小城郡(おぎぐん)は、佐賀県(肥前国)にあった郡。
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。
- 佐賀市の一部(富士町大字梅野・富士町大字松瀬・富士町大字小副川・富士町大字関屋を除く富士町各大字および大和町大字八反原)
- 小城市の全域
- 多久市の大部分(南多久町大字花祭を除く)
- 杵島郡江北町の一部(惣領分の一部)
古くは「をき」と読んだ。小城の地名は、肥前国風土記にある土蜘蛛が防御に利用した「堡(おき)」(砦(とりで))に由来するといわれている。
『和名抄』の中で、国府の名称として「乎岐(おぎ)国府」と書かれた場合もある。
川上郷(加波加美=川上)、甕調郷(美加都岐=三日月)、高来郷(多久)、伴部郷(止毛)の四郷「和名類聚抄」
元寇により、下総の千葉氏が、異国警固番役として同郡に所領を得る。後に、土着して祇園城(千葉城)を本拠として、佐賀郡、杵島郡にも勢力を広げる。1471年に、日本を訪れた李氏朝鮮の使臣・申淑舟の著書『海東諸国記』にも肥前国最大の勢力として千葉氏の名を挙げている。
室町時代後期には、千葉氏は龍造寺氏とともに少弐氏を支えている。応仁の乱の頃に、千葉氏は家督争いで東西に分裂して、衰退した。祇園城の東千葉氏(祇園千葉氏)は大内氏と結び、晴気城の西千葉氏(晴気千葉氏)は少弐氏と結んで互いに争った。東千葉氏の滅亡後は、千葉家旧臣たちはそのまま川久保神代家の家臣になった。西千葉家は、千葉胤連のときに龍造寺隆信に従って配下になった。
江戸時代に全域が佐賀藩領になり、大部分は小城藩になっている。小城藩は佐賀藩の支藩で、初代佐賀藩主・鍋島勝茂の長男・元茂が佐賀藩領内の佐嘉郡・小城郡・松浦郡において7万3000石(佐賀藩の内高)を与えられたことで始まる。
北郷、西郷、平吉郷、山内郷
※なお、佐保川嶋郷(川上一帯)、山代郷(伊万里山代一帯)も合わせて小城藩領であった。
知行
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村数
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村名
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藩領
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肥前小城藩
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1町 36村
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八反原村、下熊川村、内野村、上熊川村、古湯村、苣木村、鎌原村、市川村、杉山村、畑瀬村、栗並村、麻那古村、中原村、大野村、大串村、上無津呂村、下無津呂村、古場村、上合瀬村、下合瀬村、藤瀬村、牛津町[2]、金田ヶ里、堀江村、道免村、川越村、八枝村、柿樋瀬村、織島ヶ里、畑田ヶ里、下古賀村、船田ヶ里、甲柳原ヶ里、石木ヶ里、三ヶ島ヶ里、栗原ヶ里、永田村[3]
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肥前佐賀藩
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1町 12村
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多久町[4]、板屋村、小侍村、多久原村、別府村、下多久村、納所村、晴気村、三間寺村[5]、芦刈村、上砥川村、下砥川村、長尾村[3]
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佐賀藩・小城藩
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1町 9村
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池上ヶ里、岩蔵村[6]、松尾村、長神田ヶ里、小城町、久米ヶ里、道辺ヶ里、樋口ヶ里、乙柳ヶ里、勝ヶ里
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- 明治4年
- 明治5年5月29日(1872年7月4日) - 佐賀県(第2次)の管轄となる。
- 明治7年(1874年) - 三間寺村が松尾村に合併。(3町56村)
- 明治9年(1876年)
- 明治11年(1878年)10月28日 - 郡区町村編制法の長崎県での施行により、行政区画としての小城郡が発足。郡役所が小城村に設置。
- 明治13年(1880年)(3町56村)
- 川越村・八枝村が合併して浜枝川村となる[7]。
- 明治22年までの間に芦刈村が分割し、一部が芦溝村・三王崎村となり、残部が浜枝川村に合併。
- 明治16年(1883年)5月9日 - 佐賀県(第3次)の管轄となる。
- 明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。(1町14村)
- 小城町(単独町制。現・小城市)
- 三日月村 ← 三ヶ島ヶ里、長神田ヶ里、織島ヶ里、道辺ヶ里、堀江村、金田ヶ里、樋口ヶ里、久米ヶ里、石木ヶ里、甲柳原ヶ里(現・小城市)
- 牛津村 ← 牛津町、柿樋瀬村、勝ヶ里、乙柳ヶ里(現・小城市)
- 芦刈村 ← 三王崎村、浜枝川村、永田村、道免村、下古賀村、芦溝村(現・小城市)
- 砥川村 ← 上砥川村(現・小城市)、下砥川村(現・小城市、杵島郡江北町)
- 三里村 ← 池上ヶ里、栗原ヶ里、船田ヶ里(現・小城市)
- 東多久村 ← 別府村、納所村(現・多久市)
- 南多久村 ← 下多久村、長尾村、杵島郡山口村[一部](現・多久市)
- 多久村(多久町が単独村制。現・多久市)
- 西多久村(板屋村が単独村制。現・多久市)
- 北多久村 ← 多久原村、小侍村(現・多久市)
- 晴田村 ← 晴気村、畑田ヶ里(現・小城市)
- 岩松村 ← 岩蔵村、松尾村(現・小城市)
- 南山村 ← 古湯村、畑瀬村、市川村、苣木村、杉山村、鎌原村、上熊川村、内野村、下熊川村、八反原村(現・佐賀市)
- 北山村 ← 藤瀬村、大野村、中原村、麻那古村、上無津呂村、下無津呂村、古場村、下合瀬村、上合瀬村、大串村、栗並村(現・佐賀市)
- 明治27年(1894年)4月24日 - 牛津村が町制施行して牛津町となる。(2町13村)
- 明治30年(1897年)6月1日 - 郡制を施行。
- 大正12年(1923年)4月1日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
- 大正15年(1926年)7月1日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
- 昭和7年(1932年)4月1日 - 小城町・三里村・岩松村・晴田村が合併し、改めて小城町が発足。(2町10村)
- 昭和24年(1949年)4月1日 - 北多久村が町制施行して北多久町となる。(3町9村)
- 昭和29年(1954年)5月1日 - 東多久村・南多久村・多久村・西多久村・北多久町が合併して多久市が発足し、郡より離脱。(2町5村)
- 昭和31年(1956年)9月30日(2町2村)
- 南山村・北山村が佐賀郡小関村と合併して佐賀郡富士村が発足。
- 牛津町および砥川村の一部(下砥川の一部を除く)が合併し、改めて牛津町が発足。砥川村の残部(下砥川の一部)が杵島郡江北町に編入。
- 昭和42年(1967年)4月1日 - 芦刈村が町制施行して芦刈町となる。(3町1村)
- 昭和44年(1969年)1月1日 - 三日月村が町制施行して三日月町となる。(4町)
- 平成17年(2005年)3月1日 - 小城町・三日月町・牛津町・芦刈町が合併して小城市が発足。同日小城郡消滅。佐賀県内では1896年の郡の再編以来、初の郡消滅となった。
自治体の変遷
明治22年以前
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明治22年4月1日
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明治22年 - 昭和19年
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昭和20年 - 昭和34年
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昭和35年 - 昭和64年
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平成1年 - 現在
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現在
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小城町
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昭和7年4月1日 小城町
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小城町
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小城町
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平成17年3月1日 小城市
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小城市
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三里村
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晴田村
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岩松村
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三日月村
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三日月村
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三日月村
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昭和44年1月1日 町制
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芦刈村
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芦刈村
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芦刈村
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昭和42年4月1日 町制
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牛津村
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明治27年4月24日 町制
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昭和31年9月30日 牛津町
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牛津町
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砥川村
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砥川村
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昭和31年9月30日 杵島郡 江北町に編入 (下砥川の一部)
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杵島郡 江北町
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杵島郡 江北町
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杵島郡 江北町
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北多久村
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北多久村
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昭和24年4月1日 町制
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昭和29年5月1日 多久市
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多久市
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多久市
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多久市
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東多久村
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東多久村
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東多久村
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南多久村
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南多久村
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南多久村
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多久村
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多久村
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多久村
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西多久村
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西多久村
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西多久村
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北山村
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北山村
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昭和31年9月30日 佐賀郡 富士村の一部
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昭和42年10月1日 町制
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平成17年10月1日 佐賀市の一部
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佐賀市
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南山村
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南山村
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- 小城郡長を務めた主な人物
- ^ 「 - ヶ里」については記載は「 - 刈」となっているが、本項では「角川日本地名大辞典」によって「 - ヶ里」とした。
- ^ 記載は牛津本町。
- ^ a b 記載なし。
- ^ 記載は多久町村。
- ^ 記載は三間寺分。
- ^ 岩蔵村(小城藩領)・岩倉村(佐賀藩領)に分かれて記載。
- ^ 「角川日本地名大辞典」では川越村・浜中村・虎坊村が合併したとしているが、その根拠となった史料によって八枝村・芦刈村・浜中村・虎坊村の本村・枝村関係が複雑なため、本項では川越村・八枝村の合併とみなした。
- 小城郡教育会『小城郡誌』木下泰山堂、1934年。NDLJP:1240726。
先代 -----
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行政区の変遷 - 2005年
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次代 (消滅)
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