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伊丹酒 - Wikipedia

伊丹いたみしゅ(いたみざけ)とは、いま兵庫ひょうごけん伊丹いたみした日本酒にほんしゅひとつで、将軍しょうぐん御膳ごぜんしゅにも用達ようたしされた。雅号がごうふうに(たんじょう)ともばれる[1]

概要がいよう

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江戸えど時代じだい江戸えど発展はってん結合けつごうして江戸えどせき酒造しゅぞうぎょう発展はってんささえた上方かみがた酒造しゅぞうひとつ。領主りょうしゅ市場いちば成立せいりつべい商品しょうひん基軸きじくにした経済けいざい関係かんけいなか発展はってんした。 ピークは元禄げんろくといわれる[2]伊丹いたみしゅは「伊丹いたみ諸白もろはく」ともばれる。諸白もろはくとは、酒造しゅぞう過程かていにおいて、こうじかけまい双方そうほう精白せいはくまいもちいる製法せいほうである。伊丹いたみ諸白もろはく特徴とくちょうとして、

  • 冬季とうき集中しゅうちゅうして仕込しこむ「かんづくり」を採用さいようしたこと、
  • 杜氏とうじ集団しゅうだん分業ぶんぎょう酒造しゅぞう工程こうてい連続れんぞくてき運用うんようという量産りょうさん方式ほうしき採用さいようしたこと、

があげられる[3]。そして、伊丹いたみつくられたさけはそのほとんどが大量たいりょう消費しょうひである江戸えど市場いちばはこばれ、領主りょうしゅである近衛このえ保護ほごのもと、一部いちぶ酒造しゅぞうにおいてはたる船問屋ふなどんや経営けいえいしたり、江戸えどにもさけ問屋とんやかまえたりすることにより、生産せいさんから輸送ゆそう流通りゅうつう販売はんばいまでの一貫いっかんした体制たいせいにより清酒せいしゅ品質ひんしつ確保かくほし、高級こうきゅうしゅとしての伊丹いたみしゅ地位ちい確立かくりつしたといえる[4]

 
兵庫ひょうごけん伊丹いたみ鴻池こうのいけ鴻池こうのいけ稲荷いなりほこら

伊丹いたみは、摂津せっつこく猪名川いながわ上流じょうりゅうにあるごうむらであり、戦国せんごく時代じだい荒木あらき村重むらしげ城下町じょうかまちとなった。おなかわ沿いの池田いけだならびに、武庫川むこがわささえかわ天王寺てんのうじがわ沿いの鴻池こうのいけ現在げんざい伊丹いたみ西部せいぶ)、さらに武庫川むこがわ上流じょうりゅう小浜おばま(こはま(小浜おばま宿やど)、現在げんざい宝塚たからづか)・大鹿おおしか現在げんざい伊丹いたみ東部とうぶ)などのさととともに、室町むろまち時代ときよ中期ちゅうきから他所よそしゅ生産せいさんはじめていた。日本酒にほんしゅ趨勢すうせいとして、戦国せんごく時代じだい僧坊そうぼうしゅ衰退すいたいすると、これらのさけきょう奈良ならりゅう製法せいほう吸収きゅうしゅうし、当時とうじ日本にっぽんさけ市場いちば一挙いっきょ台頭たいとうしてきた。

貞治さだはる(じょうじ)年間ねんかん(1362~1367ねん)にいねてら伊丹いたみ酒造しゅぞうぎょうこし、升屋ますや継承けいしょう

えいただしねん(1510ねん)に紙屋かみやはち左衛門さえもん京都きょうとぐすくしゅう八幡やはたよりうつる。

伊丹いたみしゅ隆盛りゅうせいは、鴻池こうのいけむらにおける鴻池こうのいけ直文なおふみぜんみぎ衛門えもん山中やまなかしんろくこうもと)が清酒せいしゅづくりに成功せいこうしたことにはじまった[5]

慶長けいちょう5ねん1600ねん)に伊丹いたみ鴻池こうのいけ直文なおふみぜんみぎ衛門えもん)が、室町むろまち時代じだいからあっただん仕込しこ改良かいりょうし、こうじまいふけまいみずを3かいけるさんだん仕込しこみとして効率こうりつてき清酒せいしゅ大量たいりょう生産せいさんする製法せいほう開発かいはつした。これはやがて日本にっぽん国内こくないにおいて、清酒せいしゅ本格ほんかくてき一般いっぱん大衆たいしゅうにも流通りゅうつうするきっかけとなった。また、これをもっ日本にっぽん清酒せいしゅ発祥はっしょうとみなす立場たちばもあり、伊丹いたみ鴻池こうのいけには「清酒せいしゅ発祥はっしょう」の伝説でんせつしめ石碑せきひ鴻池こうのいけ稲荷いなりほこら」(こうのいけいなりしひ)がのこっている。江戸えど時代じだい後期こうき儒者じゅしゃ中井なかい履軒りけん寛政かんせい12ねん1800ねん)ごろ、大坂おおさか進出しんしゅつして豪商ごうしょうとなっていた鴻池こうのいけ依頼いらいされたいたぶんきざまれており、戦国せんごく時代じだい武将ぶしょう山中やまなかみゆきもりまご一説いっせつには長男ちょうなん)、さいわいはじめしんろく)を始祖しそとする鴻池こうのいけが、それまでのにござけから清酒せいしゅつくることに成功せいこうしたむねしるされている。このいしぶみ平成へいせい3ねん12月、伊丹いたみ文化財ぶんかざい指定していした。

慶長けいちょうねん(1600ねんごろには江戸えどまでうまさけはこんだとつたえられている[6]

うまいちとうけたよんだる2たるセットのことを『いち』といい、1たるのことを『かたうま』といった。この呼称こしょうは、上方かみがたさけ帆船はんせん海上かいじょう輸送ゆそうされるようになってからも、しょう習慣しゅうかん名残なごりとして存続そんぞくし、清酒せいしゅおろし価格かかく運賃うんちんすべじゅうじゅうたる)が1つの基準きじゅんであった[7]

寛文ひろふみ6ねん1666ねん)、伊丹いたみ公家くげ近衞このえ所領しょりょうとなった。その時点じてん伊丹いたみ酒造しゅぞうかぶだかやく8まんせきで、おおきな酒屋さかやになるといちけんで1まんせきえていたという。べいで1まんせきといえば、それだけの知行ちぎょうがあれば武士ぶしでは大名だいみょうになれたわけだから、その隆盛りゅうせいぶりがうかがわれる。

その、よりはやおお輸送ゆそうするため、3つのルートを江戸えどはこばれることとなった。まず、最初さいしょうまたるせてはこぶルートで、伊丹いたみから神崎かんざきまたは広芝ひろしばまで馬借ばしゃく問屋とんやはこばれた。つぎに、天道てんとうぶねという神崎かんざきから伝法でんぼうまで神崎かんざき船積ふなづみ問屋とんや運搬うんぱんする方法ほうほうがある。そして最後さいご江戸えどせき大型おおがた廻船かいせん使つかって伝法でんぼうから江戸えど伝法でんぼう船問屋ふなどんや(のちのたる廻船かいせん問屋とんや)が輸送ゆそうする[8]

猪名川いながわ利用りようした輸送ゆそうについては、馬借ばしゃく反対はんたいによりなかなか実現じつげんしなかったが、天明てんめいねん(1784ねん)に営業えいぎょうみとめられ、猪名川いながわどおりせんにより伊丹いたみから神崎かんざきまでふねのルートも確保かくほされた[4]

このようにして、伊丹いたみつくられたさけふね猪名川いながわくだり、大坂おおさかわんて、ひしかき廻船かいせんたる廻船かいせん江戸えど出荷しゅっかされたわけだが、地元じもと消費しょうひされるよりも圧倒的あっとうてき江戸えど出荷しゅっかするりつたかかった。地元じもとひとはもとより、きょう大坂おおさかひともあまり伊丹いたみさけんでいなかったのである。

寛文ひろふみ以降いこう幕府ばくふきびしい酒造しゅぞう統制とうせい元禄げんろく年間ねんかんげん醸令、またもとぶん3ねん1738ねん)に新酒しんしゅいちばんせん江戸えどいれは15そうまでと制限せいげんされたことなどにより、伊丹いたみ周辺しゅうへんさけきょうである鴻池こうのいけ小浜おばま大鹿おおしか山田やまだなどはちこたえられなくなって、次第しだい衰退すいたい消滅しょうめつしていった。すでにざいだいさか進出しんしゅつしていた鴻池こうのいけは、鴻池こうのいけというごうむらさけきょうとして衰滅すいめつしたあとも豪商ごうしょうとしてしょ方面ほうめん活躍かつやくし、やがて明治めいじ時代じだい以降いこう財閥ざいばつとなり、平成へいせい時代じだいいたるまで三和銀行さんわぎんこうとして綿々めんめんしょうみゃくつづいていくことになる。

さて、酒造しゅぞう統制とうせい逆風ぎゃくふうのなかでも伊丹いたみだけは、領主りょうしゅ近衛このえ醸造じょうぞうぎょう保護ほご育成いくせいしたこともあってのこりに成功せいこうし、そのすぐれたさけしつ評価ひょうかされて、もとぶん5ねん1740ねん)には伊丹いたみしゅ銘柄めいがらけんひし』『男山おとこやま』『きくけんひし』が徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ御膳ごぜんしゅになり、さらに『老松おいまつ』『富士ふじしろゆき』『菊名きくなさけ』が”禁裏きんり調ちょうみつぎめい”(=宮内庁くないちょう御用達ごようたし)となるなど、伊丹いたみブランドは不動ふどう地位ちい獲得かくとくする。[9]また、江戸えどちゅうさけ相場そうばをたどっても、伊丹いたみしゅ池田いけだしゅ土地とちさけくらべはるかに高値たかね取引とりひきされていたことがわかる。 ところが皮肉ひにくなことに、伊丹いたみしゅにとってしん逆風ぎゃくふう幕府ばくふ酒造しゅぞう統制とうせいではなく、もっと足下あしもとにあったことが後年こうねんになってわかる。おないずみじゅうさとのなかで室町むろまち時代じだいから他所よそしゅのライバルであった西宮にしのみやや、この業界ぎょうかい新規しんき参入さんにゅうしてきたなだに、伊丹いたみしゅしつりょうともにどんどんげられていくようになった。西宮にしのみやなだうみめんしているので、輸送ゆそうのためまずかわくだりからはじめなければならない伊丹いたみより有利ゆうりであったこともげられる。

なださけきょうとして最初さいしょ文献ぶんけん登場とうじょうするのは正徳まさのり6ねん1716ねん)であるが、はっきりと江戸えどさけ市場いちば伊丹いたみしゅげる新興しんこう勢力せいりょくとして確認かくにんされるのは、とおる9ねん1724ねん江戸えどくださけ問屋とんや調査ちょうささけ生産せいさんとしてなだ三郷みさとおおやけ報告ほうこくしょ記載きさいされたときである。これこそ江戸えど時代じだい後期こうきなだ五郷いさとである。

やがて天保てんぽう年間ねんかん1837ねんまたは1840ねん)に西宮にしのみやみやすい発見はっけんされると、なだしゅはさらにあじがグレードアップし、消費しょうひしゃなだうようになっていった。こうして伊丹いたみしゅ江戸えど時代じだい後期こうきには次第しだい江戸えどでの販売はんばいシェアをなだうばわれていくのだが、伊丹いたみ領主りょうしゅ近衛このえけいらいで京都きょうとあらたな販路はんろ拡大かくだいひらくことになる。天保てんぽう6ねん1835ねん以後いご近衛このえへの年貢ねんぐとして上納じょうのうするさけという名目めいもくで、伊丹いたみしゅおおやけ京都きょうとはいることがゆるされたのである。かつては大津おおつしゅ京都きょうとでは他所よそしゅのトップブランドであったが、こうして伊丹いたみしゅがそれにとってかわるようになった。

こうしたあらたな販路はんろ開拓かいたくしたものの、伊丹いたみしゅ江戸えど末期まっきから明治めいじ時代じだいにかけ、おおきく衰滅すいめつしていき、天下てんかをとどろかせた「けんひし」「男山おとこやま」「松竹梅しょうちくばい」などの伊丹いたみ発祥はっしょうさけめいおおくは、なだなどの蔵元くらもと移転いてん買収ばいしゅうされていった。だが、「はくゆき」「老松おいまつ現在げんざい委託いたく醸造じょうぞう)」「大手おおて抦(2006ねん3月廃業はいぎょうしたが、ブランドは2009ねん小西酒造こにししゅぞう復活ふっかつさせている)」などが、伊丹いたみ往年おうねん伝統でんとうつたえ21世紀せいきまでにいたった。

『「伊丹いたみ諸白もろはく」と「なだ生一本きいっぽんくださけんだめい醸地、伊丹いたみなださと』が、れい2年度ねんど日本にっぽん遺産いさん認定にんていされる。

製法せいほう

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はしら焼酎しょうちゅう

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僧坊そうぼうしゅ直系ちょっけい後継こうけいしゃ奈良ならりゅうであったが、こうじ歩合ぶあい奈良ならりゅうよりひくく、また汲水きゅうすい(くみみず)ばしおこない、くわえるみずりょうおおくし、うえそうまえ焼酎しょうちゅうくわえてアルコール度数どすうたかめた。

この手法しゅほうはしら焼酎しょうちゅう(はしらじょうちゅう)といい、今日きょう醸造じょうぞう工程こうていにおけるアルコール添加てんか起源きげんである。はしら焼酎しょうちゅうおこなうことで、それ以前いぜんのこってりとした諸白もろはくとはことなるすっきりとした辛口からくちさけができ、このあじのちなだなま一本いっぽんなどにがれるおとこしゅ(おとこざけ)の原型げんけいとなった。

汲水きゅうすい歩合ぶあい

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くわえたみずりょうを、使つかったべい総量そうりょうったものを汲水きゅうすい歩合ぶあい(くみみずぶあい)という。江戸えど時代じだい初期しょきにおいて、伊丹いたみしゅ汲水きゅうすい歩合ぶあいは0.58で、南都なんと諸白もろはく奈良ならりゅうかわらない。寛文ひろふみ7ねん(1667ねん)の伊丹いたみかんづくにおいては0.6となっている。

江戸えど時代じだい後期こうきに、みずみなとめぐまれて成長せいちょうするなだしゅは、「じゅういしの「みず」をじゅうせきべいくわえることからじゅう水仕みずしみ(とみずじこみ)ばれた製法せいほう採用さいようし、汲水きゅうすい歩合ぶあいが1.00ちかくまでたかくなっている。これは当時とうじから「びのさけ」と評価ひょうかされた。 

大量たいりょう生産せいさん

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元禄げんろく16ねん1703ねん)の記録きろくによれば、以下いかのような製造せいぞうデータがある。

そうべい-9せき7
もろみ総量そうりょう-15せき36しょう
こうじ歩合ぶあい-3わり3ふん

南都なんと諸白もろはくのころよりもじゅうすうばい大量たいりょう生産せいさんになっていることがわかる。

その理由りゆうとして、杜氏とうじ集団しゅうだん分業ぶんぎょう酒造しゅぞう工程こうてい連続れんぞくてき運用うんようという酒造しゅぞう技術ぎじゅつ採用さいようがあげられる。諸白もろはくさけははこうじふけまいみずさん段階だんかいけて仕込しこむのが特徴とくちょうである。南都なんと諸白もろはくかく段階だんかいとも等量とうりょう仕込しこ方式ほうしきであることからおおきな酒造しゅぞうりょうのぞめない。一方いっぽう伊丹いたみ諸白もろはくではかく段階だんかいとも倍加ばいかさせながら仕込しこ方式ほうしき採用さいようし、比較的ひかくてき大量たいりょう造酒ぞうしゅ可能かのうとなった。また、杜氏とうじはたらじんばれる酒造しゅぞう労働ろうどうしゃぐん統率とうそつし、精白せいはく洗米せんまいふけまいこうじづくり-しゅははづくり-もろみづくり-しぼりあげ-火入ひいれ、などの酒造しゅぞう工程こうてい配置はいちされ、こうじふけまいみず倍加ばいかさせながらさんだん仕込しこみ、これらの工程こうていかえ運用うんようすることで、量産りょうさん方式ほうしき確立かくりつした[10]

寛政かんせい11ねん(1799ねんかん日本にっぽん山海さんかい名産めいさん図会ずえ酒造しゅぞうこうより

四季しき醸造じょうぞう

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のべたからきん以降いこう建前たてまえとしてはもうつくっていないことになっていた四季しき醸造じょうぞうではあるが、元禄げんろく6ねん1693ねん)の時点じてんではまだ新酒しんしゅ24酛、あいだしゅ(あいしゅ)44酛という記録きろくのこっている。 しかし江戸えど消費しょうひしゃこのみがしだいにかんしゅになじんできたこと、いずみじゅうさとのあいだでもさけしつ追求ついきゅう競争きょうそう激化げきかしたことなどが原因げんいんで、伊丹いたみでも次第しだいかんづく一本いっぽんされていった。

かんづく

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冬季とうき集中しゅうちゅうして仕込しこみをおこなう。最初さいしょ仕込しこさけはは、つぎのさん段階だんかい仕込しこむもろみでは、こうじによるデンプンの糖化とうか酵母こうぼによるブドウ糖ぶどうとうのアルコール発酵はっこう並行へいこうし、これを平行へいこうふく発酵はっこう(へいこうふくはっこう)とぶが、作用さよう適温てきおん前者ぜんしゃ摂氏せっし37後者こうしゃ摂氏せっし30から32となる。このため、なつあつ時期じき仕込しこみの適期てっきとなるが、空気くうきみずなど自然しぜんかい生息せいそくする腐敗ふはいきん酢酸さくさんきん活動かつどう活発かっぱつとなるため、さけ腐敗ふはいしたり、すっぱくなったりの酸敗さんぱい(ざんぱい)がきやすい。ましはいによる中和ちゅうわ酸敗さんぱい対処たいしょほうのひとつとしてあげられる。かんづくりはさむさで腐敗ふはいきん酢酸さくさんきん活動かつどう活発かっぱつとなり酸敗さんぱいきにくく、安全あんぜんたかまる一方いっぽうで、平行へいこうふく発酵はっこうには時間じかんがかかり、仕込しこ期間きかんながくなる。発酵はっこう促進そくしんさせるため、暖気だんきだる木製もくせいいちだるれる)の投入とうにゅう個数こすう増減ぞうげんすることにより平行へいこうふく発酵はっこう適温てきおん確保かくほしていた[3]

伊丹いたみしゅ酒造しゅぞうメーカー

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明治めいじすえ伊丹いたみ流行はやった「銘酒めいしゅうた」では、今昔こんじゃく伊丹いたみしゅ銘柄めいがらうたいこんでいる。

銘酒めいしゅうた

伊丹いたみ銘酒めいしゅ無比むひなもの 会社かいしゃははつきく男山おとこやま まる老松おいまつ名高なだかけんひし おおとりぎんぶくます大手おおて抦 都鳥みやこどりおにわらい 天下てんかかがやせいふうあさひづる しろゆきをのましゃんせ

このうち、「老松おいまつ」「けんひし」「男山おとこやま」のさん銘柄めいがら江戸えど時代じだいとく有名ゆうめいだった。[11]

文化財ぶんかざい文化ぶんか遺産いさん

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ブルワリーミュージアム『長寿ちょうじゅぞう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 伊丹いたみ編纂へんさんしつへん伊丹いたみ史話しわ』(昭和しょうわ47(1972)ねん刊行かんこう 伊丹いたみさけ 129ぺーじ
  2. ^ 酒造さけづくりの歴史れきし』 P76
  3. ^ a b 日本酒にほんしゅきん現代げんだい : 酒造しゅぞう誕生たんじょう』 P28
  4. ^ a b 伊丹いたみごうまち発展はってん伊丹いたみしゅ』 P8
  5. ^ みや水物みずものなだ五郷いさと歴史れきし』P16
  6. ^ 伊丹いたみごうまち発展はってん伊丹いたみしゅ』 P6
  7. ^ 伊丹いたみじょうさけ俳諧はいかいと』 P88
  8. ^ 酒造さけづくりの歴史れきし』P81
  9. ^ 伊丹いたみじょうさけ俳諧はいかいと』 P91
  10. ^ 日本酒にほんしゅきん現代げんだい : 酒造しゅぞう誕生たんじょう』 P31
  11. ^ みや水物みずものなだ五郷いさと歴史れきし』 P31

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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