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エーリッヒ・ケストナー - Wikipedia

エーリッヒ・ケストナー

ドイツの詩人しじん作家さっか
わたしがどもだったころから転送てんそう

エーリッヒ・ケストナーErich Kästner1899ねん2がつ23にち - 1974ねん7がつ29にち)はドイツ詩人しじん作家さっかである。

エーリッヒ・ケストナー
Erich Kästner
エーリッヒ・ケストナー(1961ねん
誕生たんじょう 1899ねん2がつ23にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこくドレスデン
死没しぼつ (1974-07-29) 1974ねん7がつ29にち(75さいぼつ
西ドイツの旗 西にしドイツミュンヘン
職業しょくぎょう 小説しょうせつ詩人しじん
国籍こくせき ドイツの旗 ドイツ
ジャンル 児童じどう文学ぶんがく
文学ぶんがく活動かつどう 廃墟はいきょ文学ぶんがくTrümmerliteratur
47ねんグループ
代表だいひょうさくエーミールと探偵たんていたち
教室きょうしつ
ふたりのロッテ
おも受賞じゅしょうれき ゲオルク・ビューヒナーしょう(1957)
国際こくさいアンデルセンしょう(1960)
署名しょめい
ウィキポータル 文学ぶんがく
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生涯しょうがい

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ドレスデン記念きねんかんにあるケストナーのブロンズぞう

ドレスデンのノイシュタットにまれた。ちちエミール・ケストナーはかばんづくりの手工業しゅこうぎょうしゃだったが、産業さんぎょう工業こうぎょうのあおりをけて、工業こうぎょう労働ろうどうしゃになり、母親ははおやイーダ(旧姓きゅうせいアウグスティーン)はおっとすくない労働ろうどう賃金ちんぎんおぎなうため、理容りようになる(『わたしがどもだったころ』に詳細しょうさい)。本当ほんとう父親ちちおやユダヤじん主治医しゅじいエミール・ツィンマーマン (Emil Zimmermann (1864–1953)) 博士はかせで、不倫ふりん子供こどもであった、とわれているがケストナー本人ほんにんはそれについて言及げんきゅうしておらず、また、その根拠こんきょだい多数たすう伝聞でんぶんであることから、いまだ結論けつろんていない。

教師きょうしになろうとして、教師きょうし養成ようせいするせんもんギムナジウム中高なかだか一貫いっかん教育きょういくこう)に入学にゅうがくだいいち世界せかい大戦たいせん兵士へいしとして召集しょうしゅうされる。命令めいれい服従ふくじゅうという関係かんけいしかなかった学校がっこう軍隊ぐんたい反発はんぱつかんじ、大学だいがく進学しんがくめる。ライプツィヒ学業がくぎょうかたわら、新聞しんぶん編集へんしゅう委員いいんをしながら、や、舞台ぶたい批評ひひょう発表はっぴょう空前くうぜんのインフレ影響えいきょうもあり、苦労くろうして大学だいがく卒業そつぎょうしたのちベルリン詩人しじんとしてみとめられた。

辛辣しんらつで、皮肉ひにくつよパロディや、厭世えんせいてきでシニカルな作品さくひんおお発表はっぴょうする。また、恋愛れんあい対象たいしょうとしたものもおおい。1928ねん発表はっぴょうした子供こどものための小説しょうせつエーミールと探偵たんていたち』が好評こうひょうで、次々つぎつぎ子供こどものための小説しょうせつ執筆しっぴつし、児童じどう文学ぶんがく作家さっかとして世界せかいてき有名ゆうめいになった。とりわけ、世界せかい各国かっこくなん映画えいがされた、どうタイトルの映画えいが有名ゆうめい。ケストナー作品さくひん挿絵さしえは「エーミールと探偵たんていたち」執筆しっぴつあい前後ぜんごしてった画家がかイラストレーターヴァルター・トリアー (de:Walter Trier 1890-1951) がおおがけ、その関係かんけいはトリーアの死去しきょまでつづいた。

成人せいじんけの文学ぶんがく作品さくひんでも健筆けんぴつるった。ベルリンの荒廃こうはいえがいた『ファビアン あるモラリストの物語ものがたり』(1931ねん)はだい世界せかい大戦たいせん世代せだい日本にっぽん作家さっかたち(織田おだ作之助さくのすけ吉行よしゆき淳之介じゅんのすけ開高かいこうけんなど)に、好意こういてきまれ、子供こどものためだけではない小説しょうせつとしてのかおせている。

自由じゆう主義しゅぎ民主みんしゅ主義しゅぎ擁護ようごし、ファシズム非難ひなんしていたため、ナチス政権せいけんると、政府せいふによって小説しょうせつ、ついで児童じどう文学ぶんがく執筆しっぴつきんじられた。ケストナーは父方ちちかたつうじてユダヤじんいていたが、「自分じぶんはドイツじんである」というほこりから、亡命ぼうめいこばつづけて偽名ぎめい脚本きゃくほんなどをつづけ、スイス出版しゅっぱんしゃから出版しゅっぱんした。ナチス政権せいけんによって自分じぶん著作ちょさく焚書ふんしょ対象たいしょうとなったさいにはわざわざ自分じぶん著書ちょしょかれるところを見物けんぶつしにいったという大胆だいたんなエピソードがある。ナチスもケストナーを苦々にがにがしくおもっていたが、拘束こうそくなどの強硬きょうこう手段しゅだんるにはケストナーに人気にんきがありぎ、ぎゃく民衆みんしゅう反発はんぱつおそれがあったため、ケストナーの著書ちょしょ焚書ふんしょにしたさい子供こどもたちに配慮はいりょして児童じどう文学ぶんがくだけは見逃みのがしたり、変名へんめいでケストナーが脚本きゃくほんいた映画えいがほら男爵だんしゃく冒険ぼうけん』を制作せいさくしたりしている。一方いっぽうベンヤミンふくむ、マルキシズム立場たちばからは、政治せいじてき立脚りっきゃくてんく、その理想りそうは、プチブルジョアのためのなぐさめでしかない、という批判ひはんける。

戦後せんご初代しょだい西にしドイツペンクラブ会長かいちょうとしてドイツ文壇ぶんだん中心ちゅうしんてき人物じんぶつになった。ちなみにドレスデンにいたケストナーの母親ははおやとは戦後せんご東西とうざいドイツ分断ぶんだんはなばなれになってしまったが、ひがしドイツ政府せいふもケストナーがはんナチをつらぬいたことたか評価ひょうか母親ははおや手厚てあつ保護ほごしたという。1960ねん、『わたしがどもだったころ』ですぐれた子供こどもほんおくられるだい3かい国際こくさいアンデルセンしょう受賞じゅしょうした。

長年ながねんルイーゼロッテ・エンダーレという女性じょせい生涯しょうがいともにらしていたが、内縁ないえん関係かんけいのままで生涯しょうがい結婚けっこんすることはなかった。ちなみに『ふたりのロッテ』の主人公しゅじんこうである双子ふたご姉妹しまい(ルイーゼとロッテ)は、この内縁ないえんつまけて名付なづけたことでられている。

ケストナーは1974ねん7がつ29にち死去しきょし、ルイーゼロッテとともにボーゲンハウゼン墓地ぼち埋葬まいそうされている。

ノーベル文学ぶんがくしょう候補者こうほしゃ公表こうひょうされている1971ねん以前いぜんに6(7にんから)ノミネートされていた(一方いっぽう自身じしん文学ぶんがくしゃ推薦すいせんしたことも3ある)[1]

主要しゅよう作品さくひん

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子供こども

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大人おとな

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詩集ししゅう

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  • こしうえ心臓しんぞう(1928ねん
  • かがみなか騒音そうおん(1929ねん
  • あるおとこ通告つうこくする(1930ねん
  • 椅子いすあいだ唱歌しょうか(1932ねん
  • 簡潔かんけつ
  • 日々ひび雑貨ざっか
  • 人生じんせい処方しょほう詩集ししゅう
  • 自著じちょ一覧いちらん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 2022ねん12月にNHK Eテレげられた[2]

出典しゅってん

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  1. ^ Erich Kästner - Nomination archive(ノーベル財団ざいだん英語えいご)2023ねん2がつ7にち閲覧えつらん
  2. ^ どもたちのために(マジ時々ときどきわらい”. NHK (2022ねん12月17にち). 2022ねん12月16にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2022ねん12月16にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • クラウス・コルドン ちょ須田すだあつし,木本きもとさかえ やく『ケストナー―ナチスに抵抗ていこうつづけた作家さっか偕成社かいせいしゃ、1999ねんISBN 4038142000 
  • 高橋たかはし健二けんじ『ケストナーの生涯しょうがい―ドレースデンの抵抗ていこう作家さっか福武書店ふくたけしょてん福武ふくたけ文庫ぶんこ〉、1992ねんISBN 4828832394 
  • スヴェン・ハヌシェク ちょ藤川ふじかわ芳朗よしろう わけ『エーリヒ・ケストナー なぞめた啓蒙けいもう生涯しょうがい白水しろみずしゃ、2010ねんISBN 978-4560080955 
  • 松本まつもと侑子ゆうこ『ヨーロッパ物語ものがたり紀行きこう幻冬舎げんとうしゃ 2005ねん (ISBN 4-344-01075-2)、(ケストナーについては pp.181-247)。
  • 岡田おかだ朝雄あさお・リンケ珠子たまこ『ドイツ文学ぶんがく案内あんない朝日出版社あさひしゅっぱんしゃ 1979ねん増補ぞうほ改訂かいてい 2000ねん (ISBN 4-255-00040-9)、(ケストナーについては pp.124-125)。

外部がいぶリンク

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