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織田作之助 - Wikipedia

織田おだ作之助さくのすけ

日本にっぽん小説しょうせつ (1913-1947)

織田おだ 作之助さくのすけ(おだ さくのすけ、1913ねん大正たいしょう2ねん10月26にち - 1947ねん昭和しょうわ22ねん1がつ10日とおか)は、日本にっぽん小説しょうせつ戦後せんご太宰だざいおさむ坂口さかぐち安吾あんご石川いしかわあつしらととも無頼ぶらいしん戯作げさくばれ「織田おだつくる(おださく)」の愛称あいしょうしたしまれる。『夫婦ふうふ善哉ぜんざい』で作家さっかとしての地位ちい確立かくりつ

織田おだ 作之助さくのすけ
(おだ さくのすけ)
誕生たんじょう 1913ねん10月26にち
日本の旗 日本にっぽん大阪おおさか大阪おおさかみなみ
げん天王寺てんのうじ
死没しぼつ (1947-01-10) 1947ねん1がつ10日とおか(33さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん東京とうきょうしば田村たむらまちげんみなと西新橋にししんばし
墓地ぼち 楞厳寺りょうがんじ大阪おおさか
職業しょくぎょう 小説しょうせつ
言語げんご 日本語にほんご
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
最終さいしゅう学歴がくれき だいさん高等こうとう学校がっこう中退ちゅうたい
活動かつどう期間きかん 1935ねん - 1947ねん
ジャンル 小説しょうせつ
文学ぶんがく活動かつどう 無頼ぶらいしん戯作げさく
代表だいひょうさく夫婦ふうふ善哉ぜんざい』(1940ねん
青春せいしゅん逆説ぎゃくせつ』(1941ねん
天衣無縫てんいむほう』(1942ねん
世相せそう』(1946ねん
土曜どよう夫人ふじん』(1946ねん
可能かのうせい文学ぶんがく』(1947ねん評論ひょうろん
デビューさくあめ』(1938ねん
ウィキポータル 文学ぶんがく
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織田おだ作之助さくのすけぞう大阪おおさか生國しょうごくたましい神社じんじゃ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

編集へんしゅう

1913ねん大正たいしょう2ねん)、大阪おおさかみなみ生玉前いくたままえまちげん天王寺てんのうじ上汐うえしお4丁目ちょうめなまたましい小学校しょうがっこう正門せいもんぜん付近ふきん)にて、仕出しだしのちに『いちぜに天麩羅てんぷら』に業態ぎょうたい変更へんこう)「魚春ぎょしゅん」の織田おだ鶴吉つるきち、たかゑの長男ちょうなんとしてまれる。仕出しだしとはえ、上汐うえしお町筋まちすじより路地ろじはいった所謂いわゆる裏店うらだな』(うらだな)であったが、中央ちゅうおう上汐うえしお1丁目ちょうめいちかく(『近松ちかまつ門左衛門もんざえもんはか』のすぐ東側ひがしがわ)に当時とうじ家並いえなみ(ひょうてん路地ろじ=長屋ながや)が唯一ゆいいつのこっている。当時とうじ両親りょうしん母方ははかたから結婚けっこん反対はんたいっていたため婚姻こんいんとどけ提出ていしゅつできておらず、戸籍こせきじょうははあに鈴木すずき安太郎やすたろうおい鈴木すずき作之助さくのすけ」というかたちをとった。作之助さくのすけが「織田おだ作之助さくのすけ」となるのは、1926ねん両親りょうしん正式せいしき入籍にゅうせきたしてからである。

1917ねんちち商売しょうばい失敗しっぱいし、大阪おおさかひがし東平野ひがしひらのまちうつる。1920ねん大正たいしょう9ねん)、大阪おおさか市立しりつ東平野ひがしひらのだいいち尋常じんじょう高等こうとう小学校しょうがっこうげん大阪おおさか市立しりつせいたましい小学校しょうがっこう)に入学にゅうがく。1926ねん旧制きゅうせい大阪おおさか府立ふりつ高津たかつ中学校ちゅうがっこうげん大阪おおさか府立ふりつ高津たかつ高等こうとう学校がっこう入学にゅうがく、このころは『少年しょうねん倶楽部くらぶ』などを愛読あいどくし、こう常盤木ときわぎ』に夏休なつやすみのみ同人どうじんとして参加さんか。1931ねんだいさん高等こうとう学校がっこう新制しんせい京都大学きょうとだいがく教養きょうよう前身ぜんしん文科ぶんかかぶとるい合格ごうかく田宮たみや虎彦とらひこ白崎しらさき礼三れいぞう瀬川せかわ健一郎けんいちろうなどとう。1932ねんには校友こうゆう会誌かいしたけすいかい雑誌ざっし』に評論ひょうろん戯曲ぎきょく寄稿きこう青山あおやまこうとともに1933ねん編集へんしゅう委員いいんとなる。1934ねん卒業そつぎょう試験しけんちゅう喀血かっけつし、白浜しらはま温泉おんせんにて転地てんち療養りょうよう。その復学ふくがくはするものの、勉学べんがくたいする意欲いよくうしない、まちあるきにれるようになり、また東一条ひがしいちじょうのカフェの女給じょきゅう宮田みやた一枝かずえ出会であ同棲どうせい生活せいかつはじめる。げき作家さっか志望しぼうで『たけすいかい雑誌ざっし』に戯曲ぎきょく饒舌じょうぜつ」を発表はっぴょうし、1935ねん青山あおやまこう柴野しばのかた彦らと同人どうじん海風かいふう』を創刊そうかん。1936ねん出席しゅっせき不足ふそく退学たいがく

1938ねんスタンダール影響えいきょうけて小説しょうせつ志向しこう転換てんかん、『海風かいふう』にはじめての小説しょうせつ「ひとりすまう」を発表はっぴょうつづいていた「あめ」が武田たけだ麟太郎りんたろう注目ちゅうもくされる。

作家さっか活動かつどう

編集へんしゅう

1939ねん昭和しょうわ14ねん)3がつかえりばん長姉ちょうし・タツのとつさきである竹中たけなか国治くにはるろうのもとへ寄寓きぐうする(ちなみにこの夫婦ふうふは、三高さんこう時代じだい学費がくひ全額ぜんがく負担ふたんするなど、学生がくせい時代じだい作之助さくのすけたいしみない援助えんじょおこなっていた)。7月15にち阿倍野あべの料亭りょうてい「ちとせ」で宮田みやた一枝かずえ挙式きょしきし、南河内みなみかわちぐん野田のだむらげんさかいひがし)へうつる。なお、この時期じき作之助さくのすけ日本にっぽん織物おりもの新聞しんぶんしゃ日本工業新聞社にほんこうぎょうしんぶんしゃげん産業経済新聞社さんぎょうけいざいしんぶんしゃへの勤務きんむ経験けいけんしている。

一方いっぽう作家さっか活動かつどうつづけ、1939ねん9がつには『海風かいふう』6ごうに「俗臭ぞくしゅう」を発表はっぴょう。この作品さくひんは、義兄ぎけい竹中たけなか国治くにはるろう長兄ちょうけい吉川よしかわ重太郎しげたろう生涯しょうがいだいたものだが、これが翌年よくねん室生むろう犀星さいせい推薦すいせん芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけしょう候補こうほさくとなって注目ちゅうもくあつめる。さらに7がつ発表はっぴょうした「夫婦ふうふ善哉ぜんざい」(小説しょうせつ)が改造かいぞうしゃだいいちかい文芸ぶんげい推薦すいせん作品さくひんとなり、これを本格ほんかくてき作家さっか生活せいかつはいる。

なお、「俗臭ぞくしゅう」の冒頭ぼうとう登場とうじょうするかんきちは、義兄ぎけい竹中たけなか国治くにはるろう(およびそのあに吉川よしかわ重太郎しげたろう)のちちで、湯浅ゆあさ網元あみもとである吉川よしかわぼうろくわれている。

1941ねん8がつには内閣ないかく情報じょうほうきょくにより風俗ふうぞく壊乱かいらんおそれのある小説しょうせつひとつとして『青春せいしゅん逆説ぎゃくせつ』が発禁はっきん処分しょぶん当時とうじ発禁はっきん対象たいしょう小説しょうせつ題名だいめい秘匿ひとくされていた)をけたが[1]当時とうじ世俗せぞく活写かっしゃした短編たんぺん世相せそう」を発表はっぴょうするなど、太宰だざいおさむ坂口さかぐち安吾あんご石川いしかわあつしらとともしん戯作げさく無頼ぶらい)として活躍かつやくし、「オダサク」の愛称あいしょうしたしまれた。

 
織田おだ作之助さくのすけ (酒場さかば「ルパン」で。1946ねん昭和しょうわ21ねん〉)・はやし忠彦ただひこ撮影さつえい

1943ねんごろ作品さくひん映画えいがつうじて映画えいが監督かんとく川島かわしま雄三ゆうぞう親交しんこうふかめ、川島かわしまとも日本にっぽん軽佻けいちょう結成けっせいした。 1944ねん昭和しょうわ19ねん8がつ6にちつま一枝いちえだがんくし(享年きょうねん31)[2]、2ねん笹田ささだ和子かずこ再婚さいこんした。

1943ねんの「聴雨」「勝負しょうぶ」および1946ねんの「可能かのうせい文学ぶんがく」は大阪おおさか将棋しょうぎ棋士きし坂田さかた三吉さんきち題材だいざいとしており、織田おだ死後しごの1947ねん北條ほうじょう秀司しゅうじがさらに坂田さかた主人公しゅじんこうとした戯曲ぎきょく王将おうしょう』を発表はっぴょうをして、坂田さかた三吉さんきちひろられるようになった。

1946ねん昭和しょうわ21ねん)12月、結核けっかくによる大量たいりょう喀血かっけつこし、東京とうきょう病院びょういんげん東京慈恵会医科大学とうきょうじけいかいいかだいがく附属ふぞく病院びょういん)に入院にゅういんする。一進一退いっしんいったいしつつも病状びょうじょう徐々じょじょ悪化あっかし、翌年よくねんの1がつ10日とおか死去しきょ享年きょうねん33。天徳寺てんとくじ通夜つやおこなわれ、13にちにはきりたに斎場さいじょう荼毘だびされる。1946ねん8がつ30にちから『読売新聞よみうりしんぶん』に連載れんさいされていた『土曜どよう夫人ふじん』は12月8にち中絶ちゅうぜつした。

その大阪おおさかにてふたた通夜つやおこなわれ、1がつ23にちには楞厳寺りょうがんじ大阪おおさか天王寺てんのうじ)で葬儀そうぎいとなまれた。葬儀そうぎ委員いいんちょう作家さっか藤沢ふじさわ桓夫喪主もしゅ義兄ぎけい竹中たけなか国治くにはるろうつとめた。墓所はかしょ楞厳寺りょうがんじ境内けいだいにあり、墓碑ぼひ背面はいめんには藤沢ふじさわ吉村よしむら正一郎しょういちろうで、作之助さくのすけ生涯しょうがいしるされている。

愛妻あいさいであり、最初さいしょつま一枝いちえだ死後しご最期さいごまで一枝いちえだ写真しゃしん遺髪いはつ肌身はだみはなさずあるいていた。一緒いっしょあるいていたライター注射ちゅうしゃ結核けっかく治療ちりょうよう抗生こうせい物質ぶっしつつため。ただこの注射ちゅうしゃ使つかってヒロポンっていたともわれている)とともに、日本にっぽん近代文学館きんだいぶんがくかん東京とうきょう目黒めぐろ〉に保管ほかんされた[2]坂口さかぐち安吾あんごの「はんスタイルの」では、ヒロポンを常用じょうようしていた様子ようす描写びょうしゃされている[3]。またこの文章ぶんしょう作之助さくのすけ死去しきょしたとし執筆しっぴつされており、結核けっかくによる喀血かっけつ同様どうよう描写びょうしゃされている[3]

1983ねんから大阪おおさか文学ぶんがく振興しんこうかいにより、作之助さくのすけ名前なまえかんした織田おだ作之助さくのすけしょう主催しゅさいされている。

没後ぼつご60ねんにあたる2007ねんに、「夫婦ふうふ善哉ぜんざい」に別府べっぷ温泉おんせん舞台ぶたいとした続編ぞくへん存在そんざいしていたことが判明はんめい

2008ねん平成へいせい20ねん)1がつに「六白ろっぱく金星きんぼし」とおなだい発表はっぴょう原稿げんこうが36まい発見はっけんされた。原稿げんこう戦中せんちゅう1940ねん昭和しょうわ15ねん)の「文芸ぶんげい」9がつごう掲載けいさいされる予定よていだったもので1946ねん昭和しょうわ21ねん)に発表はっぴょうされた「六白ろっぱく金星きんぼし」のあとがきに「おなじやうな材料ざいりょうを、わたし昭和しょうわ15ねんいたが、当時とうじ発表はっぴょうゆるされなかった」としるされていたことから、これがその『おなじやうな材料ざいりょう』にあたるものではないかとかんがえられ検閲けんえつにより発表はっぴょうできなかったのではとかんがえられている。掲載けいさい原稿げんこうは400字詰じづ原稿げんこう用紙ようしかれており未完みかん。ストーリーはほぼおなじだが、細部さいぶ文章ぶんしょうおおきくことなる。

[4] [5]

  • 作之助さくのすけ前述ぜんじゅつとお仕出しだし出身しゅっしんだが、当時とうじ路地ろじうら=長屋ながや仕出しだし息子むすこ三高さんこう入学にゅうがくたすということはきわめてまれはなしだった。母校ぼこう東平野ひがしひらのだいいち小学校しょうがっこうから「(三高さんこうの)入学にゅうがくしき児童じどう総出そうで見送みおくる」というもうがあったという逸話いつわもある(作之助さくのすけどう小学校しょうがっこう卒業生そつぎょうせいでははじめての三高さんこうせいたる)。
  • 大阪おおさか難波なんば洋食ようしょくてん自由じゆうのき』の「元祖がんそこんカレー」(名物めいぶつカレー)を好物こうぶつとしていたらしく、『夫婦ふうふ善哉ぜんざい』にもそのカレーをしるすほか、難波なんば自由じゆうのき本店ほんてんには「トラはんでかわをのこす/織田おださくんでカレーライスをのこす」とかれた額縁がくぶちりの作之助さくのすけ写真しゃしんが、いまでも大切たいせつかざられている[6]
  • 家紋かもん織田おだ信長のぶながおなじ「織田おだ木瓜ぼけ」である。
  • 俳優はいゆう月形つきがた龍之介りゅうのすけした将棋しょうぎ(1946ねん7がつ26にち京都きょうとかも涯荘、立会たちあいじん山中やまなか和正かずまさだん当時とうじ>)の模様もようが、大阪おおさかにちにち新聞しんぶん連載れんさいされた(同年どうねん7がつ31にち〜8がつ10日とおか)。結果けっかは89先手せんて織田おだ作之助さくのすけ勝利しょうり

作風さくふう

編集へんしゅう

出世しゅっせさくとなった「俗臭ぞくしゅう」「夫婦ふうふ善哉ぜんざい」をはじめ、「競馬けいば」「世相せそう」など短編たんぺん得意とくいとした。また出身しゅっしんである大阪おおさかかかわりをち、その作品さくひんには大阪おおさか庶民しょみんとく放浪ほうろうしゃ)のらしがえがかれていることが特徴とくちょうである。

作品さくひん

編集へんしゅう

単行本たんこうぼん

編集へんしゅう
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざいつくもとしゃ 1940ねんたん編集へんしゅう
  • 二十歳はたち萬里ばんりかく 1941ねん書下かきおろ長編ちょうへん
  • 青春せいしゅん逆説ぎゃくせつ萬里ばんりかく 1941ねん(『二十歳はたち』の続編ぞくへん
  • ごうこま富士ふじ実業じつぎょう日報にっぽうしゃ 1942ねん(『夕刊ゆうかん大阪おおさか新聞しんぶん』1940ねん10がつ-1941ねん1がつ野田のだたけろく名義めいぎ)、改題かいだい江戸えど花笠はながさ桃源とうげんしゃ 1950ねん
  • 五代ごだいともあつし日進にっしんしゃ 1942ねん(『日本にっぽん織物おりもの新聞しんぶん』1942ねん1-2がつ
  • 西鶴さいかくしんろんおさむぶんかん 1942ねん書下かきおろし)
  • つきあきら全国ぜんこく書房しょぼう 1942ねん書下かきおろ長編ちょうへん
  • 漂流ひょうりゅうてるぶんかん 1942ねんたん編集へんしゅう
  • 素顔すがおせんしょどう 1943ねんたん編集へんしゅう
  • 『わがまち錦城きんじょう出版しゅっぱんしゃ 1943ねん
  • 大阪おおさかかお明光堂めいこうどう書店しょてん 1943ねん
  • 大阪おおさか指導しどうしゃ錦城きんじょう出版しゅっぱんしゃ 1943ねん
  • 清楚せいそてるぶんかん 1943ねん
  • 異教いきょう萬里ばんりかく 1943ねん
  • 猿飛佐助さるとびさすけ三島みしま書房しょぼう 1946ねん(「火遁かとんまき」-『新潮しんちょう』1945ねん2がつ、「みず遁のまき」-『しん文学ぶんがく』1945ねん3がつ
  • 人情噺にんじょうばなし』ぐらすぷ・らいぶらり 1946ねん
  • 素顔すがおようりんしゃ 1946ねんたん編集へんしゅう
  • 文楽ぶんらくひとしろかもめしゃ 1946ねん
  • 六白ろっぱく金星きんぼし三島みしま書房しょぼう 1946ねんたん編集へんしゅう
  • 世相せそう八雲やくも書店しょてん 1946ねんたん編集へんしゅう
  • 船場ふなばむすめ』コバルトしゃ 1947ねん
  • 妖婦ようふ風雪ふうせつしゃ 1947ねん
  • 『それでもわたしく』大阪おおさか新聞しんぶんしゃ 1947ねん(『京都きょうとにちにち新聞しんぶん』1946ねん4-7がつ
  • 天衣無縫てんいむほうしん生活せいかつしゃ 1947ねん
  • こわるべきおんな実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ 1947ねん(『りべらる』1946ねん10がつ
  • よる構図こうず萬里ばんりかく 1947ねん長編ちょうへん時代じだい小説しょうせつ改題かいだい江戸えど花笠はながさ桃源とうげんしゃ 1955ねん
  • 土曜どよう夫人ふじん鎌倉かまくら文庫ぶんこ 1947ねん(『読売新聞よみうりしんぶん』1946ねん8-12月)
  • 夜光虫やこうちゅう世界せかい文学ぶんがくしゃ 1947ねん(『大阪おおさかにちにち新聞しんぶん』1946ねん4-8がつ
  • 可能かのうせい文学ぶんがく』カホリ書房しょぼう 1947ねん評論ひょうろんしゅう
  • 世間せけん胸算用むなざんよう現代げんだいしゃ 1956ねん(『西日本にしにほん』1941ねん12月-1942ねん3がつ井原いはら西鶴さいかく現代げんだいやく

短編たんぺん小説しょうせつ

編集へんしゅう
  • 「ひとりすまう」1938ねん
  • あめ」1938ねん
  • 俗臭ぞくしゅう」1939ねん
  • 署長しょちょう面会めんかい」1940ねん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい」1940ねん
  • 放浪ほうろう」1940ねん
  • さがじん」1940ねん
  • 面会めんかい
  • 子守こもり」1940ねん
  • 婚期こんきはずれ」1940ねん
  • 美談びだん」1941ねん(のち「人情噺にんじょうばなし」に改題かいだい
  • くろかお」1941ねん
  • ゆきよる」1941ねん
  • 許婚きょこん」1941ねん
  • 写真しゃしんひと」1941ねん
  • 家風かふう」1941ねん
  • 航路こうろ」1941ねん
  • 立志伝りっしでん」1941ねん
  • 動物どうぶつしゅう」1941ねん
  • あきふか」1942ねん
  • 天衣無縫てんいむほう」1942ねん
  • 勧善懲悪かんぜんちょうあく」1942ねん8-9月
  • 素顔すがお」1942ねん
  • 漂流ひょうりゅう
  • 大人おとな童話どうわ
  • 「バーナー少佐しょうさ手記しゅき」1942ねん
  • ふね
  • 「わがまち」1942ねんフィリピン出稼でかせぎにったおとこ物語ものがたり
  • 周囲しゅうい」1943ねん
  • 事始ことはじめ」1943ねん
  • 婦人ふじん」1943ねん
  • しゃらく」1943ねん
  • 眼鏡めがね」1943ねん
  • 帽子ぼうし」1943ねん
  • 「聴雨」1943ねん
  • 勝負しょうぶ」1943ねん
  • みち」1943ねん
  • 大阪おおさか指導しどうしゃ
  • 清楚せいそ
  • 異郷いきょう
  • 武家ぶけ義理ぎり物語ものがたり」1943ねん井原いはら西鶴さいかく現代げんだいやく
  • じゅうはちさい花嫁はなよめ」1943ねん
  • 姉妹しまい」1943ねん
  • 」1944ねん
  • 白鷺しらさぎ部隊ぶたい」1944ねん
  • ぼたる」1944ねん
  • 電報でんぽう」1944ねん
  • 高野線こうやせん」1944ねん
  • 「ニコちん先生せんせい」1945ねん
  • 十五夜じゅうごや物語ものがたり」1945ねん
  • みちなきみち」1945ねん
  • かみ」1945ねん
  • 見世物みせもの」1945ねん
  • 表彰ひょうしょう」1945ねん
  • 奇妙きみょう手記しゅき 1946ねん
  • 船場ふなばむすめ」1946ねん
  • 予言よげんしゃ」1946ねん
  • 六白ろっぱく金星きんぼし」1946ねん
  • 訪問ほうもんきゃく」1946ねん
  • 注射ちゅうしゃ」1946ねん
  • 昨日きのう今日きょう明日あした」1946ねん
  • 「アド・バルーン」1946ねん
  • 蚊帳かや」1946ねん
  • 世相せそう」1946ねん
  • 競馬けいば」1946ねん
  • 神経しんけい 1946ねん
  • おんなはし」1946ねん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい後日ごじつ 1946ねん
  • 私設しせつ渉外しょうがいきょく」1946ねん
  • おに」1946ねん
  • よる構図こうず 1946ねん
  • あめ」1946ねん中断ちゅうだん
  • よんがつ馬鹿ばか」1946ねん
  • 実感じっかん」1946ねん
  • 郷愁きょうしゅう」1946ねん
  • 大阪おおさかおんな」1946ねん
  • 文楽ぶんらくひと
  • まち」1946ねん
  • じゅうばんかんおんな」1946ねん
  • 薬局やっきょく」1946ねん
  • 冴子さえこ外泊がいはく」1946ねん
  • 好奇心こうきしん」1946ねん
  • 中毒ちゅうどく」1946ねん
  • 死神しにがみ 1946ねん
  • 影絵かげえ
  • 妖姫ようきでん」1947ねん
  • 妖婦ようふ」1947ねん阿部あべじょう事件じけんもとにした作品さくひん
  • 饗宴きょうえん」1949ねん
  • つま
  • ほし劇場げきじょう
  • 報酬ほうしゅう
  • 民主みんしゅ主義しゅぎ
  • 「ヒント」
  • 経験けいけん
  • たびへのさそい」
  • へび仲間なかま」1990ねん(1943ねん執筆しっぴつられる)
  • ぞく夫婦ふうふ善哉ぜんざい」(2007ねん原稿げんこう発見はっけん

戯曲ぎきょく

編集へんしゅう
  • ちる」1933ねん
  • 饒舌じょうぜつ」1934ねん
  • あさ」1935ねん
  • 「モダンランプ」1935ねん
  • 私設しせつ人事じんじ相談そうだんしょ」1941ねん
  • 初姿はつすがた

評論ひょうろん

編集へんしゅう
  • 純粋じゅんすい戯曲ぎきょくろん」1933ねん
  • 可能かのうせい文学ぶんがく」1946ねん
  • 文学ぶんがくてき饒舌じょうぜつ」1947ねん
  • 大阪おおさかろん

作品さくひんしゅう

編集へんしゅう
  • 織田おだ作之助さくのすけ選集せんしゅうぜん5かん)』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 1947-48ねん
  • 織田おだ作之助さくのすけ名作めいさくぜん15かん)』現代げんだいしゃ 1956-57ねん(14かん未刊みかん中絶ちゅうぜつ
  • 定本ていほん織田おだ作之助さくのすけ全集ぜんしゅうぜん8かん)』講談社こうだんしゃ 1970ねん
  • 織田おだ作之助さくのすけ作品さくひんしゅうぜん3かん)』沖積ちゅうせきしゃ 1999-2000ねん
  • 六白ろっぱく金星きんぼし可能かのうせい文学ぶんがく じゅういちへん岩波いわなみ文庫ぶんこ、2009ねん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい ただしぞく じゅうへん岩波いわなみ文庫ぶんこ、2013ねん
  • 『わがまち青春せいしゅん逆説ぎゃくせつ岩波いわなみ文庫ぶんこ、2013ねん
  • 『聴雨・ぼたる 織田おだ作之助さくのすけ短篇たんぺんしゅう大川おおかわわたるへんちくま文庫ぶんこ、2000ねんぜん11へん
  • 織田おだ作之助さくのすけ ちくま日本にっぽん文学ぶんがく 035』 ちくま文庫ぶんこ、2009ねん
  • 青春せいしゅん逆説ぎゃくせつ角川かどかわ文庫ぶんこ、2008ねん
  • 天衣無縫てんいむほう角川かどかわ文庫ぶんこ、2016ねん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、1999ねん可能かのうせい文学ぶんがくほか5へん
  • 世相せそう競馬けいば講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、2004ねんぜん9へん
  • 青春せいしゅん小説しょうせつ織田おだ作之助さくのすけ講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、2010ねん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい新潮しんちょう文庫ぶんこ改版かいはん1989ねん、2013ねんほかぜん6へん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい 決定けっていばん新潮しんちょう文庫ぶんこ、2016ねんぜん7へん
  • 五代ごだいともあつし河出かわで文庫ぶんこ、2016ねんぜん2へん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざいこわるべきおんなななきたすうにんへん実業之日本社じつぎょうのにほんしゃ文庫ぶんこ、2013ねん
  • 定本ていほん織田おだ作之助さくのすけ全集ぜんしゅうぜん8かんぶんいずみどう出版しゅっぱん、1995ねん
  • 織田おだ作之助さくのすけ作品さくひんしゅうぜん3かん大谷おおや晃一こういちへん沖積舎ちゅうせきしゃ、2000ねん新版しんぱん2008ねん
  • 夫婦ふうふ善哉ぜんざい 完全かんぜんばん雄松おまつどう書店しょてん、2007ねん - 近年きんねん発見はっけん続篇ぞくへんおさむむ。
  • 俗臭ぞくしゅう 織田おだ作之助さくのすけ初出しょしゅつ作品さくひんしゅうあくうららかいへんインパクト出版しゅっぱんかい、2011ねん、「わがまち」「よっつの」ほか全集ぜんしゅう収録しゅうろく作品さくひんぜん6へん
  • こわるべきおんな 織田おだ作之助さくのすけ女性じょせい小説しょうせつセレクション』尾崎おざき名津子なつこへん春陽しゅんようどう書店しょてん、2019ねん
  • 『「可能かのうせい文学ぶんがく」へのみち 織田おだ作之助さくのすけ評論ひょうろんせん斎藤さいとうせいへんほんいずみしゃ、2020ねん

映画えいが作品さくひん

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関連かんれん文献ぶんけん

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織田おだ作之助さくのすけえんじた俳優はいゆう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ 著名ちょめい作家さっか作品さくひんなど大量たいりょう発禁はっきん東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん』(昭和しょうわ16ねん8がつ28にち)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん』p555-p551 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  2. ^ a b 『オダサクさん、こんにちは ~生誕せいたん100ねん 作家さっか織田おだ作之助さくのすけと『夫婦ふうふ善哉ぜんざい』~』(NHK大阪おおさか放送ほうそうきょく製作せいさく2013ねん8がつ24にち放送ほうそう[1])より。
  3. ^ a b 坂口さかぐち安吾あんご. “はんスタイルの”. 青空あおぞら文庫ぶんこ. 2019ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ 稲垣いながき眞美まみ解説かいせつ 大阪おおさか流転るてん愛執あいしゅう」、矢島やじま道弘みちひろへん年譜ねんぷ」(『世相せそう競馬けいば講談社こうだんしゃ
  5. ^ 年譜ねんぷ」(『織田おだ作之助さくのすけ ちくま日本にっぽん文学ぶんがく035』 筑摩書房ちくましょぼう
  6. ^ 自由じゆうのき織田おだ作之助さくのすけ”. 自由じゆうのきオフィシャルサイト. 株式会社かぶしきがいしゃ 自由じゆうのき. 2019ねん4がつ26にち閲覧えつらん

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