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ベンジャミン・ハリソン - Wikipedia

ベンジャミン・ハリソン

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう

ベンジャミン・ハリソンBenjamin Harrison, 1833ねん8がつ20日はつか - 1901ねん3月13にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく軍人ぐんじん政治せいじだい23だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう祖父そふだい9だい大統領だいとうりょうウィリアム・H・ハリソン

ベンジャミン・ハリソン
Benjamin Harrison


任期にんき 1889ねん3月4にち1893ねん3月4にち
ふく大統領だいとうりょう リーヴァイ・モートン

任期にんき 1881ねん3月4にち1887ねん3月4にち

出生しゅっしょう 1833ねん8がつ20日はつか
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく オハイオしゅうノースベンド
死去しきょ (1901-03-13) 1901ねん3月13にち(67さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく インディアナしゅうインディアナポリス
政党せいとう 共和党きょうわとう
出身しゅっしんこう マイアミ大学だいがく (オハイオしゅう)
配偶はいぐうしゃ キャロライン・ハリソン英語えいごばん最初さいしょつま
メアリー・ディミック・ハリソン英語えいごばん後妻ごさい
子女しじょ ラッセル・ベンジャミン・ハリソン
メアリー・スコット・ハリソン・マッキー
エリザベス・ハリソン・ウォーカー
署名しょめい
ベンジャミン・ハリソン
Benjamin Harrison
所属しょぞく組織そしき ユニオン陸軍りくぐん
最終さいしゅう階級かいきゅう じゅんしょう
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ハリソンはオハイオしゅうノースベンドまれ、21さいのときにインディアナしゅうインディアナポリスうつみ、そこで政治せいじとして成功せいこうした。南北戦争なんぼくせんそうあいだかれじゅんしょうとしてカンバーランド陸軍りくぐんだい20ぐん所属しょぞくした。戦後せんごかれインディアナしゅう知事ちじせん出馬しゅつばしたが落選らくせんした。そのどうしゅうから上院じょういん議員ぎいん選出せんしゅつされた。

1888ねん、ハリソンは共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほ選出せんしゅつされ、民主党みんしゅとう現職げんしょくグロバー・クリーブランドやぶって大統領だいとうりょう当選とうせんした。その任期にんきマッキンリー関税かんぜいシャーマンほうふく経済けいざい政策せいさくおよび、はじめて10おくドルにたっした連邦れんぽう政府せいふ年間ねんかん支出ししゅつ特徴付とくちょうづけられる。民主党みんしゅとうは「10おくドルの議会ぎかい」を攻撃こうげきし、その材料ざいりょう不評ふひょうかこった高率こうりつ関税かんぜいともな問題もんだい使用しようした。そして1890ねんなかあいだ選挙せんきょおよび1892ねん大統領だいとうりょうせん両方りょうほう共和党きょうわとう敗北はいぼくする。かれはまた、6つのしゅう合衆国がっしゅうこくさい加入かにゅうしたときの大統領だいとうりょうであった。

1892ねん大統領だいとうりょうせんではクリーブランドにやぶれ、再選さいせん失敗しっぱいしたハリソンはインディアナポリスでの私生活しせいかつもどった。かれのちベネズエラ共和きょうわこくイギリス国際こくさい裁判さいばんでベネズエラの弁護べんご担当たんとうした。1900ねんかれ裁判さいばん関連かんれんしてヨーロッパを訪問ほうもんし、短期間たんきかん滞在たいざいのちにインディアナポリスにもどり、翌年よくねんインフルエンザからの合併症がっぺいしょう死去しきょした。かれはインディアナしゅうから選出せんしゅつされた唯一ゆいいつ大統領だいとうりょうであり、祖父そふ大統領だいとうりょうであった唯一ゆいいつ大統領だいとうりょうである。また、曾祖父そうそふ独立どくりつ宣言せんげん署名しょめいしゃであった唯一ゆいいつ大統領だいとうりょうでもある[1]

生涯しょうがい

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ちと初期しょき経歴けいれき

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ハリソンの一族いちぞく最初さいしょバージニア移住いじゅうしたなかにあった。しん世界せかいでのその起源きげんは、1630ねんジェームズタウン到着とうちゃくしたイギリスじん、ベンジャミン・ハリソンまでさかのぼる。のち大統領だいとうりょうとなるベンジャミンは、1833ねん8がつ20日はつかオハイオしゅうハミルトンぐんノースベンドジョン・スコット・ハリソンのちにオハイオしゅうから連邦れんぽう下院かいん議員ぎいん選出せんしゅつ)とエリザベス・ラムゼイ・アーウィンの8にん子供こどもの2番目ばんめとしてまれる。ベンジャミンはウィリアム・ヘンリー・ハリソン大統領だいとうりょうまごであり、独立どくりつ戦争せんそう指導しどうしゃでありバージニアしゅう知事ちじであったベンジャミン・ハリソン5せい曾孫そうそんであった[2]祖父そふ大統領だいとうりょう選出せんしゅつされたとき、ハリソンは7さいであったが、かれ就任しゅうにんしきには出席しゅっせきしなかった[3]。ハリソンの一家いっか歴史れきし名家めいかであったが、かれ裕福ゆうふく環境かんきょう成長せいちょうすることはなかった。ジョン・スコット・ハリソンの農業のうぎょう所得しょとく大半たいはん子供こども教育きょういくついやされた[4]。わずかな収入しゅうにゅうにもかかわらず、ハリソンの少年しょうねん時代じだい野外やがいでのりや狩猟しゅりょうついやされ、かれはそれをたのしんだ[5]

ベンジャミン・ハリソンがけた幼年ようねんおおやけ教育きょういくは、いえちかくにある教室きょうしつひとつだけの学校がっこうおこなわれたが、かれのち大学だいがく進学しんがくのため家庭かてい教師きょうしから教育きょういくけた[6]。ハリソンと兄弟きょうだいのアーウィンは1847ねんにシンシナティちかくのファーマーズ・カレッジに入学にゅうがくした[7]。ハリソンは同校どうこうに2年間ねんかん通学つうがくした[8]。1850ねんかれはオハイオしゅうオックスフォードのマイアミ大学だいがく転学てんがくし、ここでファイ・デルタ・シータのメンバーとなり、1852ねん卒業そつぎょうした[9]。マイアミでの同窓生どうそうせいにはジョン・アレクサンダー・アンダーソン[10]ホワイトロー・リードがいた。のちにアンダーソンは連邦れんぽう下院かいん議員ぎいんを6つとめ、リードはハリソンのふく大統領だいとうりょう候補こうほとなった。マイアミでまなあいだ、ハリソンは歴史れきし政治せいじ経済けいざいがく教授きょうじゅであるロバート・ハミルトン・ビショップおおきく影響えいきょうけた[11]。マイアミでかれ長老ちょうろう教会きょうかいくわわり、みずからのははのようにぬまでそのメンバーであった[12]大学だいがく卒業そつぎょうするとかれシンシナティのストーラー・アンド・グウィン法律ほうりつ事務所じむしょ法律ほうりつまなんだが、それをえるまえ結婚けっこんのためオックスフォードにもどった[13]

ファーマーズ・カレッジ在学ざいがくちゅうにハリソンはキャロライン・ラヴィニア・スコット出会であった。彼女かのじょ学長がくちょうであり長老ちょうろう牧師ぼくしジョン・ウィザースプーン・スコットむすめであった[14]。1853ねん10がつ20日はつかかれらはキャロラインの父親ちちおや教会きょうかい結婚けっこんした[10]夫妻ふさいあいだには2人ふたり子供こどもラッセル・ベンジャミン・ハリソン(1854ねん8がつ12にち - 1936ねん12月13にち)およびメアリー・「マミー」スコット・ハリソン・マッキー(1858ねん4がつ3にち - 1930ねん10がつ28にち)がいた[15]

1853ねん結婚けっこんのち、ハリソンは父親ちちおや農場のうじょうもどりそこで法律ほうりつ学習がくしゅうえた。同年どうねん叔母おばによって800ドルをぎ、それをもとよく54ねんインディアナポリス転居てんきょした[16]かれはインディアナポリスで法曹界ほうそうかいりし、ジョン・H・レイのオフィスで弁護士べんごし開業かいぎょうした。同年どうねんインディアナポリスの連邦れんぽう裁判所さいばんしょ廷吏ていりとなり、1にちあたり2.50ドルをかせぐようになった。かれ判決はんけつ発表はっぴょう責任せきにんうこととなった[15]

インディアナポリスでハリソンはユニバーシティ・クラブ(私的してき紳士しんしクラブ)の初代しょだい会長かいちょうとなり、またインディアナポリスのファイ・デルタ・シータ卒業生そつぎょうせいクラブの初代しょだい会長かいちょうとなった[17]。ハリソンはホイッグ党員とういん家庭かてい成長せいちょうし、若年じゃくねんにはみずからがホイッグとう支持しじしゃであった。かれ共和党きょうわとう結成けっせいあいだもない1856ねん参加さんかし、同年どうねん大統領だいとうりょう候補こうほジョン・C・フレモント支援しえん活動かつどうおこなった[18]かれおな選挙せんきょでインディアナポリス代理人だいりにん当選とうせんし、400ドルの年俸ねんぽうることとなった[19]

1858ねん、ハリソンはウィリアム・ウォレスととも法律ほうりつ事務所じむしょ、ウォレス・アンド・ハリソンを開業かいぎょうした[20]。ハリソンは1860ねん、インディアナしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょ報告ほうこくかん共和党きょうわとう候補こうほとして立候補りっこうほした。これがかれ最初さいしょ政治せいじへの進出しんしゅつであった。このしょく政治せいじてきなものではなかったが、かれとう綱領こうりょう活発かっぱつ支持しじしゃであった。選挙せんきょせんかれ共和党きょうわとう代表だいひょうして、民主党みんしゅとう知事ちじ候補こうほのちふく大統領だいとうりょうトーマス・A・ヘンドリックス討論とうろんした[21]事務所じむしょ共同きょうどう経営けいえいしゃのウォレスが1860ねんぐん書記しょき選出せんしゅつされると、ハリソンはウィリアム・フィッシュバックとともにフィッシュバック・アンド・ハリソンを開業かいぎょうし、事務所じむしょかれ陸軍りくぐん入隊にゅうたいするまでつづけられた[22]

ぐんれき

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ハリソンは南北戦争なんぼくせんそうなかなぞらえしょうとしてきたぐん勤務きんむし、1865ねん除隊じょたいした。1864ねん10がつしゅう最高さいこう裁判所さいばんしょ速記そっきがかり再選さいせんされ、4年間ねんかんつとめた。

政治せいじ経歴けいれき

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かれは1876ねんにインディアナしゅう知事ちじせん共和党きょうわとう候補こうほとして出馬しゅつばしたが、落選らくせんした。かれは1879ねんにミシシッピがわ委員いいんかいのメンバーに任命にんめいされ、1881ねん3がつ4にちから1887ねん3がつ3にちまで同職どうしょくつとめたのち共和党きょうわとう上院じょういん議員ぎいんとして選出せんしゅつされた。かれ沿岸えんがん地方ちほうへの輸送ゆそう委員いいんかい委員いいんちょうだい47議会ぎかい)およびじゅんしゅう委員いいんかい委員いいんちょうだい48議会ぎかいだい49議会ぎかい)だった。

大統領だいとうりょうしょく

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ハリソンは1888ねん大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた。大統領だいとうりょう選挙せんきょ一般いっぱん投票とうひょうでは、ハリソンがやく9まんひょうクリーブランドよりすくない得票とくひょうだったが、選挙せんきょじん選挙せんきょでは233ひょうたい168ひょう勝利しょうりした。就任しゅうにんしきでは、祖父そふ形見かたみのハットをもちいた[23]

ハリソンの政権せいけん成立せいりつした法律ほうりつ特筆とくひつすべきが「マッキンリー関税かんぜいほう」と「シャーマン購銀ほう」である。マッキンリー関税かんぜいほうにより輸入ゆにゅうひんたいする関税かんぜいは50パーセント以上いじょうげられ、外国がいこく製品せいひん価格かかく高騰こうとう国内こくない市場いちば国産こくさん製品せいひん独擅場どくせんじょうとなった。シャーマン購銀ほうは、政府せいふ毎月まいつき450まんオンスのぎん購入こうにゅう義務ぎむされた。また、「シャーマンはんトラストほう」を成立せいりつさせ、一部いちぶ企業きぎょうによる独占どくせん資本しほん制限せいげんくわえようとしたが、だい資本しほん牛耳ぎゅうじられた連邦れんぽう議会ぎかいにより骨抜ほねぬきにされたあなだらけの所謂いわゆるザルほうとして成立せいりつした。

内閣ないかく

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職名しょくめい 氏名しめい 任期にんき
大統領だいとうりょう ベンジャミン・ハリソン 1889ねん - 1893ねん
ふく大統領だいとうりょう リーヴァイ・P・モートン 1889ねん - 1893ねん
国務こくむ長官ちょうかん ジェイムズ・G・ブレイン 1889ねん - 1892ねん
ジョン・W・フォスター 1892ねん - 1893ねん
財務ざいむ長官ちょうかん ウィリアム・ウィンダム 1889ねん - 1891ねん
チャールズ・フォスター 1891ねん - 1893ねん
陸軍りくぐん長官ちょうかん レッドフィールド・プロクター 1889ねん - 1891ねん
スティーヴン・ベントン・エルキンズ 1891ねん - 1893ねん
司法しほう長官ちょうかん ウィリアム・H・H・ミラー 1889ねん - 1891ねん
郵政ゆうせい公社こうしゃ総裁そうさい ジョン・ワナメイカー 1889ねん - 1893ねん
海軍かいぐん長官ちょうかん ベンジャミン・F・トレーシー 1889ねん - 1893ねん
内務ないむ長官ちょうかん ジョン・W・ノーブル 1889ねん - 1893ねん
農務のうむ長官ちょうかん ジェレマイア・マクレイン・ラスク 1889ねん - 1893ねん

退任たいにん

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1892ねん再選さいせん目指めざしたが、このときはクリーブランドにやぶれた。同年どうねん10がつつまキャロラインが60さい死去しきょ

公職こうしょく退しりぞいたのち、ハリソンはインディアナにもどった。1895ねん7がつから1901ねん3がつまでハリソンはパデュー大学だいがく評議ひょうぎいんつとめた。大学だいがくりょう、ハリソン・ホールはかれちなんで命名めいめいされた[24]。1896ねんかれ前妻ぜんさいめいで25さい年下とししたメアリー・スコット・ディミック再婚さいこんした。ハリソンの成人せいじんした子供こども当時とうじ41さいのラッセルと38さいのメアリーは結婚けっこん反対はんたいし、結婚式けっこんしき出席しゅっせきしなかった。ハリソンとメアリーはむすめのエリザベス(1897ねん2がつ21にち - 1955ねん12月26にち)をもうけた[25]。1899ねんにハリソンはハーグ開催かいさいされただいいちかい万国ばんこく平和へいわ会議かいぎ参加さんかした。かれ連邦れんぽう政府せいふ大統領だいとうりょうしょくかんする一連いちれん記事きじ執筆しっぴつし、1897ねんに「This Country of Ours」のタイトルで出版しゅっぱんされた[26]。1894ねん数ヶ月すうかげつあいだかれカリフォルニアしゅうサンフランシスコ訪問ほうもんし、スタンフォード大学だいがく法律ほうりつがく講義こうぎおこなった[27]。1896ねんには共和党きょうわとういん何人なんにんかの友人ゆうじんふたた大統領だいとうりょうせん出馬しゅつばするようかれ説得せっとくしようとしたが、かれはそれをことわ公然こうぜんウィリアム・マッキンリー支持しじし、応援おうえん演説えんぜつのためにくにちゅう旅行りょこうした[28]

1900ねんかれベネズエライギリスあいだ境界きょうかい論争ろんそうで、ベネズエラ共和きょうわこく弁護士べんごしつとめた[29]両国りょうこくはベネズエラとえいりょうギアナあいだ国境こっきょうかんしてあらそった。国際こくさい法廷ほうていでの裁判さいばん同意どういされ、ベネズエラ政府せいふ代理人だいりにんとしてハリソンに依頼いらいおこなった。かれ法廷ほうてい論争ろんそうしながら、800ページの要約ようやく作成さくせいし、パリにおもむ法廷ほうていで25時間じかん以上いじょうごした。かれ訴訟そしょう敗北はいぼくしたが、法的ほうてきみとめられた主張しゅちょうによって国際こくさいてき名声めいせい[30]

おごそかな長老ちょうろう政治せいじとしてごしたのち、ハリソンは1901ねん2がつおも風邪かぜ発症はっしょうした。蒸気じょうき吸入きゅうにゅうによる治療ちりょうにもかかわらず、その容体ようだい悪化あっかし、1901ねん3がつ13にち水曜日すいようび自宅じたくにおいてインフルエンザと肺炎はいえんのため死去しきょした。67さいであった。ハリソンはインディアナポリスのクラウン・ヒル墓地ぼち埋葬まいそうされ、2人ふたりつまあいだねむ[31]

1891ねんホワイトハウスはじめて電灯でんとうけたがこわくて、スイッチにれたときにショックをけるのがいやで、いちばんちゅうつけっぱなしにしておいた[32]

ニューヨーク・ジャイアンツ名付なづおやである [33]

大衆たいしゅうせいとぼしい無愛想ぶあいそう人柄ひとがらで、ホワイトハウスでもめったに来客らいきゃく椅子いすすすめず、「はやかえれ」といわんばかりに、テーブルをゆびたたくのがくせであったという[34]

ハリソンとメアリーのあいだむすめのエリザベスは、4にんまごたちよりわかかったことで当時とうじ話題わだいになった[35]

身長しんちょうは5フィート6インチ(やく168cm)だった[36]

出典しゅってん

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  1. ^ 『アメリカ大統領だいとうりょう事典じてん宇佐美うさみしげるしる講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、p422
  2. ^ Calhoun, pp. 7–8; Moore, p. 15. Although he was the eighth Benjamin Harrison in his family, Harrison is known simply as Benjamin Harrison, rather than Benjamin Harrison VIII.
  3. ^ Calhoun, p. 8
  4. ^ Calhoun, p. 9; Sievers, v. 1, pp. 21–23
  5. ^ Sievers, v. 1, pp. 22–23
  6. ^ Sievers, v. 1, pp. 24–29
  7. ^ Sievers, v. 1, pp. 29–30
  8. ^ Wallace, p. 53. The school was later known as Belmont College. After Belmont closed, the campus was transferred to the Ohio Military Institute, which closed in 1958.
  9. ^ Moore, pp. 21–23; Sievers, v. 1, p. 58
  10. ^ a b Calhoun, p. 23
  11. ^ Calhoun, pp. 10–11; Sievers, v. 1, pp. 31–34
  12. ^ Wallace, p. 58
  13. ^ Calhoun, pp. 11–12, p. 23
  14. ^ Calhoun, p. 10
  15. ^ a b Calhoun, pp. 27 & 29
  16. ^ Calhoun, p. 26
  17. ^ Calhoun, p. 22
  18. ^ Calhoun, p. 18
  19. ^ Moore, p. 29
  20. ^ Calhoun, p. 28; Sievers, v. 1, p. 105
  21. ^ Calhoun, p. 59
  22. ^ Sievers, v. 1, p. 171
  23. ^ 『アメリカ大統領だいとうりょう事典じてん宇佐美うさみしげるしる講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、p316。
  24. ^ Moore, 150
  25. ^ Moore, 153
  26. ^ Harrison, Benjamin (1897). This Country of Ours. Charles Scribner's Sons. https://books.google.co.jp/books?id=Nan3P6LASnAC&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja 
  27. ^ Calhoun, p. 158
  28. ^ Calhoun, pp. 160–161
  29. ^ Moore, 155
  30. ^ Calhoun, pp. 160–163
  31. ^ Moore, 156
  32. ^ 『ちょっとわらえるはなしベネット・サーフしる常盤ひたち新平しんぺいわけ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、p25
  33. ^ 『ちょっとわらえるはなしベネット・サーフしる常盤ひたち新平しんぺいわけ文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文春ぶんしゅん文庫ぶんこ、p26
  34. ^ 『アメリカ大統領だいとうりょう事典じてん宇佐美うさみしげるしる講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、p318
  35. ^ 『アメリカ大統領だいとうりょう事典じてん宇佐美うさみしげるしる講談社こうだんしゃαあるふぁ文庫ぶんこ、p319、p423
  36. ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Calhoun, Charles William (2005). Benjamin Harrison. Macmillan. ISBN 0805069526. https://books.google.co.jp/books?id=5mLuIx6z1qcC&dq=benjamin+harrison&redir_esc=y&hl=ja 
  • Harrison, Benjamin (1897). This Country of Ours. Charles Scribner's Sons. https://books.google.co.jp/books?id=Nan3P6LASnAC&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja 
  • Moore, Chieko & Hale, Hester Anne (2006). Benjamin Harrison: Centennial President. Nova Publishers. ISBN 160021066X. https://books.google.co.jp/books?id=HKBFgjrulnUC&redir_esc=y&hl=ja 
  • Sievers, Harry J. (1968). Benjamin Harrison: v1 Hoosier Warrior, 1833–1865; v2: Hoosier Statesman From The Civil War To The White House 1865–1888; v3: Benjamin Harrison. Hoosier President. The White House and After. University Publishers Inc 
  • Socolofsky, Homer E. and Spetter, Allan B. (1987). The Presidency of Benjamin Harrison. University Press of Kansas. ISBN 0-7006-0320-4 
  • Wallace, Lew (1888). Life and Public Services of Benjamin Harrison. Edgewood Publishing Co 

外部がいぶリンク

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公職こうしょく
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 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
1889ねん3がつ4にち - 1893ねん3がつ4にち
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1881ねん3がつ4にち - 1887ねん3がつ3にち
同職どうしょくダニエル・W・ヴォーヒーズ
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