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ナルシソ・イエペス - Wikipedia

ナルシソ・ガルシア・イエペス(Narciso García Yepes、1927ねん11月14にち - 1997ねん5月3にち)はスペイン出身しゅっしんギタリスト作曲さっきょく編曲へんきょくナルシソ・ジェペスとも表記ひょうきされる。

ナルシソ・イエペス
Narciso Yepes
12さいときのナルシソ・イエペス(1939ねん
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん 1927ねん11月14にち
スペインの旗 スペイン王国おうこく ロルカ
出身しゅっしん スペインの旗 スペイン バレンシア
死没しぼつ (1997-05-03) 1997ねん5月3にち(69さいぼつ
スペインの旗 スペイン ムルシアしゅう
ムルシアけん ムルシア
学歴がくれき バレンシア音楽おんがくいんそつ
マドリード音楽おんがくいんそつ
ジャンル クラシック音楽おんがく
げきとも
職業しょくぎょう ギタリスト
作曲さっきょく
担当たんとう楽器がっき クラシックギター
活動かつどう期間きかん 1940年代ねんだい - 1996ねん
著名ちょめい使用しよう楽器がっき
10げんギター

来歴らいれき

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スペインムルシア地方ちほうロルカ近郊きんこう農家のうかにてまれた。4さいときはじめてギターにれ、ロルカの音楽おんがくアカデミーでギターをまなび、そのバレンシア音楽おんがくいんすすんでギターや作曲さっきょくまなんだ。ここで、作曲さっきょくビセンテ・アセンシオ英語えいごばん教授きょうじゅおおきな影響えいきょうける。また、マドリード音楽おんがくいんでは、レヒーノ・サインス・デ・ラ・マーサにギターを師事しじした。

1947ねん12月17にち、スペイン劇場げきじょうでのスペイン国立こくりつ管弦楽かんげんがくだんていえんじコンサートにめい指揮しきしゃアタウルフォ・アルヘンタによりまねかれ、ロドリーゴアランフエス協奏曲きょうそうきょく演奏えんそうした。そのおこなわれたパリジュネーヴなどでの演奏えんそうかい成功せいこうで、イエペスのはヨーロッパちゅうわたった。

1950ねんから3年間ねんかん演奏えんそうほうをヴァイオリンのジョルジェ・エネスク、ピアノのヴァルター・ギーゼキングまなんでいる。エネスクからは、作品さくひん内部ないぶんで分析ぶんせきする方法ほうほうと、創造そうぞうてき演奏えんそう大胆だいたん忠実ちゅうじつ演奏えんそうじゅつおそわり、ギーゼキングからは、そのゆたかな器量きりょう音色ねいろかんする繊細せんさい感性かんせいりょく、そして直感ちょっかんりょく楽譜がくふまえにしての厳格げんかくさ、誠実せいじつさ、謙虚けんきょさをまなんだ。りょう巨匠きょしょう晩年ばんねんたり、とくにエネスクは病気びょうきがちであったことから、おりにふれてアドバイスをけていたものとおもわれる。

1952ねんに、パリのカフェで映画えいが監督かんとくルネ・クレマン偶然ぐうぜんい、「映画えいが自体じたいはすでにってあるが、どんな音楽おんがくをつけたらよいかめかねているので、映画えいがのための音楽おんがく担当たんとうしてほしい」と監督かんとくから依頼いらいける。当初とうしょアンドレス・セゴビア音楽おんがく担当たんとうしてもらう予定よていだったが、すでに映画えいが制作せいさくため予算よさん使つかたしており、セゴビアとは制作せいさくいがつかず、当時とうじまだ新人しんじんであったイエペスに音楽おんがく担当たんとう依頼いらいをすることとなった。 そこで、24さいのイエペスは映画えいがきんじられたあそ』の音楽おんがく編曲へんきょく構成こうせい演奏えんそうを1ほんのギターだけでおこなった。そして、その映画えいが公開こうかいされると、メインテーマきょくあいのロマンス」がだいヒットし、世界せかいてき有名ゆうめいなギタリストとなった。

それから世界せかい各地かくちでリサイタルやオーケストラとの共演きょうえんおこない、日本にっぽんにも1960ねんから1996ねんまでのあいだけい17かい訪問ほうもんした。

1964ねんからは、ホセ・ラミレス3せい共同きょうどう通常つうじょうより音域おんいきひろ10げんギター開発かいはつした。演奏えんそう軽快けいかいさが多少たしょう犠牲ぎせいになり、一部いちぶではギター音楽おんがくいて邪道じゃどうですらあるという批判ひはんもあったが、均一きんいつてき共鳴きょうめい透明とうめいたか音色ねいろは、おおくの音楽おんがく愛好あいこうれられた。

1989ねん4がつスペイン芸術げいじゅついんのサン・フェルナンド王立おうりつアカデミーの会員かいいん任命にんめいされた。これはサインス・デ・ラ・マーサ、アンドレス・セゴビアつづく3にん栄誉えいよである。

1990ねんごろに、悪性あくせいリンパ腫りんぱしゅおかされていること発覚はっかくし、1993ねんには医師いしから演奏えんそう活動かつどう中止ちゅうし忠告ちゅうこくされたが、その演奏えんそう活動かつどうつづけた。だが、1996ねん3がつサンタンデール音楽おんがくさい出演しゅつえんしたのが最後さいごのステージとなり、1997ねん5月3にちに69さい死去しきょした。

人物じんぶつ

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イエペスの信念しんねんである「芸術げいじゅつかみのほほえみである」ののもとに10げんギターで世界せかい各地かくち演奏えんそう活動かつどうしてまわったことにより、日本にっぽんはもとよりぜん世界せかい圧倒的あっとうてき人気にんきほこり、なお世界せかい各地かくちおよぼした音楽おんがくてき影響えいきょうたかさはひときわきんていた。

レパートリーのひろ[注釈ちゅうしゃく 1]も、来日らいにち回数かいすうも、追随ついずいゆるさぬものがあり、年間ねんかん120かいにもおよぶ演奏えんそうかいを30ねんちか世界せかい各地かくちおこない、録音ろくおんしたレコードの枚数まいすうも50まいえている[注釈ちゅうしゃく 2]

イエペスは心底しんそこからスペインの音楽家おんがくかであった。その本領ほんりょうは20世紀せいきのスペイン音楽おんがくにあった。それは、イサーク・アルベニスエンリケ・グラナドス音楽おんがく(すなわち編曲へんきょくもの)をのぞいて、大半たいはんがギターのオリジナル作品さくひんによってめられていた。また、かれの10げんギターによる演奏えんそうは、すべて、端正たんせい客観きゃっかんてきであり、鋭角えいかくてきであった。これは、イエペスの音楽家おんがくかとしてのポリシーと意欲いよくがもたらしたものであり、ギター音楽おんがく魅力みりょくあきらかにしつつ、けっしてそれにへんすることがなく、あくまで音楽おんがくそくしたたしかな表現ひょうげん造形ぞうけいせい特徴とくちょうでもあった。さらに、イエペスの技術ぎじゅつてき左右さゆうゆびうんゆび、また演奏えんそうじょう音楽おんがくてき展開てんかい基礎きそは、全身ぜんしん筋肉きんにくうごきを究明きゅうめいするところからはじまって、これまでにかったギターのあたらしい演奏えんそう技術ぎじゅつ進展しんてんせるものでもあった。

日本にっぽん国内こくないでの代表だいひょうてき弟子でしとして、しょうむら清志きよし芳志戸ほうしと幹雄みきお小原おはら聖子せいこがいる。

イエペスには数々かずかず栄誉えいよあたえられており、代表だいひょうてきなものとしてムルシア大学だいがく名誉めいよ博士はかせごうイサベル・ラ・カトリカじゅうあきら英語えいごばん、スペイン国王こくおうから芸術げいじゅつ功労こうろうきんメダル、スペイン文化ぶんかしょうからスペイン音楽おんがく大賞たいしょう、スペイン作曲さっきょく協会きょうかいしょう国営こくえいテレビ局てれびきょく大賞たいしょうとうがある。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ バッハのリュート組曲くみきょくにおけるバロック・リュート演奏えんそうテレサ・ベルガンサとのうた伴奏ばんそう世界せかい各地かくちのオーケーストラとのギターコンチェルトによる共演きょうえんフェルナンド・ソル練習れんしゅうきょくしゅう演奏えんそう、カタルーニャ地方ちほう民謡みんようあつめたきょくしゅう演奏えんそう、ラテンけい近代きんだい現代げんだい作曲さっきょく作品さくひんの10げんギターによる演奏えんそう弟子でしのモンダンとの二重奏にじゅうそう、「トリオ・イエペス」による親子おやこ共演きょうえん、など。
  2. ^ 1967ねんから1989ねんまではドイツ・グラモフォン専属せんぞくであった。

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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