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大石郁雄 - Wikipedia

大石おおいし 郁雄いくお(おおいし いくお、1901ねん - 1944ねん12月4にち)は、日本にっぽん映画えいが監督かんとくアニメーション作家さっか脚本きゃくほんである[1][2][3][4][5]初期しょきには大石おおいし いく(おおいし いく)とも[2][3][5]

おおいし いくお
大石おおいし 郁雄いくお
べつ名義めいぎ 大石おおいし いく (おおいし いく)
生年月日せいねんがっぴ 1901ねん
ぼつ年月日ねんがっぴ 1944ねん12月4にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう現在げんざい東京とうきょう日本橋にほんばし
死没しぼつ 東京湾とうきょうわん近海きんかいじょう
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとくアニメーション作家さっか脚本きゃくほん
ジャンル アニメーション映画えいが線画せんが
活動かつどう期間きかん 1918ねん - 1944ねん
配偶はいぐうしゃ あり
おも作品さくひん
どう狐狸こり達引たてひき
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来歴らいれき

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1901ねん明治めいじ34ねん)、東京とうきょう東京とうきょう現在げんざい東京とうきょう日本橋にほんばしまれる[3][4][5]東京とうきょう開成かいせい中学校ちゅうがっこう[6] から黒田くろだ清輝きよてるじゅくかよい、同門どうもん横尾よこお泥海どろうみおとこ鈴木すずき重吉しげよしって漫画まんが映画えいが製作せいさく興味きょうみち、鈴木すずき所有しょゆうしていたドイツせいのウエルテルカメラを使つかって動画どうが習作しゅうさくをいくつか制作せいさくする。

1918ねん大正たいしょう7ねん)8がつ森永製菓もりながせいかが「森永もりながミルクチヨコレート」発売はつばいさいし、宣伝せんでんよう漫画まんが映画えいがうさぎかめ』を製作せいさく習作しゅうさく動画どうがうでわれ、16さいの「大石おおいしいく」がこの動画どうが制作せいさく[5]日本にっぽんはつ広告こうこくようアニメーションであるが、ほんさく現存げんそんしない[5]

これを短編たんぺん宣伝せんでん漫画まんが連作れんさく蒲田かまたむら椛谷かばたに自宅じたくをアトリエに「大石おおいし光彩こうさい映画えいが」(のち「大石おおいしいくプロダクション」と改名かいめい)を設立せつりつ市野いちの正二しょうじ前田まえだはじめらをかかえ、1920年代ねんだい松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ美術びじゅつ関係かんけいしゃからサイレント映画えいが下請したうけをもらい、カットタイトルよう字幕じまく線画せんが担当たんとう[4]。また線画せんが映画えいがや、1、2かんもののレコードとシンクロする家庭かていよう9.5mmフィルム短編たんぺん漫画まんが映画えいが制作せいさくしていた[4]伴野ともの文三郎ぶんざぶろう商店しょうてんの『證城寺しょうじょうじ狸囃子たぬきばやし』(1931ねん)や日活にっかつグラフの『あっぱれやすさん』(同年どうねん)が当時とうじ作品さくひんである[1][2]

1933ねん昭和しょうわ8ねん)12月5にちピー・シー・エル映画えいが製作所せいさくしょ創立そうりつされ、松竹しょうちく現像げんぞう技師ぎしちょうだった増谷ますたに専務せんむ取締役とりしまりやくむかえられ、増谷ますたに配下はいか西川にしかわえつ現像げんぞう技師ぎしらともども、大石おおいし市野いちのら、大石おおいしプロのアトリエスタッフをそっくりく。

同年どうねんしん会社かいしゃ「P.C.L.」で最新さいしんしき撮影さつえい機材きざい大石おおいしは、日本にっぽんはつ本格ほんかくてきオールトーキー動画どうが映画えいがどう狐狸こり達引たてひき』(かん)を制作せいさく[4]どう作品さくひん有楽町ゆうらくちょう邦楽ほうがく上映じょうえいされ評判ひょうばんとなった。この作品さくひんでは作画さくが形式けいしきおこなわれた。

1934ねん昭和しょうわ9ねん)、『ポンすけはる』(いちかん)、『カチカチ山かちかちやま』(かん)とほん短編たんぺん動画どうが映画えいが制作せいさく

1935ねん昭和しょうわ10ねん)、9月に『ありかえる』(かん)を制作せいさく。これを最後さいごにPCLは漫画まんが映画えいが制作せいさく中止ちゅうし。このころ大石おおいし配下はいかには、前述ぜんじゅつのスタッフのほかに山田やまだ耕造こうぞう横山よこやま隆一りゅういち木村きむら一郎いちろう笠原かさはら信雄のぶおらがくわわっている。

1937ねん昭和しょうわ12ねん)9がつ10日とおか、P.C.L.しゃほかすうしゃ合併がっぺいして東宝とうほう映画えいが設立せつりつ大石おおいしらのスタジオも「東宝とうほう映画えいが東京とうきょう撮影さつえいしょ」(現在げんざい東宝とうほうスタジオ)の一部いちぶとなり、大石おおいしは「漫画まんが映画えいががかり」の係長かかりちょうとなる。東宝とうほう軍事ぐんじ協力きょうりょくの「文化ぶんか映画えいが」に注力ちゅうりょくし、漫画まんがよりも線画せんが図解ずかい需要じゅようをとられ、大石おおいし仕事しごとかく省庁しょうちょう委託いたくりく海軍かいぐんすじ委託いたく教材きょうざい作品さくひんえることとなり、大石おおいし脚本きゃくほん演出えんしゅつとして活躍かつやくすることとなる。

このとし応召おうしょうし、陸軍りくぐん軍曹ぐんそうとして中国ちゅうごく戦線せんせん赴任ふにん。11月、もり岩雄いわお大石おおいし留守るすちゅうに、円谷つぶらや英二えいじ新設しんせつの「特殊とくしゅ技術ぎじゅつ」の課長かちょうむかえ、円谷つぶらや大石おおいし代理だいりとして線画せんががかり管理かんりしゃつとめることとなる。出征しゅっせいちゅう大石おおいしは、不在ふざいのまま「特殊とくしゅ技術ぎじゅつ線画せんががかり」の「漫画まんが線画せんがしつ室長しつちょう配属はいぞくされる。このとき37さい。この不在ふざい時期じき鷺巣さぎす富雄とみおうしおそうじ)が線画せんががかり入社にゅうしゃ

1939ねん昭和しょうわ14ねん)7がつ中国ちゅうごく戦線せんせんより復員ふくいん復員ふくいんだいいちかい作品さくひんとして、「教材きょうざい映画えいが」『きゅうきゅうしきけい機関きかんじゅう』を制作せいさくする。「教材きょうざい映画えいが」とは、軍事ぐんじ教練きょうれんように、あたらしい武器ぶきばくげき理論りろん線画せんが(アニメーション)で説明せつめいする映画えいがのことで、以後いご戦時せんじ協力きょうりょく体制たいせい東宝とうほうした数々かずかずの「教材きょうざい映画えいが」をがけた[7]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)、前年ぜんねん制定せいていされた「映画えいがほう」により、映画えいがじん国家こっか試験しけん適用てきようされる。これに対応たいおうした入門にゅうもんしょとして「映画えいが撮影さつえいがく読本とくほん」(うえ下巻げかん)の制作せいさくが「だい日本にっぽん映画えいが協会きょうかい」によって企画きかくされ、大石おおいし下巻げかんで「線画せんが漫画まんが映画えいが」の項目こうもく執筆しっぴつする[8]大石おおいし自身じしん項目こうもく挿絵さしえ鷺巣さぎす富雄とみお依頼いらいしている。

このとし大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんからの嘱託しょくたく命令めいれいにより、鈴鹿すずか海軍かいぐん航空こうくうたい教育きょういくのための教育きょういく映画えいが製作せいさく準備じゅんびにかかる。大石おおいし脚本きゃくほん監督かんとく担当たんとう大半たいはん線画せんがめるため、このとし9がつ大石おおいし鷺巣さぎす至急しきゅういで鈴鹿すずかせ、二人ふたり三重みえけん新地さらち旅館りょかん投宿とうしゅくし、鈴鹿すずか海軍かいぐん航空こうくうたいかよう。

航空こうくうたい大石おおいしたい空母くうぼよう水平すいへいばくげき訓練くんれん鷺巣さぎす同乗どうじょうし、照準しょうじゅん操作そうさ訓練くんれんけてこれを脚本きゃくほん完成かんせいした作品さくひん教育きょういく効果こうか目覚めざましさに注目ちゅうもくした海軍かいぐんは、東宝とうほう同種どうしゅ教材きょうざい映画えいが連作れんさくさせる。

1941ねん昭和しょうわ16ねん)、『鈴鹿すずか海軍かいぐん航空こうくうたい教材きょうざい映画えいが』、『水平すいへいばくげき理論りろんへん まえへん』、『水平すいへいばくげき理論りろんへん 実際じっさいへん』、『水平すいへいばくげき理論りろんへん 応用おうようへん』のかく4かんシリーズを完成かんせい一時いちじ帰京ききょうしたのち、ふたた海軍かいぐん命令めいれいけ、次回じかいさく準備じゅんびにかかる。この作品さくひんのため、カロリン諸島しょとうでのシナリオ・ハンティングが決定けっていする。大石おおいし製作せいさくした一連いちれん水平すいへいばくげき教材きょうざい映画えいがは、日本にっぽん海軍かいぐん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき活用かつようされた。

1942ねん昭和しょうわ17ねん)、『ハワイ・マレーおき海戦かいせん』(山本やまもと嘉次郎かじろう監督かんとく)に協力きょうりょく。こののち、次回じかいさく準備じゅんびのため南方なんぽうカロリン諸島しょとう出発しゅっぱつ

1943ねん昭和しょうわ18ねん)、きぬた撮影さつえいしょ南方なんぽう教材きょうざい映画えいが取材しゅざいのため往復おうふく

1944ねん昭和しょうわ19ねん)12月4にち軍属ぐんぞくとしてのカロリン諸島しょとうでの視察しさつ帰路きろ東京湾とうきょうわんがいべいぐん潜水せんすいかんにより乗艦じょうかん撃沈げきちんされ、同僚どうりょうみなみとともに戦死せんしした[3][4][7]享年きょうねん44(まん42さいぼつ[3])。

人物じんぶつ

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父親ちちおや日本橋にほんばし上絵うわえ陶磁器とうじきいちいたあと、特殊とくしゅえが職人しょくにん)。つまもと松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ女優じょゆうで、子供こどもはいなかった。円谷つぶらや英二えいじとはライバル関係かんけいにあった。ほかに亀井かめい文夫ふみお親交しんこうふかかった。

義兄ぎけい宮下みやした萬三まんぞう漫画まんが映画えいが制作せいさくプロダクションの親方おやかただった。東宝とうほう時代じだいはこの宮下みやした動画どうが下請したうけをさせていたが、線画せんがしつ部下ぶか鷺巣さぎす富雄とみおうしおそうじ)をこうとしたとして、のちに東宝とうほう線画せんがしつへの出入でいりを禁止きんししてしまった。

酒豪しゅごうで、いがぐりあたまロイド眼鏡ろいどめがねにちょびひげといういかつい容貌ようぼうで、線画せんががかりでは大石おおいしは「こわ頑固がんこ親父おやじ」でかよっていた。が、鷺巣さぎすたいしてはやさしかったという。脚本きゃくほん演出えんしゅつ担当たんとうした『きゅうきゅうしきけい機関きかんじゅう』は鷺巣さぎす線画せんが作画さくがしたものだが、その完成かんせい以降いこう鷺巣さぎすり、しばしば経堂きょうどう自宅じたくさそってさけりに同行どうこうさせてくれた。大石おおいし最後さいご仕事しごととなった南方なんぽう視察しさつでは、翌年よくねん現役げんえき入隊にゅうたい予定よてい鷺巣さぎすをどうしても年内ねんない海軍かいぐん入隊にゅうたいさせて同行どうこうさせたいと、わざわざ鷺巣さぎす日本にっぽん歯科しか医大いだいおくってかせ、徴兵ちょうへい忌避きひまがいの強硬きょうこう手段しゅだんまでっている。

結局けっきょく鷺巣さぎす海軍かいぐん入隊にゅうたいはかなわず、大石おおいし線画せんがしつ鷺巣さぎす後輩こうはいの、新婚しんこんみなみという青年せいねん同行どうこうした。大石おおいし東京湾とうきょうわん外洋がいようじょう戦死せんしした12月4にち鷺巣さぎす誕生たんじょうでもあり、鷺巣さぎす大石おおいしみなみ両者りょうしゃおもっていちばんきはらしたという[9]

鷺巣さぎす東宝とうほう入社にゅうしゃしたころは大石おおいし応召おうしょう最前線さいぜんせん出征しゅっせいしていて、さとりをひらいたのかいたってやさしかったというが、大石おおいし門下もんか先輩せんぱいたちおしえにやかましい大石おおいしからずいぶんなぐられたという。昭和しょうわ10ねん大石おおいしプロに内弟子うちでしりした木村きむら一郎いちろうは「なぐることはねえだろ」と反発はんぱつし、大石おおいしのもとをしている[10]

大石おおいし門下生もんかせい

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       ┏宮下みやした萬三まんぞう
大石おおいし郁雄いくお━━━┫
  ┃    ┗横山よこやま隆一りゅういち
  ┣━━━━市野いちの正二しょうじ東映動画とうえいどうが)
  ┣━━━━前田まえだはじめ朝日あさひ映画えいが)
  ┣━━━━若林わかばやし敏郎としお(プロキノ出身しゅっしん別名べつめい「わか敏郎としお」)
  ┣━━━━木村きむら一郎いちろう児童じどう漫画まんが)
  ┣━━━━山田やまだ耕造こうぞう東宝とうほう教育きょういく映画えいが)
  ┣━━━━鷺巣さぎす富雄とみお(ピー・プロダクション)
  ┗━━━━芦田あしだいわお芦田あしだ漫画まんが研究所けんきゅうじょ)
        ┣━━━━古沢ふるさわ日出夫ひでお
        ┣━━━━福田ふくださと三郎さぶろう
        ┣━━━━幕田まくたひろしただし
        ┣━━━━大工だいくはらあきら
        ┣━━━━鷺巣さぎすせいやす
        ┗━━━━きつねおか静子しずこ

フィルモグラフィ

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2012ねん平成へいせい24ねん)7がつ現在げんざい東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンターは、大石おおいしがけた作品さくひんのうち、『どう狐狸こり達引たてひき』(1933ねん)、『トーキーのはなし』(1936ねん)、『ポンすけうでくらべ』(1951ねん没後ぼつご公開こうかい作品さくひん)の上映じょうえいようプリントとう所蔵しょぞうしている[4]。『どう狐狸こり達引たてひき』は、紀伊國屋きのくにや書店しょてんが2004ねん平成へいせい16ねん)に発売はつばいしたDVDビデオグラム『日本にっぽんアートアニメーション映画えいが選集せんしゅう 4 せんまえ傑作けっさくせん』に[11]、『證城寺しょうじょうじ狸囃子たぬきばやし』はVHSビデオグラム『昭和しょうわ漫画まんが映画えいがだい行進こうしん だい3かん 漫画まんが日本にっぽん伽噺とぎばなし』および『日本にっぽんアニメクラシックコレクション だい2かん』に[12]、『ねずみ留守番るすばん』はデジタル・ミームが発売はつばいしたDVDビデオグラム『日本にっぽんアニメクラシックコレクション だい2かん』に[12]、『およげやおよ』は、おなじく『日本にっぽんアニメクラシックコレクション だい4かん』に[13]、『御存知ごぞんじ荒又あらまた仇討あだうち』はVHSビデオグラム『昭和しょうわ漫画まんが映画えいがだい行進こうしん だい2かん のらくろ伍長ごちょう』に収録しゅうろくされており[14]、いずれも現存げんそんする。すべてパブリックドメインである。

 
どう狐狸こり達引たてひき』(1933ねん)。

文化庁ぶんかちょう日本にっぽん映画えいが情報じょうほうシステム」、および日本にっぽん映画えいがデータベースインターネット・ムービー・データベース掲載けいさいされている作品さくひん一覧いちらんである[1][2][3]

漫画まんが映画えいが
教材きょうざい映画えいが
以下いかの「教材きょうざい映画えいが」は、りく海軍かいぐんへい教育きょういくのために制作せいさくされ、ぐん内部ないぶでのみ上映じょうえいされたもので、軍事ぐんじ機密きみつとして一般いっぱん公開こうかいはされていない。またフィルムは敗戦はいせん焼却しょうきゃく処分しょぶんされた。大石おおいし脚本きゃくほん演出えんしゅつ担当たんとうし、コンテ作成さくせい作画さくが鷺巣さぎす富雄とみおによる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 大石おおいし郁雄いくお日本にっぽん映画えいが情報じょうほうシステム、文化庁ぶんかちょう、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  2. ^ a b c d 大石おおいし郁雄いくお日本にっぽん映画えいがデータベース、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f Ikuo Oishiインターネット・ムービー・データベース 英語えいご、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e f g h i j 日本にっぽんアニメーション映画えいが東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  5. ^ a b c d e 津堅つけん、p.137.
  6. ^ 正則せいそく中学校ちゅうがっこうとの表記ひょうきもあり
  7. ^ a b だいよんかん 解説かいせつ佐藤さとう忠男ただお、デジタル・ミーム、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  8. ^ 映画えいが撮影さつえいがく読本とくほん 下巻げかん」は1941ねん昭和しょうわ16ねん)2がつ15にち発行はっこうされた
  9. ^ ここまで『ゆめ大空おおぞらけめぐる~恩師おんし円谷つぶらや英二えいじでん』(うしおそうじしる角川書店かどかわしょてん)から
  10. ^ 手塚てづか治虫おさむとボク』(うしおそうじちょくさおもえしゃ
  11. ^ 日本にっぽんアートアニメーション映画えいが選集せんしゅう 4 せんまえ傑作けっさくせん武蔵野美術大学むさしのびじゅつだいがく、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  12. ^ a b 日本にっぽんアニメクラシックコレクション だい2かん、デジタル・ミーム、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  13. ^ 日本にっぽんアニメクラシックコレクション だい4かん、デジタル・ミーム、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  14. ^ 昭和しょうわ漫画まんが映画えいがだい行進こうしん だい2かん のらくろ伍長ごちょう武蔵野美術大学むさしのびじゅつだいがく、2012ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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