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クラウス・フォン・シュタウフェンベルク - Wikipedia

クラウス・フォン・シュタウフェンベルク

ドイツの軍人ぐんじん貴族きぞく

クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ(伯爵はくしゃく)・フォン・シュタウフェンベルク(Claus Philipp Maria Schenk Graf von Stauffenberg, 1907ねん11月15にち - 1944ねん7がつ21にち)は、ドイツ軍人ぐんじん貴族きぞくぐんにおける最終さいしゅう階級かいきゅう参謀さんぼう大佐たいさ(Oberst i.G.)。貴族きぞく爵位しゃくい伯爵はくしゃく(Graf)。ドイツ陸軍りくぐん国内こくない予備よびぐん参謀さんぼうちょうつとめていたさい1944ねん7がつ20日はつかに、ひがしプロイセン総統そうとう大本営だいほんえいおい」において総統そうとうアドルフ・ヒトラー時限じげんばくだんによって暗殺あんさつする計画けいかく実行じっこうしたが、ヒトラーは軽傷けいしょううにとどまった。「ヴァルキューレ作戦さくせん発動はつどうによるクーデタ計画けいかくにも失敗しっぱいし、7がつ21にち上官じょうかん国内こくない予備よびぐん司令しれいかんフリードリヒ・フロム上級じょうきゅう大将たいしょう命令めいれいにより逮捕たいほされ、銃殺じゅうさつけいしょせられた。現在げんざいドイツ連邦れんぽう共和きょうわこくにおいては、英雄えいゆうとして顕彰けんしょうされている。

クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はくしゃく
Claus Graf von Stauffenberg
シュタウフェンベルクの胸像きょうぞう
生誕せいたん 1907ねん11月15にち
ドイツの旗 ドイツこく
バイエルン王国の旗 バイエルン王国おうこくイェティンゲン
死没しぼつ (1944-07-21) 1944ねん7がつ21にち(36さいぼつ
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
プロイセン自由じゆうしゅうベルリン
所属しょぞく組織そしき ドイツ国軍こくぐん陸軍りくぐん(Reichsheer)
ドイツ国防こくぼうぐん陸軍りくぐん(Heer)
ぐんれき 1926 - 1944
最終さいしゅう階級かいきゅう 参謀さんぼう大佐たいさ(Oberst i.G.)
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生涯しょうがい

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名門めいもん貴族きぞく家柄いえがら

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シェンク・フォン・シュタウフェンベルク紋章もんしょう

シュタウフェンベルクドイツばん歴史れきし13世紀せいきシュヴァーベンさかのぼる。同地どうち統治とうちしていたツォレルン伯爵はくしゃくつかえていた貴族きぞくが「給仕きゅうじ」(Schenk シェンク)ににんじられたのをに「シェンク」を代々だいだい家族かぞくめいにしたことにはじまる。この貴族きぞく苗字みょうじ様々さまざま名乗なのったが、そのひとつに「シュタウフェンベルク」があった。これはシュヴァーベンのやま名前なまえからったものであった。15世紀せいきまつに「シェンク・フォン・シュタウフェンベルク」が永続えいぞくてき家名かめいとなった。シュタウフェンベルクシュタウフェンあさむすける伝承でんしょうもある[1]

シュタウフェンベルク栄進えいしんは、1698ねん神聖しんせいローマ皇帝こうていレオポルト1せいにより男爵だんしゃく(Freiherr)の世襲せしゅう爵位しゃくい授与じゅよされたのにはじまる。そのシュタウフェンベルク男爵だんしゃくよんりゅうかれた。しかしうちりゅう18世紀せいきなか断絶だんぜつし、ヴィルフリンゲンドイツばん所領しょりょうとするシュタウフェンベルク男爵だんしゃくアーメルディンゲン所領しょりょうとするシュタウフェンベルク男爵だんしゃく二流にりゅうのみがのこった。1791ねんにはヴィルフリンゲンを所領しょりょうとするシュタウフェンベルク男爵だんしゃく神聖しんせいローマ皇帝こうていレオポルト2せいから帝国ていこく伯爵はくしゃく(Reichsgraf)にじょされたが、この帝国ていこく伯爵はくしゃく1833ねんえている。結局けっきょくアーメルディンゲンを所領しょりょうとするシュタウフェンベルク男爵だんしゃくのみがのこった。どう男爵だんしゃくはアーメルディンゲンにくわえて、17世紀せいき18世紀せいきグライフェンシュタインドイツばんイェッティンゲンドイツばんラウトリンゲンドイツばんなどを所領しょりょうとしていった[2]

クラウスの曾祖父そうそふにあたるアーメルディンゲン・シュタウフェンベルクフランツ・ルートヴィヒ・フォン・シュタウフェンベルクドイツばん[注釈ちゅうしゃく 1]は、1874ねんバイエルンおうルートヴィヒ2せいから伯爵はくしゃく(Graf)の世襲せしゅう爵位しゃくい授与じゅよされた[1]以降いこうフランツ・ルートヴィヒの子孫しそんのシュタウフェンベルク伯爵はくしゃくとなった。

フランツ・ルートヴィヒの長男ちょうなんはクレメンスである。そしてクレメンスの次男じなんにあたるのが、クラウスのちちであるアルフレート・フォン・シュタウフェンベルクドイツばん伯爵はくしゃくであった。アルフレートはシュタウフェンベルク所領しょりょうのうち、ヴュルテンベルク王国おうこくりょうぞくするラウトリンゲンを所領しょりょうとしていた。なおシュタウフェンベルク代々だいだいカトリックである。

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クラウス・フォン・シュタウフェンベルクがまれたイェティンゲンじょう(Schloss Jettingen)。

クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はくしゃくは、1907ねん11月15にちドイツ帝国ていこくりょうくにバイエルン王国おうこくりょうのイェティンゲンにあるイェッティンゲンじょうドイツばんにおいてまれた[3][4]。イェティンゲンはシェンク・フォン・シュタウフェンベルク一族いちぞく所領しょりょうであり、かれはは出産しゅっさんさいにたまたまここに滞在たいざいしていた[4]

クラウスのちちアルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はくしゃくは、ドイツ帝国ていこくりょうくにヴュルテンベルク王国おうこくラウトリンゲンの領主りょうしゅであり、ヴュルテンベルクぐん少佐しょうさまで昇進しょうしんした人物じんぶつであった。また1908ねんからは同国どうこく国王こくおうヴィルヘルム2せいシュトゥットガルト宮殿きゅうでん侍従じじゅうちょうとしてつかえ、王家おうけ家政かせい仕切しきった[2][3]。このさいにシュトゥットガルトのきゅう宮殿きゅうでん公邸こうていとしてあたえられ、以降いこうシュタウフェンベルク一家いっかはそこを中心ちゅうしんらした[5]

クラウスのははカロリーネは、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく陸軍りくぐんドイツばん中佐ちゅうさアルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル=ギレンバント伯爵はくしゃくむすめであり、1904ねん5月30にちにアルフレートと結婚けっこんした。カロリーネのははヴァレリエの祖父そふプロイセン参謀さんぼう本部ほんぶ創設そうせつしゃ一人ひとりであるプロイセン元帥げんすいアウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵はくしゃくであった[2][3][6][7]

クラウスは双子ふたごくみよんにん兄弟きょうだいであり、三男さんなんであった。あに1905ねん3月15にちまれのベルトルトアレクサンダードイツばん双子ふたごがあり、またクラウスとおなじ1907ねん11月15にち双子ふたごおとうとコンラートがまれている。ただしこのコンラートは生後せいごいちにちにして死亡しぼうした[4]。クラウスとあにたちとの関係かんけいおさなころから終生しゅうせい緊密きんみつであった[8]

 
シュタウフェンベルク一家いっからしていたラウトリンゲンじょう(Schloss Lautlingen)。

クラウスが子供こどもころしたしんだ場所ばしょちち公邸こうていがあったおうみやこシュトゥットガルト、ラウトリンゲンの自宅じたく(ラウトリンゲンじょう)、またイェティンゲンやアーメルディンゲンやグライフェンシュタインといった親類しんるい家々いえいえなどである。庭園ていえんめぐり、ヴュルテンベルク王家おうけとの交流こうりゅう茶会ちゃかいサロンなどはシュタウフェンベルクのおまりの行事ぎょうじだった[9]

1916ねんにシュトゥットガルトいち名門めいもんギムナジウムであるエーベルハルト=ルートヴィヒ・ギムナジウムドイツばん入学にゅうがくした。シュタウフェンベルクの成績せいせき上位じょういだったが、1918ねん1がつだいいち世界せかい大戦たいせん戦況せんきょう悪化あっか石炭せきたん不足ふそくのために学校がっこう閉鎖へいさされた[10][11]ベ。

大戦たいせん末期まっきの1918ねん11月、ヴュルテンベルク王国おうこくでも革命かくめい勃発ぼっぱつし、シュタウフェンベルクつかえたヴュルテンベルク王家おうけ崩壊ほうかいした。ちちアルフレートはみやおさむコンスタンティン・フォン・ノイラート男爵だんしゃくヒトラー内閣ないかく外相がいしょう)とともに最後さいごまで国王こくおうつかえた。アルフレートはシュトゥットガルトをはなれたおう王妃おうひ隠遁いんとんさきベーベンハウゼンドイツばんシトーかい修道院しゅうどういんまでおきょうしている。また国王こくおう私有地しゆうち恩給おんきゅうについてヴュルテンベルクのしん政府せいふ交渉こうしょうにあたったのもアルフレートだった。王家おうけ宮殿きゅうでん所領しょりょうだい部分ぶぶんはヴュルテンベルク政府せいふ接収せっしゅうされたが、一部いちぶ土地とち民法みんぽう適用てきようける私有地しゆうちとして国王こくおうのもとにもどすことに成功せいこうした。貴族きぞく所領しょりょう民法みんぽう適用てきようける私有地しゆうちとしてほぼ存続そんぞくさせた。ヴィルヘルム2せい皇太子こうたいしアルベルト公爵こうしゃくは、アルフレートを「おうもっと忠実ちゅうじつ臣下しんか一人ひとりで、あのかなしい日々ひびにあっても冷静れいせいさをうしなわなかった唯一ゆいいつ人物じんぶつ」とひょうした。クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはこのとしの11月15にち誕生たんじょうもっとかなしい誕生たんじょうひょうし、いわいを拒絶きょぜつした。クラウスはおうがなにも抵抗ていこうせずにったこと一番いちばん落胆らくたんしたという[12]

戦後せんごあににんとともにシュトゥットガルトの学校がっこうもどった。しかしクラウスは病弱びょうじゃくであったため、学校がっこうやすんで家庭かてい教師きょうしおそわることおおかった。1923ねんごろにはシュタウフェンベルクさんにん子供こどもたちはロマン主義しゅぎ神秘しんぴ主義しゅぎ貴族きぞく主義しゅぎてき哲学てつがくしゃ詩人しじんシュテファン・ゲオルゲ弟子でしとなり、かれからふか影響えいきょうけるようになった[8][11][13][14]ウィ。

クラウスは芸術げいじゅつあいし、はじめ音楽家おんがくか目指めざした。しかしやがて音楽おんがく才能さいのうはないとさとり、その建築けんちくこころざした。1923ねん1がつ24にち学校がっこういた作文さくぶんには建築けんちくへのゆめかれている[15]1926ねんアビトゥーア合格ごうかくする[8]

ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん時代じだい

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1926ねんだい17騎兵きへい連隊れんたい入隊にゅうたいしたさいのクラウス・フォン・シュタウフェンベルク

音楽家おんがくか建築けんちく目指めざした時期じきもあったクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだったが、最終さいしゅうてきには軍人ぐんじんみちこころざし、1926ねん4がつ1にちバイエルンしゅうバンベルク駐留ちゅうりゅうするヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐんだい17騎兵きへい連隊れんたい入営にゅうえいした[11][16]。シュトゥットガルトに駐留ちゅうりゅうするだい18騎兵きへい連隊れんたいではなく、バンベルクのだい17騎兵きへい連隊れんたい志願しがんしたのは、この連隊れんたいヴェルサイユ条約じょうやくのち縮小しゅくしょうされた既存きそん連隊れんたい合併がっぺいさせてつくられた騎兵きへい連隊れんたいであり、そのなかには伯父おじベルトルトが大佐たいさつとめていたきゅうバイエルンじゅう騎兵きへい連隊れんたいふくまれており、その縁故えんこ期待きたいしたためとおもわれる[17]。しかし一族いちぞくからは「高位こうい貴族きぞく共和きょうわ主義しゅぎ軍隊ぐんたいつかえるとは何事なにごと」と不評ふひょうであったという[18]

1927ねん8がつ18にちには伍長ごちょうきゅう士官しかん候補こうほせいとなった。1927ねん10がつから1928ねん8がつまでドレスデン歩兵ほへい学校がっこう在学ざいがくして士官しかん候補こうほせいとしての訓練くんれんけた。さらに1928ねん10がつから1929ねん8がつにかけてはハノーファー騎兵きへい学校がっこう入学にゅうがくした。将校しょうこう任官にんかん試験しけん騎兵きへい首席しゅせき合格ごうかくし、1930ねん1がつ1にち少尉しょうい任官にんかんした[11][16][19]

 
1930ねん作成さくせいされたクラウス・フォン・シュタウフェンベルクのあたまぞう

1930ねん11月15にちニナ・フォン・レルヒェンフェルトドイツばん男爵だんしゃく令嬢れいじょう婚約こんやく彼女かのじょちちグスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵だんしゃくはかつてバイエルン王室おうしつ侍従じじゅうちょうだった人物じんぶつでシュタウフェンベルクが所属しょぞくするだい17騎兵きへい連隊れんたい将校しょうこうをよくもてなしていた。そのえんにんうことになった。1933ねん9がつにバンベルクで挙式きょしきした[20]

1930ねん11月から1931ねん2がつにかけてはポツダム迫撃はくげきほう研修けんしゅうけ、バンベルクにもどったのちだい17騎兵きへい連隊れんたい迫撃はくげきほう部隊ぶたい指揮しきかんとなった[21]

シュタウフェンベルクはさくで率直そっちょく魅力みりょくのある人物じんぶつだったので、会話かいわにおいて主導しゅどうけんにぎことおおかったという。ある同僚どうりょう将校しょうこうは「かなり大勢おおぜいじんあつまっているときでさえ、かれ姿すがた見過みすごすことはありなかった。そのつもりがなくても、かれはいつもひと中心ちゅうしんだった。かれからはひときつけ、納得なっとくさせ、信頼しんらいかんあたえるちからはっしていた」と証言しょうげんしている[22]。またかれ上官じょうかん騎兵きへい大隊だいたいちょうは1930ねんかれについて「軍事ぐんじてき能力のうりょくがあること知的ちてきすぐれていること自覚じかくしており、ときにひとったような皮肉ひにくっぽい態度たいどことがある。しかしそれで相手あいて感情かんじょうがいすることはない」とめている[23]上官じょうかんからも仲間なかまたちからもあつ信頼しんらいせられていたフォン・シュタウフェンベルクは、なんねんにもわたって連隊れんたい将校しょうこうクラブの商務しょうむ担当たんとうしていた[24]。また連隊れんたい名誉めいよ法廷ほうてい構成こうせいいんにも選出せんしゅつされている[16]

ヴァイマル共和きょうわせい時代じだい、ドイツは政治せいじてき混乱こんらんした時期じきつづいたが、シュタウフェンベルクは極端きょくたん政治せいじ心情しんじょうはあまりこうにしなかったという。しかしおおくの将校しょうこうたちと同様どうようかれ保守ほしゅてき愛国あいこくしゃであり、ヴェルサイユ条約じょうやく破棄はき強大きょうだいドイツ陸軍りくぐん再建さいけんねがっていた。もっともかれはどんな政府せいふであれ、軍人ぐんじんくにまもらなければならないという自負じふしんつよっており、ヴァイマル共和きょうわせいにも忠実ちゅうじつであった。ヴァイマル共和きょうわこくくろあかかねはたあざけ同僚どうりょうがあれば反論はんろんおこなっていた。このてんおおくの将校しょうこうたちとことなったてんだった[16][25]

ナチスにたいする態度たいど

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1933ねん1がつ30にち国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう)の党首とうしゅアドルフ・ヒトラー大統領だいとうりょうパウル・フォン・ヒンデンブルクより首相しゅしょう任命にんめいされ、ドイツの政権せいけん掌握しょうあくした。

ヒトラーの軍事ぐんじかんするイデオロギーは、ヴェルサイユ条約じょうやく打破だは軍拡ぐんかく目指めざすものであったので、シュタウフェンベルクとしても賛同さんどうするところがおおかった。であるシュテファン・ゲオルゲもナチとう一定いってい評価ひょうかをしていた(ただしゲオルゲはヒトラー内閣ないかく科学かがく芸術げいじゅつ国民こくみん教育きょういくしょうベルンハルト・ルストからの政府せいふ役職やくしょくへの就任しゅうにん要請ようせい拒否きょひしている)[26]だい17騎兵きへい連隊れんたい演習えんしゅうじょうでヒトラーの首相しゅしょう就任しゅうにんったときかれは「あいつめ、ついにやったか!」とさけび、熱狂ねっきょうてきよろこんだという。さらにそのばんには将校しょうこうクラブの席上せきじょうで「あたらしいとう」についての熱弁ねつべんるったといわれる[22]

一方いっぽうでナチとうはんユダヤ主義しゅぎかんするイデオロギーについてはまった同調どうちょうしなかった。所属しょぞくする騎兵きへい連隊れんたい代表だいひょうしてナチとう集会しゅうかい出席しゅっせきしたさい、ナチとうフランケンだい管区かんく指導しどうしゃユリウス・シュトライヒャー臆面おくめんもなくユダヤじんへの誹謗ひぼうおこなうと、かれ敢然かんぜんせきって退出たいしゅつしている[22]

1934ねん6がつまつから7がつはじめの「ながいナイフのよる事件じけんについては「透明とうめいせいはかるための自浄じじょう作用さよう」として肯定こうていてき評価ひょうかしている。しかしハーケンクロイツぐんくにしょうとしてがれたことやヒンデンブルク死去しきょぐんがヒトラーに忠誠ちゅうせい宣誓せんせいをさせられたことには否定ひていてきだった[27]。1938ねん2がつ国防こくぼうしょうヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥げんすい陸軍りくぐんそう司令しれいかんヴェルナー・フォン・フリッチュ上級じょうきゅう大将たいしょう解任かいにんブロンベルク罷免ひめん事件じけん)についてははげしく反発はんぱつし、不満ふまんなんくちにしている[28]

かれはんナチになった決定的けっていてき出来事できごとは、1938ねん11月9にちにナチとうこしたはんユダヤ主義しゅぎ暴動ぼうどう水晶すいしょうよる」だった。この惨事さんじたシュタウフェンベルクは「おおきな恥辱ちじょくがドイツにもたらされた」とかんじた。かれ副官ふっかんによるとかれのナチとうとう幹部かんぶ個人こじんへの批判ひはんはこの事件じけんをきっかけにしてはげしくなったという[11][29]

庶民しょみん出身しゅっしんしゃおおいナチスの野蛮やばん行為こういはシュタウフェンベルクの貴族きぞくブルジョワカトリックとしての道徳心どうとくしん正義せいぎかんはんした。かれはユダヤじん政策せいさく宗教しゅうきょう弾圧だんあつ反感はんかんいだくこととなる。

ナチス政権せいけんのドイツぐん時代じだい

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ナチ政権せいけんにおいてもぐんでは順調じゅんちょう昇進しょうしんたした。1933ねん5がつ1にち中尉ちゅうい昇進しょうしん[11][30]。1934ねん10がつから1936ねん10がつにかけてはハノーファー騎兵きへい学校がっこう訓練くんれん将校しょうこう助手じょしゅつとめた。1936ねん6がつにはぐん大学だいがくすすむためのぐん管区かんく試験しけん合格ごうかくした。また英語えいご通訳つうやく試験しけん優秀ゆうしゅう成績せいせきをとっていたため、1936ねん9がつにはイギリスを訪問ほうもんした。1936ねん10がつから1938ねん7がつにかけてベルリンのモアビットドイツばんにある陸軍りくぐんだい学校がっこう入学にゅうがくした。クラス首席しゅせき成績せいせき卒業そつぎょうしている[31]軍事ぐんじ大学だいがく在学ざいがくちゅうの1937ねん1がつ1にち騎兵きへい大尉たいい昇進しょうしんする[11][31]

1938ねん8がつ1にちにはエーリヒ・ヘプナー指揮しきするヴッパータール駐留ちゅうりゅうだい1けい師団しだんのちだい6装甲そうこう師団しだん改組かいそされる)に補給ほきゅうがかり将校しょうこうとして配属はいぞくされる[31]ミュンヘン協定きょうていもとづき、1938ねん10がつ1にちにドイツぐんチェコスロバキアズデーテン地方ちほう無血むけつ進駐しんちゅう開始かいし。シュタウフェンベルクの所属しょぞくするだい1けい師団しだんも10がつ4にちにズデーテンにはいり、チェコスロバキアぐん英語えいごばんチェコばん動員どういん解除かいじょされたズデーテン兵士へいし避難ひなんみん誘導ゆうどうする任務にんむにあたった。週間しゅうかん任務にんむわり、師団しだんはヴッパータールへ帰還きかんした。シュタウフェンベルクはヴッパータールを「想像そうぞうぜっするほどプロレタリアまと」とひょうし、このまちらすのをいやがっていたが、1938ねん12月になってつま子供こどもたちを同地どうちび、きょかまえることになった。以降いこう1943ねん7がつまでここをきょとした[32]

だい世界せかい大戦たいせん

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1939ねん9月1にちからはじまったポーランド侵攻しんこう参加さんかした。フシュタウフェンベルクの所属しょぞくするだい1けい師団しだんは9日間にちかんで200キロ以上いじょう進撃しんげきし、ヴィスワがわ一番乗いちばんのりしてすうせんにん捕虜ほりょにした[33]。10月12にち師団しだん平時へいじ基地きち帰還きかんし、だい6装甲そうこう師団しだんさい編成へんせいされた。シュタウフェンベルクは困難こんなん状況じょうきょうなかでも補給ほきゅう確保かくほしたことすうせんのポーランドじん捕虜ほりょたいしても模範もはんてきなまでに給養きゅうようしたことたいしてなん表彰ひょうしょうされた[34]。11月1にちけで参謀さんぼう大尉たいい(Hauptmann i.G)となり、正式せいしき参謀さんぼう本部ほんぶ転任てんにんし、あらためてだい6装甲そうこう師団しだん補給ほきゅうがかり将校しょうこうとなる[30]

1940ねん5がつ10日とおかから開始かいしされたたいふつせんにも参加さんかかれ所属しょぞくするだい6装甲そうこう師団しだんは5月12にちベルギー国境こっきょうえたのち、9日間にちかんで270キロ以上いじょう進撃しんげきをしたが、そのなかでもかれ補給ほきゅうをしっかりと確保かくほした。5月31にち一級いっきゅうてつじゅうあきら授与じゅよされるとともに陸軍りくぐんそう司令しれい(OKH)の参謀さんぼう本部ほんぶ編成へんせい2グループ(平時へいじ組織そしき命令めいれい系統けいとうちょうにんじられた[30][35]

シュタウフェンベルクは、たいふつせんについてイギリスぐんダンケルクの撤退てったいゆるしてしまったことについてヒトラーへの批判ひはんくちにしているが、戦争せんそう全体ぜんたいてきには成功せいこうしたため、ヒトラーを評価ひょうかするようになった。とくにヒトラーのがわちかくの参謀さんぼう本部ほんぶってからはかれたたえることおおくなった。「ヒトラーには軍事ぐんじてきかんがある。かれはすべてをおおきな関連かんれんせいでとらえ、ドイツの将来しょうらいのために努力どりょくしているのだろう。かれちかくにいると創造そうぞうてき思考しこう刺激しげきされる。かれ協力きょうりょくして勝利しょうりさせよう」などとべている[36][37]

1941ねん1がつ1にちには参謀さんぼう少佐しょうさ(Major i.G.)に昇進しょうしんした。6月にどくせん開始かいしされると頻繁ひんぱん前線ぜんせんぐん補給ほきゅう状態じょうたい視察しさつおこなった。同年どうねんふゆ、ドイツぐん厳寒げんかんでほとんど進軍しんぐんできず、そのあいだソ連それん態勢たいせいなおしてしまった。シュタウフェンベルクは1942ねんはるにはドイツが単独たんどくソ連それんぐん撃破げきはするのはもはや不可能ふかのうであり、ソ連それん住民じゅうみん協力きょうりょく必要ひつようだと確信かくしんするようになった。独裁どくさいしゃヨシフ・スターリン暴政ぼうせいしいたげられるソ連それん支配しはい住民じゅうみんおおくはドイツぐん解放かいほうぐんとして歓迎かんげいしていた。そのため占領せんりょう地域ちいき住民じゅうみん感情かんじょうそこなうような行動こうどうかれはよしとしなかった。4月にかれ参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこうとの会話かいわなかソ連それん捕虜ほりょ占領せんりょう地域ちいき一般いっぱん市民しみんたいする残忍ざんにん行為こういアインザッツグルッペンによるユダヤじん殺戮さつりくなどにいかりをべている[38]。また編成へんせい2グループちょうとして占領せんりょう地域ちいきからの志願しがんへいスラブじんへの差別さべつ意識いしきつよ親衛隊しんえいたい(SS)ではなく、国防こくぼうぐん管理かんりくよう努力どりょくした[39]

戦況せんきょう泥沼どろぬました1942ねんなつ以降いこうには「総統そうとう排除はいじょ」を本格ほんかくてきくちにするようになった。またヒトラーの「犯罪はんざいせい」を告発こくはつする発言はつげんふたたえた。8月には編成へんせいべつ将校しょうこうに「やつらはユダヤじん集団しゅうだんころしているんだ。こんなざいゆるされつづけてはならない」とくちにした[40]。9月26にち編成へんせい会議かいぎ席上せきじょうではかれ突然とつぜんちあがって「責任せきにんはヒトラーにある。やつ排除はいじょされなければ抜本ばっぽんてき改革かいかく無理むりだ。わたしにはその用意よういがある」とさけんだ[41][42]

前線ぜんせん視察しさつさいBぐん集団しゅうだん参謀さんぼうちょうゲオルク・フォン・ゾーデンシュテルンドイツばん大将たいしょうドンぐん集団しゅうだん司令しれいかんエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥げんすいたいしてヒトラー抵抗ていこう運動うんどう指導しどうしゃになってもらえないかと要請ようせいしているが、ことわられている[43]

陸軍りくぐんはもともとはんヒトラーの機運きうんつよく、かれのこのような発言はつげんもききながされていたが、ゲシュタポみみはいれば危険きけんだった。次第しだいかれ参謀さんぼう本部ほんぶないでも危険きけんかんじるようになり、1942ねんあきごろから参謀さんぼう本部ほんぶはなれたがるようになった。しかし同年どうねんちゅう許可きょかりなかった[41][44][45]

1943ねん1がつ1にち参謀さんぼう中佐ちゅうさ(Oberstleutnant i.G.)に昇進しょうしんした[46]。2月3にちベルリン短期たんき休暇きゅうかごしていたさいきたアフリカ戦線せんせんチュニジアだい10装甲そうこう師団しだん主席しゅせき参謀さんぼう将校しょうこう(Ia)として配属はいぞくするむね人事じんじ異動いどう通達つうたつされた。どう師団しだんは1942ねん11月にアルジェリアモロッコ上陸じょうりくしたべい英軍えいぐんたたかっていた。念願ねんがん前線ぜんせん勤務きんむとなったが、2ヶ月かげつの4がつ7にちにはっていたくるまがイギリス軍機ぐんき機銃きじゅう掃射そうしゃされて重傷じゅうしょうってしまった。スファックスちかくの野戦やせん病院びょういん移送いそうされ、ここで右手みぎて手首てくびからうえ、また左手ひだりて薬指くすりゆび小指こゆび切断せつだんした。また左目ひだりめ摘出てきしゅつせねばならなかった[47]。こののち、シュタウフェンベルクはふねリヴォルノ移送いそうされ、そこから病院びょういん列車れっしゃミュンヘン陸軍りくぐん病院びょういんおくられた。そこで3ヶ月かげつあいだ入院にゅういん生活せいかつおくった[48]

ヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく参加さんか

編集へんしゅう

シュタウフェンベルクはこれ以上いじょう戦況せんきょう悪化あっかするまえいちにちはやくヒトラーを暗殺あんさつしてクーデタをこし、べいえい講和こうわしてソ連それんからまもってもらうしかドイツがたすかるみちはないとさとった。入院にゅういんちゅう見舞みまいにおとずれた母方ははかた叔父おじニコラウス・フォン・ユクスキュル=ギレンバントドイツばん伯爵はくしゃくつうじて現在げんざい進行しんこうちゅうのヒトラー暗殺あんさつ計画けいかくルートヴィヒ・ベック退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょう中心ちゅうしんとした「くろいオーケストラ」とばれた抵抗ていこうグループ)にくわわること決意けついした[49][50]抵抗ていこうグループの中心ちゅうしん人物じんぶつ一人ひとりである国内こくない予備よびぐん一般いっぱん軍務ぐんむきょく局長きょくちょうフリードリヒ・オルブリヒト大将たいしょうは、一般いっぱん軍務ぐんむきょく参謀さんぼうちょうにシュタウフェンベルク中佐ちゅうさえるよう陸軍りくぐん人事じんじきょくをまわした[51]。シュタウフェンベルクは、7がつ3にちにミュンヘンの病院びょういん退院たいいんした。ヴッパータールの家族かぞくびもどしてラウトリンゲンじょうもどった[52][53]

1943ねん9がつはじめにはベルリンへおもむき、抵抗ていこうグループのメンバーであるヘニング・フォン・トレスコウ少将しょうしょうからクーデタ準備じゅんび手順てじゅん通達つうたつされた。そのクーデターとは、ヒトラーを暗殺あんさつしたのち国内こくない予備よびぐん司令しれい国内外こくないがいに17あるかくぐん管区かんく司令しれいたいして「ヴァルキューレ作戦さくせん」(ドイツ国内こくない有事ゆうじそなえた作戦さくせん)を発令はつれいして親衛隊しんえいたい・ゲシュタポ・とう機関きかん責任せきにんしゃを「反逆はんぎゃくしゃ」として拘束こうそくすることであった。

9月15にち国内こくない予備よびぐん一般いっぱん軍務ぐんむきょく参謀さんぼうちょう就任しゅうにんし、ベルリンのベンドラーブロックドイツばん国防省こくぼうしょう庁舎ちょうしゃない国内こくない予備よびぐん司令しれい勤務きんむした(正式せいしき任命にんめいは11月1にち職務しょくむぎや勉強べんきょうのために就任しゅうにんはやまった)[54]。このポストをことにより、以降いこうは「ヴァルキューレ作戦さくせん」の立案りつあん担当たんとうする立場たちばとなったシュタウフェンベルクが計画けいかく中心ちゅうしんになった。

クーデター計画けいかく成功せいこうは「ヴァルキューレ作戦さくせん」を発動はつどうしたときかくぐん管区かんく司令しれいがそれにしたがうかどうかにかかっていた。そのためシュタウフェンベルクはかくぐん管区かんく情報じょうほう提供ていきょうしゃとなる将校しょうこう最低さいていでも一人ひとり確保かくほしようとつとめた。かれ説得せっとくりょく生来せいらい貴族きぞく威厳いげん明晰めいせき論理ろんりなどにより17のぐん管区かんくのうち15のぐん管区かんく情報じょうほう提供ていきょうしてくれる将校しょうこう確保かくほした[55]

またクーデターには抵抗ていこうグループで統一とういつされた政権せいけんつくりたいとかんがえていたので、ユリウス・レーバーカール・ゲルデラーヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵はくしゃくヨハネス・ポーピッツウルリヒ・フォン・ハッセルヴィルヘルム・ロイシュナードイツばんウルリヒ・ヴィルヘルム・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンベルクドイツばん伯爵はくしゃくといった市民しみんレジスタンスメンバーとも交流こうりゅうふかめた[56][57]。レーバーをつうじて地下ちかもぐっている共産党きょうさんとうとも接触せっしょくはかった[58]。しかしシュタウフェンベルクはのレジスタンスメンバー(とくにゲルデラーとモルトケ伯爵はくしゃく)とはあまりいがよくなかったという[59]

難題なんだいなのはクーデタ計画けいかくだけでなく、その前提ぜんていであるヒトラー暗殺あんさつもであった。戦況せんきょう悪化あっかしてくるとヒトラーはほとんどおおやけ姿すがたせなくなり、厳重げんじゅう警備けいびされた総統そうとう大本営だいほんえいきこもるようになっていた。かぎられた側近そっきん以外いがいちかづくことすら困難こんなんになっていた。シュタウフェンベルクら抵抗ていこうグループのなかにもヒトラーに接近せっきんできるものはいなかった。ごくまれにヒトラーが公式こうしき行事ぎょうじ出席しゅっせきする機会きかいなどをねらって、覚悟かくごのある将校しょうこう暗殺あんさつ実行じっこうさせようとしたが、決定的けっていてき瞬間しゅんかん怖気おじけづいたり、あるいは計画けいかくなんらかの偶然ぐうぜん成就じょうじゅしないことがつづいた[60]

ところが1944ねん5がつ中頃なかごろにチャンスがおとずれた。シュタウフェンベルク大佐たいさかれは1944ねん4がつ1にち参謀さんぼう大佐たいさ昇進しょうしんしていた[46])が国内こくない予備よびぐん司令しれいかんフリードリヒ・フロム上級じょうきゅう大将たいしょう参謀さんぼうちょう就任しゅうにんすることが内定ないていしたのだ。この地位ちいにつけば国内こくない予備よびぐん任務にんむである陸軍りくぐん人員じんいん補充ほじゅう国内こくない治安ちあん維持いじ全面ぜんめん所管しょかんする。ヒトラーのまえ報告ほうこくおこなうこともある[61]。また総統そうとう大本営だいほんえいでは戦傷せんしょうしゃはSSによるボディーチェックを免除めんじょされていた[62]くわえて上官じょうかんであるフロムは抵抗ていこうグループにくわわってこそいないが、部下ぶかのオルブリヒトやシュタウフェンベルクたちのくわだてを黙認もくにんすることをあんしめしていた。これらの要素ようそにより抵抗ていこうグループは、シュタウフェンベルクをヒトラー暗殺あんさつ実行じっこうしゃえらんだ。暗殺あんさつクーデター成功せいこうあかつきにはかれしん政府せいふにおいて軍務ぐんむ大臣だいじんとなるオルブリヒトを補佐ほさする軍務ぐんむ次官じかん就任しゅうにんする予定よていであった[63]

ヒトラーとの対面たいめん

編集へんしゅう

1944ねん6がつ7にち1552ふんから1652ふんにかけて、シュタウフェンベルクは、フロム上級じょうきゅう大将たいしょうとともにベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘べっそうベルクホーフ」に招集しょうしゅうされ、ヒトラー臨席りんせき会議かいぎ出席しゅっせきした。フォン・シュタウフェンベルクがヒトラーと直接ちょくせつ対面たいめんしたのはこれがはじめてだった[64][65]

フロムがシュタウフェンベルクをヒトラーに紹介しょうかいすると、ヒトラーはゆびさんほんしかないシュタウフェンベルクの左手ひだりて両手りょうてにぎった。それからヒトラーはふるえる状況じょうきょうえはじめ、なんもシュタウフェンベルクをつめたという[64]

会議かいぎにはヒトラーのほか空軍くうぐんそう司令しれいかんヘルマン・ゲーリング国家こっか元帥げんすい内務ないむ大臣だいじん親衛隊しんえいたい全国ぜんこく指導しどうしゃハインリヒ・ヒムラー軍需ぐんじゅ大臣だいじんアルベルト・シュペーア国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)長官ちょうかんヴィルヘルム・カイテル元帥げんすいという錚々たるメンバーが参加さんかした。シュタウフェンベルクは会議かいぎにこの空気くうきを「どんよりとくさっていて、いきもできないほど」とひょうし、このメンバーのなか良識りょうしきがある人物じんぶつはシュペーアだけで全員ぜんいんサイコパスだとかんじたという。ヒトラーのうるんでおり、みすぼらしく弱々よわよわしい印象いんしょうけたという[64][66]。この会議かいぎにシュタウフェンベルクがばくだんっていった形跡けいせきはなく。最初さいしょ対面たいめんということもあり、暗殺あんさつ実際じっさい可能かのうかどうか吟味ぎんみするだけにめ、かれは「総統そうとうがわでは自由じゆう行動こうどうすることがゆるされる」という結論けつろんたっした[64][66][67]

かえされる暗殺あんさつ計画けいかく延期えんき

編集へんしゅう
 
7がつ15にちの「おい」。ひだりからシュタウフェンベルク(拡大かくだい写真しゃしん)、総統そうとう副官ふっかんプットカマー海軍かいぐん少将しょうしょう空軍くうぐん連絡れんらくかんボーデンシャッツ空軍くうぐん大将たいしょううしきの人物じんぶつ)、ヒトラー、カイテル

シュタウフェンベルクは1944ねん6がつ20日はつか正式せいしき国内こくない予備よびぐん参謀さんぼうちょう任命にんめいされた[46]ソ連それんぐんひがしプロイセンせまっていた。

7がつ6にち、ベルクホーフの会議かいぎ出席しゅっせきした。このときにはばくだん携帯けいたいしていった。ヘルムート・シュティーフ少将しょうしょう暗殺あんさつ決行けっこうしてくれると期待きたいしていたようだが、シュティーフが実行じっこうせずに失敗しっぱいした[68][69]

7がつ11にちのベルクホーフでの会議かいぎにも出席しゅっせき。しかしこの会議かいぎにはヒムラーとゲーリングが出席しゅっせきしていなかった。レジスタンスグループの中心ちゅうしん人物じんぶつであるベック退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょうはヒムラーとゲーリングは一緒いっしょ殺害さつがいしたほうがよいとかんがえていた。エーリヒ・ヘプナー退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょう、オルブリヒト大将たいしょうエーリッヒ・フェルギーベル大将たいしょうらはゲーリングについてはとく問題もんだいしていなかったが、ヒムラーは絶対ぜったいころさねばならないと主張しゅちょうしていた。ヒムラーが生存せいぞんしているとSSと国防こくぼうぐんあいだ内戦ないせんはじまるおそれがあったためである。オルブリヒトと連絡れんらくり、ヒムラーがいないことげると、かれ中止ちゅうし指示しじした。シュタウフェンベルクはシュティーフにかって「こん畜生ちくしょうめ。行動こうどうすべきではないのか」とくちにしたという[68][69][70]

7がつ14にち、ヒトラーは予告よこくなしでベルクホーフからソ連それんとの前線ぜんせんちかひがしプロイセンのラステンブルク総統そうとう大本営だいほんえいおい」へ移住いじゅう。フロムとシュタウフェンベルクも7がつ15にち同所どうしょて、東部とうぶ戦線せんせん投入とうにゅうするあたらしい師団しだんげについて報告ほうこくするようめいじられた。シュタウフェンベルクは1942ねんあき以来いらいおい」にことがなく土地とちかんがほとんどなかったが、てきがドイツ国土こくどせまっているいま、ヒトラーがベルクホーフにもどるのを時間じかんはなかった。「おい」で暗殺あんさつ決行けっこうすることとした[71][72]

フロムとシュタウフェンベルクがベルリンをったのち、ベンドラーブロックのオルブリヒトとその副官ふっかんアルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐たいさはフロムがいないのを好機こうきとして「ヴァルキューレ作戦さくせん」を発動はつどうし、ベルリン郊外こうがい陸軍りくぐん学校がっこう予備よび訓練くんれん部隊ぶたい最高さいこうレベルの緊急きんきゅう出動しゅつどう態勢たいせいらせた[73]事前じぜんに「ヴァルキューレ作戦さくせん」を発動はつどうしたのはこのときだけだった[70]

7がつ15にち午前ごぜんにシュタウフェンベルクが「おい」に到着とうちゃく。このはヒムラーも「おい」に滞在たいざいしていた。だが何故なぜ同日どうじつ3かいおこなわれた会議かいぎいずれもヒムラーが出席しゅっせきしていなかった。ヒムラーが最終さいしゅうてき出席しゅっせきしないこと確認かくにんされたのち、シュタウフェンベルクは会議かいぎしてベルリンのクイルンハイムと連絡れんらくり、ヒムラーが不在ふざいだが、決行けっこうしたいので許可きょかしいむねつたえた。クイルンハイムはそのむねをオルブリヒト、さらに電話でんわでベック、ヘプナーらに連絡れんらくした。しかし将軍しょうぐんたちは計画けいかく中止ちゅうしめいじた。シュタウフェンベルクはたまらず、クイルンハイムに「ぼく二人ふたりめるしかない」とい、将軍しょうぐんたちの指示しじ無視むしすること提案ていあんした。クイルンハイムも「やりたまえ」とこたえたが、すでに時期じきしっしていた。ヒトラーはそのまもなく会議かいぎ終了しゅうりょうさせてしまった[74]一方いっぽう、ベルリンのオルブリヒトとクイルンハイムは「演習えんしゅうだった」としてベルリンの警戒けいかい態勢たいせい解除かいじょしてつくろった。のちにこの「あいだちがった警報けいほう」のけんでカイテルがフロムをしかり、さらにフロムがオルブリヒトをしかった。しかしなんとかクーデタの意志いしかくとおせた[75][76]

シュタウフェンベルクは意気いき消沈しょうちんしてベルリンへもどるとクイルンハイムとはなった。二人ふたり意見いけんつぎのチャンスには将軍しょうぐんたちの意向いこう無視むししようということで一致いっちした[77]

暗殺あんさつ計画けいかく実行じっこう

編集へんしゅう
 
時限じげんばくだん爆発ばくはつしたさい会議かいぎしつ状態じょうたいあおがヒトラー。みどり生存せいぞんしゃあか死亡しぼうしゃ黄色おうしょくばくだん
 
時限じげんばくだん爆発ばくはつしたのち会議かいぎしつ惨状さんじょう

1944ねん7がつ20日はつかの13から「おい」で会議かいぎ予定よていされ、シュタウフェンベルクは出席しゅっせきめいじられた(上官じょうかんのフロムは招集しょうしゅうされなかった)。同日どうじつ8ごろにレジスタンスの同志どうしヘルムート・シュティーフ少将しょうしょうヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉ちゅうい(シュタウフェンベルクの副官ふっかん)とともにユンカースJu52輸送ゆそうでベルリン南方なんぽうのラングスドルフ飛行場ひこうじょうった[78][79]今回こんかい国防省こくぼうしょうにフロム上級じょうきゅう大将たいしょうがいたため、オルブリヒト大将たいしょうたちが事前じぜんに「ヴァルキューレ作戦さくせん」を発動はつどうさせることはなかった。

1015ふんひがしプロイセンのラステンブルク飛行場ひこうじょう到着とうちゃくした[80]シュタウフェンベルクは出迎でむかえのくるまみ、「おい」へかった。一方いっぽう、シュティーフとヘフテンはマウアーヴァルト陸軍りくぐんそう司令しれい(OKH)へかった[81]。シュタウフェンベルクはだい封鎖ふうさ区画くかく参謀さんぼう将校しょうこうたちとともに朝食ちょうしょくをとったのち、11ごろにはだいいち封鎖ふうさ区画くかくにある国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい(OKW)で作戦さくせん会議かいぎまえ予想よそうされるヒトラーの質問しつもん円滑えんかつこたえられるようにおこなわれた陸軍りくぐん参謀さんぼうちょうヴァルター・ブーレドイツばん中将ちゅうじょう主催しゅさい予備よび会議かいぎ出席しゅっせきした。さらに1130ふんには予備よび会議かいぎ出席しゅっせきしゃ全員ぜんいんブーレにれられて国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい総長そうちょうカイテル元帥げんすい公舎こうしゃおとずれ、元帥げんすいまえ作戦さくせん会議かいぎ最後さいごわせをおこなった[80][82]。このさいにヘフテンも合流ごうりゅうした[80]

12すこまえ、ヒトラーの従者じゅうしゃハインツ・リンゲ親衛隊しんえいたい大尉たいいがカイテルに電話でんわしてきて、ヒトラーの作戦さくせん会議かいぎが30ふんはやまって1230ふんからおこなわれることになったと通達つうたつした。そのベニート・ムッソリーニ訪独ほうどくする関係かんけいでヒトラーははやめに作戦さくせん会議かいぎわらせようとした[83][84][85]

シュタウフェンベルクは作戦さくせん会議かいぎおこなわれる建物たてものかう直前ちょくぜん、カイテルの副官ふっかんエルンスト・ヨーン・フォン・フライエントドイツばん中佐ちゅうさにシャツを着替きがえられる部屋へや要求ようきゅうした。ヘフテンとともに案内あんないされたしょう部屋へやはいり、二人ふたりばくだん準備じゅんび開始かいしした。ばくだん用意よういしてあったがシュタウフェンベルクが書類しょるいかばんれたばくだんいちだけだった。これは抵抗ていこうグループのメンバーで総統そうとう大本営だいほんえい通信つうしん司令しれいかんのフェルギーベル大将たいしょうがカイテルの事務所じむしょ電話でんわしてきて、シュタウフェンベルクとわってほしいともとめ、伝令でんれいのフォーゲル曹長そうちょうが、シュタウフェンベルクのいる部屋へやはいってきたため、あせったかれがとっさに信管しんかん起動きどうさせたほうばくだんだけを書類しょるいかばんすべませ、起動きどうさせてないもういちはヘフテン中尉ちゅういわたしてしまったためだった。しかしいち爆発ばくはつすればもういち誘爆ゆうばくする。もういちばくだん書類しょるいかばんれなかったのは痛恨つうこんのミスだった。専門せんもん意見いけんによるとこのときもういちばくだん書類しょるいかばんれておけば会議かいぎしつにいたもの全員ぜんいん死亡しぼうしただろうとわれている[86][87]

電話でんわのち、シュタウフェンベルクはさきったカイテルいちぎょういかけ、一方いっぽうヘフテンは飛行場ひこうじょうかうためのくるま用意よういかった。二人ふたり副官ふっかん建物たてものうこととした。みちすがら、フライエントが左手ひだりてゆびさんほん書類しょるいかばんつシュタウフェンベルクを気遣きづかって「書類しょるいかばんわたしちましょう」ともうたが、シュタウフェンベルクはあらっぽく怒鳴どなりつけて拒否きょひした[87]

1230ふんをわずかにぎて「総統そうとう封鎖ふうさ区画くかく」に到着とうちゃくした。会議かいぎじょうは7がつ15にち会議かいぎときとはべつ建物たてものだった。当日とうじつ気温きおんたかかったため、地下ちかしつおこなわれる予定よてい作戦さくせん会議かいぎ地上ちじょう会議かいぎしつおこなわれた。爆風ばくふうまどからげるため、ばくだんによる殺傷さっしょうりょくげんじる環境かんきょうであった。会議かいぎよう兵舎へいしゃはい直前ちょくぜん、シュタウフェンベルクはフライエントに「わたしせきをできるかぎ総統そうとうちかくにしてもらえないか」とささやいた。一行いっこう入室にゅうしつするとすでにヒトラーがおり、地図ちずつくえかこんで作戦さくせん会議かいぎはじまっていた。ヒトラーのみぎよこにいる参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょうアドルフ・ホイジンガー中将ちゅうじょう東部とうぶ戦線せんせん状況じょうきょう報告ほうこくおこなっているところだった。会議かいぎにはヒムラーもゲーリングも姿すがたえなかった。だが今日きょう将軍しょうぐんたちの意向いこうがどうあれ決行けっこうするつもりだった。フライエントはホイジンガーのうしろにいた将校しょうこう重度じゅうど傷痍軍人しょういぐんじんであるシュタウフェンベルクにせきわってあげてほしいともとめた。これでヒトラーとシュタウフェンベルクのあいだはホイジンガーだけという位置いち関係かんけいになった[88][89][90]

シュタウフェンベルクは時限じげんばくだんはいった書類しょるいかばん地図ちずつくえみぎささえの側板そくばんにもたれかけさせた。ヒトラーのほう爆風ばくふうとどくようにささえからはみすようにいた(しかしちかくにいたハインツ・ブラント大佐たいさ邪魔じゃまおもい、書類しょるいかばんおくんでしまったためヒトラーとばくだんあいだささえがはいり、ヒトラーは直撃ちょくげきからまもられるかたちとなった)[91][92]

こののちすぐにシュタウフェンベルクはフライエントにそとはなしたいという合図あいずをして二人ふたり会議かいぎしつそとた。そしてフェルギーベルと電話でんわつないでほしいともとめた。フライエントは会議かいぎとう電話でんわ交換こうかんしゅにつなぐようめいじて会議かいぎしつもどっていった。シュタウフェンベルクは受話器じゅわきくと会議かいぎとうから脱出だっしゅつした。かれはベルトと軍帽ぐんぼう回収かいしゅうせずに会議かいぎとうのこしている。会議かいぎとうてフェルギーベルとヘフテンのいる副官ふっかんのあった813号棟ごうとうかった。二人ふたりとともにはなしをしているあいだ会議かいぎとうほうばく発音はつおんひびいた。1240ふんぎのことであった[89][93]

シュタウフェンベルクとヘフテンは成功せいこう確信かくしんし、くるまんで「おい」からった。3つの検問けんもんしょでいずれもめられたが、通行つうこうしょうせたり、知人ちじん当直とうちょく士官しかん電話でんわしてはなしとおしてもらうなどして遮断しゃだんげさせて通過つうかした。運転うんてんしゅのクロイツは、シュタウフェンベルクが軍帽ぐんぼうをかぶっていなかったことやヘフテンが道中どうちゅうなにか(あまったもういちばくだん)をもりなかてたのをバックミラーでたことによりにんうたがいをったが、結局けっきょく命令めいれいどおりに空港くうこうおくとどけた。1315ふん二人ふたりハインケルHe111でベルリンへとった[94][95][96]

この時点じてんでのシュタウフェンベルクにはよしもなかったが、ヒトラー暗殺あんさつ失敗しっぱいしていた。ばくだん付近ふきんにいた将校しょうこう速記そっきしゃだけが死亡しぼう負傷ふしょうし、ヒトラー自身じしん軽傷けいしょうったにぎなかった。また「おい」の通信つうしん機能きのうはフェルギーベルがマヒさせる手筈てはずになっていたが、かれらの予想よそうはるかにえる強固きょうこ構造こうぞうっていた「おい」を完全かんぜん孤立こりつさせるのはかれだけでは不可能ふかのうであった。事件じけんのちも「おい」の通信つうしん機能きのう正常せいじょう機能きのうした[97]。ヒトラーの命令めいれいで「おい」にけたヒムラーとSSの捜査そうさいんたちは捜査そうさおこない、会議かいぎからいちにんだけ姿すがたしたシュタウフェンベルクにうたがいをけた。ヒムラーはベルリンのゲシュタポにかれ逮捕たいほめいじた。

クーデター 

編集へんしゅう
 
ベルリンのベンドラーブロック(国防省こくぼうしょう)。シュタウフェンベルクはここのなかにある国内こくない予備よびぐん事務所じむしょからクーデターの指揮しきった。

ベルリンのベンドラーブロックにも事件じけんほうはあったが、ヒトラー死亡しぼう生存せいぞんほう両方りょうほうながれ、混乱こんらんした。オルブリヒト大将たいしょう動揺どうようし、ひとまず「ヴァルキューレ作戦さくせん」は発動はつどうしないこととした。そして何事なにごともなかったかのように昼食ちゅうしょくをとりにった[98]。しかしオルブリヒトの副官ふっかんクイルンハイム大佐たいさ我慢がまんできず、14まえ独断どくだんいくつかの緊急きんきゅう命令めいれいはっしている[99]

1545ふんごろ、シュタウフェンベルクとフォン・ヘフテン中尉ちゅういせたハインケルHe111がベルリン南方なんぽうのラングスドルフ飛行場ひこうじょう着陸ちゃくりくした[96][100]二人ふたりはオルブリヒトに電話でんわしてヒトラーのつたえた。シュタウフェンベルクは「ヴァルキューレ作戦さくせん」の発動はつどうおそさにおどろき、まわりもにせず「ヒトラーはんだ!」と電話でんわこう怒鳴どなりつけた[101]

オルブリヒトは「ヴァルキューレ作戦さくせん発動はつどう決意けついしたが、このときは7がつ15にちちがいフロム上級じょうきゅう大将たいしょうがベルリンにいたため、かれ許可きょか必要ひつようであった。オルブリヒトはフロムにヒトラーの報告ほうこくし、「ヴァルキューレ作戦さくせん」の発動はつどう具申ぐしんした。しかしフロムはヒトラーの懐疑かいぎてきであり、すぐに「おい」のカイテル元帥げんすい連絡れんらくった。カイテルからヒトラーの生存せいぞんげられたフロムは「ヴァルキューレ作戦さくせん発動はつどう命令めいれいしょへの署名しょめい拒否きょひした。オルブリヒトもえきらない態度たいどであったため、クイルンハイムがフロムにもオルブリヒトにも独断どくだんで16すこまえに「ヴァルキューレ作戦さくせん」を発動はつどうした[97]

ぜんぐん管区かんく国内こくない予備よびぐんに「ヴァルキューレ」のキーワードがおくられた。また付随ふずいして「総統そうとう逝去せいきょ前線ぜんせんらず、良心りょうしんのかけらもないとう幹部かんぶのゴロツキが、この状況じょうきょう利用りようして、激戦げきせん最中さいちゅうにある前線ぜんせん部隊ぶたい背後はいごおそいかかり、私利しり私欲しよく政権せいけんうばおうとしている。このような国家こっか存亡そんぼう危機ききにあたり、政府せいふほう秩序ちつじょ維持いじするために戒厳かいげんれいくとともに、国防こくぼうぐん指揮しきけん小官しょうかんにゆだねた」というエルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥げんすい名義めいぎのテレタイプもおくられた[99][102]

シュタウフェンベルクたちもくるまでベンドラーブロックへかい、1630ふんごろには到着とうちゃくした[103]。シュタウフェンベルクはすぐにフロムのもとき、クーデターにくわわるよう説得せっとくしたが、フロムはなおもカイテルのヒトラー生存せいぞんせつたてに、クーデターへの協力きょうりょく頑強がんきょう拒否きょひした。また独断どくだんで「ヴァルキューレ作戦さくせん」を発動はつどうされたこといかり、シュタウフェンベルクにたっめいじた。たっ拒否きょひするとフロムはさら激怒げきどし、かれなぐりかかろうとしたが、ヘフテンらがすぐにフロムに拳銃けんじゅうきつけて牽制けんせいした。シュタウフェンベルクはフロムを司令しれいない一室いっしつ監禁かんきんするようめいじた。フロムは「この状況じょうきょうでは、おれはおはらばこのようだな」とてるようにくちにしただけで大人おとなしく監禁かんきんされた。しかし内心ないしんでは部下ぶか屈辱くつじょくてきあつかいをけたことにいかりをえたぎらせていた[104][105]。クーデター・グループはヘプナー退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょうあたらしい「国内こくない予備よびぐん司令しれいかん」にえた[106]

一方いっぽうクーデタ国家こっか元首げんしゅ就任しゅうにんする予定よていだったベック退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょうが17にベンドラーブロックにあらわれた。ベックはヒトラー暗殺あんさつ成否せいひからないことげられてもどうじず、「わたしにとって、あのおとこんだ。わたしのこれからの行動こうどうめるのは、このいちてんである。我々われわれはこの路線ろせんはずしてはならない。そうしないと、味方みかた陣営じんえい混乱こんらんおとしいれてしまう」とこたえたという[107]

作戦さくせん発動はつどうのち総統そうとう大本営だいほんえいからヒトラーの生存せいぞんつたえる情報じょうほうされた。相反あいはんするふたつの命令めいれいけた各地かくち軍部ぐんぶたい混乱こんらんし、国内こくない予備よびぐんわせが殺到さっとうする。シュタウフェンベルクらは、電話でんわでその説明せつめいわれた。途中とちゅう、ヒムラーのいのちけたゲシュタポ将校しょうこうフンベルト・アッハマー=ピフラーダードイツばん親衛隊しんえいたい上級じょうきゅう大佐たいさがシュタウフェンベルクの逮捕たいほあらわれたが、シュタウフェンベルクはぎゃくかれ逮捕たいほさせた。うしろ取引とりひき使つかえるとかんがえて殺害さつがいはしなかった[108]

ベルリン防衛ぼうえいぐん司令しれいかんパウル・フォン・ハーゼ中将ちゅうじょう同志どうしであり、かれオットー・エルンスト・レーマー少佐しょうささん中隊ちゅうたい指揮しきして中央ちゅうおう官庁かんちょうがい占拠せんきょするようめいじた。宣伝せんでんしょう宣伝せんでんしょうヨーゼフ・ゲッベルス公邸こうてい包囲ほういされた[109]。この、ベルリンにいたナチとう大物おおものはゲッベルスのみであった[110]。ゲッベルスはレーマーをハーゼからはなすため、19から20にかけてレーマーをゲーリングどおりの私邸してい招集しょうしゅうして、ヒトラーと電話でんわ直接ちょくせつはなしをさせた。ヒトラーはあたらしい国内こくない予備よびぐん司令しれいかんにんじたヒムラーがベルリンに到着とうちゃくするまで、レーマーを自分じぶん直属ちょくぞくとしベルリンの反乱はんらん鎮圧ちんあつ全権ぜんけんとするとした。総統そうとう命令めいれいもとづきレーマーはただちに中央ちゅうおう官庁かんちょうがい封鎖ふうさ解除かいじょし、ぎゃくにハーゼの首都しゅと防衛ぼうえいぐん司令しれい包囲ほういした。これにより情勢じょうせい逆転ぎゃくてんした。

ベンドラーブロックの空気くうきわるくなりはじめた。中央ちゅうおう官庁かんちょうがいもラジオきょくおさえられず、ハーゼはゲシュタポにより逮捕たいほされてしまった。クーデターぐん最高さいこう司令しれいかんになる予定よていだったヴィッツレーベン元帥げんすいはクーデター情勢じょうせい悪化あっかさとり、日和見ひよりみになりはじめた。かれはシュタウフェンベルクとベックをののしり、「我々われわれ帰営きえいする!」と宣言せんげんしてベンドラーブロックからった。シュタウフェンベルクのまわりには、ベック、オルブリヒト、クイルンハイム、ヘフテンなど投降とうこうしない覚悟かくごめたひとたちだけがのこった。クーデターとはらず「ヴァルキューレ作戦さくせん」にしたがって行動こうどうしていたベンドラーブロックない将校しょうこう兵士へいしたちも徐々じょじょにこれがクーデターであること気付きづはじめ、あやしげな指令しれいしているシュタウフェンベルクたちに不信ふしんかんつのらせた。ヒトラー生存せいぞんほう庁舎ちょうしゃないひろまるにつれ、将校しょうこうたちは反逆はんぎゃくしゃ一味いちみになることけようと、シュタウフェンベルクらにたいする対抗たいこう勢力せいりょくつくりはじめた。監禁かんきんされているフロムもかれらと連絡れんらくろうとした[111][112][113]

そして22時半じはんすぎ、オルブリヒトがベンドラーブロックないはんクーデター将校しょうこうたちにより拘束こうそくされ、そこへシュタウフェンベルクらクーデターあらわれたことでクーデターはんクーデター銃撃じゅうげきせんとなった。この銃撃じゅうげきせんでシュタウフェンベルクは左腕さわん重傷じゅうしょうう。結局けっきょくはんクーデター勝利しょうりし、シュタウフェンベルクらは逮捕たいほされた。監禁かんきんされていたフロムははんクーデターにより解放かいほうされた[114]

処刑しょけい

編集へんしゅう
 
ベンドラーブロック(国防省こくぼうしょう中庭なかにわ。ここでシュタウフェンベルクらは銃殺じゅうさつされた。

ベック退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょう、ヘプナー退役たいえき上級じょうきゅう大将たいしょう、オルブリヒト大将たいしょう、クイルンハイム大佐たいさ、ヘフテン中尉ちゅうい、そしてシュタウフェンベルクがフロム上級じょうきゅう大将たいしょう執務しつむしつあつめられた。23ごろからフロムは独断どくだん即決そっけつ軍法ぐんぽう会議かいぎ開廷かいていした。すでに総統そうとう命令めいれいによりフロムは国内こくない予備よびぐん司令しれいかん地位ちい解任かいにんされており、後任こうにんにはヒムラーが就任しゅうにんしていたが、フロムやベンドラーブロックない将校しょうこうたちはまだそのことらなかった[114][115]

フロムはほこったように宣言せんげんした。「さて諸君しょくん諸君しょくん今日きょう昼間ひるまわたしにした仕打しうちを、わたしがいまから諸君しょくんにおかえししよう」[114][116][117]。シュタウフェンベルクは憤怒ふんぬでフロムをにらみつけていたという[117][118]

フロムはまず「反逆はんぎゃくざい逮捕たいほする。武装ぶそう解除かいじょせよ」とたからかに宣言せんげんし、そして即決そっけつ軍法ぐんぽう会議かいぎひらくと宣言せんげんした。これをいたベックは(自決じけつのため)拳銃けんじゅう保持ほじする将校しょうこう権利けんりもとめた。フロムはこれをみとめた。ベックは同志どうしたちに最後さいごわかれをげ、こめかみにじゅうけたが、ふるえて自決じけつ失敗しっぱいし、結局けっきょくフロムの部下ぶかでとどめをされた[119][120]

フロムはものたちにたいしても「最期さいごのぞみはあるか?」といた。ヘプナーはただちに「自分じぶんはこのけんなんのかかわりもない。無実むじつ証明しょうめいしたいので供述きょうじゅつしょきたい」とうったた。オルブリヒトも一筆いっぴつしたためることを希望きぼうした[121]

これに30ふんほど時間じかんったのち、フロムは判決はんけつくだした。「総統そうとうにおいて、小官しょうかん即決そっけつ裁判さいばん開廷かいていし、判決はんけつくだす。メルツ・フォン・クイルンハイム参謀さんぼう大佐たいさ、オルブリヒト大将たいしょう名前なまえくちにするのもけがらわしいぼう大佐たいさ、フォン・ヘフテン中尉ちゅうい死刑しけいしょする」[120][121][122][123]

ずっとだまっていたシュタウフェンベルクだったが、この判決はんけついたのち、「今日きょう出来事できごとすべわたし命令めいれいによってこされました。自分じぶん以外いがい軍人ぐんじんとして職務しょくむしたがったにぎません。だんじてかれらにつみはありません。すべての責任せきにんうのはわたしであり、つみおかしたのもわたしだけです」とべた。フロムはなにこたえなかった。かれわきってみちをあけることで「れてけ」という命令めいれいあんした。死刑しけいしゅうたちは処刑しょけいじょう中庭なかにわ連行れんこうされた。シュタウフェンベルクは出血しゅっけつ多量たりょう意識いしきうしないそうになっていたため、ヘフテンにささえられながらあるいた。のちにはヘプナーだけがのこされた。ヘプナーは切羽詰せっぱつまった様子ようすでフロムに色々いろいろ弁解べんかいした。フロムはそれをれ、「ヘプナー上級じょうきゅう大将たいしょう監視かんしけ」と指示しじした[124]

7がつ21にちはいった深夜しんや015ふんごろ、シュタウフェンベルク、オルブリヒト、クイルンハイム、ヘフテンら4にん死刑しけいしゅうは、ベンドラーブロックの中庭なかにわにある砂山すなやままえ間隔かんかくをおいてならばされた。軍用ぐんようしゃのヘッドライトがよんにんらした。まずオルブリヒトが銃殺じゅうさつされた。いでシュタウフェンベルクのばんとなったが、銃弾じゅうだん発射はっしゃされるまえかれまえにヘフテンがちはだかったため、さきかれ銃殺じゅうさつされた。シュタウフェンベルクは、「わがせいなるドイツ万歳ばんざい!」さけび、銃弾じゅうだんたおれた[122][125]最後さいごのクイルンハイムが銃殺じゅうさつされたとき時刻じこくは033ふんだった[126][127]

フロムはシェーネベルク地区ちくドイツばんのマタイ教会きょうかい墓地ぼちかれらの遺体いたいはこばせ、軍服ぐんぷく勲章くんしょう着用ちゃくようしたままの軍人ぐんじんとしての埋葬まいそう許可きょかした[128]

処刑しょけい

編集へんしゅう
 
ベンドラーブロックを占拠せんきょした親衛隊しんえいたい部隊ぶたい

フロム上級じょうきゅう大将たいしょう中庭なかにわにいる軍人ぐんじんたちに「総統そうとうとうといのちまもったかみ摂理せつり感謝かんしゃする」と演説えんぜつして「ジーク・ハイル」を三唱さんしょうさせたのち執務しつむしつもどっていった[126]執務しつむしつもどるとただちに「無責任むせきにん将軍しょうぐんたちにより発動はつどうされた反乱はんらん鎮圧ちんあつされた。首謀しゅぼうしゃ射殺しゃさつされた。フォン・ヴィッツレーベン、ヘプナー、ベック、オルブリヒトのされている命令めいれいにはしたがってはならない。わたしじゅうきつけられて一時いちじ監禁かんきんされたが、ふたた指揮しきことになった」と指揮しき実際じっさいにはもはやそうではなかったが)の国内こくない予備よびぐん部隊ぶたい電報でんぽうおくらせた[123][126][129]。その、フロムはゲッベルスのしたおもむき、ヒトラーとはなしができるようはからってほしいともとめた[130]シュ。しかしゲッベルスはフロムに「きみいそいで地下ちかから、きみ証人しょうにんりだしてきたまえ!」といいはなち、かれ逮捕たいほさせた。フロムはこののちローラント・フライスラー人民じんみん裁判所さいばんしょおくられ、1945ねん3がつ銃殺じゅうさつけいしょされた[126][129][131]

7がつ21にちがたしん国内こくない予備よびぐん司令しれいかんであるヒムラーがベルリンに到着とうちゃくした。ベンドラーブロックは武装ぶそう親衛隊しんえいたい部隊ぶたいにより占拠せんきょされた。ベルリンにいる容疑ようぎしゃ次々つぎつぎ逮捕たいほされ、ヒムラーの捜査そうさ本部ほんぶがおかれたゲッベルスてい連行れんこうされた[132]。またヒムラーのいのちにより、シュタウフェンベルクらの遺体いたいされ、勲章くんしょう階級かいきゅうしょう剥奪はくだつされたうえ焼却しょうきゃくされ、はい野原のはらにばらかれた[128][133]

国家こっか保安ほあん本部ほんぶ長官ちょうかんエルンスト・カルテンブルンナー証拠しょうこあつめの責任せきにんしゃとなった。ヴィッツレーベン元帥げんすい、ヘプナー上級じょうきゅう大将たいしょう、フェルギーベル大将たいしょう、ハーゼ中将ちゅうじょう、シュティーフ少将しょうしょう、ゲルデラー、ポーピッツ、ハッセル、モルトケ伯爵はくしゃくはフライスラーの人民じんみん法廷ほうていにかけられて絞首刑こうしゅけいしょされた。トレスコウ少将しょうしょう自決じけつしている。総計そうけい7000にん逮捕たいほされ、うちやく200にん処刑しょけいされたといわれる[134]

戦後せんごになり、シュタウフェンベルクは「ヒトラーにたいする抵抗ていこう運動うんどう英雄えいゆう」として賞賛しょうさんされる。戦後せんご国内こくない予備よびぐん司令しれいのあったベンドラーブロック正面しょうめん街路がいろがベンドラーどおりからシュタウフェンベルクどおりへ改名かいめいされ、ベンドラーブロックないには記念きねんかん開設かいせつされ、ヒトラー抵抗ていこう運動うんどうかんする5,000をえる写真しゃしん文書ぶんしょ展示てんじされている。暗殺あんさつ計画けいかく関与かんよした将校しょうこうたち射殺しゃさつされた中庭なかにわにはくさりでつながれた若者わかもののブロンズぞう象徴しょうちょうとしてかれている。

また、ベンドラーブロックには国防省こくぼうしょうのベルリン庁舎ちょうしゃかれている(国防省こくぼうしょう本体ほんたい現在げんざいもライン河畔かはんボンにある)。毎年まいとし7がつ20日はつかここで外国がいこくから賓客ひんきゃくむかえ、ドイツ連邦れんぽうぐん忠誠ちゅうせい宣誓せんせいしきおこなわれる。ナチス政権せいけんのドイツでは軍人ぐんじんは「ドイツとドイツ民族みんぞく総統そうとうであるヒトラーに無条件むじょうけん忠誠ちゅうせいちかう」と宣誓せんせいした。忠誠ちゅうせい宣誓せんせいゆえにドイツ軍人ぐんじんおおくはヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく参画さんかくしなかった。マンシュタイン元帥げんすい台詞せりふ「プロイセン軍人ぐんじん反逆はんぎゃくしない」は有名ゆうめいである。

しかし、今日きょうのドイツ連邦れんぽうぐんでは特定とくてい個人こじんではなく「ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく忠誠ちゅうせいくし、ドイツ民族みんぞく自由じゆう正義せいぎまもることをちかう」と宣誓せんせいする。昇進しょうしんできないことを条件じょうけん忠誠ちゅうせい宣誓せんせい拒否きょひする権利けんりみとめられている。

 
長男ちょうなんのベルトルト

クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはつまニナとのあいだに5にん子供こどもをもうけた。長男ちょうなんベルトルトドイツばん次男じなんハイメラン、三男さんなんフランツ=ルートヴィヒドイツばん長女ちょうじょヴァレリエ、次女じじょコンスタンツェである(次女じじょコンスタンツェはクラウスの死後しごまれた)。

クラウスは家族かぞくまれないようにとつまニナにもヒトラー暗殺あんさつ計画けいかくけていなかった。しかしニナはおっと様子ようすみょうであることづき、「あなた、謀反むほんじんごっこをしているのでしょう」といたことがあった。クラウスはそれをみとめたが、「おまえらないほうがいい」とってくわしい内容ないようはなさなかったという[135]

事件じけん、ナチス政府せいふにくしみはレジスタンスのなかでもとく貴族きぞくかった。ドイツ労働ろうどう戦線せんせん全国ぜんこく指導しどうしゃロベルト・ライは、事件じけんに『デア・アングリフ』に寄稿きこうした記事きじなかで「貴族きぞくはユダヤじん手先てさき」と断罪だんざいした[136]。そしてそのにくしみがもっとけられたのがシュタウフェンベルク伯爵はくしゃくであった。内務ないむ大臣だいじんハインリヒ・ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵はくしゃく一人ひとりのこらず根絶ねだやしにせねばならない」と発言はつげんした[137]

ヒムラーはシュタウフェンベルク伯爵はくしゃくつらなるもの徹底的てっていてき逮捕たいほするようめいじた。伯爵はくしゃく財産ざいさんはすべて接収せっしゅうされ、シュタウフェンベルクせい名乗なのることをきんじられた。ニナは8がつ17にちに4にん子供こどもたちとはなされ、クラウスのははであるカロリーネとともにラーフェンスブリュック強制きょうせい収容しゅうようしょ収容しゅうようされた。子供こどもたちはバート・ザクサにあったナチスの養護ようご施設しせつおくられ、さい教育きょういくけた。ニナは当時とうじ身重みおもで1945ねん1がつ次女じじょコンスタンツェを出産しゅっさんした[136]

クラウスの長兄ちょうけいベルトルト (クラウスの長男ちょうなん同名どうめい) もはんヒトラーグループに参加さんかしていた。かれはベンドラーブロックの国内こくない予備よびぐん司令しれいでクラウスとともに逮捕たいほされ、8がつ10日とおかにフライスラーの人民じんみん裁判所さいばんしょさばかれ、そののうちにベルリンのプレッツェンゼー刑務所けいむしょでピアノせんによる絞首刑こうしゅけいしょされた。次兄じけいアレクサンダードイツばん事件じけんがあったとき徴兵ちょうへいされて前線ぜんせんており、ドイツにいなかった。事件じけんにも関係かんけいしていなかったが、「親類しんるい縁者えんじゃ」として強制きょうせい収容しゅうようしょおくられた。かれシュトゥットホーフ強制きょうせい収容しゅうようしょブーヘンヴァルト強制きょうせい収容しゅうようしょ、シェーンベルク拘置こうちしょなどを転々てんてんとさせられた[138]

1945ねん4がつにバート・ザクサはアメリカぐんにより解放かいほうされた。8月になってようやくニナは子供こどもたちと再会さいかいできた[139]。ニナは2006ねん4がつ2にち、ドイツ南部なんぶのキルヒラウターで死去しきょした。92さいであった。長男ちょうなんベルトルトは、戦後せんごにドイツ連邦れんぽうぐん陸軍りくぐん少将しょうしょうになった。三男さんなんフランツ=ルートヴィヒはドイツ議会ぎかいおよ欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいんとなった。次女じじょコンスタンツェは2008ねんははニナの伝記でんき出版しゅっぱんし、ドイツでベストセラーとなっている。

フォン・シュタウフェンベルク自身じしん発言はつげん

編集へんしゅう
  • 「このくに荒涼こうりょうとしている。すなほこりばかりだ。住民じゅうみんしんじられないほどまずしい。非常ひじょうおおくのユダヤじんとその混血こんけつがいる。むちたれなければかない国民こくみんだ。かずせん戦争せんそう捕虜ほりょ我々われわれ農業のうぎょう労働ろうどうしゃとしてやくつだろう」(1939ねん9がつたいポーランドせん従軍じゅうぐんちゅう。ポーランドについて)[33][140]
  • 「ポーランドを計画けいかくてき植民しょくみんすることは絶対ぜったい不可欠ふかけつだ。それに不安ふあんはない。西方せいほうてきはドイツ経済けいざいげたことを根拠こんきょ戦争せんそうはじめたのだから、これはえいふつにとってだい打撃だげきだろう。えいふつ万策ばんさくきた。フランスぐんがドイツりょう侵攻しんこうしてもたいした戦果せんかられまい。では我々われわれ攻撃こうげきをしかけることになるのだろうか・・・?」(1939ねん9がつ、ポーランド戦後せんご[34][141]
  • いち大国たいこく崩壊ほうかいするようを、ぼくらはたりにしている。軍事ぐんじめんだけではなく、精神せいしんめんでもだ。ぼくたちの進撃しんげきルートをたどることが出来できるだろうか。アイフェル高地こうち、アルデンヌのもり、マースがわ、オワーズがわえ、今日きょうはもうソンムがわかな。前代未聞ぜんだいみもん進軍しんぐん正真正銘しょうしんしょうめい侵略しんりゃく破竹はちく進撃しんげきだ。たいするフランスぐんたたかおうという意志いしさえせなかった。かずせんにん大挙たいきょして投降とうこうし、その監視かんしされているわけでもないのに(捕虜ほりょ収容しゅうようしょはいるため)みずかすすんでひがし殺到さっとうした」(1940ねん5がつ12にちたいフランスせん従軍じゅうぐんちゅうつまニナへいた手紙てがみ[142]
  • 想像そうぞうできるだろうか。自分じぶん所属しょぞくする師団しだん展開てんかいする栄光えいこうある作戦さくせんからきずりされて、陸軍りくぐんそう司令しれいのような役所やくしょ埋没まいぼつさせられることをぼくがどれほどつらいとかんじているか」(フランスせん最中さいちゅう陸軍りくぐんそう司令しれい参謀さんぼう本部ほんぶ移籍いせきめいじられたことについてつまてた手紙てがみで)[35]
  • 勝利しょうりしたとはいえ、永遠えいえんつづくものなどないということを、そしてほんのすうねん突然とつぜん変化へんかによって逆転ぎゃくてんすることさえあるということを、ひとわすれてはならない。ぼくたちはどもたちに、たゆまぬ奮闘ふんとう再生さいせいへのない努力どりょくによってのみ衰退すいたいからすくわれることをおしえ(今回こんかい偉大いだい成就じょうじゅるとますますそうおもえるのだが)、そして永遠えいえん維持いじまったおなじものだとおしえることが出来できたら、教育きょういくという国民こくみん義務ぎむもっと大切たいせつ部分ぶぶんげたことになるだろう」(1940ねん6がつ18にち、フランス降伏ごうぶく直前ちょくぜんつまへの手紙てがみ[143]
  • 「ヒトラーのちかくにいると創造そうぞうてき志向しこううながされる。ヒトラーは物事ものごと全体ぜんたいぞうから能力のうりょくけ、ドイツの未来みらいのために奮闘ふんとうしている。かれ戦争せんそうつのを手伝てつだわねばならない。ヒトラーのちちしょう市民しみんなどではなかった。かれちち戦争せんそうなのだ」(参謀さんぼう本部ほんぶ勤務きんむとなった直後ちょくごつまへの手紙てがみ[36]
  • 戦争せんそうつのが先決せんけつだ。戦争せんそうちゅうにそういうこと(はんナチ運動うんどう)はできない。とくボリシェヴィキたたかっているあいだはなおさらだ。だが、それがわって帰国きこくしたら褐色かっしょく疫病えきびょう片付かたづけよう」(1941ねん9がつあにベルトルトをつうじてモルトケからはんナチ運動うんどうへの参加さんかもとめられて)[144]
  • 「この無意味むいみ犠牲ぎせい阻止そしするために全力ぜんりょくくさないとしたら、わたしくなった人々ひとびとつまわせるかおがない」(1943ねんなつ[145]
  • 総統そうとうはもうもたない。だから排除はいじょしなくてはならない」(1943ねん12がつ[146]
  • 将軍しょうぐんたちはこれまでなにたさなかったのだから、大佐たいさクラスがやるしかない」[65]

人物じんぶつひょう

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  • 「ある程度ていどまではおっと暗殺あんさつ計画けいかく推進すいしんりょくでした。でもおっと自分じぶんではそうおもっておらず、ベックやオルブリヒトのようなひとたちをリーダーとなしていました」(つまニナ・フォン・シュタウフェンベルク)[146]
  • 「もしやつらがあんなに無能むのうでなかったら、もっとおおきなチャンスがあっただろうに。なぜやつらは放送ほうそうきょく占拠せんきょし、嘘八百うそはっぴゃくらさなかったのか。やつらはわたし総統そうとうかく方面ほうめん電話でんわをかけることへの妨害ぼうがいもまるでしなかった。やつらはあんなにおおくのふだにしていたのに・・・なんたる無能むのう」(ヨーゼフ・ゲッベルス。シュペーアの回顧かいころくより)[147][148]
  • シュムントによれば、シュタウフェンベルクはドイツ陸軍りくぐんなかもっと有能ゆうのう将校しょうこう一人ひとりだということだった。ヒトラーも時々ときどき、シュタウフェンベルクとは密接みっせつ連絡れんらくりながらやったほうがいいとわたしにすすめた。シュタウフェンベルクは重傷じゅうしょうっているにもかかわらず、一種いっしゅ若々わかわかしい魅力みりょくっていた。かれ文学ぶんがくてきなシュテファン・ゲオルゲのサークルのメンバーであると同時どうじ緻密ちみつ参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこうであるという、一見いっけんして矛盾むじゅんするような教養きょうようてき背景はいけいっていた。シュムントから要請ようせいされなくても我々われわれはおたがいを理解りかいえるとおもっていた」(アルベルト・シュペーア[67][130]
  • 「シュタウフェンベルクはじつあたたかさをかんじさせる人柄ひとがらだった。当時とうじとしては比較的ひかくてきラフな姿すがたで、つねにきちんと軍服ぐんぷく着込きこんでいるとはかぎらなかった。けれども我々われわれ後輩こうはいみなかれをカリスマてきちからがある人物じんぶつかんじており、いずれ陸軍りくぐんのトップにのぼめるだろうとおもっていた」(ドイツ連邦れんぽうぐん総監そうかんウルリッヒ・デメジエール大将たいしょう[注釈ちゅうしゃく 2][149]
  • むかしながらの伝統でんとうてき戦士せんしのイメージ。わたしかれのことをほとんどらなかったが、片目かためくろ眼帯がんたいかくし、軍服ぐんぷくかたそでうでうしなわれているものの、堂々どうどう背筋せすじばし、いたヒトラーをまっすぐ見据みすえて姿すがたほこたかく、まさに当時とうじのドイツ参謀さんぼう将校しょうこうのイメージそのものだった」(1944ねん7がつ20日はつか会議かいぎ出席しゅっせきしゃヴァルター・ヴァルリモント砲兵ほうへい大将たいしょう[89]
  • 「シュタウフェンベルクは、政治せいじをもてあそぼうとのぞんでいる偏屈へんくつおとこであると自己じこ紹介しょうかいした。わたしおおくのてんかれ口論こうろんしたが、非常ひじょうたか評価ひょうかした。かれ共産きょうさん党員とういんむすんだうたがわしい政治せいじコースさえろうとし、その強烈きょうれつなエゴイズムでわたしくるしめた」(カール・ゲルデラー[150]

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビ映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ クラウスの祖父そふフランツ・ルートヴィヒ・フィリップ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵はくしゃくはバイエルン議会ぎかい議員ぎいんとなり、死刑しけい廃止はいし運動うんどう活躍かつやくした人物じんぶつとしてられる[2]
  2. ^ ドイツ連邦れんぽうぐん総監そうかんウルリッヒ・デメジエールは当時とうじ参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこうでフォン・シュタウフェンベルクとかかわりがあった。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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    • アルベルト・シュペーア ちょ品田しなだ豊治とよじ やくだいさん帝国ていこく神殿しんでんにて ナチス軍需ぐんじゅしょう証言しょうげん 上巻じょうかん上記じょうき文庫ぶんこばん)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2001ねんISBN 978-4122038691 
    • アルベルト・シュペーア ちょ品田しなだ豊治とよじ やくだいさん帝国ていこく神殿しんでんにて ナチス軍需ぐんじゅしょう証言しょうげん 下巻げかん上記じょうき文庫ぶんこばん)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2001ねんISBN 978-4122038813 
  • ヴァルター・ゲルリッツ しる守屋もりやじゅん わけ『ドイツ参謀さんぼう本部ほんぶ興亡こうぼう学研がっけん、1998ねんISBN 978-4054009813 
    • ヴァルター・ゲルリッツ ちょ守屋もりやじゅん やく『ドイツ参謀さんぼう本部ほんぶ興亡こうぼう 上下じょうげ上記じょうき文庫ぶんこばん)』学研がっけんM文庫ぶんこ、2000ねんISBN 978-4059010173 
  • ヴィル・ベルトルト しる小川おがわ真一しんいち わけ『ヒトラーをねらったおとこたち ヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく・42けん講談社こうだんしゃ、1985ねんISBN 978-4062012317 
  • グイド・クノップ しる高木たかぎれい わけ『ドキュメント ヒトラー暗殺あんさつ計画けいかくはら書房しょぼう、2008ねんISBN 978-4562041435 
  • ジョン・ウィーラー=ベネット(en) しる山口やまぐちじょう わけ国防こくぼうぐんとヒトラー II 1918-1945みすず書房しょぼう、1961ねんASIN B000JALPWI 
    • ジョン・ウィーラー=ベネット ちょ山口やまぐちじょう やく国防こくぼうぐんとヒトラー II 1918-1945 (上記じょうき新装しんそうばん)』みすず書房しょぼう、2002ねんISBN 978-4622051084 
  • ペーター・ホフマン ちょ大山おおやまあきら わけ『ヒトラーとシュタウフェンベルク ワルキューレにけた一族いちぞく肖像しょうぞうはら書房しょぼう、2010ねんISBN 978-4562045891 
  • ロジャー・マンベル しる加藤かとう俊平しゅんぺい わけ『ヒトラー暗殺あんさつ事件じけん 世界せかい震撼しんかんさせた陰謀いんぼうサンケイ出版しゅっぱんだい世界せかい大戦たいせんブックス31〉、1972ねんASIN B000J9FK48 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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