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ジェームズ・クック - Wikipedia

ジェームズ・クック

イギリス海軍かいぐん士官しかん探検たんけん (1728-1779)

ジェームズ・クックJames Cook1728ねん10月27にち - 1779ねん2がつ14にち)は、グレートブリテン王国おうこく海軍かいぐん士官しかん海洋かいよう探検たんけん海図かいず製作せいさくしゃ通称つうしょうキャプテン・クック (Captain Cook)。 一介いっかい水兵すいへいから、英国えいこく海軍かいぐんみことのりにん艦長かんちょう英語えいごばん (Post-captain) にのぼりつめた[1]

ジェームズ・クック
James Cook
クックの公式こうしき肖像しょうぞう 海軍かいぐん博物館はくぶつかん(ロンドン)所蔵しょぞう
渾名あだな キャプテン・クック
Captain Cook
生誕せいたん 1728ねん10月27にち
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
ノースヨークシャーしゅうマートン
死没しぼつ (1779-02-14) 1779ねん2がつ14にち(50さいぼつ
ハワイとう
所属しょぞく組織そしき 英国えいこく海軍かいぐん
ぐんれき 1755ねん - 1779ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう みことのりにん艦長かんちょう英語えいごばん
戦闘せんとう ななねん戦争せんそう
署名しょめい
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太平洋たいへいように3かい航海こうかいおこない、オーストラリア東海岸ひがしかいがん到達とうたつハワイ諸島しょとう発見はっけんし、自筆じひつ原稿げんこうによる世界せかい周航しゅうこう航海こうかい日誌にっしのこし(だい2かい航海こうかい)、ニューフンノとうニュージーランド海図かいず作製さくせいした。史上しじょうはじめて壊血病かいけつびょうによる死者ししゃさずに世界せかい周航しゅうこうげた(だい1かい航海こうかい)。

10代を石炭せきたん運搬うんぱん商船しょうせん船員せんいんとしてごしたのち1755ねん英国えいこく海軍かいぐん水兵すいへいとして志願しがんし、ななねん戦争せんそうくわわった。船員せんいんとしての能力のうりょくみとめられたクックは1757ねん士官しかん待遇たいぐう航海こうかいちょう英語えいごばん昇進しょうしん[2]英国えいこく軍艦ぐんかんSolebayごう航海こうかいちょうとして、セントローレンスがわ河口かこういき綿密めんみつ測量そくりょう海図かいず作成さくせいした。クックの作成さくせいした海図かいずウルフ将軍しょうぐんのケベック奇襲きしゅう上陸じょうりく作戦さくせん1759ねん)の成功せいこうみちびき、クックの存在そんざい英国えいこく海軍かいぐん本部ほんぶ英国えいこく王立おうりつ協会きょうかい注目ちゅうもくされることとなった。クックは南方なんぽう大陸たいりく探索たんさくいのちけて、英国えいこく軍艦ぐんかんエンデバーごう指揮しきし、1766ねんだい1かい航海こうかい出帆しゅっぱんした。

クックは多数たすう地域ちいき正確せいかく測量そくりょうし、いくつかのしま海岸かいがんせんヨーロッパはじめて報告ほうこくした。クックの幾多いくた偉大いだい功績こうせきをもたらしたのは、卓越たくえつした航海こうかいじゅつ、すぐれた調査ちょうさ地図ちず作成さくせい技術ぎじゅつ真実しんじつたしかめるためには危険きけん地域ちいき探検たんけんする勇気ゆうき南極なんきょくけんへの突入とつにゅうグレートバリアリーフ周辺しゅうへん探検たんけんなど)、逆境ぎゃっきょうでの統率とうそつりょく海軍かいぐんしょう指令しれいわくおさまらない探検たんけん範囲はんい気宇きう壮大そうだいさ、これらのすべてであったとえよう。また壊血病かいけつびょう予防よぼう尽力じんりょく表彰ひょうしょうされている。

だい3かい航海こうかい途上とじょうハワイとう先住民せんじゅうみんとのあらそいによって1779ねん落命らくめいした。

かつてニュージーランドで発行はっこうされていた10シリング1940ねん - 1955ねん)、5ポンド・10ポンド紙幣しへい1956ねん - 1967ねん)に肖像しょうぞう使用しようされていた。

編集へんしゅう

クックは1728ねん10月27にちノースヨークシャーしゅうマートンにまれた。スコットランドひとちちとマートンまれのははした、5にん兄弟きょうだいであった。ちち農場のうじょう農事のうじ監督かんとくしょくたため、家族かぞくともにグレートアイトンの農場のうじょううつり、ちちやとぬしから学資がくし学校がっこうとおった。13さいになりちちともはたらはじめた。16さいになったクックは、漁村ぎょそんステイテスの雑貨ざっかてん徒弟とてい奉公ほうこうをするためにいえた。奉公ほうこうちゅうみせまどそとながめているうちうみせられたという。

1ねんはんのちみせのオーナーはクックに商才しょうさいがないことをさとり、近隣きんりん港町みなとちょうウィットビーのウォーカー兄弟きょうだいにクックを紹介しょうかいする。ウォーカー当地とうち有力ゆうりょく船主せんしゅ商家しょうかであった。1746ねんに、クックは英国えいこく沿岸えんがん石炭せきたん運搬船うんぱんせんだん見習みなら船員せんいんとしてやとわれた。このあいだ操船そうせん必要ひつよう不可欠ふかけつ代数だいすうがく三角さんかく測量そくりょうほう航海こうかいじゅつ天文学てんもんがく勉学べんがくはげんだ。

3年間ねんかん徒弟とてい奉公ほうこうえたクックはバルト海ばるとかい貿易ぼうえきせんブリッグ「フレンドシップごう」ではたらはじめた。1755ねんにはフレンドシップごう航海こうかい昇進しょうしんしていた。しかし、ひとがつたぬうち、クックは、英国えいこく海軍かいぐん一介いっかい水兵すいへいとして志願しがん入隊にゅうたいする。

1755ねん英国えいこく海軍かいぐんは、ななねん戦争せんそうそなえて軍備ぐんび強化きょうかしていた。クックは、海軍かいぐんはいったほう出世しゅっせできるだろうとかんがえたらしい。クックは、水兵すいへい身分みぶんからまたたなぞらえ士官しかんたる航海こうかい英語えいごばん昇進しょうしんし、海軍かいぐんはいってからわずか2ねん1757ねんには、航海こうかいちょう士官しかん待遇たいぐう)の任用にんよう試験しけん合格ごうかくした[2]。このとき、クックは29さいであった。

34さいで、13さい年下とししたのエリザベス・バッツ (1742-1835) と1762ねん結婚けっこんし、6にん子供こども ジェームズ (1763-1794)、ナサニエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772)、ヒュー (1776-1793) をもうけた。りくでのまいはロンドンのイーストエンド(貧民ひんみんがい)にあった。クックの子供こどもたちは、いずれも子孫しそんのこさずに夭折ようせつしたため、クックの直系ちょっけい子孫しそんはいない。

英国えいこく海軍かいぐんでのキャリア

編集へんしゅう
ジェームズ・クックの探検たんけんによるニューファンドランドとう地図ちず1775ねん
現代げんだい測量そくりょう技術ぎじゅつによってえがかれたニューファンドランドとう

ななねん戦争せんそう(1756ねん~1763ねん)において、クックは航海こうかいちょうとして、英国えいこく軍艦ぐんかんSolebayごうのロバート・クレイグ艦長かんちょうした1759ねんケベック包囲ほういせんくわわった。すで測量そくりょうおよ海図かいず作成さくせい技量ぎりょうみとめられていたクックは、セントローレンスがわ河口かこう測量そくりょう海図かいず作成さくせいまかされ、包囲ほういせん趨勢すうせいけっしたウルフ将軍しょうぐん奇襲きしゅう上陸じょうりく作戦さくせん成功せいこうおおいに寄与きよした。

1760年代ねんだいのクックは、ニューファンドランドとうんだ海岸かいがん測量そくりょうんだ。夏季かきでもつねうみきりおおわれ、強風きょうふうき、ふゆ極寒ごっかんとなるニューファンドランドとう海域かいいきにおいて、帆船はんせん測量そくりょうおこなうのは至難しなんかつ危険きけん仕事しごとであった。クックは、1763ねん1764ねん北西ほくせい1765ねん1766ねんにブリン半島はんとうとレイみさきあいだ南岸なんがん1767ねん西岸せいがん測量そくりょうした。クックの5ねんにわたる測量そくりょうによって、ニューファンドランドとう海域かいいき正確せいかく海図かいずはじめて作成さくせいされた。

ニューファンドランドとう海域かいいき測量そくりょう奮闘ふんとうえたとき、クックはしるした。

「これまでのだれよりもとおくへ、それどころか、人間にんげんけるてまでわたしきたい」

ななねん戦争せんそうでのセントローレンスがわ河口かわくち海域かいいき測量そくりょう、1760年代ねんだいのニューファンドランドとう海域かいいき測量そくりょうでの功績こうせきにより、クックは英国えいこく海軍かいぐん本部ほんぶ英国えいこく王立おうりつ協会きょうかい注目ちゅうもくけることとなった。

だい1かい航海こうかい(1768ねん - 1771ねん

編集へんしゅう
 
あかだい1かい航海こうかいみどりだい2かい航海こうかいあおだい3かい航海こうかいをあらわす。あお点線てんせんは、クック死後しご航海こうかいルートである

1766ねん王立おうりつ協会きょうかいはクックを金星きんぼし日面ひおも通過つうか観測かんそく目的もくてき南太平洋みなみたいへいよう派遣はけんした[3]英国えいこく海軍かいぐん航海こうかいちょう士官しかん待遇たいぐうだが、公式こうしき指揮しきけんゆうさない)の階級かいきゅうにあった38さいのクックは、公式こうしき指揮しきけんゆうする正規せいき海軍かいぐん士官しかんたるうみじょう任官にんかん[1]英国えいこく軍艦ぐんかんエンデバーごう指揮しきかんとなった。もともと、エンデバーごうはウィトビーで建造けんぞうされた石炭せきたん運搬船うんぱんせんで、おおきな積載せきさいりょう強度きょうどあさ喫水きっすい、どこをっても、暗礁あんしょうおお海洋かいようおおとううみ長期間ちょうきかん航海こうかいするにはうってつけの性能せいのうそなえていた。クックは1768ねん8がつ25にち英国えいこく南部なんぶプリマス出帆しゅっぱん[4]マデイラ諸島しょとうリオデジャネイロ寄港きこうしたのち南米なんべい大陸たいりく南端なんたんホーンみさきひがしから西にし周航しゅうこう[5]太平洋たいへいよう横断おうだんして西にしすすみ、天体てんたい観測かんそく目的もくてきであるタヒチ1769ねん4がつ13にち到着とうちゃくした。日面ひおも通過つうか6月3にちで、クックはちいさな居館きょかん観測かんそくしょ建造けんぞうおこなった。

観測かんそく担当たんとうしたのは、王室おうしつ天文てんもんかんグリニッジ天文台てんもんだいちょうネヴィル・マスケリン助手じょしゅ天文学てんもんがくしゃチャールズ・グリーンであった。観測かんそく目的もくてきは、金星きんぼし太陽たいようからの距離きょりをより正確せいかく算出さんしゅつするための測定そくていであった。もしこれが成功せいこうすれば、軌道きどう計算けいさんもとづいて、惑星わくせい太陽たいようからの距離きょり算出さんしゅつできるはずであった。金星きんぼし日面ひおも通過つうか観測かんそく当日とうじつ、クックはこうしるしている。

「6がつ3にち土曜日どようび本日ほんじつ期待きたいどお観測かんそく好適こうてき日和ひよりとなり、くもひとつなく、空気くうき完璧かんぺきんでおり、金星きんぼし日面ひおも通過つうかぜん経路けいろ観測かんそくにはあらゆる好条件こうじょうけんそなわっていた。金星きんぼし大気たいきあるいは薄暗うすぐらかげがあまりによくえたので、金星きんぼし太陽たいよう接触せっしょく、とくにだい2接触せっしょく時刻じこく観測かんそくがきわめて困難こんなんになってしまった。ソランダー博士はかせとグリーンとわたし同時どうじ観測かんそくしたが、それぞれが観測かんそくした接触せっしょく時刻じこくおもっていたよりもかなりずれていた」

しかし、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれべつった観測かんそく誤差ごさ期待きたい範囲はんいえていた。観測かんそく器具きぐ解像度かいぞうどいまりなかったのである。観測かんそく結果けっかべつ場所ばしょおこなわれた結果けっかのち比較ひかく検討けんとうされたが、やはり期待きたいしたような正確せいかく観測かんそく結果けっかではなかった。

タヒチからニュージーランドへ

編集へんしゅう

天体てんたい観測かんそく終了しゅうりょうするとすぐに、クックは航海こうかい後半こうはんについての秘密ひみつ指令しれい開封かいふうした。それは、海軍かいぐん本部ほんぶ追加ついか命令めいれいしたがって、伝説でんせつ南方なんぽう大陸たいりくテラ・アウストラリス、Terra Australis)をもとめて南太平洋みなみたいへいよう探索たんさくせよ、という指令しれいであった。金星かなぼし観測かんそく(しかもエンデバーごうのような目立めだたないちいさなかんで)をかくみのにすれば、英国えいこくにとっていま航海こうかいは、ライバルのヨーロッパ諸国しょこくいて南方なんぽう大陸たいりく発見はっけん伝説でんせつとみれる絶好ぜっこう機会きかいとなろう、と王立おうりつ協会きょうかいかんがえたのである。このせつとく熱心ねっしん信奉しんぽうしゃ王立おうりつ協会きょうかい会員かいいんアレクサンダー・ダリンプルであった。

 
ニュージーランドのクック海峡かいきょう

南太平洋みなみたいへいよう地理ちりにきわめてくわしいトウパイアというタヒチじん助力じょりょくて、1769ねん10月6にちクックはヨーロッパじんとして史上しじょう2番目ばんめに(1642ねんアベル・タスマン以来いらいニュージーランド到達とうたつした。クックは、いくつかのちいさなあやまり(バンクス半島はんとうしまとしたり、スチュアートとう南島なんとう一部いちぶかんがえるなど)はあるものの、ニュージーランドの海岸かいがんせんのほぼ完全かんぜん地図ちず作製さくせいした。また、ニュージーランドの北島きたじま南島なんとうける海峡かいきょうクック海峡かいきょう)を発見はっけんした[6](アベル・タスマンは海峡かいきょうではなくわん判断はんだんしていた)。

ニュージーランドからオーストラリアへ

編集へんしゅう

クックは航路こうろ西にしり、伝説でんせつ南方なんぽう大陸たいりく一部いちぶをなしているのかかをたしかめる目的もくてきで、ヴァン・ディーメンズ・ランド今日きょうタスマニア)を目指めざした。しかし、エンデバーごう暴風ぼうふうきたりにながされ、1770ねん4がつ20日はつか金曜日きんようびのちにクックがヒックスみさき命名めいめいした陸地りくち目撃もくげきするまでそのまま航行こうこうした。計算けいさんによればタスマニアとうはそこよりみなみ位置いちしているはずだったが、南西なんせいびる海岸かいがんせん目撃もくげきされたことから、この陸地りくちはタスマニアとうつながっているのではないか、とクックはうたがった。このみさきオーストラリア大陸たいりく南東なんとう海岸かいがん位置いちし、結果けっかとして、クックの探検たんけんたいはオーストラリア大陸たいりく東海岸ひがしかいがん到達とうたつした史上しじょうはつのヨーロッパじんとなった[7]

クックが発見はっけんしたりくしるべは、ビクトリアしゅう南東なんとうがんのオーボストとマラクータのほぼ中間ちゅうかんみさきであるとされる。1843ねんおこなわれた調査ちょうさではクックの命名めいめい無視むしされたか見過みすごされたため、みさきにはべつ名前なまえ命名めいめいされていたが、オーストラリア発見はっけん200ねん記念きねんさいおりに、公式こうしきにヒックスみさき名称めいしょう回復かいふくされた。

エンデバーごう海岸かいがんせん沿って北上ほくじょうつづけ、クックは測量そくりょうりくしるべ命名めいめい次々つぎつぎった。1週間しゅうかんあまぎたころいちぎょうおおきなあさはいり、砂丘さきゅうおおわれたひくみさきおき停泊ていはくした。そここそ、4がつ29にちに、クックいちぎょうがオーストラリア大陸たいりくはじめて上陸じょうりくした、現在げんざいではカーネル(en:Kurnell, New South Wales)としてられている場所ばしょである。おおくのエイられたために、このはクックによってアカエイわん命名めいめいされたが、のち植物しょくぶつ学者がくしゃわん改称かいしょうされ、最終さいしゅうてきには、博物学はくぶつがくしゃジョセフ・バンクスヘルマン・スペーリング英語えいごばんダニエル・ソランダーによって採集さいしゅうされたれいない貴重きちょう植物しょくぶつ標本ひょうほん記念きねんしてボタニーわん植物しょくぶつがくわん)となった。博物はくぶつ学者がくしゃたちは、のちにオーストラリアの動物どうぶつしょう植物しょくぶつしょうかんする最初さいしょ科学かがく論文ろんぶん上梓じょうしした。

いちぎょう最初さいしょ上陸じょうりくは、入植にゅうしょくおよび英国えいこく植民しょくみん前哨ぜんしょう基地きちにうってつけの候補こうほとして(とくにジョセフ・バンクスによって)、のち喧伝けんでんされた。しかし、ほぼ18ねん1788ねんのはじめに、前哨ぜんしょう基地きち囚人しゅうじん入植にゅうしょく設置せっちするためにアーサー・フィリップ艦長かんちょうひきいるだいいち艦隊かんたいがオーストラリアに到着とうちゃくしたさい、ボタニーわんいていたほど有望ゆうぼうではないとフィリップは判断はんだんし、わりにきたすうキロメートルの上陸じょうりく移動いどうした。そこはクックがかつてポート・ジャクソンわん名付なづけたが、それ以上いじょう探検たんけんはしなかった場所ばしょであった。フィリップは湾内わんない入江いりえシドニー・コーブ名付なづけ、入植にゅうしょく設置せっちされた。しかし、そのもしばらくは入植にゅうしょくはボタニーわん入植にゅうしょくならわされた。

最初さいしょ上陸じょうりくさいに、クックいちぎょうはオーストラリア先住民せんじゅうみんアボリジニ接触せっしょくしている。

海岸かいがんせん測量そくりょうしながらクックはきたふねすすめた。1770ねん6月11にちグレートバリアリーフ浅瀬あさせにエンデバーごう大破たいはしたため、砂浜すなはま修理しゅうりおこなわれ航海こうかいは7週間しゅうかんおくれをしょうじた(そこはエンデバーがわ河口かこう現在げんざいクックタウン船着ふなつちかくである)。そのあいだ、バンクス、スペーリング、ソランダーはオーストラリアの植物しょくぶつ最初さいしょだい規模きぼ採集さいしゅうおこなった。乗組のりくみいん当地とうちのアボリジニの人々ひとびととの遭遇そうぐうはおおむね平和へいわてきであった。当地とうちのアボリジニがはなしたグーグ・イミディルでオオカンガルーをす "gangurru" から、「カンガルー」が英語えいご仲間入なかまいりをした。

オーストラリアから帰国きこく

編集へんしゅう

エンデバーごう修繕しゅうぜんえるとただちに航海こうかいつづけられ、クックいちぎょうは、ヨークみさき半島はんとう北端ほくたん通過つうかし、オーストラリアニューギニアあいだトレス海峡かいきょうけた。ヨークみさき半島はんとうめぐって、オーストラリアとニューギニアが陸続りくつづきでないことを確認かくにんすると、クックは1770ねん8がつ22にちにポゼッションとう上陸じょうりくし、オーストラリア東岸とうがん英国えいこく領有りょうゆう宣言せんげんした。

この航海こうかいでクックはただ1人ひとり船員せんいん壊血病かいけつびょううしなわなかったが、これは18世紀せいきにおいては奇跡きせきてき成果せいかであった。1747ねん導入どうにゅうされた英国えいこく海軍かいぐん規則きそくのっとって、クックは柑橘類かんきつるいザワークラウトなどをべるように部下ぶかうながした。クックが部下ぶかにこれらの食物しょくもつらせた方法ほうほうは、指導しどうしゃとしてのかれすぐれた資質ししつをよく物語ものがたっている。当時とうじ船員せんいんあたらしい習慣しゅうかんには頑強がんきょう抵抗ていこうしたので、最初さいしょだれもザワークラウトをべなかった。クックは一計いっけいあんじ、ザワークラウトは自分じぶん士官しかんだけにきょうさせ、のこりをのぞものだけにけてみせた。上官じょうかんらがザワークラウトをがた頂戴ちょうだいするのをせると、1週間しゅうかんたぬあいだに、自分じぶんらにもべさせろというこえことわりきれぬほど船内せんないたかまった、とクックは日誌にっししるしている。

そのいちぎょうかん修繕しゅうぜんのために、オランダひがしインド会社かいしゃ本拠地ほんきょちがあるバタヴィアかった。バタヴィアではマラリア赤痢せきり猖獗しょうけつをきわめており、1771ねんいちぎょう帰国きこくするまでに、タヒチじんのトウパイア、バンクスの助手じょしゅつとめたスペーリング、植物しょくぶつ画家がかのシドニー・パーキンソンなど、おおくのものやまいくなった。出発しゅっぱつからバタヴィアまでの27ヶ月かげつ航海こうかいではわずか8めいだった死者ししゃは、バタヴィア滞在たいざいちゅうの10週間しゅうかんとバタヴィアからケープタウンまでの11週間しゅうかんに31めいたっしてしまった。

1771ねん6月12にち午後ごご、エンデバーごうみなみイングランドのダウンズ投錨とうびょうし、クックはケント下船げせんした。帰国きこくすると航海こうかい日誌にっし出版しゅっぱんされクックは科学かがくかいでもときひととなった。しかし、ロンドン社交しゃこうかいでクックのすうばい人気にんきしゃとなったのは、貴族きぞく階級かいきゅう博物はくぶつ学者がくしゃジョセフ・バンクスだった。バンクスはクックのだい2かい航海こうかいにも同行どうこうする予定よていだったが、ふね構造こうぞう不満ふまん爆発ばくはつさせ直前ちょくぜんみずかにんりた。

だい2かい航海こうかい(1772ねん - 1775ねん

編集へんしゅう

だい1かい航海こうかいから帰還きかん功績こうせきみとめられて「軍艦ぐんかん指揮しきするうみじょう」からうみじょう艦長かんちょう英語えいごばん昇進しょうしんした[1]クックは、王立おうりつ協会きょうかいから南方みなかた大陸たいりく(テラ・アウストラリス)探検たんけんたい指揮しき委任いにんされた。だい1かい航海こうかいニュージーランド周航しゅうこうによって、ニュージーランドが南方なんぽう大陸たいりくとはつながっていないこと、さらに、東海岸ひがしかいがん測量そくりょうによって、オーストラリア大陸たいりくであろうことも、すであきらかにされていたのだが、テラ・アウストラリスはさらにみなみ存在そんざいするはずと王立おうりつ協会きょうかいはまだしんじていたのだった。こうして1772ねん7がつ12にち、クックはだい2かい探検たんけん航海こうかいふたた出帆しゅっぱんした。

探検たんけん隊長たいちょうのクックは、英国えいこく軍艦ぐんかんレゾリューションごうを、トバイアス・ファーノーアドベンチャーごう指揮しきした。アフリカ大陸たいりく南端なんたんから東進とうしんしたいちぎょうはきわめて高緯度こういど地域ちいき周航しゅうこうし、1773ねん1がつ17にちにヨーロッパじんとしてはじめて南極なんきょくけん突入とつにゅうした。これがいかに偉業いぎょうであったかは、つぎ南極なんきょくけん突入とつにゅうが50ねんだったことからもあきらかである。南極なんきょくけんきりによってはぐれた2せきはニュージーランドでったのち南太平洋みなみたいへいよう東進とうしんしてさらに南下なんか南緯なんい7110ふんまで到達とうたつした。そのもクックは探検たんけんつづけたが、ファーノーはさき英国えいこく帰還きかんすることになった矢先やさきマオリぞくとのたたかいで10にん部下ぶかうしなっている。

クックはもうすこしで南極大陸なんきょくたいりく発見はっけんするところであったが、南方みなかた大陸たいりく人類じんるい居住きょじゅう可能かのう緯度いどには存在そんざいしないことをたしかめ、伝説でんせつ南方なんぽう大陸たいりく探索たんさく終止符しゅうしふった[8]補給ほきゅうのためきたタヒチ進路しんろり、オマイというタヒチじん若者わかものともなってふたたみなみかったが、オマイはだい1かい航海こうかいトウパイアほどは太平洋たいへいよう地理ちりあかるくなかった。かえ航海こうかいでは、1774ねんトンガイースターとうニューカレドニアバヌアツ上陸じょうりくしたのち、ふたたび南下なんかして南緯なんい50から55付近ふきん航路こうろった。これによってクックは南極大陸なんきょくたいりく北方ほっぽううみ周航しゅうこうしたことになり、南方みなかた大陸たいりくがこの緯度いどまでには存在そんざいしないことを確定かくていさせた。この航海こうかいによって、南方なんぽう確定かくてい領域りょういき大幅おおはばせばめられた[9]。クックはその東進とうしんし、みなみアメリカ大陸あめりかたいりく南端なんたんまわみなみジョージアとうみなみサンドウィッチ諸島しょとう発見はっけんした。

いちぎょう帰国きこく報告ほうこくによって、テラ・アウストラリスの伝説でんせつ沈静ちんせいした。一方いっぽうで、クックはかれ探検たんけんした海域かいいき南方なんぽうには大陸たいりくがあることを予想よそうしていた[10]が、それは人類じんるい居住きょじゅうできるようなものではないことも予測よそくしていた。クロノメーター活躍かつやく正確せいかく経度けいど決定けっていおこなわれたことも、だい2かい航海こうかいおおきな業績ぎょうせきであった[11]。ちなみに、クックはみなみサンドウィッチ諸島しょとうをサンドウィッチ・ランドと命名めいめいしたが、だい3航海こうかいでクック自身じしん発見はっけん命名めいめいしたサンドウィッチ諸島しょとう(ハワイ諸島しょとう)と区別くべつするため後代こうだい英国えいこくみなみサンドウィッチ諸島しょとうとした。英国えいこくは1908ねん公式こうしき領有りょうゆう宣言せんげん、これにたいしアルゼンチンも1938ねん領有りょうゆう宣言せんげんした。

多大ただい業績ぎょうせきげたクックは、帰国きこくただちにみことのりにん艦長かんちょう(ポスト・キャプテン)に昇進しょうしんし、同時どうじ海軍かいぐん休職きゅうしょくして、グリニッジ海軍かいぐん病院びょういん院長いんちょう任命にんめいされた。水兵すいへいからみことのりにん艦長かんちょうへの栄進えいしんは、きわめてまれ事例じれいであった[1]壊血病かいけつびょう予防よぼうたいする貢献こうけんたいして王立おうりつ協会きょうかいからコプリ・メダル授与じゅよされ、フェローにも選出せんしゅつされた[12]。しかし、いまだ48さいのクックはうみからはなれるのにえられず、航海こうかいげた直後ちょくごに、かれ最後さいご航海こうかいとなるだい3かい航海こうかい出帆しゅっぱんした。

だい3かい航海こうかい(1776ねん - 1780ねん

編集へんしゅう

巷間こうかんでは、ロンドン市民しみん好奇こうきまととなっていたオマイをタヒチもどすために航海こうかいおこなわれるとうわさされたが、だい3かい航海こうかい公式こうしき目的もくてきは、北極ほっきょくかいけて太平洋たいへいよう大西おおにしひろしをつなぐ北西ほくせい航路こうろ探索たんさくすることであった。クックはふたたレゾリューションごう指揮しきり、チャールズ・クラークが僚船りょうせんディスカバリーごう指揮しきをとった。オマイをタヒチにかえしたのちに、クックらはきたへと進路しんろり、1778ねんにはハワイ諸島しょとうおとずれた最初さいしょのヨーロッパじんとなった。クックはカウアイとう上陸じょうりくし、とき海軍かいぐん大臣だいじんでクックの探検たんけん航海こうかい重要じゅうよう擁護ようごしゃでもあったサンドウィッチはく名前なまえをとり「ハワイ諸島しょとう」を「サンドウィッチ諸島しょとう」と命名めいめいした。また、クックたちはハワイ諸島しょとうにインフルエンザをみ50まんにんいた島民とうみんは7まんにんにまで減少げんしょうしてしまった。

きたアメリカ西海岸にしかいがん探検たんけんするためにクックはひがし航海こうかいし、バンクーバーとうのノコタ・サウンドのなかのユーコートにあるファーストネーションズむらちかくに上陸じょうりくしたが、ファンデフカ海峡かいきょう見過みすごしてしまった。この北洋ほくよう航海こうかいでクックは、カリフォルニアからリング海りんぐかいかいいたるまでを探検たんけん海図かいず作製さくせいし、アラスカいまではクックわんとしてられている場所ばしょ発見はっけんした。ただ1航海こうかいでクックは、アメリカの北西ほくせいがんだい部分ぶぶん海図かいず作製さくせいし、アラスカはしめ、西方せいほうからベーリングロシアひとが、南方なんぽうからスペインひとおこなっていた太平洋たいへいよう北限ほくげん探査たんさ空隙くうげきめてしまったのである[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし、クックらがなんこころみても、あきからふゆにかけてのリング海りんぐかいかい帆船はんせんではどうしても航行こうこうできず、そこからきたへはすすむことができなかった。

クックは長年ながねん航海こうかいによる精神せいしんてき肉体にくたいてきストレスの蓄積ちくせきのためか、不調ふちょうつづきの航路こうろ探索たんさくのためか日毎ひごと気難きむずかしくなり不調ふちょうにもなやまされていた。そのゆえなのか、クックはしばしば周囲しゅうい深刻しんこくなもめごとこすようになった。たとえば、アラスカいちぎょう海牛うみうしあやまってセイウチ仕留しとめた。「(のこすくない)塩漬しおづにくよりずっとい」と、クックはセイウチのにく船内せんない消費しょうひするようめいじたが、クックをのぞおおくの乗員じょういん嗜好しこうにセイウチのにくはまったく馴染なじまなかった。しかし、これをべないものにはふね通常つうじょう食事しょくじきんじるなど、クックが自分じぶんかんがえに固執こしつしたため船内せんないには反乱はんらん寸前すんぜん緊張きんちょうしょうじた。このようなクックの精神せいしんてき状態じょうたいがその悲劇ひげきこす一因いちいんとなったと、ビーグルホール伝記でんき作者さくしゃたちは推測すいそくしている。

 
クックの最期さいご

レゾリューションごう1779ねんハワイとうもどケアラケクアわん投錨とうびょうした。やく1ヶ月かげつ滞在たいざいのち、クックはきた太平洋たいへいよう探検たんけん再開さいかいしたが、出航しゅっこうもなくぜん檣が破損はそんし、補修ほしゅうのためケアラケクアわんもどらなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教しゅうきょうじょう複雑ふくざつ事情じじょうではこの突然とつぜん帰還きかんは「季節外きせつはずれ」で、先住民せんじゅうみんがわからするとおもいがけないことだったため、クックいちぎょう先住民せんじゅうみんあいだ緊張きんちょうしょうじることになった。

1779ねん2がつ14にちに、ケアラケクアわんでクックらのカッターボート村人むらびとぬすむという事件じけんきた。タヒチや島々しまじまでも盗難とうなんはよくあったことで、盗品とうひん返還へんかん交渉こうしょう人質ひとじちればたいてい解決かいけつした。実際じっさい、クックは先住民せんじゅうみんちょう人質ひとじちろうとしたのだが、不安定ふあんてい精神せいしん状態じょうたいのためか、盗品とうひんりのために下船げせんしたさい浜辺はまべあつまった群衆ぐんしゅうしょうぜりごういがきてしまった。ちりひとつにいたるまですべて返還へんかんせよ、という冷淡れいたんなクックの態度たいど先住民せんじゅうみんらはいかり、また、ちょう1人ひとりがクックらの捜索そうさくたいころされたといううわさ動揺どうようした結果けっかやり投石とうせきでクックらを攻撃こうげきはじめた。クックらも村人むらびとけて発砲はっぽうし、さわぎのなか退却たいきゃく余儀よぎなくされた。小舟こぶねもうと背中せなかけたクックはあたまなぐられ、波打なみうぎわ転倒てんとうしたところをころされた。クックらの死体したい先住民せんじゅうみんられてしまった。

現地げんち宗教しゅうきょうじょう理由りゆう奇妙きみょう崇敬すうけいけていたクックの遺体いたいは、先住民せんじゅうみんちょう年長ねんちょうしゃにより保持ほじされにくほねからられかれた。しかし、乗組のりくみいんらの懇願こんがんによって、遺体いたい一部いちぶだけが最後さいご返還へんかんされ、クックは海軍かいぐんによる正式せいしき水葬すいそうけた。チャールズ・クラーク、そしてクラークの死後しごはジョン・ゴアが探険たんけんぎ、さらリング海りんぐかいかい通過つうかこころみられたが、これも季節外きせつはずれで失敗しっぱいした。レゾリューションごうとディスカバリーごう英国えいこく帰国きこくしたのは1780ねん8がつのことであった。

クックのおしたち

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その、クックのしたはたらいたおおくの部下ぶかたちが、自身じしん目覚めざましい業績ぎょうせきのこした。代表だいひょうてき人物じんぶつ以下いかげる。

  • ウィリアム・ブライ - だい3かい航海こうかい航海こうかいちょうであったかれは、1787ねん帆船はんせんバウンティの指揮しきゆだねられ、タヒチへおもむパンノキかえることをにんぜられた。しかしながら、1789ねん乗組のりくみいん反乱はんらんこり、ふねから追放ついほうされて救命きゅうめいてい漂流ひょうりゅうするにあった(バウンティごう反乱はんらん)。生還せいかんたし、そのニューサウスウェールズ総督そうとくとなる。そしてここでも、海兵かいへいたい反乱はんらんこされ、すう年間ねんかん監禁かんきんされている。
  • ジョージ・バンクーバー - だい2かいだい3かい航海こうかい士官しかん候補こうほせいのちに1791ねんから1794ねんにかけてきたアメリカ太平洋たいへいようがん調査ちょうさ航海こうかい指揮しきした。この調査ちょうさ結果けっかとして、きたアメリカ大陸あめりかたいりく西岸せいがん大西洋たいせいようをつなぐと想定そうていされていたアニアン海峡かいきょうは、過去かこ伝説でんせつとなった。
  • ジョージ・ディクソン英語えいごばん - だい3かい航海こうかい参加さんかのちみずか北米ほくべい大陸たいりく西岸せいがん探検たんけん航海こうかい指揮しきし、クイーンシャーロット諸島しょとうなどを命名めいめいした。
  • ゲオルク・フォルスター - だい2かい航海こうかい参加さんかしてその記録きろくを『世界せかい周航しゅうこう』としてあらわしている。

イギリス国内こくないではマートンの生誕せいたんと、ウィトビーのきゅうウォーカー商館しょうかんが、クックの業績ぎょうせき紹介しょうかいする博物館はくぶつかんとなっている。オーストラリアではクックの両親りょうしんんだ家屋かおくがイギリスからうみえてメルボルン移築いちくされ、「クックス・コテージ」として公開こうかいされており、ヨーク半島はんとうクックタウンには、ジェームズ・クック歴史れきし博物館はくぶつかんがある。

ニュージーランドのクックさんクック海峡かいきょう、アラスカのクックわんなど、クックをめいとする地名ちめい数多かずおおい。小惑星しょうわくせい番号ばんごう3061のクックつきゆたかのうみにあるクレーターにもそのけられた。またエンデバーごう座礁ざしょうした海岸かいがんちかくにはクックタウンがあり、クック死没しぼつちかくにはキャプテン・クックというまちがあるなど、そのちなんで命名めいめいされた自治体じちたい世界せかい各地かくちにあり、ポリネシアの島嶼とうしょ国家こっかであるクック諸島しょとう国名こくめい自体じたいがクックに由来ゆらいしている。

科学かがくてき調査ちょうさかんするものとして、スペースシャトルエンデバーごうは、だい1かい航海こうかいにおけるクックの乗艦じょうかんにあやかったである。イギリスで2007ねんより任務にんむについた新型しんがた海洋かいよう調査ちょうさせんは、アン王女おうじょによってRRSジェームズ・クック命名めいめいされた。

また、クックのだいいちかい航海こうかいふねであるエンデバーごうは、オーストラリア入植にゅうしょく200ねん記念きねんさい記念きねんするために1994ねん復元ふくげんされた。2011ねんから2012ねんにかけて、このふねはオーストラリアを周航しゅうこうした[14]


脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この航海こうかいはロシア政府せいふ詩才しさいし、1785ねんにビリングスとサルイチェフを隊長たいちょうとする探検たんけんたいをシベリア東北とうほく派遣はけんさせることになる[13]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d ネルソンの時代じだい(1800ねん前後ぜんこう)の英国えいこく海軍かいぐんには、水兵すいへいから士官しかんうみじょう航海こうかいちょうすとおもわれる)にがったおとこが120にん存在そんざいし、そのうちの22にんみことのりにん艦長かんちょうとなり、22にんのうちの3にん提督ていとく最終さいしゅうてきには海軍かいぐん大将たいしょうまでのぼめた(「風雲ふううん出帆しゅっぱん - うみ覇者はしゃトマス・キッド 1」、ハヤカワ文庫ぶんこ、2002ねん、508ぺーじ訳者やくしゃ大森おおもり洋子ようこによるあとがき)。1814ねん、ナポレオン戦争せんそうわろうとしていたとし最大さいだい規模きぼにあった英国えいこく海軍かいぐんは、戦列せんれつかん99せき、フリゲイト以下いか505せき現役げんえき運用うんようし、乗組のりくみの下士官かしかんへいは20まんにんえていたとおもわれる。指揮しきする士官しかんは、将官しょうかんが220めいみことのりにん艦長かんちょうが860めいうみじょう艦長かんちょうが870めいうみじょうきゅう士官しかんが4,200めいえていた(「セーヌわん反乱はんらん - うみおとこホーンブロワーシリーズ 9」ハヤカワ文庫ぶんこ、2008ねん15さつ、410ぺーじ訳者やくしゃ高橋たかはしやすしくにによるあとがき)。
  2. ^ a b 当時とうじ英国えいこく海軍かいぐんでは、現在げんざい海軍かいぐんつうじる、『艦長かんちょうみことのりにん艦長かんちょう Post Captainうみじょう艦長かんちょう Commander軍艦ぐんかん指揮しきするうみじょう Commanding Lieutenant)→ うみじょう Lieutenant士官しかん候補こうほせい Midshipmen下士官かしかんへい』の指揮しき系列けいれつと、『航海こうかいちょう Master航海こうかい Master's Mate下士官かしかんへい』の指揮しき系列けいれつ併存へいそんしていた。航海こうかいちょうは、複雑ふくざつきわまる帆船はんせん操船そうせん海図かいず管理かんり責任せきにんち、艦長かんちょうらの正規せいき海軍かいぐん士官しかん戦闘せんとう専念せんねんさせるためのしょくであった。航海こうかいちょうは、正規せいき指揮しきけんゆうさないものの、艦内かんないでの待遇たいぐう俸給ほうきゅううみじょう同等どうとうであった。現代げんだい海軍かいぐんとはことなり、航海こうかいちょうほう艦長かんちょうより年長ねんちょうで、海上かいじょう勤務きんむ年数ねんすうながいことがめずらしくなかった。
  3. ^ 道楽どうらく科学かがくしゃ列伝れつでん近代きんだい西欧せいおう科学かがくげん風景ふうけい』pp111 小山こやま慶太けいた 中公新書ちゅうこうしんしょ 1997ねん4がつ25にち発行はっこう
  4. ^ 道楽どうらく科学かがくしゃ列伝れつでん近代きんだい西欧せいおう科学かがくげん風景ふうけい』pp112-113 小山こやま慶太けいた 中公新書ちゅうこうしんしょ 1997ねん4がつ25にち発行はっこう
  5. ^ ホーンみさき周辺しゅうへん海域かいいき四季しきわずにだい時化しけであり、偏西風へんせいふう影響えいきょうによるつよ西風せいふうと、西にしからひがしの(太平洋たいへいようから大西洋たいせいようへの)はや潮流ちょうりゅうつねにあるため、ふう潮流ちょうりゅう無視むしして航海こうかいできる蒸気じょうきせん出現しゅつげんするまえ帆船はんせんでホーンみさきひがしから西にし周航しゅうこうして大西洋たいせいようから太平洋たいへいようるのは至難しなんであった。西にしからひがし周航しゅうこうして太平洋たいへいようから大西洋たいせいようるのは、やや容易よういであったが、困難こんなんきわめるのは同様どうようであった。杉浦すぎうら昭典あきのり海賊かいぞくキャプテン・ドレーク』 中公新書ちゅうこうしんしょ、1987ねん、186-187ぺーじ
  6. ^ 「オセアニアを事典じてん平凡社へいぼんしゃ p100-101 1990ねん8がつ21にち初版しょはんだい1さつ
  7. ^ なお、オーストラリア大陸たいりくそのものに最初さいしょ到達とうたつしたヨーロッパじんは、1606ねんにヨークみさき上陸じょうりくしたオランダの航海こうかいしゃウィレム・ヤンソン英語えいごばんである。
  8. ^ 世界せかい探検たんけんぜん 下巻げかん みち発見はっけんしゃたち」p177 フェリペ・フェルナンデス-アルメストちょ 関口せきぐちあつしやく 青土おうづちしゃ 2009ねん10がつ15にちだい1さつ発行はっこう
  9. ^ 世界せかい地理ちり12 両極りょうきょく海洋かいよう」p32 福井ふくい英一郎えいいちろうへん 朝倉書店あさくらしょてん 昭和しょうわ58ねん9がつ10日とおか
  10. ^ 海洋かいようがく 原著げんちょだい4はん」p18 ポール・R・ピネちょ 東京大学とうきょうだいがく海洋かいよう研究所けんきゅうじょ監訳かんやく 東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい 2010ねん3がつ31にちだい1さつだい1はん発行はっこう
  11. ^ 航海こうかいじゅつ うみいど人間にんげん歴史れきし」p146 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ しげるざい寅男とらお 昭和しょうわ42ねん6がつ26にち発行はっこう
  12. ^ "Cook; James (1728 - 1779)". Record (英語えいご). The Royal Society. 2011ねん12月11にち閲覧えつらん
  13. ^ L.ベルグ『カムチャツカ発見はっけんとベーリング探検たんけんりゅう吟社ぎんしゃ、1942ねん、414ぺーじ 
  14. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2879434 「クック船長せんちょうの「エンデバーごう」のレプリカせんごうシドニーに帰港きこう」AFPBB 2012ねん05がつ22にち 2015ねん3がつ7にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Aughton, Peter. 2002. Endeavour: The Story of Captain Cook's First Great Epic Voyage. Cassell & Co., London.
  • John Cawte Beaglehole, biographer of Cook and editor of his Journals.
    • J・C・ビーグルホール『キャプテン ジェイムス・クックの生涯しょうがい佐藤さとうあきらさんやく成山なりやまどう書店しょてん、1998ねん
  • Edwards, Philip, ed. 2003. James Cook: The Journals. Prepared from the original manuscripts by J. C. Beaglehole 1955-67. Penguin Books, London.
  • Williams, Glyndwr, ed. 1997. Captain Cook's Voyages: 1768-1779. The Folio Society, London.
  • Sydney Daily Telegraph. 1970. Captain Cook: His Artists - His Voyages. The Sydney Daily Telegraph Portfolio of Original Works by Artists who sailed with Captain Cook. Australian Consolidated Press, Sydney.
  • Thomas, Nicholas. 2003. The Extraordinary Voyages of Captain James Cook. Walker & Co., New York. ISBN 0-8027-1412-9

訳書やくしょ評伝ひょうでんきん年刊ねんかん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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