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ジョルジョーネ - Wikipedia

ジョルジョーネ: Giorgione、1477ねん/1478ねんごろ - 1510ねん[1])は、盛期せいきルネサンスヴェネツィア活動かつどうしたイタリアじん画家がか。ジョルジオーネとも表記ひょうきされる。本名ほんみょうはジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ (Giorgio Barbarelli da Castelfranco) 。形容けいようしがたい詩的してき作風さくふう画家がかとしてられているが、確実かくじつにジョルジョーネの絵画かいがであるとなされている作品さくひんはわずかに6てんしか現存げんそんしていないともいわれている。その人物じんぶつぞう作品さくひん記録きろくがほとんどのこっておらず、ジョルジョーネは西洋せいよう絵画かいが歴史れきしのなかでももっともなぞちた画家がか一人ひとりとなっている。

ジョルジョーネ
本名ほんみょう Giorgio Barbarelli da Castelfranco
誕生たんじょう 1477ねん / 1478ねんごろ
出生しゅっしょう カステルフランコ・ヴェーネトイタリア
死没しぼつねん 1510ねん
死没しぼつ ヴェネツィア、イタリア
国籍こくせき イタリア
運動うんどう動向どうこう 盛期せいきルネサンス
芸術げいじゅつ分野ぶんや 絵画かいが
影響えいきょうあたえた
芸術げいじゅつ
ティツィアーノ
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生涯しょうがい

編集へんしゅう

ジョルジョ・ヴァザーリの『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』の記述きじゅつ以外いがい、ジョルジョーネの生涯しょうがいはほとんどつたわっていない。『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』によれば、ジョルジョーネはヴェネツィアから40kmほど内陸ないりくにあるカステルフランコ・ヴェーネト出身しゅっしんとされている。ジョルジョーネがなんさいごろにヴェネツィアに移住いじゅうしたのかはからないが、その作風さくふうから17世紀せいきのイタリアじんバロック画家がか伝記でんき作家さっかカルロ・リドルフィ推測すいそくしているように、ジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行しゅぎょうしたとかんがえられている。そしてそのジョルジョーネは一生いっしょうをヴェネツィアでごした。

当時とうじ記録きろくによれば、ジョルジョーネの才能さいのう若年じゃくねんころから注目ちゅうもくされていた。1500ねんに、ヴァザーリの記述きじゅつただしいとすると、わずか23さいのときにヴェネツィア元首げんしゅ (Doge) アゴスティーノ・バルバリーゴ傭兵ようへい隊長たいちょうコンサルヴォ・フェランテの肖像しょうぞうえが画家がかえらばれている。1504ねんには、べつ傭兵ようへい隊長たいちょうマッテーオ・コスタンツォをたたえるための祭壇さいだん制作せいさくを、まれ故郷こきょうのカステルフランコの聖堂せいどうから依頼いらいされている。1507ねんにヴェネツィア共和きょうわこくじゅうにん委員いいんかいからの注文ちゅうもんドゥカーレ宮殿きゅうでんだいホールの装飾そうしょく絵画かいががけたとされているが、どういった主題しゅだい絵画かいがだったのかはつたわっていない。1507ねんから1508ねんにかけて、改築かいちく予定よていだったフォンダコ・デイ・テデスキ(ドイツ商人しょうにんかん (en:Fondaco dei Tedeschi))の外装がいそうかざフレスコ制作せいさくを、芸術げいじゅつともどもっている。ジョルジョーネには以前いぜんにもソランツォてい、グリマーニていなどヴェネツィアのだい邸宅ていたくで、同様どうようなフレスコがけた経験けいけんがあった。しかしながらこれらの絵画かいが現存げんそんしているものはほとんどない。

 
ラウラ』(1506ねん
美術びじゅつ美術館びじゅつかん, ウィーン

ヴァザーリの著述ちょじゅつによると、1500ねんレオナルド・ダ・ヴィンチがヴェネツィアをおとずれ、レオナルドの作品さくひんおおきな影響えいきょうけていたジョルジョーネと出会であったとしている。ジョルジョーネは非常ひじょう魅力みりょくてき人物じんぶつで、その作品さくひんには訴求そきゅうりょく創意そういあふれるうつくしさがあり、詩的してき哀愁あいしゅうがただよう作風さくふうであるという、当時とうじのヴェネツィアじんによる記録きろく存在そんざいする。その記録きろくでは、20ねん以上いじょうまえにレオナルドがトスカーナ絵画かいがかい新風しんぷうんだのと同様どうように、ジョルジョーネのことをヴェネツィア絵画かいがおおきな影響えいきょうおよぼし、たかめた画家がかとして評価ひょうかしている。それまでの古典こてんてき硬直こうちょくした表現ひょうげんから絵画かいがはなち、より闊達かったつ熟練じゅくれんした芸術げいじゅつへとみちびいた画家がかであるとした。

ジョルジョーネはティツィアーノふかかかわりがある。『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』にはジョルジョーネはティツィアーノのだったという記述きじゅつがあるが、リドルフィは両者りょうしゃともベリーニのもとでみで修行しゅぎょうしていた兄弟きょうだい弟子でしであるとしている。フォンダコ・デイ・テデスキのフレスコをともにがけ、ジョルジョーネが制作せいさくなかばで早世そうせいしたのちに、それらの絵画かいがをティツィアーノが完成かんせいさせたといわれているが、真偽しんぎいまだにおおきな議論ぎろんとなっている。

ジョルジョーネは祭壇さいだん肖像しょうぞうにもしん境地きょうちをもたらしている。それまでの絵画かいがられた宗教しゅうきょうてき意味いみ古典こてんてき意味いみ作品さくひんたせず、音楽おんがくてきともいえる叙情じょじょうてき空想くうそうてき表現ひょうげん色彩しきさい対象たいしょうえがいた。その天与てんよ才能さいのうどう時期じき芸術げいじゅつたちに圧倒的あっとうてきなまでの影響えいきょうあたえ、当時とうじティツィアーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボパルマ・イル・ヴェッキオジョヴァンニ・カリアーニジュリオ・カンパニョーラ 、ジョルジョーネのであったとされるジョヴァンニ・ベリーニらが所属しょぞくしていたヴェネツィア第一人者だいいちにんしゃとなった。そのほか、ジョルジョーネの作風さくふうは、モルト・ダ・フェルトレ 、ドメニコ・カプリオーロ、ドメニコ・マンチーニといった画家がかたちにもおおきな影響えいきょうあたえている。

ジョルジョーネはおそらくせんペスト感染かんせん[2]、1510ねん10がつ死去しきょした。1510ねん10がつという日付ひづけは、イザベラ・デステがヴェネツィアのおとこ友達ともだちおくった「ジョルジョーネの絵画かいが購入こうにゅうしてしい」という内容ないよう書簡しょかん記載きさいされており、この書簡しょかんにはすでにジョルジョーネが死去しきょしていることもかれている。そしていちヵ月かげつにデステにおくられた返信へんしんには、ジョルジョーネの作品さくひんはいくらきんんでも入手にゅうしゅできなかったことがしるされている。

ジョルジョーネの名声めいせい作品さくひん後世こうせい人々ひとびとをも魅了みりょうつづけている。しかし、当時とうじジョルジョーネの影響えいきょうけ、よく作風さくふうえがかれたほかの画家がかたちの絵画かいがと、ジョルジョーネ自身じしんえがいたしんさくとを正確せいかく見分みわけるのは非常ひじょう困難こんなんである。100ねんほどまえにジョルジョーネふう絵画かいがのほぼすべてを精査せいさし、しんさく評価ひょうかおこなった「パン・ジョルジョーニズム "Pan Giorgionismus"[3]成果せいか現在げんざいでは支持しじされていないが、現代げんだい美術びじゅつ史家しかのなかには、現存げんそんする作品さくひん間違まちがいなくジョルジョーネのしんさくである絵画かいがはわずかに6てんだけであるとする研究けんきゅうしゃもいる。

作品さくひん

編集へんしゅう
 
カステルフランコ祭壇さいだん』(1503ねんごろ
サン・リベラーレ聖堂せいどう(カステルフランコ・ヴェーネト)

生誕せいたんであるカステルフランコ・ヴェーネトのサン・リベラーレ聖堂せいどうには1503ねんごろにえがかれた、玉座ぎょくざ聖母子せいぼし中心ちゅうしんにして右側みぎがわせいリベラーレ、左側ひだりがわせいフランチェスコをはいした、せい会話かいわ形式けいしきの『カステルフランコ祭壇さいだん玉座ぎょくざ聖母子せいぼしきよしリベラーレ、せいフランチェスコ)』がある。この作品さくひん背景はいけいにはヴェネツィア絵画かいが革新かくしんともいえる風景ふうけいえがかれており、この技法ぎほうのベリーニをはじおおくの画家がかたちに即座そくざれられた[4] 。ジョルジョーネは明暗めいあんほうであるキアロスクーロをより洗練せんれんした、微妙びみょう陰影いんえい遠近えんきんかん表現ひょうげんするスフマート技法ぎほうをレオナルド・ダ・ヴィンチとどう時期じき使用しようした画家がかである。ジョルジョ・ヴァザーリの『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』には、ジョルジョーネのスフマートはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品さくひん真似まねたものだという記述きじゅつがある。しかし、ヴァザーリはヴェネツィアの画家がか軽視けいししており、『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』には芸術げいじゅつのあらゆる発展はってん革新かくしんはフィレンツェの芸術げいじゅつ功績こうせきであるとする「偏見へんけん」が見受みうけられるため、この記述きじゅつ正確せいかくかどうかはわからない。レオナルドの作品さくひんられる精緻せいちいろかい調ちょうは、おそらく装飾そうしょく写本しゃほん技法ぎほうである微細びさい点描てんびょう技術ぎじゅつをもとにしており、レオナルドによって最初さいしょ油彩ゆさいまれたものともいわれるが、このようなスフマートの技法ぎほうは、ジョルジョーネの作品さくひんいまなお賞賛しょうさんされる魅惑みわくてき光線こうせん描写びょうしゃあたえることとなった。

 
ねむれるヴィーナス』(1510ねんごろ
アルテ・マイスター絵画かいがかん(ドレスデン)

ジョルジョーネの作品さくひんちゅうもっとも重要じゅうよう代表だいひょうさくといわれるのは、ドレスデンアルテ・マイスター絵画かいがかん所蔵しょぞうする『ねむれるヴィーナス』である。きわめて優美ゆうび音楽おんがくてきともいえる曲線きょくせん画面がめん構成こうせい静謐せいひつ官能かんのうせい表現ひょうげんしており、女神めがみよこたわるしろぬの背景はいけいえがかれた清新せいしん風景ふうけい調和ちょうわして、女神めがみ神性しんせいえがしている。ただ一人ひとり裸婦らふ屋外おくがいえがいたこの作品さくひん革新かくしんてき絵画かいがかんがえられており、屋外おくがい描写びょうしゃねむんでいる女神めがみにさらなる神秘しんぴせい付与ふよしている。

この絵画かいが最初さいしょにジョルジョーネの作品さくひんであるとしたのは19世紀せいきのイタリアじん美術びじゅつ史家しか政治せいじジョヴァンニ・モレッリである。『ねむれるヴィーナス』はヴェネツィアのマルチェロていかざられていたことがあり、ヴェネツィア貴族きぞくマルカントニオ・ミキエルがのこしたヴェネツィアをはじきたイタリアの美術びじゅつひん貴重きちょう記録きろく美術びじゅつひん消息しょうそく』(1521ねん - 1543ねん) にも記載きさいがあり、17世紀せいきにジョルジョーネの伝記でんきいたカルロ・リドルフィもこの作品さくひんにしている。ミキエルの『美術びじゅつひん消息しょうそく』には『ねむれるヴィーナス』は完成かんせい作品さくひんで、さらに背景はいけいにはキューピッドえがかれていたが、キューピッドはのち修復しゅうふくされたときにされ、完成かんせいのままのこされたこの絵画かいがをジョルジョーネの死後しごにティツィアーノが完成かんせいさせたという記録きろくがある。『ねむれるヴィーナス』はティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』や、のヴェネツィア画家がかたちの原点げんてんともいえる絵画かいがだが、ジョルジョーネのこの作品さくひん上回うわまわ評価ひょうか画家がかあらわれなかった。

 
ユディト』(1504ねんごろ
エルミタージュ美術館びじゅつかん(サンクトペテルブルク)

理想りそうされた女性じょせいという『ねむれるヴィーナス』と同様どうよう構想こうそうえがかれたのが、エルミタージュ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうの『ユディト』である。哀愁あいしゅうびた作風さくふうえがかれたこのおおきな絵画かいがには、ジョルジョーネの特質とくしつであるすぐれた色彩しきさい感覚かんかく叙情じょじょうてき風景ふうけい描写びょうしゃ表現ひょうげんされ、なま表裏一体ひょうりいったいのものであることをえがしてる。

祭壇さいだんとフレスコ以外いがい現存げんそんしているジョルジョーネの作品さくひんは、富裕ふゆうそうのヴェネツィアじん邸宅ていたくかざるのにごろなサイズの絵画かいがばかりでちょうあたり60cm程度ていどのものがおおい。15世紀せいき後半こうはんのイタリアではこのようなちいさな絵画かいがあつか市場いちば隆盛りゅうせいし、どう時期じきのネーデルラントよりも機能きのうしていた。ジョルジョーネはこういった絵画かいが市場いちば発展はってん寄与きよした最初さいしょ有力ゆうりょくイタリアじん画家がかだったが、ジョルジョーネの死後しごまもなく、社会しゃかい隆盛りゅうせい巨大きょだい邸宅ていたく王侯おうこう貴族きぞくからの依頼いらいなどの理由りゆう絵画かいがのサイズはおおきくなっていった。

 
テンペスタ』 (1508ねんごろ)
アカデミア美術館びじゅつかん(ヴェネツィア)

ヴェネツィアのアカデミア美術館びじゅつかん所蔵しょぞうする、『テンペスタ』(日本にっぽんでは日本語にほんごやくの『あらし』ともばれる)は西洋せいよう美術びじゅつ史上しじょう最初さいしょ風景ふうけいともいわれている。この作品さくひんなに意図いとしてえがかれたものなのかは不明ふめいだが、ジョルジョーネがすぐれた技術ぎじゅつ明確めいかくてとることができる。かわりょうきし兵士へいし乳児にゅうじ母乳ぼにゅうあたえる母親ははおや配置はいちされ、こわれた建物たてものちかづくあらしえがかれている。こういったおおくの象徴しょうちょう表現ひょうげんされた『テンペスタ』の解釈かいしゃくについておおくの見解けんかいがあるが、定説ていせつといえるものはない。都会とかい田舎いなか男性だんせい女性じょせいといった双対そうつい関係かんけい構成こうせいされているのではないかというせつもあったが、Xせんのよる精査せいさ結果けっか、もともとのヴァージョンでは左側ひだりがわえがかれていたのは兵士へいしではなくすわった裸婦らふぞうであったことから、現在げんざいではこのせつ支持しじされていない[5]

くらくちをあけた洞窟どうくつまわりにさんにん人物じんぶつえがかれた,ウィーン美術びじゅつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうの『さんにん哲学てつがくしゃ』もなぞちた絵画かいがで、ジョルジョーネのしんさくとはみとめない研究けんきゅうしゃもいる。プラトンとなえた「洞窟どうくつ比喩ひゆ」あるいは『新約しんやく聖書せいしょ』の東方とうほうさん博士はかせえがかれていると解釈かいしゃくされることがあるが、この作品さくひんにはのジョルジョーネの典型てんけいてき作品さくひん風景ふうけいえがかれているような、ぼんやりとしたひかり表現ひょうげんされる叙情じょじょうてき雰囲気ふんいきられない。このてんについてはジョルジョーネが「ひと衣服いふく樹木じゅもくいわ明確めいかくえがけようとした結果けっか」であるという近年きんねんせつもある[6]。この作品さくひんにおける明確めいかく輪郭りんかく欠如けつじょ風景ふうけい表現ひょうげん方法ほうほうは、ブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞうの『田園でんえん奏楽そうがく』と比較ひかくされることがおおい。

ジョルジョーネとその弟子でしともいわれるわかきティツィアーノが肖像しょうぞう分野ぶんやおおきな変革へんかくあたえた。ティツィアーノがわかいころの作品さくひんとジョルジョーネ自身じしん作品さくひん正確せいかく判別はんべつするのは非常ひじょう困難こんなんで、ときに不可能ふかのうとさえいえる。ジョルジョーネは作品さくひん署名しょめいのこしておらず、正確せいかく制作せいさく年月日ねんがっぴ判明はんめいしている作品さくひんも1てんのみである[7]唯一ゆいいつ制作せいさく年月日ねんがっぴが1506ねん7がつ1にち判明はんめいしている、ウィーンの美術びじゅつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうするわか女性じょせい肖像しょうぞうラウラ』は「後期こうき作風さくふう」でえがかれており、その品格ひんかく清澄せいちょうさ、精緻せいち性格せいかく描写びょうしゃで、作品さくひん明確めいかく区別くべつできる。ベルリンアルテ・ピナコテーク所蔵しょぞうする『わか男性だんせい肖像しょうぞう』も美術びじゅつ史家しかたちから「静謐せいひつ男性だんせい表情ひょうじょう言葉ことばにできないほどに繊細せんさいえがかれ、ふか立体りったいかんあふれる表現ひょうげんがなされている」とたか評価ひょうかされている[6]

ジョルジョーネさくといわれている肖像しょうぞうのなかには、注文ちゅうもん記録きろくなどによって明確めいかく来歴らいれきのこっているとされる作品さくひんもある。しかしながら注文ちゅうもん記録きろくおおくはその作品さくひん雰囲気ふんいき様子ようすかれているのみで、ジョルジョーネに影響えいきょうけその作風さくふう真似まね絵画かいがおおくにてはまり、さらにはかならずしもモデルとなった人物じんぶつ作品さくひんられたとはかぎらないことを念頭ねんとうかねばならない。ジョルジョーネがえがいた宗教しゅうきょうてき寓意ぐういたない肖像しょうぞうたん注文ちゅうもん記録きろく情報じょうほうから判別はんべつするのは非常ひじょう困難こんなんで、その記録きろく絵画かいがとの詳細しょうさい照会しょうかい綿密めんみつ調査ちょうさ必要ひつようなのである。おおくの美術びじゅつ史家しかは「記録きろくからジョルジョーネの作品さくひん判別はんべつするのはいちじるしく困難こんなんである。もっともよい方法ほうほうは、ジョルジョーネ特有とくゆう革新かくしんてき作風さくふうられるか、16世紀せいき前半ぜんはん宗教しゅうきょうてき寓意ぐういたずにえがかれたヴェネツィア絵画かいがの、ほとんどすべての特徴とくちょうである学問がくもんてきあるいは文学ぶんがくてき要素ようそ欠如けつじょ調しらべることである」としている[8]

作品さくひん特定とくてい

編集へんしゅう
 
さんにん哲学てつがくしゃ』(1507ねんごろ
美術びじゅつ美術館びじゅつかん(ウィーン)
ミキエルがジョルジョーネさくセバスティアーノ・デル・ピオンボ完成かんせいさせたと記録きろくしている絵画かいが。ティツィアーノもこの絵画かいが完成かんせいかかわっているとする現代げんだい美術びじゅつ史家しかもいる。

ティツィアーノのしんさく判断はんだんするのが困難こんなん理由りゆうとして、その死後しご画家がかたちによって最終さいしゅうてき完成かんせい作品さくひんがあることと、当時とうじからティツィアーノの評価ひょうかがあまりにもたかかったことから、画家がか作品さくひんであってもティツィアーノさく絵画かいがであるとしたあいだちがった記録きろくのこっていることがあげられる。のこっている絵画かいがかんする当時とうじ記録きろく教会きょうかい王侯おうこうからの依頼いらい記録きろくだい部分ぶぶんで、一般いっぱん家庭かていけのジョルジョーネのしょう作品さくひんかんするような記録きろくはほとんどない。画家がかによるこういったしょう作品さくひん制作せいさくはジョルジョーネの死後しごすう年間ねんかんつづけられ、さらには16世紀せいきなかばごろから精巧せいこう贋作がんさくえがかれるようになった[9]

 
少年しょうねん』(1506ねんごろ
美術びじゅつ美術館びじゅつかん(ウィーン)
 
『モーゼの試練しれん』(1500ねんごろ
ウフィツィ美術館びじゅつかん(フィレンツェ)

作品さくひん特定とくていにおける主要しゅよう記録きろくはヴェネツィア貴族きぞくマルカントニオ・ミキエルが1525ねんから1543ねんいた『美術びじゅつひん消息しょうそく』で、12てん絵画かいがと1てんのドローイングについてジョルジョーネの作品さくひんであるとしている。このうち現存げんそんする5てん絵画かいがについては、おおくの美術びじゅつ史家しかから間違まちがいなくジョルジョーネの作品さくひんであると認定にんていされている[10]。その5てん絵画かいがとは『テンペスタ』、『さんにん哲学てつがくしゃ』、『ねむれるヴィーナス』、『少年しょうねん[11]、そして異論いろんているが『フルートを歌手かしゅ』である。ミキエルは『さんにん哲学てつがくしゃ』はセバスティアーノ・デル・ピオンボが、『ねむれるヴィーナス』はティツィアーノが、それぞれジョルジョーネの死後しご完成かんせいさせたといている。『ねむれるヴィーナス』はティツィアーノが背景はいけい風景ふうけい完成かんせいさせたと現在げんざい美術びじゅつ史家しかからもみとめられているが、『さんにん哲学てつがくしゃ』はデル・ピオンボにくわえてティツィアーノも関係かんけいしているのではいかとかんがえる美術びじゅつ史家しかもいる。『テンペスタ』はジョルジョーネだけの完成かんせいさせたとひろみとめられている唯一ゆいいつ絵画かいがである。そのにジョルジョーネのまれ故郷こきょうカステルフランコの聖堂せいどうにある『玉座ぎょくざ聖母子せいぼしきよしリベラーレ、せいフランチェスコ』とばれることもある『カステルフランコ祭壇さいだん』もジョルジョーネのしんさくであるという評価ひょうかたか絵画かいがだが、ドイツの倉庫そうこえがかれていた祭壇さいだん一部いちぶだったとするせつもある。ウィーンの美術びじゅつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうの『ラウラ』には絵画かいが裏面りめんではあるが、唯一ゆいいつジョルジョーネ自身じしん署名しょめい制作せいさく日付ひづけのこされている。フィレンツェのウフィツィ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうの『モーゼの試練しれん』ともう1てん作品さくひんも、初期しょきのジョルジョーネの作品さくひんであろうといわれている。

ジョルジョ・ヴァザーリの著作ちょさく画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』でジョルジョーネさくとされている絵画かいが検証けんしょうはより複雑ふくざつである。1550ねん初版しょはんでは、現在げんざいヴェネツィアのサンロッコどうしん会館かいかん所蔵しょぞうする『十字架じゅうじかになうキリスト (en:Christ Carrying the Cross (Titian))』がティツィアーノさくであるとかれているが、1568ねん最終さいしゅうてき完成かんせいするだいはんでは1565ねん時点じてんではジョルジョーネさく、1567ねん時点じてんではティツィアーノさくとなっている。ヴァザーリは1565ねんから1567ねんにかけてヴェネツィアをおとずれており、このときにことなる種類しゅるい情報じょうほう入手にゅうしゅしているのではないかといわれている[12]。ジョルジョーネの作品さくひんかティツィアーノのわかいころの作品さくひんかで議論ぎろんとなり判断はんだん出来できないのは、ブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞうの『田園でんえん奏楽そうがく』も同様どうようで、2003ねんには「ルネサンスのイタリア美術びじゅつひん作者さくしゃ特定とくていで、もっともはげしい議論ぎろんまととなるのはこの問題もんだいだろう」といわれたこともある[13]

 
田園でんえん奏楽そうがく』(1509ねんごろ
ブル美術館ぶるびじゅつかん(パリ)
現在げんざいではティツィアーノさくとして展示てんじされている[14]

田園でんえん奏楽そうがく』はプラド美術館びじゅつかん所蔵しょぞうする『聖母子せいぼしとパドヴァのせいアントニウス、せいロクス[15]作風さくふう非常ひじょうによくており、チャールズ・ホープによれば「ティツィアーノではないかといわれることがおお絵画かいがで、なん指摘してきされているように初期しょきのティツィアーノの作品さくひん酷似こくじしていることはあきらかだ。ジョルジョーネさくとするのは無理むりがあるようにおもえる。しかしながら、専門せんもんてき知識ちしき駆使くしし、いままでにられているティツィアーノの経歴けいれき精査せいさしたとしても、これらの作品さくひんがティツィアーノの初期しょき作品さくひんであると断言だんげんすることは、だれにも出来できないだろう。『田園でんえん奏楽そうがく』やそれによく絵画かいが作者さくしゃにんのどちらでもなく、より無名むめいのドメニコ・マンチーニにしないかと提案ていあんしたいくらいだ」としている[16]

イタリアじん版画はんがジュリオ・カンパニョーラ(1482ねんごろ - 1515ねんごろ)がのこした版画はんがも、ジョルジョーネとティツィアーノの作品さくひん判断はんだん材料ざいりょう使用しようされることがある。カンパニョーラはジョルジョーネふう版画はんが制作せいさくしゃとして著名ちょめいで、ジョルジョーネとティツィアーノの絵画かいがをモデルとしておおくの版画はんが制作せいさくしたのではないかとかんがえられており、実際じっさいにカンパニョーラがのこした版画はんがにん名前なまえ記載きさいされているものも存在そんざいしている[17]

 
ひつじいの礼拝れいはい』(1505ねんごろ
ナショナル・ギャラリー(ワシントン)
この絵画かいがにちなんで「アレンデール・グループ」という名称めいしょうがつけられた

夭折ようせつしたジョルジョーネの画家がかとしてのキャリアはみじかいが、キャリア初期しょき絵画かいがで「アレンデール・グループ (Allendale group)」と総称そうしょうされるすうてん作品さくひんがある。ワシントンのナショナル・ギャラリー所蔵しょぞうする『ひつじいの礼拝れいはい』の英語えいご名称めいしょう『アレンデールの降誕こうたん (Allendale Nativity)』から命名めいめいされたもので、このグループにはおなじくナショナル・ギャラリー所蔵しょぞうの『聖家族せいかぞく』、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵しょぞうする『東方とうほうさん博士はかせ礼拝れいはい』がふくまれ[18]、さらにワシントンの『ひつじいの礼拝れいはい』に酷似こくじした、ウィーン美術びじゅつ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうべつバージョンともいえる『ひつじいの礼拝れいはい』もふくまれることがある[19]。アレンデール・グループの絵画かいがはセットとしてあつかわれており、すべてジョルジョーネのしんさくとみなされることがおおいが、ぎゃくすべてジョルジョーネの作品さくひんではないとされることもある。ワシントンの『ひつじいの礼拝れいはい』は1930年代ねんだいだい論争ろんそうまとになった。著名ちょめい画商がしょうジョゼフ・デュヴィーン (en:Joseph Duveen, 1st Baron Duveen) が『ひつじいの礼拝れいはい』をジョルジョーネのしんさくだとしてアンドリュー・メロン売却ばいきゃくしたが、デュヴィーンの友人ゆうじんでルネサンス絵画かいが専門せんもんだったバーナード・ベレンソンがこの絵画かいがはティツィアーノの初期しょき作品さくひんだとつよ反論はんろんしたのである。ベレンソンはジョルジョーネのしんさく精査せいさし、そのかずを12てん程度ていどとするせつ重要じゅうよう役割やくわりたしたことがある学者がくしゃだった[20]

ジョルジョーネは存命ぞんめいからたか評価ひょうかされつづけ、イタリア屈指くっし芸術げいじゅつという名声めいせいけていたにもかかわらず、おおくの絵画かいががジョルジョーネさくではなくべつ画家がかによる作品さくひんであるとみなされてきた。エルミタージュ美術館びじゅつかんの『ユディト』はながあいだラファエロ作品さくひんなされており、『ねむれるヴィーナス』はティツィアーノの作品さくひんとされていた。19世紀せいきわりにジョルジョーネのさい評価ひょうかうごきがおおきくなり、ぎゃく画家がか絵画かいががジョルジョーネの作品さくひんであるとあやま認識にんしきされるようになってしまい、とくに肖像しょうぞう大量たいりょうにジョルジョーネの作品さくひんだと認定にんていされた。1世紀せいきまえにジョルジョーネさくだと認定にんていされた絵画かいがのうち現在げんざいでもジョルジョーネさくみとめられている作品さくひん皆無かいむではあるが、ジョルジョーネの絵画かいがめぐ論争ろんそう現在げんざいでも当時とうじしてはげしくなっている[21]現在げんざいのこのような論争ろんそう背景はいけい風景ふうけいえがかれた作品さくひんと、肖像しょうぞうふたつに大別たいべつできる。アメリカの美術びじゅつ史家しかコロンビア大学ころんびあだいがく教授きょうじゅデヴィッド・ロサンドの1997ねん著書ちょしょによれば「アレッサンドロ・バラリンの急進きゅうしんてきしんさく認定にんてい(1993ねんのパリでの展覧てんらんかい)とマウロ・ロッコの著作ちょさく(1996ねん)によって、ますます致命ちめいてきなまでに混乱こんらんきわめている」としている[22]。2004ねんにウィーンとヴェネツィアで、2006ねんにワシントンで開催かいさいされただい規模きぼ展示てんじかいが、美術びじゅつ史家しかたちにジョルジョーネさくかどうかが争点そうてんとなっている絵画かいがいちにする機会きかいあたえた(外部がいぶリンク参照さんしょう)。

評価ひょうか

編集へんしゅう

33さいというわかさでくなったジョルジョーネだが、その死後しごもティツィアーノや17世紀せいき画家がかたちにおおきな影響えいきょうあたつづけた。ジョルジョーネは下絵したえをせずに絵画かいがえがき、感傷かんしょうてき表現ひょうげんをその作品さくひんむことはなかった。風景ふうけい人物じんぶつ一体いったいとなった絵画かいがえがいた最初さいしょ画家がかで、宗教しゅうきょう寓意ぐうい歴史れきしなどの意味いみたないしょう作品さくひんというあたらしい絵画かいがジャンルの創始そうししゃとなった。あざやかにきらめき、そしてうような色彩しきさい感覚かんかくにつけた画家がかであり、その作品さくひんすべてのヴェネツィア絵画かいが代表だいひょうする絵画かいがとなっていった。

ジョルジョーネさく可能かのうせいたかいとされる絵画かいが

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ Gould, 102-3. ジョルジョ・ヴァザーリの『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』の初版しょはんでは1477ねんまれで、だい2はんでは1478ねんまれとなっている。ジョルジョーネのなま没年ぼつねんかんするほか記録きろく存在そんざいしない。
  2. ^ こわ』 2007, p. 201.
  3. ^ An old art historians' jibe JSTOR
  4. ^ Teresa Pignati in Jane Martineau (ed), The Genius of Venice, 1500-1600, pp. 29-30, 1983, Royal Academy of Arts, London.
  5. ^ The Tempest
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  7. ^ Brown, D. A., Ferino Pagden, S., Anderson, J., & Berrie, B. H. (2006). Bellini, Giorgione, Titian, and the Renaissance of Venetian painting. Washington: National Gallery of Art. ISBN 0300116772 p. 42
  8. ^ Charles Hope in Jane Martineau (ed), The Genius of Venice, 1500-1600, 1983, p. 35, Royal Academy of Arts, London
  9. ^ Cecil Gould, The Sixteenth Century Italian Schools, National Gallery Catalogues, London 1975, p. 107, ISBN 0947645225
  10. ^ http://www.britannica.com/ebc/article-2710 EB online
  11. ^ Vienna, illustrated below. Described in 2007 as "a rare example of a painting still universally attributed to Giorgione" in Lucy Whitaker, Martin Clayton, The Art of Italy in the Royal Collection; Renaissance and Baroque, p.185, Royal Collection Publications, 2007, ISBN 978 1 902163 291.
  12. ^ Charles Hope in David Jaffé (ed), Titian, The National Gallery Company/Yale, p.12, London 2003, ISBN 1 857099036
  13. ^ Charles Hope in David Jaffé (ed), Titian, The National Gallery Company/Yale, p.14, London 2003, ISBN 1 857099036
  14. ^ ブル美術館ぶるびじゅつかん公式こうしきサイト Archived 2009ねん6がつ28にち, at the Wayback Machine.
  15. ^ 1996ねんのプラド美術館びじゅつかんのカタログには「つてジョルジョーネ」となっていたが、2007ねん時点じてんでティツィアーノの作品さくひんさい分類ぶんるいされて展示てんじされている Museo del Prado, Catálogo de las pinturas, 1996, p.129, Ministerio de Educación y Cultura, Madrid, No ISBN.
  16. ^ Hope in ed Jaffé, Titian, 2003, op cit,p.14. Francis Richardson, who wrote the catalogue entry for the Prado painting (no. 34) in: Jane Martineau (ed), The Genius of Venice, 1500-1600, 1983, Royal Academy of Arts, London, after considering Mancini, is one of those happy to attribute the painting to Titian. The Mancini suggestion comes originally from an German article of 1933 by J. Wilde: 'Die Probleme um Domenico Mancini', JKSW
  17. ^ John Dixon Hunt (ed), The Pastoral Landscape, National Gallery of Art, Washington, 1992, pp 146-7, ISBN 0894681818
  18. ^ NGA 2006 exhibition brochure, page 4
  19. ^ Kunthistoriches Museum 2004 exhibition website Archived 2005ねん3がつ25にち, at the Wayback Machine.
  20. ^ "his works...not a score in all" in Italian Painters of the Renaissance, 1952, (many editions). 1957ねんにはベレンソンは3てんともジョルジョーネの作品さくひんであるとして、以前いぜん反論はんろん撤回てっかいしている - see Gould op cit p.105.
  21. ^ See the Art Journal review of a major 1993 Paris exhibition, which lists some Ballarin additions to the corpus by Wendy Stedman Sheard
  22. ^ David Rosand, Painting in Sixteenth-Century Venice, 2nd edn. 1997, p. 186, n. 74; Cambridge University Press, ISBN 0521565685, For some Ballarin attributions, see previous note.

参考さんこう文献ぶんけん

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  •   この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Giorgione". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 12 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 31-33.
  • Gould, Cecil, The Sixteenth Century Italian Schools, National Gallery Catalogues, London 1975, ISBN 0947645225
  • Encyclopedia of Artists, volume 2, edited by William H.T. Vaughan, ISBN 0-19-521572-9, 2000
  • 中野なかの京子きょうここわ朝日出版社あさひしゅっぱんしゃ、2007ねんISBN 978-4-255-00399-3 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • The Complete Paintings of Giorgione. Introduction by Cecil Gould. Notes by Pietro Zampetti. NY: Harry N. Abrams. 1968.
  • Giorgione. Atti del Convegno internazionale di studio per il quinto centenario della nascita (Castelfranco Veneto 1978), Castelfranco Veneto, 1979.
  • Silvia Ferino-Pagden, Giorgione. Mythos und Enigma, Ausst. Kat. Kunsthistorisches Museum Wien, Wien, 2004.
  • Sylvia Ferino-Pagden (Hg.), Giorgione entmythisiert, Turnhout, Brepols, 2008.
  • Unglaub, Jonathan. "The Concert Champêtre: The Crises of History and the Limits of the Pastoral." Arion V no.1 (1997): 46-96.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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