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ラ・シオタ駅への列車の到着 - Wikipedia

ラ・シオタえきへの列車れっしゃ到着とうちゃく

ラ・シオタえきへの列車れっしゃ到着とうちゃく』(ラ・シオタえきへのれっしゃのとうちゃく、フランス語ふらんすごL'arrivée d'un train en gare de La Ciotat英語えいごThe Arrival of a Train at La Ciotat StationArrival of a Train at La Ciotat、またはThe Arrival of the Mail Train、イギリスではTrain Pulling into a Stationとしてられる)は、1895ねんフランス製作せいさくされた白黒しろくろサイレント短編たんぺんドキュメンタリーフィルムであり、リュミエール兄弟きょうだい監督かんとく製作せいさくにあたった。リュミエールによるカタログ番号ばんごうは653である。

ラ・シオタえきへの列車れっしゃ到着とうちゃく
L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat
監督かんとく リュミエール兄弟きょうだい
製作せいさく リュミエール兄弟きょうだい
撮影さつえい ルイ・リュミエール
配給はいきゅう キノ・インターナショナル(DVD)
公開こうかい フランスの旗 1896ねん1がつ25にちリヨン
上映じょうえい時間じかん 50びょう
製作せいさくこく フランスの旗 フランス
言語げんご サイレント映画えいが
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ラ・シオタえきにある映画えいが撮影さつえい記念きねんプレート
現代げんだいのラ・シオタえき(2007ねん

1895ねん12月28にちフランスパリ上映じょうえいされたリュミエール兄弟きょうだい最初さいしょ有料ゆうりょう公開こうかい映画えいがであるとする俗説ぞくせつがあるが、当日とうじつ上映じょうえいされた10ほん映画えいがなかにこのタイトルは記載きさいされていない。最初さいしょ有料ゆうりょう公開こうかい上映じょうえいされたのは1896ねん1がつである。なお、『えきへの列車れっしゃ到着とうちゃく』というタイトルが記載きさいされているリストもあるが、これはリヨンちかヴィルフランシュ=シュル=ソーヌえき撮影さつえいされたフィルム(カタログ番号ばんごう8)を場合ばあいもある[1]有料ゆうりょう公開こうかい先立さきだって1895ねん7がつ11にち雑誌ざっししゃ主催しゅさい試写ししゃかいが、また9月22にちにはラ・シオタでも試写ししゃかいおこなわれている[2]

内容ないよう

編集へんしゅう
 
列車れっしゃがラ・シオタえき到着とうちゃくする場面ばめん

この50秒間びょうかんのサイレントフィルムは、蒸気じょうき機関きかんしゃかれた列車れっしゃがフランスの海沿うみぞいにあるまちラ・シオタえき到着とうちゃくした様子ようすあらわしている。初期しょきのリュミエール作品さくひん特徴とくちょうである、日常にちじょう生活せいかついち側面そくめんったような編集へんしゅうされていないいちつづきの情景じょうけいふくまれている。意図いとてきなカメラのうごきはみとめられず、いちつづきのリアルタイムな場面ばめんからるフィルムである。

制作せいさく

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この50秒間びょうかん映像えいぞうフランスブーシュ=デュ=ローヌけんラ・シオタ撮影さつえいされた。撮影さつえいには映写機えいしゃきとしても制作せいさく装置そうちとしても利用りよう可能かのうなオールインワンのシネマトグラフばれるカメラが使つかわれた。すべての初期しょきリュミエール作品さくひんおなじく、この映像えいぞう画面がめんアスペクト1.33:1の35mmフィルム制作せいさくされた[3]

公開こうかい当時とうじ反応はんのう

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このフィルムは、映画えいが世界せかいでよくられている都市とし伝説でんせつ関連かんれんしている。このフィルムが最初さいしょ上映じょうえいされたとき、観客かんきゃくたちは自分じぶんらにかって近付ちかづいてくる実物じつぶつだい列車れっしゃうごきに圧倒あっとうされ、さけごえげながら部屋へや後方こうほうはししたといわれている。ヘルムート・カラゼクHellmuth Karasek)がドイツの週刊しゅうかんデア・シュピーゲル』にいたところによると、このフィルムには「とく長続ながつづきのするインパクト、すなわち、不安ふあん恐怖きょうふこし、正気しょうきうしなわせるものがある」という。しかしながら、この事件じけん正確せいかくさに疑問ぎもんていするものもある。たとえば映画えいが学者がくしゃであり歴史れきし学者がくしゃでもあるマーティン・ロイベルディンガーde:Martin Loiperdinger)は、そのエッセイにおいて、「リュミエールの列車れっしゃ到着とうちゃく映画えいが創成そうせい俗説ぞくせつ」としている[4]。どちらがただしいにせよ、このフィルムが動画どうがによるきわめて写実しゃじつてき幻想げんそうれていない人々ひとびと驚愕きょうがくさせたことはたしかである。リュミエール兄弟きょうだいは、到着とうちゃく列車れっしゃのすぐちかくのプラットホームじょうにカメラをくことによる効果こうか劇的げきてきであることを明確めいかく意識いしきしていた[よう出典しゅってん]

このフィルムのもうひとつの意義いぎふかてんは、フィルムの舞台ぶたい背景はいけい確立かくりつさせるために遠距離えんきょり撮影さつえい使つかわれ、中距離ちゅうきょり撮影さつえいクローズアップへとつづいていることである。カメラはフィルム全編ぜんぺんつうじて静止せいししており、被写体ひしゃたいうごきのみによってこれら様々さまざま撮影さつえい手法しゅほう効果こうか実現じつげんされている。列車れっしゃはなれた地点ちてんから到来とうらいし、観客かんきゃくかってすすみ、最後さいごにスクリーンのはし交差こうさする。この一連いちれん表現ひょうげん手法しゅほうは、モンタージュ手法しゅほう先駆さきがけになるものともいわれる[5]

フィルムの歴史れきしではあまりかたられないが、リュミエール兄弟きょうだいはこの最初さいしょ公開こうかいされた動画どうがせんだってさん次元じげん画像がぞう実現じつげんこころみていた。ルイ・リュミエールはステレオカメラをもちいて『列車れっしゃ到着とうちゃく』を撮影さつえいなおし、さん次元じげん映像えいぞうシリーズとともに1935ねんのフランス科学かがくアカデミー会議かいぎにおいて上映じょうえいした。映画えいが初期しょきあるいは前期ぜんきにおける解釈かいしゃく相反あいはんする評価ひょうかきものだったとすれば、初期しょき映画えいが歴史れきしたちが、これらのことなる『列車れっしゃ到着とうちゃく』の上映じょうえいたいする観客かんきゃく反応はんのう混同こんどうしたとかんがえるのは妥当だとうである。観客かんきゃく過激かげき反応はんのうは、列車れっしゃがスクリーンから観客かんきゃくかってせまってくる後者こうしゃ上映じょうえいにおけるものとするのが自然しぜんである。しかしながら、さん次元じげんフィルムが従来じゅうらい次元じげんフィルムのように商業しょうぎょうてき成功せいこうおさめていない事実じじつからすれば、そのような些細ささいなことで説得せっとくりょくのある俗説ぞくせつ発生はっせいすることはかんがえにくい[6]

現状げんじょう

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フィルムの制作せいさく年代ねんだい考慮こうりょすれば、この短編たんぺんフィルムはインターネットから自由じゆうにダウンロードできるものである。「Landmarks of Early Film volume 1[7]」をはじめとするおおくのフィルムコレクションにも収蔵しゅうぞうされている。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ジョルジュ・サドゥールちょ村山むらやまただし一郎いちろう出口いでぐち丈人たけと小松こまつひろしやく世界せかい映画えいがぜん2』 国書刊行会こくしょかんこうかい1993ねんISBN 4-336-03442-7

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 世界せかい映画えいがぜん2』 p.96
  2. ^ ジョルジュ・サドゥールちょ村山むらやまただし一郎いちろう出口いでぐち丈人たけとやく世界せかい映画えいがぜん1』 pp.293-294、国書刊行会こくしょかんこうかい、1992ねんISBN 4-336-03441-9
  3. ^ Technical Specifications” (HTML). Internet Movie Database. 2007ねん3がつ27にち閲覧えつらん
  4. ^ The Moving Image: Volume 4, Number 1, Spring 2004, pp. 89-118
  5. ^ 世界せかい映画えいがぜん2』 pp.111-115
  6. ^ アーカイブされたコピー”. 2012ねん10がつ21にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2013ねん5がつ5にち閲覧えつらん
  7. ^ DVD” (HTML). Internet Movie Database. 2007ねん3がつ27にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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