幼少 ようしょう の馬場 ばば とその家族 かぞく (1943年 ねん より前 まえ )
1938年 ねん 1月 がつ 23日 にち (日曜日 にちようび )、新潟 にいがた 県 けん 三条 さんじょう 市 し に八百屋 やおや を営 いとな む父 ちち ・馬場 ばば 一雄 かずお 、母 はは ・ミツの間 あいだ に次男 じなん として生 う まれる。四日 よっか 町 まち 国民 こくみん 学校 がっこう (卒業 そつぎょう 時 じ には三条 さんじょう 市立 しりつ 四 よん 日 にち 町 まち 小学校 しょうがっこう )に入学 にゅうがく 後 ご 、野球 やきゅう を始 はじ める。入学 にゅうがく までは体格 たいかく は小 ちい さいほうで、入学 にゅうがく 時 じ の集合 しゅうごう 写真 しゃしん でも一番 いちばん 小 ちい さい児童 じどう のグループに収 おさ まっていたが、3年生 ねんせい 頃 ごろ から急速 きゅうそく に大 おお きくなりはじめ、4・5年生 ねんせい の頃 ころ には既 すで に身長 しんちょう が175cmほどあり[ 1] 、地元 じもと の少年 しょうねん 野球 やきゅう 団 だん 「若鮎 わかあゆ クラブ」ではエースを務 つと めた。三条 さんじょう 市立 しりつ 第 だい 一 いち 中学校 ちゅうがっこう 時代 じだい には中越 なかごえ 地区 ちく 大会 たいかい で優勝 ゆうしょう している。
1953年 ねん 、三条 さんじょう 実業 じつぎょう 高校 こうこう 機械 きかい 科 か (三条 さんじょう 実業 じつぎょう 高校 こうこう は1963年 ねん に商業 しょうぎょう 科 か が三条 さんじょう 商業 しょうぎょう 高校 こうこう に、機械 きかい 科 か が三条 さんじょう 工業 こうぎょう 高校 こうこう となった後 のち 、現在 げんざい は新潟 にいがた 県 けん 央 ひさし 工業 こうぎょう 高校 こうこう )入学 にゅうがく 後 ご 、身長 しんちょう はさらに伸 の び、190cmにもなっていた[ 1] 。この頃 ころ は足 あし も尋常 じんじょう でない大 おお きさになり、自分 じぶん に合 あ うスパイクがないという理由 りゆう で、当初 とうしょ は硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ 入部 にゅうぶ を断念 だんねん し、一旦 いったん 、美術 びじゅつ 部 ぶ に入部 にゅうぶ した。その後 ご 、特注 とくちゅう のスパイクを与 あた えられ、念願 ねんがん の硬式 こうしき 野球 やきゅう 部 ぶ に入部 にゅうぶ 。練習 れんしゅう 試合 しあい で18奪 だつ 三振 さんしん を記録 きろく するなどエースとしての活躍 かつやく はめざましく、1954年 ねん 、高校 こうこう 2年 ねん のときには新潟 にいがた 日報 にっぽう で「巨漢 きょかん 馬場 ばば 投手 とうしゅ を擁 よう する三条 さんじょう 実業 じつぎょう 高校 こうこう 」と報 ほう じられ優勝 ゆうしょう 候補 こうほ の一角 いっかく と目 め される存在 そんざい になっていたが、予選 よせん であえなく敗退 はいたい し甲子園 こうしえん 出場 しゅつじょう は叶 かな わなかった。
この頃 ころ 、バッテリーを組 く んでいた捕手 ほしゅ の誘 さそ いでプロ野球 やきゅう 球団 きゅうだん ・トンボユニオンズ の入団 にゅうだん テストを受 う ける話 はなし が進 すす んでいたが、読売 よみうり ジャイアンツ のスカウト・源川 みなかわ 英治 えいじ に誘 さそ われ、高校 こうこう を2年 ねん 次 じ で中退 ちゅうたい し、10月13日 にち 巨人 きょじん に投手 とうしゅ として入団 にゅうだん する。背番号 せばんごう は59。同期 どうき 入団 にゅうだん に巨人 きょじん のV9時代 じだい を支 ささ えた主力 しゅりょく 選手 せんしゅ となる森 もり 祇晶 ぎしょう 、国松 くにまつ 彰 あきら などがいた。なお、身長 しんちょう 200cmに達 たっ する日本人 にっぽんじん プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ は2021年 ねん に秋広 あきひろ 優 ゆう 人 じん ・阿部 あべ 剣 けん 友 とも が巨人軍 きょじんぐん 入 い りするまでは馬場 ばば が唯一 ゆいいつ であった。
馬場 ばば 自身 じしん は新潟 にいがた 県 けん 第 だい 1号 ごう のプロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ と誤認 ごにん していた[ 注釈 ちゅうしゃく 4] 。監督 かんとく 水原 みずはら 茂 しげる の「若手 わかて は二 に 軍 ぐん でスタートし、基礎 きそ 作 づく り」という方針 ほうしん のため、二 に 軍 ぐん での基礎 きそ 練習 れんしゅう を行 おこな っていたが、2年 ねん 目 め となる1956年 ねん には二 に 軍 ぐん で12勝 しょう 1敗 はい 、翌 よく 1957年 ねん に13勝 しょう 2敗 はい の成績 せいせき を収 おさ め、2年 ねん 連続 れんぞく 二 に 軍 ぐん の最優秀 さいゆうしゅう 投手 とうしゅ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した[ 2] 。
1956年 ねん 末 まつ 、視力 しりょく の急激 きゅうげき な低下 ていか に見舞 みま われる。診察 しんさつ の結果 けっか 、「脳腫瘍 のうしゅよう 」(下垂 かすい 体 たい 腺腫 せんしゅ により視神経 ししんけい 圧迫 あっぱく )と判断 はんだん され[ 2] 、同年 どうねん 12月 がつ 22日 にち に東京大学 とうきょうだいがく 医学部 いがくぶ 附属 ふぞく 病院 びょういん で開 ひらき 頭 あたま 手術 しゅじゅつ を受 う けた[ 3] 。当時 とうじ の技術 ぎじゅつ では成功 せいこう 率 りつ が非常 ひじょう に低 ひく く、医師 いし から「失明 しつめい する可能 かのう 性 せい が高 たか いので、目 め が見 み えているうちにマッサージ師 し の勉強 べんきょう をしておきなさい」と勧 すす められたほどだったが、手術 しゅじゅつ は無事 ぶじ 成功 せいこう 。1週間 しゅうかん で退院 たいいん し、翌月 よくげつ には頭 あたま に包帯 ほうたい を巻 ま いたままキャンプ に復帰 ふっき した。
1957年 ねん 8月 がつ に一軍 いちぐん 昇格 しょうかく 、8月 がつ 25日 にち の阪神 はんしん 戦 せん で初 はつ の一軍 いちぐん マウンドに立 た つ(9回 かい 1イニングを三 さん 者 しゃ 凡退 ぼんたい )[ 3] 。10月23日 にち 、中日 ちゅうにち 戦 せん でようやく一軍 いちぐん で初 はつ 先発 せんぱつ の舞台 ぶたい を踏 ふ む。中日 ちゅうにち のエースだった杉下 すぎした 茂 しげる との投 な げ合 あ いとなり、5回 かい まで無 む 失点 しってん で抑 おさ えるものの敗戦 はいせん する[ 2] 。同 どう 試合 しあい は杉下 すぎした の200勝 しょう 達成 たっせい 試合 しあい になった[ 2] 。
スーパースターとなる長嶋 ながしま 茂雄 しげお が入団 にゅうだん した1958年 ねん には目立 めだ った活躍 かつやく は見 み せなかったが、長嶋 ながしま と双璧 そうへき をなすスーパースターとなり、後 のち に「ON 」と称 しょう されるようになった王 おう 貞治 さだはる が入団 にゅうだん した翌 よく 1959年 ねん には、3度目 どめ となる二 に 軍 ぐん の最優秀 さいゆうしゅう 投手 とうしゅ 賞 しょう を受賞 じゅしょう した[ 2] 。当時 とうじ は水原 みずはら 茂 しげる 監督 かんとく と品川 しながわ 主計 かずえ 球団 きゅうだん 社長 しゃちょう の対立 たいりつ が深刻 しんこく 化 か していて、馬場 ばば は品川 しながわ 派 は と見 み られていた[ 3] 。さらに馬場 ばば を評価 ひょうか し後 うし ろ盾 たて となっていた藤本 ふじもと 英雄 ひでお 投手 とうしゅ コーチが退団 たいだん したこともあり、同年 どうねん オフに巨人 きょじん を自由 じゆう 契約 けいやく となった[ 2] 。このため、馬場 ばば がONとともに巨人 きょじん に在籍 ざいせき した期間 きかん は極 きわ めて短 みじか かった。
巨人 きょじん には5シーズン在籍 ざいせき し[ 4] 、1軍 ぐん 登板 とうばん は1957年 ねん の3試合 しあい のみ、うち1試合 しあい が先発 せんぱつ 、通算 つうさん 成績 せいせき 0勝 しょう 1敗 はい 防御 ぼうぎょ 率 りつ 1.29(NPB公式 こうしき 記録 きろく )[ 5] [ 6] 。
1960年 ねん 1月 がつ 、巨人 きょじん から大洋 たいよう ホエールズ に移籍 いせき した谷口 たにぐち 五郎 ごろう コーチの誘 さそ いで、大洋 たいよう の明石 あかし キャンプにテスト生 せい として参加 さんか し、採用 さいよう 内定 ないてい を受 う けていた。川崎 かわさき 市 し に転居 てんきょ するなど移籍 いせき 準備 じゅんび を進 すす めていたが、宿舎 しゅくしゃ の風呂場 ふろば で転倒 てんとう 、身体 しんたい ごとガラス戸 ど に突 つ っ込 こ み左 ひだり 肘 ひじ に17針 はり を縫 ぬ う外傷 がいしょう を受傷 じゅしょう し、一時期 いちじき 左手 ひだりて の第 だい 三指 みつゆび および第 だい 四 よん 指 ゆび の関節 かんせつ が伸展 しんてん できない状態 じょうたい が持続 じぞく したため、プロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ 継続 けいぞく を断念 だんねん した。なお、この症状 しょうじょう は後 のち に自然 しぜん 治癒 ちゆ している。
スポーツを続 つづ けたいという一心 いっしん で、野球 やきゅう 選手 せんしゅ の継続 けいぞく を断念 だんねん した後 のち も、自宅 じたく アパートの近 ちか くにあったボクシングジム・不 ふ 二 に 拳闘 けんとう ジム でトレーニングを行 おこな っていた。
1960年 ねん 3月 がつ 、巨人 きょじん 時代 じだい に面識 めんしき があった力道山 りきどうざん に会 あ いに日本 にっぽん プロレスセンター を訪 たず ねるが、力道山 りきどうざん はブラジル遠征 えんせい 中 ちゅう のために不在 ふざい であり、この際 さい に馬場 ばば と同 おな じく元 もと 野球 やきゅう 選手 せんしゅ の経歴 けいれき を持 も つ竹下 たけした 民夫 たみお からプロレス入 い りを勧 すす められる。
翌 よく 4月 がつ 11日 にち 、ブラジル遠征 えんせい から帰国 きこく した力道山 りきどうざん (同 どう 遠征 えんせい 中 ちゅう 、力道山 りきどうざん は猪木 いのき 寛 ひろし 至 いたり (アントニオ猪木 いのき ) をスカウトしている)に日本 にっぽん プロレスへの入門 にゅうもん を直訴 じきそ 。力道山 りきどうざん からヒンズースクワット 100回 かい を命 めい じられるが難 なん なくこなし、その場 ば で入門 にゅうもん が決 き まる。このとき、通常 つうじょう 練習 れんしゅう 生 せい には支給 しきゅう されない給料 きゅうりょう を、巨人 きょじん 時代 じだい と同額 どうがく の月給 げっきゅう 5万 まん 円 えん (当時 とうじ の大卒 だいそつ 初任 しょにん 給 きゅう は1万 まん 6千 せん 円 えん 程度 ていど )と即決 そっけつ されたが、翌月 よくげつ から「試合 しあい をしていないのに多 おお すぎる」と3万 まん 円 えん に減額 げんがく される。
修行 しゅぎょう 時代 じだい に、入門 にゅうもん が一 いち 年 ねん 先輩 せんぱい の大木 おおき 金太郎 きんたろう や同期 どうき の猪木 いのき と三 さん 人 にん でヒンズースクワットを行 おこな ったときは、床 ゆか に垂 しだ れた汗 あせ で水溜 みずたま りができたという伝説 でんせつ が残 のこ っている。
日本 にっぽん プロレス時代 じだい (新人 しんじん 時代 じだい - 全盛期 ぜんせいき )
編集 へんしゅう
1960年 ねん 9月 がつ 30日 にち (金曜日 きんようび )、台東 たいとう 体育館 たいいくかん にて田中 たなか 米 よね 太郎 たろう とのシングル戦 せん でデビューし、股 また 裂 さ きでギブアップ勝 が ち。なお、同日 どうじつ に猪木 いのき もデビュー戦 せん を行 おこな っているが、猪木 いのき は大木 おおき 金太郎 きんたろう に頭 あたま 突 とっ きの連打 れんだ をくらいフォール負 ま けしている。デビュー直後 ちょくご は芳 よし の里 さと が苦手 にがて であり、同年 どうねん は18勝 しょう 7敗 はい を記録 きろく しているが、そのうち5敗 はい は芳 よし の里 さと からである。
1961年 ねん には、ワールドリーグで力道山 りきどうざん と優勝 ゆうしょう を争 あらそ ったミスターX(ビル・ミラー )など強豪 きょうごう 外国 がいこく 人 じん レスラーとの試合 しあい が組 く まれ、いずれも勝利 しょうり することはできなかったものの、試合 しあい 内容 ないよう を評価 ひょうか した力道山 りきどうざん により渡米 とべい しての武者 むしゃ 修行 しゅぎょう を命 めい ぜられ、同年 どうねん 7月 がつ 、芳 よし の里 さと 、マンモス鈴木 すずき らとアメリカ に渡 わた る。短期間 たんきかん でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長 せいちょう し、数々 かずかず のタイトルに挑戦 ちょうせん した。アメリカ時代 じだい のリングネームは、ロサンゼルス ではショーヘイ・ビッグ・ババ 、ニューヨーク ではババ・ザ・ジャイアント 。
とある試合 しあい で戦 たたか ったアート・トーマス のマネージャー、フレッド・アトキンス をグレート東郷 とうごう が馬場 ばば の元 もと に引 ひ き抜 ぬ き、アメリカでの師匠 ししょう とした。馬場 ばば はアトキンスの元 もと で多 おお くを学 まな ぶことになった。
若手 わかて 時代 じだい トレーニング中 ちゅう の馬場 ばば (1962年 ねん ごろ撮影 さつえい )
1962年 ねん 3月9日 にち 、NWA世界 せかい ヘビー級 きゅう 王者 おうじゃ のバディ・ロジャース に初 はつ 挑戦 ちょうせん 以来 いらい 、主 おも にロジャースの地元 じもと での対戦 たいせん 相手 あいて として重用 じゅうよう される。同年 どうねん 8月 がつ 31日 にち にオハイオ州 しゅう コロンバス でカール・ゴッチ とビル・ミラー の起 お こしたロジャース襲撃 しゅうげき 事件 じけん 当日 とうじつ 、NWA王座 おうざ に挑戦 ちょうせん 予定 よてい だったジョニー・バレンドと代役 だいやく で対戦 たいせん 。
1963年 ねん 2月 がつ にはロサンゼルスにて、WWA 世界 せかい ヘビー級 きゅう 王者 おうじゃ だったザ・デストロイヤー とタイトルマッチを行 おこな い、デストロイヤーに勝利 しょうり したものの、反則 はんそく 勝 が ちであったため、規定 きてい によりタイトルは移動 いどう しなかった。
この遠征 えんせい 時代 じだい に馬場 ばば は、飲 の み屋 や のジュークボックス に唯一 ゆいいつ 入 はい っていた日本 にっぽん の楽曲 がっきょく だった、坂本 さかもと 九 きゅう の『SUKIYAKI(上 うえ を向 む いて歩 ある こう )』を流 なが していたという。後年 こうねん 、全日本 ぜんにほん プロレスの試合 しあい 会場 かいじょう で、全 ぜん 試合 しあい 終了 しゅうりょう 後 ご に同 どう 曲 きょく が流 なが されるようになったのはこれに由来 ゆらい する。
第 だい 五 ご 回 かい ワールドリーグ戦 せん 出場 しゅつじょう の外人 がいじん レスラー招聘 しょうへい の交渉 こうしょう を主 おも 目的 もくてき に渡米 とべい していた力道山 りきどうざん とともに、1963年 ねん 3月 がつ に凱旋 がいせん 帰国 きこく 。この際 さい 、新聞 しんぶん 社 しゃ がアメリカ時代 じだい のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場 ばば と書 か くようになり、この名前 なまえ が定着 ていちゃく する。馬場 ばば は、それまでの日本人 にっぽんじん レスラーにはみられなかったスケールの大 おお きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキー やパット・オコーナー など当時 とうじ の超 ちょう 一流 いちりゅう 外国 がいこく 人 じん レスラーと名 めい 勝負 しょうぶ を演 えん じ、また、師匠 ししょう 力道山 りきどうざん との師弟 してい タッグ等 とう で活躍 かつやく して、初 はじ めて正式 せいしき 出場 しゅつじょう したワールドリーグ戦 せん でも好成績 こうせいせき を残 のこ すなど、初 はつ 渡米 とべい 武者 むしゃ 修行 しゅぎょう の成果 せいか をファン、マスコミに強烈 きょうれつ にアピールし、人気 にんき を博 はく した。
アメリカ修行 しゅぎょう 時代 じだい (1964年 ねん )
同年 どうねん 10月 がつ に再 ふたた びアメリカに遠征 えんせい 。同年 どうねん 12月 がつ に力道山 りきどうざん が死去 しきょ し、遠征 えんせい 中 ちゅう のアメリカから帰国 きこく する。帰国 きこく の際 さい にグレート東郷 とうごう から「力道山 りきどうざん 死後 しご の日 ひ プロは先行 さきゆ きが怪 あや しい。高額 こうがく の年俸 ねんぽう (当時 とうじ の額 がく で1億 おく 円 えん 弱 じゃく )を保障 ほしょう するのでアメリカに定住 ていじゅう するように」と勧 すす められたが、金銭 きんせん の問題 もんだい ではないからと断 ことわ り帰国 きこく している。アメリカでの生活 せいかつ で売 う れっ子 こ だったレスラーが怪我 けが をして試合 しあい が出来 でき なくなり、何 なん の保障 ほしょう もないまま生活苦 せいかつく へ陥 おちい る姿 すがた を見 み ていることから、いくら高額 こうがく の年俸 ねんぽう を稼 かせ いでも同 おな じようになった時 とき のことを考 かんが えて断 ことわ ったという理由 りゆう もある。
1964年 ねん には、アメリカでNWA(ルー・テーズ )、WWWF (ブルーノ・サンマルチノ )、WWA(フレッド・ブラッシー )の当時 とうじ の三 さん 大 だい 世界 せかい タイトルに連続 れんぞく 挑戦 ちょうせん した。これは世界 せかい の強豪 きょうごう レスラーの誰 だれ しも果 は たせなかった破天荒 はてんこう な大 だい 金字塔 きんじとう 的 てき 偉業 いぎょう であり、馬場 ばば の世界 せかい 的 てき 名声 めいせい の基盤 きばん を形成 けいせい した。
同年 どうねん 4月 がつ に凱旋 がいせん 帰国 きこく し、翌月 よくげつ には豊 ゆたか 登 とう とのタッグで第 だい 11代 だい アジアタッグ王座 おうざ を獲得 かくとく 。力道山 りきどうざん 亡 な き後 あと の日 ひ プロを豊 ゆたか 登 とう ・馬場 ばば の二 に 枚 まい 看板 かんばん で支 ささ えることになった。
1965年 ねん 11月には、ディック・ザ・ブルーザー に反則 はんそく 勝 が ちし、力道山 りきどうざん 以来 いらい 、エースの象徴 しょうちょう とされたインターナショナル・ヘビー級 きゅう 王座 おうざ を獲得 かくとく した(初代 しょだい ルー・テーズ、二 に 代目 だいめ 力道山 りきどうざん 、三 さん 代目 だいめ 馬場 ばば )。ベルトそのものは馬場 ばば の王者 おうじゃ 戴冠 たいかん を機 き に新調 しんちょう され、力道山 りきどうざん が所有 しょゆう していたベルトは、後 ご の全日本 ぜんにほん プロレス旗揚 はたあ げ時 じ に馬場 ばば に寄贈 きぞう されるまで力道山 りきどうざん 家 か により保管 ほかん された。ブルーザー相手 あいて に、1-1の引 ひ き分 わ けながら初 はつ 防衛 ぼうえい を果 は たし、名実 めいじつ ともに日 にち プロのエースとなる。同年 どうねん 12月 がつ 、豊 ゆたか 登 とう が放漫 ほうまん 経営 けいえい の責任 せきにん を取 と り日 び プロの社長 しゃちょう を辞任 じにん し、日本 にっぽん プロレスから去 さ った。
1966年 ねん 2月 がつ 28日 にち (月曜日 げつようび )、ルー・テーズ戦 せん で、2フォールによる勝利 しょうり でインターヘビー級 きゅう 王座 おうざ を防衛 ぼうえい し、馬場 ばば の実力 じつりょく はさらに高 たか く評価 ひょうか された。また、同年 どうねん 11月 がつ 5日 にち には、吉村 よしむら 道明 みちあき とのコンビでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組 ぐみ を破 やぶ り、後 のち に日本 にっぽん マット界 かい を代表 だいひょう する看板 かんばん タッグ王座 おうざ となるインターナショナル・タッグ王座 おうざ を獲得 かくとく している。以後 いご 、馬場 ばば は当時 とうじ の世界 せかい の超 ちょう 一流 いちりゅう 強豪 きょうごう レスラーを相手 あいて にインターヘビー級 きゅう 王座 おうざ を守 まも り抜 ぬ き、力道山 りきどうざん のインターヘビー級 きゅう 連続 れんぞく 防衛 ぼうえい 記録 きろく も更新 こうしん し、エースとして君臨 くんりん し続 つづ ける。ワールドリーグ戦 せん においても通算 つうさん 6回 かい の優勝 ゆうしょう を果 は たして力道山 りきどうざん の記録 きろく を更新 こうしん している。馬場 ばば とともに日 にち プロ黄金 おうごん 期 き を支 ささ えた猪木 いのき は、両者 りょうしゃ の実力 じつりょく の比較 ひかく がファン、マスコミの間 あいだ で取 と り沙汰 ざた されることが顕著 けんちょ となった1971年 ねん 、ワールドリーグ戦 せん の決勝 けっしょう 戦中 せんちゅう [ 注釈 ちゅうしゃく 5] 、インターヘビー級 きゅう への挑戦 ちょうせん を表明 ひょうめい したが、時期 じき 尚早 しょうそう として却下 きゃっか された。
1966年 ねん にハワイで、豊 ゆたか 登 とう が猪木 いのき を「馬場 ばば がいる限 かぎ り、日本 にっぽん プロレスのエースにはなれないぞ」と口説 くど いて東京 とうきょう プロレス に引 ひ き抜 ぬ く猪木 いのき 略奪 りゃくだつ 事件 じけん が起 お こり、猪木 いのき は東京 とうきょう プロレスに引 ひ き抜 ぬ かれるものの短期 たんき で東京 とうきょう プロレスが内部 ないぶ 分裂 ぶんれつ を起 お こしたため、猪木 いのき は翌 よく 1967年 ねん 5月 がつ に日 にち プロに復帰 ふっき 。復帰 ふっき の際 さい には「猪木 いのき は豊 ゆたか 登 とう に騙 だま された」からと寛大 かんだい な措置 そち が取 と られたことから、猪木 いのき と本格 ほんかく 的 てき にタッグを組 く むようになり、1967年 ねん 10月 がつ 31日 にち (火曜日 かようび )にインターナショナル・タッグ王座 おうざ を獲得 かくとく した[ 7] 。この際 さい にBI砲 ほう という呼称 こしょう が定着 ていちゃく した。BI砲 ほう は当時 とうじ 、プロレス史上 しじょう 最強 さいきょう タッグの一 ひと つと称 とな えられ、圧倒的 あっとうてき な勝率 しょうりつ を誇 ほこ り、インタータッグ王者 おうじゃ チームとして看板 かんばん タッグとなった。その他 た 、この時期 じき に馬場 ばば が組 く んだタッグチームとしては、坂口 さかぐち 征 せい 二 に と組 く んだ東京 とうきょう タワーズ などがある。
日本 にほん テレビ実況 じっきょう アナウンサーの清水 しみず 一郎 いちろう は、1970年 ねん 頃 ごろ までは馬場 ばば を「ジャイアントゥ 馬場 ばば 選手 せんしゅ 」と実況 じっきょう では呼称 こしょう していたが、その後 ご は「ジャイアント馬場 ばば 選手 せんしゅ 」と実況 じっきょう するようになった。
1971年 ねん 、日本 にっぽん プロレスの経営 けいえい 方針 ほうしん やレスラーの扱 あつか いなどに不満 ふまん を覚 おぼ えていた猪木 いのき と当時 とうじ の後援 こうえん 会長 かいちょう が独自 どくじ に改革 かいかく 案 あん を起草 きそう し、馬場 ばば も含 ふく めて多 おお くの選手 せんしゅ が賛同 さんどう し、これを幹部 かんぶ に突 つ きつけ、経営 けいえい 陣 じん の刷新 さっしん (芳 よし の里 さと 淳三 じゅんぞう 、遠藤 えんどう 幸吉 こうきち 、吉村 よしむら 道明 みちあき の退陣 たいじん )を図 はか ろうとしていた。しかし同年 どうねん 12月 がつ 1日 にち 、巡業 じゅんぎょう 先 さき の京都 きょうと から名古屋 なごや へ向 む かう途中 とちゅう 、余 あま りにも急進 きゅうしん 的 てき な流 なが れに疑問 ぎもん を感 かん じていた馬場 ばば が上田 うえだ 馬 ば 之 の 助 すけ を捕 つか まえて問 と いただした。猪木 いのき らの計画 けいかく では経営 けいえい 陣 じん の刷新 さっしん 後 ご はさらに力士 りきし 出身 しゅっしん の選手 せんしゅ 、果 は ては馬場 ばば も追 お い出 だ す計画 けいかく もあることを知 し り、馬場 ばば がそのまま帰京 ききょう して経営 けいえい 陣 じん にその旨 むね を伝 つた えた。猪木 いのき の行動 こうどう は経営 けいえい 乗 の っ取 と りを狙 ねら ったクーデターとみなされ、同年 どうねん 12月 がつ 13日 にち に猪木 いのき は日 にち プロを除名 じょめい された。なお、馬場 ばば は猪木 いのき の計画 けいかく に一旦 いったん は賛同 さんどう した責任 せきにん を取 と り選手 せんしゅ 会長 かいちょう を辞任 じにん (後任 こうにん は大木 たいぼく 金太郎 きんたろう で反 はん 猪木 いのき の急先鋒 きゅうせんぽう でもあった)しており、猪木 いのき 追放 ついほう を発表 はっぴょう した会見 かいけん 後 ご に開 ひら かれた選手 せんしゅ 会 かい による祝杯 しゅくはい に馬場 ばば 、上田 うえだ はともに参加 さんか していない(詳 くわ しくは密告 みっこく 事件 じけん を参照 さんしょう )。
日本 にっぽん プロレスは長年 ながねん 、日本 にほん テレビでのみの中継 ちゅうけい 放送 ほうそう を行 おこな っていたが、グレート東郷 とうごう とルー・テーズの会社 かいしゃ (「トーゴー&テーズ・カンパニー」)が日本 にっぽん のプロレス興行 こうぎょう への進出 しんしゅつ を目論 もくろ み、NET(のちのテレビ朝日 てれびあさひ ) も含 ふく めた各 かく テレビ局 てれびきょく に企画 きかく を持 も ち込 こ んでいたのを脅威 きょうい に感 かん じ、企業 きぎょう 防衛 ぼうえい の観点 かんてん もあり1969年 ねん 7月 がつ からNETでも放送 ほうそう を始 はじ めていた[ 8] [ 9] 。放送 ほうそう 契約 けいやく の関係 かんけい から当初 とうしょ は日本 にほん テレビは馬場 ばば ・坂口 さかぐち 征 せい 二 に 、NETは猪木 いのき という棲 す み分 わ けができていたが、その後 ご なし崩 くず し的 てき に坂口 さかぐち の出場 しゅつじょう 試合 しあい がNETでも放送 ほうそう される様 よう になり、さらに前出 ぜんしゅつ の猪木 いのき の日 ひ プロ除名 じょめい 以降 いこう は、NETは番組 ばんぐみ の看板 かんばん 選手 せんしゅ である猪木 いのき を「日 にち プロの内部 ないぶ 事情 じじょう 」で失 うしな った事 こと から、NET側 がわ は強硬 きょうこう に馬場 ばば の出場 しゅつじょう 試合 しあい の放映 ほうえい を要求 ようきゅう してきた。日 にち プロ幹部 かんぶ は「視聴 しちょう 率 りつ も高 たか かったので放送 ほうそう を打 う ち切 き ることはないだろう」という甘 あま すぎる観測 かんそく から日 にち プロは取締役 とりしまりやく 会 かい で、取締役 とりしまりやく の一人 ひとり だった馬場 ばば 自身 じしん の反対 はんたい を他 た の取締役 とりしまりやく が押 お し切 き り、馬場 ばば 出場 しゅつじょう 試合 しあい のNET放映 ほうえい を解禁 かいきん した。馬場 ばば は既 すで にこの時点 じてん 日本 にほん テレビ関係 かんけい 者 しゃ から「(馬場 ばば が)NETに出演 しゅつえん すれば、日 にち プロとの関係 かんけい が終 お わりますよ」と再三 さいさん 懸念 けねん を伝 つた えられており、馬場 ばば も日本 にほん テレビの意 い を受 う けて警告 けいこく を出 だ していたが、非常 ひじょう に甘 あま い観測 かんそく を出 だ していた日本 にっぽん プロレス幹部 かんぶ をこの時点 じてん で馬場 ばば は既 すで に見限 みかぎ ってたことを、後 のち に自身 じしん の著書 ちょしょ 『王道 おうどう 十 じゅう 六 ろく 文 ぶん 』で明 あき らかにしている[ 10] 。馬場 ばば は1972 年 とし 4月 がつ 3日 にち の『ワールド大 だい リーグ戦 せん 』新潟 にいがた 大会 たいかい からNET中継 ちゅうけい にも登場 とうじょう したが、当然 とうぜん のごとく日本 にほん テレビに加 くわ えて番組 ばんぐみ スポンサーだった三菱電機 みつびしでんき が激怒 げきど し、日本 にほん テレビは東京 とうきょう 地方裁判所 ちほうさいばんしょ に日 にち プロの契約 けいやく 違反 いはん と馬場 ばば のNET中継 ちゅうけい の出演 しゅつえん 差 さ し止 と めを求 もと めて提訴 ていそ する事態 じたい となった。東京 とうきょう 地裁 ちさい から申請 しんせい は却下 きゃっか され、当事 とうじ 者 しゃ 同士 どうし に話 はな し合 あ いを委 ゆだ ねたが、激怒 げきど していた日本 にほん テレビは『日本 にっぽん プロレス中継 ちゅうけい 』の打 う ち切 き りを決定 けってい している[ 注釈 ちゅうしゃく 6] [ 11] 。
馬場 ばば はこの時点 じてん では日 にち プロに在籍 ざいせき しNET中継 ちゅうけい への出演 しゅつえん も継続 けいぞく していたが、日本 にほん テレビは水面 すいめん 下 か で日 にち プロに対 たい する報復 ほうふく 手段 しゅだん として、馬場 ばば に対 たい し全面 ぜんめん 的 てき なバックアップによる新 しん 団体 だんたい 旗揚 はたあ げを画策 かくさく し極秘 ごくひ 裏 うら に接触 せっしょく していた。この計画 けいかく には日本 にほん テレビの当時 とうじ の社長 しゃちょう である小林 こばやし 與三次 よそじ が中心 ちゅうしん に動 うご いていたとされ、日本 にほん テレビや三菱電機 みつびしでんき に恩義 おんぎ を感 かん じていたとされる馬場 ばば は日本 にほん テレビに呼応 こおう する形 かたち で、1972年 ねん 7月 がつ 29日 にち (土曜日 どようび )に辞表 じひょう を提出 ていしゅつ し、記者 きしゃ 会見 かいけん で独立 どくりつ と日本 にほん テレビのバックアップの元 もと で新 しん 団体 だんたい を設立 せつりつ する意向 いこう である事 こと を宣言 せんげん した[ 12] 。
この時点 じてん でNETとの契約 けいやく が残存 ざんそん していたことや日 にち プロのプロモーターなどが馬場 ばば の出場 しゅつじょう を求 もと めてきたため、日 にち プロは日本 にっぽん プロレスリング協会 きょうかい の会長 かいちょう であった平井 ひらい 義一 ぎいち に調停 ちょうてい を依頼 いらい し「(1972年 ねん )9月 がつ 20日 はつか まで日 にち プロに出場 しゅつじょう したうえで、翌 よく 1973年 ねん 3月 がつ 末 まつ まで週 しゅう 1回 かい はNETの『ワールド・プロレスリング』にも出演 しゅつえん する事 こと 」を条件 じょうけん とする調停 ちょうてい 案 あん を提示 ていじ したが、馬場 ばば はこれを拒否 きょひ した。なお、馬場 ばば はこの時点 じてん でインターナショナル・ヘビー級 きゅう 王者 おうじゃ であったが、馬場 ばば は「インター選手権 せんしゅけん (のベルト)は自分 じぶん の血 ち と汗 あせ で守 まも ってきたもの、NWAの許可 きょか を得 え て持 も って出 で たいと思 おも う」と語 かた っていた。これに対 たい して日 にち プロがクレームを付 つ け、大木 おおき 金太郎 きんたろう にインター選手権 せんしゅけん へ挑戦 ちょうせん させ「堂々 どうどう と防衛 ぼうえい をしたうえで出 で ていくべき」とのスタンスをとった。日 にち プロ幹部 かんぶ としては馬場 ばば が翻意 ほんい しないため、セメント・マッチ に強 つよ い大木 たいぼく との試合 しあい を組 く み、制裁 せいさい 目的 もくてき の試合 しあい を画策 かくさく していたとみられる。しかし、馬場 ばば はタイトルマッチも拒否 きょひ してインター選手権 せんしゅけん を返上 へんじょう した。馬場 ばば は身辺 しんぺん を整理 せいり したうえで、同年 どうねん 8月 がつ 18日 にち の宮城 みやぎ 県 けん 石巻 いしのまき 市 し での試合 しあい を最後 さいご に、日 にち プロを退団 たいだん した[ 13] 。
一方 いっぽう で馬場 ばば は「日本 にっぽん プロレス興業 こうぎょう 株式会社 かぶしきがいしゃ 」(いわゆる「渋谷 しぶや の日 ひ プロ」)の取締役 とりしまりやく は退任 たいにん しておらず、この事 こと から1973年 ねん 4月 がつ 20日 はつか に日本 にっぽん プロレスが興行 こうぎょう 活動 かつどう を停止 ていし して事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい した際 さい に、日本 にほん テレビと百田 ひゃくだ (力道山 りきどうざん )家 か (いわゆる「赤坂 あかさか の日 ひ プロ」)が仲介 ちゅうかい 役 やく となって大木 おおき 金太郎 きんたろう らの日 ひ プロ残党 ざんとう 9選手 せんしゅ を、消極 しょうきょく 的 てき ながらも自身 じしん の団体 だんたい に受 う け入 い れざるを得 え なくなった[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。
その後 ご も長年 ながねん NETテレビおよび同局 どうきょく の後身 こうしん のテレビ朝日 てれびあさひ への出演 しゅつえん は少 すく なく『徹子 てつこ の部屋 へや 』・『ニュースステーション 』(『最後 さいご の晩餐 ばんさん 』)など最 さい 晩年 ばんねん のものが中心 ちゅうしん である。一方 いっぽう テレビ朝日 てれびあさひ 系列 けいれつ 局 きょく 制作 せいさく の番組 ばんぐみ には『探偵 たんてい !ナイトスクープ 』(朝日放送 あさひほうそう テレビ )[ 注釈 ちゅうしゃく 8] などへの出演 しゅつえん があった。同様 どうよう に新 しん 日本 にっぽん プロレス設立 せつりつ 後 ご の猪木 いのき も、日本 にほん テレビへの出演 しゅつえん は皆無 かいむ ではないものの少 すく なかった。
1972年 ねん 10月22日 にち (日曜日 にちようび )に日本 にほん テレビ・三菱電機 みつびしでんき の後押 あとお しで「全日本 ぜんにほん プロ・レスリング株式会社 かぶしきがいしゃ 」を旗揚 はたあ げした[ 14] 。馬場 ばば は全日本 ぜんにほん 旗揚 はたあ げに際 さい して、前述 ぜんじゅつ の通 とお り日 び プロ時代 じだい に保持 ほじ していたタイトルを全 すべ て返還 へんかん しており、全日本 ぜんにほん 旗揚 はたあ げ後 ご より、団体 だんたい の看板 かんばん となるシングル王座 おうざ の確立 かくりつ のため、世界 せかい の強豪 きょうごう レスラーと、全日本 ぜんにほん プロレス認定 にんてい 世界 せかい ヘビー級 きゅう 王座 おうざ (後 ご のPWFヘビー級 きゅう 王座 おうざ )争奪 そうだつ 戦 せん を開始 かいし 。合計 ごうけい 10戦 せん において8勝 しょう 0敗 はい 2引 ひ き分 わ けの戦績 せんせき により、馬場 ばば が初代 しょだい 王者 おうじゃ として認定 にんてい された。なおこのシングル王座 おうざ のベルトとして当初 とうしょ 使 つか われたのは、力道山 りきどうざん が所有 しょゆう していたインターナショナル・ヘビー級 きゅう 王座 おうざ のベルトであり、全日本 ぜんにほん 旗揚 はたあ げ時 じ に力道山 りきどうざん 家 か より馬場 ばば に寄贈 きぞう されたものである(後 のち に新調 しんちょう され、オリジナルは、ヒューストン のプロレス博物館 はくぶつかん に寄贈 きぞう された)。馬場 ばば は、このPWFヘビー級 きゅう 王座 おうざ を38回 かい 連続 れんぞく 防衛 ぼうえい を含 ふく んで長期間 ちょうきかん 保持 ほじ し、PWFヘビー級 きゅう 王座 おうざ は、全日本 ぜんにほん 時代 じだい の馬場 ばば の代名詞 だいめいし ともいうべき看板 かんばん タイトルとなり、後 のち に、インターナショナル・ヘビー級 きゅう 王座 おうざ 、UNヘビー級 きゅう 王座 おうざ とともに、全日本 ぜんにほん 三 さん 冠 かん タイトルの一 ひと つとなった。
創立 そうりつ 1年 ねん 強 きょう の1974年 ねん 1月 がつ には早 はや くもジャック・ブリスコ 、ハーリー・レイス 、ドリー・ファンク・ジュニア とNWAの現 げん ・前 まえ ・元 もと 王者 おうじゃ を招聘 しょうへい し、日本 にっぽん 陣営 じんえい の馬場 ばば 本人 ほんにん や成長 せいちょう 著 いちじる しいジャンボ鶴田 つるた 、ザ・デストロイヤーとの組 く み合 あ わせが展開 てんかい された。同年 どうねん 12月 がつ 、ジャック・ブリスコを破 やぶ って、当時 とうじ 世界 せかい で最 もっと も権威 けんい があるとされたNWA世界 せかい ヘビー級 きゅう 王座 おうざ を初 はじ めて獲得 かくとく する。PWFヘビー級 きゅう 王座 おうざ と二 に 冠 かん を賭 か けたダブルタイトルマッチで勝利 しょうり し初 はつ 防衛 ぼうえい を果 は たすも、再々 さいさい 戦 せん で敗 やぶ れた。1979年 ねん と1980年 ねん にもハーリー・レイスを破 やぶ って、結局 けっきょく 、通算 つうさん 3回 かい 、NWA世界 せかい ヘビー級 きゅう 王座 おうざ を獲得 かくとく したが、このときはいずれも翌週 よくしゅう の再戦 さいせん では防衛 ぼうえい を果 は たせなかった。全日本 ぜんにほん プロレス入門 にゅうもん 第 だい 一 いち 号 ごう で、一番 いちばん 弟子 でし であるジャンボ鶴田 つるた は、馬場 ばば の期待 きたい を大 おお きく上回 うわまわ る程 ほど の急 きゅう 成長 せいちょう を遂 と げ、馬場 ばば ・鶴田 つるた の「BJ師弟 してい コンビ」は、長年 ながねん にわたってインタータッグ王座 おうざ を保持 ほじ し、全日本 ぜんにほん プロレスの暮 く れの定番 ていばん イベントとなった世界 せかい 最強 さいきょう タッグ決定 けってい リーグ戦 せん においても、通算 つうさん 2回 かい の優勝 ゆうしょう を果 は たした。
1979年 ねん 8月 がつ 26日 にち (日曜日 にちようび )、日本武道館 にほんぶどうかん にて行 おこな われたプロレス夢 ゆめ のオールスター戦 せん において、アントニオ猪木 いのき と一夜 いちや 限 かぎ りでBI砲 ほう を復活 ふっかつ させ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン 組 くみ と対戦 たいせん し勝利 しょうり した。
1980年 ねん 4月 がつ 25日 にち (金曜日 きんようび )、ザ・シーク を相手 あいて に通算 つうさん 3000試合 しあい 目 め を達成 たっせい 。デビューから丸 まる 20年 ねん 目 め だった。記者 きしゃ から後 のち に知 し らされ、「最初 さいしょ から分 わ かっていれば、まともな相手 あいて を選 えら んでいた」とコメント。9ヶ月 かげつ 後 ご の、1981年 ねん 1月 がつ 18日 にち (日曜日 にちようび )には「ジャイアント馬場 ばば 3000試合 しあい 連続 れんぞく 出場 しゅつじょう 突破 とっぱ 記念 きねん 試合 しあい 」を開催 かいさい し、バーン・ガニア との間 あいだ で自身 じしん の保持 ほじ するPWFヘビー級 きゅう 王座 おうざ とガニアの保持 ほじ するAWA世界 せかい ヘビー級 きゅう 王座 おうざ のダブルタイトルマッチを行 おこな う。結果 けっか は3本 ほん 勝負 しょうぶ で行 おこな われ1-1のドローで両者 りょうしゃ 王座 おうざ 防衛 ぼうえい 。
1981年 ねん 12月13日 にち (日曜日 にちようび )、世界 せかい 最強 さいきょう タッグ決定 けってい リーグ戦 せん の最終 さいしゅう 戦 せん において、ブルーザー・ブロディ &ジミー・スヌーカ 組 くみ のセコンドとして突如 とつじょ 登場 とうじょう したスタン・ハンセン が、試合 しあい 後 ご 、ドリー・ファンク・ジュニアとの乱闘 らんとう を繰 く り広 ひろ げたことから、急遽 きゅうきょ 馬場 ばば らが乱入 らんにゅう しハンセンとの遺恨 いこん 勃発 ぼっぱつ 。1982年 ねん 2月 がつ 4日 にち (木曜日 もくようび )に行 おこな われたPWFヘビー級 きゅう 選手権 せんしゅけん 試合 しあい で初 はつ 対決 たいけつ 、死闘 しとう を繰 く り広 ひろ げたが、両者 りょうしゃ 反則 はんそく による引 ひ き分 わ けとなった。
1979年 ねん 夢 ゆめ のオールスター戦 せん での猪木 いのき と組 く んでのブッチャー&シン戦 せん 、1980年 ねん の鶴田 つるた と組 く んでのファンクスとの世界 せかい 最強 さいきょう タッグ決定 けってい リーグ戦 せん 最終 さいしゅう 戦 せん 、1981年 ねん のガニアとのダブルタイトル戦 せん 、そして1982年 ねん のハンセンとのPWF防衛 ぼうえい 戦 せん で、4年 ねん 連続 れんぞく でプロレス大賞 たいしょう のベストバウト(年間 ねんかん 最高 さいこう 試合 しあい )を受賞 じゅしょう している。
1984年 ねん 4月 がつ 25日 にち (水曜日 すいようび )、ハンセン&ブロディ(ミラクルパワーコンビ )のハイジャック・パイルドライバー で首 くび を痛 いた め、次 つぎ の試合 しあい を欠場 けつじょう 、デビュー以来 いらい 3711試合 しあい 続 つづ いた連続 れんぞく 無 む 欠場 けつじょう 記録 きろく がストップした。
1985年 ねん 7月 がつ 30日 にち (火曜日 かようび )、ハンセンに敗退 はいたい し、PWFヘビー級 きゅう 王座 おうざ から転落 てんらく したのをきっかけにタイトル戦線 せんせん から退 しりぞ いた後 のち は、社長 しゃちょう 業 ぎょう やタレント業 ぎょう に比重 ひじゅう を移 うつ しながらも義弟 ぎてい を自認 じにん するラッシャー木村 きむら や百田 ひゃくだ 光雄 みつお とファミリー軍団 ぐんだん を結成 けっせい し、悪役 あくやく 商会 しょうかい との抗 こう 争 そう を開始 かいし し、前座 ぜんざ で「明 あか るく楽 たの しいプロレス」を展開 てんかい し、最後 さいご の試合 しあい が行 おこな われた1998年 ねん 12月5日 にち (土曜日 どようび )までリングに上 あ がり続 つづ けた。アントニオ猪木 いのき 率 ひき いる新日本 しんにほん が異種 いしゅ 格闘技 かくとうぎ 戦 せん など斬新 ざんしん な企画 きかく を次々 つぎつぎ と打 う ち出 だ しても、馬場 ばば は年 とし 8回 かい のシリーズと全国 ぜんこく 巡業 じゅんぎょう という型 かた を続 つづ けていた。生涯 しょうがい で通算 つうさん 5769試合 しあい を行 おこな った。
1995年 ねん 1月 がつ 17日 にち (火曜日 かようび )、元子 もとこ 夫人 ふじん の明石 あかし の実家 じっか が阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい の被害 ひがい に遭 あ い、運転 うんてん 手 しゅ の和田 わだ 京平 きょうへい 、専属 せんぞく 秘書 ひしょ の仲田 なかた 龍 りゅう らと家 いえ の片付 かたづ けに向 む かった。関西 かんさい 地区 ちく の被害 ひがい を目 ま の当 あ たりにした馬場 ばば は、ガスコンロや生活 せいかつ 用品 ようひん を買 か い集 あつ めた後 のち 関西 かんさい 地区 ちく に住 す んでいる全日本 ぜんにほん のファンクラブ「キングスロード」会員 かいいん の名簿 めいぼ を取 と り寄 よ せ、一 いち 軒 けん 一 いち 軒 けん へ馬場 ばば 自 みずか らが出向 でむ き、生活 せいかつ 用品 ようひん を差 さ し入 い れて回 まわ ったという。1998年 ねん には、全日本 ぜんにほん の興行 こうぎょう で募 つの った震災 しんさい 義援金 ぎえんきん を明石 あかし ロータリークラブに寄付 きふ し、その寄付 きふ 金 きん で巨人軍 きょじんぐん 時代 じだい のキャンプ地 ち でもあった兵庫 ひょうご 県立 けんりつ 明石公園 あかしこうえん 第 だい 一 いち 野球 やきゅう 場 じょう がある明石公園 あかしこうえん 内 うち に『阪神 はんしん 淡路 あわじ 大震災 だいしんさい 記録 きろく 碑 ひ 』を建立 こんりゅう している[ 15] 。
1995年 ねん 3月 がつ にタワーレコード 渋谷 しぶや 店 てん が移転 いてん しメガストア化 か した際 さい の宣伝 せんでん ポスターに、上 うえ を見上 みあ げる馬場 ばば がモデルとして起用 きよう された。
晩年 ばんねん 巨人 きょじん のOB会 かい へ出席 しゅっせき した際 さい 、先輩 せんぱい の千葉 ちば 茂 しげる に「おーい、馬場 ばば !」と手招 てまね きをされて呼 よ ばれた時 とき に、大 だい 喜 よろこ びで後 うし ろから抱 だ きついた。このため馬場 ばば がおんぶされるような格好 かっこう で甘 あま えているように写 うつ るという珍 めずら しい構図 こうず になった。これは「目上 めうえ から呼 よ び捨 す てにされる機会 きかい がほとんどなくなり、久 ひさ しぶりのことだったのでとても嬉 うれ しかった」という。亡 な くなる前年 ぜんねん には巨人 きょじん 阪神 はんしん のOB戦 せん に巨人 きょじん OBとして出場 しゅつじょう 。一塁 いちるい にランナーとして出 で るも牽制 けんせい でアウトになり王 おう 貞治 さだはる から「馬場 ばば さん、頼 たの むよ〜」と和 なご やかな雰囲気 ふんいき で試合 しあい を楽 たの しんだという。
プロレス興行 こうぎょう では大会 たいかい 場 じょう での試合 しあい ・地方 ちほう での売 う り興行 こうぎょう 関係 かんけい なく入場 にゅうじょう 口 こう 近 ちか くの売店 ばいてん の椅子 いす に座 すわ り、グッズを購入 こうにゅう したファンにサイン を書 か いたり、記念 きねん 撮影 さつえい に応 おう じてフレームに収 おさ まったりしていた。馬場 ばば 死後 しご の全日本 ぜんにほん プロレスでは、愛用 あいよう だった椅子 いす を置 お いている。
1998年 ねん 11月30日 にち の宮城 みやぎ 県 けん スポーツセンター大会 たいかい 後 ご に馬場 ばば は体調 たいちょう 不良 ふりょう を訴 うった え、1日 にち オフ後 ご の12月2日 にち ・松本 まつもと 市 し 総合 そうごう 体育館 たいいくかん 大会 たいかい を会場 かいじょう 入 い り直前 ちょくぜん で欠場 けつじょう し、妻 つま の元 もと 子 こ と専属 せんぞく 秘書 ひしょ の仲田 なかた 龍 りゅう (リングアナウンサー )が付 つ き添 そ う形 かたち で松本 まつもと から特急 とっきゅう 電車 でんしゃ で都内 とない へ引 ひ き返 かえ し、東京 とうきょう 都 と 新宿 しんじゅく 区 く の東京医科大学 とうきょういかだいがく 病院 びょういん を受診 じゅしん した。その際 さい 、仲田 なかた の介添 かいぞ えがなくては馬場 ばば は動 うご けない状態 じょうたい だったという[ 16] 。続 つづ く翌 よく 3日 にち のツインメッセ静岡 しずおか 大会 たいかい を欠場 けつじょう した。その後 ご 、同月 どうげつ 4日 にち の千葉 ちば 公園 こうえん 体育館 たいいくかん 大会 たいかい で復帰 ふっき し、年内 ねんない 興行 こうぎょう 最終 さいしゅう 戦 せん となった同月 どうげつ 5日 にち の日本武道館 にほんぶどうかん 大会 たいかい の第 だい 3試合 しあい ・馬場 ばば &ラッシャー木村 きむら &百田 ひゃくだ 光雄 みつお 対 たい 渕 ふち 正信 まさのぶ &永 えい 源 みなもと 遙 はるか &菊地 きくち 毅 あつし 戦 せん の『ファミ悪 あく 対決 たいけつ 』に出場 しゅつじょう した試合 しあい が馬場 ばば にとって生前 せいぜん 最後 さいご の試合 しあい となった。
本来 ほんらい ならばその後 ご は毎年 まいとし 恒例 こうれい のオフのハワイでの静養 せいよう を兼 か ね、同月 どうげつ 13日 にち にWWF(現 げん :WWE)から招請 しょうせい され、カナダ・バンクーバーのPPV大会 たいかい を視察 しさつ する予定 よてい であったが、同月 どうげつ 7日 にち に東京医科大学 とうきょういかだいがく 病院 びょういん で精密 せいみつ 検査 けんさ を受 う けたところ、ドクターストップがかかりそのまま入院 にゅういん した。この時点 じてん で転移 てんい 性 せい の肝 かん がん が判明 はんめい していた[ 17] 。年始 ねんし の「新春 しんしゅん ジャイアントシリーズ」は欠場 けつじょう が発表 はっぴょう され、年末年始 ねんまつねんし は病状 びょうじょう は安定 あんてい していたが腸閉塞 ちょうへいそく を起 お こしていたため、翌 よく 1999年 ねん 1月 がつ 8日 にち に手術 しゅじゅつ を受 う けたが、この時点 じてん で上 うえ 行 こう 結腸 けっちょう 腺 せん がんが進行 しんこう していたとされる。メディアには「癒着 ゆちゃく 性 せい 腸閉塞 ちょうへいそく のため都内 とない の病院 びょういん で手術 しゅじゅつ を受 う け、術後 じゅつご の経過 けいか は良好 りょうこう 」と公表 こうひょう した。術後 じゅつご しばらくの間 あいだ は病室 びょうしつ 内 ない で会話 かいわ もできており、側近 そっきん の和田 わだ 京平 きょうへい (レフェリー )などから自身 じしん が欠場 けつじょう 中 ちゅう のシリーズの様子 ようす などの報告 ほうこく を受 う けていたが、同月 どうげつ 24日 にち に病状 びょうじょう が急変 きゅうへん し集中 しゅうちゅう 治療 ちりょう を受 う け、同月 どうげつ 31日 にち 朝 あさ に危篤 きとく に陥 おちい った[ 16] 。妻 つま の元 もと 子 こ の意向 いこう により側近 そっきん 以外 いがい に外部 がいぶ には馬場 ばば の病状 びょうじょう やその生命 せいめい が危 あぶ ないことを一切 いっさい 漏 も らしておらず、当時 とうじ 全日本 ぜんにほん の取締役 とりしまりやく に就任 しゅうにん していたジャンボ鶴田 つるた や三沢 みさわ 光晴 みつはる 、重鎮 じゅうちん だった百田 ひゃくだ 義浩 よしひろ やジョー樋口 ひぐち などの人物 じんぶつ にも知 し らせていなかったとされる。
1999年 ねん 1月 がつ 31日 にち (日曜日 にちようび )16時 じ 04分 ふん 、大腸 だいちょう がん (上 うえ 行 こう 結腸 けっちょう 腺 せん 癌 がん )の肝 かん 転移 てんい による肝不全 かんふぜん のため、入院 にゅういん 先 さき の東京医科大学 とうきょういかだいがく 病院 びょういん で死去 しきょ した[ 18] [ 19] 。61歳 さい 没 ぼつ 。
馬場 ばば の最期 さいご を看取 みと ったのは元子 もとこ 、姪 めい の馬場 ばば 幸子 さちこ (全日本 ぜんにほん プロレス取締役 とりしまりやく )、実姉 じっし のほか、運転 うんてん 手 しゅ でもあった和田 わだ 京平 きょうへい 、専属 せんぞく 秘書 ひしょ の仲田 なかた 龍 りゅう の5人 にん だけであった。
「密葬 みっそう を済 す ませてから、公 おおやけ に発表 はっぴょう したい」という元子 もとこ の意向 いこう により、馬場 ばば の死去 しきょ に際 さい してはごく一部 いちぶ の関係 かんけい 者 しゃ 以外 いがい は秘匿 ひとく され、亡 な くなった日 ひ の夜 よる に馬場 ばば の遺体 いたい は東京 とうきょう 都 と 港 みなと 区 く の自宅 じたく に戻 もど った。密葬 みっそう まで自宅 じたく に近 ちか い寺 てら が遺体 いたい を一時 いちじ 預 あず かる手筈 てはず も出来 でき ていたとされる。自宅 じたく へ馬場 ばば の遺体 いたい を搬入 はんにゅう するために横浜 よこはま 市 し の全日本 ぜんにほん プロレス合宿 がっしゅく 所 しょ で生活 せいかつ していた4人 にん の若手 わかて 選手 せんしゅ が自宅 じたく に呼 よ ばれた。和田 わだ から「馬場 ばば さんが退院 たいいん したから手伝 てつだ いに来 き てくれ」と召集 しょうしゅう されたが、実際 じっさい に自宅 じたく 前 まえ に到着 とうちゃく した馬場 ばば の遺体 いたい を目 め にした若手 わかて 選手 せんしゅ たちは絶句 ぜっく したという。和田 わだ は「申 もう し訳 わけ ない。今日 きょう だけは伏 ふ せておいてくれ」と頭 あたま を下 さ げ、若手 わかて 選手 せんしゅ たちにこの事実 じじつ を内密 ないみつ にするよう求 もと めた。馬場 ばば の遺体 いたい を乗 の せたストレッチャーは和田 わだ 、仲田 なかた と若手 わかて 選手 せんしゅ 4人 にん によって担 かつ がれ、階段 かいだん を使 つか ってマンション9階 かい にある自宅 じたく に運 はこ び込 こ まれた[ 16] 。
しかし秘匿 ひとく されたはずの馬場 ばば の死去 しきょ は、病院 びょういん 内 ない で一部 いちぶ の関係 かんけい 者 しゃ が搬送 はんそう 作業 さぎょう を目撃 もくげき していたことから、ネットの掲示板 けいじばん で情報 じょうほう が書 か き込 こ まれていたほか、馬場 ばば 宅 たく を張 は っていた一部 いちぶ の記者 きしゃ に察知 さっち されていたという。翌 よく 2月 がつ 1日 にち 未明 みめい から馬場 ばば 死去 しきょ の未 み 確認 かくにん 情報 じょうほう がメディアの間 あいだ で飛 と び交 か う形 かたち となり、同日 どうじつ 夕方 ゆうがた に馬場 ばば の訃報 ふほう が各 かく メディアで報 ほう じられ、同日 どうじつ 夜 よる に全日本 ぜんにほん 事務所 じむしょ で行 おこな われた鶴田 つるた 、三沢 みさわ 、百田 ひゃくだ 光雄 みつお の幹部 かんぶ による記者 きしゃ 会見 かいけん で馬場 ばば の死去 しきょ を公表 こうひょう した[ 16] 。
2月 がつ 2日 にち 、自宅 じたく で密葬 みっそう が行 おこな われ、全日本 ぜんにほん の各 かく 選手 せんしゅ ・スタッフ、弔問 ちょうもん に訪 おとず れた新 しん 日本 にっぽん プロレス社長 しゃちょう (当時 とうじ )の坂口 さかぐち 征 せい 二 に と藤波 ふじなみ 辰 たつ 爾 なんじ などに見送 みおく られ、その後 ご 桐 きり ヶ谷 たに 斎場 さいじょう で荼毘 だび に付 ふ された[ 20] [ 16] 。戒名 かいみょう は「顕 あらわ 峰 ほう 院 いん 法 ほう 正日 じょんいる 剛 つよし 大 だい 居士 こじ 」。墓所 はかしょ は兵庫 ひょうご 県 けん 明石 あかし 市 し の本 ほん 松寺 まつでら にあり、2018年 ねん に死去 しきょ した妻 つま の元 もと 子 こ とともに葬 ほうむ られている。墓 はか には馬場 ばば のリングシューズの実物 じつぶつ 大 だい のモニュメントと馬場 ばば のイラスト(ジヤイアントサービス制作 せいさく のT てぃー シャツなどのグッズなどに入 はい っていたもの)が描 えが かれたプレートが設置 せっち されている[ 21] 。
1999年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、前日 ぜんじつ (4月 がつ 16日 にち )に開催 かいさい された'99 チャンピオン・カーニバル 最終 さいしゅう 戦 せん のリングが設定 せってい されたまま、日本武道館 にほんぶどうかん でファン葬 そう が催 もよお され[ 22] 、2万 まん 8,000人 にん が参列 さんれつ した。
同年 どうねん 5月 がつ 2日 にち 、全日本 ぜんにほん 二 に 度目 どめ の東京 とうきょう ドーム興行 こうぎょう において「引退 いんたい 記念 きねん 試合 しあい 」と銘打 めいう ったセレモニーを行 おこな った。ハンセンを先導 せんどう にかつてのライバルや盟友 めいゆう が登場 とうじょう 。ジャイアント馬場 ばば 、ザ・デストロイヤー組 ぐみ 対 たい ブルーノ・サンマルチノ 、ジン・キニスキー 組 くみ の時間 じかん 無制限 むせいげん 一本 いっぽん 勝負 しょうぶ というマッチメイクで、PWF 会長 かいちょう のロード・ブレアース が立会 たちあい 人 じん 、ジョー樋口 ひぐち が特別 とくべつ レフェリーをそれぞれ務 つと めた。
仲田 なかた 龍 りゅう がリングアナウンサーとして、涙声 なみだごえ で馬場 ばば への最後 さいご のコールを行 おこな うなど、セレモニーはあくまでも「試合 しあい 」として扱 あつか われた。ゲストからのメッセージで、キニスキーは「偉大 いだい なスポーツマン、アスリート、本物 ほんもの のプロフェッショナル・レスラーだった。あなたと日米 にちべい で闘 たたか えて誇 ほこ りに思 おも う」と、またサンマルチノは「あなたは体 からだ だけでなく心 しん もジャイアントだった」と称 とな えた。パートナーのデストロイヤーは日本語 にほんご で「社長 しゃちょう 、ほんとうにお疲 つか れさまでした」と深々 ふかぶか と頭 あたま を下 さ げ、会場 かいじょう 中 ちゅう の涙 なみだ を誘 さそ った。追悼 ついとう の10カウントゴングが鳴 な らされた後 のち 、リング中央 ちゅうおう に置 お かれた愛用 あいよう のシューズをデストロイヤーがつかんだ瞬間 しゅんかん に、実況 じっきょう を担当 たんとう した日本 にほん テレビアナウンサーの平川 ひらかわ 健太郎 けんたろう は、「デストロイヤーが、いま馬場 ばば とがっちりと握手 あくしゅ を交 か わしました。共 とも にリングを去 さ ります馬場 ばば とデストロイヤーです」、「プロ野球 やきゅう ・巨人軍 きょじんぐん のエース を夢見 ゆめみ たかつての少年 しょうねん が、レスラーとして選 えら んだ最後 さいご のリングは東京 とうきょう ドームでした」とコメントした。
2006年 ねん 12月に阪神 はんしん 競馬 けいば 場 じょう がリニューアルオープンし、馬場 ばば (走路 そうろ )が大型 おおがた 化 か された。このリニューアル記念 きねん ポスターの1つでは「大 おお きな馬場 ばば 」が完成 かんせい したことをもじり、「12・2 ジャイアント馬場 ばば 、登場 とうじょう 。」というコピーと、競馬 けいば 場 じょう 全体 ぜんたい を踏 ふ みつけるような巨 きょ 大 だい レスラーブーツの画像 がぞう が用 もち いられた。2014年 ねん にはレスラーおよびプロモーターとしての功績 こうせき をたたえ、NWA殿堂 でんどう に迎 むか えられた[ 23] 。
2016年 ねん 9月5日 にち 、故郷 こきょう である新潟 にいがた 県 けん 三条 さんじょう 市議会 しぎかい の9月 がつ 定例 ていれい 会 かい に於 お いて『ジャイアント馬場 ばば (馬場 ばば 正平 しょうへい )を三条 さんじょう 市 し 名誉 めいよ 市民 しみん に決定 けってい する議案 ぎあん 』が、国定 くにさだ 勇人 はやと 市長 しちょう より提出 ていしゅつ され、市議会 しぎかい 本 ほん 会議 かいぎ にて全会 ぜんかい 一致 いっち で承認 しょうにん された[ 24] 。10月15日 にち に三条 さんじょう 市役所 しやくしょ で名誉 めいよ 市民 しみん 顕彰 けんしょう が執 と り行 おこな われた[ 25] 。
馬場 ばば は生前 せいぜん 、明石 あかし 市 し の本 ほん 松寺 まつでら 境内 けいだい にある元子 もとこ 夫人 ふじん の実父 じっぷ (馬場 ばば からすれば義父 ぎふ )の墓 はか の隣 となり に馬場 ばば 家 か の墓 はか を建立 こんりゅう してあったのだが、その事実 じじつ は長年 ながねん 知 し られておらず、かつ当 とう の馬場 ばば の遺骨 いこつ は元 もと 子 こ が自宅 じたく に保管 ほかん していて長 なが らく納骨 のうこつ されないままであったため、「墓 はか を作 つく らないのか」という声 こえ もあったとされる[ 26] 。元 もと 子 こ が自身 じしん の生前 せいぜん に納骨 のうこつ をしなかったのは、馬場 ばば が墓 はか を建 た てるにあたって「一緒 いっしょ に墓 はか に入 にゅう ろう」という約束 やくそく をしていたためであった[ 26] 。馬場 ばば の死 し から約 やく 19年 ねん 後 ご の2018年 ねん 4月 がつ 14日 にち に元 もと 子 こ が死去 しきょ し、その四 よん 十 じゅう 九 きゅう 日 にち に合 あ わせて共 とも に葬 ほうむ られ、二人 ふたり の約束 やくそく はようやく果 は たされることとなった[ 26] [ 27] 。
2019年 ねん 2月 がつ 19日 にち には両国 りょうこく 国技 こくぎ 館 かん に於 お いて「ジャイアント馬場 ばば 没 ぼつ 20年 ねん 追善 ついぜん 興行 こうぎょう ~王者 おうじゃ の魂 たましい ~ −アブドーラ・ザ・ブッチャー引退 いんたい 記念 きねん ー~さらば呪術 じゅじゅつ 師 し ~」興行 こうぎょう が開催 かいさい された。
2020年 ねん 12月9日 にち 、生前 せいぜん ハワイで乗 の っていた車 くるま 、キャデラックが三条 さんじょう 市 し の諏訪 すわ 田 た 製作所 せいさくしょ に寄贈 きぞう され、展示 てんじ されることが発表 はっぴょう された[ 28] 。
海外 かいがい プロレス雑誌 ざっし に載 の った馬場 ばば と師 し フレッド・アトキンス の表紙 ひょうし (1964年 ねん 8月 がつ )
試合 しあい 運 はこ びはアメリカン・スタイルにのっとったもので、常 つね に基本 きほん に忠実 ちゅうじつ なものであった。佐藤 さとう 昭雄 あきお によると、猪木 いのき と異 こと なりギブアップ技 わざ を持 も たない(嫌 きら う)とされており、フィニッシュまでの流 なが れがあって勝負 しょうぶ がつくというのが馬場 ばば のプロレスであった[ 32] 。余程 よほど のことがない限 かぎ り奇 き を衒 てら ったことはしない。ただし不測 ふそく の事態 じたい (対戦 たいせん 相手 あいて が掟 おきて 破 やぶ りの攻撃 こうげき を仕掛 しか けた場合 ばあい など)においてはいわゆるシュート といわれる技術 ぎじゅつ で対応 たいおう する。アメリカ武者 むしゃ 修行 しゅぎょう 時代 じだい にフレッド・アトキンス に師事 しじ し[ 注釈 ちゅうしゃく 10] 、関節 かんせつ 技 わざ のノウハウを教 おそ わっていた。
ザ・グレート・カブキ は馬場 ばば について、試合 しあい の組 く み立 た て・運動 うんどう 能力 のうりょく ・スタミナ・スピードなど全 すべ てを兼 か ね備 そな えた万能 ばんのう のプロレスラーであり「プロレスラーとしては最高 さいこう 」「猪木 いのき さんと馬場 ばば さんでは差 さ があったよ。モノが違 ちが った」と語 かた っており[ 33] 、またシュート(真剣 しんけん 勝負 しょうぶ )でも強 つよ かったと回想 かいそう している[ 33] 。一方 いっぽう ビル・ロビンソン は「十 じゅう 回 かい やれば九 きゅう 回 かい は私 わたし が勝 か つだろう」と語 かた っている[ 34] 。また、上田 うえだ 馬 ば 之 の 助 すけ も「(若手 わかて 時代 じだい に)オヤジ(力道山 りきどうざん )の命令 めいれい で、猪木 いのき さん・大木 おおき さんと馬場 ばば さんがガチンコの巴 ともえ 戦 せん をやることになったら、まず馬場 ばば さんが脱落 だつらく して猪木 いのき さんと大木 おおき さんは決着 けっちゃく が付 つ かないでしょう」「(BI砲 ほう の時代 じだい には)シュートでは猪木 いのき さん以外 いがい は(馬場 ばば も含 ふく めて)私 わたし に勝 か てなくなっていた」と述懐 じゅっかい している[ 35] 。
60分 ふん フルタイムドローの試合 しあい をシングルマッチで11回 かい 、タッグマッチで9回 かい 合計 ごうけい 20試合 しあい も経験 けいけん しており、晩年 ばんねん においても30分 ふん を超 こ える試合 しあい をこなしていた。
プロ野球 やきゅう 時代 じだい の馬場 ばば について王 おう 貞治 さだはる は「球 たま のスピードはびっくりするような速 はや さではなかったけど、球 たま 質 しつ はとても重 おも かった」と語 かた っている。
プロレス時代 じだい 、当時 とうじ 道場 どうじょう で最強 さいきょう とされていたザ・グレート・カブキをして「あの人 ひと は強 つよ いよ」「あんな太 ふと いももは今 いま まで見 み たことがない」と語 かた っている(俺 おれ が戦 たたか った真 しん に強 つよ かった男 おとこ 。天龍 てんりゅう 源一郎 げんいちろう 著 ちょ .青春 せいしゅん 新書 しんしょ )。
藤原 ふじわら 喜明 よしあき は「こんなにでっかい人 ひと で、運動 うんどう 神経 しんけい のいい人 じん は初 はじ めてだ」と語 かた っている。
他 た のスポーツに関 かん しても上手 うま く、バスケットボール や卓球 たっきゅう でも高校 こうこう 時代 じだい に卓球 たっきゅう 部 ぶ だった記者 きしゃ が、真面目 まじめ にやっても勝 か てないことが多 おお かったという。「あの大 おお きな身体 しんたい ですごく器用 きよう (GスピリッツVol.17)」とのこと。
アントニオ猪木 いのき が馬場 ばば に対戦 たいせん を迫 せま っていた時 とき も、全日本 ぜんにほん のレスラーの中 なか には猪木 いのき と戦 たたか っても馬場 ばば は負 ま けないと思 おも っている選手 せんしゅ も多 おお かった。その理由 りゆう の一 ひと つとして、馬場 ばば の体格 たいかく で汗 あせ をかけば関節 かんせつ 技 わざ を極 きわ めるのは難 むずか しいと考 かんが えていたからだという。
基本 きほん 的 てき におおらかな性格 せいかく だった。小 ちい さい頃 ころ は非常 ひじょう に親孝行 おやこうこう で、人 ひと との間 あいだ に角 かく を立 た てるのが本当 ほんとう に嫌 いや だったという。旧知 きゅうち の間柄 あいだがら の人達 ひとたち には面倒 めんどう 見 み が良 よ かった反面 はんめん 、見知 みし らぬ人 ひと には慎重 しんちょう で警戒 けいかい 心 しん が強 つよ かった。記者 きしゃ との雑談 ざつだん においても、一人 ひとり でも初 はつ 顔 かお の者 もの がいると気付 きづ いた途端 とたん に話 はな すのを中断 ちゅうだん したという。そのおおらかさ故 ゆえ に、馬場 ばば の試合 しあい では馬場 ばば に対 たい する野次 やじ がいつの間 ま にか敬語 けいご になる[ 注釈 ちゅうしゃく 11] といった現象 げんしょう まで起 お こったという。
契約 けいやく には厳 いかめ しかった事 こと が知 し られており、ジャパンプロレス として参戦 さんせん していた長州 ちょうしゅう 力 りょく が契約 けいやく 途中 とちゅう で離脱 りだつ した際 さい には、断固 だんこ たる措置 そち を取 と っている。
しかし、天龍 てんりゅう 源一郎 げんいちろう がメガネスーパー 社 しゃ から新 しん 団体 だんたい 旗揚 はたあ げの話 はなし を持 も ち掛 か けられ全日本 ぜんにほん との契約 けいやく 終了 しゅうりょう 後 ご にSWS へ移籍 いせき した際 さい には、当時 とうじ 団体 だんたい の移籍 いせき は非常識 ひじょうしき とされていたことで憤慨 ふんがい していたジャンボ鶴田 つるた に対 たい して「なぁ鶴田 つるた 。人 ひと は裏切 うらぎ るよりも、裏切 うらぎ られた方 ほう がまだいいだろう」と諭 さと した。これは天龍 てんりゅう と馬場 ばば の間 あいだ に十分 じゅうぶん な話 はな し合 あ いが持 も たれた上 うえ での移籍 いせき ではあるが、その後 ご 谷津 たにつ 嘉章 よしあき を始 はじ め契約 けいやく 期間 きかん が終了 しゅうりょう していない全日本 ぜんにほん 勢 ぜい が何人 なんにん もSWSへ流 なが れていった際 さい には「話 はなし が違 ちが う」と激怒 げきど した。この際 さい に契約 けいやく 違反 いはん をしてSWSに離脱 りだつ をした選手 せんしゅ に対 たい して全日本 ぜんにほん プロレスは、後 のち に法的 ほうてき 措置 そち を取 と っている。
また一度 いちど 辞 や めていった日本人 にっぽんじん 選手 せんしゅ を二度 にど と全日本 ぜんにほん のリングに上 あ げる事 こと はなかったが、その弟子 でし とは契約 けいやく している。その例 れい として、冬木 ふゆき 弘道 ひろみち の弟子 でし である邪道 じゃどう ・外道 げどう や、大 だい 仁田 にった 厚 あつし の弟子 でし に当 あ たるハヤブサ などが1990年代 ねんだい 後半 こうはん に全日本 ぜんにほん に参戦 さんせん した。師匠 ししょう のことで弟子 でし が巻 ま き添 ぞ えになることはプロレス界 かい ではよくある話 はなし であるが、馬場 ばば は師匠 ししょう とは別 べつ だと割 わ り切 き っていた。長州 ちょうしゅう の弟子 でし にあたる馳 はせ 浩 ひろし は、正式 せいしき に全日本 ぜんにほん の所属 しょぞく レスラーになっている。
食事 しょくじ 作法 さほう や礼儀 れいぎ 作法 さほう ・服装 ふくそう などには厳 きび しく、後輩 こうはい や弟子 でし たちを徹底的 てっていてき に教育 きょういく していた。
1990年代 ねんだい 、全日本 ぜんにほん の選手 せんしゅ 達 たち が決 けっ してシャツをズボンから出 だ さなかったことは馬場 ばば の教 おし えが徹底 てってい されていた証 あかし であり、お付 つ きだった和田 わだ 京平 きょうへい や仲田 なかた 龍 りゅう らは「襟 えり 付 つ きのシャツでないといけない」という馬場 ばば の教 おし えを守 まも り、夏場 なつば でもT てぃー シャツではなくポロシャツ を着 き ていた。また選手 せんしゅ が茶髪 ちゃぱつ にするのも長 なが い間 あいだ 許 ゆる されなかったという。またジーンズ も嫌 きら いであり、自身 じしん で持 も ってはいたが「あれは作業 さぎょう 着 ぎ なんだよな」と口 くち にしていた。
稀 まれ ではあるが逆 ぎゃく に後輩 こうはい や弟子 でし の言 い うことを聞 き き、厳 きび しく躾 しつけ けなかった例 れい もある。
秋山 あきやま 準 じゅん がシャツの裾 すそ を出 だ しているのを馬場 ばば が直接 ちょくせつ 注意 ちゅうい をした所 ところ 、一度 いちど 裾 すそ をズボンに入 い れるがすぐに「馬場 ばば さん、僕 ぼく はやっぱりこっちの方 ほう が良 よ いですよ」と言 い ってまた裾 すそ を外 そと へ出 だ した。全日本 ぜんにほん において、絶対 ぜったい 的 てき 存在 そんざい であった馬場 ばば へ口答 くちごた えした秋山 あきやま を見 み て他 た の選手 せんしゅ は慌 あわ てふためいたが「コイツは大物 おおもの になる」と感 かん じた馬場 ばば は「最近 さいきん の若者 わかもの はよく判 わか らんなぁ」と言 い いながら笑 わら って許 ゆる した。
「シュート (真剣 しんけん 勝負 しょうぶ ・ガチンコ )を超 こ えたものがプロレス」という発言 はつげん を残 のこ した。他 た 団体 だんたい が格闘技 かくとうぎ 路線 ろせん を進 すす めていた頃 ころ の全日本 ぜんにほん プロレスのキャッチコピーである「みんなが格闘技 かくとうぎ に走 はし るので、私 わたし 、プロレスを独占 どくせん させていただきます」や「プロレスとは『プロレス』である」といった発言 はつげん は馬場 ばば 本人 ほんにん のコメントではなく、馬場 ばば 夫妻 ふさい と数 すう 十 じゅう 年 ねん に渡 わた ってプライベート含 ふく めて親交 しんこう があった元 もと 『週刊 しゅうかん プロレス 』編集 へんしゅう 長 ちょう のターザン山本 やまもと が考 かんが え出 だ したものであるが、馬場 ばば 自身 じしん もこのコピーを気 き に入 い っていた。
プロレスラーが技 わざ を素人 しろうと にかけることを非常 ひじょう に嫌 きら っていた。TBSラジオ の番組 ばんぐみ にゲスト出演 しゅつえん していた時 とき に「パーソナリティの松下 まつした 賢次 けんじ に何 なに かプロレス技 わざ をかけて欲 ほ しい」というリスナーからのFAXがあった。馬場 ばば は「素人 しろうと さんにプロレスの技 わざ をかけることは、絶対 ぜったい してはいけないこと」と語 かた っている。ただし、かつて『森田 もりた 一義 かずよし アワー 笑 わら っていいとも! 』にゲスト出演 しゅつえん した際 さい 、タモリ にヘッドロック をかけたことはある。また、試合 しあい 中 ちゅう エキサイトして我 が を忘 わす れてしまうこともあったらしく「場外 じょうがい 乱闘 らんとう で興奮 こうふん 状態 じょうたい になった馬場 ばば さんに技 わざ をかけられた」というプロレスファンの投稿 とうこう が、雑誌 ざっし に載 の ったこともある[ 注釈 ちゅうしゃく 12] 。なお2007年 ねん にアサヒ飲料 いんりょう 『WONDA 』のCMにおいて、桑田 くわた 佳祐 けいすけ に対 たい し技 わざ を繰 く り出 だ すプロレスラーとして生前 せいぜん の馬場 ばば の映像 えいぞう が合成 ごうせい で使 つか われた。
自 みずか らのプロレス観 かん とかけ離 はな れたレスラーとの対戦 たいせん には消極 しょうきょく 的 てき ではあったが、そのレスラーが人気 にんき 者 しゃ だった場合 ばあい 、プロモーターの立場 たちば として観客 かんきゃく 動員 どういん などの興行 こうぎょう 価値 かち を優先 ゆうせん し、積極 せっきょく 的 てき に起用 きよう し続 つづ けた[ 36] 。アントニオ猪木 いのき からシングル対戦 たいせん の要求 ようきゅう は度々 たびたび あったが、馬場 ばば は最後 さいご まで応 おう じなかった[ 37] 。表向 おもてむ きの理由 りゆう は、それぞれの団体 だんたい が専属 せんぞく 契約 けいやく していたTV局 きょく (日本 にほん テレビ・テレビ朝日 てれびあさひ )同士 どうし のどちらが放映 ほうえい するのか、話 はなし がまとまらないとのことであった。
リングコスチュームについては持論 じろん があり「へそを隠 かく さないと貫禄 かんろく が出 で ない」と言 い う考 かんが えから、臍 ほぞ 部 ぶ まで覆 おお われた布 ぬの 面積 めんせき の大 おお きいタイツを着用 ちゃくよう する事 こと を弟子 でし 達 たち に命 めい じていた[ 38] 。自身 じしん も「タイツ」と呼 よ ぶには極 きわ めて大 おお きなサイズを履 は いている。
馬場 ばば 存命 ぞんめい 時代 じだい の全日本 ぜんにほん プロレスでは、結果 けっか として大相撲 おおずもう から転向 てんこう してきたプロレスラーを広 ひろ く受 う け入 い れてきたものの、相撲 すもう 出身 しゅっしん のレスラーを快 こころよ く思 おも っていない節 ふし があった。天龍 てんりゅう が馬場 ばば と2人 ふたり で喫茶店 きっさてん にいた時 とき 、その店 みせ に同 おな じく相撲 すもう からプロレスに転向 てんこう した選手 せんしゅ が2人 ふたり 来 き たが、彼 かれ らの仕草 しぐさ や態度 たいど を見 み て馬場 ばば は「天龍 てんりゅう 、あの相撲 すもう 上 のぼ りの奴 やつ らを見 み てみろよ。いつまでも相撲取 すもうと りみたいな態度 たいど でいて。だから相撲 すもう 上 のぼ りは一般 いっぱん 社会 しゃかい になじめないんだよ」などと言 い い出 だ した。ただ、同 おな じ相撲 すもう 出身 しゅっしん 者 しゃ でも天龍 てんりゅう に対 たい してはその限 かぎ りではなかった。これは、天龍 てんりゅう が角界 かくかい 時代 じだい に相撲 すもう 部屋 へや の師匠 ししょう が所属 しょぞく 力士 りきし に対 たい する生殺与奪 せいさつよだつ の権利 けんり を持 も っていることを学 まな んだことから、馬場 ばば に弁 わきま えた態度 たいど を取 と っていたためでもある[ 39] 。また、馬場 ばば 自身 じしん も「野球 やきゅう 選手 せんしゅ の頃 ころ 、練習 れんしゅう 中 ちゅう に『蔵前 くらまえ に行 い ってこい』と罵声 ばせい を浴 あ びせられるのが辛 から かった。相撲取 すもうと りも嫌 きら いだった」と相撲 すもう は嫌 きら いだと公言 こうげん しており、プロ野球 やきゅう 断念 だんねん 後 ご に痛 いた めた左 ひだり 肘 ひじ の治療 ちりょう の目処 めど がつき、新 あたら しいスポーツに挑戦 ちょうせん する事 こと を検討 けんとう した際 さい も相撲 すもう は選択肢 せんたくし に入 い れなかった[ 40] 。
今 いま ではかなり薄 うす れているが、以前 いぜん はプロレスラーからは学生 がくせい プロレス は忌 い むべき存在 そんざい とされていた時期 じき があり、プロレスラーと学生 がくせい プロレスとの交流 こうりゅう はほぼなかったが、その中 なか で、馬場 ばば は学生 がくせい プロレスの選手 せんしゅ に受 う け身 み の取 と り方 かた 等 とう を指導 しどう している。これは、馬場 ばば が知人 ちじん の店 みせ に立 た ち寄 よ った際 さい に、その店 みせ で練習 れんしゅう していた学生 がくせい プロレスの選手 せんしゅ を見 み て基礎 きそ も出来 でき ていないその姿 すがた に危機 きき 感 かん を持 も ち、これを放置 ほうち して何 なに か大 おお きな事故 じこ が起 お きた時 とき にプロレスそのものが批判 ひはん されると考 かんが えたためで、これがきっかけとなり学生 がくせい プロレスの選手 せんしゅ に対 たい して馬場 ばば 本人 ほんにん が指導 しどう を行 おこな い、その指導 しどう 方法 ほうほう が今 いま でも多 おお くの大学 だいがく のプロレスサークルに伝 つた わっている。なお、学生 がくせい プロレスで馬場 ばば に指導 しどう を受 う けた選手 せんしゅ の中 なか には、後 のち にみちのくプロレス 等 とう で活躍 かつやく するテリーボーイ(現 げん :MEN'Sテイオー )がいた[ 41] 。
歴史 れきし 小説 しょうせつ が好 す きな読書 どくしょ 家 か で、柴田 しばた 錬三郎 れんざぶろう や司馬 しば 遼 りょう 太郎 たろう の著作 ちょさく を中心 ちゅうしん に年間 ねんかん 200冊 さつ 以上 いじょう の本 ほん を読 よ んだ。巨 きょ 人 じん で同期 どうき 入団 にゅうだん だった森 もり 祇晶 ぎしょう や国松 くにまつ 彰 あきら は「物静 ものしず かで、いつも文学 ぶんがく 全集 ぜんしゅう のような本 ほん を抱 かか えていた」と述懐 じゅっかい している[ 42] [ 43] 。他 ほか にも絵画 かいが などを趣味 しゅみ に持 も ち「引退 いんたい したら(当時 とうじ 別荘 べっそう を持 も っていた)ハワイ で絵 え を描 えが く生活 せいかつ がしたい」と語 かた っていたが、それは実現 じつげん 出来 でき なかった。
『水戸黄門 みとこうもん 』の大 だい ファンであり、毎回 まいかい 欠 か かさず観 み ていたという。初代 しょだい 水戸黄門 みとこうもん 役 やく の東野 とうの 英治郎 えいじろう と初 はじ めて面会 めんかい した時 とき は、直立 ちょくりつ 不動 ふどう の姿勢 しせい となり思 おも わず頭 あたま を下 さ げてしまったと回想 かいそう している。また、面識 めんしき の無 な い中谷 なかたに 一郎 いちろう (初代 しょだい 風車 かざぐるま の弥七 やしち 役 やく )と初 はじ めて会 あ った時 とき には「おう、弥七 やしち 」と声 こえ をかけ[ 注釈 ちゅうしゃく 13] 。高橋 たかはし 元太郎 げんたろう (うっかり八兵衛 はちべえ 役 やく )と初 はじ めて会 あ った際 さい にも「八兵衛 はちべえ 」と声 こえ をかけたという。『水戸黄門 みとこうもん 』に忍者 にんじゃ などのキャラクター が出 で るようになると「突飛 とっぴ なことはやらない方 ほう がいい」と苦言 くげん を呈 てい していた。東野 とうの 時代 じだい のような典型 てんけい 的 てき な勧善懲悪 かんぜんちょうあく ものを好 この んでいた。
その一方 いっぽう で、テレビ(バラエティ番組 ばんぐみ )への出演 しゅつえん が増 ふ える前 まえ は『水戸黄門 みとこうもん 』の出演 しゅつえん 者 しゃ 以外 いがい の芸能人 げいのうじん に関 かん して知 し らなかった所 ところ もあった。アイドルとして人気 にんき 絶頂 ぜっちょう だった松田 まつだ 聖子 せいこ に初 はじ めて会 あ った時 とき に「テレビは『水戸黄門 みとこうもん 』しか観 み ないから知 し らない」と言 い ったという話 はなし [ 44] や、羽田空港 はねだくうこう で高倉 たかくら 健 けん に声 こえ をかけられた際 さい には、高倉 たかくら が誰 だれ か分 わ からず「俳優 はいゆう ?水戸黄門 みとこうもん には出 で てないんだろ」と、付 つ き人 びと に答 こた え軽 かる くあしらったといったエピソードがある。
日本 にほん テレビ系 けい クイズ番組 ばんぐみ 『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!! 』で共演 きょうえん していた山城 やましろ 新伍 しんご とは、お互 たが いに「兄弟 きょうだい 」と呼 よ び合 あ う親友 しんゆう 同士 どうし であった。
音楽 おんがく では民謡 みんよう を好 この み、尺八 しゃくはち を演奏 えんそう することも出来 でき た。
ハワイ を非常 ひじょう に気 き に入 い っており、巡業 じゅんぎょう を終 お えると渡米 とべい してハワイの別荘 べっそう で過 す ごしていた。ハワイマット界 かい にも関 かか わりが深 ふか く、全日本 ぜんにほん プロレスのタイトル認定 にんてい 機関 きかん であるPWFの初代 しょだい 会長 かいちょう ロード・ブレアースはハワイのプロモーターであった。日本 にっぽん プロレス時代 じだい の人生 じんせい 設計 せっけい では「38歳 さい で日本 にっぽん のプロレス界 かい からは引退 いんたい し、その後 ご はハワイに引 ひ っ越 こ して気楽 きらく な隠居 いんきょ 暮 く らしに入 はい りたい」というつもりだったという。50歳 さい には軽井沢 かるいざわ に別荘 べっそう を建 た て、こだわりのアトリエ で同 おな じく趣味 しゅみ の油絵 あぶらえ を描 えが いた[ 45] 。
キャピトル東急 とうきゅう ホテル [ 注釈 ちゅうしゃく 14] を東京 とうきょう ヒルトン時代 じだい から定宿 じょうやど としていたことはよく知 し られており、2000年 ねん までの全日本 ぜんにほん プロレスの記者 きしゃ 会見 かいけん は殆 ほとん どキャピトル東急 とうきゅう で行 おこな われた。また馬場 ばば は普段 ふだん からキャピトル東急 とうきゅう で主 おも に食事 しょくじ をしていたほか、関東 かんとう での興行 こうぎょう 終了 しゅうりょう 後 ご には必 かなら ずキャピトル東急 とうきゅう に向 む かい、深夜 しんや まで営業 えいぎょう しているコーヒーラウンジ「オリガミ」で食事 しょくじ をしていた。付 つ き人 びと の和田 わだ や仲田 なかた 、番 ばん 記者 きしゃ の小佐野 おさの 景 けい 浩 ひろし らはキャピトル東急 とうきゅう で馬場 ばば から食事 しょくじ 作法 さほう を学 まな んだという。週刊 しゅうかん ゴング の増刊 ぞうかん 号 ごう の企画 きかく では、キャピトル東急 とうきゅう ホテルの建替 たてかえ による一時 いちじ 閉店 へいてん 直前 ちょくぜん のオリガミで鈴木 すずき みのる が「馬場 ばば さんの味 あじ を食 しょく す」という特集 とくしゅう を組 く んだほど、ジャイアント馬場 ばば =キャピトル東急 とうきゅう というイメージがプロレス界 かい では定着 ていちゃく している。特 とく に、この「オリガミ」に勤務 きんむ するウェーター ・ウェートレス は「馬場 ばば さんにおもてなしすることが登竜門 とうりゅうもん だった」という[ 46] 。
付 つ き人 びと であった越中 えっちゅう 詩 し 郎 ろう によれば、北海道 ほっかいどう 遠征 えんせい の際 さい に移動 いどう 距離 きょり が長 なが く、空腹 くうふく の中 なか で移動 いどう していたところで、道中 どうちゅう に一 いち 軒 けん のマクドナルド があったため、一 いち 行 ぎょう は立 た ち寄 よ った。馬場 ばば は「マックなんか食 く わない」と頑 かたく なに拒 こば んでいたが、供 きょう されたフィレオフィッシュ を口 くち にして「おい、世 よ の中 なか にこんなにうまいものはない!」と気 き に入 い り、嵌 はま った馬場 ばば はそれから1週間 しゅうかん 毎日 まいにち 「フィレオフィッシュ買 か ってこい!」と越中 えっちゅう に命 めい じて買 か って来 きた させ、1日 にち 10個 こ は食 た べていたという[ 47] 。同 おな じく付 つ き人 びと の1人 ひとり として馬場 ばば に同行 どうこう していた川田 かわた 利明 としあき も同様 どうよう の証言 しょうげん をしている[ 48] 。
1990年 ねん 11月30日 にち (金曜日 きんようび )の骨折 こっせつ 入院 にゅういん までは健啖 けんたん 家 か で、酒 さけ に強 つよ く[ 注釈 ちゅうしゃく 15] また甘党 あまとう でもあったが[ 49] 、この事 こと が後 のち に糖尿 とうにょう 病 びょう の遠因 えんいん となった。試合 しあい 中 ちゅう に足 あし を骨折 こっせつ してしまった後 のち は足腰 あしこし の鍛錬 たんれん により専心 せんしん するようになり、毎日 まいにち 恵比寿 えびす の自宅 じたく から[ 注釈 ちゅうしゃく 16] 六本木 ろっぽんぎ にあった全日本 ぜんにほん プロレス事務所 じむしょ まで歩 ある くのが日課 にっか だった。若手 わかて 時代 じだい は汗 あせ っかきだったが、糖尿 とうにょう 病 びょう を患 わずら って以降 いこう は汗 あせ をかかない体質 たいしつ になってしまい、それ以来 いらい サウナ 好 す きになっていた。
葉 は 巻 ま き煙草 たばこ を愛飲 あいいん しており、キャピトル東急 とうきゅう ホテル でコーヒーを飲 の みながら喫煙 きつえん するのが好 す きであった。天龍 てんりゅう 源一郎 げんいちろう によると、ホテル側 がわ も馬場 ばば が店 みせ を引 ひ き上 あ げるなり換気 かんき をしていたという[ 50] 。だが、テレビ番組 ばんぐみ の出演 しゅつえん で親 した しくなった逸見 いつみ 政孝 まさたか がスキルス胃癌 いがん で入院 にゅういん したため、願掛 がんか けとして禁煙 きんえん を決意 けつい する。しかし結局 けっきょく 願 ねが いは叶 かな わずに逸見 いつみ はこの世 よ を去 さ り、逸見 いつみ の逝去 せいきょ 以降 いこう は馬場 ばば が1999年 ねん 1月 がつ に死去 しきょ するまで葉巻 はまき を口 くち にすることは二度 にど となかった。
甘 あま い物 もの が好物 こうぶつ であり、特 とく にあんこ が好 す きだと話 はな していた。「王道 おうどう 十 じゅう 六 ろく 文 ぶん 」では子供 こども の頃 ころ に家 いえ で正月 しょうがつ 三ヶ日 さんがにち の朝 あさ だけはあんころ餅 もち が食 た べ放題 ほうだい [ 注釈 ちゅうしゃく 17] だったため、その時 とき が待 ま ち遠 どお しかったと述懐 じゅっかい している。また、テレビ番組 ばんぐみ 「ニュースステーション 」のコーナー「最後 さいご の晩餐 ばんさん 」に出演 しゅつえん した際 さい も、久米 くめ 宏 ひろし から「明日 あした 地球 ちきゅう が無 な くなるとしたら、人生 じんせい 最後 さいご に何 なに が食 た べたいか?」について聞 き かれ「俺 おれ が死 し んだら棺桶 かんおけ に大福 だいふく を入 い れとけよと言 い っている」「大福 だいふく なら何 なに でもいいが、豆 まめ 餅 もち (豆 まめ 大福 だいふく )がいいなぁ」と答 こた えている[ 51] 。
馬場 ばば が米国 べいこく で乗 の り継 つ いだものと同色 どうしょく ・同年 どうねん 式 しき のキャデラック
愛車 あいしゃ はアメリカ武者 むしゃ 修行 しゅぎょう 時代 じだい に苦楽 くらく を共 とも にしたブルーノ・サンマルチノ から「大 おお きな身体 しんたい に似合 にあ う車 くるま 」として贈呈 ぞうてい されたキャデラック で[ 52] 、主 おも にハワイの別荘 べっそう に滞在 たいざい した際 さい に乗 の っていたものは1976年 ねん 式 しき キャデラック・エルドラド ・コンパーチブル[ 53] [ 54] 。なお、フルサイズ のキャデラック・エルドラドの2ドア・コンパーチブル仕様 しよう は馬場 ばば が乗 の り継 つ いだ1976年 ねん 式 しき が最終 さいしゅう 年 ねん 式 しき である[ 55] 。日本 にっぽん 国内 こくない ではリンカーン・コンチネンタル ・Mk-IV (英語 えいご 版 ばん ) やキャデラック・ブロアム にも乗 の っていたが[ 56] [ 57] 、基本 きほん 的 てき には買 か い替 か えの際 さい にもずっと同 おな じタイプの「クリーム色 しょく のボディ、黒 くろ い革 かわ 張 ば りの屋根 やね (ビニール・ルーフ (英語 えいご 版 ばん ) 。なお三条 さんじょう 市 し で公開 こうかい されている1976年 ねん 式 しき はボディ同色 どうしょく の幌 ほろ [ 58] )」という仕様 しよう のアメリカ車 しゃ のフルサイズセダンを選 えら んでいた。晩年 ばんねん に購入 こうにゅう した1998年 ねん 式 しき キャデラック・ドゥビル は、馬場 ばば の死後 しご 曙 あけぼの 太郎 たろう に譲 ゆず られた[ 59] [ 60] [ 61] 。
愛唱 あいしょう 歌 か は『砂山 すなやま 』であったという。少年 しょうねん 時代 じだい から辛 つら いことがあると、気分 きぶん を紛 まぎ らわせるためにこの歌 うた を良 よ く歌 うた っていたことをテレビ番組 ばんぐみ へ出演 しゅつえん した際 さい に語 かた っていた。
負傷 ふしょう のためプロ野球 やきゅう 選手 せんしゅ を断念 だんねん せざるをえなかったが、プロレスチャンピオンになって年収 ねんしゅう が3億 おく 円 えん を超 こ えたと話 はな し、給料 きゅうりょう 袋 ぶくろ が縦 たて に立 た ったという。当時 とうじ のプロ野球 やきゅう 界 かい の最高峰 さいこうほう であった巨人 きょじん の「ON (王 おう 貞治 さだはる や長嶋 ながしま 茂雄 しげお )が『年俸 ねんぽう 3千 せん 万 まん 円 えん 、4千 せん 万 まん 円 えん 』などといっていたのを見 み て、おかしくて笑 わら いが出 で てしまった」という逸話 いつわ を晩年 ばんねん に語 かた っていた。ただし、経営 けいえい 者 しゃ として節税 せつぜい 出来 でき たことから、新聞 しんぶん で発表 はっぴょう される長者 ちょうじゃ 番付 ばんづけ の馬場 ばば の順位 じゅんい は下位 かい であった。しかし、偶然 ぐうぜん 節税 せつぜい になっただけであるらしく、税務署 ぜいむしょ から表彰 ひょうしょう されたこともある。本人 ほんにん のコメントによるとアメリカ時代 じだい には1試合 しあい で2万 まん ドル(当時 とうじ で約 やく 700万 まん 円 えん )稼 かせ いでいた。
1本 ほん 数 すう 万 まん 円 えん (途中 とちゅう からは1本 ほん 10ドルのカナダ 産 さん )の葉巻 はまき を愛用 あいよう し、キャピトル東急 とうきゅう ホテル内 ない 「オリガミ」で出 だ される1個 いっこ 2,500円 えん のチーズバーガー を食 しょく し、三沢 みさわ に1個 いっこ 1万 まん 円 えん のメロン を絞 しぼ って作 つく られたメロンジュース を振舞 ふるま ったり、ハル薗田 そのだ の新婚 しんこん 旅行 りょこう の費用 ひよう をポケットマネーで出 だ すなど豪快 ごうかい な所 ところ もあった。
所属 しょぞく 選手 せんしゅ のギャラそのものは新 しん 日本 にっぽん プロレス所属 しょぞく の選手 せんしゅ より高 たか かったが[ 62] 、馬場 ばば が選手 せんしゅ にタニマチ との個人 こじん 的 てき な付 つ き合 あ いや、選手 せんしゅ が勝手 かって にTV番組 ばんぐみ やCMへ出演 しゅつえん したり、雑誌 ざっし のインタビューを受 う けることを禁止 きんし していたのと、またグッズのロイヤリティーは一切 いっさい 選手 せんしゅ に還元 かんげん されず全 すべ て元子 もとこ 夫人 ふじん が社長 しゃちょう をしていた『ジャイアント・サービス 』の利益 りえき になるようにしていたため、実際 じっさい の年収 ねんしゅう は新 しん 日本 にっぽん 所属 しょぞく 選手 せんしゅ の方 ほう が多 おお かった。選手 せんしゅ に対 たい する契約 けいやく に保険 ほけん や負傷 ふしょう 欠場 けつじょう 時 じ の給与 きゅうよ 補填 ほてん などは正式 せいしき な制度 せいど として行 おこな わなかったため[ 63] 、負傷 ふしょう 欠場 けつじょう による収入 しゅうにゅう 保証 ほしょう 制度 せいど は馬場 ばば の死後 しご 、新 しん 社長 しゃちょう となった三沢 みさわ 光晴 みつはる 新 しん 体制 たいせい では導入 どうにゅう する方針 ほうしん であったが、オーナーである元子 もとこ が『馬場 ばば さんの時代 じだい にはなかった』と全 すべ て拒否 きょひ したため、後 ご の三沢 みさわ をはじめとした全日本 ぜんにほん の選手 せんしゅ が新 しん 団体 だんたい である『プロレスリング・ノア 』への大量 たいりょう 離脱 りだつ に繋 つな がる要因 よういん となった。これがいわゆる馬場 ばば 否定 ひてい 派 は からネット掲示板 けいじばん などで「ケチ」「守銭奴 しゅせんど 」と散々 さんざん 批判 ひはん される一因 いちいん となっていたが、後 のち に負傷 ふしょう 欠場 けつじょう したからといって即座 そくざ にギャラが支払 しはら われなくなる訳 わけ では無 な く、所属 しょぞく 選手 せんしゅ ならそのシリーズの試合 しあい 給 きゅう は全額 ぜんがく 保障 ほしょう し、その後 ご も一定 いってい 期間 きかん は一定 いってい の割合 わりあい が出 だ された、ということが明 あき らかになっている[ 62] 。また谷津 たにつ 嘉章 よしあき が、SWS に移籍 いせき した一 ひと つの理由 りゆう として「試合 しあい で怪我 けが をしたのに治療 ちりょう 費 ひ を出 だ してくれなかった」ことを挙 あ げたが、それに対 たい して馬場 ばば は「治療 ちりょう にかかった分 ぶん の領収 りょうしゅう 書 しょ を提出 ていしゅつ すれば、立 た て替 か えた分 ぶん の治療 ちりょう 費 ひ は全日本 ぜんにほん で負担 ふたん している」と反論 はんろん している。
なお、その遺産 いさん は渋谷 しぶや 税務署 ぜいむしょ に8億 おく 7千 せん 万 まん 円 えん と公示 こうじ された。死後 しご 、永 えい 源 みなもと 遙 はるか は週刊 しゅうかん プロレス のインタビューで「猪木 いのき さんは金 かね を使 つか うことが好 す きな人 ひと で、馬場 ばば さんは金 かね を使 つか うことを忘 わす れた人 ひと だった」と、その金銭 きんせん 感覚 かんかく を語 かた っている。
力道山 りきどうざん からは特別 とくべつ 可愛 かわい がられた。これは馬場 ばば に「元 もと 巨人軍 きょじんぐん 投手 とうしゅ 」という肩書 かたが きがあったことと、2mを超 こ える身長 しんちょう に力道山 りきどうざん が惚 ほ れ込 こ んでおり「これはワシをも凌 しの ぐスターになるかもしれん」と思 おも ったからである。アントニオ猪木 いのき はいわば叩 たた き上 あ げであり、また従順 じゅうじゅん でなかった猪木 いのき を力道山 りきどうざん はあまり好 この んでいなかったとされ、ちょっとしたミスで殴 なぐ られたり蹴 け られたりが当 あ たり前 まえ だった中 なか 、馬場 ばば は一 いち 度 ど も殴 なぐ られたことが無 な いというエピソードがある。また、馬場 ばば は入門 にゅうもん 当初 とうしょ から付 つ き人 びと を経験 けいけん しておらず、すぐにアメリカ遠征 えんせい に出 だ され、給料 きゅうりょう も出 で ていたなど完全 かんぜん な特別 とくべつ 扱 あつか いであった[ 注釈 ちゅうしゃく 18] 。
馬場 ばば 自身 じしん が「私 わたし は力道山 りきどうざん に一 いち 度 ど も殴 なぐ られたことが無 な い」と発言 はつげん していたが、それは理不尽 りふじん な暴力 ぼうりょく を受 う けたことは無 な いという意味 いみ で、シゴキ自体 じたい は過酷 かこく なものであった。自伝 じでん によると力道山 りきどうざん から空手 からて チョップ の手 て ほどきを受 う けた際 さい 、皮膚 ひふ を鍛 きた えるために農具 のうぐ を変形 へんけい させたもので手 て を何 なん 度 ど も思 おも い切 き り叩 たた かれたという。叩 たた かれている間 あいだ 、力道山 りきどうざん は「どうだ痛 いた いか?」と馬場 ばば に聞 き いたが「痛 いた くないと言 い えば『じゃあ痛 いた くしてやろう』と余計 よけい に力 ちから を加 くわ えるし、痛 いた いと言 い えば『そのうち痛 いた くなくなる』と言 い って叩 たた くのをやめないので、黙 だま って耐 た えるしかなかった」と述懐 じゅっかい している。また野球 やきゅう 上 あ がりで腕 うで が細 こまか かったため[ 注釈 ちゅうしゃく 19] 、巡業 じゅんぎょう で津軽海峡 つがるかいきょう を渡 わた る際 さい 、青函 せいかん 連絡 れんらく 船 せん で力道山 りきどうざん の指示 しじ でいつも到着 とうちゃく するまでバーベル を持 も たされていた。馬場 ばば は「北海道 ほっかいどう へ行 い くたび度 ど にあの時 とき のことを思 おも い出 だ す」語 かた っていた。
力道山 りきどうざん には弟子 でし に酒 さけ の一気 いっき 飲 の み を強要 きょうよう する癖 くせ もあり、馬場 ばば も何 なん 度 ど も大量 たいりょう に飲 の まされたという。なお馬場 ばば 自身 じしん は酒 さけ 嫌 きら いだった。1963年 ねん 夏 なつ 、札幌 さっぽろ 市 し での試合 しあい を終 お えた馬場 ばば は力道山 りきどうざん らとの酒宴 しゅえん に付 つ き合 あ わされたが、行 い き違 ちが いから機嫌 きげん を損 そこ ねた力道山 りきどうざん を若手 わかて だった馬場 ばば が宥 なだ めたことになり、力道山 りきどうざん に「ジョニ黒 くろ 」ボトル一本 いっぽん を一気 いっき 飲 の みさせられ、目 め の前 まえ に「火花 ひばな が散 ち った」という。一息 ひといき ついた馬場 ばば が水 みず を飲 の もうとしたところ、チェイサー に差 さ し出 だ されたのは「ビール 」だったという[ 64] 。
後 のち に馬場 ばば 自身 じしん は力道山 りきどうざん のことを「人間 にんげん として、何一 なにひと つ良 よ い所 ところ のない人 ひと でしたね」と語 かた っており、特別 とくべつ 扱 あつか いを受 う けながらも辟易 へきえき していた心中 しんちゅうの を吐露 とろ している。この発言 はつげん の背景 はいけい には、日本 にっぽん プロレス時代 じだい に馬場 ばば が巻 ま き込 こ まれた力道山 りきどうざん の金銭 きんせん トラブルもあった。また、力道山 りきどうざん は馬場 ばば が活躍 かつやく するにつれてその才能 さいのう に嫉妬 しっと し、マスコミを通 つう じて馬場 ばば を中傷 ちゅうしょう するようになり、その恨 うら みもあるとみられている。
新日本 しんにほん を旗揚 はたあ げしてからの猪木 いのき の挑発 ちょうはつ には「何 なん 度 ど もはらわたが煮 に えくり返 かえ る思 おも いがした」と自伝 じでん に書 か いているが、猪木 いのき には基本 きほん 的 てき に「同 おな じ釜 がま の飯 めし を食 く った男 おとこ 」という気持 きも ちがあり、憎 にく しみの感情 かんじょう は見 み られなかった[ 注釈 ちゅうしゃく 20] 。猪木 いのき も同様 どうよう で、表向 おもてむ きの発言 はつげん と実際 じっさい に馬場 ばば に会 あ うときの態度 たいど は全 まった くと言 い っていいほど違 ちが っていた。なお、猪木 いのき とはまったく疎遠 そえん だったというわけでは無 な く、年 とし に数 すう 回 かい 会 あ っては話 はなし をしていたという。
猪木 いのき の引退 いんたい 試合 しあい の際 さい に、馬場 ばば は労 ねぎら いの電報 でんぽう を送 おく っている。しかしその電報 でんぽう は読 よ み上 あ げられることは無 な かった。なお2019年 ねん に行 おこな われた全日本 ぜんにほん プロレスのジャイアント馬場 ばば 没後 ぼつご 20年 ねん 追善 ついぜん 興行 こうぎょう に猪木 いのき を始 はじ め初代 しょだい タイガーマスク・新 しん 間 あいだ 寿 ことぶき ・坂口 さかぐち 征 せい 二 に が来場 らいじょう し、猪木 いのき がマイクでメッセージを寄 よ せた。
新 しん 日本 にっぽん プロレス陣営 じんえい の中 なか で坂口 さかぐち 征 せい 二 に については馬場 ばば も非常 ひじょう に信頼 しんらい しており、個人 こじん 的 てき に交流 こうりゅう もあった。特 とく に1990年 ねん 2月 がつ 新日本 しんにほん のドーム大会 たいかい で馬場 ばば は坂口 さかぐち の依頼 いらい に快 こころよ く応 こた え、団体 だんたい の壁 かべ を超 こ えた全日本 ぜんにほん の選手 せんしゅ を貸 か し出 だ した。また馬場 ばば が逝去 せいきょ した際 さい に坂口 さかぐち は真 ま っ先 さき に駆 か け付 つ けている。
馬場 ばば に対 たい して不満 ふまん を持 も っていたのは上田 うえだ 馬 ば 之 の 助 すけ であり、日本 にっぽん プロレスを退団 たいだん した馬場 ばば と、力道山 りきどうざん の作 つく り上 あ げた日本 にっぽん プロレスに最後 さいご までこだわっていた上田 うえだ の感情 かんじょう 的 てき なしこりは、日 にち プロ崩壊 ほうかい 後 ご 大木 おおき 金太郎 きんたろう らと全日本 ぜんにほん に移籍 いせき する際 さい 、上田 うえだ が仲介 ちゅうかい 者 しゃ の対等 たいとう 合併 がっぺい の言葉 ことば を本気 ほんき にした[ 注釈 ちゅうしゃく 21] ことと、馬場 ばば が大木 たいぼく ・上田 うえだ ら移籍 いせき 組 ぐみ を冷遇 れいぐう した[ 65] ことで決定的 けっていてき になったという。「猪木 いのき 追放 ついほう 事件 じけん 」も一般 いっぱん には「猪木 いのき ・馬場 ばば らによるクーデター 計画 けいかく の存在 そんざい を上田 うえだ が上層 じょうそう 部 ぶ に密告 みっこく した」ことが原因 げんいん とされているが、上田 うえだ は近年 きんねん になって「実 じつ は最初 さいしょ に密告 みっこく したのは馬場 ばば である」と語 かた っており[ 66] 、このことも上田 うえだ と馬場 ばば の関係 かんけい 悪化 あっか に大 おお きく影響 えいきょう していたと思 おも われる。ただ、竹内 たけうち 宏 ひろし 介 かい によると「上田 うえだ が『猪木 いのき が会社 かいしゃ 乗 の っ取 と りと馬場 ばば の追 お い落 お としを企 たくら んでいる』と馬場 ばば に話 はな して、それを馬場 ばば が上層 じょうそう 部 ぶ に話 はな した」という。ユセフ・トルコ も自書 じしょ で、猪木 いのき の実弟 じってい である猪木 いのき 啓介 けいすけ との対談 たいだん で「いや、あれを上層 じょうそう 部 ぶ に密告 みっこく したのは間違 まちが いなく上田 うえだ だよ」と語 かた っており、元 もと 日本 にっぽん プロレスの経理 けいり 部長 ぶちょう である三澤 みさわ 正和 まさかず も「実際 じっさい の会議 かいぎ で猪木 いのき さんが『馬 うま 之 の 助 じょ 、テメェ、よくもばらしやがったな』と言 い っていた」と証言 しょうげん しており[ 67] 、日本 にっぽん プロレスおよび全日本 ぜんにほん プロレスに在籍 ざいせき していたケンドー・ナガサキ も2014年 ねん にdropkick のインタビューにて、日本 にっぽん プロレスの猪木 いのき 追放 ついほう 事件 じけん について「あれは全部 ぜんぶ 上田 うえだ さんが(上層 じょうそう 部 ぶ に)バラしちゃったけど」と語 かた っているが、真相 しんそう は依然 いぜん 謎 なぞ のままである。
また越中 えっちゅう 詩 し 郎 ろう も、馬場 ばば に対 たい して良 よ い感情 かんじょう を持 も っていない所 ところ もあり[ 68] 、新 しん 日本 にっぽん プロレスに移籍 いせき した理由 りゆう も馬場 ばば に対 たい しての不信 ふしん 感 かん もあると発言 はつげん し[ 69] 、ザ・グレート・カブキ やタイガー戸口 とぐち もプロレスラーとしての馬場 ばば は高 たか く評価 ひょうか しているものの、プロモーターとしての馬場 ばば に対 たい しては、海外 かいがい で活動 かつどう してた頃 ころ に比 くら べて極端 きょくたん に悪 わる くなった金銭 きんせん 面 めん などでの扱 あつか いに不満 ふまん を持 も ち、最終 さいしゅう 的 てき に他 た 団体 だんたい へ移籍 いせき する要因 よういん となっているなど馬場 ばば に対 たい して不信 ふしん 感 かん を持 も つプロレスラーも数 すう 人 にん 存在 そんざい している。
プロレスのプロモーター(興行 こうぎょう 主 ぬし )としても、NWAに加盟 かめい し第 だい 一 いち 副 ふく 会長 かいちょう までのし上 あ がったことで世界 せかい 的 てき に有名 ゆうめい であった。アメリカ武者 むしゃ 修行 しゅぎょう 時代 じだい にプロモーターの指示 しじ に絶対 ぜったい に逆 さか らわなかったことや、馬場 ばば 自身 じしん の人柄 ひとがら を買 か われたことで、全日本 ぜんにほん 旗揚 はたあ げ時 じ にNWAのプロモーターだったドリー・ファンク・シニア や、当時 とうじ ニューヨークの看板 かんばん 選手 せんしゅ だったブルーノ・サンマルチノ が協力 きょうりょく を買 か って出 で た。そのため、国際 こくさい プロレス や新 しん 日本 にっぽん プロレスが日本 にっぽん プロレスにより外人 がいじん レスラーの招聘 しょうへい を妨害 ぼうがい されたのに対 たい し、旗揚 はたあ げ当初 とうしょ から招聘 しょうへい ルートを確立 かくりつ し、豪華 ごうか なレスラー陣 じん を招聘 しょうへい している。そのような理由 りゆう から、アメリカのプロモーターに対 たい しても影響 えいきょう 力 りょく が強 つよ く、渕 ふち 正信 まさのぶ がアメリカで武者 むしゃ 修行 しゅぎょう していた際 さい に、どのエリアに行 い っても現地 げんち のプロモーターが「こいつはババのところのボーイだから、変 へん なことをするなよ」とレスラーたちに警告 けいこく していたので、嫌 いや がらせやシュート を仕掛 しか けられたことは無 な かったと回想 かいそう している。
選手 せんしゅ との約束 やくそく を必 かなら ず守 まも り[ 70] 、大物 おおもの 選手 せんしゅ はファーストクラス で来日 らいにち させ、遠征 えんせい 先 さき でも高級 こうきゅう ホテル を準備 じゅんび するなど丁重 ていちょう に扱 あつか ったことで、外国 がいこく 人 じん レスラー間 あいだ の評判 ひょうばん が高 たか かった。また移動 いどう ・宿泊 しゅくはく は選手 せんしゅ 任 まか せであるアメリカマット界 かい とは正 せい 反対 はんたい に、それらもすべて全日本 ぜんにほん ・馬場 ばば が責任 せきにん を持 も ったことも、外国 がいこく 人 じん レスラーの評判 ひょうばん を高 たか めた。アメリカ本土 ほんど のプロモーターに対 たい しても、全日本 ぜんにほん 派遣 はけん をレスラーとの交渉 こうしょう 道具 どうぐ に使 つか うことができ、また選手 せんしゅ を全日本 ぜんにほん に派遣 はけん することで参戦 さんせん レスラーの顔 かお ぶれのリフレッシュを行 おこな うことを容易 ようい にするというメリットをもたらした。NWA副 ふく 会長 かいちょう に登 のぼ りつめるほど馬場 ばば がアメリカマット界 かい における存在 そんざい 感 かん を高 たか めたのは、こういった要因 よういん も関係 かんけい している[ 71] 。外国 がいこく 人 じん 選手 せんしゅ を丁重 ていちょう に扱 あつか っていたとはいえ、ずる休 やす みなどは大物 おおもの でも絶対 ぜったい 出来 でき なかったという。また力 ちから が衰 おとろ えて来 き てもかつての大物 おおもの レスラーはそれなりのポジションで来日 らいにち させ続 つづ け、ブッチャーやドリーなどは1990年代 ねんだい も回数 かいすう は減 へ ったものの来日 らいにち し続 つづ けている。
NWA副 ふく 会長 かいちょう であり、WWWF(後 ご のWWE )発足 ほっそく の頃 ころ すでに大 だい スターだったことから、ビンス・マクマホン・ジュニア も、馬場 ばば に対 たい しては頭 あたま が上 あ がらなかった。マクマホンがWWF代表 だいひょう として日本 にっぽん マット界 かい を傘下 さんか に治 おさ めようとしていたとき、馬場 ばば はそれを制 せい し、「日米 にちべい レスリングサミット 」共催 きょうさい を実現 じつげん させることでWWFの単独 たんどく 行動 こうどう を抑 おさ えた[ 72] 。後 のち に馬場 ばば は「マディソン・スクエア・ガーデン で世界 せかい 王座 おうざ に挑戦 ちょうせん したときにほんの子供 こども だったこんな小僧 こぞう に翻弄 ほんろう されてたまるか」と述懐 じゅっかい している。
付 つ き人 びと だった大 だい 仁田 にった 厚 あつし を特別 とくべつ 可愛 かわい がっており、一時 いちじ は本気 ほんき で養子 ようし 縁組 えんぐみ を考 かんが えたこともある。大仁田 おおにた が馬場 ばば の付 つ き人 びと をしていた頃 ころ 、興行 こうぎょう に馬場 ばば の赤 あか いパンツを持 も って行 い くのを忘 わす れたことがあった。困 こま った大仁田 おおにた は、同 おな じ会場 かいじょう に赤 あか いパンツを履 は く身長 しんちょう 2mの外国 がいこく 人 じん 選手 せんしゅ がいたため、この選手 せんしゅ の控室 ひかえしつ に忍 しの び込 こ んでパンツを盗 ぬす んだ。馬場 ばば はそのパンツで試合 しあい に勝 か ったものの何 なに かおかしいと気付 きづ き「このパンツ俺 おれ のか?」と大仁田 おおにた に聞 き いた。大仁田 おおにた は「外国 がいこく 人 じん 選手 せんしゅ から借 か りてきました」と嘘 うそ をついたが、馬場 ばば はこの嘘 うそ を即座 そくざ に見破 みやぶ り「馬鹿 ばか 野郎 やろう 、貸 か すわけないだろ!」と怒鳴 どな って張 は り手 て タイプの空手 からて チョップ を食 く らわせた。そして洗濯 せんたく をして相手 あいて に返 かえ すようにと命 めい じ、3日間 にちかん 口 こう を利 き かなかったという。その後 ご 大仁田 おおにた は馬場 ばば が履 は くスーツのズボンを忘 わす れたが、今度 こんど は素直 すなお に謝 あやま った所 ところ 、馬場 ばば は何 なに も言 い わず巡業 じゅんぎょう 中 ちゅう の約 やく 1か月 げつ 間 あいだ スーツの上着 うわぎ に赤 あか ジャージのズボン姿 すがた で通 とお した。大仁田 おおにた はこの一 いち 件 けん を通 つう じ「馬場 ばば さんから人間 にんげん として、一番 いちばん 大切 たいせつ なことを学 まな びました」と語 かた っている。
1987年 ねん 11月、南 みなみ アフリカ共和 きょうわ 国 こく のプロレス興行 こうぎょう でブックメーカーを務 つと めていたタイガー・ジェット・シン から選手 せんしゅ 派遣 はけん 要請 ようせい を受 う け、馬場 ばば はそれに応 こた えて全日本 ぜんにほん から所属 しょぞく 選手 せんしゅ のハル薗田 そのだ を派遣 はけん することにした。結婚 けっこん したばかりのハル薗田 そのだ にポケットマネーを提供 ていきょう して、試合 しあい 後 ご に新妻 にいづま と新婚 しんこん 旅行 りょこう が出来 でき る様 よう にと取 と り計 はか らった。しかし、パリ経由 けいゆ で南 みなみ アフリカに向 む かう予定 よてい の筈 はず が南 みなみ アフリカのプロモーターの勘違 かんちが いで台北 たいぺい 経由 けいゆ となり、その台北 たいぺい から南 みなみ アフリカに向 む かう飛行機 ひこうき がインド洋 いんどよう 上 じょう で南 みなみ アフリカ航空 こうくう 295便 びん 墜落 ついらく 事故 じこ を起 お こし、薗田 そのだ 夫妻 ふさい は事故死 じこし することになった。馬場 ばば は生涯 しょうがい 、薗田 そのだ の派遣 はけん と新婚 しんこん 旅行 りょこう を奨 すす めたことを悔 く やんでいたという。リング上 じょう の追悼 ついとう イベントで弔辞 ちょうじ を読 よ み、号泣 ごうきゅう した。
世界中 せかいじゅう のプロレス界 かい を股 また にかけた大 だい 巨 きょ 人 じん ・アンドレ・ザ・ジャイアントが最後 さいご に選 えら んだリングは、天龍 てんりゅう 一派 いっぱ のSWS大量 たいりょう 離脱 りだつ により黄昏 たそがれ 時 じ を迎 むか えていた馬場 ばば の全日本 ぜんにほん だった。二人 ふたり がコンビを組 く んでいた頃 ころ 「馬場 ばば とアンドレが天 あま の川 がわ で流 なが しソーメン を食 た べていた」などという伝説 でんせつ が流 なが れたこともある。実際 じっさい 二 に 人 にん は大変 たいへん 仲 なか がよく、話 はな し相手 あいて に困 こま らないようにと、アンドレの若手 わかて 時代 じだい からの親友 しんゆう であるマイティ井上 いのうえ を話 はな し相手 あいて として同 おな じバスに乗車 じょうしゃ させ、アンドレ参戦 さんせん 時 じ の外国 がいこく 人 じん 用 よう 移動 いどう バスの冷蔵庫 れいぞうこ には、アンドレ好 この みのワイン が常 つね に置 お かれていたという。
天龍 てんりゅう によると、馬場 ばば は鶴田 つるた や大仁田 おおにた などの自身 じしん が勧誘 かんゆう した弟子 でし をかわいがった一方 いっぽう で、グレート小鹿 こじか などの日本 にっぽん プロレス時代 じだい の"残党 ざんとう "は仲間 なかま というよりも「日本 にほん テレビから押 お し付 つ けられて引 ひ き取 と った」という思 おも いが強 つよ かったようで、最後 さいご まで相 あい いれなかったという[ 73] 。
彼 かれ の体 からだ の大 おお きさはよくお笑 わら いタレント のネタにされていた。
ビートたけし には「巨人 きょじん 時代 じだい 、ボールを投 な げようとしたら捕手 ほしゅ の森 もり の頭 あたま を叩 たた いてしまった」「投 な げた後 のち 、指 ゆび がバックネットにひっかかりそのままバックネットを引 ひ きずり倒 たお した」「投 な げた瞬間 しゅんかん にキャッチャーをまたいでしまうため、野球 やきゅう をやめた」「タクシー に乗 の ろうとしたら左 ひだり のドアから右 みぎ のドアに出 で てしまい、乗 の れなかった」「車 くるま のサンルーフ から頭 あたま を出 だ して運転 うんてん していた」「飛行機 ひこうき に乗 の るときは、両手 りょうて を翼 つばさ の中 なか に入 い れて、腹這 はらば いになる」「ゴルフもショートコースはパターしか使 つか わない。カップインしたボールを取 と り出 だ そうとしたら、グリーン も一緒 いっしょ に持 も ち上 あ がった」「一緒 いっしょ に飛行機 ひこうき のファーストクラス に乗 の ったとき、前 まえ の席 せき に座 すわ っていた馬場 ばば さんがシートを180度 ど 倒 たお したら、オレの腹 はら の部分 ぶぶん に頭 あたま がのった」など。これらのネタに関 かん しては学生 がくせい 時代 じだい に「ビートたけしのオールナイトニッポン 」の熱心 ねっしん なリスナーであり、投稿 とうこう 者 しゃ でもあった消 け しゴム版画 はんが 家 か でエッセイスト でもあったナンシー関 せき が考 かんが えたとも言 い われている。本人 ほんにん も著書 ちょしょ の中 なか で「ジャイアント馬場 ばば の大 おお きさについてのネタを考 かんが え出 だ すと、いくらでも思 おも い浮 う かぶ」と語 かた っている。
もごもごとした喋 しゃべ り方 かた や、こもった低音 ていおん の声質 せいしつ がものまねのネタになりやすく、当初 とうしょ はタレント などにものまね されることに対 たい し不快 ふかい 感 かん を示 しめ していたが、徐々 じょじょ にそういったおふざけを容認 ようにん するようになって行 い き、そのキャラクターや風貌 ふうぼう から多 おお くのバラエティ番組 ばんぐみ や、CM に起用 きよう されることになる。また、全日本 ぜんにほん プロレスでの自 みずか らを主役 しゅやく とした、ギャグタッチのアニメ ビデオ をリリースされるまでに至 いた った。
口癖 くちぐせ の「アポ」「ポー」もかなりの頻度 ひんど でネタにされた。早 はや くから馬場 ばば をものまねのレパートリーにしていた関根 せきね 勤 つとむ には、初対面 しょたいめん の際 さい 「僕 ぼく はアッポーなんて言 い ってないよ」と文句 もんく を言 い ったが「指 ゆび で汗 あせ をぬぐい、大 おお きく息 いき をつく動作 どうさ なんです」と実演 じつえん して見 み せた所 ところ 、関根 せきね に本人 ほんにん 公認 こうにん のお墨付 すみつ きを与 あた えたというエピソードもある。また「笑 わら っていいとも! 」に出演 しゅつえん した時 とき に、突然 とつぜん 関根 せきね にチョップを打 う ち込 こ むと、関根 せきね は機転 きてん を利 き かせて馬場 ばば のものまねで膝 ひざ をついている。
ジャイアントコーン のCMで酒井 さかい 法子 のりこ と共演 きょうえん したが、CM撮影 さつえい 時 じ に一 いち 口 くち かじったアイスをスタッフが「これは処分 しょぶん しますので」と引 ひ き取 と ろうとしたが、馬場 ばば は「それは勿体 もったい ないよ」と言 い って最後 さいご まで食 た べたというエピソードがあり、酒井 さかい は「身長 しんちょう だけでなく、心 しん も大 おお きい人 ひと でした」と語 かた っている。
女優 じょゆう の水野 みずの 久美 くみ は同郷 どうきょう で、中学 ちゅうがく 時代 じだい の先輩 せんぱい にあたる[ 74] 。馬場 ばば にとって水野 みずの はマドンナで、上京 じょうきょう 後 ご 互 たが いに下積 したづ み時代 じだい だった頃 ころ も馬場 ばば は水野 みずの の引 ひ っ越 こ しを手伝 てつだ ったりした[ 74] 。中学 ちゅうがく 時代 じだい の馬場 ばば について水野 みずの は「とても大 おお きな靴 くつ を履 は いていて驚 おどろ いた」ことを語 かた っている[ 74] 。
シンガーソングライターの松山 まつやま 千春 ちはる とも親交 しんこう が深 ふか く、自 みずか ら出 だ していた月刊 げっかん 誌 し に馬場 ばば との対談 たいだん を発表 はっぴょう したこともある。松山 まつやま は馬場 ばば の死去 しきょ 後 ご 、1999年 ねん 8月 がつ に「Champ never die」という曲 きょく を発表 はっぴょう 、馬場 ばば に捧 ささ げている。
クイズ番組 ばんぐみ でも馬場 ばば の体 からだ の大 おお きさに関 かん するネタが使用 しよう されたことがある。酒井 さかい 法子 のりこ が当時 とうじ 使 つか っていた「のりピー語 ご 」では「馬場 ばば ピー」は「大 おお きい」を意味 いみ していた。1988年 ねん に放送 ほうそう された第 だい 12回 かい アメリカ横断 おうだん ウルトラクイズ の第 だい 4チェックポイント・アラスカ鉄道 てつどう [ 注釈 ちゅうしゃく 22] で、司会 しかい 者 しゃ の福留 ふくとめ 功男 いさお が「馬場 ばば ピー」の意味 いみ に関 かん する問題 もんだい を出題 しゅつだい した所 ところ 、解答 かいとう 者 しゃ が「汚 きたな い」と珍 ちん 解答 かいとう をしてしまうという珍事 ちんじ が発生 はっせい した。福留 ふくとめ は「馬場 ばば さん怒 おこ るよ」と笑 わら い、この語 かたり は当該 とうがい 解答 かいとう 者 しゃ [ 注釈 ちゅうしゃく 23] のニックネーム になった。
伊集院 いじゅういん 光 ひかり が三 さん 遊 ゆう 亭 てい 楽 らく 太郎 たろう (後 ご の6代目 だいめ 三遊亭円楽 さんゆうていえんらく )の弟子 でし として落語 らくご 家 か の修行 しゅぎょう していた時代 じだい 、プロレス業界 ぎょうかい と交流 こうりゅう が深 ふか い楽 らく 太郎 たろう と馬場 ばば が話 はなし をしていた時 とき 、同行 どうこう していた伊集院 いじゅういん の身体 しんたい と足 あし の大 おお きさを見 み て、馬場 ばば は行 い きつけの靴 くつ 屋 や にオーダーメイドで靴 くつ を作 つく らせるよう注文 ちゅうもん をして、伊集院 いじゅういん にプレゼントしたことがある。馬場 ばば も身体 しんたい の大 おお きさから中 なか 々自分 じぶん のサイズにあった靴 くつ を見付 みつ けられなかった経験 けいけん があるが故 ゆえ に、伊集院 いじゅういん に同情 どうじょう したためであるという。しかしその靴 くつ 屋 や はハワイにあり、当時 とうじ 楽 らく 太郎 たろう の弟子 でし でお金 かね が無 な かった伊集院 いじゅういん には取 と りに行 い けず、その靴 くつ は楽 らく 太郎 たろう がハワイ旅行 りょこう に出 で かけた折 おり に受 う け取 と ってもらった。
馬場 ばば は死去 しきょ する約 やく 2か月 げつ 前 まえ 「徹子 てつこ の部屋 へや 」へ2週 しゅう [ 75] にわたり出演 しゅつえん したが、これが一般 いっぱん 視 し 聴者 ちょうしゃ へプロレスについての最後 さいご のメッセージの場 ば となった。馬場 ばば は受 う けの説明 せつめい 等 とう を行 おこな い、このとき初 はじ めてテレビで歌 うた も歌 うた った[ 注釈 ちゅうしゃく 24] 。また弟子 でし のハル薗田 そのだ の飛行機 ひこうき 事故死 じこし がきっかけで飛行機 ひこうき が怖 こわ いとコメントしていた。また黒柳 くろやなぎ 徹子 てつこ へはスクワット のやり方 かた を教 おし えた。黒柳 くろやなぎ はこれがきっかけで今 いま でも毎日 まいにち スクワットをしており、黒柳 くろやなぎ は「スクワットは馬場 ばば さんの遺言 ゆいごん 」と語 かた っている。
馬場 ばば のキャラクターや人柄 ひとがら はCM やプロレス中継 ちゅうけい 以外 いがい のテレビ番組 ばんぐみ を通 つう じて、幅広 はばひろ い人気 にんき を集 あつ めた。
中 なか でも準 じゅん レギュラー出演 しゅつえん していた『クイズ世界 せかい はSHOW by ショーバイ!!』では、様々 さまざま な珍 めずらし 解答 かいとう で視聴 しちょう 者 しゃ の笑 わら いを誘 さそ った。早 はや 押 お し問題 もんだい ではボタンを押 お さないことで知 し られ「何 なに を作 つく っているのでしょうか?クイズ」で、終了 しゅうりょう 5秒 びょう 前 まえ に解答 かいとう 権 けん を得 え るが[ 注釈 ちゅうしゃく 25] 正解 せいかい の「ボクシンググローブ 」がほぼ完成 かんせい の形 かたち で画面 がめん に映 うつ っているにもかかわらず「赤 あか べこ 」と解答 かいとう 。この問題 もんだい に正解 せいかい すれば100萬 まん に達 たっ する事 こと も相 あい まって、司会 しかい 者 しゃ の逸見 いつみ 政孝 まさたか を始 はじ めとする出演 しゅつえん 者 しゃ 全員 ぜんいん を悶絶 もんぜつ させたこともある。逸見 いつみ はこの馬場 ばば のあまりに面白 おもしろ い発言 はつげん で笑 わら い転 ころ げてしまい、しばらく起 お き上 あ がれなかったほどであった。
特番 とくばん では代表 だいひょう 者 しゃ になるもののボタンを押 お さず、業 ごう を煮 に やして高田 たかだ 純 じゅん 次 じ が代 か わりにボタンを押 お したこともあった。さらに、そのときの正解 せいかい は「トゥーシューズ 」だったために高田 たかだ がバレリーナ を真似 まね て正解 せいかい を伝 つた えたが、本人 ほんにん は「オッパイにあてるやつ 」と答 こた えて周 まわ りを悶絶 もんぜつ させたこともあった。
早 はや 押 お しボタンを押 お さないことは週刊 しゅうかん 少年 しょうねん ジャンプ の読者 どくしゃ ネタ にもされるほどであった。司会 しかい の逸見 いつみ 政孝 まさたか に「馬場 ばば さん、押 お す気 き ありますか?」「わかったら押 お すんですよね?わからないから押 お さないんですよね?」と聞 き かれ、馬場 ばば は「そうですよ!」と返 かえ すが、隣 となり の席 せき の川合 かわい 俊一 しゅんいち に「馬場 ばば さん、早 はや 押 お しの所 ところ にコーヒーを置 お いておいたら危 あぶ ないじゃないですか」と、早 はや 押 お しボタンの横 よこ にコーヒーの入 はい った紙 かみ コップを置 お いていた事 こと を指摘 してき されてしまい、同 おな じく司会 しかい の渡辺 わたなべ 正行 まさゆき に「押 お す意志 いし 無 な いじゃないですか〜」と突 つ っ込 こ まれた。放送 ほうそう 143回 かい 目 め のモグラたたき早 はや 押 お しクイズで、自身 じしん でボタンを連打 れんだ した際 さい にはスタジオ内 ない が驚 おどろ いて大騒 おおさわ ぎとなり、馬場 ばば 自身 じしん も照 て れてセットの裏 うら に隠 かく れてしまった程 ほど だった。なお、そのとき押 お していたのは、早 はや 押 お しボタンではなくミリオンスロットを止 と めるボタンであった。そして、93年 ねん 9月 がつ 29日 にち 放送 ほうそう 分 ぶん でのモグラたたき早 はや 押 お しクイズで、代理 だいり 司会 しかい の島田 しまだ 紳助 しんすけ に促 うなが されてボタンを叩 はた きランプを止 と めて解答 かいとう 権 けん を獲得 かくとく 、解答 かいとう して正解 せいかい している。なお、紳助 しんすけ は問題 もんだい の途中 とちゅう から馬場 ばば に答 こた えさせるように仕向 しむ け他 た の解答 かいとう 者 しゃ に答 こた えるのを遠慮 えんりょ させており、馬場 ばば の正解 せいかい 後 ご に紳助 しんすけ が「ごめんね、みんな気 き 使 つか わせてごめんね」と謝罪 しゃざい した。
同 どう 番組 ばんぐみ の特番 とくばん では、パネラー席 せき の早 はや 押 お しボタンが付 つ くかのテストが行 おこな われたが、馬場 ばば は思 おも いっ切 き りデスクを叩 たた いてしまい、パネラー席 せき を破壊 はかい してしまったことがある。山城 やましろ 新伍 しんご は、「(演出 えんしゅつ として)スタッフと相談 そうだん して、馬場 ばば さんに内緒 ないしょ でデスクボードに細工 ざいく をして落 お ちやすくしていたが、馬場 ばば さんはそれを察 さっ していて、知 し らんふりしてボードを叩 たた き落 おと してくれた」と語 かた っている。
番組 ばんぐみ 初期 しょき の頃 ころ は右 みぎ から3番目 ばんめ 、4番目 ばんめ の解答 かいとう 者 しゃ 席 せき に座 すわ っていたこともあったが、後 のち に一番 いちばん 左端 ひだりはし の席 せき が定着 ていちゃく しており番組 ばんぐみ 内 ない では「馬場 ばば さんの席 せき 」の通称 つうしょう まで付 つ いた。番組 ばんぐみ 中期 ちゅうき 以降 いこう は蛭子 えびす 能収 よしかず と交互 こうご に準 じゅん レギュラーとして左端 ひだりはし の席 せき で解答 かいとう した。
ラストクイズ「いっつみいのウソつき4択 よ 」では4分割 ぶんかつ の枠 わく を書 か いて選択肢 せんたくし の位置 いち に合 あ わせて○をつけるといった方法 ほうほう で解答 かいとう をすることが度々 たびたび あり、そのまま正解 せいかい することもあるが、不 ふ 正解 せいかい だった場合 ばあい はフリップを回 まわ して正解 せいかい に◯をしたように見 み せることもあった。不正 ふせい 行為 こうい とみなされるため正解 せいかい とはならない。
しかし、クイズ自体 じたい の解答 かいとう 率 りつ は悪 わる くなく何 なん 度 ど も売 う り上 あ げNo.1(トップ賞 しょう ) を取 と っており、回数 かいすう も山城 やましろ 新伍 しんご (56回 かい )・高田 たかだ 純 じゅん 次 じ (37回 かい )・山瀬 やませ まみ (23回 かい )に次 つ いで4位 い (17回 かい )である[ 76] 。また番組 ばんぐみ 第 だい 1回 かい 目 め の売 う り上 あ げNo.1を取 と ったのも馬場 ばば であった。
1993年 ねん 12月15日 にち 放送 ほうそう 時 じ は逸見 いつみ の代理 だいり 司会 しかい として島田 しまだ 紳助 しんすけ が出演 しゅつえん していたが、紳助 しんすけ の提案 ていあん で1・2問 もん 目 め のみ馬場 ばば が代理 だいり 司会 しかい を務 つと め、紳助 しんすけ は馬場 ばば の代 か わりに解答 かいとう 者 しゃ 席 せき に座 すわ った。代理 だいり 司会 しかい では問題 もんだい の答 こた えを知 し らなかったり、渡辺 わたなべ に貰 もら った答 こた えが書 か いてあるカードを自分 じぶん の代理 だいり で解答 かいとう 者 しゃ 席 せき に座 すわ っている紳助 しんすけ に見 み せようとするなど、茶目 ちゃめ っ気 け を見 み せていた。また渡辺 わたなべ に「クイズの司会 しかい というのは初 はじ めてですか?」と聞 き かれた際 さい には馬場 ばば が「あったり前 まえ じゃないか!」と大 おお きな声 こえ で答 こた えている。
山城 やましろ は逸見 いつみ の追悼 ついとう スペシャルにて、逸見 いつみ が胃癌 いがん の闘病 とうびょう 生活 せいかつ に入 はい ることを告白 こくはく してから、逸見 いつみ の早期 そうき 回復 かいふく を祈 いの って願 ねがい を懸 か けるために、馬場 ばば は大好 だいす きな葉巻 はまき を断 ことわ ったエピソード も紹介 しょうかい し、馬場 ばば の人柄 ひとがら を讃 たた えた。逸見 いつみ が亡 な くなってから、自 みずか らのトレードマークだった葉巻 はまき を口 くち にすることは生涯 しょうがい 無 な かった。
番組 ばんぐみ 内 ない で、野沢 のざわ 直子 なおこ には「ジャイヤント」野沢 のざわ の後任 こうにん レギュラーである山瀬 やませ まみ からは「馬場 ばば ちゃん」と呼 よ ばれていた。
最終 さいしゅう 回 かい スペシャルも自身 じしん の試合 しあい が終 お わってからその足 あし でスタジオへ駆 か け付 つ け、馬場 ばば の名 めい 場面 ばめん 特集 とくしゅう も組 く まれた。
ジャイアント馬場 ばば を象徴 しょうちょう する「16文 ぶん 」というワードであるが、実際 じっさい の馬場 ばば の足 あし のサイズは16文 ぶん (約 やく 38.4cm)ではなく、およそ34cmである。これは、日本 にっぽん に合 あ う靴 くつ がほとんどなかったため、アメリカ遠征 えんせい の際 さい 入手 にゅうしゅ した靴 くつ にアメリカ規格 きかく の「16」(約 やく 34cm)とあるのを16文 ぶん と誤認 ごにん されたことに由来 ゆらい する[ 77] 。1964年 ねん 7月 がつ にNETテレビが「16文 ぶん の青春 せいしゅん 」というドキュメンタリー番組 ばんぐみ を放送 ほうそう したことから定着 ていちゃく した。一部 いちぶ では「16文 ぶん ではなく16インチ(約 やく 40.6cm)」という更 さら に誤 あやま った説 せつ もあった。履 は いていた靴下 くつした は膝下 ひざもと 54センチまで伸 の びるハイソックスの特注 とくちゅう で、台東 たいとう 区 く の「靴下 くつした 博物館 はくぶつかん 」で保存 ほぞん されている馬場 ばば の靴下 くつした を作 つく るため特別 とくべつ に作 つく られた足型 あしがた は33.8cm(14.08文 ぶん )だった[ 77] 。
209cmの長身 ちょうしん で日本人 にっぽんじん レスラーはもとより、外人 がいじん レスラーでも自分 じぶん を超 こ える身長 しんちょう の対戦 たいせん 相手 あいて がまずいない馬場 ばば ではあるが、1990年 ねん の世界 せかい 最強 さいきょう タッグ公式 こうしき 戦 せん でアンドレと組 く んでランド・オブ・ジャイアンツ(スカイウォーカー・ナイトロン &ブレード・ブッチ・マスターズ組 ぐみ )と戦 たたか った時 とき だけは、アンドレが身長 しんちょう 223cmで、ランド・オブ・ジャイアンツがそれぞれ身長 しんちょう 213cmだったため、馬場 ばば が最 もっと も身長 しんちょう が低 ひく いという珍 ちん 現象 げんしょう が起 お きている。
馬場 ばば は1975年 ねん から1978年 ねん 頃 ころ の一時期 いちじき 、髪 かみ を伸 の ばしていたこともある。この時 とき 「パーマ をかけている」と言 い われたが、実際 じっさい は癖毛 くせげ なのでそう見 み えるだけだったという。またボボ・ブラジル 戦 せん での頭 あたま 突 とっ き の衝撃 しょうげき を和 やわ らげるために髪 かみ を伸 の ばしていたことがあった。
逝去 せいきょ 後 ご 、馬場 ばば の身体 しんたい のサイズに見合 みあ う棺 かん が無 な く葬儀 そうぎ には特注 とくちゅう サイズの棺 かん を発注 はっちゅう することも検討 けんとう されたが、時間 じかん 的 てき な問題 もんだい から間 ま に合 あ わずに最終 さいしゅう 的 てき に遺体 いたい は布 ぬの で包 つつ んだだけの状態 じょうたい のまま火葬 かそう 場 じょう へ運 はこ ばれ、荼毘 だび に付 ふ された。
実家 じっか は八百屋 やおや であり、プロ野球 やきゅう 引退 いんたい 時 じ には「実家 じっか を継 つ げ」と言 い われていたが拒否 きょひ した。父 ちち ・一雄 かずお は1968年 ねん 11月に、母 はは ・ミツは1971年 ねん 7月 がつ に死去 しきょ 。兄弟 きょうだい は兄 あに 1人 ひとり と姉 あね 2人 にん だが、兄 あに は太平洋戦争 たいへいようせんそう の激戦 げきせん 地 ち ガダルカナル島 とう で戦死 せんし した。
ジャイアンツ入団 にゅうだん 初年 しょねん の明石 あかし キャンプで知 し り合 あ った後援 こうえん 者 しゃ の娘 むすめ ・元子 もとこ と知 し り合 あ い、文通 ぶんつう などを繰 く り返 かえ した後 のち 、1971年 ねん 9月 がつ にハワイ で結婚式 けっこんしき を挙 あ げる。2回 かい 目 め に馬場 ばば を自宅 じたく に迎 むか えたとき、馬場 ばば の足 あし に入 はい る特大 とくだい のスリッパを用意 ようい していたという話 はなし が残 のこ っているが、実際 じっさい のところは、元子 もとこ の2人 ふたり の姉 あね たちが作 つく ったものであった。長 なが らく結婚 けっこん したことは公表 こうひょう されず、記者 きしゃ 会見 かいけん を行 おこな ったのは1982年 ねん 7月 がつ で、翌 よく 1983年 ねん 1月 がつ に披露宴 ひろうえん が行 おこな われた。
子供 こども はいない。馬場 ばば は巨人 きょじん 症 しょう (成長 せいちょう ホルモン産 さん 生 せい 下垂 かすい 体 たい 腺腫 せんしゅ )であるため、それが遺伝 いでん することを恐 おそ れて、敢 あ えて子供 こども を儲 もう けなかったともいわれているが、実際 じっさい のところは巨人 きょじん 症 しょう が遺伝 いでん することは殆 ほとん どない。
姪 めい の幸子 こうじ は全日本 ぜんにほん プロレスで取締役 とりしまりやく を務 つと め、もうひとりの姪 めい ・トシ子 としこ は馬場 ばば の死後 しご に全日本 ぜんにほん を離脱 りだつ した大半 たいはん の選手 せんしゅ ・社員 しゃいん により旗揚 はたあ げされたプロレスリング・ノア に経理 けいり 部長 ぶちょう として2011年 ねん に入社 にゅうしゃ している。
死去 しきょ 直後 ちょくご に噂 うわさ の真相 しんそう で週刊 しゅうかん プロレスのSWS バッシングキャンペーンを依頼 いらい していたことが暴露 ばくろ されていたが、2010年 ねん 6月 がつ に元 もと 週刊 しゅうかん プロレス編集 へんしゅう 長 ちょう のターザン山本 やまもと が、1990年代 ねんだい 初頭 しょとう に馬場 ばば から多額 たがく の裏金 うらがね の見返 みかえ りに週刊 しゅうかん プロレスの編集 へんしゅう 部 ぶ や誌面 しめん 、更 さら には読者 どくしゃ 全体 ぜんたい を巻 ま き込 こ む形 かたち でのSWSバッシングキャンペーンを行 おこな う様 よう に依頼 いらい を受 う けたことを暴露 ばくろ 本 ほん で追認 ついにん している。
その後 ご 山本 やまもと は実際 じっさい に天龍 てんりゅう 源一郎 げんいちろう を始 はじ めとするレスラーを引 ひ き抜 ぬ いたSWSを「金権 きんけん プロレス」とレッテルを貼 は った上 うえ で、文字通 もじどお り誌面 しめん を挙 あ げた一大 いちだい バッシングを行 おこな った。旗揚 はたあ げ時 じ からネガティブな印象 いんしょう を持 も たれたSWSは、天龍 てんりゅう 派 は と反 はん 天龍 てんりゅう 派 は の派閥 はばつ 争 あらそ いなどの内部 ないぶ 抗争 こうそう や、北尾 きたお 光司 こうじ の八百長 やおちょう 発言 はつげん 試合 しあい (いわゆる北尾 きたお 事件 じけん 、詳 くわ しくは北尾 きたお の項 こう を参照 さんしょう )といったスキャンダルも重 かさ なり、馬場 ばば の狙 ねら い通 どお り2年 ねん 後 ご にSWSは崩壊 ほうかい した[ 78] [ 79] 。
山本 やまもと はこのバッシングキャンペーン以外 いがい にも、当時 とうじ の誌面 しめん 作 づく りの方向 ほうこう 性 せい で全日本 ぜんにほん プロレスを優遇 ゆうぐう する見返 みかえ りに、全日本 ぜんにほん プロレス興行 こうぎょう のビッグマッチにおけるブック やアングル を考案 こうあん する権利 けんり を馬場 ばば から与 あた えられていたことも暴露 ばくろ 本 ほん で告白 こくはく している。