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マフムト2世 - Wikipedia

マフムト2せいオスマントルコ: محمود ثانى, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Maḥmûd-u s̠ânî, トルコ: II. Mahmud, 1785ねん7がつ20日はつか - 1839ねん7がつ1にち)は、オスマン帝国ていこくだい30だい皇帝こうてい在位ざいい1808ねん - 1839ねん)。ちちだい27だい皇帝こうていアブデュルハミト1せいははナクシディル・スルタンフランスじんナポレオン1せい義理ぎり従妹じゅうまいとする伝説でんせつ有名ゆうめいだが、実際じっさいしょうである。だい29だいムスタファ4せい異母弟いぼていアブデュルメジト1せいアブデュルアズィズちち

マフムト2せい
محمود ثانى
オスマン皇帝こうてい
マフムト2せい
在位ざいい 1808ねん7がつ28にち - 1839ねん7がつ1にち

出生しゅっしょう 1785ねん7がつ20日はつか
オスマン帝国ていこくイスタンブール
死去しきょ (1839-07-01) 1839ねん7がつ1にち(53さいぼつ
オスマン帝国ていこくイスタンブール
子女しじょ アブデュルメジト1せい
アブデュルアズィズ
父親ちちおや アブデュルハミト1せい
母親ははおや ナクシディル・スルタン
宗教しゅうきょう イスラームきょうスンナ
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内外ないがい危機ききてき状況じょうきょうによって帝国ていこく支配しはいらぐなか即位そくいし、中央ちゅうおう集権しゅうけん西洋せいようじくとするうえからの改革かいかくすすめて帝国ていこく再生さいせいをはかった皇帝こうていであり、オスマン帝国ていこくにおける啓蒙けいもう専制せんせい君主くんしゅ評価ひょうかされる。

生涯しょうがい

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即位そくいまえ

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マフムトは1785ねんアブデュルハミト1せいとその夫人ふじんであるナクシディル・スルタンとのあいだまれた。ははのナクシディル・スルタンの出自しゅつじには諸説しょせつあり、かつてはフランス出身しゅっしんといわれていたが、近年きんねん研究けんきゅうではコーカサス出身しゅっしんというせつ有力ゆうりょくである。

マフムトが4さいときちちみかど崩御ほうぎょし、いとこのセリム3せいいだがセリム3せいはマフムトとそのあにのムスタファをにかけており、マフムトは自由じゆう享受きょうじゅした。また、皇子おうじ時代じだいは、宮殿きゅうでんないのシェフザーデガン学校がっこう教育きょういくけた。

セリム3せい偉大いだい作曲さっきょくトプカプ宮殿きゅうでん音楽おんがく巨匠きょしょうあつめるなどした。わかのマフムトはその影響えいきょうけ、音楽おんがく興味きょうみった。さらに書道しょどうにも関心かんしんがあり、宮廷きゅうてい書家しょかのメフメト・ヴァスフィ・エフェンディから書道しょどうほどこしをけた。

 
アレムダル・ムスタファ・パシャ

1807ねん、オスマン帝国ていこく西洋せいよう改革かいかく先鞭せんべんをつけた従兄じゅうけいセリム3せいイェニチェリによって廃位はいいされ、あにムスタファ4せい即位そくいした。

さらによく1808ねん7がつ改革かいかく推進すいしん要請ようせいけたブルガリア北部ほくぶアーヤーン地方ちほう名士めいし)、アレムダル・ムスタファ・パシャ蜂起ほうきイスタンブール入城にゅうじょうしてムスタファ4せい廃位はいいするという動乱どうらん結果けっか帝位ていい継承けいしょう順位じゅんい比較的ひかくてきひく年少ねんしょう皇子おうじであったマフムト2せい即位そくいした。しかしこの即位そくいをめぐる状況じょうきょうには複雑ふくざつ事情じじょうがあった。廃位はいいされることをおそれたムスタファ4せい先手せんてって、アレムダルの入城にゅうじょう先立さきだ先帝せんていセリム3せいとマフムトを殺害さつがいする命令めいれいした。ムスタファ4せい唯一ゆいいつ帝位ていい継承けいしょうけん保持ほじしゃであることにより廃位はいいをまねがれるこころみであった。このときのいいつたえはさまざまなものがあり、19世紀せいきのオスマン史家しかのアフメト・ジェヴレト・パシャによると、ジョージア出身しゅっしんのジェブリというおんな奴隷どれい死刑しけい執行官しっこうかんけた石炭せきたんなどをげつけるなどして時間じかんかせいだ。そのあいだにマフムトは屋根裏やねうらかくれてアレムダル・パシャの軍勢ぐんぜい乱入らんにゅうするまでそこにかくれていた。アレムダルの到着とうちゃく、マフムトは即位そくいした。

イェニチェリとの対立たいりつ

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オスマンちょうマフムト2せいトゥグラによる署名しょめい。「アブデュルハミト息子むすこマフムト・ハン、永遠えいえん勝利しょうりしゃ」とめる

即位そくい、10月には帝国ていこくのアーヤーンをトプカプ宮殿きゅうでんあつめて一同いちどうまえで「同盟どうめい盟約めいやく」(セムディ・イッティファーク)というアーヤーンの保護ほごとアーヤーンとスルタンがたがいにたす協定きょうていがなされた。

マフムト2せい即位そくいさせたアレムダルはみずかだい宰相さいしょう就任しゅうにんし、セリム3せい編成へんせいした洋式ようしきぐん再建さいけんさせるなど西洋せいよう改革かいかく復活ふっかつをはかったが、11月にイェニチェリの蜂起ほうきによって殺害さつがいされた。このとき、イェニチェリ反乱はんらん勃発ぼっぱつったマフムト2せいはすぐさま、廃位はいい殺害さつがい危険きけんのがれるため過去かこれいならい、唯一ゆいいつ帝位ていい継承けいしょうけんしゃである異母いぼけい廃帝はいていムスタファ4せい殺害さつがいさせた。

ムスタファ4せいによって、マフムト2せい帝位ていい継承けいしょうけんをもつオスマン唯一ゆいいつ男子だんしになったため、イェニチェリはかれ廃位はいいすることができず、マフムト2せい帝位ていいたもった。だが、イェニチェリを中心ちゅうしんとするはん西洋せいよう改革かいかく勢力せいりょくのもとで政治せいじてきにはながらく隠忍いんにん自重じちょう余儀よぎなくされた。しかしマフムトはなが時間じかんをかけてイェニチェリぐん司令しれいかん自分じぶん支持しじしゃすこしでもおお配置はいちしていき、その一方いっぽうはん改革かいかく地方ちほう行政ぎょうせいかんにするなどの左遷させんによってかずらしていき、場合ばあいによっては処刑しょけいすることもあった。

戦争せんそう

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フランス包囲ほういもうであるたいふつだい同盟どうめい参画さんかくしたオスマン帝国ていこくだが、当時とうじのヨーロッパの公法こうほうはオスマン帝国ていこくには適用てきようされず、ウィーン会議かいぎにすら出席しゅっせきできなかった。しかも、1806ねんはじまった戦争せんそうは1809ねん再開さいかいされた。これに対抗たいこうするためにオスマン帝国ていこく同年どうねんにイギリスと秘密ひみつ同盟どうめいして対抗たいこうしようとしたが、1812ねんにオスマンがわ敗北はいぼくし、ロシアとブカレスト条約じょうやく締結ていけつし、ベッサラビア割譲かつじょうしプルートがわ国境こっきょうにして、さらに一部いちぶコーカサスの領土りょうどをロシア帝国ていこくうばわれてしまう有様ありさまであった。ブカレスト条約じょうやくではセルビアに自治じちけんあたえることが明記めいきされたが、オスマンがわはなかなかそれを実行じっこうしなかったため、1815ねんだいセルビア蜂起ほうき勃発ぼっぱつ、2ねんにはセルビア自治じち公国こうこく承認しょうにんした。

それでも、大半たいはん帝国ていこく領土りょうどめい目的もくてきには保持ほじされ、ヨーロッパ列強れっきょう思惑おもわくもあり、戦後せんごウィーン体制たいせい一員いちいんとなった。

オスマン・ワッハーブ戦争せんそう

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マフムトは即位そくいの3ねんまえからはじまったワッハーブ王国おうこくとの戦争せんそうわらせるためにただちに聖地せいち奪還だっかんのための軍隊ぐんたい派遣はけんし、エジプト総督そうとくムハンマド・アリーにも援軍えんぐん要請ようせいした。当時とうじ聖地せいちれていたワッハーブ聖地せいち巡礼じゅんれいだん襲撃しゅうげきして金品きんぴんうばい、ワッハーブ改宗かいしゅうするかえらぶかを選択せんたくさせていた。聖地せいち巡礼じゅんれいのルートを確保かくほするのはカリフの役割やくわりであったためマフムトはスルタンとしての、そしてカリフとしての威信いしんをかけて鎮圧ちんあつした。1812ねんにメディナを奪還だっかんし1813ねんにメッカを奪還だっかんして、1817ねんまでにワッハーブ王国おうこく主要しゅよう都市とし占領せんりょう翌年よくねんワッハーブ王国おうこくほろぼした。国王こくおうアブドゥラ・ビン・サウドはイスタンブール送還そうかんされ、そこで処刑しょけいされた。

オスマン・ガージャール戦争せんそう

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オスマン帝国ていこくガージャールあさながらく友好ゆうこうたもっていたが、ガージャールがわ自身じしん敵対てきたいてき部族ぶぞく保護ほご、またはうらあやつってるとして、1821ねんひがしアナトリアとバグダード侵攻しんこうしてきた。バグダードは死守ししゅしたもののエルズルムでガージャールあさ衝突しょうとつ敗北はいぼくし、1823ねんにはだいいちエルズルム条約じょうやく締結ていけつ講和こうわした。内容ないようは80ねん以上いじょうまえ締結ていけつされたケルデン条約じょうやく国境こっきょうせんにすること、ペルシャじん聖地せいち巡礼じゅんれい許可きょから3ねんごとに両国りょうこく使節しせつ派遣はけんすることなどであった。しかし1830年代ねんだいから国境こっきょう紛争ふんそうふたたき、一触即発いっしょくそくはつ状態じょうたいにまでなった。しかし、戦争せんそうはイギリスとロシアの仲介ちゅうかい回避かいひされマフムト2せい死後しごの1847ねんだいエルズルム条約じょうやく調印ちょういんした。内容ないよう国境こっきょう紛争ふんそう地域ちいき両国りょうこく折半せっぱんし、そのための国境こっきょう委員いいんかいを、設置せっちすることなどであった。国境こっきょうめる作業さぎょうなが時間じかんをかけておこなわれ、1914ねん完了かんりょうした。

地方ちほう名士めいし鎮圧ちんあつ

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マフムト2せい

マフムト2せい改革かいかくすすめる一方いっぽうで、地方ちほうにおいてはん独立どくりつ君主くんしゅのように振舞ふるま地方ちほう名士めいしたち圧力あつりょくくわえて政府せいふ統制とうせい努力どりょくをはらった。マフムトは宮廷きゅうてい保守ほしゅとのあいだでは地方ちほう名士めいし排除はいじょして集権しゅうけんすすめる目的もくてき一致いっちしていた。1813ねん徴税ちょうぜい請負うけおいせい契約けいやくできるのは地行じぎょう政官せいかん限定げんていとし、1838ねんには官職かんしょくしゃ俸給ほうきゅう徴税ちょうぜい請負うけおい権限けんげんてるのを禁止きんしした。

時間じかんをかけてマフムト2せいによる同盟どうめい関係かんけいくずし、当主とうしゅ死去しきょしたさい財産ざいさん没収ぼっしゅう軍隊ぐんたいによる討伐とうばつ、もしくはだい勢力せいりょく地方ちほう名士めいししょう勢力せいりょく地方ちほう名士めいしをいくつも討伐とうばつさせる、強力きょうりょく地方ちほう名士めいし任地にんちえで勢力せいりょくをそぐ、などをして地方ちほう名士めいしちからけずっていき、帝国ていこく中枢ちゅうすうであるバルカンアナトリアでは10ねんほどのあいだにほとんどの地方ちほう名士めいし中央ちゅうおう政府せいふくっした。

このようにして、アレムダルのからじゅうすうねんをかけ、マフムト2せい徐々じょじょ皇帝こうてい専制せんせい中央ちゅうおう集権しゅうけんけて実力じつりょくたくわえていった。

イェニチェリの廃止はいし

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マフムト2せい

1826ねん、マフムト2せいはついにはん改革かいかく保守ほしゅ勢力せいりょく牙城がじょうである旧式きゅうしきぐんイェニチェリを撃滅げきめつするけっし、しん軍団ぐんだん設立せつりつ宣言せんげんして、イェニチェリを挑発ちょうはつした。

6月14にち、イェニチェリはマフムト2せいたいして反乱はんらんこすが、マフムト2せいウラマーから反乱はんらん正当せいとうせい否定ひていする意見いけんけていた。また、イェニチェリは都市とし顔役かおやくとして横暴おうぼう振舞ふるまうようになっていたため、もはや首都しゅと住民じゅうみんたちにはまったく支持しじされていなかった。

このため、反乱はんらんぐん新式しんしき装備そうびととのえた砲兵ほうへいたい猛攻もうこうくわえられてまたた壊滅かいめつさせられることとなり、よく15にちまでに鎮圧ちんあつされた。マフムト2せいはこれを機会きかいにイェニチェリを廃止はいしすることを布告ふこくし、ここに200ねん以上いじょう帝国ていこく実権じっけんにぎつづけたイェニチェリは歴史れきしまくじた。

イェニチェリの撃滅げきめつによって、西洋せいよう反対はんたいする勢力せいりょく完全かんぜん払拭ふっしょくされたとることはむずかしいが、ながらく漸進ぜんしんてき改革かいかくあまんじつつ皇帝こうていちからたくわえてきたマフムト2せいが、改革かいかく強硬きょうこう推進すいしんする専制せんせい君主くんしゅへとすす象徴しょうちょうてき事件じけんとなった。

うえからの近代きんだい改革かいかく

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マフムト2せい

軍事ぐんじめんでは、6月16にちにはイェニチェリ廃止はいし布告ふこくとともに、かねてから宣言せんげんしていた「ムハンマド常勝じょうしょうぐん」とづけた新式しんしき軍隊ぐんたい設立せつりつした。ヨーロッパの兵制へいせいならってムハンマド常勝じょうしょうぐんそう司令しれいかんとしてセラスケルのしょく新設しんせつされ、オスマン帝国ていこくにおいてはじめて陸軍りくぐん一元いちげんてき指揮しき系統けいとう統合とうごうされた。軍隊ぐんたい拡大かくだいするために1834ねんひろ国民こくみんから人材じんざい育成いくせいをするための陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう設立せつりつされた。

また、ながらく形骸けいがいしていたもののなおも存続そんぞくしていたティマールせい正式せいしき廃止はいしし、ティマールせいによって維持いじされていた在地ざいち騎兵きへいスィパーヒー解体かいたいして陸軍りくぐん騎兵隊きへいたい統合とうごうした。ナヴァリノの海戦かいせんでの敗北はいぼくさらなる強力きょうりょく軍艦ぐんかん建築けんちく専念せんねんした。

政治せいじめんでは、君主くんしゅ代理人だいりにんとして絶大ぜつだい権力けんりょくをふるってきただい宰相さいしょう権限けんげん縮小しゅくしょうをはかろうとした。それまでのだい宰相さいしょう絶大ぜつだい権限けんげん行使こうししており国政こくせい実質じっしつてき最高さいこう責任せきにんしゃ戦時せんじちゅうにはみずか前線ぜんせんおもむ最高さいこう司令しれいかんとしての役割やくわりたしていたが、だい宰相さいしょう分割ぶんかつされ、外務がいむ大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん財務ざいむ大臣だいじん司法しほう大臣だいじんなどの大臣だいじんしょくいた。そして、これまでだい宰相さいしょう主催しゅさいしてきた帝国ていこく最高さいこう意志いし決定けってい機関きかんである御前ごぜん会議かいぎディーワーヌ・ヒュマーユーン)は閣議かくぎあらためられ、オスマン帝国ていこく伝統でんとうてき政治せいじ体制たいせい西洋せいようしき内閣ないかく制度せいどちかづけられていった。マフムト2せいさい晩年ばんねん1838ねんには、だい宰相さいしょうかんめい総理そうり大臣だいじん首相しゅしょう)に変更へんこうされている。反動はんどう勢力せいりょくによって廃止はいしされていた大使館たいしかん制度せいど復活ふっかつさせた。

首都しゅとではモスクのメクデブで代行だいこうされていた初等しょとう教育きょういく義務ぎむこころみた。さらに中等ちゅうとう教育きょういくのための西洋せいようしき中学校ちゅうがっこうとしてリセがひらかれている。また、一般いっぱん官吏かんり養成ようせい任用にんようをはかるマフムト2せい学校がっこう設立せつりつされた。

保守ほしゅ牙城がじょうであった宗教しゅうきょう勢力せいりょくたいしては、イェニチェリの廃止はいし前後ぜんごしてイスラム神秘しんぴ主義しゅぎベクターシー教団きょうだん閉鎖へいささせたり、宗教しゅうきょう関係かんけいしゃ経済けいざいてき基盤きばんであるワクフ寄進きしん財産ざいさん)を政府せいふ管理かんりれたりすることで、宗教しゅうきょう勢力せいりょくちからいでいった。オスマン帝国ていこく宗務しゅうむ行政ぎょうせいにおいて、最高さいこう地位ちいにあったシェイヒュルイスラームも、これまでの超然ちょうぜんとした地位ちいあらためられ、「長老ちょうろう」とばれる宗務しゅうむ行政ぎょうせい最高さいこう官庁かんちょう長官ちょうかんとされ、閣議かくぎのメンバーにくわえられるなど、政府せいふ機構きこうなかまれていった。

1833ねんには、ギリシア独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつによってこれまで帝国ていこく通訳つうやくかんつとめてきたギリシアじん登用とうようできなくなったあなめるために翻訳ほんやくきょく設立せつりつされ、オスマン帝国ていこく若手わかて官僚かんりょうなかから、西洋せいよう言語げんごつうじ、通訳つうやくかん外交がいこうかんとして活躍かつやくできる人材じんざい育成いくせいされていった。

また、従来じゅうらい徒弟とていせいてき家内かない教育きょういく宗教しゅうきょう勢力せいりょくによる学校がっこう教育きょういく大勢おおぜいめていた教育きょういく分野ぶんや近代きんだいがはかられ、軍医ぐんい学校がっこう音楽おんがく学校がっこう士官しかん学校がっこうなどの近代きんだいてき教育きょういく機関きかん創設そうせつされた。かれらのうちの優秀ゆうしゅうなものたちは西洋せいよう留学りゅうがく派遣はけんされ、次世代じせだいになうエリート改革かいかく官僚かんりょうそう形成けいせいしてゆくことになる。

文化ぶんかじょうでも、ムハンマド常勝じょうしょうぐん採用さいようされていた西洋せいようしき制服せいふくトルコ帽とるこぼう1829ねん宗教しゅうきょう関係かんけい分野ぶんやつかさどってきたウラマーをのぞすべての文官ぶんかんにも採用さいようされ、オスマン帝国ていこくふくせい洋装ようそうれられた。

これらのほかにも、マフムト2せい重要じゅうよう改革かいかくとして、常設じょうせつ大使館たいしかん設置せっち官報かんぽう創刊そうかん郵便ゆうびん制度せいど創設そうせつなどがあげられる。

地域ちいきごとに人口じんこう調査ちょうさおこなわれ、これを地域ちいき区域くいきごとにせいふくちょう任命にんめいされ(もしくはえらばれ)、納税のうぜいしゃ全国ぜんこく調査ちょうさおこなわれた。住民じゅうみん登録とうろく通行つうこう証明しょうめいしょ発行はっこう税金ぜいきんりがおこなわれ、1834ねん一部いちぶ地域ちいき資産しさん収入しゅうにゅう調査ちょうさおこなわれた。

ほかにも土地とち家畜かちく課税かぜいされるハラージュの廃止はいし裁判さいばん控訴こうそ制度せいど導入どうにゅうした。マフムトはイスラム教いすらむきょうきらわれていた飲酒いんしゅかんしても緩和かんわするみことのりれいして、これ以降いこう上流じょうりゅう階級かいきゅうでは飲酒いんしゅ平然へいぜんのようにおこなわれるようになった。

このように、マフムト2せい様々さまざま改革かいかく専制せんせいてき実施じっしし、オスマン帝国ていこく近代きんだい歴史れきしおおきな足跡あしあとのこした。しかしその急速きゅうそく西洋せいよう改革かいかくおおくのムスリム(イスラム教徒きょうと国民こくみん反感はんかんまねき、マフムト2せいは「異教徒いきょうと皇帝こうてい」とあだされたという。

改革かいかく限界げんかい(ギリシャの独立どくりつ・エジプトの自立じりつ

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マフムト2せい

マフムト2せいすすめた様々さまざま改革かいかく一定いってい成果せいかおさめたが、この時代じだい帝国ていこくかかえていた深刻しんこく内憂ないゆう外患がいかんは、かれ晩年ばんねん対外たいがい関係かんけいをきわめてくるしいものにした。

マフムト2せい専制せんせい体制たいせいは、ながらくオスマン帝国ていこく地方ちほうにおける軍事ぐんじりょく代行だいこうしていたアーヤーンや陸軍りくぐんりょくになってきたイェニチェリをほろぼしたために、一時いちじてき軍事ぐんじりょく弱体じゃくたいをもたらさざるをなかった。

1821ねんにワラキアの首都しゅとブカレストで蜂起ほうき発生はっせいした。(ワラキア蜂起ほうき)。この蜂起ほうきはすぐに鎮圧ちんあつされたが、それに呼応こおうするかのように3月にギリシャじんのアレクサンドロス・イプシランデスがヤッシーで蜂起ほうきし、ここにギリシャ独立どくりつ戦争せんそう勃発ぼっぱつした。その、ギリシャにイプシランデスやバルカン半島ばるかんはんとうしょ民族みんぞくコサックなどが集結しゅうけつした。オスマンがわ反撃はんげきし、6がつドラガツァニのたたか独立どくりつぐん撃破げきはした。しかしやがてペロポネソス半島はんとう独立どくりつぐん占領せんりょうされ、クレタとうでも反乱はんらんきたため、マフムト2せいはこれを鎮圧ちんあつするためにジハードを宣言せんげん、コンスタンティノープルそう主教しゅきょうグリゴリオス5せい処刑しょけいした。オスマンがわ徹底的てっていてき殲滅せんめつせんひろげたが、たいするギリシャがわはゲリラ戦法せんぽう反撃はんげきし、さらにヨーロッパ諸国しょこくから義勇軍ぎゆうぐんペロポネソス半島はんとう集結しゅうけつしてしまい全域ぜんいきひろがった蜂起ほうき鎮圧ちんあつしきれずにいた。1822ねんには反乱はんらんぐん海上かいじょうせん敗北はいぼく、さらに中央ちゅうおう政府せいふがギリシャにできてしまい、はん独立どくりつしていた。

められたマフムト2せいは1824ねん独自どくじ西洋せいよう政策せいさくすすめていたエジプト総督そうとくムハンマド・アリーにペロポネソス半島はんとうとクレタとう、そしてシリアのみっつの総督そうとく地位ちいかれあたえることをえにして援軍えんぐん派遣はけん要請ようせいした。翌年よくねん派遣はけんされたムハンマド・アリーの息子むすこのイブラヒム・パシャは次々つぎつぎ反乱はんらんぐんやぶっていき、クレタとうをも占領せんりょうした。オスマンがわはさらにきたまもりをかためるために1826ねん不利ふり条件じょうけんながらアッケルマン条約じょうやく締結ていけつし、ロシアと協調きょうちょう関係かんけいをむすぼうとした。しかし1827ねんにはロシアはギリシャの支援しえん再開さいかいし、イギリス、フランス、ロシアの連合れんごう艦隊かんたいにナヴァリノの海戦かいせん敗北はいぼく。このとき艦隊かんたいの8わりちかくをうしない6000にんはいした。1828ねんにはロシアが正式せいしき宣戦せんせん布告ふこくをしてきた。マフムトはエジプトにふたたび2まんにん援軍えんぐん要請ようせいしたが拒否きょひされ、帝国ていこくだい2の首都しゅとのエディルネを占領せんりょうされてしまった。結局けっきょく翌年よくねんアドリアノープル条約じょうやくでギリシャの自治じちみとめ、さらにロンドン議定ぎていしょ完全かんぜん独立どくりつみとめた。

同年どうねんには帝国ていこく西北せいほくはし位置いちするセルビア公国こうこく自治じち承認しょうにんさせられ、1830ねん帝国ていこく南西なんせいはしアルジェリアがフランスによって占領せんりょうされた。

そして1831ねんギリシア独立どくりつ戦争せんそうへの参戦さんせんおおきな犠牲ぎせいはらったムハンマド・アリーが、参戦さんせんにあたってマフムト2せいから約束やくそくされていたシリア総督そうとくしょくあたえられないことに抗議こうぎして、エジプトぐんをシリアに武力ぶりょく侵攻しんこうさせる事件じけんきた(だいいちエジプト・トルコ戦争せんそう)。単独たんどくでムハンマド・アリーをたおすことのできないマフムト2せいは、ギリシア・セルビアの問題もんだい圧迫あっぱくけてきた相手あいてであるロシアたより、エジプト問題もんだい列強れっきょう介入かいにゅうによりさらに複雑ふくざつさせた。ロシアの支援しえんるために、ウンキャル・スケレッシ条約じょうやくでトルコ海峡かいきょうをロシアに解放かいほうした。

1833ねんキュタヒヤ条約じょうやく締結ていけつし、だいいちエジプト・トルコ戦争せんそうはムハンマド・アリーへのシリア総督そうとくしょく授与じゅよ決着けっちゃくしたが、報復ほうふくすマフムト2せいとオスマン帝国ていこく政府せいふからの自立じりつとシリア方面ほうめんにおける権益けんえき拡大かくだいねらうムハンマド・アリーとのあいだ対立たいりつ関係かんけいおさまらなかった。

さい衝突しょうとつ緊張きんちょうたかまった1838ねん、マフムト2せいはエジプト問題もんだいにおけるイギリス支持しじけるため、イギリスの利益りえき大幅おおはば譲歩じょうほして専売せんばいせい廃止はいし低率ていりつ固定こてい関税かんぜいさだめ、オスマン帝国ていこく関税かんぜい自主権じしゅけん喪失そうしつさせる不平等ふびょうどう条約じょうやくむすみちえらんだ。 これによりイギリスの支持しじられたが、マフムト2せい崩御ほうぎょ帝国ていこくはん植民しょくみんかう直接的ちょくせつてき契機けいきはこの時点じてんもとめられる。

しかしともかくも、イギリスの支持しじたマフムト2せい1839ねん4がつまんもたしてエジプトとのあいだ戦端せんたんひらき、ムハンマド・アリーの支配しはいするきたシリアの要衝ようしょうアレッポにオスマン帝国ていこくぐんかわせた(だいエジプト・トルコ戦争せんそう)。6月24にち、オスマン帝国ていこくぐんはエジプトぐんによってやぶられ、だいエジプト・トルコ戦争せんそうもまた、ムハンマド・アリーの優位ゆういによってすすもうとしていた。この悲報ひほうとどまえにマフムトは崩御ほうぎょした。

この戦争せんそう最終さいしゅうてきにイギリスの介入かいにゅうにより、1840ねん7がつにオスマン帝国ていこくがわ優位ゆうい決着けっちゃくするが、ムハンマド・アリーにエジプトの世襲せしゅうけんみとめられた。 だが、これにより関税かんぜい自主権じしゅけんのない不平等ふびょうどう条約じょうやくがエジプトにも適用てきようされることになり、エジプトにとってもこの一連いちれん事件じけんはん植民しょくみん契機けいきとなってゆく。

マフムト2せいとムハンマド・アリーの激突げきとつとその結果けっかは、マフムト2せい改革かいかくどう時代じだいのエジプトにおけるムハンマド・アリーによる改革かいかくくらべれば十分じゅうぶん結果けっかのこすことができなかったことを意味いみしている。

崩御ほうぎょとその業績ぎょうせき

編集へんしゅう

だいエジプト・トルコ戦争せんそうのさなかに、すでにマフムト2せい健康けんこうがいしていた。1839ねん崩御ほうぎょ直前ちょくぜんタンジマートしも準備じゅんび開始かいしし、ギュルハネみことのりれい起草きそうはじめていたが、6月30にち、マフムト2せい結核けっかく悪化あっかによってイスタンブールにて崩御ほうぎょし、長男ちょうなんアブデュルメジト1せいいだ。

かれ個人こじんとして様々さまざま努力どりょくおこなったにもかかわらず、その治世ちせいにおける帝国ていこく軍事ぐんじてき退潮たいちょうしとどめることはできなかった。しかしながら、かれいた近代きんだい改革かいかくがなくしては帝国ていこく存続そんぞくはありえなかったのもたしかであり、つづ時代じだいタンジマート改革かいかく基盤きばんとしてかれたした役割やくわりおおきい。

マフムト2せいにはすくなくとも15にんつまがいた。

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マフムトは14にん息子むすこがいたが成人せいじんしたのはアブデュルメジト1せいアブデュルアズィズ2人ふたりだけであった。

マフムト2せいには17にんむすめがいた。

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  • エミネ・スルタン
  • シャー・スルタン
  • エミネ・スルタン
  • ゼイネプ・スルタン
  • ハミデ・スルタン
  • アティイェ・スルタン
  • ミュニレ・スルタン
  • ハティジェ・スルタン
  • アディレ・スルタン
  • ファトマ・スルタン
  • ハイリイェ・スルタン

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 新井あらい政美まさみ『トルコきん現代げんだい - イスラム国家こっかから国民こくみん国家こっかへ』みすず書房しょぼう、2001ねんISBN 978-4-622-03388-2NCID BA51610556 
  • 岩永いわながひろし『ムハンマド=アリー - 近代きんだいエジプトの苦悩くのう曙光しょこうと』清水しみず書院しょいん清水しみず新書しんしょ 50〉、1984ねん10がつISBN 978-4-389-44050-3 
  • 永田ながた雄三ゆうぞう へん西にしアジアII イラン・トルコ』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ新版しんぱん世界せかい各国かっこく 9〉、2002ねん8がつISBN 978-4-634-41390-0 
  • 山内やまうち昌之まさゆき世界せかい歴史れきし20 近代きんだいイスラームの挑戦ちょうせん中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1996ねん12月。ISBN 978-4-12-403420-2