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千代の山雅信 - Wikipedia

千代ちよやま雅信まさのぶ

日本にっぽん力士りきし

千代ちよやま 雅信まさのぶ(ちよのやま まさのぶ、1926ねん6月2にち - 1977ねん10月29にち)は、北海道ほっかいどう松前まさきぐん福島ふくしままち出身しゅっしん出羽海でわのうみ部屋へや所属しょぞくした大相撲おおずもう力士りきしだい41だい横綱よこづな本名ほんみょう杉村すぎむら 昌治しょうじ(すぎむら まさはる)。

千代ちよやま 雅信まさのぶ
基礎きそ情報じょうほう
四股しこめい 千代ちよやま 雅信まさのぶ
本名ほんみょう 杉村すぎむら 昌治しょうじ
愛称あいしょう 青年せいねん横綱よこづな
鉄骨てっこつ
太刀たちやま再来さいらい
仁王におう
ドン
だい武藏むさしさん
生年月日せいねんがっぴ 1926ねん6月2にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1977-10-29) 1977ねん10月29にち(51さいぼつ
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう松前まさきぐん福島ふくしままち
身長しんちょう 191cm
体重たいじゅう 122kg
BMI 33.44
所属しょぞく部屋へや 出羽海でわのうみ部屋へや
得意とくいわざ り、みぎよっつ、上手じょうず
成績せいせき
現在げんざい番付ばんづけ 引退いんたい
最高さいこう だい41だい横綱よこづな
生涯しょうがい戦歴せんれき 407しょう158はい2ふん147きゅう(54場所ばしょ
幕内まくうち戦歴せんれき 366しょう149はい2ふん147きゅう(46場所ばしょ
優勝ゆうしょう 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう6かい
十両じゅうりょう優勝ゆうしょう2かい
しょう 殊勲賞しゅくんしょう1かい
敢闘かんとうしょう1かい
データ
はつ土俵どひょう 1942ねん1がつ場所ばしょ
入幕にゅうまく 1945ねん11月場所ばしょ
引退いんたい 1959ねん1がつ場所ばしょ
備考びこう
金星かなぼし3羽黒山はぐろさん政司せいじぜん田山たやま英五郎えいごろう照國てるくに万蔵まんぞう

来歴らいれき

編集へんしゅう

入門にゅうもん平幕ひらまく時代じだい

編集へんしゅう

はじめはだい横綱よこづなそう葉山はやま定次さだじへの入門にゅうもん希望きぼうしていたが、周囲しゅういから「双葉ふたばさんてるおとこになれ」とわれたため1942ねん出羽海でわのうみ部屋へや入門にゅうもんした[1]入門にゅうもん当初とうしょから横綱よこづな期待きたいされていたため、杉村すぎむら相撲すもう部屋へや入門にゅうもんしただけで地元じもと記事きじになった。当時とうじ食糧難しょくりょうなん時代じだいだったにもかかわらず、出羽海でわのうみ方針ほうしんでただ一人ひとり腹一杯はらいっぱい食事しょくじあたえられるほどの逸材いつざいだった[1][2]当時とうじのあだは、迫力はくりょくある立合たちあいのぶつかるおとからられた「ドン」であった。

双葉ふたばさん1945ねん引退いんたいしたため、双葉ふたばさんとの対戦たいせんかなわなかった[1]が、しん入幕にゅうまく1945ねん11月場所ばしょで10せん全勝ぜんしょう記録きろくした[3][2]。これによって16しゃく土俵どひょうと15しゃく土俵どひょう両方りょうほう全勝ぜんしょう記録きろくした力士りきし一人ひとりとなった。羽黒山はぐろさん政司せいじも10せん全勝ぜんしょうだったので、当時とうじ番付ばんづけ上位じょういしゃ優勝ゆうしょう制度せいど[ちゅう 1]により優勝ゆうしょうこそのがしたものの、おそれるべき力士りきしとして印象いんしょうけられた[ちゅう 2][ちゅう 3][1]戦後せんご食糧難しょくりょうなんなかでベテランたちが次々つぎつぎ引退いんたいし、1947ねん夏場所なつばしょ時点じてん部屋へや幕内まくうち力士りきしが9にんにまで減少げんしょうしたなかで、千代ちよやま復活ふっかつへの大黒柱だいこくばしらとして期待きたいされた[4]

大関おおぜき昇進しょうしん

編集へんしゅう

そうしたなか千代ちよやま1949ねん10がつ場所ばしょ大関おおぜき昇進しょうしん[3]、その場所ばしょは13しょう2はい北海道ほっかいどう出身しゅっしん力士りきしとしてのはつ優勝ゆうしょうげた。千代ちよやまよく場所ばしょも12しょう3はい連覇れんぱ達成たっせいするが、ぜん田山たやま英五郎えいごろうのシールズ事件じけんはじめとする当時とうじ横綱よこづなじんへの批判ひはん渦巻うずまいていたあおりをけ、不運ふうんにも横綱よこづな昇進しょうしん見送みおくられた。これは、たまにしきさんみぎもん大関おおぜきで3連覇れんぱしながら横綱よこづな昇進しょうしんたせなかったこと以来いらいであった[ちゅう 4][1]

横綱よこづな昇進しょうしん引退いんたい

編集へんしゅう

1951ねん5月場所ばしょを14しょう1はいで3度目どめ優勝ゆうしょうげ、ようやく横綱よこづな昇進しょうしんした[3][2]ときおなじくして、横綱よこづな免許めんきょ権限けんげんっていた吉田よしだつかさの24せい吉田よしだちょうぜんによる不祥事ふしょうじのため、免許めんきょ権限けんげん相撲すもう協会きょうかい移行いこうしており、千代ちよやま協会きょうかい独自どくじ推挙すいきょした最初さいしょ横綱よこづなとなった。 念願ねんがん横綱よこづな昇進しょうしんした千代ちよやまだったが、昇進しょうしんしん入幕にゅうまくころよりまった体重たいじゅうえずおもうような成績せいせきしばらのこせずに苦労くろうしていた[ちゅう 5][1]1953ねん1がつ場所ばしょは1しょう1はい途中とちゅう休場きゅうじょうからさい出場しゅつじょうで4しょう4はい7きゅう、3がつ場所ばしょは5にちで1しょう4はいから休場きゅうじょう[ちゅう 6]と、2場所ばしょ連続れんぞく途中とちゅう休場きゅうじょうという成績せいせき不振ふしん理由りゆうにより、千代ちよやまみずから「大関おおぜき地位ちいからやりなおしさせてしい」と異例いれい横綱よこづな返上へんじょうもう[3]。だが、当時とうじ千代ちよやま横綱よこづな大関おおぜきじん一番いちばんわかかったため、協会きょうかい再起さいき期待きたい方針ほうしんしてこれをみとめなかった(これ以降いこう返上へんじょう降格こうかくもう横綱よこづな存在そんざいしない)[1][ちゅう 7]協会きょうかい激励げきれいけた千代ちよやま同年どうねん5がつ場所ばしょ全休ぜんきゅうのち同年どうねん9がつ場所ばしょでは11しょう復活ふっかつ。そして1955ねん1がつ・3がつ場所ばしょで2連覇れんぱたし、さらに1957ねん1がつ場所ばしょには自身じしん唯一ゆいいつ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう達成たっせいした。

しかし、千代ちよやましん弟子でし時代じだい稽古けいこちゅうひざ重症じゅうしょう関節かんせつえんわずらい、ほねあなけてうみ手術しゅじゅつけた影響えいきょうでこれ以降いこういち時代じだいきずけなかった[1]。さらに場所ばしょちゅう独走どくそうするとつよいものの力士りきしとのこん戦時せんじ苦手にがてだったらしく、1958ねんには僅差きんさ優勝ゆうしょうを3のがす(3場所ばしょ連続れんぞく)ことがあり、結果けっかてきに1957ねん1がつ場所ばしょ全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう千代ちよやま最後さいご天皇てんのう賜杯しはいとなった。

優勝ゆうしょうは6かいであったが、しん入幕にゅうまく時代じだいには羽黒山はぐろさんおなじ10せん全勝ぜんしょう記録きろくしつつ番付ばんづけ上位じょうい優勝ゆうしょう制度せいどによってのがしたことがあるため、実質じっしつは7かいといえる(うち全勝ぜんしょう2かい)。得意とくいみぎよっつ、り。わきかたく、相手あいて容易よういひだりさせなかった。またりの強烈きょうれつさは並外なみはずれており、「太刀たちやま再来さいらい」ともひょうされた[3]りの稽古けいこだいにされたとちにしき清隆きよたかいがんだほどであるほど、非常ひじょう稽古けいこ熱心ねっしんだった。最盛さいせいでも192cm・120kg(112kgとのせつもある)の細身ほそみながら筋骨きんこつ隆々りゅうりゅうとした体型たいけいで「鉄骨てっこつのやぐら」としょうされた。なお、現役げんえき横綱よこづなであったときにきた富士ふじをスカウトしており、独立どくりつさいしてはきた富士ふじきゅうじゅう千代ちよやま)にしたがうこととなった。

1959ねん1がつ場所ばしょかぎりで引退いんたいし、年寄としより九重ここのえ襲名しゅうめいした。横綱よこづな在位ざいいすう32場所ばしょは、それまでの羽黒山はぐろさん政司せいじの30場所ばしょえる当時とうじ歴代れきだい1記録きろくだった。千代ちよやま土俵どひょうったことで、1900ねん1がつ場所ばしょ常陸ひたち山谷さんやみぎもん関脇せきわけ昇進しょうしんしてから60年間ねんかん・138場所ばしょわたってだれかがさんやく力士りきしつとめていた出羽海でわのうみ部屋へやからさんやく力士りきし消滅しょうめつした。

名跡みょうせき継承けいしょう問題もんだい出羽海でわのうみ一門いちもん破門はもん

編集へんしゅう
 
横綱よこづな授与じゅよしき土俵入どひょういりを披露ひろうする千代ちよやま
(1951ねん6がつ8にち明治めいじ神宮じんぐう)。

1960ねん九重ここのえ師匠ししょうである出羽海でわのうみくなると、九重ここのえ後継こうけいしゃ候補こうほとして名乗なのりをげた。出羽海でわのうみくなる寸前すんぜんに「九重ここのえ千代ちよやま)にがせたかった」という遺言ゆいごんのこしたとわれたが、確証かくしょうがないため武藏川むさしがわ継承けいしょうした[2]出羽海でわのうみは、この3ねんまえ自殺じさつ未遂みすい事件じけんときにも九重ここのえ後継こうけいしゃ指名しめいした遺書いしょいていたとわれるが、一命いちめいめたことでこの遺書いしょ破棄はきされた。

1965ねん5がつ柏戸かしわどつよし大鵬たいほう幸喜ゆきよしきた富士ふじ勝昭かつあきとも拳銃けんじゅうをハワイから密輸入みつゆにゅうしたことによりその証拠しょうこ隠滅いんめつはかろうと廃棄はいきしていたことが発覚はっかく書類しょるい送検そうけんされたが、日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいからの処分しょぶんはなかった。

出羽でわはな次代じだいの「出羽海でわのうみ」こそは、九重ここのえだと本人ほんにん周囲しゅういおもっていたがのち佐田さだやますすむまつ出羽海でわのうみ婿養子むこようしとなり、しかも出羽海でわのうみ部屋へや土地とち建物たてものすべてを「佐田さだやま名義めいぎえていた。このためきゅうじゅう自分じぶん継承けいしょうすることはないと判断はんだんし、大阪おおさか春場所はるばしょ協会きょうかい木戸御免きどごめんである光恵みつえ夫人ふじんちちである大阪おおさかだい料亭りょうてい経営けいえいしゃ伊藤いとうつくるこれしんのバックアップを[5]、1967ねん1がつ場所ばしょ常陸山ひたちやま以来いらい分家ぶんけ独立どくりつもとという不文ふぶんりつなやみながらもうると、弟子でし13めいちゅう10めいまでをれて独立どくりつすることをゆるされた[6][ちゅう 8]。しかし弟子でしもろとも出羽海でわのうみ一門いちもんから破門はもんされたため、高砂たかさご一門いちもん移籍いせきすることになった[6][3][ちゅう 9][2][7]

九重ここのえ部屋へや独立どくりつ死去しきょ

編集へんしゅう

独立どくりつ最初さいしょ場所ばしょだった1967ねん3がつ場所ばしょには愛弟子まなでし大関おおぜききた富士ふじ勝昭かつあきはつ優勝ゆうしょうげたほか、これまたじゅうりょうでも愛弟子まなでしまつ前山まえやま武士たけし優勝ゆうしょうした。そのきた富士ふじ横綱よこづなに、独立どくりつ弟子でしからきたうみ弘光ひろみつ関脇せきわけそだてた。それ以外いがいにも、出身しゅっしん卒業そつぎょうした小学校しょうがっこうおなじでのち史上しじょう最強さいきょう小兵こひょう横綱よこづなともわれる千代ちよ富士ふじみつぐをスカウトした。一方いっぽうで、協会きょうかいないにおいては独立どくりつ破門はもん委員いいんへの降格こうかく余儀よぎなくされていたが、1976ねんには協会きょうかい役員やくいん待遇たいぐう昇格しょうかくした。この昇格しょうかく理事りじちょうとして2むかえたかつての稽古けいこ相手あいて春日野かすがの温情おんじょうによるものだとわれている。 その千代ちよ富士ふじ幕内まくうち力士りきしまでそだげたが、九重ここのえもこのころから急激きゅうげき体調たいちょうくずすようになった。九重ここのえはやがてはいガン診断しんだん当時とうじは、ガンの場合ばあいきゅうじゅう本人ほんにん告知こくちされなかった)されて入院にゅういんするが、千代ちよ富士ふじしんさんやく昇進しょうしんることなく1977ねん10月29にち、51さいでその生涯しょうがいじた[8]

きた富士ふじ継承けいしょう千代ちよ富士ふじ昇進しょうしん

編集へんしゅう

九重ここのえ死後しご九重ここのえ部屋へや独立どくりつして井筒いづつ部屋へやおこしていたきた富士ふじりょう部屋へや合同ごうどうかたち継承けいしょうした。1981ねん1がつ場所ばしょ千代ちよ富士ふじ大関おおぜき昇進しょうしん同年どうねん7がつ場所ばしょ横綱よこづな昇進しょうしんたした。なお、大関おおぜき横綱よこづな昇進しょうしん伝達でんたつしきさい通常つうじょう力士りきし本人ほんにん師匠ししょう夫妻ふさいそろって出席しゅっせきするが、千代ちよ富士ふじ場合ばあいきゅうじゅう親方おやかたもときた富士ふじ)の配慮はいりょにより、千代ちよやま未亡人みぼうじんきた富士ふじとも同席どうせきしていた(九重ここのえ親方おやかたは、当時とうじ独身どくしんつまがいなかったため、そのわりに千代ちよやま未亡人みぼうじんってもらったとかたっている[ちゅう 10])。

人物じんぶつ・エピソード

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  • 師匠ししょうゆずりの達筆たっぴつられ、「九重ここのえ部屋へや」の初代しょだい看板かんばん千代ちよやまみずからの手書てがきによるものだった。現在げんざい、この看板かんばん故郷こきょうである福島ふくしままち横綱よこづなせんだいやま千代ちよ富士ふじ記念きねんかん展示てんじされている。
  • 元々もともと野放図のほうず性格せいかくであるとつたわっており、ひと千代ちよやま中身なかみがわかっているからとって7だい出羽海でわのうみ死去しきょしたさいには、遺書いしょやす不手際ふてぎわはたらいたせつがある[9]
  • 独立どくりつ当初とうしょ部屋へや経営けいえいくるしみ、すで横綱よこづな昇進しょうしんしていたきた富士ふじ巡業じゅんぎょう布団ふとんゆず時期じきもあったという[9]どう時期じき稽古けいこじょう蔵前くらまえ国技こくぎかん相撲すもう教習所きょうしゅうじょり、在京ざいきょうちゅう部屋へや力士りきしたち夫人ふじん経営けいえいする料亭りょうてい花月かげつ」の敷地しきちない寝泊ねとまりしたという[2]
  • 出羽海でわのうみ部屋へや時代じだい千代ちよやま別格べっかくのしゃべりきでられており、きた富士ふじ給仕きゅうじをしながら2あいだほどはなしくことがあったがきた富士ふじは「はなし面白おもしろいから、2あいだぐらいあっというあいだ」とかえっている。きた富士ふじ千代ちよやまからさけかた女性じょせいとのかた贔屓ひいきすじとのかたなどをおそわったが、きた富士ふじいわく「ほんせないようなはなしおおいです(笑)」[10]
  • 横綱よこづな時代じだい使用しようしていた化粧廻けしょうまわしには葛飾かつしか北斎ほくさいの『富嶽ふがくさんじゅうろくけい 神奈川かながわけんおきなみうら』が、太刀持たちもち・露払つゆはらいのものには俵屋たわらや宗達そうたつの「風神ふうじん雷神らいじん」がえがかれている[11]
  • だい酒飲さけのみでられ、あるときサッポロビールえんでビールをだいジョッキ30はいんだ。最後さいご入院にゅういん前日ぜんじつはおかみ(つま)とウイスキーを1ほんけ、病室びょうしつのベッドのしたからビールかんなんほんてきた。最期さいご言葉ことばは「てっぽうばしらはどこだ」だったという[12]

おも成績せいせき

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通算つうさん成績せいせき

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  • 通算つうさん成績せいせき:407しょう158はい2ふん147きゅう 勝率しょうりつ.720
  • 幕内まくうち成績せいせき:366しょう149はい2ふん147きゅう 勝率しょうりつ.711
  • 横綱よこづな成績せいせき:239しょう103はい1ふん137きゅう 勝率しょうりつ.699
  • 幕内まくうち在位ざいい:46場所ばしょ
  • 横綱よこづな在位ざいい:32場所ばしょ当時とうじ歴代れきだい1現在げんざい歴代れきだい11
  • 大関おおぜき在位ざいい:6場所ばしょ
  • さんやく在位ざいい:4場所ばしょ関脇せきわけ4場所ばしょ小結こむすびなし)

かくだん優勝ゆうしょう

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  • 幕内まくうち最高さいこう優勝ゆうしょう:6かい全勝ぜんしょう優勝ゆうしょう1かい)(1949ねん10がつ場所ばしょ、1950ねん1がつ場所ばしょ、1951ねん5がつ場所ばしょ、1955ねん1がつ場所ばしょ、1955ねん3がつ場所ばしょ、1957ねん1がつ場所ばしょ)
同点どうてん:1かい全勝ぜんしょう
次点じてん:8かい
  • 十両じゅうりょう優勝ゆうしょう:2かい(1944ねん11月場所ばしょ、1945ねん6がつ場所ばしょ

さんしょう金星かなぼし

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場所ばしょべつ成績せいせき

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千代ちよやま雅信まさのぶ
春場所はるばしょ 夏場所なつばしょ 秋場所あきばしょ
1942ねん
昭和しょうわ17ねん
ぜん相撲すもう 西新にしじんじょ
4–0 
x
1943ねん
昭和しょうわ18ねん
ひがしじょだん37まい
8–0 
西にしさんだん17まい
5–3 
x
1944ねん
昭和しょうわ19ねん
西にし幕下まくした46まい
6–2 
西にし幕下まくした12まい
4–1 
西にしじゅうりょう13まい
優勝ゆうしょう
8–2
1945ねん
昭和しょうわ20ねん
x ひがしじゅうりょう2まい
優勝ゆうしょう
6–1
ひがし前頭まえがしら10まい
10–0
旗手きしゅ
 
1946ねん
昭和しょうわ21ねん
x 国技こくぎかん修理しゅうり
のため中止ちゅうし
ひがし前頭まえがしら筆頭ひっとう
10–3 
1947ねん
昭和しょうわ22ねん
x 西にし関脇せきわけ
0–0–10 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
8–3
1948ねん
昭和しょうわ23ねん
x 西にし関脇せきわけ
4–6
引分ひきわけ1)
 
西前にしまえあたま筆頭ひっとう
8–3
1949ねん
昭和しょうわ24ねん
西にし関脇せきわけ
8–5 
ひがし関脇せきわけ
12–3
こと
西にし大関おおぜき
13–2 
1950ねん
昭和しょうわ25ねん
東大とうだいせき
12–3 
東大とうだいせき
9–6 
東大とうだいせき
11–4 
1951ねん
昭和しょうわ26ねん
東大とうだいせき
8–7 
東大とうだいせき
14–1 
西にしちょういずる横綱よこづな
9–6 
1952ねん
昭和しょうわ27ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
13–2 
西にし横綱よこづな
10–5 
西にし横綱よこづな
11–4 
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ
いちがつ場所ばしょ
初場所はつばしょ東京とうきょう
さんがつ場所ばしょ
春場所はるばしょ大阪おおさか
五月ごがつ場所ばしょ
夏場所なつばしょ東京とうきょう
なながつ場所ばしょ
名古屋なごや場所ばしょ愛知あいち
九月場所くがつばしょ
秋場所あきばしょ東京とうきょう
十一月じゅういちがつ場所ばしょ
九州きゅうしゅう場所ばしょ福岡ふくおか
1953ねん
昭和しょうわ28ねん
ひがし横綱よこづな
4–4–7[ちゅう 12] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
1–5–9[ちゅう 13] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
x 西にしちょういずる横綱よこづな
11–4 
x
1954ねん
昭和しょうわ29ねん
西にし横綱よこづな
10–5 
ひがしちょういずる横綱よこづな
10–5 
西にし横綱よこづな
12–3 
x ひがし横綱よこづな
12–3 
x
1955ねん
昭和しょうわ30ねん
ひがし横綱よこづな
12–3[13] 
ひがし横綱よこづな
13–2[ちゅう 14] 
ひがし横綱よこづな
8–7 
x ひがしちょういずる横綱よこづな
10–4
引分ひきわけ1)
 
x
1956ねん
昭和しょうわ31ねん
西にし横綱よこづな
4–1–10[ちゅう 15] 
西にしちょういずる横綱よこづな
8–7 
西にしちょういずる横綱よこづな
11–4 
x ひがし横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
x
1957ねん
昭和しょうわ32ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
15–0 
ひがし横綱よこづな
10–5 
ひがしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
x 西にしちょういずる横綱よこづな
5–8–2[ちゅう 16] 
西にしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
1958ねん
昭和しょうわ33ねん
西にしちょういずる横綱よこづな
12–3 
ひがし横綱よこづな
12–3 
ひがし横綱よこづな
12–3 
西にし横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
ひがしちょういずる横綱よこづな
1–4–10[ちゅう 17] 
ひがしちょういずる横綱よこづな
休場きゅうじょう
0–0–15
1959ねん
昭和しょうわ34ねん
ひがしちょういずる横綱よこづな
引退いんたい
3–3–0
x x x x x
かくらん数字すうじは、「ち-け-休場きゅうじょう」をしめす。    優勝ゆうしょう 引退いんたい 休場きゅうじょう じゅうりょう 幕下まくした
さんしょう=敢闘かんとうしょうこと=殊勲賞しゅくんしょうわざ=技能ぎのうしょう     その=金星かなぼし
番付ばんづけ階級かいきゅう幕内まくうち - じゅうりょう - 幕下まくした - さんだん - じょだん - 序ノ口じょのくち
幕内まくうち序列じょれつ横綱よこづな - 大関おおぜき - 関脇せきわけ - 小結こむすび - 前頭まえがしら(「#数字すうじ」は各位かくいない序列じょれつ

えんじた俳優はいゆう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 優勝ゆうしょう決定けっていせんおこなわず、番付ばんづけ上位じょういもの優勝ゆうしょうとなっていた。優勝ゆうしょう決定けっていせん制度せいど翌々よくよく場所ばしょ1947ねん夏場所なつばしょから導入どうにゅうされたが、これ以降いこう幕内まくうちでの全勝ぜんしょう、または土付つちつかずの力士りきし複数ふくすうじんれいはない。
  2. ^ きゅう両国りょうこく国技こくぎかん開館かいかん(1909ねん以降いこうしん入幕にゅうまくつちつかず(無敗むはい)は1914ねん5月場所ばしょ両國りょうこく勇治郎ゆうじろう前頭まえがしら14まい)、1917ねん5月場所ばしょ大潮おおしお又吉またきち前頭まえがしら13まい以来いらい3にん快挙かいきょ。ただし両國りょうこくは9しょう1きゅう大潮おおしおは9しょう1あずかだったため、皆勤かいきんによる全勝ぜんしょう千代ちよやま史上しじょうはつとなった。両國りょうこくの1きゅうについては本人ほんにんこう参照さんしょう
  3. ^ 千代ちよやまよく場所ばしょ4にちはつ黒星くろぼしきっするまでしん入幕にゅうまくから13連勝れんしょう記録きろくしたが、これは2022ねん現在げんざいやぶられていない。
  4. ^ その、2022ねんまでに大関おおぜき時代じだい連覇れんぱ達成たっせいしても横綱よこづな昇進しょうしん見送みおくられたれいい。
  5. ^ 2013ねん9がつ場所ばしょ大相撲おおずもう中継ちゅうけいでは、独立どくりつきゅうじゅう部屋へや帯同たいどうした弟子でし1人ひとりであるきた富士ふじ勝昭かつあきが「(ふとっているようにせるために)はらをつまんでまわしのそとしていた」とはなすなど、千代ちよやまふとれない体質たいしつなやんでいた様子ようすかたっていた。
  6. ^ 5にちわって1しょう4はい成績せいせきは、2018ねん1がつ場所ばしょまれぜいさとまで65年間ねんかんなかった。
  7. ^ 当時とうじこれについて時津風ときつかぜは「わたし現役げんえき時代じだいかんがえても、不調ふちょう場合ばあい大関おおぜきげてもらえるというならもうすこ気楽きらくれていたとおもう」と千代ちよやまのこのもう共感きょうかんするところをかたっていた。一方いっぽうで、ある取組とりくみ観客かんきゃくから「引退いんたいして『花月かげつ』(つま実家じっか料理りょうりてん)で板前いたまえをしろ」とヤジび、これを心底しんそこにして横綱よこづな返上へんじょう決意けついしたという。
  8. ^ きた富士ふじは、中日ちゅうにちスポーツ連載れんさいのコラム「はやわざ御免ごめん」(2020ねん5がつ31にち掲載けいさい)でそののことを述懐じゅっかいしている。それによると、出羽海でわのうみ部屋へや大広間おおひろま一門いちもん親方おやかたしゅぜん関取せきとりあつまり、そこに11だいきゅうじゅうされた。きた富士ふじ松前まさきさんちかくのしょう部屋へや待機たいきしており「いま九重ここのえから独立どくりつもうれがあったが、一門いちもんには常陸山ひたちやまもと横綱よこづな)の独立どくりつもとさじの不文ふぶんりつがあり、そもそも自分じぶんれてきたからといっても、弟子でしつよくなったからくとは人道的じんどうてきゆるされるものではない。わか力士りきし将来しょうらいがあるので、本来ほんらいくびでもおかしくはないが、出羽海でわのうみ一門いちもんから破門はもんということで独立どくりつゆるす」といった内容ないようべる8だい出羽海でわのうみこえいた。「千代ちよやまこの野郎やろう!」「裏切うらぎもの!」という罵声ばせいのなか、11だいきゅうじゅう正座せいざして「寛大かんだい処分しょぶん、ありがとうございます」と深々ふかぶかあたまげていたという。
  9. ^ 独立どくりつかんがえたときは、すで高砂たかさごはなしをつけてあったという。また、当時とうじ最高さいこううでほこった床山とこやまきゅうじゅう所属しょぞくになったが、独立どくりつゆるされた背景はいけいには先代せんだいつねはな)の遺族いぞく九重ここのえ味方みかたまわったという事情じじょうもあった。
  10. ^ BS-TBS 「関口せきぐちひろし人生じんせい きた富士ふじ勝昭かつあき真剣しんけん道楽どうらく人生じんせい」(2015ねん4がつ19にち放送ほうそう)より。きた富士ふじ引退いんたい直後ちょくご結婚けっこんしていたが、その九重ここのえ継承けいしょうからせんだい富士ふじ大関おおぜき横綱よこづな昇進しょうしんまでのあいだ離婚りこんしており、千代ちよ富士ふじ大関おおぜき横綱よこづな昇進しょうしんあたりは独身どくしんもどっていた。その現在げんざい夫人ふじん再婚さいこんをしており、きた富士ふじ直弟子じきでし北勝海ほくとうみ信芳のぶよし大関おおぜき横綱よこづな昇進しょうしん再婚さいこんだったため現在げんざい夫人ふじん伝達でんたつしき同席どうせきしている。
  11. ^ 腰部ようぶ打撲だぼく
  12. ^ 扁桃腺へんとうせんえんにより3にちから途中とちゅう休場きゅうじょう、11にちからさい出場しゅつじょう
  13. ^ だい2およだい3腰椎ようつい外傷がいしょうせい奇形きけいせい関節かんせつえんだい5腰椎ようつい離間りかんしょうにより6にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  14. ^ 大内山おおうちやま優勝ゆうしょう決定けっていせん
  15. ^ みぎひざ関節かんせつ神経しんけい損傷そんしょうにより5にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  16. ^ りょうひざ関節かんせつ変形へんけいしょうひだり股関節こかんせつおよ腰部ようぶ捻挫ねんざにより13にちから途中とちゅう休場きゅうじょう
  17. ^ みぎひざ関節かんせつ変形へんけいしょうみぎ坐骨ざこつ神経しんけいえんにより5にちから途中とちゅう休場きゅうじょう

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b c d e f g h 北辰ほくしんどう出版しゅっぱん昭和しょうわ平成へいせい 大相撲おおずもうめい力士りきし100列伝れつでん』(塩澤しおざわみのるしんじ、2015ねん)42ページから43ページ
  2. ^ a b c d e f ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(3) 高砂たかさご部屋へや』p70-72
  3. ^ a b c d e f ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』(2017ねん、B・B・MOOK)p22
  4. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』(2017ねん、B・B・MOOK) p10
  5. ^ 石井いしいだいぞう ちょ土俵どひょう修羅しゅら』p338「おいえ騒動そうどう新興しんこうきゅうじゅう部屋へやだい」,新潮社しんちょうしゃ,1985.11
  6. ^ a b ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(1) 出羽海でわのうみ部屋へや春日野かすがの部屋へや 』p38(2017ねん、B・B・MOOK)
  7. ^ せいだか, 近藤こんどう. “存知ぞんじですか? きょう2がつ2にちきゅうじゅう部屋へや発足ほっそくです”. 文春ぶんしゅんオンライン(2017ねん2がつ2にち). 2021ねん6がつ15にち閲覧えつらん
  8. ^ ベースボールマガジンしゃ大相撲おおずもう名門めいもん列伝れつでんシリーズ(3) 高砂たかさご部屋へや』p39
  9. ^ a b 天下てんかおおかみ千代ちよ富士ふじ みつぐ九重ここのえさんだい風雲ふううんろく〜』(徳間書店とくましょてん
  10. ^ きた富士ふじ勝昭かつあき嵐山あらしやま光三郎こうざぶろうだい放談ほうだん大相撲おおずもうちあけはなし』(しんこうしゃ、2016ねん)p151
  11. ^ 大相撲おおずもう中継ちゅうけい』2017ねん9がつ16にちごう p85
  12. ^ 『ウルフ』の名付なづおやはもちろんわたしです。両国りょうこく土地とちえず江戸川えどがわ井筒いづつ部屋へやおこ独立どくりつしました【きた富士ふじコラム】 ちゅうスポ・東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ 2020ねん6がつ5にち 2209ふん(2020ねん6がつ30にち閲覧えつらん)
  13. ^ 時津とぎつさん優勝ゆうしょう決定けっていせん

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