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ジェームス・カーティス・ヘボン - Wikipedia

ジェームス・カーティス・ヘボン

アメリカの宣教師せんきょうし医師いし

ジェームス・カーティス・ヘボン英語えいご: James Curtis Hepburn1815ねん3月13にち - 1911ねん9月21にち)は、米国べいこく長老ちょうろう教会きょうかい医療いりょう伝道でんどう宣教師せんきょうし医師いし

ジェームス・カーティス・ヘボン
James Curtis Hepburn
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう (1815-03-13) 1815ねん3月13にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルベニアしゅうミルトン
死去しきょ (1911-09-21) 1911ねん9月21にち(96さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくニュージャージーしゅうイーストオレンジ
墓所はかしょ ローズデール墓地ぼち
国籍こくせき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
両親りょうしん ちち:サムエル・ヘップバーン
はは:アンニ・クレイ
配偶はいぐうしゃ クララ・メアリー・リート
子供こども 次男じなん:サムエル・ヘップバーン
職業しょくぎょう 宣教師せんきょうし医師いし
出身しゅっしんこう プリンストン大学ぷりんすとんだいがくペンシルベニア大学だいがく
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ヘボンの胸像きょうぞう明治学院大学めいじがくいんだいがく

幕末ばくまつ訪日ほうにちし、横浜よこはま医療いりょう活動かつどう従事じゅうじ牧師ぼくしとして聖書せいしょ日本語にほんごやくたずさわった。

はつ和英かずひで辞典じてんかず英語えいごりん集成しゅうせい』を編纂へんさんし、それによりヘボンしきマ字まじひろめた人物じんぶつとしてもられ、英学えいがく進展しんてんおおきく寄与きよした。東京とうきょう明治めいじ学院がくいん現在げんざい明治めいじ学院がくいん高等こうとう学校がっこう明治学院大学めいじがくいんだいがく)を創設そうせつして初代しょだい総理そうり就任しゅうにんするなど、高等こうとう教育きょういくにも貢献こうけんした。

せいの「ヘボン」は原語げんご発音はつおん重視じゅうしした仮名かめい表記ひょうきとされており、本人ほんにん日本にっぽんにおける名義めいぎとしてもちいたことでかれ固有こゆう表記ひょうきとして定着ていちゃくしたものだが、Hepburn 全般ぜんぱん音訳おんやくとしては「ヘプバーン」「ヘップバーン」が普及ふきゅうしたことから、かれせいもそれにしたがって表記ひょうきされる場合ばあいがある。

生涯しょうがい 編集へんしゅう

ぜん半生はんせい 編集へんしゅう

1815ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくペンシルベニアしゅうミルトンに、サムエル・ヘップバーンの長男ちょうなんとしてまれる。ヘボンの家系かけいは、とおくはスコットランドのボスウェルはくつらなるといい、1773ねん祖父そふのサムエル・ヘップバーン(ヘボンのちち同名どうめい)がイギリス国教こっきょうによる長老ちょうろう迫害はくがいのがれてアメリカへわたった。サムエルののちは、ジェームス、まごサムエルとつづ[1]

1832ねんプリンストン大学ぷりんすとんだいがく卒業そつぎょうし、ペンシルベニア大学だいがく医科いか入学にゅうがく1836ねんにペンシルベニア大学だいがく卒業そつぎょうし、医学いがく博士はかせ(M.D.)の学位がくい取得しゅとくした。

1840ねん、クララ・メアリー・リート(Clara Mary Leete,1818-1906)と結婚けっこん

1841ねん3月15にちボストン出航しゅっこう。7月にシンガポール到着とうちゃく

1843ねんマカオ経由けいゆして廈門到着とうちゃく

1845ねん11月13にち、廈門を出発しゅっぱつ1846ねんニューヨーク到着とうちゃくして病院びょういん開業かいぎょうした。

日本にっぽんでの活動かつどう 編集へんしゅう

 
ヘボンが最初さいしょ滞在たいざいした横浜よこはま成仏じょうぶつてら
 
施療せりょうしょひらいたそうきょうてら
中央ちゅうおう記念きねんがある)

1859ねん安政あんせい6ねん4がつ24にちきたアメリカ長老ちょうろう教会きょうかい宣教せんきょうとして、おなこころざしつまクララとともにニューヨークを出発しゅっぱつ香港ほんこん上海しゃんはい長崎ながさき経由けいゆし、1859ねん10月17にち安政あんせい6ねん9月22にち)に横浜よこはま到着とうちゃくした[注釈ちゅうしゃく 1]神奈川かながわ宿やどげん横浜よこはま神奈川かながわ)の成仏じょうぶつてら本堂ほんどうまいをさだ[2]川向かわむこうのむねきょうてら神奈川かながわ施療せりょうしょもうけて医療いりょう活動かつどう開始かいし。ここから横浜よこはま近代きんだい医学いがく歴史れきしはじまったといわれる。

1860ねん万延まんえん元年がんねん)、フランシス・ホールデュアン・シモンズ博士はかせ夫妻ふさいらと神奈川かながわ宿やどちかくの東海道とうかいどう大名だいみょう行列ぎょうれつ見物けんぶつ尾張おわり徳川とくがわ行列ぎょうれつ先触さきぶれにひざまずくようめいじられたがヘボンとホールはしたがわず、ったまま行列ぎょうれつ凝視ぎょうししたため、尾張おわりはんおも年代ねんだいてきには徳川とくがわ茂徳しげのり)もヘボンらのまえかごめオペラグラスでヘボンらを観察かんさつするなどめた空気くうきながれたが、すうふん尾張おわりこう行列ぎょうれつ何事なにごともなく出発しゅっぱつし、ことなきを[3]

1862ねん9月14にち文久ぶんきゅう2ねん8がつ21にち)に発生はっせいした生麦なまむぎ事件じけんでは、負傷ふしょうしゃ治療ちりょうにあたった。

1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)、横浜よこはま居留きょりゅう男女だんじょ共学きょうがくヘボンじゅく開設かいせつ。また、このとしには箕作みつくり秋坪しゅうへい紹介しょうかいびょうわずらった岸田きしだ吟香ぎんこう治療ちりょうした。このえんで、当時とうじがけていた『かず英語えいごりん集成しゅうせい[4]岸田きしだ吟香ぎんこう手伝てつだうようになる。1866ねん、『英語えいごりん集成しゅうせい』の印刷いんさつのため、岸田きしだ吟香ぎんこうとも上海しゃんはい渡航とこうした。

1867ねん慶応けいおう3ねん)、さん代目だいめ沢村さわむら田之助たのすけ左足ひだりあし切断せつだん手術しゅじゅつおこなう。このとしに、日本にっぽんはつ和英かずひで辞典じてんである『かず英語えいごりん集成しゅうせい』を出版しゅっぱん

1872ねん明治めいじ5ねん)、横浜よこはま自宅じたくだいいちかい在日ざいにち宣教師せんきょうし会議かいぎ開催かいさい同僚どうりょう宣教師せんきょうしらと福音ふくいんしょ翻訳ほんやく開始かいし

1874ねん明治めいじ7ねん)9がつ横浜よこはま横浜よこはまだいいち長老ちょうろう公会こうかい現在げんざい横浜よこはまゆび教会きょうかい)をヘンリー・ルーミス牧師ぼくしとしててる。

1880ねん明治めいじ13ねんごろ新約しんやく聖書せいしょ和訳わやく完成かんせい

1886ねん明治めいじ19ねん)、『英語えいごりん集成しゅうせいだい3はん出版しゅっぱん

1887ねん明治めいじ20ねん)、明治めいじ学院がくいんげん明治めいじ学院がくいん高等こうとう学校がっこうどう大学だいがく)を設立せつりつ明治めいじ学院がくいん初代しょだい総理そうり[5]就任しゅうにんした。

1892ねん明治めいじ25ねん)、『聖書せいしょ辞典じてん』を山本やまもとしげる編纂へんさん10月22にちつま病気びょうき理由りゆう離日りにち

晩年ばんねん 編集へんしゅう

 
1890ねん横浜よこはま撮影さつえいされたヘボン夫妻ふさい金婚式きんこんしき記念きねん写真しゃしん

1893ねん明治めいじ26ねん)、ニュージャージーしゅうイーストオレンジきょかまえる。

1905ねん明治めいじ38ねん3月13にち日本にっぽん文化ぶんか進歩しんぽへの功績こうせきみとめられ、くんさんとう旭日きょくじつあきらおくられた。

1911ねん明治めいじ44ねん)、病没びょうぼつ

名前なまえ表記ひょうきについて 編集へんしゅう

 
ヘボンとその家族かぞく集合しゅうごう写真しゃしん
 
横浜よこはま居留きょりゅうのヘボンのいえ
 
1880年代ねんだいなかばの、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく長老ちょうろう教会きょうかい東京とうきょうミッションのメンバーの家族かぞく集合しゅうごう写真しゃしん

「ヘボン」というせい 編集へんしゅう

Hepburn というせいは、HebronまたはHebburnというまち由来ゆらいする。このせいは「ヘプバーン」「ヘップバーン」とも転記てんきされる(女優じょゆうキャサリン・ヘプバーン[注釈ちゅうしゃく 2]オードリー・ヘプバーンも、おなHepburn せいである)が、ほんこうJames Curtis Hepburn日本にっぽん信徒しんとけにみずから「ヘボン」としょうした(に「平文へいぶん」の表記ひょうき使用しようしていた)。望月もちづき洋子ようこ『ヘボンの生涯しょうがい日本語にほんご[6]によれば、かれはテノールのよくひびこえで、みずから「ヘボンでござります」と名乗なのっていた、という記述きじゅつがある[注釈ちゅうしゃく 3]。こうしたことから、James Curtis Hepburnが創設そうせつしたり、創立そうりつふかかかわった学校がっこう教会きょうかい現在げんざいでも「ヘボン」表記ひょうき大事だいじつたえている。

表記ひょうき 編集へんしゅう

一方いっぽう、"James Curtis" の発音はつおん表記ひょうきは、変遷へんせんし、混乱こんらんしてきたとおもわれる[だれ?]Jamesについてはジェームズを、Curtisについてはカーチス参照さんしょうのこと。

ヘボンと日本語にほんご 編集へんしゅう

ヘボンの日本語にほんご学習がくしゅう 編集へんしゅう

1841ねん、シンガポール滞在たいざいちゅうカール・ギュツラフわけ日本語にほんごやく聖書せいしょやく翰福おんつて(ヨハネふくいんのでん)』をれた。日本にっぽんへの宣教せんきょうかう1859ねん航海こうかいちゅうに、『日本語にほんご文法ぶんぽうしょ』とともに『やく翰福おんつて』を利用りよう日本語にほんご学習がくしゅうした[13]マカオではサミュエル・ウィリアムズたく滞在たいざいして簡単かんたん日本語にほんごならった。来日らいにち、「コレハナンデスカ?」といてまわり、メモをったという[14]長崎ながさきではすう上陸じょうりくし、かなりおお英語えいご日本語にほんご対照たいしょうしてことばをあつめ、ちょっとした会話かいわ出来できるがまだ貧弱ひんじゃくだ、としている[15]

1881ねん明治めいじ14ねん)の時点じてんでは、よりゆき山陽さんよう日本にっぽん外史がいし』のだい部分ぶぶん原文げんぶん読解どっかいしていた[16]

聖書せいしょ翻訳ほんやく和英かずひで辞典じてん・ヘボンしきマ字まじ 編集へんしゅう

1867ねん慶応けいおう3ねん)、日本にっぽん最初さいしょ和英かずひで辞典じてんである『かず英語えいごりん集成しゅうせい』を編纂へんさん出版しゅっぱん初版しょはん出版しゅっぱん名義めいぎは「美国びくに 平文へいぶん」(3はんから国名こくめい表記ひょうきは「米國べいこく米国べいこく)」にわった[17])。1886ねん明治めいじ19ねん)に『英語えいごりん集成しゅうせいだい3はん出版しゅっぱん当時とうじ版権はんけん所有しょゆう外国がいこくじんみとめられていなかったために丸善まるぜん譲渡じょうと利益りえきのち明治めいじ学院がくいん寄付きふされた。

英語えいごりん集成しゅうせい』では、日本語にほんご転写てんしゃする方法ほうほうとして英語えいごしき転写てんしゃほう採用さいようした。だい3はんまで改正かいせいつとめ、辞典じてん普及ふきゅうともない、ヘボンしきマ字まじられるようになった。

ヘボンと医学いがく 編集へんしゅう

 
横浜市立大学よこはましりつだいがく医学部いがくぶヘボンホール

宣教師せんきょうしデュアン・シモンズともに、横浜よこはま近代きんだい医学いがく基礎きそきずいたといわれる。

日本にっぽんて、医療いりょう武器ぶき信用しんよう獲得かくとくしていった。せんもん脳外科のうげかであったが、当時とうじびょうおおかった日本にっぽん名声めいせいはくしたという。横浜よこはま近代きんだい医学いがく歴史れきしはヘボン診療しんりょうしょによってはじまったといわれる。日本人にっぽんじん弟子でしって教育きょういくしていたが、奉行ぶぎょうしょいやがらせもあり、診療しんりょうしょ閉鎖へいさになった。博士はかせのラウリー博士はかせての手紙てがみによると、けい3500にん患者かんじゃ処方箋しょほうせんき、瘢痕はんこんせいないはん手術しゅじゅつ30かい翼状よくじょうへん手術しゅじゅつ3かい眼球がんきゅう摘出てきしゅつ1かいのう水腫すいしゅ手術しゅじゅつ5かい背中せなかのおでき切開せっかい1かい白内障はくないしょう手術しゅじゅつ13かいろう手術しゅじゅつ6かい直腸ちょくちょうほのお1かい、チフスの治療ちりょう3かいおこなった。白内障はくないしょう手術しゅじゅつも1かいのぞいてみなうまくいったという(1861ねん9がつ8にち手紙てがみ)。また、名優めいゆう澤村さわむら田之助たのすけ脱疽だっそこしたあし切断せつだんする手術しゅじゅつもしている。そのとき麻酔ますいざい使つかっている。いち度目どめ手術しゅじゅつ慶応けいおう3ねん(1867ねん)であるが、その脱疽だっそ進展しんてんにともない切断せつだんおこなっている(横浜よこはま毎日新聞まいにちしんぶん1874,6,11にちづけ)。専門せんもん脳外科のうげかであることを考慮こうりょするとあし切断せつだんじゅつ見事みごとであると荒井あらい保男やすおべている[18]。ヘボンの弟子でしからは、後年こうねんはつ近代きんだいてき眼科がんか病院びょういん創設そうせつした丸尾まるおきょうどうなど[19][20]日本にっぽん医学いがく進展しんてん貢献こうけんしたおおくの人材じんざい巣立すだっていった。

その功績こうせきとなえ、横浜市立大学よこはましりつだいがく医学部いがくぶには講堂こうどう「ヘボンホール」[21]もうけている。

ヘボンと教育きょういく 編集へんしゅう

1863ねん文久ぶんきゅう3ねん)、横浜よこはま男女だんじょ共学きょうがくヘボンじゅく開設かいせつ後年こうねんプロテスタントミッション各派かくは学校がっこう連携れんけいした。ヘボンじゅく出身しゅっしんしゃには、高橋たかはし是清これきよはやしただし益田ますだたかしなど明治めいじ日本にっぽん活躍かつやくしたおおくの人材じんざいがいる。ヘボンじゅく女子じょしは、1871ねん明治めいじ4ねん)に同僚どうりょう宣教師せんきょうしメアリー・キダーによって洋学ようがくじゅくとして独立どくりつのちフェリス女学院じょがくいん母体ぼたいとなる。

1887ねん明治めいじ20ねん)、ヘボンじゅくをはじめとする学校がっこう統合とうごうし、私財しざいとうじて東京とうきょうみなと白金はっきん明治めいじ学院がくいんげん明治めいじ学院がくいん高等こうとう学校がっこうどう大学だいがく)を設立せつりつ明治めいじ学院がくいん初代しょだい総理そうり[5]就任しゅうにんした。

登場とうじょう作品さくひん 編集へんしゅう

 
明治めいじ学院がくいん24年度ねんど(1891ねん)卒業そつぎょう写真しゃしん、ヘボンを卒業生そつぎょうせいかこんでいる。
 
1910ねん米国べいこくでのヘボン(96さい)

明治めいじ刊行かんこう 編集へんしゅう

  • D.B.マカルティー ちょ、J.C.ヘボン やく真理しんりえき』1867ねんNDLJP:824666全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40049963 
  • J.C.ヘボン へん奥野おくのあきらつな やく『さいはひのおとずれ わらべてびきのとひこたへ』大和屋やまとやまこと太郎たろう、1873ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:20953521 
  • 平文へいぶん山本やまもとしげるへん聖書せいしょ辞典じてん基督教きりすときょう書類しょるい会社かいしゃ、1892ねんNDLJP:983453全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:43048211 
  • ヘボン『おさむしんろん基督教きりすときょう書類しょるい会社かいしゃ、1895ねん 

刊行かんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

以下いか英語えいごりん
  • J.C.ヘボン『英語えいごりん集成しゅうせい だいさんはん松村まつむらあきら解説かいせつ複製ふくせいばん)、講談社こうだんしゃ、1974ねん新版しんぱん1984ねん原著げんちょ1886ねん)、989ぺーじ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:75027316 
  • 英語えいごりん集成しゅうせい だいさんはん 訳語やくごそう索引さくいん山口やまぐちゆたかへん武蔵野むさしの書院しょいん、1997ねん5がつ、302ぺーじ
  • かずえいえい和語わごりん集成しゅうせい だいはん』Kindleばんきみずや出版しゅっぱん、2016ねん11月)、原書げんしょは1894年刊ねんかん
  • ヘボン,J.C. ちょ飛田ひだ良文よしふみ菊地きくちさとる へん英語えいごりん集成しゅうせい 初版しょはん 訳語やくごそう索引さくいん笠間かさま書院しょいん笠間かさま索引さくいんくさむらかん〉、1996ねん3がつ、559ぺーじISBN 9784305201119 
  • ヘボン,J.C. ちょ飛田ひだ良文よしふみかんへん英語えいごりん集成しゅうせい〈1〉: 初版しょはん再版さいはんさんはん対照たいしょうそう索引さくいんみなとひと、2000ねんISBN 4896290402 
  • ヘボン,J.C. ちょ飛田ひだ良文よしふみかんへん英語えいごりん集成しゅうせい〈2〉: 初版しょはん再版さいはんさんはん対照たいしょうそう索引さくいんみなとひと、2000ねんISBN 4896290410 
  • ヘボン,J.C. ちょ飛田ひだ良文よしふみかんへん英語えいごりん集成しゅうせい〈3〉: 初版しょはん再版さいはんさんはん対照たいしょうそう索引さくいんみなとひと、2000ねんISBN 4896290429 
  • いわほり行宏ゆきひろ英和えいわ和英かずひで辞典じてん誕生たんじょう にちおう言語げんご文化ぶんか交流こうりゅう』(だい7しょう ドクトル・ヘボンの和英かずひでだい辞典じてん図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1995ねん4がつ、332ぺーじISBN 9784-809905179 
  • 木村きむらはじめかず英語えいごりん集成しゅうせい研究けんきゅう明治めいじ書院しょいん、2015ねん2がつ、529ぺーじ

伝記でんき一般いっぱんけ) 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 高谷たかや道男みちお『ヘボンの手紙てがみ』p.56。10月13にち長崎ながさきはつ後半こうはんに10がつ20日はつか神奈川かながわという部分ぶぶんがあり、10月17にち月曜げつようよる到着とうちゃくとある。
  2. ^ 杉田すぎた幸子さちこ横浜よこはまのヘボン先生せんせい』(いのちのことばしゃ、1999ねんぞうていばん『ヘボン博士はかせあいした日本にっぽん』 いのちのことばしゃ・フォレストブックス、2006ねん)にはヘボンとおな一族いちぞくであると記載きさいされているが、高次こうじ資料しりょう不明ふめい両者りょうしゃ血縁けつえん関係かんけいについて言及げんきゅうした英文えいぶん文献ぶんけん見当みあたらない。
  3. ^ 日本にっぽんみずからを「ヘボン」としょうしていたことがわかる資料しりょうとしてほかに以下いかがある。
    • 慶応けいおう3ねん(1867ねん)に出版しゅっぱんされた『英語えいごりん集成しゅうせい初版しょはん表紙ひょうしに「『美国びくに平文へいぶんへんやく」とえる[7]
    • 1892ねん明治めいじ25ねん)に出版しゅっぱんされた『聖書せいしょ辞典じてん』の表紙ひょうしにも「平文へいぶん」とえる[8]
    • 和英かずひで英和えいわりん集成しゅうせいだい5はん1894(明治めいじ27)ねん発行はっこうの「501/509」に奥付おくづけかれている著作ちょさくしゃは「ゼー・シー・ヘボン」となっている[9]
    どう時代じだい日本人にっぽんじんも、日本語にほんごかれを「ヘボン」としるしている。
    • ヘボンが宿舎しゅくしゃにした成仏じょうぶつてら門前もんぜん名主なぬしげんななによる『御用ごようとめ』(1861ねん7がつごろ)に「ヘボン」(ヘホン)とかれている[10]
    • 1872ねん明治めいじ5ねん)に出版しゅっぱんされた『新約しんやく聖書せいしょでん福音ふくいんしょ[11]表紙ひょうしうらると「このしょはヘボンやくなり」と注記ちゅうきがある。
    • 1888(明治めいじ21)ねん4がつ19にちづけみぎ郵便ゆうびん報知ほうち新聞しんぶん新聞しんぶん広告こうこくで、『かずえいえい和語わごりん集成しゅうせい だい4はん』が「博士はかせヘボンちょ」と紹介しょうかいされている[12]

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ 1881ねん3がつ16にちけ、W.E.グリフィスあて書簡しょかん高谷たかや道男みちお編著へんちょ『ヘボン書簡しょかんしゅう岩波書店いわなみしょてん、1959ねん。292ページ以降いこう
  2. ^ 神奈川かながわ宿やど外国がいこくじんたち - 横浜よこはま開港かいこう資料しりょうかんほう74ごう、2001ねん
  3. ^ 日本人にっぽんじん参勤交代さんきんこうたい コンスタンチン・ヴァポリスちょ 柏書房かしわしょぼう 2010.6 ISBN 978-4-7601-3821-0 p.112
  4. ^ 明治学院大学めいじがくいんだいがく図書館としょかん - 『英語えいごりん集成しゅうせい』デジタルアーカイブス
  5. ^ a b 学長がくちょう相当そうとう
  6. ^ 望月もちづき洋子ようこ『ヘボンの生涯しょうがい日本語にほんご新潮しんちょう選書せんしょ、15ページ
  7. ^ 企画きかく連載れんさい : 神奈川かながわ : 地域ちいき : YOMIURI ONLINE(読売新聞よみうりしんぶん)(19)和英かずひで辞典じてん翻訳ほんやく聖書せいしょ刊行かんこう
  8. ^ 横浜よこはま開港かいこう150周年しゅうねん みんなでつくる 横濱よこはま写真しゃしんアルバム
  9. ^ 本文ほんぶん近代きんだいデジタルライブラリー
  10. ^ 公文書こうぶんしょかんだより だい3ごう : 神奈川かながわけん
  11. ^ ヘボン・ブラウンやく 新約しんやく聖書せいしょでん福音ふくいんしょ関西学院かんせいがくいん聖書せいしょ
  12. ^ 綺堂きどう作品さくひん聞 その2 綺堂きどう作品さくひんとその実証じっしょう
  13. ^ 高谷たかや道男みちお『ヘボンの手紙てがみ』p.39。同所どうしょに『日本語にほんご文法ぶんぽうしょ』はなにかを特定とくていできない、とある。
  14. ^ 望月もちづき洋子ようこ『ヘボンの生涯しょうがい日本語にほんご』P33~34
  15. ^ 高谷たかや道男みちお『ヘボンの手紙てがみ』p.56。
  16. ^ 1881ねん3がつ16にちけ、W.E.グリフィスあて書簡しょかん高谷たかや道男みちお『ヘボン書簡しょかんしゅう岩波書店いわなみしょてん。1959ねん。p.301。
  17. ^ 明治学院大学めいじがくいんだいがく図書館としょかん - 『英語えいごりん集成しゅうせい』デジタルアーカイブス 『英語えいごりん集成しゅうせいかくはん体裁ていさい
  18. ^ 荒井あらい保男やすお日本にっぽん近代きんだい医学いがく黎明れいめい 横浜よこはま医療いりょう事始ことはじめ』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2011ねんだい1しょう・44ぺーじ
  19. ^ 山田やまだ萬作まんさくたけ名士めいしでん山田やまだ萬作まんさく1891ねん、39ぺーじ
  20. ^ 丸尾まるおかおる奥沢おくさわ康正こうせい眼科がんか丸尾まるおきょうどう家系かけい」『日本にっぽん史学しがく雑誌ざっし』37かん2ごう日本にっぽん学会がっかい、1991ねん4がつ、289ぺーじ
  21. ^ 福浦ふくうらキャンパス|横浜市立大学よこはましりつだいがく

参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう