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小城郡 - Wikipedia

小城おぎぐん

日本にっぽん佐賀さがけん肥前ひぜんこく)にあったぐん

小城おぎぐん(おぎぐん)は、佐賀さがけん肥前ひぜんこく)にあったぐん

佐賀さがけん小城おぎぐん位置いちうすのちぐん編入へんにゅうされた区域くいき

ぐんいき

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1878ねん明治めいじ11ねん)に行政ぎょうせい区画くかくとして発足ほっそくした当時とうじぐんいきは、下記かき区域くいきにあたる。

  • 佐賀さが一部いちぶ富士ふじまち大字だいじ梅野うめの富士ふじまち大字だいじ松瀬まつせ富士ふじまち大字だいじ小副川おそえがわ富士ふじまち大字だいじ関屋せきやのぞ富士ふじまちかく大字だいじおよび大和やまとまち大字だいじ八反原はったばる
  • 小城おぎ全域ぜんいき
  • 多久たくだい部分ぶぶん南多久みなみたくまち大字だいじ花祭はなまつりのぞく)
  • 杵島きしまぐん江北こうほくまち一部いちぶ惣領分そうりょうぶん一部いちぶ

ふるくは「をき」とんだ。小城おぎ地名ちめいは、肥前ひぜんこく風土記ふどきにある土蜘蛛つちぐも防御ぼうぎょ利用りようした「堡(おき)」(とりで(とりで))に由来ゆらいするといわれている。 『和名わみょうしょう』のなかで、国府こくふ名称めいしょうとして「乎岐(おぎ)国府こくふ」とかれた場合ばあいもある。


平安へいあん時代じだい

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川上かわかみきょう加波かば加美かみ川上かわかみ)、調ちょうきょう美加みか岐=三日月みかづき)、高来たかききょう多久たく)、ともきょうとめ)の四郷しごう和名わみょう類聚るいじゅうしょう

鎌倉かまくら室町むろまち時代ときよ

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もとにより、下総しもうさ千葉ちばが、異国いこく警固けいごばんやくとしてどうぐん所領しょりょうる。のちに、土着どちゃくして祇園ぎおんじょう千葉城ちばじょう)を本拠ほんきょとして、佐賀さがぐん杵島きしまぐんにも勢力せいりょくひろげる。1471ねんに、日本にっぽんおとずれた朝鮮ちょうせん使臣ししんさるよしぶね著書ちょしょうみひがし諸国しょこく』にも肥前ひぜんこく最大さいだい勢力せいりょくとして千葉ちばげている。

室町むろまち時代ときよ後期こうきには、千葉ちば龍造寺りゅうぞうじとともにしょうささえている。応仁おうにんらんころに、千葉ちば家督かとくあらそいで東西とうざい分裂ぶんれつして、衰退すいたいした。祇園ぎおんじょう東千葉ひがしちば祇園ぎおん千葉ちば)は大内おおうちむすび、はれじょう西にしせんようはれせんよう)はしょうむすんでたがいにあらそった。東千葉ひがしちば滅亡めつぼうは、千葉ちば旧臣きゅうしんたちはそのまま川久保かわくぼ神代かみよ家臣かしんになった。西にし千葉ちばは、千葉ちばたねれんのときに龍造寺りゅうぞうじ隆信たかのぶしたがって配下はいかになった。

江戸えど時代じだい

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江戸えど時代じだい全域ぜんいき佐賀さがはんりょうになり、だい部分ぶぶん小城おぎはんになっている。小城おぎはん佐賀さがはんささえはんで、初代しょだい佐賀さが藩主はんしゅ鍋島なべしま勝茂かつしげ長男ちょうなんげんしげる佐賀さがはん領内りょうないよしみぐん小城おぎぐん松浦まつうらぐんにおいて7まん3000せき佐賀さがはん内高うちだか)をあたえられたことではじまる。

北郷きたごう西郷さいごう平吉へいきちきょう山内やまうちさと

※なお、佐保さほ川嶋かわしまきょう川上かわかみ一帯いったい)、山代やましろきょう伊万里いまり山代やましろ一帯いったい)もわせて小城おぎはんりょうであった。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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知行ちぎょう むらすう むらめい
はんりょう 肥前ひぜん小城おぎはん 1まち
36むら
八反原はったばるむら下熊川しもくまかわむら内野うつのむら上熊川かみくまかわむら古湯ふるゆむら苣木ちゃのきむら鎌原かまはらむら市川いちかわむら杉山すぎやまむら畑瀬はたせむら栗並くりなみむら麻那古まなごむら中原なかはらむら大野おおのむら大串おおくしむら上無津呂かみむつろむら下無津呂しもむつろむら古場こばむら上合瀬かみおうせむら下合瀬しもおうせむら藤瀬ふじせむら牛津うしづまち[2]金田かねださと堀江ほりえむら道免どうめむら川越かわごえむら八枝やえむら柿樋瀬かきひせむら織島おりしまさと畑田はたださと下古賀しもこがむら船田ふなださと甲柳原こうやなぎはらさと石木いしきさと三ヶ島みかしまさと栗原くりはらさと永田ながたむら[3]
肥前ひぜん佐賀さがはん 1まち
12むら
多久たくまち[4]板屋いたやむらしょうさむらいむら多久たく原村はらむら別府べっぷむらした多久たくむら納所のうさむらはれむら三間みつま寺村てらむら[5]芦刈あしかりむら上砥川かみとがわむら下砥川しもとがわむら長尾ながおむら[3]
佐賀さがはん小城おぎはん 1まち
9むら
池上いけがみさと岩蔵いわぞうむら[6]松尾まつおむら長神田ちょうかんださと小城おぎまち久米くめさと道辺みちべさと樋口ひぐちさと乙柳おとやなぎさとかちさと

町村ちょうそんせい以降いこう沿革えんかく

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1.小城おぎまち 2.三日月みかづきむら 3.牛津うしづむら 4.芦刈あしかりむら 5.砥川とがわむら 6.三里みさとむら 7.東多久ひがしたくむら 8.南多久みなみたくむら 9.多久たくむら 10.西多久にしたくむら 11.北多久きたたくむら 12.はれ田村たむら 13.岩松いわまつむら 14.南山なんざんむら 15.北山きたやまむらむらさき佐賀さが もも多久たく あか小城おぎ だいだい杵島きしまぐん江北こうほくまち
  • 明治めいじ22ねん1889ねん4がつ1にち - 町村ちょうそんせい施行しこうにより、以下いか町村ちょうそん発足ほっそく。(1まち14むら
    • 小城おぎまち単独たんどく町制ちょうせいげん小城おぎ
    • 三日月みかづきむら三ヶ島みかしまさと長神田ちょうかんださと織島おりしまさと道辺みちべさと堀江ほりえむら金田かねださと樋口ひぐちさと久米くめさと石木いしきさと甲柳原こうやなぎはらさとげん小城おぎ
    • 牛津うしづむら牛津うしづまち柿樋瀬かきひせむらかちさと乙柳おとやなぎさとげん小城おぎ
    • 芦刈あしかりむら三王崎みおうざきむら浜枝川はまえだがわむら永田ながたむら道免どうめむら下古賀しもこがむら芦溝あしみぞむらげん小城おぎ
    • 砥川とがわむら上砥川かみとがわむらげん小城おぎ)、下砥川しもとがわむらげん小城おぎ杵島きしまぐん江北こうほくまち
    • 三里みさとむら池上いけがみさと栗原くりはらさと船田ふなださとげん小城おぎ
    • 東多久ひがしたくむら別府べっぷむら納所のうさむらげん多久たく
    • 南多久みなみたくむらした多久たくむら長尾ながおむら杵島きしまぐん山口やまぐちむら一部いちぶ](げん多久たく
    • 多久たくむら多久たくまち単独たんどくむらせいげん多久たく
    • 西多久にしたくむら板屋いたやむら単独たんどくむらせいげん多久たく
    • 北多久きたたくむら多久たく原村はらむらしょうさむらいむらげん多久たく
    • はれ田村たむらはれむら畑田はたださとげん小城おぎ
    • 岩松いわまつむら岩蔵いわぞうむら松尾まつおむらげん小城おぎ
    • 南山なんざんむら古湯ふるゆむら畑瀬はたせむら市川いちかわむら苣木ちゃのきむら杉山すぎやまむら鎌原かまはらむら上熊川かみくまかわむら内野うつのむら下熊川しもくまかわむら八反原はったばるむらげん佐賀さが
    • 北山きたやまむら藤瀬ふじせむら大野おおのむら中原なかはらむら麻那古まなごむら上無津呂かみむつろむら下無津呂しもむつろむら古場こばむら下合瀬しもおうせむら上合瀬かみおうせむら大串おおくしむら栗並くりなみむらげん佐賀さが
  • 明治めいじ27ねん1894ねん4がつ24にち - 牛津うしづむら町制ちょうせい施行しこうして牛津うしづまちとなる。(2まち13むら
  • 明治めいじ30ねん1897ねん6月1にち - ぐんせい施行しこう
  • 大正たいしょう12ねん1923ねん)4がつ1にち - ぐんかい廃止はいしぐん役所やくしょ存続そんぞく
  • 大正たいしょう15ねん1926ねん7がつ1にち - ぐん役所やくしょ廃止はいし以降いこう地域ちいき区分くぶん名称めいしょうとなる。
  • 昭和しょうわ7ねん1932ねん)4がつ1にち - 小城おぎまち三里みさとむら岩松いわまつむらはれ田村たむら合併がっぺいし、あらためて小城おぎまち発足ほっそく。(2まち10むら
  • 昭和しょうわ24ねん1949ねん)4がつ1にち - 北多久きたたくむら町制ちょうせい施行しこうして北多久きたたくまちとなる。(3まち9むら
  • 昭和しょうわ29ねん1954ねん5月1にち - 東多久ひがしたくむら南多久みなみたくむら多久たくむら西多久にしたくむら北多久きたたくまち合併がっぺいして多久たく発足ほっそくし、ぐんより離脱りだつ。(2まち5むら
  • 昭和しょうわ31ねん1956ねん9月30にち(2まち2むら
    • 南山なんざんむら北山きたやまむら佐賀さがぐん小関こぜきむら合併がっぺいして佐賀さがぐん富士ふじむら発足ほっそく
    • 牛津うしづまちおよび砥川とがわむら一部いちぶ下砥川しもとがわ一部いちぶのぞく)が合併がっぺいし、あらためて牛津うしづまち発足ほっそく砥川とがわむら残部ざんぶ下砥川しもとがわ一部いちぶ)が杵島きしまぐん江北こうほくまち編入へんにゅう
  • 昭和しょうわ42ねん1967ねん)4がつ1にち - 芦刈あしかりむら町制ちょうせい施行しこうして芦刈あしかりまちとなる。(3まち1むら
  • 昭和しょうわ44ねん1969ねん1がつ1にち - 三日月みかづきむら町制ちょうせい施行しこうして三日月みかづきまちとなる。(4まち
  • 平成へいせい17ねん2005ねん3月1にち - 小城おぎまち三日月みかづきまち牛津うしづまち芦刈あしかりまち合併がっぺいして小城おぎ発足ほっそく同日どうじつ小城おぎぐん消滅しょうめつ佐賀さが県内けんないでは1896ねんぐん再編さいへん以来いらいはつぐん消滅しょうめつとなった。

変遷へんせんひょう

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自治体じちたい変遷へんせん
明治めいじ22ねん以前いぜん 明治めいじ22ねん4がつ1にち 明治めいじ22ねん - 昭和しょうわ19ねん 昭和しょうわ20ねん - 昭和しょうわ34ねん 昭和しょうわ35ねん - 昭和しょうわ64ねん 平成へいせい1ねん - 現在げんざい 現在げんざい
小城おぎまち 昭和しょうわ7ねん4がつ1にち
小城おぎまち
小城おぎまち 小城おぎまち 平成へいせい17ねん3がつ1にち
小城おぎ
小城おぎ
三里みさとむら
はれ田村たむら
岩松いわまつむら
三日月みかづきむら 三日月みかづきむら 三日月みかづきむら 昭和しょうわ44ねん1がつ1にち
町制ちょうせい
芦刈あしかりむら 芦刈あしかりむら 芦刈あしかりむら 昭和しょうわ42ねん4がつ1にち
町制ちょうせい
牛津うしづむら 明治めいじ27ねん4がつ24にち
町制ちょうせい
昭和しょうわ31ねん9がつ30にち
牛津うしづまち
牛津うしづまち

砥川とがわむら 砥川とがわむら

昭和しょうわ31ねん9がつ30にち
杵島きしまぐん
江北こうほくまち編入へんにゅう
下砥川しもとがわ一部いちぶ
杵島きしまぐん
江北こうほくまち
杵島きしまぐん
江北こうほくまち
杵島きしまぐん
江北こうほくまち
北多久きたたくむら 北多久きたたくむら 昭和しょうわ24ねん4がつ1にち
町制ちょうせい
昭和しょうわ29ねん5がつ1にち
多久たく
多久たく 多久たく 多久たく
東多久ひがしたくむら 東多久ひがしたくむら 東多久ひがしたくむら
南多久みなみたくむら 南多久みなみたくむら 南多久みなみたくむら
多久たくむら 多久たくむら 多久たくむら
西多久にしたくむら 西多久にしたくむら 西多久にしたくむら
北山きたやまむら 北山きたやまむら 昭和しょうわ31ねん9がつ30にち
佐賀さがぐん
富士ふじむら一部いちぶ
昭和しょうわ42ねん10がつ1にち
町制ちょうせい
平成へいせい17ねん10がつ1にち
佐賀さが一部いちぶ
佐賀さが
南山なんざんむら 南山なんざんむら

行政ぎょうせい

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小城おぎぐんちょうつとめたおも人物じんぶつ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 「 - ヶさと」については記載きさいは「 - かり」となっているが、ほんこうでは「角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん」によって「 - ヶさと」とした。
  2. ^ 記載きさいうし津本つもとまち
  3. ^ a b 記載きさいなし。
  4. ^ 記載きさい多久たく町村ちょうそん
  5. ^ 記載きさいさんあいだ寺分てらぶん
  6. ^ 岩蔵いわぞうむら小城おぎはんりょう)・岩倉いわくらむら佐賀さがはんりょう)にかれて記載きさい
  7. ^ 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん」では川越かわごえむら浜中はまなかむらとらぼうむら合併がっぺいしたとしているが、その根拠こんきょとなった史料しりょうによってはち枝村えだむら芦刈あしかりむら浜中はまなかむらとら坊村ぼうむら本村もとむら枝村えだむら関係かんけい複雑ふくざつなため、ほんこうでは川越かわごえむら八枝やえむら合併がっぺいとみなした。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん編纂へんさん委員いいんかい へん角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』 41 佐賀さがけん角川書店かどかわしょてん、1982ねん3がつ1にちISBN 4040014103 
  • きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょうデータベース

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 小城おぎぐん教育きょういくかい小城おぎぐん木下きのした泰山たいざんどう、1934ねんNDLJP:1240726 

関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
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行政ぎょうせい変遷へんせん
- 2005ねん
次代じだい
消滅しょうめつ