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ラザフォード・ヘイズ - Wikipedia

ラザフォード・ヘイズ

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう

ラザフォード・バーチャード・ヘイズえい: Rutherford Birchard Hayes, 1822ねん10月4にち - 1893ねん1がつ17にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく軍人ぐんじん弁護士べんごし政治せいじだい19だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうホワイトハウス就任しゅうにん宣誓せんせいをしたはつ大統領だいとうりょう大統領だいとうりょうとしてかれリコンストラクション終盤しゅうばんと、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい産業さんぎょう革命かくめい初期しょきくにひきいた。ヘイズは南北戦争なんぼくせんそう分断ぶんだんされた南北なんぼく和解わかいこころみ、のちには官庁かんちょう改革かいかくんだが、いずれも成果せいかげるにはいたらなかった。

ラザフォード・ヘイズ
Rutherford Hayes


任期にんき 1877ねん3月4にち1881ねん3月4にち
ふく大統領だいとうりょう ウィリアム・A・ウィーラー

任期にんき 1876ねん1がつ10日とおか – 1877ねん3月2にち

オハイオしゅう
だい29だい 知事ちじ
任期にんき 1868ねん1がつ13にち1872ねん1がつ8にち

任期にんき 1865ねん3月4にち1867ねん7がつ20日はつか

出生しゅっしょう 1822ねん10月4にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくオハイオしゅうデラウェア
死去しきょ 1893ねん1がつ17にち(1893-01-17)(70さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく、オハイオしゅうフリーモント
政党せいとう 共和党きょうわとう
出身しゅっしんこう ケニヨン・カレッジ
ハーバード・ロー・スクール
配偶はいぐうしゃ ルーシー・ヘイズ
子女しじょ バーチャード・オースティン・ヘイズ
ジェームズ・ウェッブ・クック・ヘイズ
ラザフォード・プラット・ヘイズ
ジョセフ・トンプソン・ヘイズ
ジョージ・クルック・ヘイズ
ファニー・ヘイズ
スコット・ラッセル・ヘイズ
マニング・フォース・ヘイズ
署名しょめい
ラザフォード・ヘイズ
Rutherford Hayes
所属しょぞく組織そしき アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ユニオン
ぐんれき 1861ねん - 1865ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 名誉めいよ少将しょうしょう
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ヘイズはオハイオしゅうデラウェアまれ、ロウワー・サンダスキー(現在げんざいのフリーモント)で弁護士べんごし開業かいぎょうし、1858ねんから1861ねんまでシンシナティの法務ほうむかんつとめた。南北戦争なんぼくせんそうはじまると、好調こうちょう政治せいじ活動かつどうはなれてきたぐんくわわる。かれは5負傷ふしょうし、サウスやまたたかにおいてもっとおもきずった。戦闘せんとうにおける勇気ゆうき功績こうせき名声めいせい少将しょうしょうまで昇進しょうしんした。戦後せんご共和党きょうわとういんとして1865ねんから1867ねんまで下院かいん議員ぎいんつとめた。議員ぎいん退職たいしょくオハイオしゅう知事ちじせん出馬しゅつばし、つとめる。終了しゅうりょう弁護士べんごしぎょう再開さいかいしたが、1875ねん知事ちじさんつとめた。

1876ねん、ヘイズはアメリカ史上しじょうもっと議論ぎろんんだ選挙せんきょ結果けっか大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。かれ民主党みんしゅとう候補こうほサミュエル・ティルデン一般いっぱん投票とうひょうではやぶれたものの、選挙せんきょ委員いいんかい資格しかく疑問ぎもん余地よちがあった選挙せんきょじんひょう20ひょうすべてをヘイズのものとし、ヘイズは選挙せんきょじん選挙せんきょを185たい184でせいし、僅差きんさ大統領だいとうりょうた。結果けっか1877ねん妥協だきょうとなり、民主党みんしゅとうはヘイズの選挙せんきょ黙認もくにんし、ヘイズは南部なんぶ軍事ぐんじ占領せんりょうわりをれた。

ヘイズは能力のうりょく主義しゅぎ政府せいふ人種じんしゅ関係かんけいない平等びょうどう待遇たいぐう、および教育きょういくによる改良かいりょうしんじた。かれ1877ねん鉄道てつどうだいストライキ鎮圧ちんあつするよう連邦れんぽうぐんめいじ、レコンストラクションが終了しゅうりょうすると連邦れんぽうぐん南部なんぶ撤退てったいめいじた。かれは1880年代ねんだいから90年代ねんだいにかけてひか官庁かんちょう改革かいかく実行じっこうし、それはさらなる改革かいかくのために土台どだいとなった。ヘイズは大統領だいとうりょう再選さいせん出馬しゅつばしないというちかいをまもり、オハイオの自宅じたく退しりぞき、社会しゃかいおよび教育きょういく改革かいかく支持しじしゃとなった。

生涯しょうがい

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ちと初期しょき経歴けいれき

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ラザフォード・バーチャード・ヘイズは1822ねん10がつ4にち、ラザフォード・ヘイズとソフィア・バーチャード夫妻ふさい息子むすことしてオハイオしゅうデラウェアまれた。バーモントで雑貨ざっかてんいとなんでいた父親ちちおやは、1817ねん家族かぞくともにオハイオしゅう移住いじゅうしたが、息子むすこまれる10週間しゅうかんまえ死去しきょした[1]母親ははおやのソフィアが一家いっかささえ、ヘイズといもうとのファニーをそだげた。4にん子供こどものうち、この2人ふたりだけが成人せいじんまでのこった[1]。ソフィアはけっして再婚さいこんしなかった[2]。ソフィアのおとうとサルディス・バーチャードが家族かぞく同居どうきょし、ヘイズの幼少ようしょう教育きょういく貢献こうけんした[3]。サルディスはヘイズの父親ちちおやてき存在そんざいであった[4]

ヘイズの祖先そせんはニューイングランド植民しょくみん移民いみんであった[5]もっとはやいアメリカでの祖先そせんは、1625ねんにスコットランドからコネチカットに移住いじゅうした[6]。ヘイズの曾祖父そうそふ、エゼキエル・ヘイズはアメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおけるコネチカットの民兵みんぺい大尉たいいであったが、その息子むすこ(ヘイズの祖父そふ、ラザフォード)は戦争せんそうちゅうにニューヘイヴンのいえはなれ、比較的ひかくてき平和へいわであったバーモントにうつんだ[7]母方ははかた祖先そせんがバーモントにやってきたのはそのころで、オハイオしゅう以外いがい親戚しんせきのほとんどはバーモントでらしている。結婚けっこんによっておじとなったジョン・ノイズは、バーモントにおける父親ちちおや仕事しごとのパートナーで、のちには連邦れんぽう下院かいん議員ぎいん選出せんしゅつされた[8]かれのいとこ、メアリー・ジェーン・ノイズ・ミードは彫刻ちょうこくラーキン・ゴールドスミス・ミード建築けんちくウィリアム・ラザフォード・ミード母親ははおやであった[8]。また、ジョン・ハンフリー・ノイズオナイダ・コミュニティ創設そうせつしゃ)はいとこであった[9]

ヘイズはデラウェアのコモン・スクールにかよい、1836ねんにノーウォークのメソジスト・ノーウォーク・セミナリーに入学にゅうがくした[10]。ノーウォークで順調じゅんちょうまなび、翌年よくねんミドルタウンのウェッブ大学だいがく進学しんがく予備校よびこうかよい、ラテン語らてんご古代こだいギリシャまなんだ[11]。オハイオにもどると1838ねんにオハイオしゅうガンビアケニオン大学だいがく入学にゅうがくした[12]かれ大学だいがく生活せいかつたのしみ、学業がくぎょう順調じゅんちょうであった[13]大学だいがくではいくつかの学生がくせいかいくわわり、ホイッグとう政治せいじ関心かんしんつようになった[14]。1842ねん優等ゆうとう大学だいがく卒業そつぎょうし、卒業生そつぎょうせい総代そうだいとして演説えんぜつした[15]

コロンバス短期間たんきかん法律ほうりつまなんだのち、ヘイズはひがしうつみ、1843ねんハーバード・ロー・スクール入学にゅうがくする[16]。1845ねんにオハイオしゅう法曹界ほうそうかいりし、ロウワー・サンダスキー(現在げんざいのフリーモント)で法律ほうりつ事務所じむしょ開業かいぎょうした[17]当初とうしょ好調こうちょうではなかったものの、次第しだいすうにん顧客こきゃく、また、叔父おじのサルディスの不動産ふどうさん訴訟そしょうにおける代理人だいりにんつとめた。1847ねんにヘイズは病気びょうきになり、医師いしかれ結核けっかくでないかとかんがえた。気候きこう変化へんか回復かいふくのためになるとかんがえ、かれぐん入隊にゅうたいべいぼく戦争せんそう従軍じゅうぐんすることをかんがえたが、医師いしすすめでニューイングランドの家族かぞく訪問ほうもんした[18]。そこからもどると、ヘイズは叔父おじのサルディスとともふたたびテキサスへの長期ちょうき旅行りょこうおこない、ケニヨンでの友人ゆうじんでありとお親戚しんせきであったガイ・M・ブライアンもとおとずれた[19]。ロウワー・サンダスキーにかえったとき、事務所じむしょ細々こまごまつづいていたが、かれシンシナティへの転居てんきょ決心けっしんした[20]

ヘイズは1850ねんにシンシナティに転居てんきょチリコシー出身しゅっしん弁護士べんごしジョン・W・ハーロン[21][note 1]とも法律ほうりつ事務所じむしょ開業かいぎょうした。そのハーロンはよりおおきな事務所じむしょくわわり、ヘイズはあらたなパートナーのウィリアム・K・ロジャース、リチャード・M・コーウィンと事務所じむしょ経営けいえいした[23]。シンシナティでの事業じぎょう以前いぜんよりも好調こうちょうで、シンシナティ文学ぶんがく協会きょうかいとオッド・フェローズ・クラブにくわわり、大都市だいとしでの様々さまざま出来事できごとたのしんだ[24]かれはまたシンシナティのせい公会こうかい教会きょうかい礼拝れいはい出席しゅっせきしたが、メンバーにならなかった[24]かれつまルーシー・ウェッブにそこで出会であった[25]かれ母親ははおやなんねんまえにルーシーとうようすすめたが、ヘイズは彼女かのじょわかぎるとかんが女性じょせい注意ちゅういけていた[26]。4ねんにんはよりおおくの時間じかんごすようになる。二人ふたりは1851ねん婚約こんやくし、1852ねん12月30にちにルーシーの母親ははおやいえ結婚けっこんした[25]つづく5年間ねんかんでルーシーはさんにん息子むすこ、バーチャード・オースチン(1853ねん)、ウェブ・クック(1856ねん)、およびラザフォード・プラット(1858ねん)をんだ[23]。ルーシーはメソジストであり禁酒きんしゅ主義しゅぎしゃかつ廃止はいしろんしゃであり、ヘイズは彼女かのじょ宗教しゅうきょう絶対ぜったいくわわらなかったが、彼女かのじょかんがえはその意見いけん影響えいきょうおよぼした[27]

南北戦争なんぼくせんそう

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政治せいじ経歴けいれき

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1845ねん5がつ10日とおか法曹界ほうそうかいはいり、ロウワー・サンダスキー(現在げんざいのフリーモント)で弁護士べんごしぎょうはじめた。1849ねんシンシナティうつ弁護士べんごしぎょう再開さいかいした。1857ねんから1859ねんまで法務ほうむかんだった。

1861ねん6月27にち陸軍りくぐん入隊にゅうたいだい23オハイオ志願しがん歩兵ほへい連隊れんたい少佐しょうさ任官にんかん。1861ねん10がつ24にちには中佐ちゅうさ1862ねん10月24にち大佐たいさ昇任しょうにんし、1864ねん10月9にちなぞらえはた1865ねん3月3にち少将しょうしょう名誉めいよ昇進しょうしんした。南北戦争なんぼくせんそうで5かい瀕死ひんし重傷じゅうしょうっている。

大統領だいとうりょうしょく

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ヘイズは1876ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょにおいて史上しじょうまれに僅差きんさ勝利しょうりした大統領だいとうりょうである。

ヘイズの対抗たいこう民主党みんしゅとうサミュエル・ティルデンニューヨークしゅう知事ちじであった。選挙せんきょ最初さいしょ開票かいひょう結果けっかでは、選挙せんきょじんひょうでティルデンが184ひょう獲得かくとくしヘイズの165ひょう上回うわまわったが、まだ集計しゅうけいされていないひょうが20ひょうあった。南部なんぶサウスカロライナしゅう(7ひょう)・フロリダしゅう(4ひょう)・ルイジアナしゅう(8ひょう)とオレゴンしゅう一人ひとり選挙せんきょじんひょうの20ひょう論争ろんそうとなり、議会ぎかいは15にん委員いいんからなる選挙せんきょ委員いいんかいつく問題もんだい決着けっちゃくさせる法律ほうりつとおした。委員いいんかい論争ろんそうのあった選挙せんきょじんひょう20ひょうすべてをヘイズのものとする裁決さいけつくだし、ヘイズは185たい184で選挙せんきょせいした。

大統領だいとうりょう候補こうほ 政党せいとう 選挙せんきょじん投票とうひょう (EV) 一般いっぱん投票とうひょう (PV)
ラザフォード・ヘイズ、オハイオしゅう当選とうせん 共和党きょうわとう 185 4,034,311 47.5%
サミュエル・ティルデン、ニューヨークしゅう 民主党みんしゅとう 184 4,288,546 51.5%
ピーター・クーパー、ニューヨークしゅう グリーンバックとう 0 75,973 0.9%
グリーン・クレイ・スミス、ケンタッキーしゅう 禁酒きんしゅとう 0 9,737 0.3%
ジェームズ・A・ウォーカー、イリノイしゅう アメリカ国民党こくみんとう 0 459 0.0%
 
ホワイトハウスのポートレイト

この選挙せんきょ結果けっか不信ふしんいだ人々ひとびとは、うら共和きょうわ民主みんしゅりょうとうによるうら取引とりひきがあったとうわさした(南部なんぶがヘイズの当選とうせん黙認もくにんするわりに、共和党きょうわとう南部なんぶから連邦れんぽうぐんげることに同意どういレコンストラクションわらせるといううら取引とりひきがあったとされる)。結果けっか、ヘイズは“His Fraudulency”(イカサマ閣下かっか)とばれることとなった(ちなみに、近年きんねんまれに接戦せっせんであった2000ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう選挙せんきょでも、一般いっぱん投票とうひょうではジョージ・W・ブッシュ50,456,002(47.87%)にたいアル・ゴア50,999,897(48.38%)と敗者はいしゃほう上回うわまわっている)。このため、4ヶ月かげつちかくも大統領だいとうりょう決定けっていしない異例いれい事態じたいとなった。

ヘイズは南北戦争なんぼくせんそう以降いこう連邦れんぽうぐん駐留ちゅうりゅうしていた南部なんぶからへい撤収てっしゅうさせた。これにより、南北戦争なんぼくせんそう以降いこう黒人こくじん解放かいほうすすんでいた南部なんぶではふたたきゅう白人はくじん支配しはいそう実権じっけんにぎり、黒人こくじんへの人種じんしゅ差別さべつふたたはじまった。ヘイズは「黒人こくじん権利けんりは、南部なんぶ白人はくじんゆだねたほうが安全あんぜんである」と発言はつげんした。また、労働ろうどう運動うんどうたいしても軍隊ぐんたい動員どういんしてストライキを弾圧だんあつするなど強硬きょうこう手段しゅだんった。

内閣ないかく

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職名しょくめい 氏名しめい 任期にんき
大統領だいとうりょう ラザフォード・ヘイズ 1877ねん - 1881ねん
ふく大統領だいとうりょう ウィリアム・A・ウィーラー 1877ねん - 1881ねん
国務こくむ長官ちょうかん ウィリアム・マクスウェル・エヴァーツ 1877ねん - 1881ねん
財務ざいむ長官ちょうかん ジョン・シャーマン 1877ねん - 1881ねん
陸軍りくぐん長官ちょうかん ジョージ・ワシントン・マクラリー 1877ねん - 1879ねん
アレクサンダー・ラムジー 1879ねん - 1881ねん
司法しほう長官ちょうかん チャールズ・デヴェンズ 1877ねん - 1881ねん
郵政ゆうせい長官ちょうかん デイヴィッド・マッケンドリー・キー 1877ねん - 1880ねん
ホーレス・メイナード 1880ねん - 1881ねん
海軍かいぐん長官ちょうかん リチャード・トンプソン 1877ねん - 1880ねん
ネイサン・ゴフ 1881ねん
内務ないむ長官ちょうかん カール・シュルツ 1877ねん - 1881ねん

大統領だいとうりょうしょく

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ヘイズは1880ねん再選さいせんもとめないと決心けっしんし、そのちかいをまもって出馬しゅつばしなかった。かれ後任こうにんとなったジェームズ・ガーフィールド当選とうせんしたことに満足まんぞくし、その任期にんきかんして相談そうだんおこなった[28]。ガーフィールドの就任しゅうにんにヘイズと家族かぞくスピーゲル・グローヴもどった[29]かれ忠実ちゅうじつ共和党きょうわとういんのままであったが、ニューヨークの民主党みんしゅとう官庁かんちょう改革かいかくかんする意見いけんみとめ、1884ねん大統領だいとうりょうせんグロバー・クリーブランド当選とうせんしたことにそれほど失望しつぼうしなかった[30]かれはまたぐん時代じだい仲間なかまであり、政治せいじてき擁護ようごしたウィリアム・マッキンリー政治せいじ経歴けいれきかさねたことによろこびをかんじた[31]

ヘイズは教育きょういくてきチャリティの積極せっきょくてき提唱ていしょうしゃとなり、すべての子供こどものための連邦れんぽう教育きょういく補助ほじょきん支持しじした[32]かれ教育きょういくがアメリカ社会しゃかいみぞめ、個人こじんみずからの状況じょうきょう改善かいぜんするもっと方法ほうほうであるとしんじていた[33]。ヘイズは1887ねんオハイオ州立しゅうりつ大学だいがく評議ひょうぎ会議かいぎいん任命にんめいされた。どう大学だいがくかれがオハイオしゅう知事ちじ時代じだい支援しえんした学校がっこうであった[34]かれ研究けんきゅうとしての職業しょくぎょう教育きょういく必要ひつようせい強調きょうちょうした。「わたし仕事しごと主義しゅぎきます。わたし教育きょういく一部いちぶとして熟練じゅくれん労働ろうどうしゃしんじます。[35] 」ときしている。かれは、はじめて教育きょういくたいする財政ざいせい援助えんじょおこなうように上院じょういん議員ぎいんヘンリー・W.ブレア提出ていしゅつした法案ほうあん成立せいりつするように議会ぎかいはたらきかけたが、成功せいこうわった[36]。ヘイズは1889ねんに、スレーター基金ききんかれくわわった慈善じぜん団体だんたいひとつ)に奨学しょうがくきんもうむようにと、黒人こくじん学生がくせいはげますための演説えんぜつおこなった[37]。そのような学生がくせい一人ひとりであったW・E・B・デュボイスは1892ねん奨学しょうがくきんっている[37]。ヘイズはまた、刑務所けいむしょ待遇たいぐう改善かいぜん支持しじした[38]

引退いんたいさいして、ヘイズは社会しゃかい貧富ひんぷはなはだしい差異さいなやんでいた。1886ねん演説えんぜつでは「資産しさんおも少数しょうすううちにあるならば、自由じゆう政府せいふながちこたえることができない。そして、だいくの民衆みんしゅういえ教育きょういく、そして老年ろうねんにおける保護ほごることができない。」とかたっている[39]翌年よくねん、ヘイズは日記にっきにそのことにかんするかんがえをしるした。:

教会きょうかいわたしは、現在げんざい人々ひとびとがこのくに巨大きょだいあく危険きけんについて時間じかんである、何者なにものにもまさる危険きけんは、少数しょうすうによって所有しょゆう、コントロールされる巨大きょだいとみである、とおもいついた。おかねちからである。連邦れんぽう議会ぎかいしゅう議会ぎかい市議会しぎかい法廷ほうてい政治せいじ集会しゅうかい、マスコミ、宗教しゅうきょうかい教育きょういくけたもの才能さいのうったもの、その影響えいきょうはどんどんおおきくなっている。少数しょうすうにある過度かどとみは、大衆たいしゅうおおくにたいする極端きょくたん貧困ひんこん無知むち悪徳あくとく不幸ふこう意味いみする。しかし、もはや療法りょうほうかんして討論とうろんするべき時間じかんではない。危険きけん先駆さきがけて解決かいけつする問題もんだいがある - あく人々ひとびとあくかんして完全かんぜんつたえ、確信かくしんさせるべきだ。かれらに治療ちりょう本気ほんきもとめさせなければならない。そうすれば、それはつかるだろう。あく完全かんぜんることは、その根絶こんぜつにたどりくための第一歩だいいっぽである。ヘンリー・ジョージ現行げんこう制度せいどくさったようえがくとき、力強ちからづよい。我々われわれは、ひかえめにっても、かれによる治療ちりょう準備じゅんびができていない。我々われわれ会社かいしゃ資産しさん信託しんたく課税かぜいとその重要じゅうよう利益りえき管理かんりしている法律ほうりつ変化へんかによって困難こんなんたっして、それをのぞくかもしれない。それは土地とちやその資産しさん省略しょうりゃくしない。」[40]

ヘイズは1889ねんつまおおいにかなしんだ[41]つまさいしてかれは「たましいは(スピーゲル・グローヴを)った。」ときした[41]。ルーシーの死後しごむすめのファニーがかれ旅行りょこう相手あいてとなり、まごもとおとずれるのをたのしんだ[42]。1890ねんにはモホンク会議かいぎ黒人こくじん問題もんだい会議かいぎ議長ぎちょうつとめ、人種じんしゅ問題もんだいについての改革かいかくしゃたち議論ぎろんをまとめた[43]。ヘイズは1893ねん1がつ17にち心臓しんぞう発作ほっさのためオハイオしゅうサンダスキーぐんフリーモントの自宅じたく死去しきょした[44]最期さいご言葉ことばは「わたしはルーシーのもとくのをってるよ。I know that I'm going where Lucy is.[44]」であった。遺体いたいはオークウッド墓地ぼち埋葬まいそうされ、次期じき大統領だいとうりょうグロバー・クリーブランドとオハイオしゅう知事ちじウィリアム・マッキンリーが葬列そうれつみちびいた[45]。オハイオしゅうのスピーゲル・グローヴ州立しゅうりつ公園こうえん邸宅ていたく寄贈きぞうされ、1915ねんにそこにさい埋葬まいそうされた[46]翌年よくねん、ヘイズ記念きねん図書館としょかん博物館はくぶつかんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおける最初さいしょ大統領だいとうりょう記念きねん図書館としょかん)がオハイオしゅうとヘイズの遺族いぞくからの資金しきんによって公園こうえんない開館かいかんした[47]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ハーロンのむすめヘレンのちウィリアム・タフト結婚けっこんした。[22]

出典しゅってん

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  1. ^ a b Hoogenboom, pp. 7-8
  2. ^ Hoogenboom, p. 10; Barnard, pp. 76-77
  3. ^ Trefousse, p. 4
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  5. ^ Barnard, p. 41
  6. ^ Trefousse, p. 3
  7. ^ Barnard, p. 53
  8. ^ a b Hoogenboom, pp. 17-18
  9. ^ Hoogenboom, pp. 62-63; Barnard, p. 113
  10. ^ Trefousse, pp. 4-5
  11. ^ Hoogenboom, pp. 20-22; Trefousse, p. 5
  12. ^ Hoogenboom, p. 25
  13. ^ Barnard, pp. 107-113
  14. ^ Hoogenboom, pp. 33-43
  15. ^ Trefousse, p. 6
  16. ^ Hoogenboom, pp. 43-51; Barnard, pp. 131-138
  17. ^ Hoogenboom, pp. 52-53
  18. ^ Hoogenboom, pp. 62-66
  19. ^ Hoogenboom, pp. 66-70; Barnard, p. 114
  20. ^ Trefousse, p. 8
  21. ^ Hoogenboom, p. 73.
  22. ^ Barnard, p. 167
  23. ^ a b Barnard, pp. 184-185
  24. ^ a b Hoogenboom, pp. 74-75
  25. ^ a b Hoogenboom, pp. 78-86
  26. ^ Hoogenboom, pp. 61-62
  27. ^ Barnard, pp. 178-180, 187-188; Hoogenboom, pp. 93-95
  28. ^ Hoogenboom, pp. 447-465
  29. ^ Hoogenboom, pp. 466-467
  30. ^ Hoogenboom, p. 483
  31. ^ Hoogenboom, pp. 524-525
  32. ^ Hoogenboom, pp. 471-475; Thelen, p. 156
  33. ^ Thelen, pp. 154-156
  34. ^ Hoogenboom, pp. 498-499
  35. ^ Barnard, p. 506
  36. ^ Swint, pp. 48-49
  37. ^ a b Hoogenboom, pp. 518-523
  38. ^ Hoogenboom, pp. 496-497; Thelen, p. 151
  39. ^ Barnard, p. 513; Hoogenboom, p. 539
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参考さんこう文献ぶんけん

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  • Robinson, Lloyd (1968, 2001). The Stolen Election: Hayes versus Tilden-1876. New York: Tom Doherty Associates. ISBN 0765302063 
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  • Trefousse, Hans L. (2002). Rutherford B. Hayes. New York: Times Books. ISBN 0805069070 
  • Unger, Irwin (1964, 2008). The Greenback Era: A Social and Political History of American Finance, 1865-1879. New York: ACLS Humanities. ISBN 1597404314 

外部がいぶリンク

編集へんしゅう
公職こうしょく
先代せんだい
ユリシーズ・グラント
 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
1877ねん3がつ4にち - 1881ねん3がつ4にち
次代じだい
ジェームズ・ガーフィールド
先代せんだい
ウィリアム・アレン
オハイオしゅう知事ちじ
1876ねん - 1877ねん
次代じだい
トーマス・ロウリー・ヤング
先代せんだい
ジェイコブ・ドルソン・コックス
オハイオしゅう知事ちじ
1868ねん - 1872ねん
次代じだい
エドワード・F・ノイズ
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん
先代せんだい
アレクサンダー・ロング
オハイオしゅう選出せんしゅつ下院かいん議員ぎいん
オハイオしゅう2

1865ねん3がつ4にち - 1867ねん7がつ20日はつか
次代じだい
サミュエル・F・ケーリー
とうしょく
先代せんだい
ユリシーズ・グラント
共和党きょうわとう大統領だいとうりょう候補こうほ
1876ねん
次代じだい
ジェームズ・ガーフィールド
名誉めいよしょく
先代せんだい
ユリシーズ・グラント
さい長寿ちょうじゅアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
1885ねん7がつ23にち - 1893ねん1がつ17にち
次代じだい
ベンジャミン・ハリソン