょうについて 

ゆたか邑について 

ゆたか行政ぎょうせいとしては、沛県の一部いちぶであるいち集落しゅうらく)にぎないが、ただたんに、おうりょう劉邦りゅうほうたちの出身しゅっしんであるというだけではなく、おおきな存在そんざいかんゆうした土地とちである。 

たかしくにしゅう巿は、ゆたかのことを「だいはり(かつてのたかしはた武将ぶしょうであるおう(おうほん)のみずめによってほろぼされた)から人々ひとびとあつまった集落しゅうらく」とかたりっている。そのため、ゆたかは、ほろびただいはりからのがれて移住いじゅうしてきた人々ひとびとあつまった集落しゅうらくであるのうせいたかい。 

史記しきしゅうかい(しきしっかい)』という史記しき注釈ちゅうしゃくや、史記しきなら正史せいしの『かんしょ』では、劉邦りゅうほう先祖せんぞはかつてすすむひとであったものがはたうつり、それがたかしだいはりうつって、さらにひがしゆたかうつったものとされる。 

これは、だい部分ぶぶんかん王朝おうちょうがただの富農ふのうであった劉邦りゅうほうはくをつけるためのつくばなしだとしても、ある程度ていど史実しじつ反映はんえいしているのうせいはあり、劉邦りゅうほう本当ほんとうすわえじんではなく、たかしひとであるというせつ根拠こんきょとなっている。 

なお、だいはりみずめでほろんだのは、紀元前きげんぜん225としであり、通説つうせつによる劉邦りゅうほう年齢ねんれいからすれば、32としもしくは23としとなり、劉邦りゅうほうたかしんでいたちょうみみ食客しょっきゃくになっていた時期じきとの年齢ねんれいともあう。 

ゆたかが「きゃくいえ」のような移住いじゅうにより繁栄はんえいしたみんによる集落しゅうらくであるならば、ゆたか劉邦りゅうほうしょうなにたがねおうりょう、雍のような田舎いなか集落しゅうらくとはおもえないような優秀ゆうしゅう人物じんぶつ多数たすう輩出はいしゅつした理由りゆうもある程度ていど納得なっとくできる。 

白馬はくばめいについて 

しろうまめい」とは、劉邦りゅうほうしろうまをいけにえにしてささげげて、そのたがいにすすりあって、「りゅう以外いがいのものがおうとなった場合ばあい、また、功績こうせきがないものをほうにすることがあった場合ばあいてんしたきょうちからして、討伐とうばつするように」という劉邦りゅうほう功臣こうしんたちとのあいだおこなわれた盟約めいやくである。 

時期じき不明ふめい研究けんきゅうものによると、劉邦りゅうほう死去しきょする直前ちょくぜんであるかんじゅうねん紀元前きげんぜん195としさんがつ推測すいそくされている)であり、おうりょうしゅうおっとしゅうあふ、しゅう勃の)の発言はつげんなどからし確認かくにんできないが、おうりょうひねひらたしゅう勃は出席しゅっせきしており、しょうなに樊噲(はんかい)・なつこう(かこうえい)らのほかあるじ功臣こうしんたちも出席しゅっせきしていたものとおもわれる。 

ただし、この盟約めいやく当時とうじとしてはどこまで真剣しんけんなものとしてめられたか、不明ふめいである。 

当時とうじりゅう以外いがいおうとしては、ちょうすなおう芮(ごぜい)がいた。また、戦国せんごく時代じだい項羽こうう統治とうち時代じだい劉邦りゅうほう当初とうしょ統治とうち時代じだいにおいて、各地かくちおう存在そんざいし、劉邦りゅうほうりゅうだけをおうにすることが万民ばんみん理解りかいていたとはかんがえにくく、かんしん彭越のようにほとんどいがかりでおうはいしたものもあり、結果けっかてき反乱はんらんきたためにりゅうおうばかりになったという側面そくめんつよかった。 

このとき劉邦りゅうほうてんいのちがあったとあるじちょうしても、それはただたんに、はた項羽こうう討伐とうばつしててんしたひらたじょうしたみのるちから功績こうせきみとめられた結果けっかである。 

また、功績こうせきがないものはほうふうじないということも、平和へいわ時代じだいつづけば、功績こうせきてにくい。あたらしく政務せいむたずさわる人物じんぶつが、ほうになれないなら、功臣こうしんちよりひく立場たちばとなり、政務せいむおこないにくいという問題もんだい発生はっせいする。 

反乱はんらん相次あいついだことでもかるように、当時とうじ劉邦りゅうほうには儒教じゅきょうてき宗教しゅうきょうてき権威けんいとぼしく、劉邦りゅうほう言葉ことばがどこまでおもんじられたか疑問ぎもんである。 

それゆえ、この「しろうまめい」にそむいて、りょおうとしたりょ雉がかん王朝おうちょうをはかろうとしたという意見いけんや、おうりょうかん王朝おうちょう忠臣ちゅうしんであり、りょ雉の政権せいけんつかえた人物じんぶつかん王朝おうちょう劉邦りゅうほうへのちゅうまことうすかったという意見いけんを、史実しじつめることには、慎重しんちょうようする。 

劉邦りゅうほう遺言ゆいごんについて 

よくられる劉邦りゅうほう遺言ゆいごん内容ないようは、「しょうなに死後しごかん王朝おうちょう政治せいじまかせるのは、まず、曹参であり、そのおうりょうひねひらたにする。大尉たいいにはしゅう勃はにんじる。そのったことではない」であり、劉邦りゅうほうひとさきちからたか評価ひょうかされている。 

しかし、これは、劉邦りゅうほう予想よそうあまにも正確せいかくぎるうえ功臣こうしんたちの死亡しぼうする順番じゅんばんまで年長ねんちょうおうりょうふくめててている。また、劉邦りゅうほうであるめぐみみかどりゅうみつる)がしょうなに後任こうにん曹参にしたらどうかということを打診だしんしたこととの整合せいごうせいあやしくなる。 

また、これは、りょ雉のからればあま都合つごうのいい人事じんじであり、このとき絶賛ぜっさん劉邦りゅうほう誅殺ちゅうさつ実行じっこうちゅうであった樊噲がいないことをのぞけば、りょ雉がえらんでも、このような人事じんじになったとおもわれる人物じんぶつばかりである。 

しょうなには、長安ながやすにおいて政治せいじりょ雉ときょうちからしあった人物じんぶつであり、かんしんをともにころした共犯きょうはんしゃである。曹参中央ちゅうおうべば、めぐみみかど地位ちいをおびやかすひとしおうりゅうこえりゅうひ。めぐみみかどあに)からはなせる。おうりょうりょ雉のすくった恩人おんじんであり、ひねひらたりょ雉にきょうちからてき人物じんぶつであったとおもわれる。しゅう勃は、それほど政治せいじけておらず、較的、あつかいやすい。 

それゆえに、この遺言ゆいごん内容ないよう本当ほんとうにこのようであったか、うたが研究けんきゅうものもいる。

おうりょう関係かんけいする人物じんぶつたち 

おうりょうおなじくゆたか出身しゅっしん人物じんぶつであり、関係かんけいがあったとおもわれる雍おう吸・薛欧、おうりょうしたがったとかんがえられる戚鰓おうりょうちちとしてつかえたちょうあおいについて紹介しょうかいする。 

雍歯(ようし) 

本文ほんぶんにあるとおり、ゆたか出身しゅっしんごうぞくであった。おうりょうとはなかかったが、沛県にいた反乱はんらんこすまえ劉邦りゅうほうとはなかわるく、なんもはずかしめたことがあった。沛県やゆたかでは、ごうぞくである雍さからうことは困難こんなんであったのだろう。 

劉邦りゅうほうが沛県において反乱はんらんこしたときは、劉邦りゅうほうしたがい、劉邦りゅうほうはた地方ちほうぐん勝利しょうりかさねていたときに、ゆたか守備しゅびまかされる。 

しかし、元々もともと劉邦りゅうほう部下ぶかになりたくなかった雍は、たかしくにしゅう巿から「ゆたか元々もともとたかしだいはりから移住いじゅうしてきた人々ひとびとあつまった集落しゅうらくだ。たかしはすでにすうじゅうしろ攻略こうりゃくしてきた。雍くだふくすれば、ゆたかほうふうじる。だが、抵抗ていこうするなら皆殺みなごろしにするだろう」という説得せっとくけて、劉邦りゅうほう裏切うらぎったため、ゆたかたかし領地りょうちとなった。そのゆたか劉邦りゅうほうぐんによってめられたが、まもいた。 

劉邦りゅうほう病気びょうきになり、雍自分じぶんはんした故郷こきょうゆたかひとたちを相当そうとううらんだ、とつたえらえる。 

しかし、劉邦りゅうほうちょうりょうすけちからによって碭(とう)ぐんうばってへいちからて、さらに、すわえこうはり(こうりょう、項羽こうう叔父おじ)からも援軍えんぐんける。ゆたかかえしてきた劉邦りゅうほうぐんによってめられる。今度こんどは、雍まもれず、たかし逃亡とうぼうした。 

そのちょうくにつかえてその武将ぶしょうになっていたらしいが、詳細しょうさいなことはからない。劉邦りゅうほうせきちゅう制圧せいあつしたころに、劉邦りゅうほう部下ぶかとなり、その劉邦りゅうほう従軍じゅうぐんして功績こうせきをあげた。劉邦りゅうほう部下ぶかとなった時期じきると、ちょうでは、ちょうみみつかえていたのうせいたかいとおもわれる。 

劉邦りゅうほうてんしたひらたじょうしたのちあるじだった功臣こうしんたちの論功行賞ろんこうこうしょうおこなった。しかし、雍ふくむほとんどのものは恩賞おんしょうけることができず、武将ぶしょうたちは謀反むほん相談そうだんするようになった。 

そこで、そのことをったちょうりょうは、このことを劉邦りゅうほうつたえる。さらに、劉邦りゅうほうにたずねた。 

ちょうりょう「あなたが群臣ぐんしんなかでももっとにくんでいる人物じんぶつだれですか?」 

劉邦りゅうほう「雍じゃ。あいつはずっとまえからわしをなんくるしめてきた。いまでも、ころしてやりたいのだが、功績こうせきおおきいので、ころせないでいるのだ」 

ちょうりょうそれなら、すぐに雍をまず諸侯しょこうふうじてください。そのことを群臣ぐんしんしめせば、『雍ですら恩賞おんしょうけたのだから、自分じぶん大丈夫だいじょうぶだろう』とおもうでしょう」 

劉邦りゅうほうさけみながらちょうりょうはなしいていたが、氷解ひょうかいして、すぐにさけいたとつたえられる。 

そのため、雍はすぐに、かたこう(じゅうほうこう)にふうじられ、せんひゃくあたえられた。かん功臣こうしんとしての順位じゅんいだい57くらいである。 

劉邦りゅうほうつづき、功臣こうしんたちをふうつづけたため、群臣ぐんしんたちは「雍ですら諸侯しょこうとなったのだから、心配しんぱいする必要ひつようはないだろう」と謀反むほん計画けいかくりやめたとつたえられる。 

なお、雍ふうじられたほうという土地とちは、不便ふべんかんなか存在そんざいし(諸侯しょこう長安ながやすにとどまっていのか、くにおもむかないといけないのか不明ふめいである)、劉邦りゅうほうにはいまだ雍へのうらみの気持きもちはのこっていたとおもわれる。三国志さんごくし雍闓(ようがい)は雍子孫しそんであるため、どうやら、雍本当ほんとうにその基盤きばんいたらしい。 

また、劉邦りゅうほう晩年ばんねんまでゆたか人々ひとびとが、自分じぶんはんしてくるしめたことをっており、沛県のひとぜい免除めんじょしたのに、ゆたかひとぜい免除めんじょすることを、かつて自分じぶんはんしたことを理由りゆうにためらっている。ただし、そういつつも、結局けっきょくぜい免除めんじょしている。 

地盤じばんであるゆたかうしなってからも、ちょうでは武将ぶしょうになり、かんでも項羽こううとのたたかいでかなりの手柄てがらてているようなので、かなり優秀ゆうしゅう人物じんぶつであったようである。 

江戸えど時代じだい中国ちゅうごく講談こうだん小説しょうせつ翻訳ほんやくした『通俗つうぞくかんすわえ軍談ぐんだん(横山よこやま光輝みつてる項羽こうう劉邦りゅうほう』の原作げんさくとなった作品さくひん)では、雍項羽こうう武将ぶしょうであり、劉邦りゅうほうめたため、劉邦りゅうほううらまれていたという設定せっていとなっている。 

おう吸(おうきゅう) 

おうりょう同様どうようゆたか出身しゅっしんおもわれる。ゆたかにおいて、劉邦りゅうほう配下はいかとなり、ちゅう涓(ちゅうけん、劉邦りゅうほう上級じょうきゅう側近そっきん)ににんじられた。劉邦りゅうほう従軍じゅうぐんして、せきちゅうはいり、ろうはた(きろうしょう)に昇進しょうしんした。さらに、かんおうとなった劉邦りゅうほうかん中入なかいりにしたがい、将軍しょうぐんにんじられている。 

劉邦りゅうほう決起けっきし、せきちゅう攻略こうりゃくして、咸陽をうばい、しょしょうせきちゅう周囲しゅうい攻略こうりゃくさせたときに、薛欧とともに、せきちゅうみなみにあるせきから出撃しゅつげきし、南陽なんようにいたおうりょうぐん合流ごうりゅうしている。 

おう吸たちは、すわえ領土りょうどにあった沛かゆたかにいたとおもわれる劉邦りゅうほう家族かぞくむかえてれようとしたが、ひがしにあるなつという土地とちにおいて、すわえぐんはばまれて、進軍しんぐんできなかった。そのため、劉邦りゅうほう家族かぞくをこのときすくすことはできなかった。 

そのは、項羽こううとのたたかいで功績こうせきをあげている。 

論功行賞ろんこうこうしょうときに、せいよう(せいよう)こうふうじられ、さんせんいちひゃくあたえられた。かん功臣こうしんとしての順位じゅんいだい14くらいである。 

おうりょう同姓どうせいおなゆたか出身しゅっしんであり、独立どくりつせいつよかったおうりょう連絡れんらく合流ごうりゅうする任務にんむあたえられているため、おう吸はおうりょう同族どうぞくではないかと推測すいそくする研究けんきゅうものもいる。 

薛欧(せつおう) 

おうりょう同様どうようゆたか出身しゅっしんおもわれる。ゆたかにおいて、劉邦りゅうほう配下はいかとなり、舎人とねり(しゃじん、劉邦りゅうほう下級かきゅう側近そっきん)ににんじられた。そのは、劉邦りゅうほう側近そっきんであるろうちゅうにんじられる。 

かんおうとなった劉邦りゅうほうかん中入なかいりに同行どうこうし、将軍しょうぐんにんじられる。おう吸とともに、劉邦りゅうほう家族かぞくむかれようと、おうりょうぐん合流ごうりゅうして、進軍しんぐんしたが、すわえぐんはばまれる。 

そのは、将軍しょうぐんとして、項羽こううや鍾離眛(しょうりばつ。項羽こうう部下ぶかゆうちから武将ぶしょう)とのたたかいで功績こうせきをあげた。 

論功行賞ろんこうこうしょうときに、ひろひらた(こうへい)こうふうじられ、よんせんひゃくあたえられた。かん功臣こうしんとしての順位じゅんいだい15くらいである。 

おうりょう合流ごうりゅうして行動こうどうする任務にんむあたえられたのは、かれおなゆたか出身しゅっしんであり、おうりょう面識めんしきがあったためであるとかんがえられる。 

戚鰓(せきし) 

沛の出身しゅっしん当初とうしょは、ろう劉邦りゅうほう側近そっきん)ににんじられた。 

劉邦りゅうほう南陽なんようぐんとし、みずまでぐんすすめたときおうりょうとともに西陵せいりょうという土地とちにおいて、劉邦りゅうほうくだふくした。このとき劉邦りゅうほうによって、こうたけしこう(こうぶこう)にふうじられている。 

このため、本文ほんぶんでは、おうりょう劉邦りゅうほうぐんけて西にし進軍しんぐんしたとき行動こうどうをともにしたものと解釈かいしゃくしている。 

のちに、じょう(とい。将軍しょうぐん地位ちい)ににんじられて、蘄しろ(きじょう)という土地とちまもった。そのは、中尉ちゅういほう(ちゅういこう)にふうじられた。 

論功行賞ろんこうこうしょうときに、臨轅(りんけん)こうふうじられ、ひゃくあたえられた。かん功臣こうしんとしての順位じゅんいだい116くらいである。 

劉邦りゅうほうちょういと側室そくしつである戚夫じんおなせいであるが、同族どうぞくではないようである。 

ちょうあおい(ちょうそう) 

沛よりはるか西にしにあるたけ(ようぶ)という土地とち出身しゅっしんちち身長しんちょうしゃくたなかったが、かれはちしゃくあまもあり、おおきくえて色白いろじろよし男子だんしであった。 

ちょうあおい書籍しょせきおとりつこよみこのんだ文化ぶんかひとでもあり、はた時代じだいはたである咸陽において、(ぎょし)という地位ちいについていたが、つみおかして故郷こきょうかえっていた。 

劉邦りゅうほうぐんが咸陽をゆびして、西にし進軍しんぐんし、たけ土地とちとおりかがったとき劉邦りゅうほうぐんはいり、きゃく地位ちいについた。しかし、南陽なんようめていたときに、軍法ぐんぽうおかして処刑しょけいされそうになった。 

このときとおりがかったおうりょうちょうあおいよし男子だんしぶりをて、劉邦りゅうほう口添くちぞえした。そのため、ちょうあおい死刑しけいをまぬがれる。ちょうあおいおうりょう恩義おんぎかんり、おうりょうぬまで、かれちちとしてつかえた。 

ちょうあおいは、劉邦りゅうほう従軍じゅうぐんして、たけせきけ、ともに咸陽にはいる。また、かんおうとなった劉邦りゅうほうかん中入なかいりに同行どうこうし、せきちゅう討伐とうばつにも従軍じゅうぐんした。 

劉邦りゅうほうかんしんちょう討伐とうばつめいじたときに、常山つねやま(じょうざん)ぐんぐんまもりにんじられ、かんしん従軍じゅうぐんして、ちょうひねあまり(ちんよ)との戦闘せんとうくわわった。戦争せんそうだい勝利しょうりわり、ちょうあおいひねあまりらえた。ちょう土地とちひらたじょうされたのちちょうあおいだいそう宰相さいしょう)ににんじられ、だいまもいた。 

ちょうみみ(ちょうじ)がちょうおうふうじられたのちちょうあおいちょうみみそう宰相さいしょう)となった。ちょうみみ死後しごは、つづき、そのでありちょうおう地位ちいいだちょう敖(ちょうごう)のそうとなる。 

さらに、うつってだいそうとなった。 

劉邦りゅうほうてんしたひらたじょうされたのち反乱はんらんこしたつばめおう荼(ぞうと)にたいして、劉邦りゅうほうしたがって、だいそうとして、荼を攻撃こうげきして、功績こうせきをあげる。 

おうりょう論功行賞ろんこうこうしょうけたころ恩賞おんしょうけて、「きたひらた(ほくへい)こう」にふうじられ、せんひゃくあたえられ、列侯れっこう一人ひとりとなった。 

ちょうあおいてん下中しもなか図書としょ文書ぶんしょくわしく、算術さんじゅつおとりつこよみ得意とくいとしていたため、中央ちゅうおうばれて、かんそうくにであったしょうなに部下ぶかとして、かん財政ざいせいつかさかんであるけいしょう(けいしょう)やあるじけい(しゅけい)ににんじられる。ちょうあおいは、かんおとりつこよみただしいかたちなおした。やがて、ちょうあおいしょうなに役所やくしょで、てんしたぐんくに報告ほうこくけるものたちの統括とうかつまかされた。 

かんじゅうねん紀元前きげんぜん195とし)、黥布(げいふ)が反乱はんらんこし、ほろんだのちに、みなみ(わいなん)おうふうじられたりゅうちょうりゅうちょう)のそうくににんじられる。 

こうきさきはちねん紀元前きげんぜん180とし)、かん王朝おうちょう実権じっけんにぎっていたりょひねひらたしゅう勃たちにほろぼされると、ちょうあおいはまた、中央ちゅうおうばれ、丞相じょうしょう地位ちいである大夫たいふ(ぎょしたいふ)ににんじられる。 

ちょうあおいひねひらたしゅう勃らときょうちからして、だいおうであったりゅうつねりゅうこう。劉邦りゅうほうめぐみみかどおとうと後世こうせいかんぶんみかどばれる)を即位そくいさせる。 

すでにおうりょう死去しきょしていたが、休暇きゅうかときにはいつも、おうりょうつまのところに挨拶あいさつし、食事しょくじ献上けんじょうしたうえで、いえかえった、とつたえられる。 

ぶんみかどよんねん紀元前きげんぜん176とし)、丞相じょうしょうだった(かんえい)が死去しきょし、丞相じょうしょうにんじられた。ちょうあおいは、かんみずとくぎょう思想しそうによる。この時代じだいかんとくではなく、みずとくとみなしていた)であるため、くろ尊重そんちょうし、おとりつ調整ちょうせいして音楽おんがく反映はんえいさせ、法令ほうれいさだめたうえで、すべてのながさ・おもさの基準きじゅんさだめて、こうじんつくらせた。 

また、ちょうあおいは、かん王朝おうちょうおとりつこよみ基準きじゅんさだめた。ちょうあおいは、書物しょもつこのんでおり、つうじないものはなく、とくおとりつこよみにすぐれていた。 

ちょうあおいながあいだかん王朝おうちょう丞相じょうしょうであったが、ぶんみかどじゅうねん紀元前きげんぜん165とし)、かん王朝おうちょうとくあるじちょうする意見いけんがあらわれ、ぶんみかどとく基準きじゅんとしたこよみ制度せいどあらためめる(まだ、かんとくではない。かんとくになったのは正式せいしきにはこうかんからである)。 

この事件じけんから、ちょうあおいは、ぶんみかどたいして卑屈ひくつとなり、病気びょうきいをくちすようになった。 

また、ちょうあおい推薦すいせんした人物じんぶつ汚職おしょくおこなったため、ぶんみかどによってめられる。ぶんみかどじゅうはちねん紀元前きげんぜん162とし)、ちょうあおい病気びょうきしょうして、辞職じしょくした。ちょうあおい丞相じょうしょうであった期間きかん15としであった。 

辞職じしょくしたのちちょうあおいいてく、わかむすめちちははとなり、そのちちだけをんだ。ちょうあおいつまわらわひゃくひとえ、一度いちどをはらんだものは二度にどちょういとなかった。 

けいみかどねん紀元前きげんぜん152とし)、死去しきょする。としひゃくすうさいであった。このとき、すでにぶんみかど死去しきょしていた。

創作そうさくぶつにおけるおうりょう

通俗つうぞくかんすわえ軍談ぐんだん

中国ちゅうごく講談こうだん江戸えど時代じだい翻訳ほんやくした講談こうだん小説しょうせつ横山よこやま光輝みつてる項羽こうう劉邦りゅうほう』はこれをベースにした作品さくひんである。 

おうりょう劉邦りゅうほう忠実ちゅうじつ武将ぶしょう一人ひとりであり、劉邦りゅうほうぐんなかでも、かんしん軍事ぐんじのうちから知勇ちゆう兼備けんび名将めいしょうである。かんしん不在ふざいときに、かんしんからのちたく名将めいしょうとして推挙すいきょされ、項羽こうう一度いちど退しりぞけたことがある。 

項羽こううはは人質ひとじちられてしまい、項羽こううもとおもむこうと劉邦りゅうほうねがる。劉邦りゅうほうおうりょうははへの使者ししゃとして叔孫どおり(しゅくそんつう)をおくるが、おうりょうははおうりょうに「劉邦りゅうほうつかえるように」とつたえて、自殺じさつしてしまう。 

史書ししょとはちがい、項羽こううおうりょうはは手厚てあつとむらったが、このことはつたえられなかったこともあって、おうりょうははにおいやった項羽こううにくみ、劉邦りゅうほうちゅうまことちかう。ただ、ははによる打撃だげきもあって、その項羽こううとのたたかいでは以前いぜんほどの活躍かつやくはみられなかった。 

この作品さくひんおうりょうは、名将めいしょう劉邦りゅうほう忠臣ちゅうしんははへの孝子こうしと、史書ししょとはかなりイメージちが人物じんぶつぞうえがかれている。 

なお、おうりょうはははなしは、『三国志さんごくし演義えんぎ』のじょはなしているが、史書ししょ記述きじゅつ関係かんけいから、おうりょうほうもとではないかとおもわれる。 

本宮もとみやひろこころざしあか龍王りゅうおう』 

序盤じょばんにおいて、すこしだけ登場とうじょう劉邦りゅうほうくちふくんださけかおきかけられ、劉邦りゅうほうたるごとの一気いっきみを強要きょうようする沛県のやくざのおやぶんとして登場とうじょうする。 

ここだけで、この作品さくひんからはフェードアウトするが、まさか、史実しじつではここまで重要じゅうよう人物じんぶつだとは到底とうていおもえなかった読者どくしゃおおいだろう。 

高橋たかはしのぼる『劉邦りゅうほう

2021としがつにおいて、連載れんさいちゅう作品さくひん。 

この作品さくひんおうりょうは、沛県のやくざのだいおやぶんであり、あばしゃの雍だいいち子分こぶんとし、てんせいちからゆうし、人気にんきのある劉邦りゅうほうのことをよくおもっていない人物じんぶつとしてえがかれている。 

これは、史書ししょにおけるさんにん関係かんけいせいおうりょう行動こうどうかんがえると、妥当だとう解釈かいしゃくであるとおもわれる。 

おうりょうは、沛県に劉邦りゅうほうおおきな障害しょうがいとしてちはだかる。

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かくしとねりょふとしきさき権力けんりょく構造こうぞう 前漢ぜんかん初期しょきしょりょらん」をがかりにexit(九州大学きゅうしゅうだいがく出版しゅっぱんかい)

りょ雉(りょきさき)の統治とうちについて、劉邦りゅうほう時代じだいにさかのぼって研究けんきゅうした専門せんもんしょ専門せんもんしょなかでは、抜群ばつぐんかりやすく、やすい。いままでの劉邦りゅうほうりょ雉の統治とうち前漢ぜんかん初期しょき時代じだい事件じけん人物じんぶつについて、大胆だいたんにかつての通説つうせつ学説がくせつたいして疑問ぎもんていし、あたらしい見方みかた提案ていあんした書籍しょせきである。 

この書籍しょせきなかで、おうりょうについて考察こうさつした部分ぶぶんがある。「だいよんしょう りょふとしきさきけんちから基盤きばん衰退すいたい官僚かんりょう任用にんよう政策せいさく変化へんか だいせつ 丞相じょうしょうけん分割ぶんかつ大尉たいい復活ふっかつ いち おうりょうについて」の部分ぶぶんであり、やくページにわたって、考察こうさつされている。 

かつては、劉邦りゅうほう密接みっせつ関係かんけいにあり、りゅうてんしたまもるためにりょ雉を諫めた劉邦りゅうほう忠実ちゅうじつ人物じんぶつ一人ひとりとみなされていたおうりょうについて、(りょ雉の二人ふたりたすけた関係かんけいから)りょ雉と個人こじんてきなつながりがあったとかんがえられること、おうりょうはあくまで任侠にんきょうとして約束やくそくまもらないといけないという信念しんねんがあっただけで、劉邦りゅうほうりょ雉にも忠実ちゅうじつではなかったという見方みかたおこなっている。

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おうりょう

1 ななしのよっしん
2021/11/21(日)にち 16:38:36 ID: +hdvKK9rx7
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2 ななしのよっしん
2023/05/04(木)もく 22:35:29 ID: r0Bu0BAT4L
>>1
まさに横山よこやま作品さくひんの「項羽こうう劉邦りゅうほう」「史記しき」の知識ちしきしかないから
この記事きじだらまさかの劉邦りゅうほう同郷どうきょう兄貴あにきぶんビックリした。
大体だいたいちょうくもみたいな忠臣ちゅうしん名将めいしょうキャラ後事こうじまでたくされたんだな、ぐらいの認識にんしきだったよ。

ちなみにこの記事きじまよんだ理由りゆうゲームあか龍王りゅうおう動画どうがてて
ウリョウってキャラてきたからだれやねんこいつと検索けんさくしたから。
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3 ななしのよっしん
2023/09/05(火) 13:30:34 ID: ak9U/g6n84
本宮もとみやひろこころざし先生せんせいの「あか龍王りゅうおう」だとヤクザおやぶんみたいな位置いちだった。
うえ2人ふたりおなじく、自分じぶんおうりょうイメージ横山よこやま光輝みつてる先生せんせいイメージだったわらい
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