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六韜 - Wikipedia

ろく

古代こだい中国ちゅうごく兵法ひょうほうしょ

ろく』(りくとう)は、中国ちゅうごく代表だいひょうてき兵法ひょうほうしょで、たけけいななしょひとつ。このうちの『さんりゃく』と併称へいしょうされる。「韜」はけんゆみなどをれるふくろ意味いみである。一巻いっかんに「ぶん韜」「たけ韜」、かんに「りゅう韜」「とら韜」、さんかんに「ひょう韜」「いぬ韜」の60へんからり、全編ぜんぺん太公望たいこうぼうりょひさししゅうぶんおうたけおう兵学へいがく指南しなんする設定せってい[注釈ちゅうしゃく 1]構成こうせいされている。なかでも「とらまきとら韜)」は、兵法ひょうほう代名詞だいめいしとして慣用かんようにもなっている。

構成こうせい

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だいいちかん

  • ぶん韜」 - 戦争せんそうをするためのくにおさかたと、政治せいじかたこうじている。
  • たけ韜」 - 戦争せんそうまえ自国じこく有利ゆうりにし、敵国てきこく不利ふりにするための国家こっか戦略せんりゃくこうじている。

だいかん

  • りゅう韜」 - 軍隊ぐんたい組織そしき構築こうちくと、将軍しょうぐん将校しょうこう任命にんめいこうじている。
  • とら韜」 - 基本きほんてき戦場せんじょう平野へいや)での戦術せんじゅつ指揮しき部隊ぶたい陣形じんけい兵士へいし武具ぶぐこうじている。もっと実用じつようてきしょとされている。とらまき語源ごげん

だいさんかん

  • ひょう韜」 - 特別とくべつ戦場せんじょう森林しんりん山岳さんがく谷間たにま湖水こすい)での応用おうようてき戦術せんじゅつ指揮しき部隊ぶたい陣形じんけい武器ぶき防具ぼうぐこうじている。
  • いぬ韜」 - 歩兵ほへい騎兵きへいゆみへい戦車せんしゃ部隊ぶたい編制へんせい方法ほうほうと、かく兵科へいか訓練くんれん作法さほうこうじている。

内容ないよう特徴とくちょう

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寡戦の講説こうせつ

孫子まごこ』では寡戦小勢こぜい大勢おおぜいたたかうこと)をかないが、『ろく韜』では寡戦を部分ぶぶんられ、これが戦闘せんとう姿勢しせいたいするちがいといえる。

将軍しょうぐんへの全権ぜんけん委任いにん

ろく韜』「たてしょうへん」では、君主くんしゅ戦争せんそう全権ぜんけんしょう移譲いじょうする儀礼ぎれいおこない、口出くちだしさせないちかいをたせているが、このスタイルはクラウゼヴィッツの『戦争せんそうろん』と対比たいひされる。『戦争せんそうろん』では、戦争せんそう政治せいじいち手段しゅだんであり、ぐんはあくまで政治せいじ管轄かんかつ(シビリアンコントロール)とされる。『孫子まごこ』をはじめとする中国ちゅうごく兵法ひょうほうにおいて、君主くんしゅ軍事ぐんじ行動こうどうくちさない思想しそうがあったのは、古代こだい中国ちゅうごくにおいて、政治せいじ軍人ぐんじん分離ぶんり状態じょうたいであったためとされ、将軍しょうぐん政治せいじにも精通せいつうしていたためとされる[1][注釈ちゅうしゃく 2]

騎兵きへいりょく換算かんさん

ろく韜』における用兵ようへいろんひとつとして、「平坦へいたん土地とち」においては、1たいし、歩兵ほへい8にん対抗たいこうできるとしるし、山間さんかんなど「けわしい土地とち」では、1たいし、歩兵ほへい4にんたたかえると記述きじゅつされており、土地とちがらによって歩兵ほへい騎兵きへい相手あいてにできる人数にんずういている。

さきしん古書こしょ

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ろく韜』はそうだい刊行かんこうされたそう刊本かんぽん通行つうこうしていたが、『漢書かんしょまき30藝文げいぶんこころざし[2]兵書へいしょりゃく」にそのえず、『ずいしょまき34経籍けいせきこころざし[3]兵家へいか」にその書名しょめいえる。このため姚際つねは『古今ここん偽書ぎしょ攷』ではたかん以降いこう偽作ぎさくろんじている。しかし、1972ねん発掘はっくつ調査ちょうさされたぎんすずめやまかんはかぐん前漢ぜんかんたけみかど造営ぞうえい)より出土しゅつどしたたけなかに「ぶん韜」「たけ韜」「とら韜」のざん簡(たけ53まい)が検出けんしゅつされ、前漢ぜんかん前期ぜんき紀元前きげんぜん2世紀せいきにはすで流布るふしていたことが判明はんめいした。このことから、戦国せんごく時代じだいには成立せいりつしていた可能かのうせいたかいとされる[4]

伝承でんしょう

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前漢ぜんかん創業そうぎょう功臣こうしんである軍師ぐんしちょうりょう黄石こうせきおおやけからゆずけたといわれている書物しょもつでもある[注釈ちゅうしゃく 3]

日本にっぽんでは、朝廷ちょうてい書物しょもつ管理かんりしていた大江維時おおえのこれときが10世紀せいきはじめの930ねんころとうから『ろく韜』『さんりゃく』および『ぐんかち』(しょかずらあきらはちじん)をちかえったが、これらの兵書へいしょを「ひと耳目じもく(じもく)をまどわすもの」とし、大江おおえにのみつたえ、他家たけして、しばらくのあいだひろまらなかったとされる[5]大江おおえ兵書へいしょつたえたのは、古代こだいでは天皇てんのう勅命ちょくめいでやむをえずの場合ばあい)。このほか、源義経みなもとのよしつね陰陽いんようじゅつおにいち法眼ほうげんからゆずけたという伝説でんせつや、大化たいか改新かいしんさい中臣鎌足なかとみのかまたり暗唱あんしょうするほどんでいたといういいつたえがのこっている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この設定せっていそのものはあきらかな仮託かたくである。[よう出典しゅってん]
  2. ^ 一方いっぽう、『戦争せんそうろん以前いぜんのヨーロッパでは、政治せいじらない軍人ぐんじん軍事ぐんじらない政治せいじたがいに介入かいにゅうすることで混乱こんらんしょうじていた。[よう出典しゅってん]
  3. ^ 史記しき』の記述きじゅつによれば、ちょうりょう逃亡とうぼうさき世話せわをした老人ろうじんから太公望たいこうぼうりょひさし兵法ひょうほうしょ書名しょめい記述きじゅつなし)をさづけられるが、このさいにいわれた言葉ことばが、「これをめば王者おうじゃになるだろう」だったという。老人ろうじんかたったとおり、10ねんかりおうした兵法ひょうほう指導しどうしている。このあいだりょう太公望たいこうぼう兵法ひょうほう周囲しゅういいたが、だれみみかたむけなかったため、みみかたむけたおう聡明そうめいさをたたえた。[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

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  1. ^ 守屋もりやあつし最高さいこう戦略せんりゃく教科書きょうかしょ 孫子まごこ日本経済新聞にほんけいざいしんぶん出版しゅっぱんしゃ だい15さつ2016ねん ISBN 978-4-532-16925-1 p.218.
  2. ^   はんかた (中国ちゅうごく), 漢書かんしょ/まき030, ウィキソースより閲覧えつらん 
  3. ^   ちょう (中国ちゅうごく), ずいしょ/まき34, ウィキソースより閲覧えつらん 
  4. ^ ぶく「臨沂かん簡概じゅつ」『文物ぶんぶつ』1974ねん
  5. ^ たたかえせんけい』 2011ねん

注釈ちゅうしゃく解説かいせつ文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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