盧植、字は子幹は後漢末の人物。黄巾の乱で活躍した武将であり、権力者を恐れずに、たびたび諫言した政治家でもある。学者としても名高く、公孫瓚と劉備の学問の師としても知られる。生年不明~192年没。
名門、范陽盧氏の始祖であり、彼の後裔を称する子孫たちは、様々な分野で名を残している。
後漢の名臣
若き日
幽州涿郡涿県の出身。若い頃に伏波将軍馬援の末裔である馬融の下で、学問を数年間学んでいる。高名であるが酔狂な馬融は、講義の際にも女人を侍らせ、歌舞を楽しんでいる有様であったが、盧植は目もくれずに学問に打ち込んだので、馬融から敬意を払われたという。また、旧知の鄭玄を馬融に紹介し、共に学んでいる。
外戚の竇武は霊帝を擁立し、大将軍として権勢を誇っていた。竇武に配慮した朝廷が、彼に封爵をおくろうとした時、まだ官にすら就いていなかった盧植は竇武に書簡を送り、その立場の危うさを指摘したが、竇武は取り合わなかった。
政治を正す
官界に入った盧植は朝廷で博士、議郎、侍中を務め、尚書にまで昇進する。また蔡邕、楊彪たちと共に史書の編纂にあたっている。霊帝の時代、政治が乱れており、盧植は日食を機に政治を改めるように、霊帝に方策を示した上書を提出したが、受けいられる事はなかった。
地方では蛮賊によって治安が乱れており、盧植は太守として平定にあたり、恩威を持って対処した。盧植の統治は大まかに見えて、良く治めるものであった。
後進を育てる
一時、故郷の涿郡に戻って、学舎を開く事があり、この時に公孫瓚や劉備たちの先生となっている。彼らは乱世で活躍した人物であるが、高誘のように学者として大成した人物もいる。
劉備の学生時代は書に親しむ事はなく、遊興を好んだという逸話もある。
黄巾の乱
184年、黄巾の乱では盧植は四府(大将軍府、大尉府、司徒府、司空府)の推挙を受けて、北中郎将(北方の遠征軍指揮官)として抜擢される。教祖張角のいる冀州へと派遣され、連戦連勝で黄巾賊を打ち破って賊徒万余人を斬る。ついには張角の立て籠もる城に、雲梯をかけるところまで追い詰めたが、監察の宦官に賄賂を贈らなかったので、職務怠慢と讒言されてしまう。怒った霊帝は死罪こそ免じたものの、盧植を免職し、檻車に入れて更迭する。
盧植に替わって東中郎将董卓が戦線を引き継いだが、董卓は敗北し、左中郎将皇甫嵩によってようやく平定された。皇甫嵩が盧植の功績は非常に大きいと賞賛して、濡れ衣を晴らしたので、尚書として復職を許される。
董卓に逆らう
外戚の何進と宦官との権力争いでは、宦官を排除する為に、何進は董卓を招集しようとした。董卓の凶暴さを知っていた盧植は思いとどまるように諫言したが、き入られる事はなかった。何進が宦官に暗殺されると、盧植は袁紹たちと共に武器をとって、宦官を討伐する。
盧植の懸念通り、上洛した董卓は何進亡き後の朝廷をほしいままにし、ついには今の皇帝(少帝)を廃して、陳留王(献帝)を擁立すべく、百官を集めて討議させた。誰もが董卓を恐れて口を閉ざす中で、盧植一人が声を上げて反対したので、怒った董卓は盧植を処刑しようとする。蔡邕たちが取りなしたので、死は免じられたものの、免職となった盧植は、これ以上董卓の下に留まるのは災いになると思い逃亡する。董卓は追手を差し向けたが、逃げ切る事に成功した。
晩年
故郷の近くまで落ち延びた盧植は、人と交わる事を避けて隠棲生活を送る。やがて袁紹から軍師として招かれるが、それも長い事はなく、董卓が暗殺された同年の192年に病死した。息子には自分の亡骸は棺に入れる必要は無く、布に包んで簡素に埋葬するように遺言している。
人物
盧植は八尺二寸という2m近い豪傑で、声は大鐘のように良く響いた。一石(20リットル)を嗜む大酒飲みであったが、決して酔う事はなかったという。剛毅で節義に富み、救世の志を持って行動していたので、天下の声望を集めていた。曹操も「国家の柱である」と、その功徳を偲んでいる。
学者として様々な学問に通じていたが、特に儒学者として名高く、いくつかの著書や注釈も遺している。文武両道の儒将であり、戦場に立つ時も、儒服をまとっていたといわれる。
子孫
盧植には少なくとも4人の息子がいたが、後漢末の動乱で多くは名も伝わらず早く亡くなり、盧毓のみが生き延びている。盧毓は父の遺徳や自身の有能さもあって、曹操に引き立てられて魏の重臣となっている。曹髦の代では司空にまで昇り、司馬一族からも重用されている。
盧植と陸遜
当人たちは何の接点もないが、盧植と陸遜の子孫が不仲であった。西晋の時代、盧植のひ孫の盧志は八王の一人である司馬穎の腹心として重用されていたが、陸遜の孫の陸機、陸雲兄弟を妬んで嫌がらせをしていた。ついには兄弟が陥れられて司馬穎に処刑される事件にも関与する。これだけ見ると盧志は奸臣であるが、基本的にはまともな人物で、八王の乱で洛陽が焼かれようとした時に「董卓が洛陽を焼いて100年経っても怨みが残っています、また同じ事をするのですか?」と言ってやめさせている。
范陽盧氏
盧植を祖とする范陽盧氏は、後の時代でも多くの優秀な人物を輩出し、処世術を誤らず、代を重ねて繁栄する。北魏の時代には五指に入る大貴族となり、唐にいたっては8人もの宰相を送り出し、貴族制が崩壊した五代十国~宋初でも3人の宰相を出している。先祖に同郷同姓の有名人を仮託する事は中国史ではよくある事なので信憑性は不明(一応史書で立証はされている)であるが、本当だとすれば盧植の子孫は後漢から宋初の時代まで約800年間、社会的地位を保っていた事となる。
中には盧循のような東晋における反乱の首謀者や、盧鉉、盧杞のような唐の奸臣も存在する。
三国志演義(吉川三国志)
演義でも劉備の先生。黄巾の乱では劉備は旧恩に報いようと義勇軍を率いて、一時盧植の官軍に参加している。演義での盧植は良心的ではあるが、黄巾賊に苦戦(官軍が弱く、賊軍の数が多いのも理由)し、劉備の事も最初は忘れており、やや頼りない人物となっている。史実通り賄賂を拒否して更迭され、檻車で送られている途中で劉備と再会する。義憤にかられた張飛は助けようとするが、法を重んじる劉備に止められている。史実の盧植だと自分で檻車をぶち破れそうであるが。後に讒言した宦官が失脚したので復職する。
以降の動向はおおむね史実に沿っている。朝廷では硬骨漢としての顔を見せ、董卓に睨まれてからは、袁紹に仕える事はなく隠棲し、劉備と再会する事なく、物語からは退場している。
三國志(コーエー)
コーエーの三國志シリーズにおける盧植の能力一覧。赤字は80以上の能力。都督タイプという概念が無い時代の都督タイプの名将。曹操や劉備より世代が上の人物なので、寿命がすぐに尽きてしまう。
関連項目
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