駐 ちゅう 独 どく イギリス大使 たいし ヘンダーソン(中央 ちゅうおう )、国家 こっか スポーツ指導 しどう 者 しゃ フォン・チャマー・ウント・オステン(右 みぎ )と談笑 だんしょう するフロム中将 ちゅうじょう (左 ひだり )
ベルリン ・シャルロッテンブルクに生 う まれる。マインツ 、ストラスブール 、ベルリンのギムナジウム に通 とお ったのち、ベルリン大学 だいがく に入学 にゅうがく 。しかし1906年 ねん に陸軍 りくぐん に入 はい り、ナウムブルク の第 だい 2テューリンゲン第 だい 55野砲 やほう 連隊 れんたい に見習 みならい 士官 しかん として配属 はいぞく された。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ 当時 とうじ は中尉 ちゅうい ・大隊 だいたい 副官 ふっかん だった。1916年 ねん に大尉 たいい に昇進 しょうしん し、参謀 さんぼう 本部 ほんぶ に転属 てんぞく となった。この大戦 たいせん では二 に 度 ど 負傷 ふしょう し、ドイツ帝国 ていこく とオーストリア の勲章 くんしょう 多数 たすう を受 う けた。
敗戦 はいせん 後 ご は義勇軍 ぎゆうぐん として東部 とうぶ での国境 こっきょう 紛争 ふんそう に従軍 じゅうぐん し、のちヴァイマル共和 きょうわ 国 こく 陸軍 りくぐん に採用 さいよう される。1927年 ねん 、少佐 しょうさ に昇進 しょうしん し国防省 こくぼうしょう 勤務 きんむ となる。1931年 ねん に中佐 ちゅうさ に昇進 しょうしん したのち、1933年 ねん に大佐 たいさ に昇進 しょうしん して陸軍 りくぐん 総 そう 局長 きょくちょう に就任 しゅうにん 。1935年 ねん に少将 しょうしょう 、1938年 ねん に中将 ちゅうじょう に昇進 しょうしん 。1939年 ねん 4月 がつ 、砲兵 ほうへい 大将 たいしょう に昇進 しょうしん 。9月には陸軍 りくぐん 補充 ほじゅう 局長 きょくちょう に就任 しゅうにん した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ 後 ご の1940年 ねん 7月 がつ 、騎士 きし 鉄 てつ 十 じゅう 字 じ 章 しょう を受章 じゅしょう し、直後 ちょくご に上級 じょうきゅう 大将 たいしょう に昇進 しょうしん した。その後 ご 、国内 こくない 予備 よび 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい された。
ドイツの敗色 はいしょく が濃 こ くなった1944年 ねん 、ドイツ国防 こくぼう 軍 ぐん の将校 しょうこう によるヒトラー暗殺 あんさつ 計画 けいかく が進 すす められていた。フロムがこの計画 けいかく をどの程度 ていど 関 かか わっていたかは現在 げんざい となっては不明 ふめい だが、首謀 しゅぼう 者 しゃ であるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク 大佐 たいさ は彼 かれ の直属 ちょくぞく の参謀 さんぼう であり、同 おな じく陸軍 りくぐん 総 そう 局長 きょくちょう フリードリヒ・オルブリヒト 大将 たいしょう も直属 ちょくぞく の部下 ぶか であった。フロムはこのことについては沈黙 ちんもく していたが、国内 こくない 予備 よび 軍 ぐん を使 つか ったクーデター計画 けいかく であるヴァルキューレ作戦 さくせん への参加 さんか は拒 こば んでいた。
7月 がつ 20日 はつか 、シュタウフェンベルクによるアドルフ・ヒトラー 総統 そうとう 爆殺 ばくさつ 作戦 さくせん が決行 けっこう されたのち、ベルリン・ベンドラー街 がい にある国内 こくない 予備 よび 軍 ぐん 司令 しれい 部 ぶ にいたフロムは、国防 こくぼう 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 総長 そうちょう ヴィルヘルム・カイテル からの電話 でんわ 連絡 れんらく で、ヒトラーが生 い き延 の びていることを知 し らされた。ヴァルキューレ作戦 さくせん 発動 はつどう を要求 ようきゅう するシュタウフェンベルクらに対 たい し、フロムは計画 けいかく が失敗 しっぱい したとしてこれを拒否 きょひ し、自決 じけつ を命 めい じた。これは自分 じぶん が共謀 きょうぼう 者 しゃ として巻 ま き込 こ まれることを避 さ ける目的 もくてき もあったと言 い われている。シュタウフェンベルクらはフロムを執務 しつむ 室 しつ に軟禁 なんきん した。夕方 ゆうがた 、ヒトラー派 は の治安 ちあん 部隊 ぶたい が司令 しれい 部 ぶ に突入 とつにゅう してフロムは解放 かいほう された。フロムは治安 ちあん 部隊 ぶたい に命 めい じてシュタウフェンベルク、オルブリヒト、その参謀 さんぼう アルブレヒト・メルツ・フォン・クヴィルンハイム 、シュタウフェンベルクの副官 ふっかん ヴェルナー・フォン・ヘフテン を逮捕 たいほ させ、即決 そっけつ 裁判 さいばん で死刑 しけい を宣告 せんこく し、その日 ひ の夜中 よなか に司令 しれい 部 ぶ の中庭 なかにわ で銃殺 じゅうさつ 刑 けい を執行 しっこう した。かつての上官 じょうかん であるルートヴィヒ・ベック 元 もと 参謀 さんぼう 総長 そうちょう にはその要望 ようぼう をき入 きい れて自決 じけつ の機会 きかい を与 あた え、ベックが拳銃 けんじゅう 自殺 じさつ に失敗 しっぱい すると、部下 ぶか に射殺 しゃさつ させた。
彼 かれ のこうした行動 こうどう が、自己 じこ 保身 ほしん による「口 くち 封 ふう じ」のためだったのか、あるいは彼 かれ らが残酷 ざんこく な報復 ほうふく や拷問 ごうもん を受 う ける前 まえ に処断 しょだん しようとしたのかは定 さだ かではない。仮 かり に自己 じこ を守 まも ろうとしたとしても、それは徒労 とろう に終 お わった。ヒトラーはフロムがシュタウフェンベルクら首謀 しゅぼう 者 しゃ を「安易 あんい に」即決 そっけつ 裁判 さいばん で処刑 しょけい したことに激怒 げきど し、また鋭 するど い勘 かん を持 も つ彼 かれ は計画 けいかく を知 し っていながら黙認 もくにん したのではと疑 うたが った。9月14日 にち 、ヒトラーの命令 めいれい によりフロムは軍 ぐん を除籍 じょせき され、軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ ではなく一般 いっぱん 市民 しみん として人民 じんみん 法廷 ほうてい の裁判 さいばん を受 う けさせられた。結局 けっきょく フロムが計画 けいかく に参加 さんか していたことは立証 りっしょう されなかったが、「敵 てき に対 たい する臆病 おくびょう 」という罪状 ざいじょう により、死刑 しけい が宣告 せんこく された。数 かず 多 おお くの勲章 くんしょう など全 すべ ての名誉 めいよ が剥奪 はくだつ され、1945年 ねん 3月 がつ 12日 にち 、ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル の拘置 こうち 所 しょ で銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ せられた。
Bernhard R. Kroener, Der starke Mann im Heimatkriegsgebiet - Generaloberst Friedrich Fromm. Eine Biographie, Schöningh-Verlag, Paderborn 2005, ISBN 978-3-506-71734-4