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唐津城 - Wikipedia

唐津からつじょう

佐賀さがけん唐津からつしろ

唐津からつじょう(からつじょう)は、佐賀さがけん唐津からつ東城内ひがしじょうないにあった日本にっぽんしろ別名べつめい舞鶴まいづるじょう(まいづるじょう)。

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唐津からつじょう
佐賀さがけん
模擬天守
模擬もぎ天守てんしゅ
別名べつめい 舞鶴まいづるじょう
城郭じょうかく構造こうぞう れんくるわしき平山ひらやまじょううみじょう[1]
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい
ふくごうしき望楼ぼうろうがた5そう5かい地下ちか1かい(1966ねん RCづくり模擬もぎ
築城ちくじょうぬし 寺沢てらさわ広高ひろたか
築城ちくじょうねん 1608ねん
おも城主じょうしゅ 寺沢てらさわ大久保おおくぼ土井どい水野みずの小笠原おがさわら
はいじょうねん 1871ねん
遺構いこう 石垣いしがきほり
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ 模擬もぎ天守てんしゅ復元ふくげんもん石垣いしがきほり
位置いち 北緯ほくい3327ふん12.74びょう 東経とうけい12958ふん41.5びょう / 北緯ほくい33.4535389 東経とうけい129.978194 / 33.4535389; 129.978194座標ざひょう: 北緯ほくい3327ふん12.74びょう 東経とうけい12958ふん41.5びょう / 北緯ほくい33.4535389 東経とうけい129.978194 / 33.4535389; 129.978194
地図ちず
唐津城の位置(佐賀県内)
唐津城
唐津からつじょう
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概要がいよう

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鏡山かがみやまから唐津からつじょうのぞ

唐津からつ市街しがい北部ほくぶ位置いちし、松浦川まつうらがわ唐津からつわんそそ河口かこう左岸さがんまん島山しまやま位置いちする。唐津からつわん満島みつしま山上さんじょう本丸ほんまるはいされ、その西側にしがわまるさんまるはいされたれんくるわしき平山ひらやましろである。北面ほくめん唐津からつわんめんするため、うみじょうともいわれ[1]はぎじょうとともに現在げんざい直接ちょくせつうみそびえる石垣いしがきられる。松浦川まつうらがわ右岸うがんにはにじ松原まつばらくに特別とくべつ名勝めいしょう)がひろがり、しろから左右さゆうひろがる砂浜すなはまづるつばさひろげたようにえることから舞鶴まいづるじょうともばれる[2]

江戸えど時代じだい初期しょき慶長けいちょう7ねん1602ねん)から慶長けいちょう13ねん1608ねん)にかけて築城ちくじょうされ、江戸えど時代じだいつうじて唐津からつはんはんちょうとなった。

はいじょう本丸ほんまる舞鶴まいづる公園こうえんとなり、まる御殿ごてんあと早稲田わせだ佐賀さが中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこうがあり、そのまるさんまるあと市街しがいしている。現存げんそんする遺構いこうとしては石垣いしがきほりがある。1966ねん昭和しょうわ41ねん)10がつ天守てんしゅだい慶長けいちょう様式ようしき天守てんしゅ模擬もぎ天守てんしゅ)がてられた[2]。このほかもんてられ、石垣いしがきほり復元ふくげんされている。ふもとから舞鶴まいづる公園こうえん上段じょうだん広場ひろばまでは高低こうていが34mあるため、有料ゆうりょうはすぎょうエレベーター(2016ねん4がつ時点じてん100えん)がそなえられている。

沿革えんかく

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まん島山しまやま本丸ほんまる

ぶんろく4ねん1595ねん豊臣とよとみ秀吉ひでよし家臣かしん寺沢てらさわ広高ひろたかがこのふうぜられた。広高ひろたか慶長けいちょう5ねん1600ねん)の関ヶ原せきがはらたたかではひがしぐんかたにつき、肥後ひごこく天草あまくさぐん4まんせき加増かぞうされ12まん3せんせき外様とざま大名だいみょうとなった。慶長けいちょう7ねん(1602ねん)より本格ほんかくてき築城ちくじょうおこない、慶長けいちょう13ねん(1608ねん)に完成かんせいした。築城ちくじょうさい東唐津ひがしからつがわ地続じつづきであったまん島山しまやまはなし、松浦川まつうらがわがそこから唐津からつわんそそぐようりゅう変更へんこうした。また、秀吉ひでよし死後しごはいじょうとなっていた名護屋なごやしろのこざい使用しようし、九州きゅうしゅう各地かくちしょ大名だいみょう助力じょりょく築城ちくじょうした。柳川やながわほり佐賀さがほり肥後ひごほり薩摩さつまほりなど普請ふしん協力きょうりょくした大名だいみょう領地りょうちめいほりのこされている。

まるはんちょう御殿ごてん建築けんちくされ、さんまるさむらい屋敷やしきとなっていた。天守てんしゅ天守てんしゅだいまでしか建築けんちくされなかった。築城ちくじょう当初とうしょ天守てんしゅ存在そんざいしていたといわれることもあるが、寛永かんえい4ねん1627ねん)の幕府ばくふ記録きろくには天守てんしゅ存在そんざいしるされていないほか、天守てんしゅ存在そんざいしめ資料しりょう確認かくにんされていない。天守てんしゅえがいた絵図えず設計せっけいもなく、現在げんざい天守てんしゅ慶長けいちょう様式ようしき建築けんちくされていたと想定そうていして昭和しょうわ41ねん(1966ねん)につくられたものである。

広高ひろたか松浦川まつうらがわりゅう変更へんこうられるように土木どぼく事業じぎょうけており、防風ぼうふうりんとして松原まつばら保護ほご育成いくせいおこなった。これが日本にっぽんさんだい松原まつばらとして今日きょうのこにじ松原まつばらとなっている。

広高ひろたかけんだかは、天草あまくさりょうかまえていた富岡とみおかしろ島原しまばららんさい一揆いっきがわめられたさい、その責任せきにんらされ天草てんぐさりょう4まんせき没収ぼっしゅうされた。けんだかは、正保まさやす4ねん1647ねん)に江戸えど藩邸はんてい自殺じさつし、また嗣子ししがなかったために寺沢てらさわ断絶だんぜつとなった。

以後いご譜代ふだい大名だいみょう5いえわった。寺沢てらさわ改易かいえきとなると一時いちじ天領てんりょうとなったが、慶安けいあん2ねん1649ねん播磨はりまこく明石あかししろあるじ大久保おおくぼただししょく城主じょうしゅとなった。のべたから6ねん1678ねん大久保おおくぼ下総しもうさこく佐倉さくらじょう転出てんしゅつし、わって同地どうちより大給おぎゅう松平まつだいらじょうひさし入城にゅうじょう元禄げんろく4ねん1691ねん大給おぎゅう松平まつへい志摩しまこく鳥羽とばしろ転出てんしゅつし、同地どうちより土井どい利益りえき入城にゅうじょうたかられき12ねん1762ねん土井どい下総しもうさこく古河ふるかわしろ転出てんしゅつし、三河みかわこく岡崎おかざきしろより水野みずのただしにん入城にゅうじょう文化ぶんか14ねん1817ねん)に、のち天保てんぽう改革かいかくおこなった水野みずの忠邦ただくに出世しゅっせ目的もくてき遠江とおとうみこく浜松はままつじょう転出てんしゅつ希望きぼうし、陸奥みちのくこく棚倉たなぐらしろより小笠原おがさわらちょうあきら入城にゅうじょう以後いご明治維新めいじいしんまで小笠原おがさわら居城きょじょうとなった。

近代きんだい以降いこう

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  • 明治めいじ4ねん(1871ねん廃藩置県はいはんちけんによりはいじょうとなり、はらげにより建造けんぞうぶつ解体かいたいされた。明治めいじ10ねん1877ねん舞鶴まいづる公園こうえんとして整備せいび開放かいほうされた。
  • 昭和しょうわ41ねん1966ねん文化ぶんか観光かんこう施設しせつとして5そう5かい模擬もぎ天守てんしゅきずかれ、もん同時どうじ再建さいけんされた。
  • 平成へいせい元年がんねん1989ねん唐津からつ市役所しやくしょまえ肥後ひごほり石垣いしがき復元ふくげん平成へいせい4ねん1992ねんまるあととき太鼓たいこ復元ふくげん平成へいせい5ねん1993ねん市役所しやくしょ付近ふきんさんまる辰巳たつみ復元ふくげんされた。その平成へいせい28ねん2016ねん)には調査ちょうさにより大手門おおてもん遺構いこうはじめて確認かくにんされている[3]平成へいせい28ねん10がつ2にち日曜日にちようび)から平成へいせい29ねん7がつ21にちまで天守てんしゅ内部ないぶ改修かいしゅうおこなわれている[4][5]発掘はっくつにより名護屋なごやしろおな文様もんようかわら出土しゅつどした[6]
  • 石垣いしがきほり
  • 本丸ほんまるあと - 「唐津からつじょう石碑せきひ

復元ふくげん関連かんれん施設しせつ

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  • 模擬もぎ天守てんしゅ - 日没にちぼつから22ごろまでライトアップぶしにより変動へんどう)。
  • 肥後ひごほり一層いっそう - 唐津からつ市役所しやくしょまえにあるほりで、復元ふくげん整備せいびされたもの。さんまるそときょく区切くぎほり石垣いしがきうえ一層いっそう復元ふくげん
  • 太鼓たいこどう - まえに「太鼓たいこいしぶみ説明せつめいばん

周辺しゅうへん建造けんぞうぶつなど

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  • 唐津からつ神社じんじゃ - 寺沢てらさわ広高ひろたかにより再建さいけん唐津からつ藩主はんしゅ祈願きがんしょ

交通こうつう

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  • JR唐津からつえきから徒歩とほ15ふん、もしくはどうえきより唐津からつ市内しないせん循環じゅんかんバスひがしコースで8ふん唐津からつじょう入口いりくち下車げしゃ
  • 昭和しょうわ自動車じどうしゃ高速こうそくバス「からつごう終点しゅうてんたからとう桟橋さんばし下車げしゃ徒歩とほ5ふん昭和しょうわ自動車じどうしゃ唐津からつ大手おおてこうバスセンターから徒歩とほ10ふん)。
  • 駐車ちゅうしゃじょう - 道路どうろかいがわ市営しえい東城内ひがしじょうない駐車ちゅうしゃじょうもうけられている(有料ゆうりょう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 豊臣とよとみ政権せいけん時代じだいから徳川とくがわ政権せいけん初期しょき段階だんかいにおいて九州きゅうしゅう地方ちほう入部にゅうぶした大名だいみょううみじょう居城きょじょうとしていることがおおいが、唐津からつじょうもそのいちれいである(柴田しばた2008、17ページ)。
  2. ^ a b 唐津からつみち”. 一般いっぱん社団しゃだん法人ほうじん唐津からつ観光かんこう協会きょうかい. 2021ねん9がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ "唐津からつじょう大手おおてもん遺構いこう確認かくにん 江戸えど礎石そせき発見はっけん"佐賀さが新聞しんぶん、2016ねん8がつ30にち記事きじ
  4. ^ 2017ねんがつ22にち)リニューアルオープン
  5. ^ 10月2にちから展示てんじ改修かいしゅう工事こうじのため唐津からつじょう天守閣てんしゅかく休館きゅうかんします
  6. ^ 唐津からつじょう本丸ほんまるあと名護屋なごやしろおながたかわら出土しゅつど

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 西にしたに恭弘やすひろ/へん定本ていほん 日本にっぽん城郭じょうかく事典じてん秋田あきた書店しょてん 2000ねん 413-415ページ
  • 柴田しばた龍司りゅうじうみじょう様相ようそう変遷へんせん」『中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅうだい22ごう中世ちゅうせい城郭じょうかく研究けんきゅうかい、2008ねん、4-30ぺーじISSN 0914-32032020ねん3がつ12にち閲覧えつらん  - 『うみじょう』[だい24かい 全国ぜんこく城郭じょうかく研究けんきゅうしゃセミナー(2007ねん8がつ5にち開催かいさい)]におけるどうタイトルの報告ほうこく論考ろんこうにしたもの。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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