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寛朝 - Wikipedia

ひろしあさ(かんちょう、かんじょう[1]916ねん延喜えんぎ16ねん) - 998ねん7がつ13にちちょういさお4ねん6月12にち))は、平安へいあん時代じだい中期ちゅうき真言宗しんごんしゅうそうちち宇多天皇うだてんのう皇子おうじあつしじつ親王しんのう洛外らくがい広沢ひろさわいけほとりの遍照寺へんしょうじ住持じゅうじであったことから「広沢ひろさわ僧正そうじょう」「遍照寺へんしょうじ僧正そうじょう」ともばれた。

概要がいよう

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926ねん延長えんちょう4ねん祖父そふ宇多うだ法皇ほうおうした出家しゅっけし、948ねんてんれき2ねんひろしそらから灌頂けた。967ねんかんたもつ4ねん仁和寺にんなじ別当べっとうて、貞元さだもと2ねん977ねん)6がつけん律師りっしどう10がつけんしょう僧都そうず法務ほうむ、11月東寺とうじさん長者ちょうじゃ西寺にしてら別当べっとう補任ほにんくわえて広沢ひろさわぼう御願ごがんてらとして別当べっとうせられたため、としろくありとわれ、986ねん寛和ひろかず2ねん真言宗しんごんしゅうでははじめて、また、日本にっぽんではさん番目ばんめ大僧正だいそうじょういたった。このあいだ円融天皇えんゆうてんのう受戒じゅかいするさいの戒和尚おしょうつとめている。989ねんえい元年がんねん)10がつ26にち円融天皇えんゆうてんのういのちにより広沢ひろさわ湖畔こはん遍照寺へんしょうじ建立こんりゅうした。このさい供養くよう記事きじ藤原ふじわらみのる日記にっきしょう右記うきっており、円融えんゆう法皇ほうおうはじめとしておおくの公卿くぎょう参列さんれつしたことがかる。密教みっきょう事相じそうきょうしょうくわしく「金剛こんごうかい次第しだい」「不動ふどう次第しだい」などをあらわしている。また「おもむきけい読誦とくしょう音調おんちょう整備せいびするなど声明せいめいつうじ、あずまひそか声明せいめい中興ちゅうこうとされる。

京都きょうと右京うきょう遍照へんじょう寺山てらやまはかがある。

940ねんてんけい3ねん平将門たいらのまさかど関東かんとう反乱はんらんこしたさいにはみずか関東かんとう下向げこう祈祷きとうをしたとされ、そのとき祈祷きとうした不動明王ふどうみょうおう本尊ほんぞんとして創建そうけんされたのが「成田なりた不動ふどう」で有名ゆうめい成田山新勝寺なりたさんしんしょうじとされる。ただし、この事実じじつかんする、朝廷ちょうていとうにおけるどう時代じだい記録きろくはない[2]

成田なりたさん不動明王ふどうみょうおう

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くに文化庁ぶんかちょう)が成田山新勝寺なりたさんしんしょうじ本尊ほんぞん不動明王ふどうみょうおうぞう調査ちょうさした結果けっか、「鎌倉かまくら時代ときよ後期こうき(13世紀せいき~14世紀せいきさく作者さくしゃ仏師ぶっし)はしょう」と判明はんめいした。胎内たいないほとけもないため、べつ秘仏ひぶつもない。1964ねん昭和しょうわ39ねん)5がつ26にちけで結果けっか公報こうほうされた[3][4] [5]

鎌倉かまくら時代ときよ特徴とくちょうである写実しゃじつてき作風さくふうたま仏像ぶつぞうをより本物ほんものらしくみせるために水晶すいしょういたをはめ技法ぎほう制作せいさく年代ねんだい判明はんめいする最古さいこれいは1151ねんさく鎌倉かまくら時代ときよ一般いっぱんし、おおくの仏像ぶつぞうもちいられている)。よせ木造もくぞう(10世紀せいき後半こうはんごろからはじまったとられる。11世紀せいきはいるとより合理ごうり洗練せんれんされる)[6]

脚注きゃくちゅう

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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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