ハシェクはボヘミア (後 のち にオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の一部 いちぶ 、現在 げんざい はチェコ )のプラハ で、中学校 ちゅうがっこう の数学 すうがく 教師 きょうし ヨゼフ・ハシェク(Josef Hašek )と妻 つま カテリーナ(Kateřina )の息子 むすこ として生 う まれた。家族 かぞく は三 さん 歳 さい 下 か の弟 おとうと ボフスラフ(Bohuslav)と孤児 こじ の従姉妹 いとこ マリア(Maria)。貧困 ひんこん のため一家 いっか は頻繁 ひんぱん に(彼 かれ の幼年 ようねん 期 き のうちに10回 かい 以上 いじょう )転居 てんきょ することを余儀 よぎ なくされた。彼 かれ は本当 ほんとう の家 いえ というものを知 し らなかった。この、根無 ねな し草 ぐさ であることは彼 かれ の放浪 ほうろう 人生 じんせい に明確 めいかく な影響 えいきょう を与 あた えた。13歳 さい の時 とき に父 ちち が過度 かど のアルコール摂取 せっしゅ で死 し に、母 はは は彼 かれ を養 やしな っていくことができなかった。ハシェクは15歳 さい で高校 こうこう を中退 ちゅうたい して薬剤師 やくざいし になったが、最終 さいしゅう 的 てき には商業 しょうぎょう 学校 がっこう を卒業 そつぎょう した。彼 かれ は短期間 たんきかん 、銀行 ぎんこう 員 いん や犬 いぬ のセールスマンとして働 はたら いた(後者 こうしゃ の職 しょく は、彼 かれ の小説 しょうせつ の主人公 しゅじんこう シュヴェイクに引 ひ き継 つ がれ、その口 くち を借 か りてありそうにない逸話 いつわ が語 かた られた)。ジプシー や放浪 ほうろう 者 しゃ の集団 しゅうだん に加 くわ わって悪癖 あくへき と無法 むほう さを身 み に付 つ けはしたが、しかし、彼 かれ はむしろ作家 さっか やジャーナリストという自由 じゆう な職業 しょくぎょう を好 この んだ。
ハシェクは1897年 ねん には学生 がくせい としてプラハでの反 はん ドイツ暴動 ぼうどう に参加 さんか し、1906年 ねん にはアナーキスト 運動 うんどう に加 くわ わった。彼 かれ はプロレタリアート 階級 かいきゅう の労働 ろうどう 者 しゃ のグループに定期 ていき 的 てき な講義 こうぎ をし、1907年 ねん にはアナーキスト派 は の新聞 しんぶん 『コムナ』(Komuna )の編集 へんしゅう 者 しゃ になり、著名 ちょめい なアナーキスト運動 うんどう 家 か として、ハシェクは警察 けいさつ によって注意深 ちゅういぶか く監 かん 視 し された。故 ゆえ に定期 ていき 的 てき に逮捕 たいほ され、投獄 とうごく された[1] 。罪状 ざいじょう の多 おお くは破壊 はかい 行為 こうい であった。また少 すく なくとも一 いち 件 けん の警察官 けいさつかん 襲撃 しゅうげき で、彼 かれ は一 いち ヶ月 かげつ を監獄 かんごく で過 す ごしたのだった。
ハシェクは1907年 ねん にヤルミラ・マイエロヴァー(Jarmila Mayerová )という女性 じょせい と出会 であ い、彼女 かのじょ と恋 こい に落 お ちた。しかし、ハシェクの生 い き方 かた のために、彼女 かのじょ の両親 りょうしん は彼 かれ らの結婚 けっこん を承知 しょうち しなかった。そのことへの対応 たいおう として、ハシェクはアナーキズムから遠 とお ざかり作家 さっか として身 み を立 た てることを試 こころ みた。彼 かれ がプラハで国旗 こっき を冒涜 ぼうとく した廉 れん により逮捕 たいほ された時 とき 、ヤルミラの両親 りょうしん はそれを機 き に二 に 人 にん の関係 かんけい を断 た ち切 き るべく彼女 かのじょ を郷里 きょうり へと連 つ れ帰 かえ った。この措置 そち は不 ふ 成功 せいこう に終 お わったが、ハシェクがアナーキズムから完璧 かんぺき に身 み を引 ひ き、改 あらた めて著述 ちょじゅつ 業 ぎょう に専念 せんねん するという結果 けっか をもたらした。1909年 ねん までには、彼 かれ は(毎年 まいとし 、前年 ぜんねん の二 に 倍 ばい 以上 いじょう を執筆 しっぴつ して)64の短編 たんぺん 小説 しょうせつ を発表 はっぴょう した。そしてまた雑誌 ざっし 『動物 どうぶつ 世界 せかい 』の編集 へんしゅう 者 しゃ としても名 な を成 な した。とはいえ、この仕事 しごと は長 なが くは続 つづ かなかった。自分 じぶん で考 かんが え出 だ した架空 かくう の動物 どうぶつ の記事 きじ を載 の せたことで、すぐに解雇 かいこ されたからである(この逸話 いつわ も『兵士 へいし シュベイク』に登場 とうじょう する)。
1910年 ねん 、ハシェクはヤルミラ・マイエロヴァーと結婚 けっこん した。しかし結婚 けっこん は不幸 ふこう なものであることがわかった。それは3年 ねん ほどしか続 つづ かなかった(歴史 れきし 家 か ・作家 さっか のインドルジヒ・ハルペツキー (Jindřich Chalupecký , 1910-1990) は、ハシェクが同性愛 どうせいあい 者 しゃ であったと主張 しゅちょう している。またハシェクは重 おも い鬱 うつ 病 びょう であった)。マイエロヴァーは、ハシェクの偽装 ぎそう 自殺 じさつ が発覚 はっかく した後 のち の1913年 ねん に両親 りょうしん の元 もと へ帰 かえ った。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ した時 とき 、彼 かれ は挿絵 さしえ 画家 がか のヨゼフ・ラダ (Josef Lada 、後 のち に『兵士 へいし シュヴェイク』の挿絵 さしえ を描 えが く人物 じんぶつ )と一緒 いっしょ に破滅 はめつ 的 てき な生活 せいかつ をしていた。結局 けっきょく ハシェクは徴兵 ちょうへい され、陸軍 りくぐん に入 はい った。『兵士 へいし シュヴェイク』の登場 とうじょう 人物 じんぶつ の多 おお くは大戦 たいせん 中 ちゅう に彼 かれ が出会 であ った人々 ひとびと に基 もと づいている。彼 かれ が前線 ぜんせん で戦 たたか った期間 きかん は短 みじか かった。なぜなら1915年 ねん にロシア軍 ぐん の捕虜 ほりょ になったからである。ロシアの捕虜 ほりょ 収容 しゅうよう 所 しょ でチェコ人 じん たちはしばしば他 た の捕虜 ほりょ たりより厳 きび しく扱 あつか われたが、ハシェクは書記 しょき として収容 しゅうよう 所長 しょちょう に任命 にんめい されたため、比較的 ひかくてき 楽 らく に過 す ごした。新 あたら しく結成 けっせい されたチェコ軍団 ぐんだん にプロパガンダ 作家 さっか として加 くわ わるため、1916年 ねん 、彼 かれ は収容 しゅうよう 所 しょ を離 はな れることを許可 きょか された。
1917年 ねん のロシア革命 かくめい の後 のち 、ハシェクはボリシェヴィキ としてロシアに残 のこ った。また、この期間 きかん に彼 かれ はロシア人 じん 女性 じょせい と再婚 さいこん している(ただしヤルミラとの離婚 りこん は未 み 成立 せいりつ だった)。1919年 ねん 、彼 かれ は『兵士 へいし シュヴェイク』を完結 かんけつ させることを望 のぞ んでプラハに帰 かえ った。しかし彼 かれ は裏切 うらぎ り者 もの と重婚 じゅうこん 者 しゃ の烙印 らくいん を押 お され、そしてまた作品 さくひん を発表 はっぴょう する出版 しゅっぱん 社 しゃ を見 み つけるのに苦労 くろう した。
ハシェクは大戦 たいせん 前 まえ の1912年 ねん に、『善良 ぜんりょう なる兵士 へいし シュヴェイク、および奇妙 きみょう な短 たん 編集 へんしゅう 』("Dobrý voják Švejk a jiné podivné historky ")を刊行 かんこう している。シュヴェイクというキャラクターが初 はじ めて登場 とうじょう したのはその本 ほん だが、シュヴェイクが戦争 せんそう を酒場 さかば の喧嘩 けんか のように言 い う無邪気 むじゃき (sancta simplicitas )で陽気 ようき な白痴 はくち 的 てき 人物 じんぶつ として描 えが かれるようになったのは戦後 せんご のことである。この時 とき には、ハシェクは重病 じゅうびょう で、なおかつ深刻 しんこく な体重 たいじゅう 過多 かた になっていた。彼 かれ はすでに書 か く事 こと はせず、リプニツェ(Lipnice )村 むら の家 いえ の寝室 しんしつ で口述 こうじゅつ をしていた。ハシェクはこの地 ち で、1923年 ねん 、結核 けっかく により突然 とつぜん の死 し を迎 むか えた。39歳 さい であった。
死後 しご 、全 すべ ての短編 たんぺん 小説 しょうせつ がまとめられてチェコ語 ご で出版 しゅっぱん された。
10年間 ねんかん (2000年 ねん まで)、ユーモアと風刺 ふうし の祭 まつ り"Haškova Lipnice "がリプニツェで催 もよお された。
小惑星 しょうわくせい 2734ハシェク の名 な はヤロスラフ・ハシェクにちなむ。
小惑星 しょうわくせい 7896シュヴェイク の名 な は彼 かれ の代表 だいひょう 作 さく の主人公 しゅじんこう にちなむ。
チェコ鉄道 てつどう のEuroCity 級 きゅう の列車 れっしゃ には「ヤロスラフ・ハシェク」という名前 なまえ のものがある。
Politické a sociální dějiny strany mírného pokroku v mezích zákona, 1911
『プラハ冗談 じょうだん 党 とう レポート - 法 ほう の枠 わく 内 ない における穏健 おんけん なる進歩 しんぽ の党 とう の政治 せいじ 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき 歴史 れきし 』 栗栖 くりす 継 つぎ 訳 やく 、トランスビュー 、2012年 ねん
Osudy dobrého vojáka Švejka za světové války, 1921-1923
『勇敢 ゆうかん なる兵卒 へいそつ シュベイクの冒険 ぼうけん 』 辻 つじ 恒彦 つねひこ 訳 わけ 、衆人 しゅうじん 社 しゃ 、1930年 ねん
『愚直 ぐちょく 兵士 へいし シュベイクの奇行 きこう 』全 ぜん 3部 ぶ 、辻 つじ 恒彦 つねひこ 訳 やく 、三 さん 一 いち 書房 しょぼう 、1946年 ねん
『愚直 ぐちょく 兵士 へいし シュベイクの奇行 きこう 』 辻 つじ 恒彦 つねひこ 訳 やく 、三 さん 一 いち 書房 しょぼう (上 うえ ・中 なか ・下 した )、1950-51年 ねん
『二等兵 にとうへい シュベイク』 辻 つじ 恒彦 つねひこ 訳 やく 、三 さん 一 いち 新書 しんしょ (上 うえ ・下 した )、1956年 ねん
『二等兵 にとうへい シュベイク』 辻 つじ 恒彦 つねひこ 訳 やく 、新版 しんぱん 三 さん 一 いち 新書 しんしょ 、1968年 ねん
『兵士 へいし シュベイクの冒険 ぼうけん 世界 せかい ユーモア文学 ぶんがく 全集 ぜんしゅう 14・15』 栗栖 くりす 継 つぎ 訳 やく 、筑摩書房 ちくましょぼう (上 うえ ・下 した )、1962年 ねん
『兵士 へいし シュベイクの冒険 ぼうけん 』 栗栖 くりす 継 つぎ 訳 やく 、新版 しんぱん 筑摩書房 ちくましょぼう (上 うえ ・下 した )、1968年 ねん
『兵士 へいし シュヴェイクの冒険 ぼうけん 』 栗栖 くりす 継 つぎ 訳 わけ 、岩波 いわなみ 文庫 ぶんこ (全 ぜん 4巻 かん )、1972-74年 ねん 、復刊 ふっかん 1996年 ねん ほか
『兵士 へいし シュヴェイクの冒険 ぼうけん 世界 せかい 文学 ぶんがく 全集 ぜんしゅう 34』 栗栖 くりす 継 つぎ 訳 やく (抜粋 ばっすい 版 ばん )、学習研究社 がくしゅうけんきゅうしゃ 、1978年 ねん
『不埒 ふらち な人 ひと たち - ハシェク 風刺 ふうし 短 たん 編集 へんしゅう 』 飯島 いいじま 周 あまね 編 へん 訳 やく 、平凡社 へいぼんしゃ 、2002年 ねん /平凡社 へいぼんしゃ ライブラリー 、2020年 ねん
チェコ
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