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チーマ・ダ・コネリアーノ - Wikipedia

チーマ・ダ・コネリアーノ

イタリアの画家がか

ジョバンニ・バッティスタ・チーマ・ダ・コネリアーノ: Giovanni Battista Cima da Conegliano, 1459ねんごろ コネリアーノ - 1517ねんごろ コネリアーノ)は、イタリアルネサンスヴェネツィア画家がかである。チーマ・ダ・コネリアーノ通称つうしょうられる。おも宗教しゅうきょうてき主題しゅだいえがき、しばしば教会きょうかいではなく家庭かていのための小品しょうひん制作せいさくしたが、いくつかの神話しんわてき小品しょうひん制作せいさくした。ヴェネツィア巨匠きょしょうジョヴァンニ・ベッリーニもっと有能ゆうのう後継こうけいしゃ1人ひとりであるが[1]アントネロ・ダ・メッシーナ影響えいきょうけており、うつくしい風景ふうけい洗練せんれんされたディテール、彫刻ちょうこくのような人物じんぶつ静謐せいひつ瞑想めいそうてき雰囲気ふんいき特徴とくちょうとしている。またするどひかり鮮明せんめい風景ふうけい建築けんちくがくてき舞台ぶたい輪郭りんかく明瞭めいりょうしめしている[2]

チーマ・ダ・コネリアーノ
Cima da Conegliano
ねむれるエンデュミオン』1505ねんから1510ねんごろ
パルマ国立こくりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
本名ほんみょう Giovanni Battista Cima
誕生たんじょう 1459ねんごろ
出生しゅっしょう ヴェネツィア共和きょうわこく
コネリアーノ
死没しぼつねん 1517ねんごろ
死没しぼつ ヴェネツィア共和きょうわこく
コネリアーノ
運動うんどう動向どうこう ヴェネツィア
芸術げいじゅつ分野ぶんや 油彩ゆさい
宗教しゅうきょう神話しんわ
教育きょういく バルトロメオ・モンターニャ英語えいごばん
影響えいきょうけた
芸術げいじゅつ
バルトロメオ・モンターニャ英語えいごばんジョヴァンニ・ベッリーニアントネロ・ダ・メッシーナジョルジョーネ
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生涯しょうがい

編集へんしゅう
バルトロメオ・モンターニャの影響えいきょうつよ初期しょきの『パーゴラの聖母せいぼ』。1489ねんヴィチェンツァ市立しりつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう
おおくのバージョンがある『風景ふうけいなか聖母子せいぼし』。1496ねんから1499ねんロサンゼルス・カウンティ美術館びじゅつかん所蔵しょぞう

ジョヴァンニ・バッティスタ・チーマは当時とうじヴェネツィア本土ほんど一部いちぶであり、現在げんざいトレヴィーゾけん一部いちぶであるコネリアーノまれた。チーマのせいは1484ねん死去しきょしたかれちち羊毛ようもうぬのの剪断をおこなぬの職人しょくにんCimator)であったことに由来ゆらいする[1][3][4]。チーマはおそらくかれ名前なまえちち納税のうぜい申告しんこくしょはじめて記載きさいされた1473ねんから1474ねん成年せいねんたっしており、したがってかれ生年せいねんは1459ねんあるいは1460ねんかんがえられている[3][4]修行しゅぎょう時代じだいについては不明瞭ふめいりょうだが、1480ねんからヴィチェンツァんでいたバルトロメオ・モンターニャ英語えいごばん弟子でしであった可能かのうせい非常ひじょうたかい。制作せいさくねんはいった最古さいこ絵画かいがであるヴィチェンツァ市立しりつ美術館びじゅつかんの1489ねんの『パーゴラの聖母せいぼ』(Madonna della Pergola)からはバルトロメオ・モンターニャの様式ようしきつよ影響えいきょううかがえる[1][5]。この初期しょき作品さくひんでさえ、チーマの作品さくひん非常ひじょう際立きわだっているきとほとんど冷静れいせい精神せいしん証明しょうめいしている[1]

その一方いっぽうでチーマははやくからジョヴァンニ・ベッリーニの影響えいきょうけていた。ジョルジョ・ヴァザーリフランチェスコ・サンソヴィーノ英語えいごばんカルロ・リドルフィといった初期しょき伝記でんき作家さっか画家がか間違まちがいなくベッリーニの弟子でしであったとべている[4]。ヴェネツィアにうつった正確せいかく時期じき不明ふめいだが、1492ねんには定住ていじゅうしていたことはたしかで、同年どうねんにコネリアーノだい聖堂せいどう祭壇さいだん依頼いらいされている[4][5]。このころにはチーマはヴェネツィアを代表だいひょうする祭壇さいだん画家がか成長せいちょうしており、だい規模きぼ工房こうぼう祭壇さいだんとともに聖母子せいぼし半身はんしんぞう数多かずおお制作せいさくした[2]。チーマはほとんどすべてのキャリアをヴェネツィアでごしたが[4]故郷こきょうとはつよきずなたもつづけ、コネリアーノでいくつかの不動産ふどうさん購入こうにゅうした1516ねん帰郷ききょうしたとかんがえられている[4][5]。1517ねんか1518ねん死去しきょし、9月3にちに「修道しゅうどう教会きょうかい」(おそらくヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂せいどうか、コネリアーノのサン・フランチェスコ修道院しゅうどういん)に埋葬まいそうされた[4]

チーマは生涯しょうがいで2結婚けっこんし、最初さいしょつまであるコロナとのあいだに2なん[1][3]、1じょをもうけ[3]、そのうち長男ちょうなんはパドヴァで聖職せいしょくしゃとなった。2番目ばんめつまジョアンナとのあいだには3なん、3じょをもうけた[1]

弟子でしには息子むすこカルロ・ダ・コネリアーノ(Carlo da Conegliano)のほか、ヴィットーレ・ベリニアーノ英語えいごばんがいる。1492ねんにコネリアーノでまれた画家がかフランチェスコ・ベッカルッツィ英語えいごばんが、チーマから直接ちょくせつ訓練くんれんけたかどうかは不明ふめいである[1]

作品さくひん

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チーマの主要しゅよう作品さくひん祭壇さいだんであり、そのうちやく30作品さくひん現存げんそんしている。聖母せいぼマリア聖人せいじんなどの宗教しゅうきょうあるいは神話しんわ主題しゅだいあつかった小品しょうひんえがいているが、独立どくりつした肖像しょうぞうられていない[4]うつくしい風景ふうけい描写びょうしゃ画家がか故郷こきょうであるコネリアーノ周辺しゅうへん丘陵きゅうりょう田園でんえん風景ふうけい反映はんえいしており、ひかり色彩しきさいたいする感覚かんかくおおくをベッリーニと共有きょうゆうし、画家がか最高さいこう品質ひんしつ作品さくひん細心さいしん注意ちゅういはらって職人しょくにんわざ制作せいさくしている。しかし一度いちど形成けいせいされた様式ようしきはそのおおきく変化へんかすることはなく、また均一きんいつ芸術げいじゅつであり、しばしば風景ふうけいなか聖母せいぼマリアやせいヒエロニムスなど人気にんきのある主題しゅだいかえ制作せいさくした[4]とく聖母子せいぼし絵画かいがでは、幼児ようじキリストっている作品さくひん同一どういつ構図こうずもちいてかえ制作せいさくしている。1913ねんの『カトリック百科ひゃっか事典じてん』によると、チーマのえが人物じんぶつ当初とうしょはやや粗雑そざつであったが、次第しだいきびしさをうしない、気品きひんたもちながら優雅ゆうがさをしていった。手軽てがる調和ちょうわのとれた構図こうず背景はいけいに、チーマの故郷こきょう山々やまやまあらたな重要じゅうようせいをもって作品さくひんつつんだ。チーマは画面がめんなか風景ふうけいえが場所ばしょてて、大気たいき法則ほうそく明暗めいあん分布ぶんぷ法則ほうそく策定さくていした最初さいしょのイタリアじん1人ひとりであった。ヴェネツィアのサン・ジョバンニ・イン・ブラゴラ教会きょうかい英語えいごばんのために1492ねん制作せいさくした『キリストの洗礼せんれい』(Baptism of Christ)は、このてんについての印象いんしょうてき証拠しょうこしめしている。カラーリングはゆたかであり、チーマ特有とくゆう銀色ぎんいろのトーンがられるが、後期こうき作品さくひんでは繊細せんさい金色きんいろんでいる。チーマの構想こうそう通常つうじょうしずかで劇的げきてきではなく、おおくは「せい会話かいわ」を示唆しさする場面ばめんえがいている(ほとんど独占どくせんてき宗教しゅうきょうてきなものをえがいている)。チーマの絵画かいがのほとんどは聖人せいじんあいだ即位そくいした聖母せいぼあらわしており、これらの主題しゅだいではしずかに生命せいめいまれた対称たいしょうせい観察かんさつしている。これらの神聖しんせい人物じんぶつのグループは敬虔けいけん性格せいかくっていないかもしれないが、言葉ことばではいいあらわせない平和へいわ印象いんしょうっている[1]。しかしながら、偉大いだいどう時代じだいじん(ベッリーニ、ジョルジョーネわかティツィアーノ・ヴェチェッリオ)のかげかくれて、ルネサンス美術びじゅつやヴェネツィアなかでさえ見過みすごされがちである[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h Giovanni Battista Cima da Conegliano”. カトリック百科ひゃっか事典じてん. 2021ねん9がつ28にち閲覧えつらん
  2. ^ a b Giovanni Battista Cima da Conegliano”. J・ポール・ゲティ美術館びじゅつかん公式こうしきサイト. 2021ねん9がつ28にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d CIMA, Giovanni Battista, detto Cima da Conegliano”. Treccani. 2022ねん1がつ29にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j Cima da Conegliano”. Cavallini to Veronese. 2021ねん9がつ28にち閲覧えつらん
  5. ^ a b c Giovanni Battista Cima da Conegliano”. ブリタニカ百科ひゃっか事典じてん. 2021ねん9がつ28にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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