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パンプローナ - Wikipedia

パンプローナスペイン: Pamplona)またはイルーニャバスク: IruñaまたはIruñea)は、スペインナバーラしゅうムニシピオ基礎きそ自治体じちたい)。ナバーラしゅう州都しゅうとである。かつてはナバーラ王国おうこく首都しゅとだった。

Pamplona / Iruña

{{{市旗説明}}}   {{{市章説明}}}


しゅう  ナバーラしゅう
けん  ナバーラけん
面積めんせき 25.24 km² [1]
標高ひょうこう 446m
人口じんこう 205,762 にん (2023ねん[1]
人口じんこう密度みつど 7,841.61 [1] ひと/km²
言語げんご地域ちいき カスティーリャバスク
自治体じちたい首長しゅちょう
(2011ねん)
ホセバ・アシロン(EH Bildu 2023
Pamplona / Iruñaの位置(スペイン内)
Pamplona / Iruña
Pamplona / Iruña
スペインないパンプローナの位置いち
Pamplona / Iruñaの位置(ナバーラ州内)
Pamplona / Iruña
Pamplona / Iruña
ナバーラ県内けんないパンプローナの位置いち

北緯ほくい4249ふん06びょう 西経せいけい138ふん39びょう / 北緯ほくい42.81833 西経せいけい1.64417 / 42.81833; -1.64417座標ざひょう: 北緯ほくい4249ふん06びょう 西経せいけい138ふん39びょう / 北緯ほくい42.81833 西経せいけい1.64417 / 42.81833; -1.64417

毎年まいとし7がつ6にちから14にちにはサン・フェルミンさい牛追うしおまつり)が開催かいさいされる。アーネスト・ヘミングウェイ長編ちょうへん小説しょうせつはまたのぼ』のおも舞台ぶたいである。

パンプローナはナバーラしゅう中央ちゅうおう位置いちし、パンプローナ盆地ぼんちとしてられる円形えんけい盆地ぼんちなかにある。パンプローナは東西とうざい南北なんぼく道路どうろ交差こうさする十字路じゅうじろにあり、北部ほくぶ南部なんぶおおきく自然しぜん景観けいかんをつなぐ通商つうしょうとなってきた。

パンプローナの歴史れきし地区ちくは、エブロがわ支流しりゅうアルガがわ右岸うがんにある。今日きょう市街地しがいちはアルガがわりょうきしひろがっている。気候きこうは、大陸たいりくせい地中海ちちゅうかい気候きこうen)の影響えいきょうけた海洋かいようせい気候きこうで、年間ねんかん平均へいきん気温きおんは12.6℃である。

1がつ 2がつ 3がつ 4がつ 5月 6がつ 7がつ 8がつ 9月 10月 11月 12月 けい
平均へいきん気温きおん (°C) 5.2 5.5 9.4 10.9 16.3 17.7 21.2 21.8 19.2 14 6.3 4.8 12.6

都市とし誕生たんじょうとローマ

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アルガがわかるマグダレーナきょう

紀元前きげんぜん75ねんから74ねんにかけてのふゆ一帯いったい共和きょうわせいローマ将軍しょうぐんポンペイウスセルトリウスとのあらそいのなか駐屯ちゅうとんとした。かれはポンパエロ(Pompaelo)の創設そうせつしゃとみなされている[2]。ポンパエロが現代げんだいスペインでパンプローナとなった。ここは、ローマじんがやってきたころすで一帯いったいんでいたヴァスコンじんenバスクじん祖先そせんとされる)の主要しゅようまちで、かれらはまちを、都市とし意味いみする言葉ことば『イルーニャ』(Iruña)とんだ。ローマ都市としポンパエロはぞくしゅうヒスパニア・タラコネンシスふくまれ、ブルディガラ(現在げんざいボルドー)からアストゥリカ(現在げんざいアストルガ)へといたみち途上とじょうにあった[3]。それはカエサラウグスタ(現在げんざいサラゴサ)のぞくしゅう州都しゅうと管轄かんかつ区域くいきにある都市としだった[4]。ポンパエロはローマぞくしゅうヒスパニアの目立めだった都市としとはいままでみなされず、最近さいきん考古学こうこがく発掘はっくつぶつたか内容ないよう文化ぶんか発展はってんおおやけにした。

中世ちゅうせい初期しょき

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マ帝国まていこく衰退すいたい、4世紀せいきから8世紀せいき西にしゴート王国おうこくさかえた時代じだいには、西にしゴートぞくがポンパエロを管理かんりにおいていたとすればもっともだが、おそらく断続だんぞくてき支配しはいだけだったのだろう。パンプローナの要塞ようさいされた都市としは、土着どちゃくのヴァスコンじん独立どくりつたもっていた。それは、すうめいのパンプローナじん司教しきょうトレド教会きょうかい会議かいぎ出席しゅっせきしていたことでもられていた。

8世紀せいきモーロじんフランクぞく断続だんぞくてき支配しはいいた。732ねんアブドゥル・ラフマーン・アル・ガーフィキー英語えいごばんがピレネーをえてトゥール・ポワティエあいだたたか敗北はいぼくした。この曖昧あいまい時代じだいもっともよくられる挿話そうわは、カール大帝たいていが778ねんにサラゴサ遠征えんせい失敗しっぱいしたのち、パンプローナのかべ破壊はかいしたことである。かれはその直後ちょくご有名ゆうめいロンスヴォーのたたか敗北はいぼくしたのである。8世紀せいきわり、パンプローナとその影響えいきょう動揺どうようする一帯いったいは、2つの強力きょうりょく国家こっかフランク王国おうこくこうウマイヤあさあいだにあった。しかしこの2つはバスク地方ちほう恒久こうきゅうてき支配しはいすることが確実かくじつでなかったと証明しょうめいされた。この錯綜さくそうは、バスクじん貴族きぞく内部ないぶ紛争ふんそう反映はんえいしていた。ついに、824ねんイニーゴ・アリスタスペインばん英語えいごばんパンプローナおう(のちにナバーラおうとして即位そくいした。この王国おうこくは、弱体じゃくたいしたフランク王国おうこくコルドバ太守たいしゅこくからその独立どくりつ強化きょうかした。それにもかかわらず、この時代じだいのパンプローナは都市としとして繁栄はんえいせず、ちょうど要塞ようさい一種いっしゅであった。

3つのブルゴスと1つの都市とし

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11世紀せいきから復活ふっかつした経済けいざい成長せいちょうがパンプローナの都市とし生活せいかつ回復かいふくさせた。歴代れきだいのパンプローナ司教しきょうたちは、教会きょうかいない指導しどうしゃてき役割やくわり復帰ふっきした。かつてすう世紀せいきあいだ孤立こりつしていた修道院しゅうどういんとくレイレ修道院しゅうどういん実際じっさい宗教しゅうきょう権力けんりょくっていた。サンティアゴの巡礼じゅんれいが、ピレネー山脈さんみゃくえてやってくるヨーロッパのキリスト教徒きりすときょうと商業しょうぎょう文化ぶんかのやりとりを復活ふっかつさせるのに多大ただい貢献こうけんした。12世紀せいき、パンプローナは2つの分離ぶんりされたブルゴス(独立どくりつした自治体じちたい)を都市とし拡大かくだいした。サン・セルニン(San Cernin)とサン・ニコラス(San Nicolás)は、地元じもとナバーラじん定住ていじゅうしゃくわえフランスじん商人しょうにん職人しょくにん流入りゅうにゅうによって膨張ぼうちょうした。パンプローナきゅう市街しがいと、しんブルゴスはほぼつね両者りょうしゃあいだこる紛争ふんそういそがしかった。もっと劇的げきてき事件じけんは、1276ねんきたブルゴス住民じゅうみんによるナバーラじん居住きょじゅう破壊はかい住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつである。この凄惨せいさん出来事できごと場所ばしょ以後いごほぼ50年間ねんかんてられていた。ナバーラおうカルロス3せいは、1423ねんにブルゴスを統合とうごうして1つの都市としとする法令ほうれいはっした。

 
カスティージョ広場ひろば

城塞じょうさい都市とし

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1512ねんカスティーリャ王国おうこくによる軍事ぐんじ侵攻しんこうさい敗北はいぼくしたナバーラ王らおうフアン3せいはフランスへ逃亡とうぼう、その奪回だっかいはことごとく失敗しっぱいしてしまった。ナバーラで開催かいさいされたコルテスは、ナバーラの自治じちけん独自どくじせい維持いじ条件じょうけんに、併合へいごうれた。以後いご、パンプローナは名目めいもくじょうのナバーラ王国おうこく首都しゅとでありつづけた。パンプローナは、ピレネーの軍事ぐんじ防衛ぼうえいにおけるかぎ役割やくわりたのである。南側みなみがわよわく、ナバーラおうルイス1せい(フランスおうルイ10せい)は14世紀せいき初頭しょとうにこのしろ建設けんせつした。これが現在げんざいられているカスティーリョ広場ひろばである。カスティーリャによる併合へいごうフェルナンド5せいは1513ねんに、中世ちゅうせいしろ非常ひじょう近接きんせつした場所ばしょにあるあたらしいしろ廃棄はいきめいじた。しかし、大砲たいほう進化しんか要塞ようさいシステムの完全かんぜん刷新さっしん要求ようきゅうした。フェリペ2せい南側みなみがわほしがた要塞ようさい建物たてもの建設けんせつと、すべての城壁じょうへき現代げんだいめいじた。16世紀せいきわりから18世紀せいきにかけててられた城壁じょうへき現在げんざいのこっている。

18世紀せいきあいだ、パンプローナは相当そうとう美化びかされ都市としサービスが改善かいぜんされた。れのない上水道じょうすいどう完備かんびされ、その強化きょうかじってとおりが舗装ほそうされた。裕福ゆうふく貴族きぞく商人しょうにん自分じぶんたちの邸宅ていたくてた。19世紀せいき、この要塞ようさい都市としはスペインがまれた幾多いくた戦争せんそう重要じゅうよう役割やくわりになった。スペイン独立どくりつ戦争せんそうでは、フランスぐんが1808ねんにパンプローナを占領せんりょうし、1813ねんまで駐留ちゅうりゅうしていた。カルリスタ戦争せんそう(1833ねん-1839ねん、1872ねん-1876ねん)では、パンプローナはそのたびごとに自由じゆう主義しゅぎしゃらに管理かんりされた。一部いちぶのナバーラの自由じゆう主義しゅぎしゃおもにパンプローナにんでいたからではなく、政府せいふ支配しはいする要塞ようさい都市としだったからである。カルリスタが田舎いなかほどたやすく支配しはいしたけれども、政府せいふぐんはナバーラの城壁じょうへきかこまれた都市とし支配しはいするのになに問題もんだいもなかった。それにもかかわらず、カルリスタ戦争せんそう末期まっきには、現代げんだいてき大砲たいほうは、ふる城壁じょうへきがよりつよてき対峙たいじするのに十分じゅうぶんでなかったことをしめす、周囲しゅうい山地さんちからカルリスタによって操作そうさされた。そして、政府せいふはパンプローナきた3kmのサン・クリストバルさん頂上ちょうじょうに、サン・クリストバルとりで建設けんせつめた。

 
サン・クリストーバルとりで北側きたがわ

軍事ぐんじてき役割やくわりのため、はベルトのように城壁じょうへきそと拡張かくちょうすることはできなかった。さらに、城壁じょうへき近接きんせつする一帯いったい建物たてものは、攻囲こういぐんのためどんな利益りえきけるようきんじられた。住宅じゅうたく密集みっしゅう増加ぞうかによってのみ成長せいちょうしたのだった。たかせま住宅じゅうたくてられ、田園でんえん地帯ちたい次第しだいうしなわれた。19世紀せいき道路どうろ輸送ゆそう改善かいぜんされ、1860ねんには鉄道てつどうがつながった。それにもかかわらず、パンプローナの産業さんぎょうはナバーラ全体ぜんたい同様どうよう産業さんぎょう革命かくめいあいだ弱々よわよわしかった。いずれにせよ、じこめられた要塞ようさい都市としではなんの産業さんぎょう発展はってん実行じっこうしそうもなかった。

ほしがた要塞ようさいのわずかな修正しゅうせいが1888ねんに6区画くかく拡張かくちょうするのが許可きょかされたのちだいいち世界せかい大戦たいせんはパンプローナの強化きょうかシステムがすですたれていたことを論証ろんしょうした。1915ねんぐん城壁じょうへき破壊はかい許可きょかし、周囲しゅうい建物たてもの制限せいげん廃止はいしした。かべ南側みなみがわ破壊はかいされ、そのさんぽう都市とし成長せいちょうさまたげないようのこされた。ほしがた要塞ようさいは1964ねんまで軍事ぐんじ設備せつびとして使用しようされつづけたが、それは兵舎へいしゃとしてだった。

工業こうぎょう現代げんだい

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人口じんこうび(1900ねん-2005ねん)

軍事ぐんじてき機能きのうから解放かいほうされ、パンプローナはとくに20世紀せいき初頭しょとうのナバーラ地方ちほう経験けいけんした工業こうぎょう現代げんだい過程かていをリードした。都市とし工業こうぎょうとサービスぎょう発展はってんによってともなわれた。人口じんこう増加ぞうかは1960年代ねんだいから1970年代ねんだいの、地方ちほうからの強烈きょうれつ流入りゅうにゅう影響えいきょうである。ナバーラ地方ちほう田舎いなかのみならず、発展はってんすすまないカスティーリャ・イ・レオン地方ちほうアンダルシア地方ちほうからの移民いみんおもであった。1990年代ねんだいからは、海外かいがいからスペインへ移住いじゅうしてきた人々ひとびとおもである。1975ねんフランシスコ・フランコ死去しきょして民主みんしゅすすめられると、パンプローナは1982ねん誕生たんじょうしたナバーラしゅう州都しゅうととなった。

パンプローナは、生活せいかつ水準すいじゅんクオリティ・オブ・ライフがスペインでたか都市としひとつである[5]犯罪はんざい統計とうけい国内こくない平均へいきんよりひくいが、公共こうきょう料金りょうきんとく住宅じゅうたく相対そうたいてきたか[6]都市としちいささと公共こうきょう交通こうつうのアクセスのさのため、目立めだった交通こうつう問題もんだいはない。政治せいじについては、バスク愛国あいこく主義しゅぎ対立たいりつつよ影響えいきょうされている。

都市とし

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サン・フェルミンさい光景こうけい

ヨーロッパ諸国しょこく都市としのように、きゅう市街しがい(Casco Viejo)とばれる部分ぶぶんしん市街しがいとの区別くべつ容易よういである。きゅう市街しがいもっとふる部分ぶぶんはナバレリーア(Navarrería)といい、ローマ時代じだい都市とし一致いっちする。12世紀せいき、サン・セルニン地区ちくとサン・ニコラス地区ちくができた。カルロス3せいは1423ねんにこれら3地区ちく統合とうごうして1つの自治体じちたいとした。

19世紀せいきわりまで市街地しがいちのさらなる拡張かくちょうはされなかった。1888ねんほしがた要塞ようさい少々しょうしょう修正しゅうせい許可きょかされたが、6区画くかく建物たてもの許可きょかされただけだった。これは最初さいしょ拡張かくちょう(I Ensanche)とばれた。南側みなみがわ城壁じょうへきは1915ねん破壊はかいされ、だい拡張かくちょう(II Ensanche)が計画けいかくされた。この計画けいかくは、バルセロナのアシャンプラのためイルデフォンソ・セルダ設計せっけいした碁盤ごばんがたプランによるものだった。区画くかくは1820年代ねんだいから1850年代ねんだいにかけ建設けんせつされた。ひろ普及ふきゅうしたモデル住宅じゅうたくは、5かいから8かいまである共同きょうどう住宅じゅうたくであった。

スペイン内戦ないせん、パンプローナの3つのしん地区ちく成長せいちょうはじめた。ロチャペア、ミラグロサ、チャントレアである。チャントレアだけが近郊きんこう計画けいかくされ、ロチャペアとミラグロサは無秩序むちつじょ成長せいちょうした。1957ねん、パンプローナ最初さいしょ総合そうごう整理せいり計画けいかく企画きかくし、さらなる都市とし発展はってんのガイドラインを確立かくりつした。これによると、1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにはサン・フアン、イトゥラマ、サン・ホルヘ、エチャバコイス、オルビナといったあらたな住宅じゅうたく地区ちく創設そうせつされた。

パンプローナの都市とし成長せいちょうは、行政ぎょうせいじょう限界げんかいをしのぎ、バラニャイン、ブルラダ、ヴィジャバ、アンソアイン、ベリオサル、ノアイン、ウアルテ、といった自治体じちたいんで広域こういき都市としけん形成けいせいした。1980年代ねんだいから1990年代ねんだいあらたな住宅じゅうたく地区ちくまれた。アスピラガニャ、メンデバルデア、メンディヨリである。ロチャペアは完全かんぜん一新いっしんされた。これらのしん住宅じゅうたく地区ちく都市としはスペイン国内こくない州都しゅうと非常ひじょうによくており、1960年代ねんだいから1970年代ねんだい極度きょくど経済けいざい成長せいちょう経験けいけんしていることもおなじだった。碁盤ごばんプランはくわえられなかったことから、都市としはあらかじめ設計せっけいされ、共同きょうどう住宅じゅうたく建物たてものはより高層こうそうした。6かいよりひくくなることはなく、おおくが10かい以上いじょう、20かいのものもあった。以前いぜん住宅じゅうたく共存きょうぞんしていた工場こうじょうは、工業こうぎょう団地だんち移転いてんした(最古さいこ唯一ゆいいつパンプローナの自治体じちたい圏内けんないにあるのはランダベンである)。

近年きんねん単身たんしんにん程度ていど世帯せたいらす住宅じゅうたく地区ちく都市としけんえている。シスル・マヨル、シスル、アランフレン、エグエス、ハラル、ベリオプラノ、アルスサである。あらたな住宅じゅうたく地区ちくは、ブツティンチュリ、レスカイル、エグエスではビルになった。共同きょうどう住宅じゅうたく建物たてものはこれらの地区ちくにあり、がいして低層ていそう住宅じゅうたくで6かい以上いじょうのものはないが緑地りょくち豊富ほうふである。

経済けいざい

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パンプローナは、すうじゅうねんあいだちいさな行政ぎょうせいじょう田舎いなかまちから、中規模ちゅうきぼ工業こうぎょうとサービスぎょう都市とし転換てんかんした。工業こうぎょうは、さい重要じゅうようのものが自動車じどうしゃ産業さんぎょう関連かんれんで、多種たしゅ多様たようである。フォルクスワーゲンはランダベンの工場こうじょうフォルクスワーゲン・ポロ生産せいさんし、フォルクスワーゲンや会社かいしゃのため稼働かどうする補助ほじょ工場こうじょうおおつ。その顕著けんちょ産業さんぎょうは、建築けんちく材料ざいりょう金属きんぞく加工かこう食品しょくひん加工かこうである。継続けいぞくできるエネルギー科学かがく技術ぎじゅつは、風力ふうりょく原動機げんどうき風力ふうりょく発電はつでんがあり、近隣きんりんバリェ・デ・エグエス/エグエシバル国立こくりつ再生さいせい可能かのうエネルギーセンタースペインばん(CENER)と、再生さいせい可能かのうエネルギーの開発かいはつおこなっているアクシオナ・エネルヒア所在地しょざいちである。

パンプローナはナバーラの商業しょうぎょう取引とりひきとサービスぎょう中心ちゅうしんである。ナバーラ大学だいがくとナバーラ大学だいがく付属ふぞく病院びょういんは、私学しがく教育きょういく健康けんこうサービスを国内こくない幅広はばひろく、そして国際こくさいてきにも提供ていきょうしている。

人口じんこう

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パンプローナの人口じんこう推移すいい 1900-2010
出典しゅってん:INE(スペイン国立こくりつ統計とうけいきょく)1900ねん - 1991ねん[7]、1996ねん - [8]

教育きょういく文化ぶんか

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ナバーラ大学だいがく
  • ナバーラ大学だいがく - 1952ねん創立そうりつ
  • ナバーラ州立しゅうりつ大学だいがく - 1987ねん創立そうりつ
  • ナバーラ美術館びじゅつかん - 考古学こうこがくおよび芸術げいじゅつ遺産いさん収蔵しゅうぞう
  • 宗教しゅうきょう美術館びじゅつかん - パンプローナだい聖堂せいどうないにある。

交通こうつう

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パンプローナは近隣きんりんサラゴサとをA-15、サン・セバスティアン=ドノスティアとをA-15、ビトリア=ガステイスとをA-10、ログローニョとをA-12のかく高速こうそく道路どうろむすぶ。 2007ねんからバスがあらたなバス・ステーションで運営うんえいされている。パンプローナ空港くうこうは、マドリードバルセロナへの路線ろせんがある[9]鉄道てつどう路線ろせんレンフェ(スペイン国鉄こくてつ)が運営うんえいし、マドリード、サラゴサ、スペイン北部ほくぶとつながっている。高速こうそく鉄道てつどうAVEはサラゴサ、マドリードとつながっている。あらたな鉄道てつどうえき南部なんぶ建設けんせつちゅうである。公営こうえいバスには20の平日へいじつ路線ろせんと9の夜間やかん路線ろせんがある。トラムについては議論ぎろんかさねられている。

 
サンタ・マリーア・デ・パンプローナだい聖堂せいどう

市内しないにある数カ所すうかしょ教会きょうかいは、ほとんどが16世紀せいきから18世紀せいきにかけ要塞ようさいすすめられた時代じだいてられた。その公共こうきょう建築けんちくぶつはパンプローナ芸術げいじゅつ歴史れきし遺産いさんぞくしている。

軍事ぐんじ公共こうきょう建築けんちくぶつ

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パンプローナがかつて継続けいぞくして軍事ぐんじ都市としであったことから、かべ四方しほうのうちさんぽうが、わずかな修正しゅうせいのうえシウダデラもしくはほしがた要塞ようさいのこっている。中世ちゅうせい構造こうぞうすべては大砲たいほうもちいたおさむしろせん抵抗ていこうする手段しゅだんとして交換こうかんされた。現代げんだい戦争せんそうかず完全かんぜんすたれ、かつての軍事ぐんじ施設しせつ公園こうえんとして現在げんざい利用りようされている。

現存げんそんする最古さいこ公共こうきょう建築けんちくぶつは、14世紀せいきてられたもので、16世紀せいきから19世紀せいきまでカマラ・デ・コンプトス(Cámara de Comptos、ナバーラ王国おうこく自治じちてき会計かいけい検査けんさ部局ぶきょく)として使用しようされた。アルガがわかる中世ちゅうせいはしがいくつかある。サンタ・エングラシアきょう、ミルセきょう、マグダレナきょう、サン・ペドロきょうである。サン・ペドロ宮殿きゅうでんは、歴代れきだいのナバーラおうとパンプローナ司教しきょうによってわりながら使用しようされた。この宮殿きゅうでん近代きんだい初期しょきにはスペイン王国おうこくふくおう宮殿きゅうでんとなり、のちにはナバーラの軍事ぐんじ総督そうとくかれた。スペイン内戦ないせん以後いご宮殿きゅうでん廃墟はいきょし、近年きんねんになってナバラ総合そうごう公文書こうぶんしょかんとして再建さいけんされた。

 
自治体じちたい庁舎ちょうしゃ正面しょうめんのバルコニー

もっと人目ひとめくバロック様式ようしき公共こうきょう建築けんちくは、18世紀せいきからある自治体じちたい庁舎ちょうしゃ司教しきょうかん、フアン・エル・バウティスタ神学校しんがっこう、ロサレホてい、エスペラタてい現在げんざい音楽おんがく学校がっこう)、ナバーロ=タファラていバスク愛国あいこく運動うんどう事務所じむしょ)である。ナバーラしゅう政府せいふ庁舎ちょうしゃとしてしん古典こてん主義しゅぎ建築けんちくのナバーラ宮殿きゅうでんを19世紀せいきてた。

19世紀せいきわりと20世紀せいき初頭しょとう、パンプローナの建築けんちくはその重要じゅうようなスペインしょ都市としのなかで十分じゅうぶん発達はったつし、その趣向しゅこうせていた。1912ねん完成かんせいのラ・アグリコラなど、いくつかの共同きょうどう住宅じゅうたくはいくらか内気うちき近代きんだい主義しゅぎ装飾そうしょくがされている。20世紀せいきもっとられたパンプローナの建築けんちくは、ビクトル・エウサで、かれはヨーロッパの印象いんしょう主義しゅぎやアヴァンギャルド運動うんどう影響えいきょうされた設計せっけいをした。

公園こうえん

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パンプローナはおおくの公園こうえん緑地りょくちつ。最古さいこのものはタコネラ公園こうえんで、17世紀せいき設計せっけいである。タコネラは舗装ほそうされた小道こみちうつくしく配置はいちされた花壇かだん彫刻ちょうこくのあるロマンティックな公園こうえんである。

メディナ・ルナ公園こうえんだい拡張かくちょう一部いちぶとして建設けんせつされた。北部ほくぶ見渡みわたせ、くつろいで散策さんさくできるよう計画けいかくされた。武装ぶそうのち、シウダデラと周辺しゅうへん地区ちく広大こうだい芝生しばふ現代げんだい彫刻ちょうこくのある公園こうえん地区ちくてんじた。

あらたにできた近隣きんりん公園こうえん顕著けんちょものは、イトゥラマとエルミタガニャのあいだにあるヤマグチ公園こうえんで、ちいさな日本にっぽん庭園ていえんがある。ナバーラ大学だいがくのキャンパス、チャントレアにあるムンド公園こうえん、アルガ公園こうえん同様どうようくものである。

ナバーラしゅうバスク・ペロタさかんであり、国際こくさいバスク・ペロタ連盟れんめい英語えいごばん本部ほんぶがある。

出身しゅっしんしゃ

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姉妹しまい都市とし

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c Población superficie y densidad por municipios” (スペイン). INE(スペイン国立こくりつ統計とうけいきょく). 2012ねん1がつ27にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん5がつ26にち閲覧えつらん
  2. ^ プトレマイオス ii. 6. § 67; ストラボン iii. § 161
  3. ^ Antonini Itinerarium p. 455
  4. ^ だいプリニウス iii. 3. s. 4.
  5. ^ “Pamplona, Bilbao and Gijón, the spanish cities with the best quality of life” (Spanish). El Mundo. (2007ねん6がつ21にち). http://www.elmundo.es/elmundo/2007/06/20/espana/1182344494.html 2008ねん4がつ14にち閲覧えつらん 
  6. ^ (スペイン habitathumano.com Archived 2007ねん2がつ21にち, at the Wayback Machine.
  7. ^ Poblaciones de hecho desde 1900 hasta 1991. Cifras oficiales de los Censos respectivos.
  8. ^ Cifras oficiales de población resultantes de la revisión del Padrón municipal a 1 de enero.
  9. ^ (スペイン History of the Airport of Pamplona, by Aena Archived 2012ねん2がつ23にち, at the Wayback Machine.

外部がいぶリンク

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