天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん (てんようまるきゅうかきゃくせん)とは、かつて東洋 とうよう 汽船 きせん および日本郵船 にっぽんゆうせん が所有 しょゆう していた貨客船 かきゃくせん のクラスの一 ひと つ。日本 にっぽん における貨客船 かきゃくせん のクラスにおいて初 はじ めて1万 まん トンを超 こ えた クラス、またタービン機関 きかん の使用 しよう を選択 せんたく した最初 さいしょ のクラスとして、日本 にっぽん 船舶 せんぱく 史上 しじょう の一大 いちだい マイルストーンとなっている。
本 ほん 級 きゅう の実現 じつげん には東洋 とうよう 汽船 きせん を率 ひき いていた浅野 あさの 財閥 ざいばつ 創始 そうし 者 しゃ 浅野 あさの 総一郎 そういちろう の熱意 ねつい が大 おお きく影響 えいきょう しており、競合 きょうごう 船主 せんしゅ との対抗 たいこう 上 じょう 、当時 とうじ の日本 にっぽん では前代未聞 ぜんだいみもん の大 だい プロジェクトとして浅野 あさの の音頭取 おんどと りによって建造 けんぞう が実現 じつげん した。天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の存在 そんざい が東洋 とうよう 汽船 きせん の経営 けいえい にプラスになったかどうかはさておき、日本 にっぽん の船舶 せんぱく 界 かい 、とりわけ造船 ぞうせん 業 ぎょう への影響 えいきょう と貢献 こうけん は莫大 ばくだい なものがあった[ 1] 。3隻 せき 就航 しゅうこう したが、1隻 せき は海難 かいなん 事故 じこ により不幸 ふこう にして早 はや く失 うしな われ、残 のこ る2隻 せき は東洋 とうよう 汽船 きせん の経営 けいえい 難 なん から日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき の上 うえ 、後継 こうけい の浅間 あさま 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん と入 い れ替 か わるようにリタイアし、船舶 せんぱく 改善 かいぜん 助成 じょせい 施設 しせつ の解体 かいたい 見合 みあ い船 せん としてその生涯 しょうがい を全 まっと うした。
本 ほん 項 こう では、主 おも に建造 けんぞう までの背景 はいけい や特徴 とくちょう などについて説明 せつめい する。
1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )6月 がつ に創業 そうぎょう した東洋 とうよう 汽船 きせん (浅野 あさの 財閥 ざいばつ )は[ 2] 、パシフィック・メイル社 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) (PM社 しゃ )およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社 しゃ (Oriental and Occidental )との提携 ていけい によりサンフランシスコ と香港 ほんこん 間 あいだ の航路 こうろ を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶 せんぱく 6隻 せき と自己 じこ の船舶 せんぱく 3隻 せき で開設 かいせつ する[ 3] [ 4] 。この航路 こうろ のために用意 ようい されたのが日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん であり、経営 けいえい も比較的 ひかくてき 順調 じゅんちょう に推移 すいい していた[ 5] 。
ところが、提携 ていけい 先 さき の一 ひと つであるパシフィック・メイル社 しゃ と、後発 こうはつ 組 ぐみ の、ジェームズ・ジェローム・ヒル 率 ひき いるグレート・ノーザン汽船 きせん 会社 かいしゃ は、ともに1万 まん トンを越 こ える大型 おおがた 船 せん の建造 けんぞう に乗 の り出 だ す[ 6] 。パシフィック・メイル社 しゃ の「コリア」 (S.S. Korea ) と「サイベリア」 (S.S. Siberia ) は太平洋 たいへいよう 航路 こうろ では初 はじ めての1万 まん トン超 ちょう の貨客船 かきゃくせん であり、続 つづ いて建造 けんぞう された「モンゴリア」 (S.S. Mongolia ) と「マンチュリア」 (S.S. Manchuria ) は1万 まん 3千 せん トン級 きゅう に、グレート・ノーザン汽船 きせん 会社 かいしゃ の「ミネソタ」 (S.S. Minnesota ) と「ダコタ」 (S.S. Dakota ) にいたっては2万 まん トンを超 こ える大 おお きさであった[ 7] 。1万 まん トン超 ちょう の大型 おおがた 船 せん の威力 いりょく は凄 すさ まじく、例 たと えば「亜米利加 あめりか 丸 まる 」はホノルル ですでに確保 かくほ していた船客 せんきゃく 40名 めい を「コレア」に取 と られたほどであった[ 8] 。日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の陳腐 ちんぷ 化 か を目 ま の当 あ たりにし[ 9] 、大型 おおがた 船 せん 建造 けんぞう の決議 けつぎ をしていた東洋 とうよう 汽船 きせん ではあったが、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の行 ゆ く末 すえ がある程度 ていど つかめるようになるまで計画 けいかく は実行 じっこう に移 うつ されなかった[ 10] 。そんな中 なか 、浅野 あさの 総一郎 そういちろう はパシフィック・メイル社 しゃ 社長 しゃちょう エドワード・ヘンリー・ハリマン から、「日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん 程度 ていど の船舶 せんぱく では太刀打 たちう ちできないだろうから、日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん をパシフィック・メイル社 しゃ に売 う り渡 わた すか、パシフィック・メイル社 しゃ の持 も ち船 せん 全 すべ てを購入 こうにゅう するか」という内容 ないよう の交渉 こうしょう を持 も ちかけられた[ 11] 。浅野 あさの 総一郎 そういちろう はハリマンからの話 はなし をとりあえずはやり過 す ごし、遼 りょう 陽 ひ 会戦 かいせん が終 お わったあとの1904年 ねん 9月 がつ から大型 おおがた 船 せん の建造 けんぞう を具体 ぐたい 化 か させ、日本海 にほんかい 海戦 かいせん に勝利 しょうり した直後 ちょくご の1905年 ねん 6月 がつ に三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ と大型 おおがた 船 せん 2隻 せき の建造 けんぞう 契約 けいやく を結 むす び[ 10] 、のちに1隻 せき を追加 ついか 発注 はっちゅう した[ 12] 。これが天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん である。
天 てん 洋 よう 丸 まる ・地 ち 洋 よう 丸 まる (東洋 とうよう 汽船 きせん )
船 ふね 名 めい
起工 きこう
進水 しんすい
竣工 しゅんこう
備考 びこう ・出典 しゅってん
天 てん 洋 よう 丸 まる
1905年 ねん 6月 がつ 23日 にち
1907年 ねん 9月 がつ 14日 にち
1908年 ねん 4月 がつ 22日 にち
[ 13]
地 ち 洋 よう 丸 まる
1905年 ねん 6月 がつ 23日 にち
1907年 ねん 12月7日 にち
1908年 ねん 11月21日 にち
[ 14]
春洋 はるみ 丸 まる
1907年 ねん 8月 がつ 16日 にち
1911年 ねん 2月 がつ 18日 にち
1911年 ねん 8月 がつ 15日 にち
[ 14]
浅野 あさの 総一郎 そういちろう の構想 こうそう は、当時 とうじ の認識 にんしき では実 じつ に破天荒 はてんこう ともいうべき壮大 そうだい なものであった。トン数 とんすう は1万 まん 2千 せん トン、使用 しよう する機関 きかん は当時 とうじ の日本 にっぽん で何 なん の実績 じっせき もなかったタービン機関 きかん を導入 どうにゅう するという画期的 かっきてき な天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の建造 けんぞう 計画 けいかく に対 たい して、三菱 みつびし 側 がわ は尻 しり ごみをするばかりであった[ 10] 。天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の発注 はっちゅう までに三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ で建造 けんぞう された最大 さいだい の船舶 せんぱく は日本郵船 にっぽんゆうせん の「丹後 たんご 丸 まる 」(7,463トン)であったが[ 10] [ 15] 、トン数 とんすう での比較 ひかく では天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は「丹後 たんご 丸 まる 」のおよそ2倍 ばい に相当 そうとう した。タービン機関 きかん にしても、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「地 ち 洋 よう 丸 まる 」が起工 きこう した時点 じてん の日本 にっぽん において蒸気 じょうき タービンのノウハウが全 まった くなく、海外 かいがい に目 め を転 てん じても北大西洋 きたたいせいよう 航路 こうろ の就航 しゅうこう 船 せん にようやく導入 どうにゅう されたばかりであった[ 10] [ 16] 。もっとも、第 だい 一 いち 船 せん 「天 てん 洋 よう 丸 まる 」の建造 けんぞう が3年 ねん 近 ちか くにおよんだため、「日本 にっぽん 初 はつ の蒸気 じょうき タービン船 せん 」の称号 しょうごう は、イギリスのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社 しゃ で建造 けんぞう され日本 にっぽん に回航 かいこう された日本 にっぽん 鉄道 てつどう の「比羅夫丸 ひらふまる 」(1,480トン)のものとなった。タービン機関 きかん の採用 さいよう の背景 はいけい には、浅野 あさの 総一郎 そういちろう が石油 せきゆ 事業 じぎょう で懇意 こんい にしていたサミュエル商会 しょうかい [ 注釈 ちゅうしゃく 1] と縁 えん が深 ふか かったこともあり[ 17] 、その縁 えん を使 つか ってカリフォルニア 産 さん の石油 せきゆ を調達 ちょうたつ し運用 うんよう しようと目論 もくろ んだ節 ふし があった[ 18] [ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
三菱 みつびし 側 がわ は造船 ぞうせん 所 しょ 所長 しょちょう の荘田 しょうだ 平五郎 へいごろう が浅野 あさの 総一郎 そういちろう に会 あ って建造 けんぞう 計画 けいかく の再考 さいこう 、具体 ぐたい 的 てき には船型 せんけい の縮小 しゅくしょう や主 しゅ 機関 きかん のレシプロ への変更 へんこう などを促 うなが したが浅野 あさの の意思 いし は固 かた く、浅野 あさの の主張 しゅちょう 通 どお りに建造 けんぞう が進 すす められることとなった[ 10] [ 11] [ 19] 。もっとも、浅野 あさの 総一郎 そういちろう は三菱 みつびし 側 がわ の負担 ふたん を少 すこ しでも和 やわ らげるべく、タービン機関 きかん などの建造 けんぞう 資材 しざい などを自前 じまえ で輸入 ゆにゅう して三菱 みつびし 側 がわ に提供 ていきょう する配慮 はいりょ を見 み せた[ 20] 。第 だい 一 いち 船 せん 「天 てん 洋 よう 丸 まる 」の船 ふね 価 か は最終 さいしゅう 的 てき に492万 まん 円 えん 、そのうち造船 ぞうせん 奨励 しょうれい 法 ほう に基 もと づく補助 ほじょ 金 きん がトン当 あ たり20円 えん であった[ 1] 。東洋 とうよう 汽船 きせん が輸入 ゆにゅう した資材 しざい は約 やく 151万 まん 4000円 えん におよび、これは当初 とうしょ 見積 みつ もられた船 ふね 価 か の3分 ぶん の1に近 ちか い額 がく であった[ 20] 。
船 ふね 名 めい については浅野 あさの 総一郎 そういちろう はその由来 ゆらい を『易 えき 経 けい 』に求 もと め、その一節 いっせつ 「天 てん 玄 げん 而地黄 き 」から「天 てん 」と「地 ち 」を選 えら んだのち、「玄 げん 洋 よう 」は黒 くろ い海 うみ を意味 いみ するため忌避 きひ して、「春 はる 」の字 じ を選 えら んだ[ 21] 。
天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん では、日本 にっぽん の貨客船 かきゃくせん では初 はじ めてとなる居室 きょしつ 、寝室 しんしつ および浴室 よくしつ が一体化 いったいか した特別 とくべつ 室 しつ や、飲酒 いんしゅ も喫煙 きつえん も自由 じゆう なラウンジが設 もう けられた[ 22] 。冷房 れいぼう 装置 そうち についても、1901年 ねん 竣工 しゅんこう の貨客船 かきゃくせん 「熊野 くまの 丸 まる 」(日本郵船 にっぽんゆうせん 、5,076トン)[ 23] に部分 ぶぶん 的 てき に装備 そうび されていたサーモタンク式 しき 装置 そうち を大々的 だいだいてき に取 と り入 い れ、食堂 しょくどう や喫煙 きつえん 室 しつ 、読書 どくしょ 室 しつ などに導入 どうにゅう された[ 24] 。船内 せんない 用 よう 発電 はつでん 機 き は75キロワット出力 しゅつりょく のものが2基 き 装備 そうび され、自動 じどう 式 しき 閉鎖 へいさ 装置 そうち 付 つ きの防水 ぼうすい 扉 とびら やテレフンケン 式 しき 電信 でんしん 機 き なども導入 どうにゅう されたが、これらも日本 にっぽん 最初 さいしょ のものであった[ 25] [ 26] 。船内 せんない 装飾 そうしょく は、当初 とうしょ は「五穀豊穣 ごこくほうじょう 」をイメージしたものが用意 ようい され[ 25] 、最終 さいしゅう 的 てき には基本 きほん をアール・ヌーヴォー の様式 ようしき に、欄間 らんま 部 ぶ やステンドグラス、張 ちょう 地 ち などの工芸 こうげい 部門 ぶもん に日本 にっぽん 文化 ぶんか を基調 きちょう とした装飾 そうしょく が施 ほどこ されることとなった[ 27] [ 28] 。もっとも、当時 とうじ の日本 にっぽん の家具 かぐ 工業 こうぎょう 技術 ぎじゅつ は裂地 きれじ 類 るい を除 のぞ けば内装 ないそう を整 ととの えるレベルに達 たっ しておらず、すべてイギリス製 せい であった[ 27] 。「天 てん 洋 よう 丸 まる 」の上等 じょうとう 室 しつ 入口 いりくち には和田 わだ 英作 えいさく の手 て による油絵 あぶらえ が掲 かか げられていた[ 26] 。二 に 番 ばん 船 せん 「地 ち 洋 よう 丸 まる 」と三 さん 番 ばん 船 せん 「春洋 はるみ 丸 まる 」の船内 せんない 装飾 そうしょく は日本 にっぽん での設計 せっけい に切 き り替 か えられ、「春洋 はるみ 丸 まる 」の食堂 しょくどう には東郷 とうごう 平八郎 へいはちろう の立像 りつぞう が設置 せっち されていた[ 26] 。
天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の特徴 とくちょう の一 ひと つであるタービン機関 きかん はパーソンス式 しき 反動 はんどう タービンのものであり、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「地 ち 洋 よう 丸 まる 」は輸入 ゆにゅう 品 ひん を、「春洋 はるみ 丸 まる 」は三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ 製 せい のものが据 す えられた[ 29] [ 30] 。導入 どうにゅう に際 さい しては、パーソンス社 しゃ から支配人 しはいにん と3名 めい の監督 かんとく 官 かん が来日 らいにち し、据 す え付 つ け運転 うんてん はもちろんのこと、監督 かんとく 官 かん に関 かん しては就航 しゅうこう 後 ご に機関 きかん 士 し として乗船 じょうせん した[ 29] 。ボイラーは三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ 製 せい のスコッチ・ボイラーであったが、ライバルのタービン船 せん とくらべると若干 じゃっかん 非力 ひりき であり、しかも本来 ほんらい は石炭 せきたん 焚 た きのものであって石油 せきゆ 焚 た きの装置 そうち は後 あと でつけられたものであった[ 31] 。燃料 ねんりょう 油 あぶら 用 よう ディープ・タンクは石炭 せきたん 庫 こ に切 き り替 か えることもでき、そのためのマンホールもあらかじめ設置 せっち されていた[ 26] 。
天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん での採用 さいよう が、日本 にっぽん の貨客船 かきゃくせん で最後 さいご になったものもある。食堂 しょくどう は、36人 にん 用 よう の長 ちょう テーブル3脚 きゃく 、8人 にん 用 よう の小 しょう テーブル6脚 きゃく が2組 くみ の計 けい 12脚 きゃく のテーブルが用意 ようい され、200人 にん の船客 せんきゃく が一斉 いっせい に食事 しょくじ がとれるようになっていた[ 24] 。もっとも、長 ちょう テーブルのスタイルではマナー の問題 もんだい 、特 とく に上座 かみざ ・下座 げざ の問題 もんだい が続出 ぞくしゅつ し、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん 以降 いこう の貨客船 かきゃくせん では小 しょう テーブル散在 さんざい 式 しき に切 き り替 か えられた[ 24] 。
「天 てん 洋 よう 丸 まる 」、「地 ち 洋 よう 丸 まる 」と「春洋 はるみ 丸 まる 」とでは建造 けんぞう 時期 じき が異 こと なったことにより目立 めだ った違 ちが いがある。「春洋 はるみ 丸 まる 」は建造 けんぞう 時期 じき が後述 こうじゅつ の東洋 とうよう 汽船 きせん の不調 ふちょう 期 き にあたっていたせいか、船内 せんない 装飾 そうしょく が著 いちじる しく簡素 かんそ 化 か され、甲板 かんぱん 材 ざい も遊歩 ゆうほ 甲板 かんぱん にチーク を使 つか った以外 いがい はマツ を使用 しよう していた[ 32] 。また、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「地 ち 洋 よう 丸 まる 」は有事 ゆうじ の際 さい には仮装 かそう 巡洋艦 じゅんようかん に改装 かいそう する計画 けいかく があったのか、舵 かじ 頭 あたま が水線 すいせん 上 じょう に露出 ろしゅつ しない構造 こうぞう になっていたが、「春洋 はるみ 丸 まる 」は一般 いっぱん 商船 しょうせん 同様 どうよう に舵 かじ 頭 あたま が水線 すいせん 上 じょう に出 で ている構造 こうぞう となっていた[ 33] 。
天 てん 洋 よう 丸 まる には本格 ほんかく 的 てき な無線 むせん 設備 せつび が設置 せっち され、銚子 ちょうし 市 し 川口 かわぐち 夫婦 ふうふ 鼻 はな に整備 せいび された銚子 ちょうし 無線 むせん 電信 でんしん 局 きょく との間 あいだ で交信 こうしん が可能 かのう であった。これが日本 にっぽん で最初 さいしょ に公衆 こうしゅう 通信 つうしん に電波 でんぱ を利用 りよう した事例 じれい であり、天 てん 洋 よう 丸 まる 電波 でんぱ 局長 きょくちょう の米村 よねむら 嘉一郎 かいちろう が日本 にっぽん で最初 さいしょ の船舶 せんぱく 無線 むせん 通信 つうしん 士 し とされる。なお当時 とうじ の日本 にっぽん では無線 むせん の運用 うんよう ノウハウは皆無 かいむ に等 ひと しく、開設 かいせつ 当初 とうしょ は湾内 わんない ならばなんとか交信 こうしん できたものの、湾 わん 外 がい へ出 で ると房総半島 ぼうそうはんとう が障害 しょうがい となって交信 こうしん 不可能 ふかのう となる等 とう のトラブルが多発 たはつ した。後 のち にノウハウが蓄積 ちくせき されるとシアトルに着 つ く前日 ぜんじつ にアメリカの無線 むせん 局 きょく から港 みなと や気象 きしょう の状況 じょうきょう をき取 きと ったり、洋上 ようじょう で日本 にっぽん から送 おく ってもらったニュースを纏 まと めた「船内 せんない 新聞 しんぶん 」を発行 はっこう することも出来 でき るようになった。
第 だい 一 いち 船 せん 「天 てん 洋 よう 丸 まる 」は1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )4月 がつ 22日 にち に竣工 しゅんこう し、5月には横浜 よこはま 港 こう に回航 かいこう されて大臣 だいじん や貴族 きぞく 院 いん 、衆議院 しゅうぎいん 両 りょう 議員 ぎいん など数 すう 千 せん 人 にん の観覧 かんらん に供 きょう された[ 34] 。来客 らいきゃく は船内 せんない 装飾 そうしょく の豪華 ごうか さに驚 おどろ き、東洋 とうよう 汽船 きせん の今後 こんご の経営 けいえい を危 あや ぶむ者 もの もいたほどであった[ 35] 。また、別 べつ の者 もの は「東洋 とうよう 汽船 きせん の株 かぶ は売 う りだ」と叫 さけ んだりもした[ 21] 。11月には二 に 番 ばん 船 せん 「地 ち 洋 よう 丸 まる 」が就航 しゅうこう して、日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん のうち「亜米利加 あめりか 丸 まる 」と「香港 ほんこん 丸 まる 」は南米 なんべい 航路 こうろ に移 うつ された[ 30] 。
しかし、東洋 とうよう 汽船 きせん はサンフランシスコ航路 こうろ と南米 なんべい 航路 こうろ の定期 ていき 航路 こうろ 以外 いがい は有力 ゆうりょく な航路 こうろ を持 も っておらず、貨物 かもつ 船隊 せんたい も揃 そろ っていなかった。実際 じっさい 、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」就航 しゅうこう 直後 ちょくご に創立 そうりつ 以来 いらい 初 はじ めての赤字 あかじ を出 だ し、1910年 ねん (明治 めいじ 43年 ねん )に遠洋 えんよう 航路 こうろ 補助 ほじょ を受 う けるまでの間 あいだ は、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の減価 げんか 償却 しょうきゃく やアメリカ の移民 いみん 抑制 よくせい 策 さく などに悩 なや まされて経営 けいえい が苦 くる しい状況 じょうきょう が続 つづ くこととなった[ 36] 。経営 けいえい 不振 ふしん は三 さん 番 ばん 船 せん 「春洋 はるみ 丸 まる 」の建造 けんぞう に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた え、建造 けんぞう 期間 きかん が間延 まの びする結果 けっか となった[ 12] 。また、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の特徴 とくちょう の一 ひと つであった蒸気 じょうき タービンも期待 きたい したほどの成果 せいか を挙 あ げなかった。前述 ぜんじゅつ のように浅野 あさの 総一郎 そういちろう はかねてから石油 せきゆ の有用 ゆうよう 性 せい を説 と き[ 12] [ 37] 、また建造 けんぞう 当時 とうじ のカリフォルニア原油 げんゆ の相場 そうば がトン当 あ たり6.7円 えん 、日本 にっぽん 産 さん 石炭 せきたん がトン当 あ たり8円 えん だったこと、浅野 あさの 総一郎 そういちろう が取引 とりひき のほかに石油 せきゆ 精製 せいせい 事業 じぎょう を手掛 てが けていたことが蒸気 じょうき タービン導入 どうにゅう の大 おお きな伏線 ふくせん となっていたが[ 38] 、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」就航 しゅうこう 直後 ちょくご に原油 げんゆ 関税 かんぜい が引 ひ き上 あ げられた結果 けっか 、「安 やす い原油 げんゆ で運航 うんこう する」という浅野 あさの 総一郎 そういちろう の目論 もくろ みは大 おお きく崩 くず れ去 さ る結果 けっか となってしまった[ 26] [ 38] [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。機関 きかん そのものも発展 はってん 途上 とじょう で先行 せんこう のレシプロ機関 きかん にはかなわず、ライバルの「コリア」と比 くら べても燃料 ねんりょう 消費 しょうひ 量 りょう が35パーセント余分 よぶん にかかる結果 けっか となった[ 26] 。石炭 せきたん 焚 た きに切 き り替 か えざるを得 え なかったとはいえ完全 かんぜん な石炭 せきたん 焚 た きにはしなかったらしく、2本 ほん の煙突 えんとつ からはそれぞれ違 ちが った色 いろ の煙 けむり が出 で ていた[ 39] 。遅 おく れて竣工 しゅんこう した「春洋 はるみ 丸 まる 」のタービン機関 きかん 用 よう のボイラーは、この理由 りゆう により初 はじ めから石炭 せきたん 専 せん 焼 しょう であった[ 40] 。浅野 あさの 総一郎 そういちろう 個人 こじん に起因 きいん しない理由 りゆう もあるとはいえ、日本郵船 にっぽんゆうせん が一 いち 割 わり 配当 はいとう していたのとは対照 たいしょう 的 てき な東洋 とうよう 汽船 きせん の経営 けいえい 危機 きき に株主 かぶぬし は不満 ふまん を持 も ち、株主 かぶぬし 総会 そうかい では浅野 あさの 総一郎 そういちろう の退陣 たいじん を要求 ようきゅう するまでになった[ 41] 。自決 じけつ を要求 ようきゅう する者 もの もいた[ 42] 。経営 けいえい 危機 きき は、浅野 あさの 総一郎 そういちろう の音頭取 おんどと りで成立 せいりつ した遠洋 えんよう 航路 こうろ 補助 ほじょ 法 ほう による補助 ほじょ 金 きん により、当面 とうめん 去 さ ることとなる[ 41] 。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の時期 じき は、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん にとっては天国 てんごく と地獄 じごく を見 み た時期 じき でもある。ヨーロッパの戦乱 せんらん を避 さ けてアジア回 まわ りでアメリカに向 む かう船客 せんきゃく が増加 ぞうか し、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の一等 いっとう および二 に 等 とう 船室 せんしつ は常 つね に満員 まんいん という状況 じょうきょう となった[ 43] 。ところが、1916年 ねん (大正 たいしょう 5年 ねん )3月 がつ 31日 にち 未明 みめい 、マニラ から香港 ほんこん に向 む かっていた「地 ち 洋 よう 丸 まる 」が霧中 むちゅう を航行 こうこう 中 ちゅう に香港 ほんこん 沖 おき の担杆島 とう 北東 ほくとう 端 はし に座礁 ざしょう [ 43] [ 44] [ 45] 。離礁 りしょう できず、4月 がつ 5日 にち に船体 せんたい が折 お れたため4月 がつ 27日 にち に放棄 ほうき された[ 46] (地 ち 洋 よう 丸 まる の座礁 ざしょう を参照 さんしょう )。天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「春洋 はるみ 丸 まる 」の2隻 せき 体制 たいせい となる。
1920年代 ねんだい に入 はい ると東洋 とうよう 汽船 きせん の経営 けいえい 危機 きき 問題 もんだい が再燃 さいねん し、これに加 くわ えてカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 系 けい の船 ふね 会社 かいしゃ であるカナダ・パシフィック・ライン (英語 えいご 版 ばん ) (CPL)が「エンプレス・オブ・カナダ 」(21,517トン)などの2万 まん トン超 ちょう の貨客船 かきゃくせん を送 おく り込 こ むと、苦境 くきょう は一層 いっそう 深 ふか まることとなった[ 47] 。そのさなかに発生 はっせい した1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )9月 がつ 1日 にち の関東大震災 かんとうだいしんさい では、「春洋 はるみ 丸 まる 」が神戸 こうべ から横浜 よこはま への支援 しえん 物資 ぶっし の輸送 ゆそう に活躍 かつやく [ 48] 。その翌年 よくねん の1924年 ねん (大正 たいしょう 13年 ねん )から1925年 ねん (大正 たいしょう 14年 ねん )にかけては「天 てん 洋 よう 丸 まる 」が主 しゅ 機関 きかん をパーソンス式 しき タービン機関 きかん からギアード・タービン機関 きかん に換 かわ 装 そう する工事 こうじ を受 う けた[ 49] 。しかし、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「春洋 はるみ 丸 まる 」の老 お いは隠 かく せるものではなく、さりとて東洋 とうよう 汽船 きせん に「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「春洋 はるみ 丸 まる 」の代替 だいたい 船 せん を建造 けんぞう する体力 たいりょく はもはや残 のこ っていなかった。進退 しんたい 窮 きわ まった東洋 とうよう 汽船 きせん は政府 せいふ の斡旋 あっせん により、1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )2月 がつ にサンフランシスコ航路 こうろ 、南米 なんべい 航路 こうろ とその使用 しよう 船 せん を新 しん 会社 かいしゃ 「第 だい 二 に 東洋 とうよう 汽船 きせん 」に承継 しょうけい させて分離 ぶんり し、次 つ いで3月 がつ 11日 にち に第 だい 二 に 東洋 とうよう 汽船 きせん は日本郵船 にっぽんゆうせん に合併 がっぺい されて「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「春洋 はるみ 丸 まる 」も日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき した[ 50] [ 51] 。その後 ご 、後継 こうけい の浅間 あさま 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の建造 けんぞう と就航 しゅうこう により「天 てん 洋 よう 丸 まる 」は1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )、「春洋 はるみ 丸 まる 」は1932年 ねん (昭和 しょうわ 7年 ねん )に引退 いんたい し、船舶 せんぱく 改善 かいぜん 助成 じょせい 施設 しせつ の解体 かいたい 見合 みあ い船 せん として「天 てん 洋 よう 丸 まる 」は1933年 ねん (昭和 しょうわ 8年 ねん )、「春洋 はるみ 丸 まる 」は1936年 ねん (昭和 しょうわ 11年 ねん )にそれぞれ解体 かいたい されて姿 すがた を消 け した[ 33] 。なお、「天 てん 洋 よう 丸 まる 」の代 だい 船 ふね として建造 けんぞう されたのがN型 がた 貨物 かもつ 船 せん 四 よん 番 ばん 船 せん の「能代 のしろ 丸 まる 」(7,189トン)[ 52] 、「春洋 はるみ 丸 まる 」の代 だい 船 ふね として建造 けんぞう されたのがA型 がた 貨物 かもつ 船 せん ネームシップの「赤 あか 城丸 しろまる 」(7,189トン)である[ 53] 。
天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は「浅野 あさの の子 こ 」と言 い っても過言 かごん ではないほど浅野 あさの 総一郎 そういちろう が心血 しんけつ を注 そそ いだ船 ふね であり、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん が横浜 よこはま を出帆 しゅっぱん する日 ひ は、浅野 あさの 総一郎 そういちろう は必 かなら ず人力車 じんりきしゃ で横浜 よこはま 港 こう に赴 おもむ いてその船出 ふなで を見送 みおく っていたほどであった[ 54] 。造船 ぞうせん 関係 かんけい 海外 かいがい コンサルタントの三浦 みうら 昭男 あきお が「浅野 あさの 総一郎 そういちろう の決断 けつだん がTKKの経営 けいえい に大 おお きく貢献 こうけん したかどうかは疑問 ぎもん が残 のこ るが」と評 ひょう しているように[ 1] 、東洋 とうよう 汽船 きせん の航路 こうろ 数 すう は決 けっ して多 おお くなく会社 かいしゃ の維持 いじ も安定 あんてい せず、常 つね にライバル船 せん 会社 かいしゃ の脅威 きょうい と対峙 たいじ し続 つづ ける状況 じょうきょう であった。そういう状況 じょうきょう を誰 だれ よりも知 し る浅野 あさの 総一郎 そういちろう の企業 きぎょう 家 か 精神 せいしん と夢 ゆめ [ 55] が、日本 にっぽん で初 はじ めての1万 まん トン超 ちょう の船舶 せんぱく 建造 けんぞう を周囲 しゅうい の懸念 けねん や反対 はんたい を押 お し切 き って推進 すいしん し、実現 じつげん させたと言 い えよう。造船 ぞうせん 業 ぎょう の観点 かんてん から見 み ても、日本 にっぽん で初 はじ めての5000トン超 ちょう の貨客船 かきゃくせん 「常陸 ひたち 丸 まる 」(日本郵船 にっぽんゆうせん 、6,172トン)を三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ が竣工 しゅんこう させたのが1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )のことであり、それから10年 ねん で「常陸 ひたち 丸 まる 」の倍 ばい にあたる大 おお きなの船舶 せんぱく を建造 けんぞう できる技術 ぎじゅつ 力 りょく を持 も ったということになる。
また、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の日本 にっぽん の船舶 せんぱく 史上 しじょう における立 た ち位置 いち は一種 いっしゅ のターニングポイントでもあり、実際 じっさい に天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん を見知 みし っている海事 かいじ 史家 しか の山高 やまたか 五郎 ごろう は「同 どう 時代 じだい の一 いち 般邦船 せん の水準 すいじゅん と、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう のそれをくらべてみると、その優秀 ゆうしゅう ぶりは実 じつ に顕著 けんちょ なものがあった」と回想 かいそう している[ 11] 。山高 やまたか は後継 こうけい の浅間 あさま 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん を「事前 じぜん の掛 か け声 ごえ が大 おお きかった割 わり に大 たい したことがない」という趣旨 しゅし の評価 ひょうか を与 あた えており[ 56] [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 、それだけに天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の出現 しゅつげん は日本 にっぽん の船舶 せんぱく 界 かい に大 おお きなインパクトを与 あた えた。三浦 みうら も、「天 てん 洋 よう 丸 まる こそが同 どう 時代 じだい の欧米 おうべい のレベルに最 もっと も近付 ちかづ いた客船 きゃくせん 」と評 ひょう している[ 1] 。
船 ふね 名 めい
総トン数 そうとんすう / (載貨 さいか 重量 じゅうりょう トン数 とんすう )
全長 ぜんちょう /垂線 すいせん 間 あいだ 長 ちょう
型 かた 幅 はば
型 かた 深 ふか
主 おも 機 き /馬力 ばりき (最大 さいだい )
最大 さいだい 速力 そくりょく
旅客 りょかく 定員 ていいん
備考 びこう ・出典 しゅってん
天 てん 洋 よう 丸 まる
13,454 トン
175.3 m Loa 167.7 m Lpp
19.2 m
11.7 m
パーソンス式 しき タービン機関 きかん 3基 き 3軸 じく / ギアード・タービン機関 きかん 3基 き 3軸 じく (1925年 ねん 以降 いこう ) 19,000 馬力 ばりき
20.6 ノット
一等 いっとう :249名 めい 二 に 等 とう :73名 めい 三 さん 等 とう :600名 めい
[ 39] [ 57] [ 58]
地 ち 洋 よう 丸 まる
13,454 トン
175.3 m Loa 167.7 m Lpp
19.2 m
11.7 m
パーソンス式 しき タービン機関 きかん 3基 き 3軸 じく 19,000 馬力 ばりき
20.6 ノット
一等 いっとう :249名 めい 二 に 等 とう :73名 めい 三 さん 等 とう :600名 めい
[ 59]
春洋 はるみ 丸 まる
13,377 トン
175.3 m Loa 167.7 m Lpp
19.2 m
11.7 m
三菱 みつびし パーソンス式 しき タービン機関 きかん 3基 き 3軸 じく 19,000 馬力 ばりき
20.2 ノット
一等 いっとう :198名 めい 二 に 等 とう :70名 めい 三 さん 等 とう :620名 めい
[ 60]
^ ライジングサン石油 せきゆ 、シェル石油 せきゆ を経 へ て現在 げんざい の昭和シェル石油 しょうわしぇるせきゆ 。
^ この目的 もくてき で建造 けんぞう されたのがタンカー「紀洋 のりひろ 丸 まる 」(9,287トン)である(#松井 まつい (2006) pp.132-133)。
^ タンカー「紀洋 のりひろ 丸 まる 」がタンカーの姿 すがた をした貨客船 かきゃくせん に改装 かいそう されたのも、この影響 えいきょう が一 ひと つにある(#松井 まつい (2006) pp.132-133)。
^ 山高 やまたか の浅間 あさま 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん に対 たい する低 ひく い評価 ひょうか の背景 はいけい には、「エンプレス級 きゅう に匹敵 ひってき する貨客船 かきゃくせん ができる」という噂 うわさ を耳 みみ にしていることが考 かんが えられる(#山高 やまたか p.215)。実際 じっさい 、実現 じつげん しなかったとはいえ1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )ごろに東洋 とうよう 汽船 きせん が2万 まん トン超 ちょう 、20ノットの貨客船 かきゃくせん の建造 けんぞう を発表 はっぴょう している(#三浦 みうら p.135)。
中野 なかの 秀雄 ひでお (編 へん )『東洋 とうよう 汽船 きせん 六 ろく 十 じゅう 四 よん 年 ねん の歩 あゆ み』中野 なかの 秀雄 ひでお 、1964年 ねん
三菱 みつびし 造船 ぞうせん (編 へん )『創業 そうぎょう 百 ひゃく 年 ねん の長崎造船所 なかざきぞうせんじょ 』三菱 みつびし 造船 ぞうせん 、1957年 ねん 。
山高 やまたか 五郎 ごろう 『図説 ずせつ 日 ひ の丸 まる 船隊 せんたい 史話 しわ (図説 ずせつ 日本 にっぽん 海事 かいじ 史話 しわ 叢書 そうしょ 4)』至誠 しせい 堂 どう 、1981年 ねん 。
財団 ざいだん 法人 ほうじん 日本 にっぽん 経営 けいえい 史 し 研究所 けんきゅうじょ (編 へん )『日本郵船 にっぽんゆうせん 株式会社 かぶしきがいしゃ 百 ひゃく 年 ねん 史 し 』日本郵船 にっぽんゆうせん 、1988年 ねん 。
野間 のま 恒 ひさし 、山田 やまだ 廸生『世界 せかい の艦船 かんせん 別冊 べっさつ 日本 にっぽん の客船 きゃくせん 1 1868~1945 』海人 あま 社 しゃ 、1991年 ねん 。ISBN 4-905551-38-2 。
野間 のま 恒 ひさし 『豪華 ごうか 客船 きゃくせん の文化 ぶんか 史 し 』NTT出版 しゅっぱん 、1993年 ねん 。ISBN 4-87188-210-1 。
三浦 みうら 昭男 あきお 『北 きた 太平洋 たいへいよう 定期 ていき 客船 きゃくせん 史 し 』出版 しゅっぱん 協同 きょうどう 社 しゃ 、1995年 ねん 。ISBN 4-87970-051-7 。
松井 まつい 邦夫 くにお 『日本 にっぽん 商船 しょうせん ・船 ふね 名 めい 考 こう 』海文堂 かいぶんどう 出版 しゅっぱん 、2006年 ねん 。ISBN 4-303-12330-7 。