東洋 とうよう 汽船 きせん のルーツは、浅野 あさの 財閥 ざいばつ 創始 そうし 者 しゃ の浅野 あさの 総一郎 そういちろう が1886年 ねん (明治 めいじ 19年 ねん )に設立 せつりつ した浅野 あさの 回漕 かいそう 店 てん (浅野 あさの 廻漕 かいそう 部 ぶ [7] )である[4] 。浅野 あさの 回漕 かいそう 店 てん は浅野 あさの 総一郎 そういちろう が渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち や渋沢 しぶさわ 喜作 きさく らとともにロシア から汽船 きせん 「ベロナ」を購入 こうにゅう して「日 にち の出丸 でまる 」と命名 めいめい し、石炭 せきたん を輸送 ゆそう することを生業 せいぎょう としていた[4] [7] 。やがて持 も ち船 せん を増 ふ やし、日本郵船 にっぽんゆうせん に対抗 たいこう する意味合 いみあ いをもって他 た の小規模 しょうきぼ 船 せん 会社 かいしゃ とともに海運 かいうん 同盟 どうめい 会 かい を結成 けっせい [7] 。日 にち 清 しん 戦争 せんそう 直前 ちょくぜん の1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )頃 ごろ には、帆船 はんせん なども含 ふく めると8万 まん 総 そう トンもの船腹 せんぷく を有 ゆう する規模 きぼ にまで発展 はってん し[4] 、日 にち 清 しん 戦争 せんそう では何 なん 隻 せき かの持 も ち船 せん を日本 にっぽん 軍 ぐん 御 ご 用船 ようせん として提供 ていきょう していた[7] 。折 お りしも、日 にち 清 しん 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご の1896年 ねん (明治 めいじ 29年 ねん )に航海 こうかい 奨励 しょうれい 法 ほう と造船 ぞうせん 奨励 しょうれい 法 ほう が施行 しこう される[8] 。日本 にっぽん 船 せん が海外 かいがい 航路 こうろ に就航 しゅうこう する際 さい や、新 しん 造船 ぞうせん 建造 けんぞう の際 さい に一定 いってい の補助 ほじょ 金 きん を出 だ すという、この二 ふた つの法律 ほうりつ の施行 しこう を契機 けいき として、日本 にっぽん の船 ふね 会社 かいしゃ は相 あい 前後 ぜんご して海外 かいがい へと打 う って出 で た[9] 。
日本郵船 にっぽんゆうせん は法律 ほうりつ の施行 しこう に先 さき んじて1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )に、日本 にっぽん の船 ふね 会社 かいしゃ 初 はつ の本格 ほんかく 的 てき 遠洋 えんよう 定期 ていき 航路 こうろ [注釈 ちゅうしゃく 1] としてボンベイ 航路 こうろ を開設 かいせつ [9] 。法律 ほうりつ 施行 しこう 後 ご にはヨーロッパ 航路 こうろ 、シアトル 航路 こうろ 、豪州 ごうしゅう 航路 こうろ を相次 あいつ いで開設 かいせつ した[9] 。大阪 おおさか 商船 しょうせん も1896年 ねん 、日本 にっぽん の領土 りょうど となったばかりの台湾 たいわん への命令 めいれい 航路 こうろ の運営 うんえい を受命 じゅめい し、会社 かいしゃ 規模 きぼ の拡大 かくだい を開始 かいし する[10] 。むろん、浅野 あさの はこういったライバル船 せん 会社 かいしゃ の動向 どうこう に無 む 関心 かんしん だったわけではない。国内 こくない 同業 どうぎょう 者 しゃ との日本 にっぽん 国内 こくない での競争 きょうそう にあぐらをかいて満足 まんぞく するようなことはなく、1896年 ねん に今 いま までの持 も ち船 せん を土佐 とさ 汽船 きせん に譲渡 じょうと して浅野 あさの 回漕 かいそう 店 てん を解散 かいさん する[7] 。そして同 おな じ1896年 ねん 6月 がつ 2日 にち [3] あるいは7月 がつ 1日 にち [11] に渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち (渋沢 しぶさわ 財閥 ざいばつ )に加 くわ えて安田 やすだ 善次郎 ぜんじろう (安田 やすだ 財閥 ざいばつ )、福澤 ふくさわ 桃 もも 介 かい 、大倉 おおくら 喜八郎 きはちろう (大倉 おおくら 財閥 ざいばつ )、6代目 だいめ 森村 もりむら 市 し 左衛門 さえもん らから650万 まん 円 えん (当時 とうじ )の出資 しゅっし を受 う けて東洋 とうよう 汽船 きせん 株式会社 かぶしきがいしゃ を設立 せつりつ する[3] 。
東洋 とうよう 汽船 きせん ポスター 中国 ちゅうごく 語 ご
東洋 とうよう 汽船 きせん 設立 せつりつ 後 ご の浅野 あさの 総一郎 そういちろう は体調 たいちょう があまりよくなかったにもかかわらず[7] 、ただちに渡米 とべい してサザン・パシフィック鉄道 てつどう 社長 しゃちょう 立会 たちあ いの下 した 、パシフィック・メイル社 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社 しゃ (Oriental and Occidental)との提携 ていけい を申 もう し入 い れる[4] [7] 。交渉 こうしょう は難航 なんこう したものの、ついにサンフランシスコと香港 ほんこん 間 あいだ の航路 こうろ を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶 せんぱく 6隻 せき 、東洋 とうよう 汽船 きせん の船舶 せんぱく 3隻 せき で共同 きょうどう 運航 うんこう するという形 かたち で設立 せつりつ する[4] [7] 。浅野 あさの は次 つぎ にイギリス に渡 わた り、1897年 ねん (明治 めいじ 30年 ねん )にサー・ジェームズ・レイング社 しゃ (Sir James Laing & Sons Co.)とスワン・ハンター社 しゃ (英語 えいご 版 ばん ) でサンフランシスコ航路 こうろ 用 よう 船舶 せんぱく 3隻 せき の建造 けんぞう 契約 けいやく を取 と り付 つ ける[12] 。これが日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん (「日本 にっぽん 丸 まる 」、「香港 ほんこん 丸 まる 」、「亜米利加 あめりか 丸 まる 」)である。日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は1898年 ねん (明治 めいじ 31年 ねん )11月から1899年 ねん (明治 めいじ 32年 ねん )1月 がつ にかけて相次 あいつ いで日本 にっぽん に回航 かいこう され、第 だい 一 いち 船 せん の日本 にっぽん 丸 まる は明治 めいじ 31年 ねん 12月15日 にち に香港 ほんこん を出帆 しゅっぱん し、廈門市 し 、上海 しゃんはい 、長崎 ながさき 、神戸 こうべ 、横浜 よこはま およびホノルル を経由 けいゆ し、明治 めいじ 32年 ねん 1月 がつ 14日 にち にサンフランシスコに到着 とうちゃく 、サンフランシスコ航路 こうろ の第一歩 だいいっぽ を記 しる した[5] 。もっとも、初期 しょき の経営 けいえい はノウハウ が未 み 成熟 せいじゅく だったこともあってパシフィック・メイル社 しゃ に全面 ぜんめん 委託 いたく していたが、それがために日本人 にっぽんじん 船客 せんきゃく の不興 ふきょう を買 か う事 こと もしばしばであった。一 いち 例 れい としては、アメリカ向 む け航海 こうかい での食堂 しょくどう メニューが「ホームワード」とされ、日本 にっぽん および香港 ほんこん 向 む け航海 こうかい でのメニューが「アウトワード」とされていた[13] 。また、サンフランシスコ航路 こうろ に関 かか わる当時 とうじ の情勢 じょうせい として、ハワイ併合 へいごう とそれに伴 ともな う移民 いみん や貨物 かもつ の輸送 ゆそう 制限 せいげん がホノルルとサンフランシスコ間 あいだ の航海 こうかい で適用 てきよう されたが、これらの負 まけ の要素 ようそ にもかかわらず業績 ぎょうせき は上向 うわむ きに推移 すいい した[5] 。当時 とうじ 、サンフランシスコ航路 こうろ を利用 りよう した船客 せんきゃく の中 なか には、孫 まご 文 ぶん [注釈 ちゅうしゃく 2] や野口 のぐち 英世 ひでよ [注釈 ちゅうしゃく 3] といった顔 かお も見 み られた。1900年 ねん (明治 めいじ 33年 ねん )には、日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん 3隻 せき の予備 よび としてイギリスから2隻 せき の中型 ちゅうがた 貨客船 かきゃくせん 、「ロヒラ」と「ロセッタ」を購入 こうにゅう し、それぞれ「ろひら丸 まる 」と「ろせった丸 まる 」と命名 めいめい [14] 。両船 りょうせん ともサンフランシスコ航路 こうろ には投入 とうにゅう されなかったが[5] 、「ろせった丸 まる 」は1901年 ねん (明治 めいじ 34年 ねん )12月5日 にち から始 はじ まった香港 ほんこん ・マニラ 航路 こうろ に就航 しゅうこう した[15] 。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう では在籍 ざいせき 船 せん 全 すべ てが軍 ぐん に徴 ちょう 傭 やとい され、日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は仮装 かそう 巡洋艦 じゅんようかん として、「ろひら丸 まる 」と「ろせった丸 まる 」は病院 びょういん 船 せん として軍務 ぐんむ に服 ふく した[13] [15] 。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう で日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん が軍務 ぐんむ に服 ふく している前後 ぜんご 、サンフランシスコ航路 こうろ では変化 へんか が起 お きていた。1906年 ねん (明治 めいじ 39年 ねん )に東洋 とうよう 汽船 きせん の提携 ていけい 先 さき の一 ひと つであるオリエンタル・アンド・オクシデンタル社 しゃ が運航 うんこう を停止 ていし [16] 。もう一 ひと つの提携 ていけい 先 さき であるパシフィック・メイル社 しゃ と、後発 こうはつ 組 ぐみ の、ジェームズ・ジェローム・ヒル 率 ひき いるグレート・ノーザン汽船 きせん 会社 かいしゃ は、ともに1万 まん トンを越 こ える大型 おおがた 船 せん の建造 けんぞう に乗 の り出 だ す[17] 。これらの情報 じょうほう をすでにつかんで大型 おおがた 船 せん 建造 けんぞう の決議 けつぎ をしていた東洋 とうよう 汽船 きせん ではあったが、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の行 ゆ く末 すえ がある程度 ていど つかめるようになるまで計画 けいかく は実行 じっこう に移 うつ されなかった[18] 。また、大型 おおがた 船 せん 建造 けんぞう の決議 けつぎ の前後 ぜんご に、パシフィック・メイル社 しゃ の社長 しゃちょう に就任 しゅうにん していたエドワード・ヘンリー・ハリマン から、東洋 とうよう 汽船 きせん の足元 あしもと を見 み るかのような交渉 こうしょう が持 も ち込 こ まれる[18] [19] 。すなわち、「日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん 程度 ていど の船舶 せんぱく では太刀打 たちう ちできないだろうから、日本 にっぽん 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん をパシフィック・メイル社 しゃ に売 う り渡 わた すか、パシフィック・メイル社 しゃ の持 も ち船 せん 全 すべ てを購入 こうにゅう するか」という内容 ないよう の交渉 こうしょう である[19] 。
東洋 とうよう 汽船 きせん は当面 とうめん は現状 げんじょう 維持 いじ で過 す ごした。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の大勢 おおぜい が決 けっ した1905年 ねん (明治 めいじ 38年 ねん )6月 がつ に、浅野 あさの 総一郎 そういちろう は白石 しらいし 元治郎 もとじろう の進言 しんげん を受 う け入 い れて[20] 、三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ に12,000トン級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の建造 けんぞう を発注 はっちゅう する[18] 。これが、日本 にっぽん で最初 さいしょ の1万 まん トンを越 こ える大型 おおがた 船 せん の嚆矢 こうし である天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん (「天 てん 洋 よう 丸 まる 」、「地 ち 洋 よう 丸 まる 」、「春洋 はるみ 丸 まる 」)である。天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は、浅野 あさの 総一郎 そういちろう の夢 ゆめ と意欲 いよく の一 ひと つの結晶 けっしょう とも言 い うべき存在 そんざい であった。それまでの石炭 せきたん ボイラー とレシプロ式 しき 蒸気 じょうき 機関 きかん に代 か わり、当時 とうじ 最 さい 新鋭 しんえい の蒸気 じょうき タービン や重油 じゅうゆ 焚 た きボイラーの採用 さいよう [注釈 ちゅうしゃく 4] 、当時 とうじ としては高速 こうそく の20ノットの速力 そくりょく など画期的 かっきてき な性能 せいのう であり、しかもこのクラスの大型 おおがた 船 せん を民間 みんかん 向 む けに日本 にっぽん で国産 こくさん 建造 けんぞう させたことも、前例 ぜんれい のない野心 やしん 的 てき なプロジェクトであった(主 しゅ 機関 きかん はイギリス製 せい のパーソンズ・タービンを輸入 ゆにゅう )。この計画 けいかく は、日本郵船 にっぽんゆうせん から「気狂 きちが い」とまで言 い われた[20] 。契約 けいやく の際 さい に「三菱 みつびし の大 だい 番頭 ばんがしら 」荘田 しょうだ 平五郎 へいごろう は、浅野 あさの に計画 けいかく のランクダウンを提案 ていあん して再考 さいこう を勧 すす めたほどであったが、浅野 あさの は断固 だんこ としてこれを退 しりぞ けた[18] [19] 。天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん は1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )に「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「地 ち 洋 よう 丸 まる 」、1911年 ねん (明治 めいじ 44年 ねん )に「春洋 はるみ 丸 まる 」が竣工 しゅんこう し[21] 、そのインパクトは後年 こうねん に「浅間 あさま 丸 まる 」(日本郵船 にっぽんゆうせん 、16,975トン)が竣工 しゅんこう した時 とき とは比 くら べ物 もの にならないぐらいのものであった[19] 。もっとも、油 あぶら 焚 た きの採用 さいよう の裏 うら には、浅野 あさの が経営 けいえい していた浅野 あさの 商店 しょうてん が石油 せきゆ 類 るい を取 と り扱 あつか っており、カリフォルニア 原油 げんゆ を自前 じまえ で精製 せいせい した重油 じゅうゆ を目当 めあ てにしていたものだったが、原油 げんゆ 関税 かんぜい の引 ひ き上 あ げでアテが外 はず れて石炭 せきたん を使 つか わざるを得 え なかった[22] [注釈 ちゅうしゃく 5] 。
天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の建造 けんぞう と相 あい 前後 ぜんご して、東洋 とうよう 汽船 きせん では南米 なんべい などへの移民 いみん 船 せん の運航 うんこう 委託 いたく を請 う け負 お う。移民 いみん 船 せん に使用 しよう された船 ふね のうち、「笠 かさ 戸 ど 丸 まる 」と「楠 くすのき 保 たもつ 丸 まる 」は、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の結果 けっか 取得 しゅとく した元 もと ロシア船 せん であった。1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )4月 がつ 28日 にち 、「笠 かさ 戸 ど 丸 まる 」は皇国 こうこく 殖民 しょくみん 会社 かいしゃ (水野 みずの 龍 りゅう 社長 しゃちょう )の依頼 いらい により、第 だい 一 いち 回 かい ブラジル 移民 いみん 781名 めい を乗 の せ神戸 こうべ を出港 しゅっこう 、6月18日 にち にサントス に到着 とうちゃく したことで知 し られている。「楠 くすのき 保 たもつ 丸 まる 」は日本海 にほんかい 海戦 かいせん 直前 ちょくぜん に仮装 かそう 巡洋艦 じゅんようかん 「信濃 しなの 丸 まる 」(日本郵船 にっぽんゆうせん 、6,388トン)に発見 はっけん され、のちに捕獲 ほかく された病院 びょういん 船 せん オリョール の後身 こうしん であるが、短期間 たんきかん の行動 こうどう の後 のち 解体 かいたい された[23] 。
また、貨客船 かきゃくせん 以外 いがい では、浅野 あさの 商店 しょうてん が石油 せきゆ 類 るい を取 と り扱 あつか っていた関係 かんけい で、「石油 せきゆ 時代 じだい 到来 とうらい は必至 ひっし と予想 よそう し[24] 」 ていたという浅野 あさの はタンカー 運航 うんこう を計画 けいかく [25] 。イギリスから3隻 せき のタンカーを購入 こうにゅう するも、外国 がいこく 資本 しほん 会社 かいしゃ との熾烈 しれつ な石油 せきゆ 販売 はんばい 競争 きょうそう や、前述 ぜんじゅつ の原油 げんゆ 関税 かんぜい 引 ひ き上 あ げで運航 うんこう はかなわず、外国 がいこく の船 ふね 会社 かいしゃ に傭船 ようせん として出 だ さざるを得 え なかった[26] 。そのような結末 けつまつ が出 で る前 まえ に三菱 みつびし 長崎造船所 なかざきぞうせんじょ で建造 けんぞう された「紀洋 のりひろ 丸 まる 」は、日本 にっぽん で建造 けんぞう された最初 さいしょ の本格 ほんかく 的 てき な外 そと 航 こう 用 よう タンカーとなるはずであったが、計画 けいかく を変更 へんこう して外観 がいかん はタンカーのままながら貨客船 かきゃくせん に改造 かいぞう され、タンカーに再 さい 改造 かいぞう される1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )まで移民 いみん 船 せん として運航 うんこう された[27] 。
東洋 とうよう 汽船 きせん ポスター 香港 ほんこん と横浜 よこはま のオフィス 天 てん 洋 よう 丸 まる 中央 ちゅうおう に S. Asano 社長 しゃちょう
時代 じだい は明治 めいじ から大正 たいしょう に移 うつ り、東洋 とうよう 汽船 きせん は南米 なんべい 航路 こうろ 向 む けに「安 あん 洋 ひろし 丸 まる 」を建造 けんぞう し、さらに準 じゅん 姉妹 しまい 船 せん と購入 こうにゅう 船 せん を合 あ わせて5隻 せき 体制 たいせい で航路 こうろ を維持 いじ した[28] 。一方 いっぽう 、東洋 とうよう 汽船 きせん の顔 かお と言 い うべきサンフランシスコ航路 こうろ をめぐる環境 かんきょう も大 おお きく変 か わっていった。1915年 ねん 、アメリカ船員 せんいん を保護 ほご する船員 せんいん 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) の成立 せいりつ を受 う けて、東洋 とうよう 汽船 きせん と提携 ていけい していたパシフィック・メイル社 しゃ は、突如 とつじょ として北 きた 太平洋 たいへいよう 航路 こうろ からの撤退 てったい を表明 ひょうめい する[29] 。グレート・ノーザン汽船 きせん 会社 かいしゃ も同 おな じく1915年 ねん に航路 こうろ を閉鎖 へいさ [18] 。代 か わって息 いき を吹 ふ き返 かえ したのがカナダ太平洋 たいへいよう 鉄道 てつどう 系 けい の船 ふね 会社 かいしゃ であるカナダ・パシフィック・ライン (英語 えいご 版 ばん ) (CPL)であり[30] 、パシフィック・メイル社 しゃ を買収 ばいしゅう したグレース・ラインや、中国人 ちゅうごくじん の手 て によるチャイナ・メイル社 しゃ が参入 さんにゅう してくる[31] 。なかでもCPLは、1912年 ねん に「エンプレス・オブ・ロシア (英語 えいご 版 ばん ) 」(16,810トン)を投入 とうにゅう [32] 。これに相対 そうたい する東洋 とうよう 汽船 きせん は、航路 こうろ から撤退 てったい したパシフィック・メイル社 しゃ の持 も ち船 せん だった「コレア」と「サイベリア」、「ペルシャ」を購入 こうにゅう して「これや丸 まる 」、「さいべりや丸 まる 」、「波 なみ 斯丸」とし、船隊 せんたい の充実 じゅうじつ を図 はか る[28] [33] 。1914年 ねん に第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まると、CPLなど外国 がいこく 船 せん 会社 かいしゃ が撤収 てっしゅう したためサンフランシスコ航路 こうろ の乗客 じょうきゃく 率 りつ も上昇 じょうしょう 傾向 けいこう となり、これに南米 なんべい 航路 こうろ を合 あ わせた利益 りえき は空前 くうぜん のものとなった[34] 。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 終結 しゅうけつ 後 ご には、ドイツ からの賠償 ばいしょう 船 せん である「カップ・フィニステレ」を取得 しゅとく して「大洋 たいよう 丸 まる 」とし[35] 、同 おな じ浅野 あさの 財閥 ざいばつ の浅野 あさの 造船 ぞうせん 所 しょ で建造 けんぞう されたストックボート を購入 こうにゅう して貨物 かもつ 船 せん の充実 じゅうじつ にも努 つと めた[28] 。東洋 とうよう 汽船 きせん ではさらに、2万 まん トンを超 こ える大型 おおがた 船 せん 建造 けんぞう を計画 けいかく したが、これは実現 じつげん しなかった[36] 。
この当時 とうじ 、東京 とうきょう の三田 みた に浅野 あさの の屋敷 やしき があり、金 かね の鯱 しゃち を戴 いただ く城 しろ の天守閣 てんしゅかく のような純 じゅん 日本 にっぽん 風 ふう の建物 たてもの 紫雲 しうん 閣 かく がそびえていた。浅野 あさの は、東洋 とうよう 汽船 きせん の一等 いっとう 船室 せんしつ 外国 がいこく 人 じん 客 きゃく 全員 ぜんいん を紫雲 しうん 閣 かく に招待 しょうたい して、浅野 あさの 一族 いちぞく の娘 むすめ ・孫娘 まごむすめ ・嫁 よめ など総勢 そうぜい 20 - 30人 にん でもてなした。合計 ごうけい で13万 まん 人 にん ぐらいの外国 がいこく 人 じん を招待 しょうたい したので、外国 がいこく では「浅野 あさの の茶会 ちゃかい 」として有名 ゆうめい だったと浅野 あさの は1931年 ねん の著書 ちょしょ で述 の べている[37] 。
しかし、1920年代 ねんだい に入 はい ると東洋 とうよう 汽船 きせん の経営 けいえい には暗 くら い影 かげ がつきまとうようになる。経営 けいえい 航路 こうろ 数 すう が日本郵船 にっぽんゆうせん 、大阪 おおさか 商船 しょうせん と比 くら べて絶対 ぜったい 的 てき に少 すく なく、大戦 たいせん 後 ご など景気 けいき 後退 こうたい の時期 じき に差 さ し掛 か かると途端 とたん に経営 けいえい が苦 くる しくなった。新鋭 しんえい 船 せん の投入 とうにゅう もままならず、さらに有力 ゆうりょく 出資 しゅっし 者 しゃ だった安田 やすだ 善次郎 ぜんじろう が1921年 ねん (大正 たいしょう 10年 ねん )に朝日 あさひ 平吾 へいご に暗殺 あんさつ され、1924年 ねん にアメリカで排日 はいにち 移民 いみん 法 ほう が成立 せいりつ ・施行 しこう され移民 いみん 客 きゃく からの収入 しゅうにゅう も激減 げきげん して、1923年 ねん (大正 たいしょう 12年 ねん )からは日本郵船 にっぽんゆうせん との合併 がっぺい 話 ばなし が持 も ち上 あ がるようになった[35] 。この合併 がっぺい 話 ばなし は、一 いち 度 ど は関東大震災 かんとうだいしんさい で流 なが れたものの、CPLが「エンプレス・オブ・カナダ 」(21,517トン)など2万 まん トンを越 こ える大型 おおがた 船 せん を投入 とうにゅう し[38] 、ロバート・ダラー (英語 えいご 版 ばん ) とその一族 いちぞく が率 ひき いるダラー・ラインがグレース・ラインなどを次々 つぎつぎ と買収 ばいしゅう して会社 かいしゃ 規模 きぼ を拡大 かくだい 、「プレジデント・ハリソン 」(10,509トン)など戦時 せんじ 標準 ひょうじゅん 船 せん 上 あ がりの大型 おおがた 船 せん を多数 たすう 揃 そろ えて北 きた 太平洋 たいへいよう 航路 こうろ を席巻 せっけん する[39] 。これらの動 うご きに対 たい して、新鋭 しんえい 船 せん の投入 とうにゅう に執念 しゅうねん を燃 も やす浅野 あさの は、大蔵 おおくら 大臣 だいじん の井上 いのうえ 準之助 じゅんのすけ などへ新鋭 しんえい 船 せん 建造 けんぞう を懇願 こんがん するもき入 きい れられず[35] 、会社 かいしゃ は無配 むはい 状態 じょうたい となって株主 かぶぬし にこれ以上 いじょう の負担 ふたん をかけるのは酷 こく と判断 はんだん した浅野 あさの は[11] 、ついに客船 きゃくせん 部門 ぶもん を日本郵船 にっぽんゆうせん に譲渡 じょうと することを決 き めた。この時 とき 、浅野 あさの は、「愛児 あいじ を喪 うしな うより辛 つら い」と涙 なみだ を流 なが したという[40] 。
1926年 ねん (大正 たいしょう 15年 ねん )2月 がつ 、サンフランシスコ航路 こうろ 、南米 なんべい 航路 こうろ とその使用 しよう 船 せん を「第 だい 二 に 東洋 とうよう 汽船 きせん 」として分離 ぶんり し[28] [35] 、次 つ いで3月 がつ 11日 にち に第 だい 二 に 東洋 とうよう 汽船 きせん は日本郵船 にっぽんゆうせん に合併 がっぺい され、東洋 とうよう 汽船 きせん は貨物 かもつ 船 せん 専業 せんぎょう の船 ふね 会社 かいしゃ となる。また、自営 じえい 主義 しゅぎ から傭船 ようせん 主義 しゅぎ に転換 てんかん し、所有 しょゆう 船 せん を山下 やました 汽船 きせん 、川崎汽船 かわさききせん などへ貸 か し出 だ すこととなった[41] 。その一方 いっぽう ではディーゼル機関 きかん 使用 しよう の船舶 せんぱく の導入 どうにゅう 、船舶 せんぱく 改善 かいぜん 助成 じょせい 施設 しせつ の活用 かつよう による船隊 せんたい の刷新 さっしん に取 と り組 く んだ[41] 。一連 いちれん の改善 かいぜん 策 さく で建造 けんぞう された新鋭 しんえい 貨物 かもつ 船 せん は系列 けいれつ 会社 かいしゃ の東洋 とうよう 海運 かいうん や、三井物産 みついぶっさん などにも傭船 ようせん され、1937年 ねん (昭和 しょうわ 12年 ねん )ごろには大型 おおがた と中型 ちゅうがた の新鋭 しんえい 貨物 かもつ 船 せん を多数 たすう そろえるまでになった[42] 。1941年 ねん (昭和 しょうわ 16年 ねん )12月に太平洋戦争 たいへいようせんそう が勃発 ぼっぱつ すると、東洋 とうよう 汽船 きせん の所属 しょぞく 船 せん は他 た の船 ふね 会社 かいしゃ と同様 どうよう に次々 つぎつぎ と徴 しるし 傭 やとい され、また戦時 せんじ 標準 ひょうじゅん 船 せん 14隻 せき が割 わ り当 あ てられた[43] 。太平洋戦争 たいへいようせんそう では、かつて東洋 とうよう 汽船 きせん にいた「大洋 たいよう 丸 まる 」や「亜米利加 あめりか 丸 まる 」などが沈没 ちんぼつ していき、自社 じしゃ 船 せん も壊滅 かいめつ 的 てき な被害 ひがい を蒙 こうむ る。終戦 しゅうせん 後 ご 、東洋 とうよう 汽船 きせん に残 のこ った船舶 せんぱく はわずかに5隻 せき で、うち1隻 せき は終戦 しゅうせん 直後 ちょくご に触 さわ 雷 かみなり 沈没 ちんぼつ し、残 のこ る4隻 せき のうちの一 いち 隻 せき である「美 び 洋 よう 丸 まる 」は航行 こうこう 不能 ふのう 状態 じょうたい だった[43] 。触 さわ 雷 かみなり 沈没 ちんぼつ した1隻 せき を除 のぞ いた船隊 せんたい の総トン数 そうとんすう は、4隻 せき 11,413トンであった[44] 。
終戦 しゅうせん 後 ご 、財閥 ざいばつ 解体 かいたい が行 おこな われ、安田 やすだ 財閥 ざいばつ 系 けい に属 ぞく し筆頭 ひっとう 株主 かぶぬし が安田 やすだ 銀行 ぎんこう だった東洋 とうよう 汽船 きせん もその波 なみ に飲 の まれる[45] 。さらに、交付 こうふ された政府 せいふ 補償 ほしょう 金 きん や保険 ほけん 填補 てんぽ 金 きん など戦時 せんじ 補償 ほしょう 債務 さいむ を戦時 せんじ 特別 とくべつ 税 ぜい として持 も っていかれ、企業 きぎょう 再建 さいけん 整備 せいび 法 ほう によって第 だい 二 に 会社 かいしゃ である東洋 とうよう 商船 しょうせん を設立 せつりつ し、船舶 せんぱく などを東洋 とうよう 商船 しょうせん に現物 げんぶつ 出資 しゅっし の上 うえ 、東洋 とうよう 汽船 きせん はいったん清算 せいさん されて解散 かいさん する事 こと となった[46] 。東洋 とうよう 商船 しょうせん は間 ま もなく東洋 とうよう 汽船 きせん と改名 かいめい [11] 。その間 あいだ 、残存 ざんそん 船舶 せんぱく の改修 かいしゅう や計画 けいかく 造船 ぞうせん による新鋭 しんえい 船 せん の導入 どうにゅう をおこなった[43] 。
その後 ご 、世情 せじょう が落 お ち着 つ いた1955年 ねん (昭和 しょうわ 30年 ねん )末 まつ ごろから日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん との合併 がっぺい 話 ばなし が持 も ち上 あ がり、1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )3月 がつ 31日 にち 限 かぎ りで日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん へ吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい され消滅 しょうめつ した[47] 。その後 ご 、日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん は海運 かいうん 集約 しゅうやく で日産 にっさん 汽船 きせん と合併 がっぺい して昭和海運 しょうわかいうん となり[48] 、昭和海運 しょうわかいうん は1998年 ねん (平成 へいせい 10年 ねん )に日本郵船 にっぽんゆうせん に吸収 きゅうしゅう 合併 がっぺい された。
左 ひだり から船 ふね 名 めい ・トン数 とんすう ・備考 びこう 。基本 きほん データその他 た の出典 しゅってん は#松井 まつい (2)pp .138-140 、#三浦 みうら 、#戦時 せんじ 遭難 そうなん 史 し 、#特設 とくせつ 原簿 げんぼ による。また、運航 うんこう 委託 いたく 船 せん は除 のぞ く。
日本 にっぽん 丸 まる (6,163トン):1897年 ねん 8月 がつ 22日 にち 竣工 しゅんこう 。1918年 ねん 売却 ばいきゃく
香港 ほんこん 丸 まる (6,159トン):1897年 ねん 7月 がつ 7日 にち 竣工 しゅんこう 。1914年 ねん 大阪 おおさか 商船 しょうせん に売却 ばいきゃく 。1935年 ねん 解体 かいたい [33]
亜米利加 あめりか 丸 まる (6,307トン):1897年 ねん 9月 がつ 24日 にち 竣工 しゅんこう 。1911年 ねん 大阪 おおさか 商船 しょうせん に売却 ばいきゃく 。1944年 ねん 3月 がつ 6日 にち 戦没 せんぼつ
ろひら丸 まる (3,081トン):1880年 ねん 進水 しんすい 。1900年 ねん 購入 こうにゅう 。1905年 ねん 売却 ばいきゃく
ろせった丸 まる (3,502トン):1880年 ねん 進水 しんすい 。1901年 ねん 購入 こうにゅう 。1904年 ねん 売却 ばいきゃく
天 てん 洋 よう 丸 まる (初代 しょだい )(13,454トン):1908年 ねん 4月 がつ 22日 にち 竣工 しゅんこう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1933年 ねん 解体 かいたい
地 ち 洋 よう 丸 まる (13,426トン):1908年 ねん 11月21日 にち 竣工 しゅんこう 。1916年 ねん 座礁 ざしょう 沈没 ちんぼつ
春洋 はるみ 丸 まる (13,377トン):1911年 ねん 8月 がつ 15日 にち 竣工 しゅんこう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1936年 ねん 解体 かいたい
波 なみ 斯丸(4,381トン):1881年 ねん 進水 しんすい 。1915年 ねん 購入 こうにゅう 。1925年 ねん 解体 かいたい
これや丸 まる (11,810トン):1901年 ねん 3月 がつ 23日 にち 竣工 しゅんこう 。1916年 ねん 購入 こうにゅう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1934年 ねん 解体 かいたい
さいべりや丸 まる (11,790トン):1901年 ねん 10月 がつ 19日 にち 竣工 しゅんこう 。1916年 ねん 購入 こうにゅう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1935年 ねん 解体 かいたい
安 あん 洋 ひろし 丸 まる (9,534トン):1913年 ねん 6月 がつ 3日 にち 竣工 しゅんこう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1943年 ねん 南洋 なんよう 海運 かいうん に移籍 いせき 。1945年 ねん 1月 がつ 8日 にち 戦没 せんぼつ
静 せい 洋 よう 丸 まる (6,550トン):1913年 ねん 進水 しんすい 。1916年 ねん 購入 こうにゅう 。1925年 ねん 売却 ばいきゃく
大洋 たいよう 丸 まる (14,458トン):1911年 ねん 11月18日 にち 竣工 しゅんこう 。1921年 ねん 委託 いたく 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1942年 ねん 5月 がつ 8日 にち 戦没 せんぼつ
楽 らく 洋 よう 丸 まる (9,419トン):1921年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 竣工 しゅんこう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1943年 ねん 南洋 なんよう 海運 かいうん に移籍 いせき 。1944年 ねん 9月 がつ 12日 にち 戦没 せんぼつ (ヒ72船団 せんだん )
銀 ぎん 洋 よう 丸 まる (8,450トン):1921年 ねん 8月 がつ 14日 にち 竣工 しゅんこう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1943年 ねん 12月16日 にち 戦没 せんぼつ
墨 ぼく 洋 ひろし 丸 まる (8,604トン):1924年 ねん 10月 がつ 15日 にち 竣工 しゅんこう 。1926年 ねん 日本郵船 にっぽんゆうせん に移籍 いせき 。1939年 ねん 7月 がつ 18日 にち 事故 じこ 沈没 ちんぼつ
紀洋 のりひろ 丸 まる (9,287トン):1910年 ねん 10月 がつ 11日 にち 竣工 しゅんこう 。1921年 ねん タンカーに改造 かいぞう 。1935年 ねん 解体 かいたい
武洋 たけひろ 丸 まる (5,238トン):1907年 ねん 進水 しんすい 。1908年 ねん 購入 こうにゅう 。1910年 ねん 貨客船 かきゃくせん に改造 かいぞう 。1913年 ねん タンカーに復旧 ふっきゅう 。1917年 ねん 売却 ばいきゃく
満州 まんしゅう 丸 まる (5,248トン):1894年 ねん 進水 しんすい 。1904年 ねん 購入 こうにゅう 。1912年 ねん 売却 ばいきゃく
朝 あさ 洋 よう 丸 まる (5,455トン):1920年 ねん 5月 がつ 15日 にち 竣工 しゅんこう 。1936年 ねん 事故 じこ 沈没 ちんぼつ
香 こう 洋 よう 丸 まる (5,471トン):1920年 ねん 7月 がつ 4日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 2月 がつ 23日 にち 戦没 せんぼつ
明洋 あきひろ 丸 まる (5,435トン):1920年 ねん 9月 がつ 14日 にち 竣工 しゅんこう 。1929年 ねん 座礁 ざしょう 沈没 ちんぼつ
徳 とく 洋 よう 丸 まる (5,450トン):1920年 ねん 11月5日 にち 竣工 しゅんこう 。1921年 ねん 事故 じこ 沈没 ちんぼつ
麗 うらら 洋 よう 丸 まる (5,446トン):1920年 ねん 12月27日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 2月 がつ 17日 にち 戦没 せんぼつ (トラック島 とう 空襲 くうしゅう )
巴 ともえ 洋 ひろし 丸 まる (5,446トン):1921年 ねん 3月 がつ 3日 にち 竣工 しゅんこう 。1941年 ねん 12月21日 にち 戦没 せんぼつ
美 び 洋 よう 丸 まる (5,479トン):1921年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 竣工 しゅんこう 。1950年 ねん 売却 ばいきゃく [43]
福 ぶく 洋 よう 丸 まる (5,463トン):1921年 ねん 6月 がつ 7日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 12月7日 にち 戦没 せんぼつ
旺洋丸 まる (5,459トン):1921年 ねん 9月 がつ 23日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 10月 がつ 20日 はつか 戦没 せんぼつ
寿 ことぶき 洋 ひろし 丸 まる (5,458トン):1926年 ねん 4月 がつ 19日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 2月 がつ 17日 にち 戦没 せんぼつ
総 そう 洋 よう 丸 まる (6,801トン):1931年 ねん 1月 がつ 16日 にち 竣工 しゅんこう 。1943年 ねん 12月7日 にち 戦没 せんぼつ
良 りょう 洋 よう 丸 まる (5,974トン):1931年 ねん 1月 がつ 15日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 5月 がつ 2日 にち 戦没 せんぼつ
宇洋丸 まる (初代 しょだい )(7,504トン):1933年 ねん 10月 がつ 3日 にち 竣工 しゅんこう 。1936年 ねん 東洋 とうよう 海運 かいうん に移籍 いせき (信濃川 しなのがわ 丸 まる )。1942年 ねん 11月14日 にち 戦没 せんぼつ
日 にち 洋 よう 丸 まる (初代 しょだい )(7,509トン):1934年 ねん 3月 がつ 31日 にち 竣工 しゅんこう 。1936年 ねん 東洋 とうよう 海運 かいうん に移籍 いせき (球磨川 くまがわ 丸 まる )。1945年 ねん 1月 がつ 12日 にち 戦没 せんぼつ
月 つき 洋 よう 丸 まる (初代 しょだい )(7,509トン):1934年 ねん 6月 がつ 4日 にち 竣工 しゅんこう 。1936年 ねん 東洋 とうよう 海運 かいうん に移籍 いせき (最上川 もがみがわ 丸 まる )。1943年 ねん 7月 がつ 31日 にち 戦没 せんぼつ
天 てん 洋 よう 丸 まる (二 に 代 だい )(6,843トン):1935年 ねん 3月 がつ 28日 にち 竣工 しゅんこう 。1942年 ねん 3月 がつ 10日 とおか 戦没 せんぼつ
善洋 よしひろ 丸 まる (6,442トン):1937年 ねん 8月 がつ 16日 にち 竣工 しゅんこう 。1942年 ねん 8月 がつ 2日 にち 戦没 せんぼつ
慶 けい 洋 よう 丸 まる (6,442トン):1937年 ねん 11月18日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 6月 がつ 12日 にち 戦没 せんぼつ
千洋 ちひろ 丸 まる (2,904トン):1937年 ねん 11月 がつ 20日 はつか 竣工 しゅんこう 。1942年 ねん 8月 がつ 25日 にち 戦没 せんぼつ
萬 まん 洋 よう 丸 まる (2,904トン):1937年 ねん 12月24日 にち 竣工 しゅんこう 。1945年 ねん 3月 がつ 5日 にち 戦没 せんぼつ
億 おく 洋 よう 丸 まる (2,904トン):1938年 ねん 2月 がつ 25日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 1月 がつ 1日 にち 戦没 せんぼつ
節 ふし 洋 よう 丸 まる (4,147トン):1921年 ねん 竣工 しゅんこう 。1940年 ねん 購入 こうにゅう 。1942年 ねん 10月 がつ 4日 にち 戦没 せんぼつ
和洋 わよう 丸 まる (2,727トン):1941年 ねん 12月22日 にち 竣工 しゅんこう 。1945年 ねん 3月 がつ 11日 にち 戦没 せんぼつ
愛 あい 洋 よう 丸 まる (2,746トン):1942年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 竣工 しゅんこう 。1943年 ねん 3月 がつ 3日 にち 戦没 せんぼつ (ビスマルク海 うみ 海戦 かいせん )
睦 むつみ 洋 よう 丸 まる (2,727トン):1942年 ねん 2月 がつ 19日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 6月 がつ 12日 にち 戦没 せんぼつ
紀洋 のりひろ 丸 まる (貨客船 かきゃくせん の項 こう へ)
相 あい 洋 よう 丸 まる (4,716トン):1906年 ねん 進水 しんすい 。1908年 ねん 購入 こうにゅう 。1917年 ねん 売却 ばいきゃく
武洋 たけひろ 丸 まる (貨客船 かきゃくせん の項 こう へ)
宇洋丸 まる (二 に 代 だい )(1A型 がた )(6,376トン):1942年 ねん 6月 がつ 27日 にち 竣工 しゅんこう 。1943年 ねん 12月21日 にち 戦没 せんぼつ
日 にち 洋 よう 丸 まる (二 に 代 だい )(1A型 がた )(6,482トン):1943年 ねん 7月 がつ 18日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 12月7日 にち 戦没 せんぼつ (多 た 号 ごう 作戦 さくせん )
月 つき 洋 よう 丸 まる (二 に 代 だい )(1A型 がた )(6,441トン):1943年 ねん 8月 がつ 31日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 1月 がつ 12日 にち 戦没 せんぼつ
仁 じん 洋 よう 丸 まる (1A型 がた )(6,866トン)[49] :1943年 ねん 12月27日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 12月7日 にち 戦没 せんぼつ
玉 たま 洋 よう 丸 まる (1K型 がた )(5,397トン):1943年 ねん 12月31日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 11月12日 にち 戦没 せんぼつ
忠洋 ただひろ 丸 まる (1D型 がた )(1,941トン):1944年 ねん 2月 がつ 7日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 3月 がつ 30日 にち 戦没 せんぼつ (パラオ大 だい 空襲 くうしゅう )
修 おさむ 洋 よう 丸 まる (2A型 がた )(6,933トン)[49] :1944年 ねん 3月 がつ 31日 にち 竣工 しゅんこう 。1944年 ねん 11月23日 にち 戦没 せんぼつ
第 だい 一 いち 長崎 ながさき 丸 まる (2E型 がた )(903トン):1944年 ねん 3月 がつ 竣工 しゅんこう 。1953年 ねん 売却 ばいきゃく
博 ひろし 洋 よう 丸 まる (2D型 がた )(2,220トン):1944年 ねん 10月 がつ 6日 にち 竣工 しゅんこう 。1945年 ねん 6月 がつ 11日 にち 戦没 せんぼつ
第 だい 五 ご 長崎 ながさき 丸 まる (2E型 がた )(873トン):1944年 ねん 10月 がつ 31日 にち 竣工 しゅんこう 。1945年 ねん 9月 がつ 17日 にち 座礁 ざしょう 沈没 ちんぼつ
賢 けん 洋 よう 丸 まる (2D型 がた )(2,220トン):1944年 ねん 11月1日 にち 竣工 しゅんこう 。1945年 ねん 3月 がつ 1日 にち 戦没 せんぼつ 。戦後 せんご 引 ひ き揚 あ げ。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう [50]
第 だい 七 なな 長崎 ながさき 丸 まる (2E型 がた )(920トン):1944年 ねん 11月竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
第 だい 三 さん 長崎 ながさき 丸 まる (2E型 がた )(873トン):1944年 ねん 12月14日 にち 竣工 しゅんこう 。1945年 ねん 3月 がつ 17日 にち 座礁 ざしょう 沈没 ちんぼつ
信洋 のぶひろ 丸 まる (2A型 がた )(6,888トン)[49] :1945年 ねん 7月 がつ 6日 にち 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
扇 おうぎ 洋 ひろし 丸 まる (2,882トン):1948年 ねん 竣工 しゅんこう 。1954年 ねん 売却 ばいきゃく
民 みん 洋 よう 丸 まる (2,004トン):1948年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
文洋 ふみひろ 丸 まる (4,091トン):1949年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
昌洋 まさひろ 丸 まる (6,618トン):1951年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
富 とみ 洋 よう 丸 まる (6,629トン):1953年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
立 たて 洋 よう 丸 まる (8,406トン):1957年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
延 のべ 洋 よう 丸 まる (12,281トン):1958年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
旭洋 きょくよう 丸 まる (8,418トン):1958年 ねん 竣工 しゅんこう 。日本 にっぽん 油槽 ゆそう 船 せん に継承 けいしょう
^ 仁川 にがわ 、上海 しゃんはい 、ウラジオストック への比較的 ひかくてき 近距離 きんきょり の定期 ていき 航路 こうろ や、ハワイ 、豪州 ごうしゅう 、東南 とうなん アジア方面 ほうめん への不定期 ふていき 航路 こうろ は存在 そんざい していた(#三浦 みうら p .70)
^ 1901年 ねん 6月 がつ 16日 にち に、「亜米利加 あめりか 丸 まる 」でホノルルから日本 にっぽん に到着 とうちゃく (#三浦 みうら p .81)
^ 1900年 ねん 12月、「亜米利加 あめりか 丸 まる 」で横浜 よこはま から最低 さいてい 料金 りょうきん の乗客 じょうきゃく として渡米 とべい (#三浦 みうら p .81)
^ 日本 にっぽん で最初 さいしょ に竣工 しゅんこう した蒸気 じょうき タービン船 せん は日本 にっぽん 鉄道 てつどう がイギリスで建造 けんぞう させた青函 せいかん 連絡 れんらく 船 せん 用 もちい 「比羅夫丸 ひらふまる 」(1,480トン)であるが、天 てん 洋 よう 丸 まる 級 きゅう 貨客船 かきゃくせん の建造 けんぞう 契約 けいやく が締結 ていけつ された時点 じてん では、日本 にっぽん においてタービンに関 かん するあらゆる実績 じっせき は海軍 かいぐん 、民間 みんかん とも持 も ち合 あ わせていなかった(#三浦 みうら p .95)。
^ この事 こと あるを期 き していたかどうかは定 さだ かではないが、ボイラーは「天 てん 洋 よう 丸 まる 」と「地 ち 洋 よう 丸 まる 」は混 こん 焼 しょう 缶 かん (燃料 ねんりょう に石炭 せきたん ・重油 じゅうゆ の何 いず れも使用 しよう 可能 かのう なボイラー)を採用 さいよう しており、遅 おく れて竣工 しゅんこう した「春洋 はるみ 丸 まる 」は石炭 せきたん 専 せん 焼 しょう だった(#三浦 みうら p .104)。
アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター(公式 こうしき ) (国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん )
Ref.A03020216000『御 ご 署名 しょめい 原本 げんぽん ・明治 めいじ 二 に 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん ・法律 ほうりつ 第 だい 十 じゅう 五 ご 号 ごう ・航海 こうかい 奨励 しょうれい 法 ほう 』。
Ref.A03020216100『御 ご 署名 しょめい 原本 げんぽん ・明治 めいじ 二 に 十 じゅう 九 きゅう 年 ねん ・法律 ほうりつ 第 だい 十 じゅう 六 ろく 号 ごう ・造船 ぞうせん 奨励 しょうれい 法 ほう 』。
Ref.A04030273200『証券 しょうけん 処分 しょぶん 計画 けいかく ニ関 せき スル件 けん 』。
財団 ざいだん 法人 ほうじん 海上 かいじょう 労働 ろうどう 協会 きょうかい (編 へん )『復刻 ふっこく 版 ばん 日本 にっぽん 商船 しょうせん 隊 たい 戦時 せんじ 遭難 そうなん 史 し 』財団 ざいだん 法人 ほうじん 海上 かいじょう 労働 ろうどう 協会 きょうかい /成山 なりやま 堂 どう 書店 しょてん 、2007年 ねん (原著 げんちょ 1962年 ねん )。ISBN 978-4-425-30336-6 。
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