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フリードリヒ・フロム - Wikipedia

フリードリヒ・フロム

ドイツの軍人ぐんじん

フリードリヒ・フロムドイツ: Friedrich Fromm, 1888ねん10月8にち - 1945ねん3月12にち)は、ドイツ陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん上級じょうきゅう大将たいしょうだい世界せかい大戦たいせんなか国内こくない予備よびぐん司令しれいかんつとめたが、ヒトラー暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんまれ、処刑しょけいされた。

フリードリヒ・フロム
Friedrich Fromm
生誕せいたん 1888ねん10月8にち
ドイツの旗 ドイツこく
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく ベルリン
死没しぼつ (1945-03-12) 1945ねん3月12にち(56さいぼつ
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
プロイセン自由じゆうしゅう ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル
所属しょぞく組織そしき  ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
 ヴァイマル共和きょうわこく陸軍りくぐん
 ドイツ陸軍りくぐん
ぐんれき 1906ねん1944ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん上級じょうきゅう大将たいしょう
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経歴けいれき

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ぐんれき

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ちゅうどくイギリス大使たいしヘンダーソン(中央ちゅうおう)、国家こっかスポーツ指導しどうしゃフォン・チャマー・ウント・オステン(みぎ)と談笑だんしょうするフロム中将ちゅうじょうひだり

ベルリン・シャルロッテンブルクにまれる。マインツストラスブール、ベルリンのギムナジウムとおったのち、ベルリン大学だいがく入学にゅうがく。しかし1906ねん陸軍りくぐんはいり、ナウムブルクだい2テューリンゲンだい55野砲やほう連隊れんたい見習みならい士官しかんとして配属はいぞくされた。だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ当時とうじ中尉ちゅうい大隊だいたい副官ふっかんだった。1916ねん大尉たいい昇進しょうしんし、参謀さんぼう本部ほんぶ転属てんぞくとなった。この大戦たいせんでは負傷ふしょうし、ドイツ帝国ていこくオーストリア勲章くんしょう多数たすうけた。

敗戦はいせん義勇軍ぎゆうぐんとして東部とうぶでの国境こっきょう紛争ふんそう従軍じゅうぐんし、のちヴァイマル共和きょうわこく陸軍りくぐん採用さいようされる。1927ねん少佐しょうさ昇進しょうしん国防省こくぼうしょう勤務きんむとなる。1931ねん中佐ちゅうさ昇進しょうしんしたのち、1933ねん大佐たいさ昇進しょうしんして陸軍りくぐんそう局長きょくちょう就任しゅうにん。1935ねん少将しょうしょう、1938ねん中将ちゅうじょう昇進しょうしん。1939ねん4がつ砲兵ほうへい大将たいしょう昇進しょうしん。9月には陸軍りくぐん補充ほじゅう局長きょくちょう就任しゅうにんした。だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつの1940ねん7がつ騎士きしてつじゅうしょう受章じゅしょうし、直後ちょくご上級じょうきゅう大将たいしょう昇進しょうしんした。その国内こくない予備よびぐん司令しれいかん任命にんめいされた。

ヒトラー暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん

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ドイツの敗色はいしょくくなった1944ねんドイツ国防こくぼうぐん将校しょうこうによるヒトラー暗殺あんさつ計画けいかくすすめられていた。フロムがこの計画けいかくをどの程度ていどかかわっていたかは現在げんざいとなっては不明ふめいだが、首謀しゅぼうしゃであるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐たいさかれ直属ちょくぞく参謀さんぼうであり、おなじく陸軍りくぐんそう局長きょくちょうフリードリヒ・オルブリヒト大将たいしょう直属ちょくぞく部下ぶかであった。フロムはこのことについては沈黙ちんもくしていたが、国内こくない予備よびぐん使つかったクーデター計画けいかくであるヴァルキューレ作戦さくせんへの参加さんかこばんでいた。

7がつ20日はつか、シュタウフェンベルクによるアドルフ・ヒトラー総統そうとう爆殺ばくさつ作戦さくせん決行けっこうされたのち、ベルリン・ベンドラーがいにある国内こくない予備よびぐん司令しれいにいたフロムは、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうヴィルヘルム・カイテルからの電話でんわ連絡れんらくで、ヒトラーがびていることをらされた。ヴァルキューレ作戦さくせん発動はつどう要求ようきゅうするシュタウフェンベルクらにたいし、フロムは計画けいかく失敗しっぱいしたとしてこれを拒否きょひし、自決じけつめいじた。これは自分じぶん共謀きょうぼうしゃとしてまれることをける目的もくてきもあったとわれている。シュタウフェンベルクらはフロムを執務しつむしつ軟禁なんきんした。夕方ゆうがた、ヒトラー治安ちあん部隊ぶたい司令しれい突入とつにゅうしてフロムは解放かいほうされた。フロムは治安ちあん部隊ぶたいめいじてシュタウフェンベルク、オルブリヒト、その参謀さんぼうアルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム、シュタウフェンベルクの副官ふっかんヴェルナー・フォン・ヘフテン逮捕たいほさせ、即決そっけつ裁判さいばん死刑しけい宣告せんこくし、その夜中よなか司令しれい中庭なかにわ銃殺じゅうさつけい執行しっこうした。かつての上官じょうかんであるルートヴィヒ・ベックもと参謀さんぼう総長そうちょうにはその要望ようぼうをききいれて自決じけつ機会きかいあたえ、ベックが拳銃けんじゅう自殺じさつ失敗しっぱいすると、部下ぶか射殺しゃさつさせた。

かれのこうした行動こうどうが、自己じこ保身ほしんによる「くちふうじ」のためだったのか、あるいはかれらが残酷ざんこく報復ほうふく拷問ごうもんけるまえ処断しょだんしようとしたのかはさだかではない。かり自己じこまもろうとしたとしても、それは徒労とろうわった。ヒトラーはフロムがシュタウフェンベルクら首謀しゅぼうしゃを「安易あんいに」即決そっけつ裁判さいばん処刑しょけいしたことに激怒げきどし、またするどかんかれ計画けいかくっていながら黙認もくにんしたのではとうたがった。9月14にち、ヒトラーの命令めいれいによりフロムはぐん除籍じょせきされ、軍法ぐんぽう会議かいぎではなく一般いっぱん市民しみんとして人民じんみん法廷ほうてい裁判さいばんけさせられた。結局けっきょくフロムが計画けいかく参加さんかしていたことは立証りっしょうされなかったが、「てきたいする臆病おくびょう」という罪状ざいじょうにより、死刑しけい宣告せんこくされた。かずおおくの勲章くんしょうなどすべての名誉めいよ剥奪はくだつされ、1945ねん3がつ12にちブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル拘置こうちしょ銃殺じゅうさつけいしょせられた。

文献ぶんけん

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  • Bernhard R. Kroener, Der starke Mann im Heimatkriegsgebiet - Generaloberst Friedrich Fromm. Eine Biographie, Schöningh-Verlag, Paderborn 2005, ISBN 978-3-506-71734-4
ぐんしょく
先代せんだい
ヨアヒム・フォン・シュテュルプナーゲルドイツばん
  国内こくない予備よびぐん司令しれいかん
1939ねん - 1944ねん
次代じだい
ハインリヒ・ヒムラー