クックは1728年 ねん 10月27日 にち 、ノースヨークシャー州 しゅう マートンに生 う まれた。スコットランド 人 ひと の父 ちち とマートン生 う まれの母 はは の下 した 、5人 にん 兄弟 きょうだい であった。父 ちち が農場 のうじょう の農事 のうじ 監督 かんとく の職 しょく を得 え たため、家族 かぞく と共 とも にグレートアイトンの農場 のうじょう に移 うつ り、父 ちち の雇 やと い主 ぬし から学資 がくし を得 え て学校 がっこう に通 とお った。13歳 さい になり父 ちち と共 とも に働 はたら き始 はじ めた。16歳 さい になったクックは、漁村 ぎょそん ステイテスの雑貨 ざっか 店 てん で徒弟 とてい 奉公 ほうこう をするために家 いえ を出 で た。奉公 ほうこう 中 ちゅう に店 みせ の窓 まど の外 そと を眺 なが めているうち海 うみ に魅 み せられたという。
1年 ねん 半 はん の後 のち 、店 みせ のオーナーはクックに商才 しょうさい がないことを悟 さと り、近隣 きんりん の港町 みなとちょう ウィットビー のウォーカー兄弟 きょうだい にクックを紹介 しょうかい する。ウォーカー家 か は当地 とうち の有力 ゆうりょく な船主 せんしゅ で商家 しょうか であった。1746年 ねん に、クックは英国 えいこく 沿岸 えんがん の石炭 せきたん 運搬船 うんぱんせん 団 だん の見習 みなら い船員 せんいん として雇 やと われた。この間 あいだ 、操船 そうせん に必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ な代数 だいすう 学 がく 、三角 さんかく 測量 そくりょう 法 ほう 、航海 こうかい 術 じゅつ 、天文学 てんもんがく の勉学 べんがく に励 はげ んだ。
3年間 ねんかん の徒弟 とてい 奉公 ほうこう を終 お えたクックはバルト海 ばるとかい の貿易 ぼうえき 船 せん のブリッグ 「フレンドシップ号 ごう 」で働 はたら き始 はじ めた。1755年 ねん にはフレンドシップ号 ごう の航海 こうかい 士 し に昇進 しょうしん していた。しかし、ひと月 がつ も経 た たぬうち、クックは、英国 えいこく 海軍 かいぐん に一介 いっかい の水兵 すいへい として志願 しがん 入隊 にゅうたい する。
1755年 ねん の英国 えいこく 海軍 かいぐん は、七 なな 年 ねん 戦争 せんそう に備 そな えて軍備 ぐんび を強化 きょうか していた。クックは、海軍 かいぐん に入 はい った方 ほう が出世 しゅっせ できるだろうと考 かんが えたらしい。クックは、水兵 すいへい の身分 みぶん から瞬 またた く間 ま に准 なぞらえ 士官 しかん たる航海 こうかい 士 し (英語 えいご 版 ばん ) に昇進 しょうしん し、海軍 かいぐん に入 はい ってから僅 わず か2年 ねん 後 ご の1757年 ねん には、航海 こうかい 長 ちょう (士官 しかん 待遇 たいぐう )の任用 にんよう 試験 しけん に合格 ごうかく した[ 2] 。この時 とき 、クックは29歳 さい であった。
34歳 さい で、13歳 さい 年下 としした のエリザベス・バッツ (1742-1835) と1762年 ねん に結婚 けっこん し、6人 にん の子供 こども ジェームズ (1763-1794)、ナサニエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772)、ヒュー (1776-1793) を儲 もう けた。陸 りく での住 す まいはロンドン のイーストエンド(貧民 ひんみん 街 がい )にあった。クックの子供 こども たちは、いずれも子孫 しそん を残 のこ さずに夭折 ようせつ したため、クックの直系 ちょっけい の子孫 しそん はいない。
ジェームズ・クックの
探検 たんけん によるニューファンドランド
島 とう 地図 ちず 、
1775年 ねん 現代 げんだい の測量 そくりょう 技術 ぎじゅつ によって描 えが かれたニューファンドランド島 とう
七 なな 年 ねん 戦争 せんそう (1756年 ねん ~1763年 ねん )において、クックは航海 こうかい 長 ちょう として、英国 えいこく 軍艦 ぐんかん Solebay号 ごう のロバート・クレイグ艦長 かんちょう の下 した で1759年 ねん のケベック 包囲 ほうい 戦 せん に加 くわ わった。既 すで に測量 そくりょう 及 およ び海図 かいず 作成 さくせい の技量 ぎりょう を認 みと められていたクックは、セントローレンス川 がわ 河口 かこう の測量 そくりょう と海図 かいず 作成 さくせい を任 まか され、包囲 ほうい 戦 せん の趨勢 すうせい を決 けっ したウルフ将軍 しょうぐん の奇襲 きしゅう 上陸 じょうりく 作戦 さくせん の成功 せいこう に大 おお いに寄与 きよ した。
1760年代 ねんだい のクックは、ニューファンドランド島 とう の入 い り組 く んだ海岸 かいがん の測量 そくりょう に取 と り組 く んだ。夏季 かき でも常 つね に海 うみ 霧 きり に覆 おお われ、強風 きょうふう が吹 ふ き、冬 ふゆ は極寒 ごっかん となるニューファンドランド島 とう 海域 かいいき において、帆船 はんせん で測量 そくりょう を行 おこな うのは至難 しなん かつ危険 きけん な仕事 しごと であった。クックは、1763年 ねん と1764年 ねん に北西 ほくせい 部 ぶ 、1765年 ねん と1766年 ねん にブリン半島 はんとう とレイ岬 みさき の間 あいだ の南岸 なんがん 、1767年 ねん に西岸 せいがん を測量 そくりょう した。クックの5年 ねん にわたる測量 そくりょう によって、ニューファンドランド島 とう 海域 かいいき の正確 せいかく な海図 かいず が初 はじ めて作成 さくせい された。
ニューファンドランド島 とう 海域 かいいき 測量 そくりょう の奮闘 ふんとう を終 お えた時 とき 、クックは記 しる した。
「これまでの誰 だれ よりも遠 とお くへ、それどころか、人間 にんげん が行 い ける果 は てまで私 わたし は行 い きたい」
七 なな 年 ねん 戦争 せんそう でのセントローレンス川 がわ 河口 かわくち 海域 かいいき 測量 そくりょう 、1760年代 ねんだい のニューファンドランド島 とう 海域 かいいき 測量 そくりょう での功績 こうせき により、クックは英国 えいこく 海軍 かいぐん 本部 ほんぶ と英国 えいこく 王立 おうりつ 協会 きょうかい の注目 ちゅうもく を受 う けることとなった。
第 だい 1回 かい 航海 こうかい (1768年 ねん - 1771年 ねん )
編集 へんしゅう
赤 あか は第 だい 1回 かい 航海 こうかい 、緑 みどり は第 だい 2回 かい 航海 こうかい 、青 あお は第 だい 3回 かい 航海 こうかい をあらわす。青 あお の点線 てんせん は、クック死後 しご の航海 こうかい ルートである
1766年 ねん 、王立 おうりつ 協会 きょうかい はクックを金星 きんぼし の日面 ひおも 通過 つうか の観測 かんそく を目的 もくてき に南太平洋 みなみたいへいよう へ派遣 はけん した[ 3] 。英国 えいこく 海軍 かいぐん 航海 こうかい 長 ちょう (士官 しかん 待遇 たいぐう だが、公式 こうしき の指揮 しき 権 けん を有 ゆう さない)の階級 かいきゅう にあった38歳 さい のクックは、公式 こうしき の指揮 しき 権 けん を有 ゆう する正規 せいき の海軍 かいぐん 士官 しかん たる海 うみ 尉 じょう に任官 にんかん し[ 1] 、英国 えいこく 軍艦 ぐんかん エンデバー号 ごう の指揮 しき 官 かん となった。もともと、エンデバー号 ごう はウィトビーで建造 けんぞう された石炭 せきたん 運搬船 うんぱんせん で、大 おお きな積載 せきさい 量 りょう 、強度 きょうど 、浅 あさ い喫水 きっすい 、どこを取 と っても、暗礁 あんしょう の多 おお い海洋 かいよう や多 おお 島 とう 海 うみ を長期間 ちょうきかん 航海 こうかい するにはうってつけの性能 せいのう を備 そな えていた。クックは1768年 ねん 8月 がつ 25日 にち に英国 えいこく 南部 なんぶ のプリマス を出帆 しゅっぱん し[ 4] 、マデイラ諸島 しょとう とリオデジャネイロ に寄港 きこう したのち南米 なんべい 大陸 たいりく 南端 なんたん のホーン岬 みさき を東 ひがし から西 にし に周航 しゅうこう し[ 5] 、太平洋 たいへいよう を横断 おうだん して西 にし へ進 すす み、天体 てんたい 観測 かんそく の目的 もくてき 地 ち であるタヒチ に1769年 ねん 4月 がつ 13日 にち に到着 とうちゃく した。日面 ひおも 通過 つうか は6月3日 にち で、クックは小 ちい さな居館 きょかん と観測 かんそく 所 しょ の建造 けんぞう を行 おこな った。
観測 かんそく を担当 たんとう したのは、王室 おうしつ 天文 てんもん 官 かん (グリニッジ天文台 てんもんだい 長 ちょう )ネヴィル・マスケリン の助手 じょしゅ 、天文学 てんもんがく 者 しゃ チャールズ・グリーンであった。観測 かんそく の目的 もくてき は、金星 きんぼし の太陽 たいよう からの距離 きょり をより正確 せいかく に算出 さんしゅつ するための測定 そくてい であった。もしこれが成功 せいこう すれば、軌道 きどう の計算 けいさん に基 もと づいて、他 た の惑星 わくせい の太陽 たいよう からの距離 きょり も算出 さんしゅつ できるはずであった。金星 きんぼし の日面 ひおも 通過 つうか の観測 かんそく 当日 とうじつ 、クックはこう記 しる している。
「6月 がつ 3日 にち 土曜日 どようび 。本日 ほんじつ は期待 きたい 通 どお り観測 かんそく に好適 こうてき な日和 ひより となり、雲 くも 一 ひと つなく、空気 くうき は完璧 かんぺき に澄 す んでおり、金星 きんぼし の日面 ひおも 通過 つうか の全 ぜん 経路 けいろ の観測 かんそく にはあらゆる好条件 こうじょうけん が備 そな わっていた。金星 きんぼし を取 と り巻 ま く大気 たいき あるいは薄暗 うすぐら い影 かげ があまりによく見 み えたので、金星 きんぼし と太陽 たいよう の接触 せっしょく 、とくに第 だい 2接触 せっしょく の時刻 じこく の観測 かんそく がきわめて困難 こんなん になってしまった。ソランダー博士 はかせ とグリーンと私 わたし は同時 どうじ に観測 かんそく したが、それぞれが観測 かんそく した接触 せっしょく 時刻 じこく は思 おも っていたよりもかなりずれていた」
しかし、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれ別 べつ に行 い った観測 かんそく は誤差 ごさ の期待 きたい 範囲 はんい を越 こ えていた。観測 かんそく 器具 きぐ の解像度 かいぞうど が未 いま だ足 た りなかったのである。観測 かんそく 結果 けっか は別 べつ の場所 ばしょ で行 おこ なわれた結果 けっか と後 のち に比較 ひかく 検討 けんとう されたが、やはり期待 きたい したような正確 せいかく な観測 かんそく 結果 けっか ではなかった。
天体 てんたい 観測 かんそく が終了 しゅうりょう するとすぐに、クックは航海 こうかい の後半 こうはん についての秘密 ひみつ 指令 しれい を開封 かいふう した。それは、海軍 かいぐん 本部 ほんぶ の追加 ついか 命令 めいれい に従 したが って、伝説 でんせつ の南方 なんぽう 大陸 たいりく (テラ・アウストラリス 、Terra Australis)を求 もと めて南太平洋 みなみたいへいよう を探索 たんさく せよ、という指令 しれい であった。金星 かなぼし 観測 かんそく (しかもエンデバー号 ごう のような目立 めだ たない小 ちい さな艦 かん で)を隠 かく れ蓑 みの にすれば、英国 えいこく にとって今 いま 航海 こうかい は、ライバルのヨーロッパ諸国 しょこく を出 だ し抜 ぬ いて南方 なんぽう 大陸 たいりく を発見 はっけん し伝説 でんせつ の富 とみ を手 て に入 い れる絶好 ぜっこう の機会 きかい となろう、と王立 おうりつ 協会 きょうかい は考 かんが えたのである。この説 せつ の特 とく に熱心 ねっしん な信奉 しんぽう 者 しゃ が王立 おうりつ 協会 きょうかい 会員 かいいん のアレクサンダー・ダリンプル であった。
ニュージーランドのクック海峡 かいきょう
南太平洋 みなみたいへいよう の地理 ちり にきわめて詳 くわ しいトウパイア というタヒチ人 じん の助力 じょりょく を得 え て、1769年 ねん 10月6日 にち クックはヨーロッパ人 じん として史上 しじょう 2番目 ばんめ に(1642年 ねん のアベル・タスマン 以来 いらい )ニュージーランド に到達 とうたつ した。クックは、いくつかの小 ちい さな誤 あやま り(バンクス半島 はんとう を島 しま としたり、スチュアート島 とう を南島 なんとう の一部 いちぶ と考 かんが えるなど)はあるものの、ニュージーランドの海岸 かいがん 線 せん のほぼ完全 かんぜん な地図 ちず を作製 さくせい した。また、ニュージーランドの北島 きたじま と南島 なんとう を分 わ ける海峡 かいきょう (クック海峡 かいきょう )を発見 はっけん した[ 6] (アベル・タスマンは海峡 かいきょう ではなく湾 わん と判断 はんだん していた)。
クックは航路 こうろ を西 にし に取 と り、伝説 でんせつ の南方 なんぽう 大陸 たいりく の一部 いちぶ をなしているのか否 ひ かを確 たし かめる目的 もくてき で、ヴァン・ディーメンズ・ランド (今日 きょう のタスマニア )を目指 めざ した。しかし、エンデバー号 ごう は暴風 ぼうふう で北 きた 寄 よ りに流 なが され、1770年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 金曜日 きんようび 、後 のち にクックがヒックス岬 みさき と命名 めいめい した陸地 りくち を目撃 もくげき するまでそのまま航行 こうこう した。計算 けいさん によればタスマニア島 とう はそこより南 みなみ に位置 いち しているはずだったが、南西 なんせい に伸 の びる海岸 かいがん 線 せん が目撃 もくげき されたことから、この陸地 りくち はタスマニア島 とう に繋 つな がっているのではないか、とクックは疑 うたが った。この岬 みさき はオーストラリア 大陸 たいりく の南東 なんとう 海岸 かいがん に位置 いち し、結果 けっか として、クックの探検 たんけん 隊 たい はオーストラリア大陸 たいりく の東海岸 ひがしかいがん に到達 とうたつ した史上 しじょう 初 はつ のヨーロッパ人 じん となった[ 7] 。
クックが発見 はっけん した陸 りく 標 しるべ は、ビクトリア州 しゅう 南東 なんとう 岸 がん のオーボストとマラクータのほぼ中間 ちゅうかん の岬 みさき であるとされる。1843年 ねん に行 おこな われた調査 ちょうさ ではクックの命名 めいめい が無視 むし されたか見過 みす ごされたため、岬 みさき には別 べつ の名前 なまえ が命名 めいめい されていたが、オーストラリア発見 はっけん 200年 ねん 記念 きねん 祭 さい の折 おり に、公式 こうしき にヒックス岬 みさき と名称 めいしょう 回復 かいふく された。
エンデバー号 ごう は海岸 かいがん 線 せん に沿 そ って北上 ほくじょう を続 つづ け、クックは測量 そくりょう と陸 りく 標 しるべ の命名 めいめい を次々 つぎつぎ に行 い った。1週間 しゅうかん 余 あま り過 す ぎた頃 ころ 、一 いち 行 ぎょう は大 おお きな浅 あさ い入 い り江 え に入 はい り、砂丘 さきゅう に覆 おお われた低 ひく い岬 みさき の沖 おき に停泊 ていはく した。そここそ、4月 がつ 29日 にち に、クック一 いち 行 ぎょう がオーストラリア大陸 たいりく に初 はじ めて上陸 じょうりく した、現在 げんざい ではカーネル (en:Kurnell, New South Wales )として知 し られている場所 ばしょ である。多 おお くのエイ が見 み られたために、この入 い り江 え はクックによってアカエイ湾 わん と命名 めいめい されたが、後 のち に植物 しょくぶつ 学者 がくしゃ 湾 わん と改称 かいしょう され、最終 さいしゅう 的 てき には、博物学 はくぶつがく 者 しゃ のジョセフ・バンクス 、ヘルマン・スペーリング (英語 えいご 版 ばん ) 、ダニエル・ソランダー によって採集 さいしゅう された例 れい を見 み ない貴重 きちょう な植物 しょくぶつ 標本 ひょうほん を記念 きねん してボタニー湾 わん (植物 しょくぶつ 学 がく 湾 わん )となった。博物 はくぶつ 学者 がくしゃ たちは、後 のち にオーストラリアの動物 どうぶつ 相 しょう と植物 しょくぶつ 相 しょう に関 かん する最初 さいしょ の科学 かがく 論文 ろんぶん を上梓 じょうし した。
一 いち 行 ぎょう の最初 さいしょ の上陸 じょうりく 地 ち は、入植 にゅうしょく 地 ち および英国 えいこく の植民 しょくみん 地 ち の前哨 ぜんしょう 基地 きち にうってつけの候補 こうほ 地 ち として(特 とく にジョセフ・バンクスによって)、後 のち に喧伝 けんでん された。しかし、ほぼ18年 ねん 後 ご 、1788年 ねん のはじめに、前哨 ぜんしょう 基地 きち と囚人 しゅうじん の入植 にゅうしょく 地 ち を設置 せっち するためにアーサー・フィリップ 艦長 かんちょう 率 ひき いる第 だい 一 いち 艦隊 かんたい がオーストラリアに到着 とうちゃく した際 さい 、ボタニー湾 わん は聞 き いていたほど有望 ゆうぼう ではないとフィリップは判断 はんだん し、代 か わりに北 きた へ数 すう キロメートルの上陸 じょうりく 地 ち へ移動 いどう した。そこはクックがかつてポート・ジャクソン湾 わん と名付 なづ けたが、それ以上 いじょう の探検 たんけん はしなかった場所 ばしょ であった。フィリップは湾内 わんない の入江 いりえ をシドニー・コーブ と名付 なづ け、入植 にゅうしょく 地 ち が設置 せっち された。しかし、その後 ご もしばらくは入植 にゅうしょく 地 ち はボタニー湾 わん 入植 にゅうしょく 地 ち と呼 よ び習 なら わされた。
最初 さいしょ の上陸 じょうりく の際 さい に、クック一 いち 行 ぎょう はオーストラリア先住民 せんじゅうみん のアボリジニ と接触 せっしょく している。
海岸 かいがん 線 せん を測量 そくりょう しながらクックは北 きた へ船 ふね を進 すす めた。1770年 ねん 6月11日 にち グレートバリアリーフ の浅瀬 あさせ にエンデバー号 ごう が乗 の り上 あ げ大破 たいは したため、砂浜 すなはま で修理 しゅうり が行 おこな われ航海 こうかい は7週間 しゅうかん の遅 おく れを生 しょう じた(そこはエンデバー川 がわ の河口 かこう 、現在 げんざい のクックタウン の船着 ふなつ き場 ば の近 ちか くである)。その間 あいだ 、バンクス、スペーリング、ソランダーはオーストラリアの植物 しょくぶつ の最初 さいしょ の大 だい 規模 きぼ な採集 さいしゅう を行 おこな った。乗組 のりくみ 員 いん と当地 とうち のアボリジニの人々 ひとびと との遭遇 そうぐう はおおむね平和 へいわ 的 てき であった。当地 とうち のアボリジニが話 はな したグーグ・イミディル語 ご でオオカンガルーを指 さ す "gangurru" から、「カンガルー 」が英語 えいご の仲間入 なかまい りをした。
エンデバー号 ごう の修繕 しゅうぜん を終 お えると直 ただ ちに航海 こうかい は続 つづ けられ、クック一 いち 行 ぎょう は、ヨーク岬 みさき 半島 はんとう の北端 ほくたん を通過 つうか し、オーストラリア とニューギニア の間 あいだ のトレス海峡 かいきょう を抜 ぬ けた。ヨーク岬 みさき 半島 はんとう を巡 めぐ って、オーストラリアとニューギニアが陸続 りくつづ きでないことを確認 かくにん すると、クックは1770年 ねん 8月 がつ 22日 にち にポゼッション島 とう に上陸 じょうりく し、オーストラリア東岸 とうがん の英国 えいこく 領有 りょうゆう を宣言 せんげん した。
この航海 こうかい でクックはただ1人 ひとり の船員 せんいん も壊血病 かいけつびょう で失 うしな わなかったが、これは18世紀 せいき においては奇跡 きせき 的 てき な成果 せいか であった。1747年 ねん に導入 どうにゅう された英国 えいこく 海軍 かいぐん の規則 きそく に則 のっと って、クックは柑橘類 かんきつるい やザワークラウト などを食 た べるように部下 ぶか に促 うなが した。クックが部下 ぶか にこれらの食物 しょくもつ を摂 と らせた方法 ほうほう は、指導 しどう 者 しゃ としての彼 かれ の優 すぐ れた資質 ししつ をよく物語 ものがた っている。当時 とうじ の船員 せんいん は新 あたら しい習慣 しゅうかん には頑強 がんきょう に抵抗 ていこう したので、最初 さいしょ は誰 だれ もザワークラウトを食 た べなかった。クックは一計 いっけい を案 あん じ、ザワークラウトは自分 じぶん と士官 しかん だけに供 きょう させ、残 のこ りを望 のぞ む者 もの だけに分 わ けてみせた。上官 じょうかん らがザワークラウトを有 あ り難 がた く頂戴 ちょうだい するのを見 み せると、1週間 しゅうかん も経 た たぬ間 あいだ に、自分 じぶん らにも食 た べさせろという声 こえ が断 ことわ りきれぬほど船内 せんない に高 たか まった、とクックは日誌 にっし に記 しる している。
その後 ご 、一 いち 行 ぎょう は艦 かん の修繕 しゅうぜん のために、オランダ東 ひがし インド会社 かいしゃ の本拠地 ほんきょち があるバタヴィア へ向 む かった。バタヴィアではマラリア と赤痢 せきり が猖獗 しょうけつ をきわめており、1771年 ねん に一 いち 行 ぎょう が帰国 きこく するまでに、タヒチ人 じん のトウパイア、バンクスの助手 じょしゅ を務 つと めたスペーリング、植物 しょくぶつ 画家 がか のシドニー・パーキンソンなど、多 おお くの者 もの が病 やまい を得 え て亡 な くなった。出発 しゅっぱつ からバタヴィアまでの27ヶ月 かげつ の航海 こうかい ではわずか8名 めい だった死者 ししゃ は、バタヴィア滞在 たいざい 中 ちゅう の10週間 しゅうかん とバタヴィアからケープタウンまでの11週間 しゅうかん に31名 めい に達 たっ してしまった。
1771年 ねん 6月12日 にち 午後 ごご 、エンデバー号 ごう は南 みなみ イングランドのダウンズ に投錨 とうびょう し、クックはケント で下船 げせん した。帰国 きこく すると直 す ぐ航海 こうかい 日誌 にっし が出版 しゅっぱん されクックは科学 かがく 界 かい でも時 とき の人 ひと となった。しかし、ロンドン社交 しゃこう 界 かい でクックの数 すう 倍 ばい の人気 にんき 者 しゃ となったのは、貴族 きぞく 階級 かいきゅう の博物 はくぶつ 学者 がくしゃ ジョセフ・バンクス だった。バンクスはクックの第 だい 2回 かい 航海 こうかい にも同行 どうこう する予定 よてい だったが、船 ふね の構造 こうぞう に不満 ふまん を爆発 ばくはつ させ直前 ちょくぜん で自 みずか ら任 にん を降 お りた。
第 だい 2回 かい 航海 こうかい (1772年 ねん - 1775年 ねん )
編集 へんしゅう
第 だい 1回 かい 航海 こうかい から帰還 きかん 後 ご 、功績 こうせき を認 みと められて「軍艦 ぐんかん を指揮 しき する海 うみ 尉 じょう 」から海 うみ 尉 じょう 艦長 かんちょう (英語 えいご 版 ばん ) に昇進 しょうしん した[ 1] クックは、王立 おうりつ 協会 きょうかい から南方 みなかた 大陸 たいりく (テラ・アウストラリス)探検 たんけん 隊 たい の指揮 しき を委任 いにん された。第 だい 1回 かい 航海 こうかい のニュージーランド 周航 しゅうこう によって、ニュージーランドが南方 なんぽう の大陸 たいりく とは繋 つな がっていないこと、さらに、東海岸 ひがしかいがん の測量 そくりょう によって、オーストラリア が大陸 たいりく であろうことも、既 すで に明 あき らかにされていたのだが、テラ・アウストラリスはさらに南 みなみ に存在 そんざい するはずと王立 おうりつ 協会 きょうかい はまだ信 しん じていたのだった。こうして1772年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、クックは第 だい 2回 かい の探検 たんけん 航海 こうかい に再 ふたた び出帆 しゅっぱん した。
探検 たんけん 隊長 たいちょう のクックは、英国 えいこく 軍艦 ぐんかん レゾリューション号 ごう を、トバイアス・ファーノー はアドベンチャー号 ごう を指揮 しき した。アフリカ大陸 たいりく 南端 なんたん から東進 とうしん した一 いち 行 ぎょう はきわめて高緯度 こういど の地域 ちいき を周航 しゅうこう し、1773年 ねん 1月 がつ 17日 にち にヨーロッパ人 じん として初 はじ めて南極 なんきょく 圏 けん に突入 とつにゅう した。これがいかに偉業 いぎょう であったかは、次 つぎ の南極 なんきょく 圏 けん 突入 とつにゅう が50年 ねん 後 ご だったことからも明 あき らかである。南極 なんきょく 圏 けん の濃 こ い霧 きり によってはぐれた2隻 せき はニュージーランドで落 お ち合 あ った後 のち 、南太平洋 みなみたいへいよう を東進 とうしん してさらに南下 なんか し南緯 なんい 71度 ど 10分 ふん まで到達 とうたつ した。その後 ご もクックは探検 たんけん を続 つづ けたが、ファーノーは先 さき に英国 えいこく へ帰還 きかん することになった矢先 やさき にマオリ族 ぞく との戦 たたか いで10人 にん の部下 ぶか を失 うしな っている。
クックはもう少 すこ しで南極大陸 なんきょくたいりく を発見 はっけん するところであったが、南方 みなかた 大陸 たいりく が人類 じんるい が居住 きょじゅう 可能 かのう な緯度 いど には存在 そんざい しないことを確 たし かめ、伝説 でんせつ の南方 なんぽう 大陸 たいりく の探索 たんさく に終止符 しゅうしふ を打 う った[ 8] 。補給 ほきゅう のため北 きた のタヒチ へ進路 しんろ を取 と り、オマイ というタヒチ人 じん の若者 わかもの を伴 ともな って再 ふたた び南 みなみ へ向 む かったが、オマイは第 だい 1回 かい 航海 こうかい のトウパイア ほどは太平洋 たいへいよう の地理 ちり に明 あか るくなかった。帰 かえ り航海 こうかい では、1774年 ねん にトンガ 、イースター島 とう 、ニューカレドニア 、バヌアツ に上陸 じょうりく した後 のち 、ふたたび南下 なんか して南緯 なんい 50度 ど から55度 ど 付近 ふきん の航路 こうろ を取 と った。これによってクックは南極大陸 なんきょくたいりく 北方 ほっぽう の海 うみ を周航 しゅうこう したことになり、南方 みなかた 大陸 たいりく がこの緯度 いど までには存在 そんざい しないことを確定 かくてい させた。この航海 こうかい によって、南方 なんぽう の未 み 確定 かくてい 領域 りょういき は大幅 おおはば に狭 せば められた[ 9] 。クックはその後 ご 東進 とうしん し、南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく 南端 なんたん を回 まわ り南 みなみ ジョージア島 とう と南 みなみ サンドウィッチ諸島 しょとう を発見 はっけん した。
一 いち 行 ぎょう の帰国 きこく 報告 ほうこく によって、テラ・アウストラリスの伝説 でんせつ は沈静 ちんせい 化 か した。一方 いっぽう で、クックは彼 かれ が探検 たんけん した海域 かいいき の南方 なんぽう には大陸 たいりく があることを予想 よそう していた[ 10] が、それは人類 じんるい が居住 きょじゅう できるようなものではないことも予測 よそく していた。クロノメーター が活躍 かつやく し正確 せいかく な経度 けいど の決定 けってい が行 おこな われたことも、第 だい 2回 かい 航海 こうかい の大 おお きな業績 ぎょうせき であった[ 11] 。ちなみに、クックは南 みなみ サンドウィッチ諸島 しょとう をサンドウィッチ・ランドと命名 めいめい したが、第 だい 3航海 こうかい でクック自身 じしん が発見 はっけん ・命名 めいめい したサンドウィッチ諸島 しょとう (ハワイ諸島 しょとう )と区別 くべつ するため後代 こうだい の英国 えいこく が南 みなみ サンドウィッチ諸島 しょとう とした。英国 えいこく は1908年 ねん に公式 こうしき に領有 りょうゆう 宣言 せんげん 、これに対 たい しアルゼンチンも1938年 ねん に領有 りょうゆう を宣言 せんげん した。
多大 ただい な業績 ぎょうせき を挙 あ げたクックは、帰国 きこく 後 ご に直 ただ ちに勅 みことのり 任 にん 艦長 かんちょう (ポスト・キャプテン)に昇進 しょうしん し、同時 どうじ に海軍 かいぐん を休職 きゅうしょく して、グリニッジ の海軍 かいぐん 病院 びょういん の院長 いんちょう に任命 にんめい された。水兵 すいへい から勅 みことのり 任 にん 艦長 かんちょう への栄進 えいしん は、極 きわ めて稀 まれ な事例 じれい であった[ 1] 。壊血病 かいけつびょう 予防 よぼう に対 たい する貢献 こうけん に対 たい して王立 おうりつ 協会 きょうかい からコプリ・メダル を授与 じゅよ され、フェローにも選出 せんしゅつ された[ 12] 。しかし、未 いま だ48歳 さい のクックは海 うみ から離 はな れるのに耐 た えられず、航海 こうかい 記 き を書 か き上 あ げた直後 ちょくご に、彼 かれ の最後 さいご の航海 こうかい となる第 だい 3回 かい 航海 こうかい に出帆 しゅっぱん した。
第 だい 3回 かい 航海 こうかい (1776年 ねん - 1780年 ねん )
編集 へんしゅう
巷間 こうかん では、ロンドン市民 しみん の好奇 こうき の的 まと となっていたオマイをタヒチ に戻 もど すために航海 こうかい が行 おこ なわれると噂 うわさ されたが、第 だい 3回 かい 航海 こうかい の公式 こうしき の目的 もくてき は、北極 ほっきょく 海 かい を抜 ぬ けて太平洋 たいへいよう と大西 おおにし 洋 ひろし をつなぐ北西 ほくせい 航路 こうろ を探索 たんさく することであった。クックは再 ふたた びレゾリューション号 ごう の指揮 しき を取 と り、チャールズ・クラークが僚船 りょうせん ディスカバリー号 ごう の指揮 しき をとった。オマイをタヒチに返 かえ した後 のち に、クックらは北 きた へと進路 しんろ を取 と り、1778年 ねん にはハワイ 諸島 しょとう を訪 おとず れた最初 さいしょ のヨーロッパ人 じん となった。クックはカウアイ島 とう に上陸 じょうりく し、時 とき の海軍 かいぐん 大臣 だいじん でクックの探検 たんけん 航海 こうかい の重要 じゅうよう な擁護 ようご 者 しゃ でもあったサンドウィッチ伯 はく の名前 なまえ をとり「ハワイ諸島 しょとう 」を「サンドウィッチ諸島 しょとう 」と命名 めいめい した。また、クック達 たち はハワイ諸島 しょとう にインフルエンザを持 も ち込 こ み50万 まん 人 にん いた島民 とうみん は7万 まん 人 にん にまで減少 げんしょう してしまった。
北 きた アメリカ の西海岸 にしかいがん を探検 たんけん するためにクックは東 ひがし へ航海 こうかい し、バンクーバー島 とう のノコタ・サウンドの中 なか のユーコートにあるファーストネーションズ村 むら の近 ちか くに上陸 じょうりく したが、ファンデフカ海峡 かいきょう は見過 みす ごしてしまった。この北洋 ほくよう 航海 こうかい でクックは、カリフォルニア からベ べ ーリング海 りんぐかい 峡 かい に至 いた るまでを探検 たんけん 、海図 かいず を作製 さくせい し、アラスカ の今 いま ではクック湾 わん として知 し られている場所 ばしょ を発見 はっけん した。ただ1度 ど の航海 こうかい でクックは、アメリカの北西 ほくせい 岸 がん の大 だい 部分 ぶぶん の海図 かいず を作製 さくせい し、アラスカ の端 はし を突 つ き止 と め、西方 せいほう からベーリング らロシア 人 ひと が、南方 なんぽう からスペイン 人 ひと が行 おこな っていた太平洋 たいへいよう の北限 ほくげん 探査 たんさ の空隙 くうげき を埋 う めてしまったのである[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。しかし、クックらが何 なん 度 ど 試 こころ みても、秋 あき から冬 ふゆ にかけてのベ べ ーリング海 りんぐかい 峡 かい は帆船 はんせん ではどうしても航行 こうこう できず、そこから北 きた へは進 すす むことができなかった。
クックは長年 ながねん の航海 こうかい による精神 せいしん 的 てき 、肉体 にくたい 的 てき ストレスの蓄積 ちくせき のためか、不調 ふちょう 続 つづ きの航路 こうろ 探索 たんさく のためか日毎 ひごと に気難 きむずか しくなり胃 い の不調 ふちょう にも悩 なや まされていた。そのゆえなのか、クックはしばしば周囲 しゅうい と深刻 しんこく なもめ事 ごと を起 お こすようになった。たとえば、アラスカ で一 いち 行 ぎょう は海牛 うみうし と見 み 誤 あやま ってセイウチ を仕留 しと めた。「(残 のこ り少 すく ない)塩漬 しおづ け肉 にく よりずっと良 よ い」と、クックはセイウチの肉 にく を船内 せんない で消費 しょうひ するよう命 めい じたが、クックを除 のぞ く多 おお くの乗員 じょういん の嗜好 しこう にセイウチの肉 にく はまったく馴染 なじ まなかった。しかし、これを食 た べない者 もの には船 ふね の通常 つうじょう の食事 しょくじ を禁 きん じるなど、クックが自分 じぶん の考 かんが えに固執 こしつ したため船内 せんない には反乱 はんらん 寸前 すんぜん の緊張 きんちょう が生 しょう じた。このようなクックの精神 せいしん 的 てき 状態 じょうたい がその後 ご の悲劇 ひげき を引 ひ き起 お こす一因 いちいん となったと、ビーグルホール ら後 ご の伝記 でんき 作者 さくしゃ たちは推測 すいそく している。
クックの最期 さいご
レゾリューション号 ごう は1779年 ねん にハワイ島 とう に戻 もど りケアラケクア湾 わん に投錨 とうびょう した。約 やく 1ヶ月 かげつ の滞在 たいざい の後 のち 、クックは北 きた 太平洋 たいへいよう 探検 たんけん を再開 さいかい したが、出航 しゅっこう 後 ご 間 ま もなく前 ぜん 檣が破損 はそん し、補修 ほしゅう のためケアラケクア湾 わん に戻 もど らなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教 しゅうきょう 上 じょう の複雑 ふくざつ な事情 じじょう ではこの突然 とつぜん の帰還 きかん は「季節外 きせつはず れ」で、先住民 せんじゅうみん の側 がわ からすると思 おも いがけないことだったため、クック一 いち 行 ぎょう と先住民 せんじゅうみん の間 あいだ に緊張 きんちょう が生 しょう じることになった。
1779年 ねん 2月 がつ 14日 にち に、ケアラケクア湾 わん でクックらのカッターボート を村人 むらびと が盗 ぬす むという事件 じけん が起 お きた。タヒチや他 た の島々 しまじま でも盗難 とうなん はよくあったことで、盗品 とうひん の返還 へんかん 交渉 こうしょう は人質 ひとじち を取 と ればたいてい解決 かいけつ した。実際 じっさい 、クックは先住民 せんじゅうみん の長 ちょう を人質 ひとじち に取 と ろうとしたのだが、不安定 ふあんてい な精神 せいしん 状態 じょうたい のためか、盗品 とうひん の引 ひ き取 と りのために下船 げせん した際 さい 、浜辺 はまべ に集 あつ まった群衆 ぐんしゅう と小 しょう ぜり合 ごう いが起 お きてしまった。塵 ちり 一 ひと つに至 いた るまですべて返還 へんかん せよ、という冷淡 れいたん なクックの態度 たいど に先住民 せんじゅうみん らは怒 いか り、また、長 ちょう の1人 ひとり がクックらの捜索 そうさく 隊 たい に殺 ころ されたという噂 うわさ に動揺 どうよう した結果 けっか 、槍 やり と投石 とうせき でクックらを攻撃 こうげき し始 はじ めた。クックらも村人 むらびと に向 む けて発砲 はっぽう し、騒 さわ ぎの中 なか 、退却 たいきゃく を余儀 よぎ なくされた。小舟 こぶね に乗 の り込 こ もうと背中 せなか を向 む けたクックは頭 あたま を殴 なぐ られ、波打 なみう ち際 ぎわ に転倒 てんとう したところを刺 さ し殺 ころ された。クックらの死体 したい は先住民 せんじゅうみん に持 も ち去 さ られてしまった。
現地 げんち の宗教 しゅうきょう 上 じょう の理由 りゆう で奇妙 きみょう な崇敬 すうけい を受 う けていたクックの遺体 いたい は、先住民 せんじゅうみん の長 ちょう と年長 ねんちょう 者 しゃ により保持 ほじ され肉 にく が骨 ほね から削 そ ぎ取 と られ焼 や かれた。しかし、乗組 のりくみ 員 いん らの懇願 こんがん によって、遺体 いたい の一部 いちぶ だけが最後 さいご に返還 へんかん され、クックは海軍 かいぐん による正式 せいしき な水葬 すいそう を受 う けた。チャールズ・クラーク、そしてクラークの死後 しご はジョン・ゴアが探険 たんけん を引 ひ き継 つ ぎ、更 さら にベ べ ーリング海 りんぐかい 峡 かい の通過 つうか が試 こころ みられたが、これも季節外 きせつはず れで失敗 しっぱい した。レゾリューション号 ごう とディスカバリー号 ごう が英国 えいこく へ帰国 きこく したのは1780年 ねん 8月 がつ のことであった。
その後 ご 、クックの下 した で働 はたら いた多 おお くの部下 ぶか 達 たち が、自身 じしん も目覚 めざ ましい業績 ぎょうせき を残 のこ した。代表 だいひょう 的 てき な人物 じんぶつ を以下 いか に挙 あ げる。
ウィリアム・ブライ - 第 だい 3回 かい 航海 こうかい の航海 こうかい 長 ちょう であった彼 かれ は、1787年 ねん に帆船 はんせん バウンティの指揮 しき を委 ゆだ ねられ、タヒチへ赴 おもむ きパンノキ の実 み を持 も ち帰 かえ ることを任 にん ぜられた。しかしながら、1789年 ねん に乗組 のりくみ 員 いん の反乱 はんらん が起 お こり、船 ふね から追放 ついほう されて救命 きゅうめい 艇 てい で漂流 ひょうりゅう する憂 う き目 め にあった(バウンティ号 ごう の反乱 はんらん )。生還 せいかん を果 は たし、その後 ご ニューサウスウェールズ の総督 そうとく となる。そしてここでも、海兵 かいへい 隊 たい に反乱 はんらん を起 お こされ、数 すう 年間 ねんかん 監禁 かんきん されている。
ジョージ・バンクーバー - 第 だい 2回 かい と第 だい 3回 かい 航海 こうかい の士官 しかん 候補 こうほ 生 せい 。後 のち に1791年 ねん から1794年 ねん にかけて北 きた アメリカ太平洋 たいへいよう 岸 がん の調査 ちょうさ 航海 こうかい を指揮 しき した。この調査 ちょうさ の結果 けっか として、北 きた アメリカ大陸 あめりかたいりく 西岸 せいがん と大西洋 たいせいよう をつなぐと想定 そうてい されていたアニアン海峡 かいきょう は、過去 かこ の伝説 でんせつ となった。
ジョージ・ディクソン (英語 えいご 版 ばん ) - 第 だい 3回 かい 航海 こうかい に参加 さんか 。後 のち に自 みずか ら北米 ほくべい 大陸 たいりく の西岸 せいがん を探検 たんけん 航海 こうかい を指揮 しき し、クイーンシャーロット諸島 しょとう などを命名 めいめい した。
ゲオルク・フォルスター - 第 だい 2回 かい 航海 こうかい に参加 さんか してその記録 きろく を『世界 せかい 周航 しゅうこう 記 き 』として著 あらわ している。
イギリス国内 こくない ではマートンの生誕 せいたん 地 ち と、ウィトビーの旧 きゅう ウォーカー商館 しょうかん が、クックの業績 ぎょうせき を紹介 しょうかい する博物館 はくぶつかん となっている。オーストラリアではクックの両親 りょうしん が住 す んだ家屋 かおく がイギリスから海 うみ を越 こ えてメルボルン に移築 いちく され、「クックス・コテージ」として公開 こうかい されており、ヨーク半島 はんとう のクックタウン には、ジェームズ・クック歴史 れきし 博物館 はくぶつかん がある。
ニュージーランドのクック山 さん やクック海峡 かいきょう 、アラスカのクック湾 わん など、クックを名 めい 祖 そ とする地名 ちめい は数多 かずおお い。小惑星 しょうわくせい 番号 ばんごう 3061のクック や月 つき の豊 ゆた かの海 うみ にあるクレーターにもその名 な が付 つ けられた。またエンデバー号 ごう が座礁 ざしょう した海岸 かいがん 近 ちか くにはクックタウンがあり、クック死没 しぼつ 地 ち の近 ちか くにはキャプテン・クック という町 まち があるなど、その名 な に因 ちな んで命名 めいめい された自治体 じちたい も世界 せかい 各地 かくち にあり、ポリネシアの島嶼 とうしょ 国家 こっか であるクック諸島 しょとう は国名 こくめい 自体 じたい がクックに由来 ゆらい している。
科学 かがく 的 てき 調査 ちょうさ に関 かん する乗 の り物 もの として、スペースシャトル のエンデバー号 ごう は、第 だい 1回 かい 航海 こうかい におけるクックの乗艦 じょうかん にあやかった名 な である。イギリスで2007年 ねん より任務 にんむ についた新型 しんがた の海洋 かいよう 調査 ちょうさ 船 せん は、アン王女 おうじょ によってRRSジェームズ・クック と命名 めいめい された。
また、クックの第 だい 一 いち 回 かい 航海 こうかい の船 ふね であるエンデバー号 ごう は、オーストラリア入植 にゅうしょく 200年 ねん 記念 きねん 祭 さい を記念 きねん するために1994年 ねん に復元 ふくげん された。2011年 ねん から2012年 ねん にかけて、この船 ふね はオーストラリアを周航 しゅうこう した[ 14] 。
^ この航海 こうかい はロシア政府 せいふ を詩才 しさい し、1785年 ねん にビリングスとサルイチェフを隊長 たいちょう とする探検 たんけん 隊 たい をシベリア東北 とうほく 部 ぶ に派遣 はけん させることになる[ 13] 。
^ a b c d ネルソンの時代 じだい (1800年 ねん 前後 ぜんこう )の英国 えいこく 海軍 かいぐん には、水兵 すいへい から士官 しかん (海 うみ 尉 じょう と航海 こうかい 長 ちょう を指 さ すと思 おも われる)に這 は い上 あ がった男 おとこ が120人 にん 存在 そんざい し、そのうちの22人 にん が勅 みことのり 任 にん 艦長 かんちょう となり、22人 にん のうちの3人 にん が提督 ていとく 、最終 さいしゅう 的 てき には海軍 かいぐん 大将 たいしょう まで上 のぼ り詰 つ めた(「風雲 ふううん の出帆 しゅっぱん - 海 うみ の覇者 はしゃ トマス・キッド 1」、ハヤカワ文庫 ぶんこ 、2002年 ねん 、508頁 ぺーじ 、訳者 やくしゃ の大森 おおもり 洋子 ようこ によるあとがき)。1814年 ねん 、ナポレオン戦争 せんそう が終 お わろうとしていた年 とし 、最大 さいだい 規模 きぼ にあった英国 えいこく 海軍 かいぐん は、戦列 せんれつ 艦 かん 99隻 せき 、フリゲイト以下 いか 505隻 せき を現役 げんえき で運用 うんよう し、乗組 のりく みの下士官 かしかん 兵 へい は20万 まん 人 にん を超 こ えていたと思 おも われる。指揮 しき する士官 しかん は、将官 しょうかん が220名 めい 、勅 みことのり 任 にん 艦長 かんちょう が860名 めい 、海 うみ 尉 じょう 艦長 かんちょう が870名 めい 、海 うみ 尉 じょう 級 きゅう の士官 しかん が4,200名 めい を超 こ えていた(「セーヌ湾 わん の反乱 はんらん - 海 うみ の男 おとこ ホーンブロワーシリーズ 9」ハヤカワ文庫 ぶんこ 、2008年 ねん 15刷 さつ 、410頁 ぺーじ 、訳者 やくしゃ の高橋 たかはし 泰 やすし 邦 くに によるあとがき)。
^ a b 当時 とうじ の英国 えいこく 海軍 かいぐん では、現在 げんざい の海軍 かいぐん に通 つう じる、『艦長 かんちょう (勅 みことのり 任 にん 艦長 かんちょう Post Captain 、海 うみ 尉 じょう 艦長 かんちょう Commander 、軍艦 ぐんかん を指揮 しき する海 うみ 尉 じょう Commanding Lieutenant )→ 海 うみ 尉 じょう Lieutenant → 士官 しかん 候補 こうほ 生 せい Midshipmen → 下士官 かしかん 兵 へい 』の指揮 しき 系列 けいれつ と、『航海 こうかい 長 ちょう Master → 航海 こうかい 士 し Master's Mate → 下士官 かしかん 兵 へい 』の指揮 しき 系列 けいれつ が併存 へいそん していた。航海 こうかい 長 ちょう は、複雑 ふくざつ 極 きわ まる帆船 はんせん の操船 そうせん 、海図 かいず の管理 かんり の責任 せきにん を持 も ち、艦長 かんちょう らの正規 せいき 海軍 かいぐん 士官 しかん を戦闘 せんとう に専念 せんねん させるための職 しょく であった。航海 こうかい 長 ちょう は、正規 せいき の指揮 しき 権 けん を有 ゆう さないものの、艦内 かんない での待遇 たいぐう や俸給 ほうきゅう は海 うみ 尉 じょう と同等 どうとう であった。現代 げんだい の海軍 かいぐん とは異 こと なり、航海 こうかい 長 ちょう の方 ほう が艦長 かんちょう より年長 ねんちょう で、海上 かいじょう 勤務 きんむ 年数 ねんすう が長 なが いことが珍 めずら しくなかった。
^ 『道楽 どうらく 科学 かがく 者 しゃ 列伝 れつでん ― 近代 きんだい 西欧 せいおう 科学 かがく の原 げん 風景 ふうけい 』pp111 小山 こやま 慶太 けいた 中公新書 ちゅうこうしんしょ 1997年 ねん 4月 がつ 25日 にち 発行 はっこう
^ 『道楽 どうらく 科学 かがく 者 しゃ 列伝 れつでん ― 近代 きんだい 西欧 せいおう 科学 かがく の原 げん 風景 ふうけい 』pp112-113 小山 こやま 慶太 けいた 中公新書 ちゅうこうしんしょ 1997年 ねん 4月 がつ 25日 にち 発行 はっこう
^ ホーン岬 みさき の周辺 しゅうへん 海域 かいいき は四季 しき を問 と わずに大 だい 時化 しけ であり、偏西風 へんせいふう の影響 えいきょう による強 つよ い西風 せいふう と、西 にし から東 ひがし の(太平洋 たいへいよう から大西洋 たいせいよう への)速 はや い潮流 ちょうりゅう が常 つね にあるため、風 ふう や潮流 ちょうりゅう を無視 むし して航海 こうかい できる蒸気 じょうき 船 せん が出現 しゅつげん する前 まえ 、帆船 はんせん でホーン岬 みさき を東 ひがし から西 にし に周航 しゅうこう して大西洋 たいせいよう から太平洋 たいへいよう に出 で るのは至難 しなん であった。西 にし から東 ひがし に周航 しゅうこう して太平洋 たいへいよう から大西洋 たいせいよう に出 で るのは、やや容易 ようい であったが、困難 こんなん を極 きわ めるのは同様 どうよう であった。杉浦 すぎうら 昭典 あきのり 『海賊 かいぞく キャプテン・ドレーク』 中公新書 ちゅうこうしんしょ 、1987年 ねん 、186-187頁 ぺーじ 。
^ 「オセアニアを知 し る事典 じてん 」平凡社 へいぼんしゃ p100-101 1990年 ねん 8月 がつ 21日 にち 初版 しょはん 第 だい 1刷 さつ
^ なお、オーストラリア大陸 たいりく そのものに最初 さいしょ に到達 とうたつ したヨーロッパ人 じん は、1606年 ねん にヨーク岬 みさき に上陸 じょうりく したオランダの航海 こうかい 者 しゃ ウィレム・ヤンソン (英語 えいご 版 ばん ) である。
^ 「世界 せかい 探検 たんけん 全 ぜん 史 し 下巻 げかん 道 みち の発見 はっけん 者 しゃ たち」p177 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 ちょ 関口 せきぐち 篤 あつし 訳 やく 青土 おうづち 社 しゃ 2009年 ねん 10月 がつ 15日 にち 第 だい 1刷 さつ 発行 はっこう
^ 「世界 せかい 地理 ちり 12 両極 りょうきょく ・海洋 かいよう 」p32 福井 ふくい 英一郎 えいいちろう 編 へん 朝倉書店 あさくらしょてん 昭和 しょうわ 58年 ねん 9月 がつ 10日 とおか
^ 「海洋 かいよう 学 がく 原著 げんちょ 第 だい 4版 はん 」p18 ポール・R・ピネ著 ちょ 東京大学 とうきょうだいがく 海洋 かいよう 研究所 けんきゅうじょ 監訳 かんやく 東海大学 とうかいだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい 2010年 ねん 3月 がつ 31日 にち 第 だい 1刷 さつ 第 だい 1版 はん 発行 はっこう
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