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太陽ケア - Wikipedia

太陽たいようケア(たいようケア、1975ねん11月18にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくハワイしゅうホノルル出身しゅっしんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく男性だんせいプロレスラー本名ほんみょうきゅうリングネーム:マウナケア・モスマンMaunakea Mossman)。

太陽たいようケア
太陽ケアの画像
プロフィール
リングネーム 太陽たいようケア
マウナケア・モスマン
本名ほんみょう マウナケア・モスマン
ニックネーム 王道おうどう活火山かっかざん
みんなの太陽たいよう
Mr.H5O
最後さいご王道おうどう
身長しんちょう 185cm
体重たいじゅう 108kg
誕生たんじょう (1975-11-18) 1975ねん11月18にち(48さい
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ハワイしゅうホノルル
所属しょぞく 王道おうどう
スポーツれき レスリング
空手からて
アメリカンフットボール
トレーナー ジャイアント馬場ばば
小川おがわ良成よしなり
武藤むとうたかし
小橋こはし健太けんた
デビュー 1994ねん11月26にち
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来歴らいれき

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ジュニアヘビーきゅう時代じだい

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高校こうこう時代じだいレスリングアメリカンフットボール活躍かつやく

1994ねん6がつ、ハワイ在住ざいじゅうロード・ブレアーズ当時とうじPWF会長かいちょう)をかいし、ハワイをおとずれていたジャイアント馬場ばば直訴じきそし、全日本ぜんにほんプロレス入門にゅうもんした。1994ねん11月26にち、マウナケア・モスマンの本名ほんみょうで、三重みえ体育館たいいくかんでの志賀しが賢太郎けんたろうせんでデビューした。シングルはつ勝利しょうりは1995ねん1がつ24にち志賀しかせんであった。

1996ねん7がつ7にちにはロブ・ヴァン・ダムみ、アジアタッグ王座おうざはつ挑戦ちょうせんした。

1997ねん8がつ22にちには後楽園こうらくえんホール世界せかいジュニアヘビーきゅう王座おうざはつ挑戦ちょうせん小川おがわ良成よしなりやぶはつ戴冠たいかんたした。

ヘビーきゅう転向てんこう - 「太陽たいようケア」に改名かいめい

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1998ねん6がつにヘビーきゅう転向てんこう目指めざすため、王座おうざ返上へんじょうした。

8がつ22にちからはじまった恒例こうれい試練しれんななばん勝負しょうぶではプロレス四天王してんのうには勝利しょうりできなかったものの、ウルフ・ホークフィールドジャイアント・キマラジョニー・スミスには勝利しょうりし、3しょう4はい好成績こうせいせきのこす。だが、この時期じきマッチメイクけんにしていた三沢みさわ光晴みつはるに「からだはブヨブヨで、オフになると道場どうじょうのこらずにハワイにかえってしまう」と酷評こくひょうされ、そのためかトップクラスにはほとんどからめない時期じきつづいた。

2000ねんになると、バーニングだい1)を離脱りだつした秋山あきやまじゅんにタッグパートナーとして指名しめいされチームを結成けっせい秋山あきやまぐん)、飛躍ひやくのきっかけをつかむがすうヶ月かげつ選手せんしゅ大量たいりょう離脱りだつ発生はっせい。モスマンは全日本ぜんにほんプロレスに残留ざんりゅうしたが、ほかの秋山あきやまぐんメンバーは離脱りだつした。8がつ20日はつかには公募こうぼによりリングネームを本名ほんみょうの「マウナケア・モスマン」から現在げんざいの「太陽たいようケア」に変更へんこうする。

2001ねん1がつ14にち、スミスとんで川田かわた利明としあき&ふち正信まさのぶくみ世界せかいタッグ王座おうざ決定けっていせんおこない、これに勝利しょうりしてだい43だい王者おうじゃとなった。

武藤むとうたかしとの出会であ

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1がつ28にち東京とうきょうドームおこなわれたジャイアント馬場ばばさん回忌かいき追悼ついとう興行こうぎょう武藤むとうたかし頭髪とうはつをかけてはつ対決たいけつおこなう。やぶれはしたものの、おたがいにみとった両者りょうしゃは2がつ18にち両国りょうこくBATT結成けっせいした。

3月3にちには、史上しじょう最年少さいねんしょう天龍てんりゅう源一郎げんいちろうさんかんヘビーきゅう王座おうざはつ挑戦ちょうせんしたがやぶれた。

10月22にち武藤むとうとのタッグで世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅ、10月28にち福岡ふくおか国際こくさいセンターでおこなわれたはつIWGPタッグ王座おうざとのダブルタイトルせん藤波ふじなみたつなんじ&西村にしむらおさむくみ勝利しょうりし、史上しじょうはつ同時どうじ戴冠たいかんタッグとなる。また、年末ねんまつ恒例こうれい世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんでも優勝ゆうしょうした。

2002ねんには小島こじまさとしとタッグをみ、世界せかい最強さいきょうタッグ個人こじん2連覇れんぱ達成たっせいするもののみぎひざぜん十字じゅうじ靭帯じんたいだんきれ重傷じゅうしょうい、長期ちょうき欠場けつじょう余儀よぎなくされた。

RO&D、みんなの太陽たいようから暗黒あんこく太陽たいよう

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2004ねん1がつ2にち復帰ふっき。このときTAKAみちのくからの勧誘かんゆうけ、外国がいこくじん軍団ぐんだんRO&D参加さんかする。ケアもヒールとなり、「みんなの太陽たいよう」から「暗黒あんこく太陽たいよう」とばれるようになった。

7がつ10日とおかプロレスリング・ノア東京とうきょうドーム大会たいかい武藤むとうんで参戦さんせんし、三沢みさわ&小川おがわぐみ対戦たいせんした。ケアはフォールをうばわれたものの、三沢みさわ武藤むとうはつ対戦たいせんばかりが注目ちゅうもくされるなか健闘けんとうぶりをせた。かつてケアを酷評こくひょうした三沢みさわも、そのレベルアップぶりをみとめた。

2005ねん1がつ16にち大阪おおさか府立ふりつ体育たいいく会館かいかんジャマールんで棚橋たなはしひろしいたり&吉江よしえゆたかくみ世界せかいタッグ王座おうざ決定けっていせんおこな勝利しょうりし、だい51だい王者おうじゃとなった。

2がつ5にち日本武道館にほんぶどうかんおこなわれたジャイアント馬場ばばなな回忌かいき追悼ついとう興行こうぎょうでは、馬場ばば敬意けいいあらわしてリングネームを本名ほんみょうの「マウナケア・モスマン」にもどした。

悲願ひがんのCC制覇せいはさんかん王座おうざ奪取だっしゅ

編集へんしゅう

2006ねんチャンピオン・カーニバル2006にて諏訪すわやぶり、悲願ひがんはつ優勝ゆうしょう

そのいきおいのまま7がつ3にち大田おおた体育館たいいくかん小島こじまくださんかんヘビーきゅう王座おうざだい34だい王者おうじゃとなる。なお、外国がいこくじん選手せんしゅとしては史上しじょう5にんさんかん王座おうざ栄冠えいかんとなった。試合しあい、ケアは川田かわただいいち挑戦ちょうせんしゃ指名しめいし、「川田かわたさん、おれ王道おうどうだ!」とみずか宣言せんげんした。

8がつ27にち両国りょうこく国技こくぎかんはじめての川田かわたちょうえを達成たっせいしてはつ防衛ぼうえい成功せいこうする。試合しあい川田かわたから「王道おうどうがどうのこうのってるけど王道おうどうかたれるのは馬場ばばさんだけだ。おれ一緒いっしょでおまえなりの王道おうどうをリングできざんでいけ。たのんだぞ。」とこえをかけられた。

9月3にち札幌さっぽろメディアパーク・スピカでCCでは勝利しょうりした鈴木すずきみのるとの防衛ぼうえいせんいどむもやぶ王座おうざから陥落かんらくした。

低迷ていめい - GURENTAI結成けっせい

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2007ねん1がつ4にち、ケアは東京とうきょうドームのレッスルキングダムにて全日本ぜんにほんプロレス代表だいひょうとしてしん日本にっぽんプロレスの棚橋たなはし保持ほじするIWGPヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんしたが、やぶれた。

2がつ17にち両国りょうこく大会たいかいにおいて川田かわた世界せかいタッグ王座おうざ奪取だっしゅ

7がつ29にち金沢かなざわ大会たいかい小島こじま椅子いす攻撃こうげきらい、2112じょう顎骨がっこつ歯槽しそうこつ骨折こっせつ上唇うわくちびる裂傷れっしょう、11脱臼だっきゅう全治ぜんち1かげつ重傷じゅうしょうった。

8がつ26にち両国りょうこく大会たいかい川田かわたとのタッグで小島こじま&TARU世界せかいタッグ王座おうざせん強行きょうこう出場しゅつじょうするも敗北はいぼく

2008ねん3がつ1にち両国りょうこく大会たいかい川田かわたとのタッグで武藤むとう&棚橋たなはしぐみ対戦たいせんするも敗北はいぼく。この試合しあいくび負傷ふしょう

3月12にち後楽園こうらくえん大会たいかいジョー・ドーリングんで小島こじま&TARUぐみ対戦たいせんしたが、この試合しあいふたたくび強打きょうだしてしまいやぶれた。試合しあい、TARUがケアにたいしてVOODOO-MURDERSりへの勧誘かんゆうをするが、これをかたくなに拒否きょひした。

チャンピオン・カーニバル2008では全敗ぜんぱいし、ケアはTARUから再三さいさんVMへの勧誘かんゆうけていたが、4がつ20日はつか開幕かいまくせんこたえをすと発言はつげんした。試合しあいでは得意とくいのTKO34thでブードゥーマスクをくだしたが、試合しあい武藤むとうとの握手あくしゅ拒否きょひした。その、TARUがあゆったがそれも拒否きょひ突然とつぜんてきた鈴木すずき東京とうきょう愚連隊ぐれんたいとの共闘きょうとう選択せんたくし、GURENTAI結成けっせいした。テーマきょくボニー・タイラーの「Holding Out for a Hero」に変更へんこうした(ただしいままでの「T・K・O」のテーマも併用へいようしている)。このテーマきょく変更へんこうしたことについておなじGURENTAIの鈴木すずきは、「ほら、ケアのやるがテーマきょくにもあらわれているだろ!」と感想かんそうべ、そのGURENTAIの鈴木すずき高山たかやまよしひろのテーマきょくも「Holding Out for a Hero」をバックにして、それぞれのテーマきょくふし鈴木すずき場合ばあいふうになれー」高山たかやま場合ばあい「アーッ(掛声かけごえ)」)を所々ところどころれるしんアレンジのテーマきょく登場とうじょうした。

それからなみり、鈴木すずきとも武藤むとう、ドーリングの世界せかいタッグ王座おうざへの挑戦ちょうせん表明ひょうめい、その査定さてい試合しあいとしてもとアジアタッグ王者おうじゃ佐々木ささき健介けんすけ中嶋なかじま勝彦かつひこ親子おやこタッグと激突げきとつし、これに勝利しょうり世界せかいタッグ王座おうざ挑戦ちょうせん決定けっていした。

そして6がつ28にち王者おうじゃぐみくだして見事みごと自身じしん6度目どめ世界せかいタッグ王者おうじゃ君臨くんりんした。

超党派ちょうとうはぐん

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2008ねん8がつ当時とうじ諏訪すわ保持ほじしていたさんかんヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんするも、60ふん時間切じかんぎけで王座おうざ獲得かくとくならなかった。そのも、鈴木すずきとのタッグで着実ちゃくじつ世界せかいタッグ王座おうざ防衛ぼうえいつづけていた。2009ねん7がつ5にち武藤むとう&河野こうの真幸まさきとの防衛ぼうえいせん勝利しょうりするも、ひだりがつじょうこつがわ脱臼だっきゅうおよあいだ靭帯じんたいだんきれにより休場きゅうじょうとなった。およそ半年はんとし最強さいきょうタッグで復帰ふっきするが、優勝ゆうしょうのが翌年よくねんの2010ねんでも武藤むとう&船木ふなきまことかちやぶ王座おうざ手放てばなすことになる。

そのは、鈴木すずきが2010ねんチャンピオン・カーニバルを連覇れんぱしたことによりGURENTAIが解散かいさんして、ケアも本隊ほんたいへともどって活動かつどうしていたがはま亮太りょうたくだしてさんかんヘビーきゅう王者おうじゃかえいた鈴木すずきびかけにより船木ふなきあけぼのらと超党派ちょうとうはぐん結成けっせいした。7月4にちあけぼのとのハワイアンタッグで世界せかいタッグ王座おうざ戴冠たいかんする。

2011ねん10がつ23にち秋山あきやまじゅん諏訪すわからさんかんヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅする。ケアは王座おうざ奪回だっかい最初さいしょ名乗なのりをあげ、2011ねん11月27にちのノアの有明ありあけコロシアム大会たいかいにて挑戦ちょうせんするがスタンディングでのフロントネックロックにやぶれ、王座おうざ奪取だっしゅ失敗しっぱいした。

2012ねんからは若手わかて専任せんにんコーチに就任しゅうにんカズ・ハヤシとともに団体だんたい若手わかて選手せんしゅ育成いくせいにもあたることになった[1]

2012ねん4がつ21にちから5がつ7にちにかけておこなわれたチャンピオン・カーニバルでは、Bブロックにはいる。真田さなだきよしやぶれ、岡林おかばやし裕二ゆうじだい日本にっぽんプロレス)にけるも、2決勝けっしょうトーナメントに進出しんしゅつ準決勝じゅんけっしょうではしん日本にっぽんプロレスの永田ながた裕志ひろし対戦たいせんし、後頭部こうとうぶへのりからのスクールボーイまるんで決勝けっしょうすすんだ。そして決勝けっしょうでは序盤じょばん諏訪すわいためているくび集中しゅうちゅうてきめ、中盤ちゅうばんからは終盤しゅうばんにかけての諏訪すわたたみかけをしのぎり、最後さいごはつ公開こうかいタイガードライバー'91口火くちびぎゃくたたけ、最後さいごにTKOをめて6ねんりに優勝ゆうしょうめた。

スポット参戦さんせん

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2013ねん1がつ3にち後楽園こうらくえん大会たいかい最後さいごに、ハワイ大学はわいだいがく経営けいえいがくまなぶためにケアの長期ちょうき休業きゅうぎょう発表はっぴょうされた。2013ねん1がつ2にち、1がつ3にち新春しんしゅんシャイニングシリーズでは壮行そうこう試合しあいおこなわれ、2にちにはGURENTAI、3にちにはRO&Dがそれぞれ1にち限定げんてい復活ふっかつした。

その同年どうねん6がつ全日本ぜんにほんプロレスの選手せんしゅ大量たいりょう離脱りだつしたため長期ちょうき休業きゅうぎょう変更へんこうし、学業がくぎょうのスケジュールや体調たいちょうめん調整ちょうせいしながらスポット参戦さんせんをすることとなった。

2014ねん3がつ2にちWRESTLE-1両国りょうこく大会たいかい武藤むとうのパートナーXとして登場とうじょうした。同年どうねん6がつよりWRESTLE-1 TOUR 2014 To The IMPACTと両国りょうこく大会たいかい参戦さんせん決定けっていした。

2015ねん1がつ31にちおこなわれたジャイアント馬場ばばじゅうなな回忌かいき追善ついぜん興行こうぎょうでは、ふたた全日本ぜんにほんプロレスに参加さんかしている[2]

2016ねん4がつ20日はつか、ケアはあけぼのげた「王道おうどう」に正式せいしき所属しょぞく旗揚はたあせん参加さんかする[3]

2017ねん10がつ9にち全日本ぜんにほんプロレス後楽園こうらくえんホール大会たいかい参戦さんせん同年どうねん世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんにドーリングとのチームで参戦さんせん発表はっぴょうされた。

2023ねん6がつ15にち全日本ぜんにほんプロレス後楽園こうらくえんホール大会たいかいおよび6がつ17にち大田おおた体育館たいいくかん大会たいかい参戦さんせん

人物じんぶつ

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  • 高校こうこう時代じだいに2ねん連続れんぞくでレスリングのハワイしゅう王者おうじゃになったほか少年しょうねん時代じだい空手からて、ボクシングを経験けいけんしている。趣味しゅみでは、柔術じゅうじゅつならっている。(むらさきたい取得しゅとく
  • ジャイアント馬場ばば非常ひじょう尊敬そんけいしている。大量たいりょう離脱りだつ全日本ぜんにほんプロレスにのこるかかの決断けつだんは、離脱りだつするメンバーも残留ざんりゅうするメンバーも仲間なかまであると非常ひじょうなやんだが、馬場ばばのおかげでいま自分じぶんがあるとして残留ざんりゅうするみちえらんだ。先輩せんぱい秋山あきやま馬場ばばから帝王ていおうがくまなんだが、ケアは「だれとでも試合しあい出来できるようになれ」とのおしえをけたことから研究けんきゅうかさね、ケアは相手あいてがどんなスタイルでも対応たいおう出来できることをほこりにしている。
  • 2006ねんのチャンピオン・カーニバルはつ優勝ゆうしょうには、大量たいりょう離脱りだつにともに苦難くなんえてきたふち正信まさのぶってよろこびを爆発ばくはつさせた。さんかん奪取だっしゅにはRO&Dのメンバー全員ぜんいん歓喜かんき爆発ばくはつさせ、TAKAはケアの姿すがたなみだながしていた。
  • かつて、ケアのコーチだったげんノア小川おがわとは、いまだに連絡れんらくうほど大変たいへんなかい。
  • 22さい世界せかいジュニア王座おうざ、26さい世界せかいタッグ王者おうじゃとどちらも史上しじょう最年少さいねんしょう当時とうじ)でかがやいた。
  • 7戴冠たいかんした世界せかいタッグ王座おうざ、3制覇せいはした世界せかい最強さいきょうタッグ決定けっていリーグせんはいずれもすべてタッグパートナーがことなる。

得意とくいわざ

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独特どくとくあいだ緩急かんきゅうをつけたキレのあるうごきが特徴とくちょうである。ヘビーきゅう転向てんこうしてからは、ジュニア時代じだいから得意とくいとしていたするどりや華麗かれいわざくわえて力強ちからづよさやエグさをそなえるわざ使用しようした。

フィニッシュ・ホールド

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TKO太陽たいよう・ケア・オリジナル)
ファイヤーマンズキャリー体勢たいせいかついだ相手あいてあし自分じぶんまえ、もしくはよこサイドにみちのくドライバーIIのようにひらけあしジャンプした自身じしんまたあいだとしていく。ハリケーンドライバーとほぼ同型どうけい以前いぜんはケアのメインのフィニッシュムーブだったが、後述こうじゅつのTKO34thの開発かいはつにより使用しよう回数かいすうがややった。
TKO34th太陽たいよう・ケア・オリジナル・サーティーフォース)
2006ねん川田かわたとのさんかんヘビーきゅう王座おうざ防衛ぼうえいせんけてTKOを発展はってんさせたわざ。34thの名称めいしょう開発かいはつ、ケアが34だいさんかん王者おうじゃであったことに由来ゆらい
ファイヤーマンズキャリー体勢たいせい相手あいてかたかついだ相手あいてあしげ、相手あいてあたまかかみながらエメラルド・フロウジョンのようによこサイドにとしていく。現在げんざいのところ、ケアのさい上位じょういフィニッシュムーブ
ハワイアン・スマッシャー
ファイヤーマンズキャリー体勢たいせい相手あいてかつげ、その状態じょうたいからダイヤモンド・カッターめるわざマーク・メロのTKO(ただし、ケアが使用しようする同名どうめいわざとは形式けいしきことなる。)と同型どうけい若手わかて時代じだいから愛用あいようしているフィニッシュムーブだったものの、2000年代ねんだい中盤ちゅうばん以降いこう若手わかて以外いがい対戦たいせんではほとんどピンフォールれない。まえハワイアン・クラッシャーという名前なまえだったが、ケアがインタビューでその名称めいしょうあやま使用しようであることを指摘してきした。開発かいはつ当初とうしょ相手あいてとすときにスタナーかたちめていたが、骶骨を骨折こっせつしたことがあり、徐々じょじょにダイヤモンド・カッターのかたち変更へんこうされていった。
H5O(ハワイアン・ファイブ・アウト)
相手あいてアルゼンチン・バックブリーカー体勢たいせいかつげた状態じょうたいからダイヤモンド・カッターける。リバースしきのハワイアン・スマッシャー。さんかんヘビーきゅう王座おうざになったわざ中西なかにしまなぶのヘラクレス・カッターとほぼおながたで、公開こうかい時期じきもほぼおなじである。
波乗なみのりスープレックス
コブラクラッチをかけた状態じょうたいから真後まうしろにげるスープレックスわざジョニー・エースのコブラクラッチ・スープレックスとおなわざで、エースからいだ。
波乗なみのとし
コブラクラッチしき河津かわづとし。いわゆるミリオンダラー・バスター。
相手あいて上半身じょうはんしんコブラクラッチらえたあとに相手あいて左足ひだりあし右足みぎあしけ、相手あいてもろともうしろにたおんで相手あいて後頭部こうとうぶをマットにける。

わざ

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シットダウン・パワーボム
相手あいてげてからすこしタメをつくってとす。だい34だいさんかんヘビーきゅう王者おうじゃ時代じだい川田かわたとの防衛ぼうえいせんでは、ジャンプしない通常つうじょうがたのパワーボムをしパワーボムを得意とくいとする川田かわたから勝利しょうりした。
タイガードライバー'91
2012ねんチャンピオン・カーニバル決勝けっしょうせんにて、諏訪すわいきおいをめるためにした。以後いごたたけるときに使用しようする。
ひらきあししきタイガードライバー'91
2004ねんプロレスリング・ノア東京とうきょうドーム大会たいかいで、GHCタッグ王座おうざ挑戦ちょうせんする武藤むとうのパートナーをめるあらしとのシングルせんのフィニッシュわざとしてはつ公開こうかい。GHCタッグ王者おうじゃ三沢みさわ光晴みつはる意識いしきしたわざで、三沢みさわ秘密ひみつ兵器へいきてきわざ・タイガードライバー'91をアレンジしたもの。通常つうじょうのタイガードライバー'91は着地ちゃくちするときは正座せいざのようにりょうひざげて着地ちゃくちするが、両足りょうあし前方ぜんぽうひらけあししてひろげ、尻餅しりもちくように着地ちゃくちする態勢たいせいした。
ハリケーン・スパイク
いきおいよく相手あいてびついてからめるスウィングしきDDT若手わかて時代じだいのケアのフィニッシュムーブ。
ハリケーンクランチ
バックドロップ体勢たいせい相手あいてかつげ、相手あいてからだはなすと同時どうじ自分じぶんからだ反転はんてんさせながら相手あいてどう片腕かたうでかかんでそのままマットへたおれこみ、相手あいて背面はいめんからマットへたたける。ケアのオリジナルわざであるが、2010ねん以降いこうほとん使用しようしていない。
垂直すいちょく落下らっかしきブレーンバスター
頭部とうぶからとすかたちのブレーンバスター。
フランケンシュタイナー
ジャンプし、相手あいてあたまあしはさいちかいころがまるわざ。このほかにも雪崩なだれしき仕様しようする。RO&D時代じだいでは、雪崩なだれしきさいにR・O・D・ブイヤーとさけんでからはなった。
タイガー・スクリュー
うでへのドラゴンスクリュー。
河津かわづとし
ケアのでもある馬場ばば得意とくいわざで、ケアも馬場ばば意識いしきして使用しようしている。中盤ちゅうばんつなわざとしての使用しようおおい。

打撃だげきわざ

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ランニング・ニー・バット
RO&D加入かにゅう初期しょきのケアのフィニッシュムーブ。ニー・ブレス(怪我けがしたひざ防護ぼうごするための防具ぼうぐ)をけたひざ相手あいて顔面がんめんむ。ニー・プレスには細工ざいくをしていたともわれていた。
サンケアキック
ひだりミドルキック→みぎローキック→延髄えんずいへのひだりジャンピングヒールキックからなるコンビネーションキック。相手あいてを3ることから、数字すうじの3と太陽たいよう(SUN)ケアをけて命名めいめいした。
ゼロせんキック
若手わかて時代じだいのケアの得意とくいわざ
ラリアット
ケアのラリアットは、相手あいて対角線たいかくせんっておいての串刺くしざしジャンピング・エルボーからながれるようにロープにはし仕掛しかけるムーブが特徴とくちょうてき尻餅しりもち状態じょうたい相手あいてにロープの反動はんどう利用りようしてびせたおすようにはなったこともある。
各種かくしゅキック

さえわざ・サブミッションなど

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スクールボーイ(よこしきエビかため)
ケアのまるわざのひとつ。ケアはこのわざ佐々木ささき健介けんすけ勝利しょうりしたこともある。
カーフ・クラッシャー
変形へんけい回転かいてんあし4のがため。
ジャイアント・バックブリーカー
スタンディングでコブラクラッチめた状態じょうたいでそのまま片足かたあしちの状態じょうたいになり、自分じぶんてたひざ相手あいて背中せなかててコブラクラッチと同時どうじ背骨せぼねりをめるわざ。ケアのでもある馬場ばばわざで、ケアも馬場ばば意識いしきして使用しようしている。中盤ちゅうばんつなわざとしての使用しようおおい。

タイトルれき

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全日本ぜんにほんプロレス
しん日本にっぽんプロレス
武藤むとうたかししん日本にっぽんプロレス退団たいだんにより返上へんじょう
HCW
  • HCWケカウリキ・タッグ王座おうざ(パートナーはジャマール)
プロレス大賞たいしょう
2008年度ねんどプロレス大賞たいしょう 最優秀さいゆうしゅうタッグチームしょう鈴木すずきみのるとのタッグ)

入場にゅうじょうテーマきょく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 太陽たいようケア、若手わかてコーチやく就任しゅうにん太陽たいようケア、カズ・ハヤシ会見かいけん, 全日本ぜんにほんプロレス(2012ねん1がつ16にち), 最終さいしゅう閲覧えつらん:2012ねん5がつ10日とおか
  2. ^ 馬場ばばさんじゅうなな回忌かいきあかるくたのしくはげしく”. 日刊にっかんスポーツ (2015ねん2がつ1にち). 2015ねん2がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ あけぼのが4・20後楽園こうらくえんで『王道おうどう旗揚はたあげを発表はっぴょう太陽たいようケアも正式せいしき所属しょぞく!「むかしのプロレスのファンのためにも頑張がんばっていきたい」”. バトル・ニュース (2016ねん3がつ1にち). 2017ねん10がつ19にち閲覧えつらん