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アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー - Wikipedia

アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー

インド首相しゅしょう

アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー英語えいごAtal Bihari Vajpayeeヒンディー: अटल बिहारी वाजपेयी1924ねん12月25にち - 2018ねん8がつ16にち)は、インド政治せいじ日本にっぽんではおもバジパイ表記ひょうきされることがおおい。だい13・16だい首相しゅしょう。インド大衆たいしゅう連盟れんめい(ジャン・サング)、ジャナタとうインド人民じんみんとう創設そうせつしゃである。

アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー
अटल बिहारी वाजपेयी
Atal Bihari Vajpayee
アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(2004ねん1がつ4にち撮影さつえい
生年月日せいねんがっぴ (1924-12-25) 1924ねん12月25にち
出生しゅっしょう イギリス領インド帝国の旗 イギリスりょうインド帝国ていこく グワーリヤル
ぼつ年月日ねんがっぴ (2018-08-16) 2018ねん8がつ16にち(93さいぼつ
死没しぼつ インドの旗 インド ニューデリー
ぜんしょく 詩人しじん
ジャーナリスト
所属しょぞく政党せいとう インド人民じんみんとう
サイン

インドの旗 だい13・16だい首相しゅしょう
内閣ないかく アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーないかく
在任ざいにん期間きかん 1996ねん5月16にち - 1996ねん6月1にち
1998ねん5月19にち - 2004ねん5月22にち
大統領だいとうりょう シャンカルダヤール・シャルマー
コチェリル・ラーマン・ナラヤナン
アブドゥル・カラーム

内閣ないかく モラルジー・デーサーイー内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1977ねん3月26にち - 1979ねん7がつ28にち
首相しゅしょう モラルジー・デーサーイー
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出自しゅつじ私生活しせいかつ

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1924ねん12月25にちマディヤ・プラデーシュしゅうグワーリヤル誕生たんじょうする。政治せいじがく学位がくいゆうする[1]民族みんぞく義勇ぎゆうだん(RSS)のメンバーであり[2]ジャーナリストとして活動かつどうしていた。趣味しゅみとし、詩人しじんとして詩集ししゅう出版しゅっぱんしている。

インド大衆たいしゅう連盟れんめい・ジャナタとう・インド人民じんみんとう創設そうせつ

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1951ねんにインド大衆たいしゅう連盟れんめい創設そうせつ1968ねんから1973ねんまで総裁そうさいつとめた。また、1957ねんにはだい2かいそう選挙せんきょローク・サバー下院かいん議員ぎいん選出せんしゅつされている[3]。その1967ねん1971ねん1977ねん1980ねん1991ねん1996ねん1998ねん1999ねん2004ねん選出せんしゅつされ、けい10下院かいん議員ぎいんつとめた[3]。また、1962ねん1986ねんにはラージヤ・サバー上院じょういん議員ぎいんにもえらばれている[3]

1977ねんインディラ・ガンディー強権きょうけん政治せいじたいする反発はんぱつから、インド国民こくみん会議かいぎはんインディラなどとともにジャナタとう創設そうせつ同年どうねん選挙せんきょでは国民こくみん会議かいぎやぶってだいいちとうとなり政権せいけん獲得かくとくした。ヴァージペーイーは1977ねんから1979ねんまでジャナタとう政権せいけん外相がいしょうつとめた。外相がいしょうとしては、対立たいりつつづいていた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくパキスタンへの訪問ほうもん実現じつげんした。同時どうじに、しるし政府せいふあいだ貿易ぼうえき経済けいざい科学かがく技術ぎじゅつ協力きょうりょく委員いいんかい共同きょうどう議長ぎちょうつとめた。

ジャナタとう政権せいけんとう分裂ぶんれつにより崩壊ほうかいすると、1980ねんにインド人民じんみんとう創設そうせつする。ヴァージペーイーは初代しょだい総裁そうさい就任しゅうにんした。そのインド人民じんみんとう1984ねんそう選挙せんきょでは2議席ぎせきのみの獲得かくとくだったものの、1989ねん選挙せんきょでは85議席ぎせき獲得かくとく躍進やくしんげる。ヴァージペーイーは躍進やくしんするとうなか指導しどうてき立場たちば維持いじし、1993ねん7がつから下院かいん野党やとう院内いんない総務そうむつとめた。

首相しゅしょう

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だいいち

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1996ねんそう選挙せんきょでインド人民じんみんとうだいいちとうとなり政権せいけん獲得かくとくすると、大統領だいとうりょうから組閣そかく要請ようせいされたためヴァージペーイーが首相しゅしょう就任しゅうにんした。しかし政府せいふ議会ぎかい信任しんにんられないことを理解りかいしてわずか2週間しゅうかんそう辞職じしょくした。

だい

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そのジャナタ・ダル政権せいけん相次あいついでたおれ、1998ねん解散かいさんそう選挙せんきょおこなわれた結果けっかふたたびインド人民じんみんとうだいいちとう獲得かくとくする。大統領だいとうりょうだいいちとう指導しどうしゃとしてヴァージペーイーにふたた組閣そかくめいじ、3月に内閣ないかく発足ほっそくした。今回こんかい政党せいとう支持しじており、連立れんりつ政権せいけんむことができた。

同年どうねん5がつ1974ねん以来いらい24ねんぶりとなるインド史上しじょう2度目どめかく実験じっけん実施じっしし、世界中せかいじゅうおどろかせる。これに対抗たいこうしてパキスタンも半月はんつきかく実験じっけん実施じっしした。各国かっこく反応はんのうかれ、フランスロシアはインドがかく武装ぶそうをする権利けんりみとめる一方いっぽうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリス日本にっぽん制裁せいさい措置そちをインドにした。インド国内こくない世論せろんかく実験じっけん支持しじし、ヴァージペーイー政権せいけん支持しじりつ上昇じょうしょうした。

しるし双方そうほうによるかく実験じっけん実施じっしよく1999ねん2がつにパキスタンのナワーズ・シャリーフ首相しゅしょう当時とうじ)とラホール首脳しゅのう会談かいだんおこない、緊張きんちょうつづしるし関係かんけい改善かいぜん目指めざしたラホール宣言せんげん発表はっぴょうした。しかしその直後ちょくご同年どうねん5がつカシミールのカルギル地区ちくでパキスタンのイスラーム武装ぶそう勢力せいりょく停戦ていせんラインをえたことをきっかけにしてしるしりょうぐん衝突しょうとつする事態じたい発生はっせいしてしまい(カルギル紛争ふんそう)、関係かんけい改善かいぜんにはいたらなかった。

同年どうねん4がつ連立れんりつ政権せいけん離脱りだつする政党せいとうあらわれたことにより、インド人民じんみんとう中心ちゅうしんとする与党よとう連合れんごう国民こくみん民主みんしゅ同盟どうめい議会ぎかい過半数かはんすううしない、ヴァージペーイーの信任しんにん決議けつぎがローク・サバー(下院かいん)で否決ひけつされた。これをけてヴァージペーイーは首相しゅしょう辞任じにんした。しかし解散かいさんそう選挙せんきょおこなわれると国民こくみん民主みんしゅ同盟どうめい議席ぎせき過半数かはんすう獲得かくとくしたため、ヴァージペーイーは首相しゅしょうかえいた。

だいさん

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だいさん政権せいけんでは、パキスタンとの関係かんけいにおいて一時期いちじき緊張きんちょうたかまる。2001ねん12月、イスラム武装ぶそう勢力せいりょくによるものとられる国会こっかい議事堂ぎじどう襲撃しゅうげき事件じけん発生はっせい。インド政府せいふはこれにパキスタン政府せいふ関与かんよしていたと非難ひなんした。ヴァージペーイーもカシミールに配置はいちされているインドぐんたいし、犠牲ぎせい覚悟かくごして「決定的けっていてき勝利しょうり」にそなえるようにと発言はつげん[4]戦争せんそうさない姿勢しせいしめすなど一触即発いっしょくそくはつ危機ききおちいった。しかし、その対話たいわ路線ろせんすすめるようになり、2003ねん4がつ、ヴァージペーイーはジャンム・カシミールしゅう訪問ほうもんしたときにパキスタンにたい和解わかい意向いこうしめし、さらによく2004ねん1がつみなみアジア地域ちいき協力きょうりょく連合れんごう首脳しゅのう会議かいぎではパキスタンの大統領だいとうりょうであったパルヴェーズ・ムシャラフとの首脳しゅのう会談かいだん実現じつげんさせた。この首脳しゅのう会談かいだんせきでは問題もんだい解決かいけつけた「ふくあいてき対話たいわ」を開始かいしするという合意ごういいたった。一方いっぽうでカシミールなどのイスラーム過激かげきへの警戒けいかいおこたらず、同年どうねんにテロ対策たいさくとしてイスラエルとの関係かんけい強化きょうかした[5][6]

また、中印なかいん国境こっきょう紛争ふんそうにより長年ながねん対立たいりつしていた中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの関係かんけい改善かいぜんし、戦略せんりゃくてきパートナーシップの構築こうちく目標もくひょうにした。2003ねん6がつには中国ちゅうごくへの訪問ほうもん実現じつげんする。この訪問ほうもんさいには、インドがわチベット中国ちゅうごくりょうとしてみとめるわりに中国ちゅうごくがわシッキムをインドりょう画定かくていさせ[7]中印なかいん国境こっきょう紛争ふんそう以来いらい64ねんぶりに国境こっきょう貿易ぼうえき再開さいかいする覚書おぼえがき署名しょめいした[8]

経済けいざい政策せいさくにおいてはナラシンハ・ラーオ政権せいけん以来いらい経済けいざい自由じゆう路線ろせん継続けいぞくされた。だいさんヴァージペーイー政権せいけんでは「だい世代せだい経済けいざい改革かいかく」がかかげられ、財政ざいせい改革かいかく自由じゆう促進そくしんなどの政策せいさくられた。その甲斐かいもありヴァージペーイー政権せいけんではインドはたか経済けいざい成長せいちょう実現じつげんした。

しかし2004ねん5がつそう選挙せんきょ国民こくみん民主みんしゅ同盟どうめいはインド国民こくみん会議かいぎ中心ちゅうしん政党せいとう連合れんごう選挙せんきょに「統一とういつ進歩しんぽ同盟どうめい」とづけられる)にやぶれる。敗因はいいんとして、経済けいざい成長せいちょうのこされた貧困ひんこんそう不満ふまん吸収きゅうしゅうできなかったことがげられる[9]。この選挙せんきょ結果けっかけてヴァージペーイーは首相しゅしょう辞任じにん。さらによく2005ねん12月29にちには政界せいかい引退いんたい表明ひょうめいした。

2018ねん8がつ16にち肝臓かんぞう尿にょうかん感染かんせんしょうなどのため、ニューデリーの病院びょういん死去しきょ[10]。93さいぼつ

政治せいじ姿勢しせい

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インドでながらく与党よとうだったインド国民こくみん会議かいぎより保守ほしゅてき右派うはてき人民じんみんとう政権せいけん成立せいりつ立役者たてやくしゃであるヒンドゥー・ナショナリストとされる一方いっぽう[11]穏健おんけんであることから敵対てきたいしゃふくめて社会しゃかい政界せいかいなかおおきな権威けんいゆうしている。外交がいこうふかつうじ、外相がいしょう時代じだいにも対立たいりつつづいていた中国ちゅうごくやパキスタンを訪問ほうもんするなど柔軟じゅうなん外交がいこう手腕しゅわんふるい、インドの核保有かくほゆうについては妥協だきょうしない立場たちばをとっていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ "Biography Archived 2009ねん2がつ7にち, at the Wayback Machine.". atalbiharivajpayee.org.
  2. ^ Chatterjee, Manini; Ramachandran, V. K. (7 February 1998). "Vajpayee and the Quit India movement". Frontline.
  3. ^ a b c "Vajpayee, Shri Atal Bihari[リンク]". Lok Sabha.
  4. ^ パルヴェーズ・フッドボーイ、ジア・ミアーン 「かく抑止よくし失敗しっぱいかうしるし紛争ふんそう首藤しゅどうもとわけ2002ねん11月22にち最終さいしゅう更新こうしん
  5. ^ はんテロと兵器へいき売買ばいばい接近せっきん べいしるしイスラエル「さんこく枢軸すうじく」|Foresight(フォーサイト)
  6. ^ Rediff.com: Ariel Sharon's India visit
  7. ^ “India and China agree over Tibet”. BBC. (2003ねん6がつ24にち). http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3015840.stm 2017ねん5がつ18にち閲覧えつらん 
  8. ^ “China, India reopen border trade”. チャイナデイリー. (2006ねん7がつ6にち). http://www.chinadaily.com.cn/china/2006-07/06/content_634253.htm 2019ねん11月20にち閲覧えつらん 
  9. ^ 台頭たいとうするインド・パワー ―インド経済けいざいとこれからのしるし関係かんけい外務省がいむしょう
  10. ^ バジパイもとインド首相しゅしょう死去しきょ=98ねんかく実験じっけん強行きょうこう - 時事じじドットコム 2018ねん8がつ16にち
  11. ^ The Nation, 24 January 1998

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
ナラシンハ・ラーオ
インドラ・クマール・グジュラール
  インド首相しゅしょう
だい13だい:1996ねん5がつ16にち - 1996ねん6がつ1にち
だい16だい:1998ねん5がつ19にち - 2004ねん5がつ22にち
次代じだい
デーヴェー・ガウダ
マンモハン・シン