古典 こてん ギリシャ語 ご ではケルキュラ (Κέρκυρα ) やコルキュラ (Κόρκυρα ) と呼 よ ばれ、ラテン語 らてんご ではコルキラ (Corcyra ) と呼 よ ばれた。
ギリシャ語 ご ではこのほか、「山並 やまな み」「頂 いただ き」(crests / peaks ) を意味 いみ する言葉 ことば からコリュファイ Κορυφαί / Koryphai とも呼 よ ばれた。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のもとではこれが転 てん じ、「頂 いただ きの都市 とし 」(city of the peaks ) を意味 いみ するコリフォー Κορυφώ / Koryphō となった。ヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく がこの島 しま を統治 とうち すると、コルフ (Corfù ) と呼 よ んだ。この名称 めいしょう が英語 えいご に引 ひ き継 つ がれ、この島 しま は英語 えいご ではもっぱら「コルフ島 こるふとう 」と呼 よ ばれている。
ケルキラ島 とう の地図 ちず
ケルキラ島 とう はイオニア諸島 しょとう の主要 しゅよう な島 しま の中 なか では最 もっと も北 きた に位置 いち する。鎌 かま に喩 たと えられる形状 けいじょう を持 も つ南北 なんぼく に長 なが い島 しま で、島 しま の西北 せいほく 端 はし から東南 とうなん 端 はし までは約 やく 60km。島 しま の面積 めんせき は 592.877 km2 で、イオニア諸島 しょとう ではケファロニア島 とう に次 つ いで2番目 ばんめ に広 ひろ い面積 めんせき を持 も つ。海岸 かいがん 線 せん の総 そう 延長 えんちょう は 217 kmである。大陸 たいりく (バルカン半島 ばるかんはんとう )との間 あいだ はケルキラ海峡 かいきょう (コルフ海峡 かいきょう )によって隔 へだ てられている。
ケルキラ島 とう 北東 ほくとう 部 ぶ が向 む き合 あ う大陸 たいりく 側 がわ はアルバニア 領 りょう であり、島 しま から東北 とうほく へ約 やく 10kmほどの距離 きょり にアルバニア南部 なんぶ の都市 とし サランダ がある。ケルキラ海峡 かいきょう はアルバニア領 りょう との間 あいだ で最 もっと も狭 せば まっており、その幅 はば は2kmほどである。この水路 すいろ は、国際 こくさい 水路 すいろ 機関 きかん (IHO)の定義 ていぎ によるアドリア海 あどりあかい とイオニア海 かい の境界 きょうかい でもある。
島 しま の中央 ちゅうおう 部 ぶ では、ケルキラ海峡 かいきょう の幅 はば は対岸 たいがん のイピロス 地方 ちほう (テスプロティア県 けん )との間 あいだ で30kmほどと最 もっと も広 ひろ くなっている。島 しま の首府 しゅふ であるケルキラの街 まち は、海峡 かいきょう に面 めん した東海岸 ひがしかいがん に位置 いち しており、アルバニアのサランダから南南西 なんなんせい へ約 やく 28km、ギリシャ本土 ほんど (イピロス 地方 ちほう )のイグメニツァ から西北 せいほく へ約 やく 32km、州都 しゅうと レフカダ から北 きた 北西 ほくせい へ約 やく 110km、イタリアのブリンディジ から東南 とうなん へ約 やく 203kmの距離 きょり にある。
ケルキラ島 とう 南東 なんとう 部 ぶ で、ケルキラ海峡 かいきょう は再 ふたた び狭 せば まっており、本土 ほんど 側 がわ のシヴォタ (英語 えいご 版 ばん ) (イグメニツァ市 し の一部 いちぶ )との間 あいだ の距離 きょり は約 やく 10kmである。島 しま の南端 なんたん から南 みなみ へ約 やく 13kmを隔 へだ ててパクシ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) がある。
ケルキラ島 とう とイタリア
ギリシャ共和 きょうわ 国 こく の主要 しゅよう な島 しま のうち最 もっと も北西 ほくせい に位置 いち するケルキラ島 とう は、イタリアに最 もっと も近 ちか い島 しま の一 ひと つである。島 しま の北西 ほくせい 端 はし とイタリア半島 はんとう 東南 とうなん 端 はし (サレント半島 はんとう )との間 あいだ には約 やく 100kmの距離 きょり があり、島 しま の北西 ほくせい 方 かた にはバルカン半島 ばるかんはんとう とイタリア半島 はんとう の間 あいだ が狭 せば まる海域 かいいき (オトラント海峡 かいきょう )がある。いくつかの定義 ていぎ はあるものの、アドリア海 あどりあかい とイオニア海 かい との境界 きょうかい はこの付近 ふきん に引 ひ かれる(イオニア海 かい #地理 ちり 参照 さんしょう )。国際 こくさい 水路 すいろ 機関 きかん の定義 ていぎ によれば、島 しま の北西 ほくせい 端 はし カラゴル岬 みさき とサレント半島 はんとう 東南 とうなん 端 はし サンタ・マリア・ディ・レウカ岬 みさき (Santa Maria di Leuca ) とを結 むす ぶ線 せん がその境界 きょうかい となっており、ケルキラ島 とう の北岸 ほくがん はアドリア海 あどりあかい に面 めん するとされる。
ケルキラ島 とう の北西 ほくせい にはオトニ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) 、エリクサ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) 、マトラキ島 とう (英語 えいご 版 ばん ) などの有人 ゆうじん 島 とう がある。これらの島々 しまじま は、2011年 ねん 以降 いこう はケルキラ自治体 じちたい に属 ぞく している。
2つの山並 やまな みが島 しま を東西 とうざい に横断 おうだん しており、島 しま を3つの地域 ちいき に分 わ けている。北部 ほくぶ は山 やま がちな地域 ちいき であり、中部 ちゅうぶ は丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい であり、南部 なんぶ は平野 へいや の多 おお い地域 ちいき となっている。島 しま の北側 きたがわ にあるパンドクラトラス山脈 さんみゃく (Παντοκράτωρ )は、Cape Falacro から Cape Psaromita にかけて山並 やまな みを連 つら ねており、パンドクラトラス山 さん (906m)が島 しま の最高峰 さいこうほう である。島 しま の南側 みなみがわ には Άγιοι Δέκα の山並 やまな みがある。
島 しま は石灰岩 せっかいがん が作 つく り出 だ した様々 さまざま な景観 けいかん に恵 めぐ まれている。Agios Gordis, the Korission lagoon, Agios Georgios, Marathia, Kassiopi, Sidari, Palaiokastritsa には浜 はま (ビーチ)がある。
ケルキラ島 とう はケファロニア断層 だんそう の近 ちか くに位置 いち しており、しばしば地震 じしん が発生 はっせい する。ケルキラの街 まち でも農村 のうそん 部 ぶ でも、16世紀 せいき 以来 いらい 建 た てられた伝統 でんとう 的 てき な建築 けんちく 物 ぶつ の多 おお くが地震 じしん により失 うしな われている。
人口 じんこう 1000人 にん 以上 いじょう の都市 とし ・集落 しゅうらく は以下 いか の通 とお り(人口 じんこう は2001年 ねん 国勢調査 こくせいちょうさ 時点 じてん )。
現在 げんざい のケルキラ島 とう は、周辺 しゅうへん の小 しょう 島嶼 とうしょ と共 とも に、基礎 きそ 自治体 じちたい (ディモス )のケルキラ市 し (Δήμος Κερκυραίων ) に属 ぞく している。
現在 げんざい のケルキラ市 し は、2011年 ねん 1月 がつ 施行 しこう のカリクラティス改革 かいかく にともない、(旧 きゅう )ケルキラ市 し など10の自治体 じちたい [要 よう 説明 せつめい ] が合併 がっぺい して発足 ほっそく した。旧 きゅう 自治体 じちたい は、新 しん 自治体 じちたい を構成 こうせい する行政 ぎょうせい 区 く (ディモティキ・エノティタ )となっている。
下表 かひょう の番号 ばんごう は、下 した に掲 かか げた「旧 きゅう 自治体 じちたい 」地図 ちず の番号 ばんごう に相当 そうとう する。面積 めんせき の単位 たんい はkm²、人口 じんこう は2001年 ねん 国勢調査 こくせいちょうさ 時点 じてん 。
カルダキにある紀元前 きげんぜん 700年 ねん 頃 ごろ の神殿 しんでん の跡 あと
この島 しま に関 かん する最古 さいこ の言及 げんきゅう は、紀元前 きげんぜん 1300年 ねん 頃 ころ に記 しる された線 せん 文字 もじ B で記 しる されたミケーネ・ギリシャ語 ご の単語 たんご である。
古代 こだい ローマ の地理 ちり 学者 がくしゃ ストラボン をはじめとする学者 がくしゃ たちは、ホメロス の『オデュッセイア 』に記 しる された「スケリア島 とう 」(Scheria ) をケルキラ島 とう に比定 ひてい し、この島 しま の住民 じゅうみん をパイアクス人 じん と呼 よ んだ。
ケルキュラ島 とう (ケルキラ島 とう )は、ギリシャ本土 ほんど とイタリア半島 はんとう 南部 なんぶ (マグナ・グラエキア )との間 あいだ に位置 いち する交易 こうえき の要衝 ようしょう であり、島 しま の南部 なんぶ には肥沃 ひよく な平地 ひらち を有 ゆう していた。紀元前 きげんぜん 734年 ねん 、ケルキュラにはコリントス人 じん たちが植民 しょくみん 市 し を築 きず いたが、それ以前 いぜん にエレトリア からの入植 にゅうしょく 者 しゃ がいたようである。こうした非 ひ コリントス系 けい の住民 じゅうみん の影響 えいきょう もあり、ケルキュラの植民 しょくみん 市 し の人々 ひとびと は母 はは 都市 とし コリントスに対 たい して反抗 はんこう 的 てき な姿勢 しせい を取 と った。この対立 たいりつ は紀元前 きげんぜん 7世紀 せいき 初頭 しょとう に先鋭 せんえい なものとなり、紀元前 きげんぜん 665年 ねん 、ギリシャの歴史 れきし に記録 きろく された最初 さいしょ の海戦 かいせん は、この島 しま を巡 めぐ って行 おこな われた。トゥキュディデス によれば、この戦争 せんそう はコリントスの僭主 せんしゅ ペリアンドロス (英語 えいご 版 ばん ) がケルキュラの艦隊 かんたい を打 う ち破 やぶ って島 しま を占領 せんりょう する形 かたち で終結 しゅうけつ した。ケルキュラはコリントスとともにアポロニア とアナクトリウム (Anaktorio ) の建設 けんせつ に参加 さんか したが、まもなく独立 どくりつ を取 と り戻 もど し、商業 しょうぎょう 発展 はってん を純粋 じゅんすい に追及 ついきゅう する政策 せいさく を展開 てんかい した。紀元前 きげんぜん 480年 ねん 、アケメネス朝 あさ ペルシャがギリシャに侵攻 しんこう した際 さい (ペルシャ戦争 せんそう )、ケルキュラはギリシャで2番目 ばんめ に大 おお きな60隻 せき の艦隊 かんたい を有 ゆう していたが、戦争 せんそう には積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり を占 し めなかった。
紀元前 きげんぜん 435年 ねん 、ケルキュラの植民 しょくみん 市 し エピダムノス の支配 しはい を巡 めぐ り、コリントスとの間 あいだ に紛争 ふんそう が生 しょう じた。ケルキュラはアテナイ に支援 しえん を求 もと め、この提携 ていけい はペロポネソス戦争 せんそう の直接的 ちょくせつてき な原因 げんいん の一 ひと つとなった(シュボタの海戦 かいせん )。ケルキュラは海軍 かいぐん 基地 きち をアテナイに提供 ていきょう することとしたが、必 かなら ずしもアテナイ艦隊 かんたい に支援 しえん を与 あた えたわけではなかった。島 しま では寡頭政治 かとうせいじ (オリガルキー)を目指 めざ す有力 ゆうりょく 者 しゃ の党派 とうは が2度 ど にわたって蜂起 ほうき を行 おこな ったが(紀元前 きげんぜん 427年 ねん と紀元前 きげんぜん 425年 ねん )、いずれも失敗 しっぱい し(アテナイに敗北 はいぼく したとも言 い える)、反対 はんたい 党派 とうは によって報復 ほうふく を受 う けた。
紀元前 きげんぜん 415年 ねん 、アテナイがシケリア遠征 えんせい を行 おこな うと、アテナイの影響 えいきょう 下 か にあったケルキュラはその補給 ほきゅう 基地 きち となった。紀元前 きげんぜん 410年 ねん 、有力 ゆうりょく 者 しゃ の党派 とうは が3度目 どめ の蜂起 ほうき で寡頭政治 かとうせいじ を確立 かくりつ させると、ケルキュラは戦争 せんそう から離脱 りだつ した。紀元前 きげんぜん 375年 ねん 、ケルキュラは再 ふたた びアテナイと同盟 どうめい を結 むす び、このためその2年 ねん 後 ご にスパルタからの攻撃 こうげき を受 う けることとなる。田園 でんえん は荒廃 こうはい したが、防衛 ぼうえい に成功 せいこう している。
ヘレニズム時代 じだい (ディアドコイ戦争 せんそう )にも、ケルキュラはしばしば争奪 そうだつ の舞台 ぶたい となった。紀元前 きげんぜん 303年 ねん には、マケドニア王 おう カッサンドロス による包囲 ほうい を受 う け、その後 ご スパルタ王 おう クレオニュモス (Cleonymus of Sparta ) の一時 いちじ 的 てき な占領 せんりょう を受 う けた。ケルキュラは独立 どくりつ を回復 かいふく するが、シュラクサイのアガトクレス に征服 せいふく された。アガトクレスは紀元前 きげんぜん 295年 ねん 、娘 むすめ のラナッサ (Lanassa (wife of Pyrrhus) ) をエピロス のピュロス 王 おう に嫁 とつ がせる際 さい に、持参 じさん 金 きん としてケルキュラ島 とう を提供 ていきょう した。以後 いご 、紀元前 きげんぜん 255年 ねん にエピロス王 おう アレクサンドロス2世 せい が没 ぼっ するまで、エピロス同盟 どうめい の一員 いちいん であった。
紀元前 きげんぜん 229年 ねん 、イリュリア人 じん によって獲得 かくとく されたが、間 ま もなくローマ艦隊 かんたい に引 ひ き渡 わた され、少 すく なくとも紀元前 きげんぜん 189年 ねん までローマの海軍 かいぐん 基地 きち となった。その後 ご 、知事 ちじ (おそらくコンスル の指名 しめい による)の統治 とうち 下 か に置 お かれるが、紀元前 きげんぜん 148年 ねん にマケドニア属 ぞく 州 しゅう に編入 へんにゅう された。
紀元前 きげんぜん 31年 ねん 、オクタヴィアヌス (のちのアウグストゥス)がマルクス・アントニウス に対抗 たいこう するための拠点 きょてん を置 お いた(アクティウムの海戦 かいせん 参照 さんしょう )。紀元 きげん 後 ご 336年 ねん 以降 いこう 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の東方 とうほう の皇帝 こうてい に属 ぞく することとなった。395年 ねん のロ ろ ーマ帝国 まていこく の東西 とうざい 分割 ぶんかつ により、ケルキラ島 とう は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の領土 りょうど となった。
ニコポリス (Nicopolis ) が建設 けんせつ されると、ケルキュラの重要 じゅうよう 度 ど は下 さ がり、長 なが らく顧 かえり みられない時代 じだい が続 つづ いた。しかし、ノルマン人 じん がシチリア に王国 おうこく を建国 けんこく し、イタリアの海軍 かいぐん 力 りょく が勃興 ぼっこう すると、ケルキラは再 ふたた び激 はげ しい争奪 そうだつ の舞台 ぶたい となった。1081年 ねん から1085年 ねん にかけてシチリアのロベルト・イル・グイスカルド が、1147年 ねん から1154年 ねん にかけてルッジェーロ2世 せい (初代 しょだい シチリア王 おう )が、この島 しま を支配 しはい している。1197年 ねん から1207年 ねん の時期 じき (第 だい 4回 かい 十字軍 じゅうじぐん による東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の解体 かいたい を挟 はさ む)には、ジェノヴァの私 わたし 掠 かすめ 船団 せんだん がこの島 しま を支配 しはい したが、のちにヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく によって追放 ついほう されている。1214年 ねん から1259年 ねん にかけてはエピロス専制 せんせい 侯 こう 国 こく に引 ひ き渡 わた され、1267年 ねん にはナポリ王国 おうこく のアンジュー家 か (ナポリ・アンジュー朝 あさ )の所有 しょゆう となった。しかし、ナポリ王国 おうこく の支配 しはい 力 りょく は弱 よわ く、この島 しま はさまざまな「冒険 ぼうけん 家 か 」の進攻 しんこう に悩 なや まされることになった。このため、1386年 ねん にケルキラ島 とう はヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の保護 ほご 領 りょう となり、1401年 ねん にはヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく がケルキラ島 とう の正式 せいしき な主権 しゅけん を獲得 かくとく した。1797年 ねん にフランスが占領 せんりょう するまで、ケルキラ島 とう はヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく の領土 りょうど であった。
1797年 ねん のカンポ・フォルミオ条約 じょうやく によってヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく は解体 かいたい され、ケルキラ島 とう はフランスに割譲 かつじょう された(フランス領 りょう イオニア諸島 しょとう )。フランスは県 けん を置 お いたが、1799年 ねん にフョードル・ウシャコフ 提督 ていとく 率 ひき いるロシア・オスマン帝国 ていこく 連合 れんごう 軍 ぐん によって放逐 ほうちく された。1800年 ねん 3月 がつ 21日 にち 、ロシアとオスマン帝国 ていこく による共同 きょうどう の保護 ほご 国 こく として七島 ななしま 連合 れんごう 共和 きょうわ 国 こく (イオニア七島 ななしま 連邦 れんぽう 国 こく 、Επτάνησος Πολιτεία )が建国 けんこく され、ケルキラに自治 じち 政府 せいふ の首都 しゅと が置 お かれた。1807年 ねん 、アイラウの戦 たたか い でフランスがロシアを破 やぶ ると、ティルジット条約 じょうやく によりイオニア諸島 しょとう はフランス帝国 ていこく の支配 しはい 下 か となり、François-Xavier Donzelot が総督 そうとく として統治 とうち した。1809年 ねん 、イギリス艦隊 かんたい はケルキラ島 とう を包囲 ほうい した。イギリス艦隊 かんたい は他 た のイオニア諸島 しょとう の島々 しまじま を占領 せんりょう したが、ケルキラ島 とう は陥落 かんらく しなかった。1815年 ねん 11月5日 にち の第 だい 二 に 次 じ パリ条約 じょうやく により、イオニア諸島 しょとう にはイギリスの保護 ほご 領 りょう 「イオニア諸島 しょとう 合衆国 がっしゅうこく 」が設立 せつりつ された。ケルキラはイギリスの高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん が駐在 ちゅうざい する保護 ほご 領 りょう の首都 しゅと となった。
1864年 ねん 3月 がつ 29日 にち 、イギリス、ギリシャ王国 おうこく 、フランス、ロシアはロンドン条約 じょうやく に調印 ちょういん し、イオニア諸島 しょとう の主権 しゅけん をギリシャ王国 おうこく に譲渡 じょうと することが合意 ごうい された。4月21日 にち 、高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん が宣言 せんげん を発 はっ し、イオニア諸島 しょとう はギリシャに編入 へんにゅう された。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、この島 しま はセルビア軍 ぐん の亡命 ぼうめい 地 ち として機能 きのう した。セルビア王国 おうこく はオーストリアおよびブルガリアによって占領 せんりょう されたのである。この島 しま での滞在 たいざい 中 ちゅう 、多 おお くのセルビア兵 へい が飢餓 きが や疫病 えきびょう などで死亡 しぼう し、ケルキラ港 こう の沖合 おきあい のヴィド島 とう に葬 ほうむ られた。戦後 せんご 、ヴィド島 とう にはセルビア人 じん からギリシャ国民 こくみん への感謝 かんしゃ を示 しめ した記念 きねん 碑 ひ が立 た てられ、その墓地 ぼち はセルビア人 じん 詩人 しじん Milutin Bojić の詩 し により「青 あお い墓地 ぼち 」 (Plava Grobnica ) として知 し られる。
1923年 ねん に、ギリシャとイタリアとの間 あいだ に外交 がいこう 紛争 ふんそう が生 しょう じ、イタリア軍 ぐん はケルキラ島 とう に砲撃 ほうげき を加 くわ えて占領 せんりょう した(コルフ島 こるふとう 事件 じけん )。この危機 きき は、国際 こくさい 連盟 れんめい の仲裁 ちゅうさい によって解決 かいけつ された。
ギリシャ・イタリア戦争 せんそう 中 なか の1941年 ねん 4月 がつ 、ケルキラ島 とう はイタリア軍 ぐん に占領 せんりょう された。ギリシャが枢軸 すうじく 国 こく に降伏 ごうぶく すると、イタリアによる占領 せんりょう 統治 とうち 下 か に置 お かれた。ベニト・ムッソリーニはイタリアの「国土 こくど 回復 かいふく 」(イレデンティズム)を実現 じつげん させ、イタリアの一部 いちぶ とするため、イオニア諸島 しょとう の島々 しまじま にはギリシャ本土 ほんど と異 こと なる地位 ちい が与 あた えられた。一方 いっぽう 、1941年 ねん 11月の第 だい 一 いち 日曜日 にちようび には、ケルキラの学生 がくせい たちがイタリアによる占領 せんりょう に反対 はんたい する運動 うんどう を起 お こしている。これは、ギリシャでの抵抗 ていこう 運動 うんどう の最初 さいしょ 期 き の事例 じれい のひとつである。多 おお くの島民 とうみん は島 しま から本土 ほんど へとのがれて ELAS や EDES などのパルチザンに身 み を投 とう じた。
1943年 ねん 、イタリアのファシスト政権 せいけん が崩壊 ほうかい すると、ケルキラ島 とう を占領 せんりょう するためにドイツ軍 ぐん が行動 こうどう を開始 かいし した。10月14日 にち 、ドイツ空軍 くうぐん がケルキラに対 たい して爆 ばく 撃 げき を行 おこな い、住宅 じゅうたく ・教会 きょうかい ・議会 ぎかい ・図書館 としょかん などが破壊 はかい された。島 しま のイタリア兵 へい たちは降伏 ごうぶく し、島 しま はドイツ軍 ぐん に占領 せんりょう された。1944年 ねん には連合 れんごう 軍 ぐん によっても爆 ばく 撃 げき が行 おこな われた。ドイツ占領 せんりょう 下 か のケルキラ島 とう では、ユダヤ人 じん が強制 きょうせい 収容 しゅうよう され、アウシュビッツに送 おく られた。
1944年 ねん 10月 がつ 14日 にち 、イギリス軍 ぐん がケルキラ島 とう に上陸 じょうりく し、島 しま は枢軸 すうじく 国 こく の占領 せんりょう 下 か から解放 かいほう された。イギリス海軍 かいぐん はケルキラ海峡 かいきょう の機雷 きらい の除去 じょきょ のために活動 かつどう したが、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に成立 せいりつ したアルバニア人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく は、ケルキラ海峡 かいきょう に新 あら たに機雷 きらい を敷設 ふせつ し、イギリス海軍 かいぐん 兵士 へいし に死傷 ししょう 者 しゃ が出 で て外交 がいこう 問題 もんだい となった(コルフ海峡 かいきょう 事件 じけん )。これは東西 とうざい 冷戦 れいせん の最初 さいしょ 期 き のエピソードのひとつである。
ディオドロス 『神代 かみしろ 地誌 ちし 』飯尾 いのお 都 と 人 じん 訳 やく 、龍溪 りゅうけい 書 しょ 舎 しゃ (1999年 ねん )
パウサニアス 『ギリシア記 き 』飯尾 いのお 都 と 人 じん 訳 やく 、龍渓 りゅうけい 書 しょ 舎 しゃ (1991年 ねん )
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