パンプローナはナバーラ州 しゅう の中央 ちゅうおう 部 ぶ に位置 いち し、パンプローナ盆地 ぼんち として知 し られる円形 えんけい の盆地 ぼんち の中 なか にある。パンプローナは東西 とうざい と南北 なんぼく の道路 どうろ が交差 こうさ する十字路 じゅうじろ にあり、北部 ほくぶ と南部 なんぶ で大 おお きく自然 しぜん 景観 けいかん をつなぐ通商 つうしょう 路 ろ となってきた。
パンプローナの歴史 れきし 地区 ちく は、エブロ川 がわ 支流 しりゅう のアルガ川 がわ 右岸 うがん にある。今日 きょう の市街地 しがいち はアルガ川 がわ の両 りょう 岸 きし に広 ひろ がっている。気候 きこう は、大陸 たいりく 性 せい 地中海 ちちゅうかい 気候 きこう (en )の影響 えいきょう を受 う けた海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう で、年間 ねんかん 平均 へいきん 気温 きおん は12.6℃である。
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
計 けい
平均 へいきん 気温 きおん (°C)
5.2
5.5
9.4
10.9
16.3
17.7
21.2
21.8
19.2
14
6.3
4.8
12.6
アルガ川 がわ に架 か かるマグダレーナ橋 きょう
紀元前 きげんぜん 75年 ねん から74年 ねん にかけての冬 ふゆ 、一帯 いったい は共和 きょうわ 政 せい ローマ の将軍 しょうぐん ポンペイウス がセルトリウス との争 あらそ いの中 なか で駐屯 ちゅうとん 地 ち とした。彼 かれ はポンパエロ(Pompaelo)の創設 そうせつ 者 しゃ とみなされている[2] 。ポンパエロが現代 げんだい スペイン語 ご でパンプローナとなった。ここは、ローマ人 じん がやってきた頃 ころ に既 すで に一帯 いったい に住 す んでいたヴァスコン人 じん (en 、バスク人 じん の祖先 そせん とされる)の主要 しゅよう な町 まち で、彼 かれ らは町 まち を、都市 とし を意味 いみ する言葉 ことば 『イルーニャ』(Iruña)と呼 よ んだ。ローマ都市 とし ポンパエロは属 ぞく 州 しゅう ヒスパニア・タラコネンシス に含 ふく まれ、ブルディガラ(現在 げんざい のボルドー )からアストゥリカ(現在 げんざい のアストルガ )へと至 いた る道 みち の途上 とじょう にあった[3] 。それはカエサラウグスタ(現在 げんざい のサラゴサ )の属 ぞく 州 しゅう 州都 しゅうと の管轄 かんかつ 区域 くいき にある都市 とし だった[4] 。ポンパエロはローマ属 ぞく 州 しゅう ヒスパニアの目立 めだ った都市 とし とはいままでみなされず、最近 さいきん の考古学 こうこがく 発掘 はっくつ 物 ぶつ が高 たか い内容 ないよう の文化 ぶんか の発展 はってん を公 おおや けにした。
ロ ろ ーマ帝国 まていこく の衰退 すいたい 後 ご 、4世紀 せいき から8世紀 せいき に西 にし ゴート王国 おうこく が栄 さか えた時代 じだい には、西 にし ゴート族 ぞく がポンパエロを管理 かんり 下 か においていたとすればもっともだが、おそらく断続 だんぞく 的 てき な支配 しはい だけだったのだろう。パンプローナの要塞 ようさい 化 か された都市 とし は、土着 どちゃく のヴァスコン人 じん が独立 どくりつ を保 たも っていた。それは、数 すう 名 めい のパンプローナ人 じん 司教 しきょう がトレド教会 きょうかい 会議 かいぎ に出席 しゅっせき していたことでも知 し られていた。
8世紀 せいき 、モーロ人 じん とフランク族 ぞく が断続 だんぞく 的 てき に市 し を支配 しはい 下 か に置 お いた。732年 ねん 、アブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー (英語 えいご 版 ばん ) がピレネーを越 こ えてトゥール・ポワティエ間 あいだ の戦 たたか い で敗北 はいぼく した。この曖昧 あいまい な時代 じだい に最 もっと もよく知 し られる挿話 そうわ は、カール大帝 たいてい が778年 ねん にサラゴサ遠征 えんせい を失敗 しっぱい した後 のち 、パンプローナの市 し 壁 かべ を破壊 はかい したことである。彼 かれ はその直後 ちょくご に有名 ゆうめい なロンスヴォーの戦 たたか い で敗北 はいぼく したのである。8世紀 せいき 終 お わり、パンプローナとその影響 えいきょう を受 う け動揺 どうよう する一帯 いったい は、2つの強力 きょうりょく な国家 こっか 、フランク王国 おうこく と後 こう ウマイヤ朝 あさ の間 あいだ にあった。しかしこの2つはバスク地方 ちほう を恒久 こうきゅう 的 てき に支配 しはい することが確実 かくじつ でなかったと証明 しょうめい された。この錯綜 さくそう は、バスク人 じん 貴族 きぞく の内部 ないぶ 紛争 ふんそう も反映 はんえい していた。ついに、824年 ねん にイニーゴ・アリスタ (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) がパンプローナ王 おう (のちにナバーラ王 おう ) として即位 そくい した。この王国 おうこく は、弱体 じゃくたい 化 か したフランク王国 おうこく とコルドバ の太守 たいしゅ 国 こく からその独立 どくりつ を強化 きょうか した。それにもかかわらず、この時代 じだい のパンプローナは都市 とし として繁栄 はんえい せず、ちょうど要塞 ようさい の一種 いっしゅ であった。
11世紀 せいき から復活 ふっかつ した経済 けいざい 成長 せいちょう がパンプローナの都市 とし 生活 せいかつ を回復 かいふく させた。歴代 れきだい のパンプローナ司教 しきょう たちは、教会 きょうかい 内 ない の指導 しどう 者 しゃ 的 てき 役割 やくわり に復帰 ふっき した。かつて数 すう 世紀 せいき 間 あいだ 孤立 こりつ していた修道院 しゅうどういん 、特 とく にレイレ修道院 しゅうどういん は実際 じっさい に宗教 しゅうきょう の権力 けんりょく を持 も っていた。サンティアゴの巡礼 じゅんれい 路 ろ が、ピレネー山脈 さんみゃく を越 こ えてやってくるヨーロッパのキリスト教徒 きりすときょうと と商業 しょうぎょう ・文化 ぶんか のやりとりを復活 ふっかつ させるのに多大 ただい に貢献 こうけん した。12世紀 せいき 、パンプローナは2つの分離 ぶんり されたブルゴス(独立 どくりつ した自治体 じちたい )を持 も つ都市 とし に拡大 かくだい した。サン・セルニン(San Cernin)とサン・ニコラス(San Nicolás)は、地元 じもと ナバーラ人 じん の定住 ていじゅう 者 しゃ に加 くわ えフランス人 じん 商人 しょうにん と職人 しょくにん の流入 りゅうにゅう によって膨張 ぼうちょう した。パンプローナ旧 きゅう 市街 しがい と、新 しん ブルゴスはほぼ常 つね に両者 りょうしゃ の間 あいだ で起 お こる紛争 ふんそう で忙 いそが しかった。最 もっと も劇的 げきてき な事件 じけん は、1276年 ねん に起 お きたブルゴス住民 じゅうみん によるナバーラ人 じん 居住 きょじゅう 区 く の破壊 はかい と住民 じゅうみん の虐殺 ぎゃくさつ である。この凄惨 せいさん な出来事 できごと の場所 ばしょ は以後 いご ほぼ50年間 ねんかん 打 う ち捨 す てられていた。ナバーラ王 おう カルロス3世 せい は、1423年 ねん にブルゴスを統合 とうごう して1つの都市 とし とする法令 ほうれい を発 はっ した。
カスティージョ広場 ひろば
1512年 ねん のカスティーリャ王国 おうこく による軍事 ぐんじ 侵攻 しんこう の際 さい 、敗北 はいぼく したナバーラ王 らおう フアン3世 せい はフランスへ逃亡 とうぼう 、その後 ご 奪回 だっかい はことごとく失敗 しっぱい してしまった。ナバーラで開催 かいさい されたコルテス は、ナバーラの自治 じち 権 けん と独自 どくじ 性 せい の維持 いじ を条件 じょうけん に、併合 へいごう を受 う け入 い れた。以後 いご 、パンプローナは名目 めいもく 上 じょう のナバーラ王国 おうこく の首都 しゅと であり続 つづ けた。パンプローナは、ピレネーの軍事 ぐんじ 防衛 ぼうえい における鍵 かぎ の役割 やくわり を得 え たのである。市 し の南側 みなみがわ は弱 よわ く、ナバーラ王 おう ルイス1世 せい (フランス王 おう ルイ10世 せい )は14世紀 せいき 初頭 しょとう にこの地 ち に城 しろ を建設 けんせつ した。これが現在 げんざい 知 し られているカスティーリョ広場 ひろば である。カスティーリャによる併合 へいごう 後 ご 、フェルナンド5世 せい は1513年 ねん に、中世 ちゅうせい の城 しろ と非常 ひじょう に近接 きんせつ した場所 ばしょ にある新 あたら しい城 しろ の廃棄 はいき を命 めい じた。しかし、大砲 たいほう の進化 しんか が要塞 ようさい 化 か システムの完全 かんぜん な刷新 さっしん を要求 ようきゅう した。フェリペ2世 せい は市 し 南側 みなみがわ に星 ほし 型 がた 要塞 ようさい の建物 たてもの 建設 けんせつ と、全 すべ ての城壁 じょうへき の現代 げんだい 化 か を命 めい じた。16世紀 せいき 終 お わりから18世紀 せいき にかけて建 た てられた城壁 じょうへき は現在 げんざい も残 のこ っている。
18世紀 せいき の間 あいだ 、パンプローナは相当 そうとう に美化 びか され都市 とし サービスが改善 かいぜん された。途 と 切 き れのない上水道 じょうすいどう が完備 かんび され、その他 た の強化 きょうか に混 ま じって通 とお りが舗装 ほそう された。裕福 ゆうふく な貴族 きぞく と商人 しょうにん も自分 じぶん たちの邸宅 ていたく を建 た てた。19世紀 せいき 、この要塞 ようさい 化 か 都市 とし はスペインが巻 ま き込 こ まれた幾多 いくた の戦争 せんそう で重要 じゅうよう な役割 やくわり を担 にな った。スペイン独立 どくりつ 戦争 せんそう では、フランス 軍 ぐん が1808年 ねん にパンプローナを占領 せんりょう し、1813年 ねん まで駐留 ちゅうりゅう していた。カルリスタ戦争 せんそう (1833年 ねん -1839年 ねん 、1872年 ねん -1876年 ねん )では、パンプローナはそのたびごとに自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ らに管理 かんり された。一部 いちぶ のナバーラの自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ が主 おも にパンプローナに住 す んでいたからではなく、政府 せいふ が支配 しはい する要塞 ようさい 都市 とし だったからである。カルリスタが田舎 いなか ほどたやすく支配 しはい したけれども、政府 せいふ 軍 ぐん はナバーラの城壁 じょうへき に囲 かこ まれた都市 とし を支配 しはい するのに何 なに の問題 もんだい もなかった。それにもかかわらず、カルリスタ戦争 せんそう の末期 まっき には、現代 げんだい 的 てき な大砲 たいほう は、古 ふる い城壁 じょうへき がより強 つよ い敵 てき と対峙 たいじ するのに十分 じゅうぶん でなかったことを示 しめ す、周囲 しゅうい の山地 さんち からカルリスタによって操作 そうさ された。そして、政府 せいふ はパンプローナ北 きた 3kmのサン・クリストバル山 さん の頂上 ちょうじょう に、サン・クリストバル砦 とりで の建設 けんせつ を決 き めた。
サン・クリストーバル砦 とりで の北側 きたがわ
軍事 ぐんじ 的 てき な役割 やくわり のため、市 し はベルトのように取 と り巻 ま く城壁 じょうへき の外 そと へ拡張 かくちょう することはできなかった。さらに、城壁 じょうへき に近接 きんせつ する一帯 いったい の建物 たてもの は、攻囲 こうい 軍 ぐん のためどんな利益 りえき も避 さ けるよう禁 きん じられた。市 し は住宅 じゅうたく 密集 みっしゅう 地 ち の増加 ぞうか によってのみ成長 せいちょう したのだった。高 たか く狭 せま い住宅 じゅうたく が建 た てられ、田園 でんえん 地帯 ちたい は次第 しだい に失 うしな われた。19世紀 せいき 、道路 どうろ 輸送 ゆそう が改善 かいぜん され、1860年 ねん には鉄道 てつどう がつながった。それにもかかわらず、パンプローナの産業 さんぎょう はナバーラ全体 ぜんたい と同様 どうよう に産業 さんぎょう 革命 かくめい の間 あいだ 弱々 よわよわ しかった。いずれにせよ、閉 と じこめられた要塞 ようさい 都市 とし ではなんの産業 さんぎょう の発展 はってん も実行 じっこう しそうもなかった。
星 ほし 型 がた 要塞 ようさい のわずかな修正 しゅうせい が1888年 ねん に6区画 くかく 拡張 かくちょう するのが許可 きょか された後 のち 、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん はパンプローナの強化 きょうか システムが既 すで に廃 すた れていたことを論証 ろんしょう した。1915年 ねん 、軍 ぐん は城壁 じょうへき の破壊 はかい を許可 きょか し、市 し 周囲 しゅうい の建物 たてもの 制限 せいげん を廃止 はいし した。壁 かべ の南側 みなみがわ は破壊 はかい され、その他 た の三 さん 方 ぽう は都市 とし の成長 せいちょう を妨 さまた げないよう残 のこ された。星 ほし 型 がた 要塞 ようさい は1964年 ねん まで軍事 ぐんじ 設備 せつび として使用 しよう され続 つづ けたが、それは兵舎 へいしゃ としてだった。
人口 じんこう の伸 の び(1900年 ねん -2005年 ねん )
軍事 ぐんじ 的 てき 機能 きのう から解放 かいほう され、パンプローナは特 とく に20世紀 せいき 初頭 しょとう のナバーラ地方 ちほう が経験 けいけん した工業 こうぎょう 化 か と現代 げんだい 化 か の過程 かてい をリードした。都市 とし 化 か は工業 こうぎょう とサービス業 ぎょう の発展 はってん によって伴 ともな われた。人口 じんこう 増加 ぞうか は1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい の、地方 ちほう からの強烈 きょうれつ な流入 りゅうにゅう の影響 えいきょう である。ナバーラ地方 ちほう の田舎 いなか のみならず、発展 はってん の進 すす まないカスティーリャ・イ・レオン地方 ちほう やアンダルシア地方 ちほう からの移民 いみん が主 おも であった。1990年代 ねんだい からは、海外 かいがい からスペインへ移住 いじゅう してきた人々 ひとびと が主 おも である。1975年 ねん にフランシスコ・フランコ が死去 しきょ して民主 みんしゅ 化 か が進 すす められると、パンプローナは1982年 ねん に誕生 たんじょう したナバーラ州 しゅう の州都 しゅうと となった。
パンプローナは、生活 せいかつ 水準 すいじゅん とクオリティ・オブ・ライフ がスペインで高 たか い都市 とし の一 ひと つである[5] 。犯罪 はんざい 統計 とうけい は国内 こくない 平均 へいきん より低 ひく いが、公共 こうきょう 料金 りょうきん 特 とく に住宅 じゅうたく が相対 そうたい 的 てき に高 たか い [6] 。都市 とし の小 ちい ささと公共 こうきょう 交通 こうつう のアクセスの良 よ さのため、目立 めだ った交通 こうつう 問題 もんだい はない。政治 せいじ については、バスク愛国 あいこく 主義 しゅぎ の対立 たいりつ に強 つよ く影響 えいきょう されている。
サン・フェルミン祭 さい の光景 こうけい 。
ヨーロッパ諸国 しょこく の他 た 都市 とし のように、旧 きゅう 市街 しがい (Casco Viejo)と呼 よ ばれる部分 ぶぶん と新 しん 市街 しがい との区別 くべつ が容易 ようい である。旧 きゅう 市街 しがい の最 もっと も古 ふる い部分 ぶぶん はナバレリーア(Navarrería)といい、ローマ時代 じだい の都市 とし と一致 いっち する。12世紀 せいき 、サン・セルニン地区 ちく とサン・ニコラス地区 ちく ができた。カルロス3世 せい は1423年 ねん にこれら3地区 ちく を統合 とうごう して1つの自治体 じちたい とした。
19世紀 せいき 終 お わりまで市街地 しがいち のさらなる拡張 かくちょう はされなかった。1888年 ねん 、星 ほし 型 がた 要塞 ようさい の少々 しょうしょう の修正 しゅうせい が許可 きょか されたが、6区画 くかく の建物 たてもの が許可 きょか されただけだった。これは最初 さいしょ の拡張 かくちょう (I Ensanche)と呼 よ ばれた。南側 みなみがわ の城壁 じょうへき は1915年 ねん に破壊 はかい され、第 だい 二 に の拡張 かくちょう (II Ensanche)が計画 けいかく された。この計画 けいかく は、バルセロナのアシャンプラ のためイルデフォンソ・セルダ が設計 せっけい した碁盤 ごばん の目 め 型 がた プランによるものだった。区画 くかく は1820年代 ねんだい から1850年代 ねんだい にかけ建設 けんせつ された。広 ひろ く普及 ふきゅう したモデル住宅 じゅうたく は、5階 かい から8階 かい まである共同 きょうどう 住宅 じゅうたく であった。
スペイン内戦 ないせん 後 ご 、パンプローナの3つの新 しん 地区 ちく が成長 せいちょう し始 はじ めた。ロチャペア、ミラグロサ、チャントレアである。チャントレアだけが近郊 きんこう に計画 けいかく され、ロチャペアとミラグロサは無秩序 むちつじょ に成長 せいちょう した。1957年 ねん 、パンプローナ市 し は最初 さいしょ の総合 そうごう 整理 せいり 計画 けいかく を企画 きかく し、さらなる都市 とし 発展 はってん のガイドラインを確立 かくりつ した。これによると、1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい にはサン・フアン、イトゥラマ、サン・ホルヘ、エチャバコイス、オルビナといった新 あら たな住宅 じゅうたく 地区 ちく が創設 そうせつ された。
パンプローナの都市 とし 成長 せいちょう は、市 し の行政 ぎょうせい 上 じょう の限界 げんかい をしのぎ、バラニャイン、ブルラダ、ヴィジャバ、アンソアイン、ベリオサル、ノアイン、ウアルテ、といった自治体 じちたい を巻 ま き込 こ んで広域 こういき 都市 とし 圏 けん を形成 けいせい した。1980年代 ねんだい から1990年代 ねんだい 、新 あら たな住宅 じゅうたく 地区 ちく が生 う まれた。アスピラガニャ、メンデバルデア、メンディヨリである。ロチャペアは完全 かんぜん に一新 いっしん された。これらの新 しん 住宅 じゅうたく 地区 ちく の都市 とし 化 か はスペイン国内 こくない の州都 しゅうと と非常 ひじょう によく似 に ており、1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい に極度 きょくど の経済 けいざい 成長 せいちょう を経験 けいけん していることも同 おな じだった。碁盤 ごばん の目 め プランは付 つ け加 くわ えられなかったことから、都市 とし 化 か はあらかじめ設計 せっけい され、共同 きょうどう 住宅 じゅうたく の建物 たてもの はより高層 こうそう 化 か した。6階 かい より低 ひく くなることはなく、多 おお くが10階 かい 以上 いじょう 、20階 かい のものもあった。以前 いぜん は住宅 じゅうたく と共存 きょうぞん していた工場 こうじょう は、工業 こうぎょう 団地 だんち へ移転 いてん した(最古 さいこ で唯一 ゆいいつ パンプローナの自治体 じちたい 圏内 けんない にあるのはランダベンである)。
近年 きんねん 、単身 たんしん か二 に 人 にん 程度 ていど の世帯 せたい が暮 く らす住宅 じゅうたく 地区 ちく が都市 とし 圏 けん に増 ふ えている。シスル・マヨル、シスル、アランフレン、エグエス、ハラル、ベリオプラノ、アルスサである。新 あら たな住宅 じゅうたく 地区 ちく は、ブツティンチュリ、レスカイル、エグエスではビルになった。共同 きょうどう 住宅 じゅうたく の建物 たてもの はこれらの地区 ちく にあり、概 がい して低層 ていそう 住宅 じゅうたく で6階 かい 以上 いじょう のものはないが緑地 りょくち が豊富 ほうふ である。
パンプローナは、数 すう 十 じゅう 年 ねん の間 あいだ に小 ちい さな行政 ぎょうせい 上 じょう の田舎 いなか の町 まち から、中規模 ちゅうきぼ の工業 こうぎょう とサービス業 ぎょう の都市 とし へ転換 てんかん した。工業 こうぎょう は、最 さい 重要 じゅうよう のものが自動車 じどうしゃ 産業 さんぎょう 関連 かんれん で、多種 たしゅ 多様 たよう である。フォルクスワーゲン はランダベンの工場 こうじょう でフォルクスワーゲン・ポロ を生産 せいさん し、フォルクスワーゲンや他 た 会社 かいしゃ のため稼働 かどう する補助 ほじょ 工場 こうじょう を多 おお く持 も つ。その他 た の顕著 けんちょ な産業 さんぎょう は、建築 けんちく 材料 ざいりょう 、金属 きんぞく 加工 かこう 、食品 しょくひん 加工 かこう である。継続 けいぞく できるエネルギー科学 かがく 技術 ぎじゅつ は、風力 ふうりょく 原動機 げんどうき と風力 ふうりょく 発電 はつでん があり、近隣 きんりん のバリェ・デ・エグエス/エグエシバル は国立 こくりつ 再生 さいせい 可能 かのう エネルギーセンター(スペイン語 ご 版 ばん ) (CENER)と、再生 さいせい 可能 かのう エネルギーの開発 かいはつ を行 おこな っているアクシオナ・エネルヒア の所在地 しょざいち である。
パンプローナはナバーラの商業 しょうぎょう 取引 とりひき とサービス業 ぎょう の中心 ちゅうしん 地 ち である。ナバーラ大学 だいがく とナバーラ大学 だいがく 付属 ふぞく 病院 びょういん は、私学 しがく 教育 きょういく と健康 けんこう サービスを国内 こくない に幅広 はばひろ く、そして国際 こくさい 的 てき にも提供 ていきょう している。
パンプローナは近隣 きんりん のサラゴサ とをA-15、サン・セバスティアン =ドノスティアとをA-15、ビトリア=ガステイス とをA-10、ログローニョ とをA-12の各 かく 高速 こうそく 道路 どうろ が結 むす ぶ。
2007年 ねん からバスが新 あら たなバス・ステーションで運営 うんえい されている。パンプローナ空港 くうこう は、マドリード やバルセロナ への路線 ろせん がある[9] 。鉄道 てつどう 路線 ろせん はレンフェ (スペイン国鉄 こくてつ )が運営 うんえい し、マドリード、サラゴサ、スペイン北部 ほくぶ とつながっている。高速 こうそく 鉄道 てつどう AVE はサラゴサ、マドリードとつながっている。新 あら たな鉄道 てつどう 駅 えき が市 し 南部 なんぶ で建設 けんせつ 中 ちゅう である。公営 こうえい バスには20の平日 へいじつ 路線 ろせん と9の夜間 やかん 路線 ろせん がある。トラムについては議論 ぎろん が重 かさ ねられている。
サンタ・マリーア・デ・パンプローナ大 だい 聖堂 せいどう
市内 しない にある数カ所 すうかしょ の教会 きょうかい は、ほとんどが16世紀 せいき から18世紀 せいき にかけ要塞 ようさい 化 か が進 すす められた時代 じだい に建 た てられた。その他 た 公共 こうきょう の建築 けんちく 物 ぶつ はパンプローナ芸術 げいじゅつ 歴史 れきし 遺産 いさん に属 ぞく している。
パンプローナがかつて継続 けいぞく して軍事 ぐんじ 都市 とし であったことから、市 し 壁 かべ 四方 しほう のうち三 さん 方 ぽう が、わずかな修正 しゅうせい のうえシウダデラもしくは星 ほし 型 がた 要塞 ようさい が残 のこ っている。中世 ちゅうせい の構造 こうぞう 全 すべ ては大砲 たいほう を用 もち いた攻 おさむ 城 しろ 戦 せん に抵抗 ていこう する手段 しゅだん として交換 こうかん された。現代 げんだい の戦争 せんそう に向 む かず完全 かんぜん に廃 すた れ、かつての軍事 ぐんじ 施設 しせつ は公園 こうえん として現在 げんざい 利用 りよう されている。
現存 げんそん する最古 さいこ の公共 こうきょう 建築 けんちく 物 ぶつ は、14世紀 せいき に建 た てられたもので、16世紀 せいき から19世紀 せいき までカマラ・デ・コンプトス(Cámara de Comptos、ナバーラ王国 おうこく の自治 じち 的 てき な会計 かいけい 検査 けんさ 部局 ぶきょく )として使用 しよう された。アルガ川 がわ に架 か かる中世 ちゅうせい の橋 はし がいくつかある。サンタ・エングラシア橋 きょう 、ミルセ橋 きょう 、マグダレナ橋 きょう 、サン・ペドロ橋 きょう である。サン・ペドロ宮殿 きゅうでん は、歴代 れきだい のナバーラ王 おう とパンプローナ司教 しきょう によって変 か わりながら使用 しよう された。この宮殿 きゅうでん は近代 きんだい 初期 しょき にはスペイン王国 おうこく 副 ふく 王 おう の宮殿 きゅうでん となり、後 のち にはナバーラの軍事 ぐんじ 総督 そうとく 府 ふ が置 お かれた。スペイン内戦 ないせん 以後 いご 、宮殿 きゅうでん は廃墟 はいきょ と化 か し、近年 きんねん になってナバラ総合 そうごう 公文書 こうぶんしょ 館 かん として再建 さいけん された。
自治体 じちたい 庁舎 ちょうしゃ 正面 しょうめん のバルコニー
最 もっと も人目 ひとめ を引 ひ くバロック様式 ようしき の公共 こうきょう 建築 けんちく は、18世紀 せいき からある自治体 じちたい 庁舎 ちょうしゃ 、司教 しきょう 館 かん 、フアン・エル・バウティスタ神学校 しんがっこう 、ロサレホ邸 てい 、エスペラタ邸 てい (現在 げんざい 音楽 おんがく 学校 がっこう )、ナバーロ=タファラ邸 てい (バスク愛国 あいこく 運動 うんどう の事務所 じむしょ )である。ナバーラ州 しゅう 政府 せいふ は庁舎 ちょうしゃ として新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ 建築 けんちく のナバーラ宮殿 きゅうでん を19世紀 せいき に建 た てた。
19世紀 せいき 終 お わりと20世紀 せいき 初頭 しょとう 、パンプローナの建築 けんちく はその他 た の重要 じゅうよう なスペイン諸 しょ 都市 とし のなかで十分 じゅうぶん に発達 はったつ し、その趣向 しゅこう を見 み せていた。1912年 ねん 完成 かんせい のラ・アグリコラなど、いくつかの共同 きょうどう 住宅 じゅうたく はいくらか内気 うちき な近代 きんだい 主義 しゅぎ 装飾 そうしょく がされている。20世紀 せいき に最 もっと も知 し られたパンプローナの建築 けんちく 家 か は、ビクトル・エウサで、彼 かれ はヨーロッパの印象 いんしょう 主義 しゅぎ やアヴァンギャルド運動 うんどう に影響 えいきょう された設計 せっけい をした。
パンプローナは多 おお くの公園 こうえん と緑地 りょくち を持 も つ。最古 さいこ のものはタコネラ公園 こうえん で、17世紀 せいき の設計 せっけい である。タコネラは舗装 ほそう された小道 こみち 、美 うつく しく配置 はいち された花壇 かだん 、彫刻 ちょうこく のあるロマンティックな公園 こうえん である。
メディナ・ルナ公園 こうえん は市 し の第 だい 二 に の拡張 かくちょう の一部 いちぶ として建設 けんせつ された。市 し の北部 ほくぶ を見渡 みわた せ、くつろいで散策 さんさく できるよう計画 けいかく された。非 ひ 武装 ぶそう 化 か の後 のち 、シウダデラと周辺 しゅうへん 地区 ちく は広大 こうだい な芝生 しばふ と現代 げんだい 彫刻 ちょうこく のある公園 こうえん 地区 ちく に転 てん じた。
新 あら たにできた近隣 きんりん の公園 こうえん で顕著 けんちょ な物 もの は、イトゥラマとエルミタガニャの間 あいだ にあるヤマグチ公園 こうえん で、小 ちい さな日本 にっぽん 庭園 ていえん がある。ナバーラ大学 だいがく のキャンパス、チャントレアにあるムンド公園 こうえん 、アルガ公園 こうえん も同様 どうよう に目 め を引 ひ くものである。
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